詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宍戸節子『ちょっと違うだけで』

2020-04-05 22:52:52 | 詩集
宍戸節子『ちょっと違うだけで』(土曜美術社出版販売、2008年12月25日発行)

 宍戸節子『ちょっと違うだけで』を読みながら、このひとはとても頭がいいんだと思った。何かが起きると(ものが変化すると)、それには原因があると考える。そして、その原因を客観的に突き止める。それを、そのあとで説明する。結果を事実から説明し、その過程を「共有」する。このことを「理解」と考えているようだ。まあ、理解にはちがいないのだが。
 たとえば「さわし柿」。

ひいばぁちゃんは果物屋で
練り柿を売っていた
風呂桶の湯に一晩漬けて
渋を抜いた甘い柿

 とはじまる。私の田舎でも同じことをやっていた。やはり「さわし柿」と呼んでいたが、「さわす」が「標準語」だとは知らなかった。「渋抜き」のことだが、九州でも言うのだから標準語なのだろう。(私は辞書を引くことが嫌いなので、間違っているかもしれないが。だから、「だろう」と書くのだが。)
 私の両親は、ただ単に「湯に一晩漬けておくと渋が抜ける」(アルコールをヘタをとって吹きつけておくという方法もあるが、これは父親が酒がもったいないというのであまりしたことはない)と言うだけで、その原因は説明しない。「湯に漬けておけば渋が抜ける」で充分納得できる。自分たちで食べる工夫だから、それ以上説明はいらない。渋が抜けていなかったら湯がはやく冷めてしまったからだ。そういうときは藁でつつんで漬ける、と新たな工夫を教えてくれるだけだ。
 宍戸は、こういう「説明」では納得しない人である。
 だから、詩のなかに、次のような説明を書く。

いまでは
炭酸ガスやドライアイスの
ガスさわし
アルコールや焼酎を噴霧する
アルコールさわしになった

さわすとは
糖からアセトアルデヒドや
エタノールを作ること

渋い水溶性のタンニンを
これらの力をかりて ペクチン質にくっつける
溶け出さないように

 なるほどなあ、と私はうなるのだが。
 ちょっと困る。こんなふうに「説明」されると、「反論」のしようがない。認識を「共有する」というととても正しいことのような感じがすると、ここまで徹底すると「共有する」というよりも「正しさの強要」と感じる人も出てくるのではないか。
 きっと多くの人は、わかったふりをしてしまう。「アセトアルデヒド」とか「エタノール」とか「ペクチン質」を自分の知っていることばで言い直せない。「直感」として納得できない。
 私は両親が言った「お湯に漬けておくと渋が抜ける」の方が「直感」として納得できる。お湯につかっていると(風呂に入っていると)なんとなく体がゆったりしてくる感じとかが「甘くなる」気分に似ているからかもしれない。自分のなかで「トゲ」がなくなってくる。それが「甘い」ということかな、と。風呂に入っているときの「肉体の変化」をいろいろなことばで説明すれば説明できるのだろうけれど、まあ、聞いても忘れるな、私は。
 「共有」が「強要」にならなければいいのだけれど、思っていると、詩は急展開する。

だれもいない家に帰ったとき
底しれぬ静けさを感じることがある
寂しさが水溶性となって沁みてきて
だれかと話さずにはいられない

 「だれもいない家に帰ったとき/底しれぬ静けさを感じることがある」という二行には、多くの人が「共感」するだろうと思う。「共感」というのは「感じ」を「共有」すること。同じ感じを体験したことは、多くの人にあるのではないだろうか。
 この感じを宍戸は「寂しさが水溶性となって沁みてきて」と言い直す。これは不思議な「比喩」だが、その比喩は、その前の連の「渋い水溶性」「溶け出さないように」と重なり合う。「溶け出さないように」は「沁み出さないように」でもあるだろう。そう読むと、ことばはいっそう重なりを強くする。
 そして、この「重なり」(比喩)を「正確」に語るために「さわし柿」をきちんと説明したということも理解できる。でも、その説明が「きちん」としすぎているために、なんといえばいいのか「誤読」する「スキ」がない。何か感想を言うと、その感じ方は論理的ではない(さわすという現象を正確に把握していない)と批判されそうな気がするのである。
 「共感したい」という気持ちはあるのだが、身構えてしまう。
 こうなると、詩を読んでいるというよりも、何か「試験」を受けているような、説教を聞いているような気持ちがしてくる。
 最後は、どうなるのか。

電話帳を繰り
だれかれとなく電話する
さっきの友人の電話も
心をさわすためだったのだろう

 「寂しさ」は「心」と言い直され、「さわす」という動詞のなかで一つになっていく。とてもよくできている詩だと思う。でも「とてもよくできている」というのは、詩としては弱点かもしれない。読者との間に「距離」ができてしまう。「よくできている」かどうかなんか関係なく、「好き」と言ってしまうのが、たぶんいい詩なのだと思う。
 「共感」というのは、たいてい説明できないものなのだ。説明できないから「共感した」と、便利なことば頼ってしまう。これを宍戸が詩に書いているように論理的、客観的に言い直さないといけないとなると、かなりしんどい感じがする。

だれもいない家に帰ったとき
底しれぬ静けさを感じることがある

 この二行は、ついつい自分に引きつけてしまう(自分もそうしたことがあったなあと思ってしまう)けれど、その「感じ」の説明を「さわす」という動詞をつかって、渋柿を甘くするところから語りなおされると、「共感」の「感じ」が「感じ」ではなく、「論理」になってしまうようで、うーん、と言ったあとことばがつまるのだ。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(22)

