詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年04月28日(火曜日)

2020-04-28 10:30:31 | 考える日記
2020年04月28日(火曜日)

鴎外『伊沢蘭軒』を読む。読むというより、眺める。漢文が読めないので、引用してある詩や手紙、日記(?)がわからない。
 しかし、引き込まれる。
 鴎外は原文に句読点を付け加えている。つまり、句読点の存在によって、鴎外が単に資料をコピーしているのではなく、きちんと読んで引用しているということがわかる。句読点に、鴎外の誠実さ(正直)があらわれている。
 人を引き込む力とは、正直なのだとあらためて実感する。

 なぜ鴎外は、伊沢蘭軒を書こうとしたのか。伊沢への批評が、そのまま鴎外の仕事をあらわしている。こう書いている。

 新邦の興隆を謀(はか)ののも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。

 「古典」ということばが強く、重い。古典には天にのびる幹と枝、葉がある一方、その巨体を支える根のひろがりがある。鴎外が古典と呼んでいるのは、根のひろがりの方である。根が死ななければ、木は生きる。蘇る。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(43)

2020-04-28 10:07:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくにとっての美は)


時がぼくのなかに眠りこんだときに現われる

 「眠りこむ」を「動かなくなる」と言い直せば、時がとまったとき、美が現われる。この「とまった」をさらに言い直せば「時」が「なくなる」かもしれない。「時」は動いていてこそ「時」だ。

 「美」は「時」を超越している、ということかもしれない。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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