詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(44)

2020-04-29 22:26:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくにとっての美は)

あるときは足早に去っていくが
夜はぼくの傍らにきて眠る

 このとき、「ぼく」は起きているのか。眠っているのか。眠っているのだろう。
 そうすると、「ぼく」と「美」の区別はないことになる。
 「無意識のぼく」が「美」である。
 嵯峨が何歳のときに書いた詩なのかわからないが、ここには詩人の特権としてのナルシズムがある。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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「第二波」?

2020-04-29 22:08:36 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル版に、以下の見出しの記事がある。
https://www.asahi.com/articles/ASN4X5V9PN4WULBJ00X.html?fbclid=IwAR3gaePPEamKkPa1BL5lvNBDHkqyFrQWWbv-PmPQ3mO_BegcNNHzPa-GVGk
「国内のコロナ、武漢ではなく欧州から伝播? 感染研調べ」
(記事の引用は省略する)

これを読んで私が考えたこと。

こういう判断をできるほど、日本は検体を持っているのか。
いつ、それを採取したのか。
(第一波と第二波の「検体」の数は、それぞれいくつなのか。記事には、合計数しか書いていない。)
当初から国立感染症研究所の情報独占、情報支配が指摘されていたが、この問題もコロナの実体と同様に解明されなければいけない。
つまり、ここに書かれていることを「情報操作」という点から見つめなおすと、次のことが指摘できる。
①国立感染症研究所は、初動の対策には成功した。
②しかし、第二波が押し寄せたために感染が拡大した。
③4月からの感染拡大は、初動の対策とは関係がない。(つまり、現在の感染拡大に国立感染症研究所は関係がない。=無実である)
しかし、この三段論法は、おかしい。
もっと別の「情報操作」も加わっている。
①オリンピック開催のために、感染者数をおさえておく必要がある。
②オリンピック開催が延期になったから、感染者は増やしてもいい。しかし、増やすとき、その理由付けからオリンピック開催を除外する必要がある。
③武漢で発生したウィルスと、ヨーロッパで広がっているウィルスの型が違う(変異した)という説がある。これを利用して、「第一波」「第二波」説をとなえる。
この「第二の三段論法」の影には、国立感染症研究所だけではなく、安倍の「意図」も絡んでいる。
かんぐれば、国立感染症研究所が安倍に「忖度」して、「第一波」「第二波」説をつくりあげたことにある。
「科学的事実」もまた「人為的事実」を背後にもっている。

こう考えてみれば、わかりやすいかもしれない。
「第一波」を封じ込めることに成功したのなら、なぜ「第二波」の封じ込めができなかったか、という問題が起きる。
中国も韓国も「第一波」と苦闘した後、その経験を生かし「第二波」を封じ込めている。
日本は、そもそも「第一波」の封じ込めに失敗している。封じ込めの実績がない。だから「第二波」にのみこまれている。
ちょっと冷静に、隣国と比較するだけでそのことがわかる。

日本のコロナ対策は、最初から「人為的」だったということを思い起こす必要がある。
「科学的分析」だからといって、すべてが「科学的」とは言えない。
新聞記者は、そのあたりにも目を向けないといけない。
ただ発表されるままに報道すればいいというものではない。
この記事はたぶん科学部の記者が、国立感染症研究所からレクチャーを受けて書いたのだろうが、こういう大きな問題は、同時に「政治部」「社会部」も加わって分析し、報道する必要があると思う。
「科学的分析」(科学記事)だから科学部まかせでいい、というものではないだろう。
最初に書いたように、「日本の検体は、いったいいくつあるのか」(分析の分母数はどうなっているのか)と質問するだけでも、公表された「情報」への見方が違ってくるのではないか。

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