詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

2020-09-27 16:54:18 | その他(音楽、小説etc)
オンライン講座「村上春樹を読む」(2)

 村上春樹の「海辺のカフカ」の「第一章」の書き出しの読み方。前回は、

 家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。

 父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。

 というところまで読んだ。(そこまで紹介した。)
 そのとき「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」はなぜ現在形なのかということを少し書いた。過去形でも「意味」はかわらない。しかし、村上春樹は現在形で書く。この現在形は、次のように引き継がれていく。

 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。

 「その写真も引き出しの奥に入っていた。」といったんは過去形がつかわれるが、それからあとは一貫して現在形である。
 現在形をつかうのは、ひとつには「写真」に映っている「事実」は時間とは関係がない、時間の経過によって「事実」が変化しないからである。「僕と姉」は海岸にいる、笑っている、は変わらない。十年後、写真のなかの「僕と姉」が「山にいる、けんかしている」には変わらない。こういうことは、外国語でもおなじである。「事実」は現在形で書くことができる。たとえば、
2012年12月26日、安倍内閣が発足する/発足した 
2020年9月16日、安倍内閣が総辞職する/総辞職した
 この二つの表現は、ともに許容される。日本語の場合、「動詞」を「名詞」に変化させた上で「安倍内閣が発足」「安倍内閣が総辞職」と書くことができる。(外国語でもできると思う。)どちらを採用するかは、書く人の「主観(好み)」である。「認識の仕方」である。こういうことは、学術的な歴史書でも新聞などの報道でも、小説でもおなじである。
 そして、小説の場合は、「主観」であることが、現在形で強調され、読者を「主観(主人公の思い)」に近づけることになる。「主観」はいつでも「現在形」なのだ。過去を思い出すときも、そのときの感情は「いま」なのだ。「いま」こころが動いている。それが現在形をつかう理由なのだ。
 「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」も「戻す」ということを強く意識しているから現在形なのだ。

僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑って「いた」。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になって「いた」。

 と書くことも可能なのだが、「笑っている」「影になっている」という方が、いま、写真を「見ている」という臨場感がでる。僕が「動いている」という感じが強くなる。そして、それは読者にもまた写真を見ているという錯覚を引き起こす。
 この錯覚が、「笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」という一種の異様な印象を受け入れさせ、さらに「その顔には二重の意味がこめられている。」という思考の世界へと読者を誘い込む。
 それにつづく描写は、「客観的描写」ではない。「僕と姉」が海岸にいるは、誰が見てもおなじ。他人が見れば「山にいる」に変わるわけではない。しかし、「二重の意味」は「僕」が考えたことであって、ほかのひとは違うことを考えるかもしれない。
 外国人を相手に、この部分を読んだとき、まず、「何が書いてあるのかわからない」という反応があった。「光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。」ということばの羅列。そのことばの「意味」は辞書で引けばわかるが、なぜ、ここに、そういうことばが次々に出てくるのかわからない。
 それは、わからなくて、あたりまえ。「客観的事実」ではないからだ。あくまで「僕」が考えたことであって、「僕」の「主観」だからである。「主観」が他人にわかるまでには時間がかかる。ある人が笑っているにしろ、泣いているにしろ、それは楽しいから、悲しいからとは限らない。絶望して笑うこともあれば、うれしくて泣くこともある。「主観」は、ほかのことがら(事実)とつきあわせないと、正しくは把握できない。つまり、突然「主観」が出てきたら、それはわからなくてあたりまえであり、それは小説を読んでいけば少しずつわかることなのだ。
 この三段落目でいちばん「説明」がむずかしいのは「おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」の「おかげで」である。「そのために」という客観的な書き方ではない。「そのせいで」ということばでもない。「おかげ」はなんらかの「利益」につながる。「僕」にとっての「利益」とは何か。
 「分断されたみたいになっている」から、それからあとのことを考えることができたのだ。もし姉の顔も僕の顔と同じように正面を向いていたら、「僕」の考えは、小説に書かれているようには動かなかったのだ。考える力をくれた。だから「おかげ」という表現がつかわれていることになる。

