金堀則夫『ひの石まつり』(思潮社、2020年04月01日発行)
金堀則夫『ひの石まつり』の巻頭の「ひまつり」。
私の育った田舎では、昔は、野辺で(山の中で)火葬した。おじが死んだとき、棺桶はどんな形をしていたのか。丸い樽のような形だったのか、直方体の普通の(?)柩だったのか、よくおぼえていない。途中で何が起きたのかわからないが、土台の組んだ木が崩れたのか、上に載せた木が崩れたのか、棺桶が火の中からあらわれ、死んだおじが立ち上がった。私は、それをいまでもおぼえている。その話は、だれかの葬儀のときに、何度かいことたちと話したことがある。
そのことを思い出した。
その野辺の火葬場は中学校へつづく道からわきにそれて山へ登って行ったところにある。日中はいいのだが、学校で何かがあって歩いて帰るとき、それが夜だと思わずその近くを走ってしまう。そういうことも思い出した。
金堀が書いている「まつり」には、後半「浄化」ということばが出てくるが、浄化のための「まつり」なのだろう。また、まつりはもともと「浄化」を目的とした「祝祭」なのかもしれないが。
この詩の中には「人」と「ひと」、「火」と「ひ」という具合に漢字とひらがながつかいわけられている。そして、その書き分けの境界線に「霊」ということばがある。
「霊」とは何なのか。
この二行に「ひ」「ひと」ということばがあり、「存在感を失った」「人間になれない」という否定的なことばが組み合わされている。さらに「消されていく」「妄想」というのも肯定的というよりは否定的な印象を引き起こす。
「ひ」「ひと」ということばは、何か「否定」を含んだものがある。だが、ほんとうに「否定」されるべきものなのかどうかは、わからない。むしろ、「否定」しようとして、「否定」できないもの、「否定」にあらがうものを感じる。それこそ、「否定」できない何かが、
「霊」のように、明確なことばになれば、つまり「漢字(表意文字)」になれば、それは「肯定(意味のあるもの)」になることことができるのだが、いまは、そこにたどりついていない。
未分節の何か、としての「ひと」「ひ」。
こういうことは深く考えないといけないのだが、深く考えすぎてもいけない。考えすぎると、どうしても「論理」になってしまう。「論理」が先に立って、ことばを整え始める。そういうことをしてしまえば、私の感じたことは「うそ」になる。
だから、私のことばを動かすのはここまでで「保留」して、先に進んでみる。ほかの詩を読んでみる。
「非花の花根」という作品。「非花」は「ひばな」、「花根」は「かね」。金堀は、そうルビをつけている。
「鍛冶屋」の情景を想像する。(私は、実際には見たことがない。本で知っているだけだが。)そうすると「非花」は「火花」であるだろう。「花根」は「金=鉄」のことだろう。ここでは「表意文字(漢字)」が「ひらがな」を通って、別の「漢字」に変わろうとしている。「熟語」というよりも、万葉仮名のような感じだ。
「ひまつり」とつなげて読むと「ひ」は「非」だったのか、と思う。
さらに「霊」は「魂」のことか、とも。
そしてこの「魂」は「鬼」と「云」という漢字に分解されている。「鬼」とは邪悪なもの。否定されるべきものだと思うが、その「鬼」が「云うこと」が「魂」なのか。「霊」は「霊魂」とも言うが、「霊魂」から「霊」を取り除いたもの、否定的な「霊の一部」が「魂」かもしれない。
「魂」というと、普通は、「悪」というよりも「善」のあらわしているように思う。肯定的なものをあらわしていると思うが、金堀は、これを否定的にとらえていることになる。「燻っている」ものを、感じる。
この「鍛冶屋」の情景は、こう展開されていく。
「ひまつり」の「ひ」は「否」であり「非」なのだ。そしてそれは「叫び」である。「叫び」と「声」であって「ことば」ではない。「音」であって「意味」ではない。それは「意味」を拒絶する何か、「意味」になる前の「ことば」なのだ。
ここでも「声」(音)は「否」という「意味」に限定されない。「非」という意味にも限定されない。「否」と「非」には通じるものがあるが、同じでもない。
「バチ」は「撥」であると同時に「罰」(バツ)でもあり、それは「叩くもの」があってこそ成り立つものである。対立すること、矛盾することで、瞬間的に姿をあらわすものである。
