村上春樹の読み方
外国人を相手に「日本語」をオンラインで教えている。テキストは村上春樹の「海辺のカフカ」。先日教えたのは、ハイライトを抜き出すと、こんなことになる。
まず、「第一章の書き出し」を読む。
第一段落の「持ちだす」と「もらっていく」は、どう違うか。どちらも「もの」が「父」の側から「僕」の側へ移動する。「もの」を中心に見ていくと、ことばをつかいわける意味はない。しかし、村上はつかいわけている。なぜか。
「持ちだす」には「黙って」ということばがついている。「黙って持ちだす」は、ほかのことばで言えば、どういえるか。「盗む」である。
「もらう」は「僕が父からもらう」。父を主語にすると「父がぼくにくれる」この「もらう/くれる」には「もの」の移動の他に「人間関係」がからんでくる。「恩恵」がふくまれる。これは外国人にはなかなかむずかしい考え方のなのだが、とりあえずは「恩恵」がふくまれるから「盗む」ということとは無関係だということを認識させる。「加害/被害」の関係ではなく「恩恵」を「与える/受ける」の関係が「もらう」という動詞の中になる。
そこから最初にもどって「持ちだす」はどうか。そこには「加害/被害」の関係もなければ「恩恵を与える/受ける」という関係もない。いわば「客観的」なことばである。そして、その「客観」は他人から見れば「黙って持ち出す」だから、実は「窃盗(盗み)」である。
「僕」は「盗み(犯罪)」をどこかで意識している。しかし、それを隠すために(自己弁護するために)「持ちだす」ということばを使っている。さらにそれを「もらっておく(もらう)」と言い直している。父からもらった、父がくれたと言い直すことで、「犯罪性」が完全に消える。
これは言い直せば、「僕」は「僕の行為」から「犯罪性」を消したいと思っているということである。小説を全部読んだ人には、私の書いている説明がわかると思うが、小説を最後まで読んでいなくても、この書き出しだけで「僕」という人間のこころの動きがわかる。
ひとつの行為を別のことばで表現する。そのとき、その表現の変化のなかには「意味」があるのだ。そういうことを、日本語の初級を終えたくらいの外国人に教える。「ストーリー」を理解するのではなく、ストーリーのなかで動いている「人間のこころ」。それがどんなことばによって表現されているから教える。
むずかしそうでしょ? でも、私はなぜか、こういうことが得意。「こことここに気をつけて」という指摘し、気づかせることができる。(ちょっと自慢)。
この「僕」の「こころの動き」をあらわしていることばは、ほかにもたくさんある。私が次に問いかけたのは第一段落の「やはり」である。「やはり」はどういう意味? これは辞書を引いてもなかなかわからない。日本人に聞いても、「やはり」の意味は答えにくいだろう。
しかし、こういうネイティブならだれでもわかりきっていることば、しかし説明しにくいことばというのは、作品のなかで常に言い直されるものである。だから、「やはりの意味は?」の次に、「やはり」に似たことばはないか、と質問する。
「答え」がわかますか?
第二段落に出てくる「迷った末に」である。「やはり」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、は「迷った末に」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、と言い直すことができる。言い直しても「意味」は同じである。
さらにもうひとつ、非常に似たことばがある。二段落目の最後の方に出てくる「あらためて」である。「あらためて」ロレックスを机の引き出しに戻す、は「迷った末に」ロレックスを机の引き出しに戻す、であり、「やはり」ロレックスを机の引き出しに戻す、でもある。
すべてのことばが入れ替え可能というわけではないが、似た感じで「入れ替えてもかまわない」くらいの感じ。
そして、この「やはり」とか「あらためて」とかいう、あまりにも「わかりきったことば」の背後には「迷う」というこころの動きがあることを指摘する。そうすると、「僕」という人間の「性格」がここだけでもずいぶんわかる。「僕」は何かをするとき「迷う」人間である。「考える」人間である。そして、それを「ことば」にする人間である。
こういうことをつかみ取ると、その後の「小説」を読むとき、いろいろなことがしっかりと理解できる。「僕」が「迷う/考える/考えをことばにする」人間であると理解すると、「時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった」という文章の中の「人目をひきたくはなかった」がわかりやすくなる。二段落目の「むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ」の「むしろ……はずだ」の「構文」も「意味」をもってくる。「そちらのほうがずっと使いやすい」でも「意味」は充分につたわる。しかし、村上は「意味」ではなく「僕のこころ」を描いているから「むしろ……はずだ」という「構文」が必要なのだ。「迷い」をふっきるため、ふっきったということを明らかにするために、そうした「強調構文」がつかわれている。
さらに、こんなことも教える。
「黙って持ちだした」「もらっていくことにした」は「過去形」。ところが「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す」は「現在形」。最後の文章は「あらためてロレックスを机の引き出しに戻した」と書き直しても、「意味」はかわらない。
