詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オンライン講座「村上春樹を読む」

2020-09-11 17:32:54 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹の読み方

 外国人を相手に「日本語」をオンラインで教えている。テキストは村上春樹の「海辺のカフカ」。先日教えたのは、ハイライトを抜き出すと、こんなことになる。
 まず、「第一章の書き出し」を読む。

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。

 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。

 第一段落の「持ちだす」と「もらっていく」は、どう違うか。どちらも「もの」が「父」の側から「僕」の側へ移動する。「もの」を中心に見ていくと、ことばをつかいわける意味はない。しかし、村上はつかいわけている。なぜか。
 「持ちだす」には「黙って」ということばがついている。「黙って持ちだす」は、ほかのことばで言えば、どういえるか。「盗む」である。
 「もらう」は「僕が父からもらう」。父を主語にすると「父がぼくにくれる」この「もらう/くれる」には「もの」の移動の他に「人間関係」がからんでくる。「恩恵」がふくまれる。これは外国人にはなかなかむずかしい考え方のなのだが、とりあえずは「恩恵」がふくまれるから「盗む」ということとは無関係だということを認識させる。「加害/被害」の関係ではなく「恩恵」を「与える/受ける」の関係が「もらう」という動詞の中になる。
 そこから最初にもどって「持ちだす」はどうか。そこには「加害/被害」の関係もなければ「恩恵を与える/受ける」という関係もない。いわば「客観的」なことばである。そして、その「客観」は他人から見れば「黙って持ち出す」だから、実は「窃盗(盗み)」である。
 「僕」は「盗み(犯罪)」をどこかで意識している。しかし、それを隠すために(自己弁護するために)「持ちだす」ということばを使っている。さらにそれを「もらっておく(もらう)」と言い直している。父からもらった、父がくれたと言い直すことで、「犯罪性」が完全に消える。
 これは言い直せば、「僕」は「僕の行為」から「犯罪性」を消したいと思っているということである。小説を全部読んだ人には、私の書いている説明がわかると思うが、小説を最後まで読んでいなくても、この書き出しだけで「僕」という人間のこころの動きがわかる。
 ひとつの行為を別のことばで表現する。そのとき、その表現の変化のなかには「意味」があるのだ。そういうことを、日本語の初級を終えたくらいの外国人に教える。「ストーリー」を理解するのではなく、ストーリーのなかで動いている「人間のこころ」。それがどんなことばによって表現されているから教える。
 むずかしそうでしょ? でも、私はなぜか、こういうことが得意。「こことここに気をつけて」という指摘し、気づかせることができる。(ちょっと自慢)。

 この「僕」の「こころの動き」をあらわしていることばは、ほかにもたくさんある。私が次に問いかけたのは第一段落の「やはり」である。「やはり」はどういう意味? これは辞書を引いてもなかなかわからない。日本人に聞いても、「やはり」の意味は答えにくいだろう。
 しかし、こういうネイティブならだれでもわかりきっていることば、しかし説明しにくいことばというのは、作品のなかで常に言い直されるものである。だから、「やはりの意味は?」の次に、「やはり」に似たことばはないか、と質問する。
 「答え」がわかますか?
 第二段落に出てくる「迷った末に」である。「やはり」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、は「迷った末に」机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした、と言い直すことができる。言い直しても「意味」は同じである。
 さらにもうひとつ、非常に似たことばがある。二段落目の最後の方に出てくる「あらためて」である。「あらためて」ロレックスを机の引き出しに戻す、は「迷った末に」ロレックスを机の引き出しに戻す、であり、「やはり」ロレックスを机の引き出しに戻す、でもある。
 すべてのことばが入れ替え可能というわけではないが、似た感じで「入れ替えてもかまわない」くらいの感じ。
 そして、この「やはり」とか「あらためて」とかいう、あまりにも「わかりきったことば」の背後には「迷う」というこころの動きがあることを指摘する。そうすると、「僕」という人間の「性格」がここだけでもずいぶんわかる。「僕」は何かをするとき「迷う」人間である。「考える」人間である。そして、それを「ことば」にする人間である。
 こういうことをつかみ取ると、その後の「小説」を読むとき、いろいろなことがしっかりと理解できる。「僕」が「迷う/考える/考えをことばにする」人間であると理解すると、「時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった」という文章の中の「人目をひきたくはなかった」がわかりやすくなる。二段落目の「むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ」の「むしろ……はずだ」の「構文」も「意味」をもってくる。「そちらのほうがずっと使いやすい」でも「意味」は充分につたわる。しかし、村上は「意味」ではなく「僕のこころ」を描いているから「むしろ……はずだ」という「構文」が必要なのだ。「迷い」をふっきるため、ふっきったということを明らかにするために、そうした「強調構文」がつかわれている。