2020-04-05 19:24:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「旧小詩篇」から

水溜り

水溜りに手を触れるな
水溜りは小さな楽器のように壊れてしまうだろう

 目で見ていた風景が、突然音の風景に変わる感じ。音楽が突然風景のなかに流れ込んでくる感じ。
 それは聞こえないことによって存在する沈黙の音楽。
 






*

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「戦死」ではないのか。

2020-04-05 18:53:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「戦死」ではないのか。
       自民党憲法改正草案を読む/番外334(情報の読み方)

毎日新聞デジタル版(2020年4月5日 16時49分、最終更新 4月5日 18時08分、https://mainichi.jp/articles/20200405/k00/00m/040/076000c?fbclid=IwAR38Az-7OBYJ39BprVMRfP2LoAvaVpoDxU9fPrGVR7mvEFqFhbpK6ipUlUY)の見出し。


「都内感染者の増え方、ほぼ想定内」東京都、1日最多の143人感染 2日連続の100人超


その記事のなかに、こんな文章がある。


感染経路が不明の患者の中には、感染者数が増えたことによって調査が追いついていなかったり、症状が重く聞き取りができなかったりする人も隠れているだろう。

↑↑↑↑
感染者の数も脅威だが、この記事部分は非常に重大な問題点を含んでいる。
感染が判明した段階で「症状が重く聞き取りができなかった」人がいるというのは、感染が判明した段階で「重症化」していることを意味する。
言い換えると、「重症化」するまで検査を受けられなかったということだ。
「検査しない」政策が、「重症化」した感染者を増やしている。
もし、その人が亡くなった場合、それは「安倍の未必の故意」にあたるのではないか。
政府の無策によって、国民の命が奪われるのだ。
これは多くの医療事故と同じように、きっと将来、「医療訴訟」を引き起こすことになる。

安倍の「東京五輪のとき首相でいたい、ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだと五輪で言いたい」という欲望のために、国民が死んでいくのだ。
新型コロナとの戦いを「戦争」とメルケルは呼んでいたが、日本国民は安倍の欲望のために「戦死」するのだ。無残な「戦死者」が、すでに何人も生まれているのだ。














#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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経済対策原案?

2020-04-05 18:35:08 | 自民党憲法改正草案を読む
経済対策原案?
       自民党憲法改正草案を読む/番外334(情報の読み方)

 
 2020年04月05日の読売新聞(西部版・14版)の1面トップ。新型コロナニュース。

アビガン200万人分確保/経済対策原案 5本柱/「緊急支援」「V字回復」2段階

 という見出し。「アビガン200万人分確保」はわかるが、そのあとの「経済対策原案 5本柱」とはいったい何事か。いまは経済ではなく、国民の命を守ることだろう。
 1面には、こういう見出しもある。

東京感染 初の100人超/全国368人 福岡市26人、1日最多

 全国で感染者が増えている。みんな自分の命がどうなるか心配しているだろう。また、治療費にいくらかかるか、という心配もしている。経済が回復するかどうか、ではなく、このままで生きていけるかどうかを心配している。その不安を取り除くことが大切だろう。
 いま必要なのは、病床の確保、人工呼吸器の確保、入院中の経済補償である。それがすんだら、新型コロナのために休業せざるを得なくなった人の経済補償(休業補償)である。
 経済の「V字回復」など、なくてもかまわない。収入が減ってもかまわない。生きていければいい。そのために必要な金さえあればいい。暮らしの質を落とすことはかまわない。もともと「ぜいたく」なんかしていない。それが多くの国民の気持ちではないのか。
 死んでしまえば、経済がどうなるかなど、何の意味もないのだ。

 たしかに「経済(金)」は大事だが、それが「最優先」では困る。病気の不安があるのに、経済(金)のことを考えるというのが、おかしい。「金のことは心配しないで、自分の体、健康のことを考えて」というのが、人が病気のときにかけることばではないだろうか。そして、実際に、そう行動するのが健康な人の仕事ではないのか。

 安倍の「経済第一主義」(2012年の、自民党の改憲草案先取り=前文に「経済活動」が書かれている)が、今回の新型コロナ対策に非常に大きな影響を与えている。感染がはじまって以来、何度も何度もマスコミに「医療崩壊」ということばが出てきているが、なぜ「医療崩壊」が起きるのか。病院の数が減っている。保健所が減っている、からではないのか。健康に金をかけず、保健所や病院を削減することで浮いた金を経済対策に回すから、病院が足りない、医師が足りない、看護師が足りないということになる。
 国民の「健康崩壊」が起きて、それに対応しようとすると「医療崩壊」が起きるというのは、国民の「健康崩壊」を前提とせずに「経済対策」がつくられているからだ。つまり、「医療崩壊」が起きるとしたら、それは「経済対策」が間違っているからである。
 だいたい「医療崩壊」と騒ぎ始めてから2か月以上もたっている。「医療崩壊」を防ぐために政府は何をしたのか。マスクを6億枚提供すると「やらせ記者会見」で発表したが、市中にはマスクは出回っていない。あわてて「布マスクを1住所2枚配布する」と言ったが、そんなことで「健康崩壊」を防げるのか。布マスクの配布開始は「再来週」ということだったが、不完全な「健康崩壊防止策」の実現を待っている間にも国民は新型コロナで死んで行くのである。

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