だからこそ、こうつづくのだ。
「美しい」と「醜い」は反対概念である。しかし、それは互いが互いを必要としているのかもしれない。「醜い」という漢字のなかには「鬼」もいる。
私たちは既成のことば(意味のあることば)でしか語ることができない。しかし、そのことばをぶつけあうとき、既成のことばの奥から、まだことばにならないことば(未生のことば)があらわれる。生み出される。意味の衝突(矛盾)が「破裂」して、そこから新しいことばが生まれる。
そのことばが「魂の破裂」によって起きるものならば、それは「鬼」が「云った」ことばなのだ。自分のなかの、否定されるもの、否定してきたものが、否定を否定して(否には非ず叫んで)、生まれてきたものなのだ。
この新しい「叫び」が「花」ならば、その「花」は「花根(金=鉄)」の歴史(鍛冶屋を生きた祖先)の「声」でもあるはずだ。
という行をなかほどに挟んで、詩は、こう閉じられる。
「ひ」「かね」とふたたび「音」にもどることば。それは次の「漢字」を探しているのだ。これは永遠に続く詩の運動である。
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金堀則夫『ひの石まつり』の巻頭の「ひまつり」。
たいまつをもって
木木に積まれた木木に
たいまつの火をなげる
木が燃える 火は燃えあがる
火の中に人間でない亡き人たちがいる
人が火になって気勢をあげている
おもわずわたしというひとをなげいれる
わたしという生身のひとが
火になった人と火炎になって
そらにむかう
燐が真っ赤になって人の霊を蘇らせる
霊力の一線がそらに牽かれていく
わたしの霊は人ではなく火にならないひと
わたしの霊はひになれないで
燻っている
わたしのひは見ることができない
私の育った田舎では、昔は、野辺で(山の中で)火葬した。おじが死んだとき、棺桶はどんな形をしていたのか。丸い樽のような形だったのか、直方体の普通の(?)柩だったのか、よくおぼえていない。途中で何が起きたのかわからないが、土台の組んだ木が崩れたのか、上に載せた木が崩れたのか、棺桶が火の中からあらわれ、死んだおじが立ち上がった。私は、それをいまでもおぼえている。その話は、だれかの葬儀のときに、何度かいことたちと話したことがある。
そのことを思い出した。
その野辺の火葬場は中学校へつづく道からわきにそれて山へ登って行ったところにある。日中はいいのだが、学校で何かがあって歩いて帰るとき、それが夜だと思わずその近くを走ってしまう。そういうことも思い出した。
金堀が書いている「まつり」には、後半「浄化」ということばが出てくるが、浄化のための「まつり」なのだろう。また、まつりはもともと「浄化」を目的とした「祝祭」なのかもしれないが。
この詩の中には「人」と「ひと」、「火」と「ひ」という具合に漢字とひらがながつかいわけられている。そして、その書き分けの境界線に「霊」ということばがある。
「霊」とは何なのか。
存在感を失ったひが消されていく
人間になれない妄想のひとになっていく
この二行に「ひ」「ひと」ということばがあり、「存在感を失った」「人間になれない」という否定的なことばが組み合わされている。さらに「消されていく」「妄想」というのも肯定的というよりは否定的な印象を引き起こす。
「ひ」「ひと」ということばは、何か「否定」を含んだものがある。だが、ほんとうに「否定」されるべきものなのかどうかは、わからない。むしろ、「否定」しようとして、「否定」できないもの、「否定」にあらがうものを感じる。それこそ、「否定」できない何かが、
燻っている
「霊」のように、明確なことばになれば、つまり「漢字(表意文字)」になれば、それは「肯定(意味のあるもの)」になることことができるのだが、いまは、そこにたどりついていない。
未分節の何か、としての「ひと」「ひ」。
こういうことは深く考えないといけないのだが、深く考えすぎてもいけない。考えすぎると、どうしても「論理」になってしまう。「論理」が先に立って、ことばを整え始める。そういうことをしてしまえば、私の感じたことは「うそ」になる。
だから、私のことばを動かすのはここまでで「保留」して、先に進んでみる。ほかの詩を読んでみる。