むしろ「過去形」の方が理解されやすい。実際、私が教えた相手はドイツ人で、彼は「ドイツ語では、ここは過去形になる」と言った。「時制の一致」を考えると、どうしても「過去形」になる。だから、日本人であっても多くのひとは「過去形」で書くだろうと思う。
なぜ、村上は「現在形」にしたのか。これは例を挙げて具体的に説明するのは骨が折れるので、「現在形」にした方が、そのとき「感情」がいきいきと感じられるからだとだけ説明した。
でも、この「現在形」は、とても重要なのだ。実は三段落目は、「行為」というよりも「感情」の動きに力点をおいた文章に変わる。「感情/こころ」の動きというのは、いつでも「現在」なのである。「戻す」という「現在形」をつかうことで、三段落目のことばと連動しやすくなるように書かれているのでもある。
村上春樹の「文体」は、日本語を教えるには、ほんとうによくできている。たとえば「持ちだしたのは、現金だけじゃない」の「だけ」は、この文章のあとに「ほかに」持ち出した「もの」が列挙されるということを暗示している。「だけ」じゃない、ということばがあるから、そのあとに「鹿の皮をはぐ折り畳み式のナイフ」というような、それ、何?というものが出てきても自然に読むことができるのだ。こういうことも、もちろん、ドイツ人に説明した。
そのドイツ人は、最後に「私は物理系の仕事をしてきたので、ものの動きを論理的に追うことは得意だが、ことばがこころの動きと一致していることを知って、とても楽しかった」と言った。
それで、ふと、思ったのだ。
きっとこういう読み方は、日本人でもあまりしない。(朝日カルチャーの現代詩講座は、これに似たことをやっている。あることばは、どのことばと関係しているか、そのことばを結びつけるとどんなことがわかるか、というようなことを通して、詩に書かれている「こころ」を追ってみる。)だから、日本人相手であっても、こういうことをやればきっとおもしろいのではないかと。
いまはネット環境さえととのっていれば、オンラインでやりとりができる。
「村上春樹を読むオンライン講座」。興味のある人がいれば連絡をください。三人以上参加者がいれば、はじめたいと思います。私が「講師役/進行役」をしますので、土曜か日曜の夜(隔週)一時間、千円を予定しています。
なお、参加してみたいなあ、と思われた方は、一段落目の「外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか」は、何を修飾することばなのか、そう考えた理由を書いて私あてに送ってください。(yachisyuso@gmail.com)
外国人を相手に「日本語」をオンラインで教えている。テキストは村上春樹の「海辺のカフカ」。先日教えたのは、ハイライトを抜き出すと、こんなことになる。
まず、「第一章の書き出し」を読む。
家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。
第一段落の「持ちだす」と「もらっていく」は、どう違うか。どちらも「もの」が「父」の側から「僕」の側へ移動する。「もの」を中心に見ていくと、ことばをつかいわける意味はない。しかし、村上はつかいわけている。なぜか。
「持ちだす」には「黙って」ということばがついている。「黙って持ちだす」は、ほかのことばで言えば、どういえるか。「盗む」である。
「もらう」は「僕が父からもらう」。父を主語にすると「父がぼくにくれる」この「もらう/くれる」には「もの」の移動の他に「人間関係」がからんでくる。「恩恵」がふくまれる。これは外国人にはなかなかむずかしい考え方のなのだが、とりあえずは「恩恵」がふくまれるから「盗む」ということとは無関係だということを認識させる。「加害/被害」の関係ではなく「恩恵」を「与える/受ける」の関係が「もらう」という動詞の中になる。
そこから最初にもどって「持ちだす」はどうか。そこには「加害/被害」の関係もなければ「恩恵を与える/受ける」という関係もない。いわば「客観的」なことばである。そして、その「客観」は他人から見れば「黙って持ち出す」だから、実は「窃盗(盗み)」である。
「僕」は「盗み(犯罪)」をどこかで意識している。しかし、それを隠すために(自己弁護するために)「持ちだす」ということばを使っている。さらにそれを「もらっておく(もらう)」と言い直している。父からもらった、父がくれたと言い直すことで、「犯罪性」が完全に消える。
これは言い直せば、「僕」は「僕の行為」から「犯罪性」を消したいと思っているということである。小説を全部読んだ人には、私の書いている説明がわかると思うが、小説を最後まで読んでいなくても、この書き出しだけで「僕」という人間のこころの動きがわかる。
ひとつの行為を別のことばで表現する。そのとき、その表現の変化のなかには「意味」があるのだ。そういうことを、日本語の初級を終えたくらいの外国人に教える。「ストーリー」を理解するのではなく、ストーリーのなかで動いている「人間のこころ」。それがどんなことばによって表現されているから教える。
むずかしそうでしょ? でも、私はなぜか、こういうことが得意。「こことここに気をつけて」という指摘し、気づかせることができる。(ちょっと自慢)。
この「僕」の「こころの動き」をあらわしていることばは、ほかにもたくさんある。私が次に問いかけたのは第一段落の「やはり」である。「やはり」はどういう意味? これは辞書を引いてもなかなかわからない。日本人に聞いても、「やはり」の意味は答えにくいだろう。
しかし、こういうネイティブならだれでもわかりきっていることば、しかし説明しにくいことばというのは、作品のなかで常に言い直されるものである。だから、「やはりの意味は?」の次に、「やはり」に似たことばはないか、と質問する。
「答え」がわかますか?
