詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自宅療養中に急変し死亡相次ぐ 東京都内 新型コロナ(再録)

2020-04-26 17:42:43 | 自民党憲法改正草案を読む
自宅療養中に急変し死亡相次ぐ 東京都内 新型コロナ

今月、東京都内で微熱などとして自宅療養していた80代の男性2人が相次いで倒れて死亡したあと、新型コロナウイルスに感染していたことが捜査関係者などへの取材でわかりました。このうち1人は症状が改善しないため病院に向かう途中で倒れたということで、専門家は「症状が急激に悪化することを示したもので、常に先を見据えた処置を取る必要がある」と指摘しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200425/k10012405741000.html?fbclid=IwAR3NOThtH8ECm76wH6NkzMIpLE0n-rGThOWmonMpSwWd96fYMfCkD39RzDY

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これと類似の情報は中国・武漢でも報告されている。
路上で突然倒れ、死んでしまう。そういう映像が何度もネットにアップされている。
そういう「情報」を共有しようとして、あるサイトにシェアしたら「不確かな情報」「不安を煽る」という理由で削除されたことがある。
しかし、日本でも、同じことが起きている。
新型コロナに感染すると、突然、死んでしまうこともあるのだ。
病院へ歩いていく途中で倒れて死んでしまうこともあるのだ。
日本は、武漢のピーク時に近づいてきている。いや、そうなっている、ということか。
自分を守る方法が、他人と接触しないこと、だけというのは非常につらい。
「変だと思ったら、すぐ病院にきてください。検査し、陽性なら、すぐ入院してください」という体制をつくるのが、国(政治)の責任だ。
そういうことをしていたら「医療崩壊」が起きる、という人(医療関係者)がいるが、病院へたどりつく前に、国民が「健康崩壊」をして、路上で死んでいるのだ。
国民を路上で死なせておいて、「医療崩壊」を訴えるというのは、どう考えてもおかしい。
「医療崩壊」を起こさせない方法は、感染者が病院で受診しないこと、以外にもあるはずだ。
一方、国民の「健康崩壊(死ぬかもしれない)」は、病院へ行くしかないのである。
路上で死んでいく人も、「救えるかもしれないのに、救えなくなる人」なのだ。
早く中国のように病棟を造れ、
早く韓国のように検査を徹底しろ。
マスクを配っている段階はもうすぎている。
マスクがなければタオルでもハンカチでも代用できる。
でも、病棟は、国民の「手作り」というわけにはいかない。
検査も、国民が「手作り」でできるものではない。
国民が自分でできることは国民に任せて、国は国にしかできないことを、もっと手早くやれ。
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象徴的なニュース

2020-04-26 17:38:12 | 自民党憲法改正草案を読む
新型コロナウイルスによる院内感染が起きている北海道がんセンターがNHKの取材に応じ、感染経路がわからないことから、すべての患者と職員600人以上の誰もが感染している可能性があると想定して検査を急いでいることを明らかにしました。
(https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20200425/7000020547.html?fbclid=IwAR3K32kZ-DZbwqpH8Db2DSiG0bf_sYuXWNxKwwVQbv1ZMgvcnr79Y1FaTow)

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NHK北海道 NEWS WEB

このニュースは、きわめて象徴的だ。
コロナウィルス感染が問題になったとき、まっさきに言われたのが、「症状が軽い人がほとんどだ。そういう人が受診に殺到すると、救えるいのちも救えなくなる。医療崩壊が起きる」だった。北海道のがんセンターのように、治療の最先端の場の治療が行えなくなる、ということだった。
ところが、その最先端の場が、コロナ感染に苦悩している。
何が失敗だったのか。
最先端医療の現場が対象としている病気が「感染症」ではないのに対し、新型コロナは感染症だということだ。
人から人へ感染していく。病気は「個人」のなかで完結しない。
最先端医療と呼ばれる現場が「得意」としているのは、あくまで「個人限定」の病気である。そういう病気を救うには、たしかに特別な治療かいる。そういう治療ができなくなることは困った問題だ。
感染症は、「個人」で完結しない。死んでも終わりではない。死んだ人に触れる機会がある人は感染するかもしれない。しかし、触れて問題になるのは「死者」ではなく、そこにあるウィルス。しかも目に見えない。
そういう単純なことを見落としたのだ。
感染症の問題は「個人」で完結しない。ひとからひとへ、社会へと広がっていく。
病気で苦しむのは「個人」なのに、「個人」では完結しない問題が、どこまでもひろがっていく。
「医療崩壊」の前に、国民の「健康崩壊」があり、「ほうっておいても治る人が多い。そういう人のために、高額の治療費を払ってくれる人を犠牲にはできない」という経済優先の「医療倫理崩壊」があったのだ。
「からだに異変を感じたら、すぐにきてください。いっしょに病気と闘いましょう」という国民が信じている「医療倫理」が崩壊していて、「感染症対策」が手抜きになってしまった。
感染症が発生したら、すぐに隔離する。病院が足りないなら建設する。感染者を早く発見するために検査を徹底する。
そういうところに金をつぎ込んでいたら、こんなことにはならなかったと思う。
すべては「初動」のミスだ。
初動のミスが拡大し、日本を覆っている。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(41)

2020-04-26 16:13:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年04月26日(日曜日)

* (愛よ)

ぼくらの寝所へひっそりと素裸でやってきて
一時に熟れてしまう

 「愛」は抽象的である。「素裸」「熟れる」は具体的である。
 あらゆるものは「熱」によって熟れる。「冷やす」と熟れない。
 そして、「熟れる」は「時間」を必要とするが、この詩では「一時に」と時間を欠いている。
 「情熱」という「熱」が時間そのものを焼き尽くすのだ。
 しかし焼尽派のバタイユなら「ひっそり」とは書かなかっただろう。

*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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