 高校国語に「論理国語」が導入されることについて、文学嫌い(?)の人がよかったよかった、主人公の感情について考えるのはいやだったというようなことを体験として語っている文章を読んだが、それは文学を論理的に読む習慣が、その人になかったというだけである。「論理国語」などという分野をつくらなくても「論理」は存在している。小説の中にもきちんと書かれている。どう読むかだけである。
 たとえば、外国人は、きょうの文章では「てらいもなく」「みっともない」「ぶかぶか」が、わかりにくい、と言う。辞書を引いたが納得できない、という。
 私は、こう説明する。「わかりにくいことばは、必ずもう一度ほかのことばで言い直されている。それを探してみよう。」
 私が差し出すヒントは、
 「僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ているけれど、姉は?」
 「姉は横を向いている/カメラをまっすぐに見ていない」
 「人とあったとき、まっすぐに見ない、横を向くのは、どんなときですか?」
 「なんとなく、見つめられたくないときとか」
 「そういう気持ちが、ない、だからまっすぐに見ている。僕と姉とは、気持ちが違っているということを強調しているのだと思います。」
 村上の「てらいもなく」という表現が正しいかどうかは少し脇においておくが、村上はことばの意味を特定できるように「論理的」に書いている。この「論理」を発見させることができるか、発見できるかが、「国語(ことば)教育」のおもしろさだと思うが、文学嫌いのひとは、そういう教育を理解できなかった、あるいはそういう「訓練」をしてこなかったというだけだろう。そういう人が「論理国語」を学んだとしても、私には、結果はおなじに思える。「論理」を見つけ出していくのは、そのことばをつかっている人間だからである。
 もうひとつ、「みっともない」「ぶかぶか」はどうか。これも姉との対比で書かれている。「姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て」いる。それは「ぶかぶか」ではない。きっと身体にぴったりとあっている。似合っている。見栄えがする。その様子が見えるように「赤い花柄のワンピース」と具体的に描写している。対比すると、見栄えがしない、かっこ悪い、を「ぶかぶか」で言い直していることがわかる。「ぶかぶか」は否定的な意味合いでつかわれていることがわかる。
 とっても「論理的」でしょ? 

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既視感?

2020-09-27 10:47:17 | 自民党憲法改正草案を読む
既視感?
   自民党憲法改正草案を読む/番外399(情報の読み方)

 2020年09月27日の読売新聞(西部版・14版)の1面。「地球を読む」という寄稿がある。きょうは御厨貴。寄稿なので、読売新聞の主張そのものではないが、逆に御厨がどんなふうにして読売新聞といっしょになって「安倍よいしょ」をやっているかがわかる。菅内閣発足について書いたものだが、「菅よいしょ」ではなく「安倍よいしょ」になっている。だから、とても奇妙な文章になっている。
 書き出し。

 安倍政権は終幕を迎え、菅政権が登場したが、既視感が迫ってくる。かつての首相交代にはなかった。

 これは、どういう意味なのか。「既視感」とは、すでに見たことがある、どこかで見たはずだ、であるはずだ。「かつての首相交代にはなかった」なら、「既視感」とは相いれないだろう。
 御厨は、これを言い直して、「これまで長期政権から交代した際は、若返りや政権奪還など、ガラリと変わる印象が強かった」が、菅の場合は違う。菅は……。

菅の自民党総裁選立候補演説は、安倍継承を繰り返し、官房長官としての記者会見と二重写しに見えた。

 「既視感」は「二重写し」と言い直されている。たしかに、これは見たことがあるは「二重写し」であり「既視感」と言い直すことはできる。だが、これでは「首相交代」についての「既視感/二重写し」ではない。
 なんにも変わらない。
 これでは「交代」の意味がない。「既視感」の意味がない。
 たとえば、佐藤栄作から田中角栄への首相交代。田中角栄は義務教育しか受けていない「苦労人」「たたき上げ」の政治家である。その角栄と菅が「苦労人」「たたき上げ」というキーワードで「二重写し」になり、「既視感」をもって迫ってくるというのならわかるが、御厨は、私が想像する「既視感/二重写し」とはまったく違う意味で「既視感」ということばをつかい、それをキーワードにして、「安倍よいしょ」をはじめる。
 菅は「安倍のコピー」であるからそこに「既視感」がある。そして「既視感」は、こんな具合に言い直されていく。(文章が重複するが、わかりやすくするために重複させた形で引用する。)

 菅の自民党総裁選立候補演説は、安倍継承を繰り返し、官房長官としての記者会見と二重写しに見えた。安倍政権の「ブラッシュ・アップ版」の登場が自民党の大勢の合意であり、国民の納得感もそこにある。

 「既視感」は「合意」であり、「納得」である、と。
 でも、そうなのか。「既視感」は「合意」や「納得」か。「期待」や「不安」に「既視感」はあるだろうが、「合意/納得」は「期待/不安」とは別のものだろう。「合意/納得」は「妥協」とはか「諦観(あきらめ)」と相性がいいのではないか。つまり、「失望」と。
 そういうことが念頭にある野かどうか判断できないが、御厨は、安倍を評価して、こう書いている。