 さらに、こんなことも教える。
 「黙って持ちだした」「もらっていくことにした」は「過去形」。ところが「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す」は「現在形」。最後の文章は「あらためてロレックスを机の引き出しに戻した」と書き直しても、「意味」はかわらない。
 むしろ「過去形」の方が理解されやすい。実際、私が教えた相手はドイツ人で、彼は「ドイツ語では、ここは過去形になる」と言った。「時制の一致」を考えると、どうしても「過去形」になる。だから、日本人であっても多くのひとは「過去形」で書くだろうと思う。
 なぜ、村上は「現在形」にしたのか。これは例を挙げて具体的に説明するのは骨が折れるので、「現在形」にした方が、そのとき「感情」がいきいきと感じられるからだとだけ説明した。
 でも、この「現在形」は、とても重要なのだ。実は三段落目は、「行為」というよりも「感情」の動きに力点をおいた文章に変わる。「感情/こころ」の動きというのは、いつでも「現在」なのである。「戻す」という「現在形」をつかうことで、三段落目のことばと連動しやすくなるように書かれているのでもある。

 村上春樹の「文体」は、日本語を教えるには、ほんとうによくできている。たとえば「持ちだしたのは、現金だけじゃない」の「だけ」は、この文章のあとに「ほかに」持ち出した「もの」が列挙されるということを暗示している。「だけ」じゃない、ということばがあるから、そのあとに「鹿の皮をはぐ折り畳み式のナイフ」というような、それ、何?というものが出てきても自然に読むことができるのだ。こういうことも、もちろん、ドイツ人に説明した。
 そのドイツ人は、最後に「私は物理系の仕事をしてきたので、ものの動きを論理的に追うことは得意だが、ことばがこころの動きと一致していることを知って、とても楽しかった」と言った。

 それで、ふと、思ったのだ。
 きっとこういう読み方は、日本人でもあまりしない。(朝日カルチャーの現代詩講座は、これに似たことをやっている。あることばは、どのことばと関係しているか、そのことばを結びつけるとどんなことがわかるか、というようなことを通して、詩に書かれている「こころ」を追ってみる。)だから、日本人相手であっても、こういうことをやればきっとおもしろいのではないかと。
 いまはネット環境さえととのっていれば、オンラインでやりとりができる。
 「村上春樹を読むオンライン講座」。興味のある人がいれば連絡をください。三人以上参加者がいれば、はじめたいと思います。私が「講師役/進行役」をしますので、土曜か日曜の夜(隔週)一時間、千円を予定しています。
 なお、参加してみたいなあ、と思われた方は、一段落目の「外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか」は、何を修飾することばなのか、そう考えた理由を書いて私あてに送ってください。(yachisyuso@gmail.com)

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石毛拓郎「平凡な夜に」

2020-09-11 07:21:09 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「平凡な夜に」(「飛脚」25、2020年08月15日発行)

 もう一篇、「引用のある詩」。石毛拓郎の「平凡な夜に」。

家人にからみついた孫の かすかな寝息がする
気になっていた
荒川洋司の「スターリングラード」という現代詩に
蒸し暑い光を当て 眼を通してみる
空自・入間基地方面は うるさいが
「スターリングラード」の中では
新たな世界がうまれてくる

