小池昌代『かきがら』(2)(幻戯書房、2020年09月11日発行)
小池昌代『かきがら』の最後に「匙の島」という短篇がある。「かひの島」と読むらしい。島の形が匙に似ているのだという。そして、その匙は、最後でこう変わる。
木製の匙で綺麗な水を汲み、赤ん坊の口をしめらすのだ。そのことで、新しく誕生した彼あるいは彼女を、島の一員に迎え入れる。
一種の「神話」のような構図の作品だが。
私が最初に興奮したのは、島の「涸れ井戸」に水がよみがえったのエピソード。井戸を覗く。
皆、かわりばんこに井戸を覗き込む。その面(おもて)が、そのままばかりと井戸に落ちるような気がしてフミは怖い。見上げた顔はのっぺらぼう。何でも無闇に覗き込むものではない。
という主人公の感想のあと、みずから進んで「うば捨て山」に入るという「オニババ伝説」のようなものが語られる。つづいて、
誰もがタブーのように語るオニババだったが、フミもまた、オニババを思うとき、悲しみの先にある「満天の自由」に触る気がするのだ。
括弧付きで、突然「満天の自由」ということばが出てくる。これが、私には、井戸を覗いたとき、井戸の底(水面)に映った「のっぺらぼう」が見た「星空」か何かのように感じられたのだ。「宇宙の自由」のように感じられた。
「満天の自由」と「井戸」が呼応していると感じ、その非情な美しさ(人間を無視した美しさ)に、こころが震えた。
詩を読むと、意味はわからないのに、あることばが突然「全体的な美しさ」で屹立してくるのを感じるときがあるが、それに似た感じを「満天の自由」に感じた。
そして、これが最終的に「別の形」で小説の結末になるだろうと予感した。
あとは「予感」なのか、私が「予感」にあわせて小池のことばを「誤読」しているだけなのかわからないが、とてもおもしろい展開が始まる。
ある人が不気味な魚をつりあげる。その直前に、赤ん坊の泣き声のようなものを聞く。「ヨナタマ」ではないか、という。
ヨナタマは、海霊と書き、「ヨナ」とは海のこと。「タマ」は女性の別称とも、命のことだとも言われる。
ここでは小池は「女性の別称」と書いているのだが、私はなぜか「女性の性器の別称」と読み違えていて、実は、いま引用しながら「あ、女性の性器ではないのか」とちょっと驚いたのだが。
何かしら、「井戸」「満天の自由」と「女性の性器」がつながっている、そこから「命」がうまれてくるという「予感」がしたのである。
脱線したが……。
この「ヨナタマ」を、魚を釣った家族や近所の人がそれを食べてしまう。
「ヨナタマ」は津波をもたらすという不吉な伝説もあるので、島人は不安になるのだが、釣り人が聞いた「赤ん坊の泣き声」が現実の赤ちゃんの誕生という具合に変化していく。
その過程で、ちょっと説明はしにくいのだが、「生まれる前の時間」とか、人間の誕生までの変化(母の胎内での変化)が「魚の状態」ではじまるとか、海のなかでの「初潮」が語られる。
そのときの一種のキーワードのようなもの(物語の意味を刻印されたことば)は「ブエノスアイレスの洗濯屋」と同じように、鍵括弧のなかに入っていたり、裸のままだったりするのだが、ストーリーを突き破るようにし先へ先へとイメージを広げていく。まるで「詩」のことばのように感じられ、そういうことばの「配置」にふれると、ああ、小池はやっぱり詩人なのだ、と思うのだった。
赤ん坊に関しては、赤ん坊を抱いた女性が「名前はまだです。名無しです」と言ったあと、
名無しという言葉が、その場に矢のごとく放たれて、空気が清(す)んだのがフミにはわかった。
そのあとフミは赤ん坊の顔を覗く。閉じられていた目が一瞬開かれ、表情が目まぐるしくかわる。「老賢者」「怪魚のような醜貌」「カエル」「ヘビ」「トカゲ」「サル」。それが「疾風のように通りすぎた」。
この描写は、なぜか「井戸」を覗いたときのことを思い出させる。赤ん坊の目は「井戸」なのだ。そうであるならば、赤ん坊が見つめたのは「満天の自由」なのだ。「満天の自由」を主人公は、赤ん坊をとおして瞬間的に見たのだ。
とは、小池は書いていないのだが、私は「誤読」する。
そして、いいなあ、と思う。
何か、巨大な「迂回」をとおして、世界が新しく生まれ変わる。世界が生まれ変わるためには「迂回」が必要だ。その「迂回」の目印のようなものが、作品のなかに「配置」されていて、それを辿ると世界が動いたことがわかる……という感じと言えばいいのか。
「詩」のことばが、小説のなかに生まれてしまう「余分」を、ある意味では削り落とし、あるいは「詩」を踏み台にしてストーリーを別次元へ飛翔させてしまう。なにか、そういう感じで、小池の短篇のことばは凝縮したまま動いている。
ストーリーのスムーズな展開というよりも、ぎくしゃくしていても、「象徴的なことば」の飛躍力(飛翔力)を借りて、新しい世界を生み出してしまう。そういう「文体」だと思った。だから、ストーリー(散文)を読むというよりも、「詩」だと思って読んだ方が、きっと楽しい。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com