 「アベノミクス」や「地方創生」、「働き方改革」など、次から次にキャッチコピーをアピールし、「やってる感」を演出した。

 「やってる感」の演出は、それが「やってる感」だけであって、実際は何の実りもないという批判でつかわれることが多いと思うが、御厨は逆である。「やってる感」さえ演出できれば、国民は「納得」すると言っているのである。
 「アベノミクス」や「地方創生」、「働き方改革」は「キャッチコピー」にすぎず、何の実りももたらさなかった。貧富の格差が広がり、国民のないだにとりかえしのつかない分断を生み出した。安倍自身が「あんなひとたち」と国民を分断する発言をした。「地方創生」も、いったいどんな「創生」があったか。過疎地はますます過疎化している。私の古里は、もう「限界集落」を通り越して消滅していくのを受け入れるしかない。「働き方改革」は低賃金労働者を生み出しただけである。
 御厨の、この寄稿には「自民政権の手法 明確化」という見出しがついているが、キャッチフレーズで「やってる感」を演出し、何の実りをもたらさない政治がこれからもつづくということは、たしかに「明確化」されたのだろう。
 「失望」の「既視感」。
 そういう意味で「既視感」を御厨がつかっているのなら、まだ「納得」できるが、安倍の政策のまま何も変わらないことが明確になった、だから「安心」。「既視感」は「安心」という意味でつかっているのなら、いったい「首相交代」になんの意味があったのだろうか。

「安倍よいしょ」は文章の後半(2面)では、とてもおぞましい形で転換される。(2面で書かれていることがらは、「菅内閣」とは関係がない。安倍の政治がどんなふうに行われてきたか、どう評価されたかという総括である。見出しは

「やってる感」若者の黙認

 若者は、安倍の「やってる感」をそのまま受け入れている。納得している。だから、これでいいのだ、と主張している。「黙認」は批判しない、という意味である。
 その「やってる感」が行き詰まったとき、安倍は、どうしたか。つまり政策に問題が発生したとき、安倍はどうしたか。それを御厨はどうとらえたか。

 スキャンダルや問題が生じても、野党やメディアに言わせるだけ言わせながら勝機をうかがう。選挙の勝利を国民の「お墨付き」と位置づけ、問題のすべてをご破算にする。

 「選挙の勝利」で「問題のすべてをご破算にする」。何もなかったことにする。これは問題の解決ではなく、問題の「隠蔽」にすぎない。
 「選挙の勝利」がすべてであるという「選挙至上主義」は、どういうことをもたらしたか。御厨は、ここだけは非常に正確に分析している。

 若手議員にはイデオロギーに深入りさせず、ひたすら選挙で勝ち抜くよう求めた。それでもこの8年間で安倍のイデオロギー的基盤に、正面から反対する者はいなくなった。その意味で自民党の意識改革には成功したと言えるだろう。

 2012年の政権奪還以来、全国規模の国政選で無敗を続け、議員にとって“恩人”と化した安倍に、誰も反対できなくなった。

 御厨のつかっている「それでも」の意味は、私にはよくわからないが、「逆接」ではなく「それで」という「順接」の意味で私は受け止めた。
 安倍批判をしたら「自民党推薦」はもらえない。議員の職を失うかもしれない。「当選」しつづけるためには、安倍を批判しない。そうすれば、「当選させてもらえる」。安倍批判をすれば、当選させてもらえない。落選させられる。
 この実例が、河井案里事件である。安倍批判をした議員は落選させられ、河井が当選した。しかも資金を1億5000万円も提供された。安倍を支援すれば金銭面でも好待遇を受けるのである。
 この安倍を支持するか批判するかによって「当落」が決定される、待遇が変わるという「システム」は、そのまま若者に影響していくのである。
 安倍批判をしたら、会社からにらまれる。体制批判をしたら会社から冷遇される。実際、アベノミクスや働き方改革の導入で、子会社がつくられ、非正規社員が生み出され、おなじ仕事をしているのに賃金格差が生まれている。この「格差」を「脅し」のようにして、「言うことを聞かないなら(批判をするなら)、もう雇用を継続しない」と迫る。こういうことを目撃した人も多いだろう。体験した人も多いだろう。
 安倍政権への若者の支持率が高いのは、「恐怖心」のためである。だれでもいまよりも厳しい境遇を生きていくという苦労はしたくない。
 そして、この「恐怖心」は菅政権下では、もっと拡大するだろう。菅は、なんといっても加計問題で前川を追放した人間である。風俗店通いを読売新聞に「リーク」し、前川を人格攻撃した。前川は風俗店に出入りはしていたが、批判されるようなことは何もしていない。そこで働いている女性を支援したのに、そのことには触れずに、風俗店に出入りすることが問題であると批判した。同じようなことが、官僚だけを相手にしてではなく、きっと一般国民を標的にして行われるだろう。国民を圧迫するために、さまざまな方法がとられるだろう。
 菅の打ち出している「縦割り110番」(通報)や「デジタル庁」(情報の集中把握)も、きっと国民を拘束するための道具としてつかわれる。

 しかし、まあ、この御厨というのは、多くの読売新聞の記者と同じように「正直」である。しめくくりに、こんなことを書いている。

 ただ若い人が、政治によって何かを変えたいと思い始めたら、菅政権は“やってる感”の政治から、“やってる”政治への転換を迫られることになろう。

 菅がやるのは「やっている感」の政治にすぎない。若者が「実効」を求められたらつづけられない。
 でも、これはもしかすると、「だからもう一度安倍にやってもらいたい」と言いたいために書いているのかもしれない。






*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



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アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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