 「ああ露語をくだけば
  長い名前は
  こきざみな香水となり 枝をたわめて
  貧しい軒に ふりまかれたであろう」

突如 頭上に大型の遠距離輸送機の
せっかちに響く 重低音が迫ってくる
今夜も いやな感じね!
眠りを妨害された 家人の声だ

 さて。
 石毛家の情景は、わかった。私が気になるのは「眠りを妨害された 家人の声だ」の「妨害された」ということばである。家人が「遠距離輸送機の音」に「妨害され」て、眠れないと苦情を言っているというのが、ここに書かれている「そのまま」のことばである。
 でもさあ。
 「妨害された」と家人が言っているわけではない。「いやな感じ」を「妨害された」と石毛は「翻訳」している。「翻訳する」(自分のことばで言い直す)というのは、ほんとうは自分のいいたいことを他人のことば(引用したことば)を借りて語りなおすことでもある。
 「今夜も いやな感じね!」には「引用符(鍵括弧)」はついていないが、これもまた「引用」なのである。
 「引用(荒川の詩)」と「引用(家人のぼやき)」が一緒に存在し、石毛がひっぱりまわされている。
 「引用」に「遠距離輸送機の重低音」をつけくわえることができるし、また「孫の かすかな寝息」もつけくわえることができる。
 いったい、石毛は何を書きたいのか。
 私は「妨害された」ということばを書きたいと思っていると読んだのだ。「妨害された」は、「妨害された」ということばになる前は「気になる」ということばで書かれている。家人の言う「いやな感じね!」は「気になって、眠れない」と言い直してみれば「気になる」と「妨害された」が同じことばだとわかるだろう。
 そして、同じことばだが、言っている人が違うという微妙なことが起きていることもわかるはずだ。だからこそ、私は最初に「妨害された」は「家人のことばではない」と指摘したのだ。入り乱れているのだ。さらに深読みすれば、孫も荒川洋司も「妨害された」と思っているかもしれない。みんなそれぞれ独自の世界を生きているのに輸送機の重低音に時分の世界を「妨害された」と感じているだろう。
 こういうことを書くとうるさくなる。そして、私がいまつかった「うるさい」ということばも、石毛の詩の五行目に書かれている。「妨害された」を言い直せば「いやな感じ」というよりも「うるさい」の方がもっと「リアル」かもしれない。
 「かすかな」ということばを書いた瞬間から「うるさい」はひそかに予感されていて、それが「いやな感じ」にかわり「妨害された」と明確になる。どこまで意識化されているかわからないが、そういう「ことばの運動/ことばの肉体の動き」がこの詩にある。
 こういう「交錯」は「かすかな」寝息の「かすかな」と荒川の詩の「小刻みな香水」の「こきざみ」の重なりにも見られる。孫の寝息のこころを引きつける「かすかな感じ」と荒川の詩の中にある「かすかな動き(小刻みな香水)」が輸送機の重低音によって台無しにされ(といっても、孫は目を覚ますわけではないし、荒川のことばが違ったものになるわけではない)、それが「うるさい」「いやな感じ」「妨害された」をさらに明確にする働きをしている。

 あ、こんなことを書けばますます「うるさく」なり、石毛の詩(ことばの運動)」を「妨害する」だけかもしれないが。
 でも、書き始めたらやめられない。
 でも、もう書いてしまったとも言えるから、やめてしまおうか。
 詩の後半は、こうである。

いつかの夜 眠気を裂いて
擦過していった戦闘爆撃機が
影の声を 黙らせた
沖縄島嶼の上空で トラブル発生!
入間基地を飛び立っていった
練習機の不時着事故
ああタイミングがよすぎて 笑えない

今夜 どうして現代詩を読むのかい?派の
やれ 詩句の構成がよいだの
やれ 悪いだの
やれ 素敵だの
今夜も いやな感じね!

 「すでに
  孤独を使い切る
  籠の底の
  野菜のとんがりのように」

スターリングラード駅近くの大地に
今 爆撃機は飛んでいないが
かれの起死回生 復活待望の声が
やたらと うるさい!

 この後半で読むべきは「影の声」と「復活待望の声」の関係だろう。その中間にはさまった「黙らせた」と「今夜も いやな感じね!」の関係だろう。いったい何を批判しているのか、黙らせようとしたのか。「黙らせる」には「妨害する」という「意味」もあるから、なかなか複雑である。「戦闘機(の爆音)」か「戦闘機批判」か、「今夜 どうしても現代詩を読むのかい」や、さまざまな愛憎のからむ「現代詩批評」か。
 どう読んでもいい。私は、どこまでもどこまでも「深読み」して、わけのわからな細部の「連絡網」を入り込んで行くことを好むのだが、これやると前半に書いたこと以上に長くなる。どうしても、前半へも引き返して、もう一度ことばを「根っこ」から引き抜いてみたくなるからね。
 だからそれはやめて。
 最後の「やたらと うるさい!」の「うるさい」が五行目に出てきたことだけは忘れないでほしい、と書いておく。
 きのう読んだ愛啓浩一の詩が「みんなが考えたのだろう」といううさんくさい思考で終わったのに対し(愛啓は他人になりきれず、かといって自己を何がなんでも主張するわけでもなく終わったのに対し)、石毛は「うるさい」と全部を否定することで「自己」に帰る。
 何もなかったことにするというと変だが、いつでも、零から出発できる地点を確立する。「引用」して「引用」に流される(引用に棹さして、というかもしれないが)。その果てに「他人」になるのではなく、「引用」を通過して「自己にもどる」。私とは何なのかを問いつづけて、素裸にもどる。

 石毛は「かたすみの身体への想像力」という「批評」も書いている。石毛の批評の特徴は、批評対象に触れながら、先人の思想を「纏う」のではなく、知らず知らずに着込んでしまった自分の「衣裳」を脱ぎ捨て、裸になるところにある。この裸というのは、若者ならともかく、七十近い(超えている?)男の場合は、みっともないものである。でも、私は「流行の衣裳」で勃起しない性器を隠している批評よりも、私はこんな性交をしてきたとあけすけに語る石毛の素裸のあり方に親近感を覚える。だれのことばとどう交わり、どう感じてきたか隠すところがない肉体を美しいと思う。






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