詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(29)

2020-04-12 21:34:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (辛うじて哄った)

もしその哄いが時の愚かなまちがいなら
ふた足み足ぼくは余分に歩けるはずだ

 「時」は何を指しているのだろうか。「時」に人格を与え、「時」が間違えたということなのか、それとも「ぼく」の「その瞬間」という意味か。
 「時」というのはだれにも属さない「客観的」なものだから、間違えるということはない。間違えたのは、「その時のぼく」ととらえるのが普通かもしれない。このとき「時」は「主観的な時(時間)」ということなる。
 けれど、私は「客観的な時」、存在として「絶対的な時」そのものが間違え、「ぼく」に反映してきていると読みたい。
 理由はない。単なる私の欲望である。
 そう読んだから、意味がどうかわかるのか、ということは考えない。「結論(意味)」は保留して「時」(絶対)そのものが「間違える」ということを想像したいのである。
そのとき「ふた足み足」の「肉体(足)」そのものが生まれ変わる。「ぼく」が「足」なになる。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」

2020-04-12 19:03:45 | 詩(雑誌・同人誌)
多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」( 「現代詩手帖」2020年04月号)

 多和田葉子「国分寺駅三番線午前六時二十四分」の書き出し。

靴先がはみだしている
DO OR が閉まりますので ご注意ください
乗り損ねるな ノアの方舟
閉まったら はさまれてしまうに違いない
はみだしている 靴の先
毎朝少しずつ 短くなっていく

 「靴先がはみだしている」から「毎朝少しずつ 短くなっていく」までの「毎朝」の変化。
 何が起きているのか。
 「DO OR」という表記は、Oが重なるとき、ドアが閉まるという感じなのか。接触を通り越して、まるで鋏かなにかのよう。
 そう思っていると、

つめてください 指先を 今日のその先の時間を
鉄の障子がスローモーションで閉まる
靴先たちはじわじわと
内部に後退していった

 「つめる」は「奥につめる」というよりも、やくざ映画の「指をつめる」に似ている。このあと「指切り」ということばが出てくるのも、その影響(?)だろうなあ、と思うが、私は「指をつめる」ということをしたことがないので、自分自身の「肉体感覚」としてははっきりとはつかみきれない。「想像」として、そう思うだけである。
 満員電車というもの、私は、人の吐く息の濃密さについていけないので、習慣的に体験したことがない。つまり、自分の「肉体感覚」では、あまり思い出せない。思い出したくないので、記憶から消しているのかもしれない。
 でも、なんとなく「満員電車」という感じはわかる。わかるけれど、どきりとはしない。
 ところが。

あの靴 この靴が 狭い箱の中で
三時の方向 九時の方向に 居場所を探す
人を踏み台にすることもあるだろう
すみません、とまなざしを交わし合うには
近過ぎる眼球と眼球

 私は、ここではっとする。「眼球」ということばに。「近過ぎる目と目」ならたぶん、はっ、とはしなかった。「目」には何かを見るという「仕事」がついてまわる。「見る」という動詞がついてまわる。しかし「眼球」には普通は「動詞」がない。
 私は定期的に眼科で眼底検査をしているが、そのときでも「眼球」とはいわない。右見て、下見て、こんどは左下とか先生がいうときは、「目で、右の方を見て」ということであって、見るという動詞に眼球の動きがついていくだけであって、眼球を動かして右を見ると意識することはない。「眼球」には動詞はついてまわらないのだ。
 では、「眼球」とは何なのか。
 意識を気にしない(?)肉体そのものなのだ。よほどのことがない限り「眼球を動かす」とはいわない。意識して動かすものではない、意識をはねつけるような「なまなましい」ものがある。たとえて言えば、心臓だとか、胃だとか、膵臓だとか。意識ではなく「本能」が支配している感じ。
 で、

近過ぎる眼球と眼球

 ということばを読んだとき、私は「裸」を思ったのである。「裸」と「裸」が電車のなかで接触している。まるで「濃厚接触」である。逃げきれない「接触」。現実には触れていないのに、現実を越えて触れるどころか、相手の肉体に侵入していく感じ。

 これは、すごいなあ。

 そして、このとき思うのだが、この「眼球」ということばを選択させたのは何なのか。もちろん多和田の意識なのだが、私は、同時に「ことばそのものの意識/ことばの肉体」が動いているのだと感じる。
 私はよく「ことばの肉体」という表現をつかう。そして、何度か、ほかの人か「ことばの肉体って、何?」と聞かれたことがある。それは、ちょっと説明しにくいのだが、多和田がつかっている、この「眼球」のようなことば。それを誘い出す何か、ことばの「本能/欲望」のようなもの。
 「眼球」は単独で見ると「肉体の一部」をあらわすだけのことばなのだが、それがことばとしてあらわれてくる前に、「靴の先をつめる/指先をつめる」ということばの運動がある。その「つめる」という動詞が引き起こす「肉体の直接性」(指をつめたら痛い、血が出る)のようなものが、ことば自身の作用として「目」ではなく「眼球」を選びとらせるのだと思う。
 あることばがこう動いたら、そのことばのつづきとして、別のことばはこう動くのだという「肉体の連続性」がある。人間が走るとき、右足を先に出して、爪先に重心を移しながら、その移動の力をかりて左足を前に出すという動きのように、不思議な連続性があるのだ。私は、そういうものを感じる。そして、そういう「ことばの肉体の連続性(運動の正確さ)」みたいなものを感じるとき、なんだかどきどき、わくわくする。