「非花の花根」という作品。「非花」は「ひばな」、「花根」は「かね」。金堀は、そうルビをつけている。
からだのなかの
魂が火あぶりにされている
はげしいふいごの風に煽られ
心の芯が悲鳴となって燃え滾っている
まっ赤になったわたしが鉄(かな)敷(し)きにのせられ
うち叩かれ 火片が飛び散っている
パチ パチとはねているのか
バチ バチと鬼が云っているのか
トンチンカンと金槌でうつ激しいひびきで聞き取れない
「鍛冶屋」の情景を想像する。(私は、実際には見たことがない。本で知っているだけだが。)そうすると「非花」は「火花」であるだろう。「花根」は「金=鉄」のことだろう。ここでは「表意文字(漢字)」が「ひらがな」を通って、別の「漢字」に変わろうとしている。「熟語」というよりも、万葉仮名のような感じだ。
「ひまつり」とつなげて読むと「ひ」は「非」だったのか、と思う。
さらに「霊」は「魂」のことか、とも。
そしてこの「魂」は「鬼」と「云」という漢字に分解されている。「鬼」とは邪悪なもの。否定されるべきものだと思うが、その「鬼」が「云うこと」が「魂」なのか。「霊」は「霊魂」とも言うが、「霊魂」から「霊」を取り除いたもの、否定的な「霊の一部」が「魂」かもしれない。
「魂」というと、普通は、「悪」というよりも「善」のあらわしているように思う。肯定的なものをあらわしていると思うが、金堀は、これを否定的にとらえていることになる。「燻っている」ものを、感じる。
この「鍛冶屋」の情景は、こう展開されていく。
赤火のバチは不純ぶつとして吐き出され
血のバチは祖先から受け継いでいる
どこまでもトンチンカンとうち叩かれ
口から吐き出せない叫びが否となっていく
火でない非が 非である否が 飛び散っている
バツをうけるバチあたりがわたしの人生模様
「ひまつり」の「ひ」は「否」であり「非」なのだ。そしてそれは「叫び」である。「叫び」と「声」であって「ことば」ではない。「音」であって「意味」ではない。それは「意味」を拒絶する何か、「意味」になる前の「ことば」なのだ。
ここでも「声」(音)は「否」という「意味」に限定されない。「非」という意味にも限定されない。「否」と「非」には通じるものがあるが、同じでもない。
「バチ」は「撥」であると同時に「罰」(バツ)でもあり、それは「叩くもの」があってこそ成り立つものである。対立すること、矛盾することで、瞬間的に姿をあらわすものである。
だからこそ、こうつづくのだ。
魂の破裂で美しすぎる醜さがあらわにひらく
「美しい」と「醜い」は反対概念である。しかし、それは互いが互いを必要としているのかもしれない。「醜い」という漢字のなかには「鬼」もいる。
私たちは既成のことば(意味のあることば)でしか語ることができない。しかし、そのことばをぶつけあうとき、既成のことばの奥から、まだことばにならないことば(未生のことば)があらわれる。生み出される。意味の衝突(矛盾)が「破裂」して、そこから新しいことばが生まれる。
そのことばが「魂の破裂」によって起きるものならば、それは「鬼」が「云った」ことばなのだ。自分のなかの、否定されるもの、否定してきたものが、否定を否定して(否には非ず叫んで)、生まれてきたものなのだ。
この新しい「叫び」が「花」ならば、その「花」は「花根(金=鉄)」の歴史(鍛冶屋を生きた祖先)の「声」でもあるはずだ。
心の悲が 自負の炎苦の湯玉になっている
水責めで固まる まだわずかに非の鬼が生きている
からだの鬼がまた火あぶりとなり 金槌で叩かれる
という行をなかほどに挟んで、詩は、こう閉じられる。
わたしのしかばねの破片がいつしか花根(かね)となり
地中からも 血中からも掘り出せない
土中の鬼火が燃え出て無になっていく
永遠にひの粉のかねはあらわれない
「ひ」「かね」とふたたび「音」にもどることば。それは次の「漢字」を探しているのだ。これは永遠に続く詩の運動である。
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「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
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