詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(40)

2020-04-25 10:26:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どうしてぼくは荒野と人間とを忘れたいのか)

その二つのものはぼくには関りがない
空気のように 光のように存在じたいそれだけで充分だ

 「忘れたい」は「忘れたいけれど、忘れられない」だろう。この「忘れたいけれど、忘れられない」は「関わる」という動詞で言い直される。「関わる」には自分の方から関わるというのと、他者が関わってくるという二つのあり方がある。その両方とも断ち切らないと「関わる」という動詞は残ってしまう。
 「関わる」の反対の動詞は「孤立する」かもしれない。この詩には「孤立する」ということばはないが「存在じたい」ということばがある。そして、それは「充分」ということばで言い直される。「自己完結」ということを言いたいのだろう。
 しかし、「空気」「光」ははたして「関わる」という動詞とは無関係なものか。「自己完結」しているか。むしろ、常に「他者」と「関わる」のが「空気」「光」だ。
 「関わる」、つまり「広がる」のではなく、「空気」「光」のように「透明」なものとして、「自己完結」したいという欲望が書かれているのだろう。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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