第二段落に出てくる「迷った末に」である。「やはり」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、は「迷った末に」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、と言い直すことができる。言い直しても「意味」は同じである。
さらにもうひとつ、非常に似たことばがある。二段落目の最後の方に出てくる「あらためて」である。「あらためて」ロレックスを机の引き出しに戻す、は「迷った末に」ロレックスを机の引き出しに戻す、であり、「やはり」ロレックスを机の引き出しに戻す、でもある。
すべてのことばが入れ替え可能というわけではないが、似た感じで「入れ替えてもかまわない」くらいの感じ。
そして、この「やはり」とか「あらためて」とかいう、あまりにも「わかりきったことば」の背後には「迷う」というこころの動きがあることを指摘する。そうすると、「僕」という人間の「性格」がここだけでもずいぶんわかる。「僕」は何かをするとき「迷う」人間である。「考える」人間である。そして、それを「ことば」にする人間である。
こういうことをつかみ取ると、その後の「小説」を読むとき、いろいろなことがしっかりと理解できる。「僕」が「迷う/考える/考えをことばにする」人間であると理解すると、「時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった」という文章の中の「人目をひきたくはなかった」がわかりやすくなる。二段落目の「むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ」の「むしろ……はずだ」の「構文」も「意味」をもってくる。「そちらのほうがずっと使いやすい」でも「意味」は充分につたわる。しかし、村上は「意味」ではなく「僕のこころ」を描いているから「むしろ……はずだ」という「構文」が必要なのだ。「迷い」をふっきるため、ふっきったということを明らかにするために、そうした「強調構文」がつかわれている。
さらに、こんなことも教える。
「黙って持ちだした」「もらっていくことにした」は「過去形」。ところが「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す」は「現在形」。最後の文章は「あらためてロレックスを机の引き出しに戻した」と書き直しても、「意味」はかわらない。
むしろ「過去形」の方が理解されやすい。実際、私が教えた相手はドイツ人で、彼は「ドイツ語では、ここは過去形になる」と言った。「時制の一致」を考えると、どうしても「過去形」になる。だから、日本人であっても多くのひとは「過去形」で書くだろうと思う。
なぜ、村上は「現在形」にしたのか。これは例を挙げて具体的に説明するのは骨が折れるので、「現在形」にした方が、そのとき「感情」がいきいきと感じられるからだとだけ説明した。
でも、この「現在形」は、とても重要なのだ。実は三段落目は、「行為」というよりも「感情」の動きに力点をおいた文章に変わる。「感情/こころ」の動きというのは、いつでも「現在」なのである。「戻す」という「現在形」をつかうことで、三段落目のことばと連動しやすくなるように書かれているのでもある。
村上春樹の「文体」は、日本語を教えるには、ほんとうによくできている。たとえば「持ちだしたのは、現金だけじゃない」の「だけ」は、この文章のあとに「ほかに」持ち出した「もの」が列挙されるということを暗示している。「だけ」じゃない、ということばがあるから、そのあとに「鹿の皮をはぐ折り畳み式のナイフ」というような、それ、何?というものが出てきても自然に読むことができるのだ。こういうことも、もちろん、ドイツ人に説明した。
そのドイツ人は、最後に「私は物理系の仕事をしてきたので、ものの動きを論理的に追うことは得意だが、ことばがこころの動きと一致していることを知って、とても楽しかった」と言った。
それで、ふと、思ったのだ。
きっとこういう読み方は、日本人でもあまりしない。(朝日カルチャーの現代詩講座は、これに似たことをやっている。あることばは、どのことばと関係しているか、そのことばを結びつけるとどんなことがわかるか、というようなことを通して、詩に書かれている「こころ」を追ってみる。)だから、日本人相手であっても、こういうことをやればきっとおもしろいのではないかと。
いまはネット環境さえととのっていれば、オンラインでやりとりができる。
「村上春樹を読むオンライン講座」。興味のある人がいれば連絡をください。三人以上参加者がいれば、はじめたいと思います。私が「講師役/進行役」をしますので、土曜か日曜の夜(隔週)一時間、千円を予定しています。
なお、参加してみたいなあ、と思われた方は、一段落目の「外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか」は、何を修飾することばなのか、そう考えた理由を書いて私あてに送ってください。(yachisyuso@gmail.com)