*

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数字はほんとうか(その2)

2020-04-12 09:51:05 | 自民党憲法改正草案を読む
数字はほんとうか(その2)
       自民党憲法改正草案を読む/番外336(情報の読み方)

 
 2020年04月12日の読売新聞(西部版・14版)の1面。新型コロナの感染者。

東京197人、福岡43人 感染最多

 この数字をどう見るか。読売新聞は、次のように分析している。(番号は私がつけた。)

①今月8日の感染者(144人)は前日比82%増と急増したが、9日(178人)は同24%増、10日は同6%増と伸び方は鈍化しており、11日の増加率は同4%だった。
②ただ、感染の有無を調べるPBR検査を実施できる数には限界があり、都幹部は「検査数が増えれば、感染者数も増える可能性がある」と危機感を示す。

 これは①の数字が「当てにならない」という証拠である。いったい何人検査をしているのか。その「母数」(分母)がわからないかぎり、現象の一部を表面的にとらえただけにすぎない。
 極端な話、毎日200人しか検査していなかったとしたら、どうなるのだろう。感染率を計算してみる。
8日 144÷200=72%
9日 178÷200=89%
10日(不明)
11日 197÷200=98%
 毎日感染率が上がってきている。
 たぶん、検査数(分母)を増やしながら「感染者の伸び率」が低下するように操作しながら「発表」しているのだろう。(①の計算は、感染者が何人伸びたか(感染者増加率)であって、感染率は計算していない。)
 感染者の増加率を操作するために、どういう「分母」を設定するかというのは私のような人間にはめんどうだが、「算数」のレベルとしては中学生でもできることだと思う。
 そういう「事実」があるからこそ、都患部は正直に「検査数が増えれば、感染者数も増える可能性がある」と言っている。しかも、私が計算したように「分母」を一定だと仮定すると「感染率」がどんどん伸びているのだから、分母が大きくなれば感染者数が爆発的に増えるのは目に見えている。
 大事なのは、正確な情報。
 感染症の場合、「感染者の伸び率」よりも「感染率の変化」。100人検査して50人陽性と、1000人検査して500人陽性では、「感染率」は50%でかわらないが、感染者の伸び率では10倍になる。逆に言えば、前日に1000人検査して500人の陽性者を確認する。次の日に100人検査して50人の陽性を確認する。その場合「感染率」は50%でかわらないが、感染者数の伸び率は「10分の1」になる。
 数字の発表だけでは、「数字の意味」は見えない。一部の数字だけではなく、全部を公表しないといけない。検査申し込みが何件あったのか、そのうち何件を検査したのか、そして何人の陽性者を確認したのか。これを隠したまま、きょうの感染者が何人と発表しても意味はない。そういう発表をするのは、すべてを公開すれば「数字の操作」がわかってしまうからである。
 都幹部は「検査数が増えれば、感染者数も増える可能性がある」と言っているが、可能性ではないのだ。

検査数が増えれば、感染者数も増える

 ことはだれもが知っているのだ。その「事実」(感染率がアップしてきている)を伝えたくて幹部はそう語り、読売新聞はその「意」を酌んで、幹部の声を載せたのだろう。

 きょうのニュースでは

首相「出勤7割削減」要請/7都府県、全事業者に

 にも注目した。
 「緊急事態宣言」で自治体に対応を任せていたのに、突然、首相が出てきた。これでは「指揮系統」がわからなくなる。「出勤7割削減」はそのまま「労働7割削減」には直結しないが、なかには仕事を失う人もいるだろう。在宅勤務をするにしても、機材の調達などが必要になる。企業によってはセキュリティーの問題が関係してくる。それをどう補償するのか。このことが明確にされていない。
 単に安倍が、「ぼくちゃん、ちゃんと要請したからね」というだけのニュースである。国民のいのちが大事。それを守る必要がある。そのために人の動きを制限する。動きを制限するから、それにともなう損失は補償する、という順序で動かないといけないのに、そうなっていない。
 「人間の動きは制限します。各自で工夫してください。そうしないと国民が死んでしまうかもしれない。それは工夫をしなかった企業と、工夫をしなかった労働者の責任。ぼくちゃんは、ちゃんと要請をした」というのは、言い逃れ。
 「工夫」ということばは、記事の中には、こんなふうにつかわれている。

(西村経済再生相は)事業継続が求められる業種については「それぞれの感染拡大防止の取り組みをしながら、オフィス部分はさまざまな工夫ができると思う」と語った。

 「それぞれの/さまざまな工夫」ではなくて、政府の明確な工夫(政策)が必要なのに、それを放棄している。「要請」が「工夫」であってはいけないのだ。




















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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