オンライン講座「村上春樹を読む」(2)
村上春樹の「海辺のカフカ」の「第一章」の書き出しの読み方。前回は、
というところまで読んだ。(そこまで紹介した。)
そのとき「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」はなぜ現在形なのかということを少し書いた。過去形でも「意味」はかわらない。しかし、村上春樹は現在形で書く。この現在形は、次のように引き継がれていく。
「その写真も引き出しの奥に入っていた。」といったんは過去形がつかわれるが、それからあとは一貫して現在形である。
現在形をつかうのは、ひとつには「写真」に映っている「事実」は時間とは関係がない、時間の経過によって「事実」が変化しないからである。「僕と姉」は海岸にいる、笑っている、は変わらない。十年後、写真のなかの「僕と姉」が「山にいる、けんかしている」には変わらない。こういうことは、外国語でもおなじである。「事実」は現在形で書くことができる。たとえば、
2012年12月26日、安倍内閣が発足する/発足した
2020年9月16日、安倍内閣が総辞職する/総辞職した
この二つの表現は、ともに許容される。日本語の場合、「動詞」を「名詞」に変化させた上で「安倍内閣が発足」「安倍内閣が総辞職」と書くことができる。(外国語でもできると思う。)どちらを採用するかは、書く人の「主観(好み)」である。「認識の仕方」である。こういうことは、学術的な歴史書でも新聞などの報道でも、小説でもおなじである。
そして、小説の場合は、「主観」であることが、現在形で強調され、読者を「主観(主人公の思い)」に近づけることになる。「主観」はいつでも「現在形」なのだ。過去を思い出すときも、そのときの感情は「いま」なのだ。「いま」こころが動いている。それが現在形をつかう理由なのだ。
「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」も「戻す」ということを強く意識しているから現在形なのだ。
僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑って「いた」。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になって「いた」。
と書くことも可能なのだが、「笑っている」「影になっている」という方が、いま、写真を「見ている」という臨場感がでる。僕が「動いている」という感じが強くなる。そして、それは読者にもまた写真を見ているという錯覚を引き起こす。
この錯覚が、「笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」という一種の異様な印象を受け入れさせ、さらに「その顔には二重の意味がこめられている。」という思考の世界へと読者を誘い込む。
それにつづく描写は、「客観的描写」ではない。「僕と姉」が海岸にいるは、誰が見てもおなじ。他人が見れば「山にいる」に変わるわけではない。しかし、「二重の意味」は「僕」が考えたことであって、ほかのひとは違うことを考えるかもしれない。
外国人を相手に、この部分を読んだとき、まず、「何が書いてあるのかわからない」という反応があった。「光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。」ということばの羅列。そのことばの「意味」は辞書で引けばわかるが、なぜ、ここに、そういうことばが次々に出てくるのかわからない。
それは、わからなくて、あたりまえ。「客観的事実」ではないからだ。あくまで「僕」が考えたことであって、「僕」の「主観」だからである。「主観」が他人にわかるまでには時間がかかる。ある人が笑っているにしろ、泣いているにしろ、それは楽しいから、悲しいからとは限らない。絶望して笑うこともあれば、うれしくて泣くこともある。「主観」は、ほかのことがら(事実)とつきあわせないと、正しくは把握できない。つまり、突然「主観」が出てきたら、それはわからなくてあたりまえであり、それは小説を読んでいけば少しずつわかることなのだ。
この三段落目でいちばん「説明」がむずかしいのは「おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」の「おかげで」である。「そのために」という客観的な書き方ではない。「そのせいで」ということばでもない。「おかげ」はなんらかの「利益」につながる。「僕」にとっての「利益」とは何か。
「分断されたみたいになっている」から、それからあとのことを考えることができたのだ。もし姉の顔も僕の顔と同じように正面を向いていたら、「僕」の考えは、小説に書かれているようには動かなかったのだ。考える力をくれた。だから「おかげ」という表現がつかわれていることになる。
高校国語に「論理国語」が導入されることについて、文学嫌い(?)の人がよかったよかった、主人公の感情について考えるのはいやだったというようなことを体験として語っている文章を読んだが、それは文学を論理的に読む習慣が、その人になかったというだけである。「論理国語」などという分野をつくらなくても「論理」は存在している。小説の中にもきちんと書かれている。どう読むかだけである。
たとえば、外国人は、きょうの文章では「てらいもなく」「みっともない」「ぶかぶか」が、わかりにくい、と言う。辞書を引いたが納得できない、という。
私は、こう説明する。「わかりにくいことばは、必ずもう一度ほかのことばで言い直されている。それを探してみよう。」
私が差し出すヒントは、
「僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ているけれど、姉は?」
「姉は横を向いている/カメラをまっすぐに見ていない」
「人とあったとき、まっすぐに見ない、横を向くのは、どんなときですか?」
「なんとなく、見つめられたくないときとか」
「そういう気持ちが、ない、だからまっすぐに見ている。僕と姉とは、気持ちが違っているということを強調しているのだと思います。」
村上の「てらいもなく」という表現が正しいかどうかは少し脇においておくが、村上はことばの意味を特定できるように「論理的」に書いている。この「論理」を発見させることができるか、発見できるかが、「国語(ことば)教育」のおもしろさだと思うが、文学嫌いのひとは、そういう教育を理解できなかった、あるいはそういう「訓練」をしてこなかったというだけだろう。そういう人が「論理国語」を学んだとしても、私には、結果はおなじに思える。「論理」を見つけ出していくのは、そのことばをつかっている人間だからである。
もうひとつ、「みっともない」「ぶかぶか」はどうか。これも姉との対比で書かれている。「姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て」いる。それは「ぶかぶか」ではない。きっと身体にぴったりとあっている。似合っている。見栄えがする。その様子が見えるように「赤い花柄のワンピース」と具体的に描写している。対比すると、見栄えがしない、かっこ悪い、を「ぶかぶか」で言い直していることがわかる。「ぶかぶか」は否定的な意味合いでつかわれていることがわかる。
とっても「論理的」でしょ?
こういうどこまでもどこまでも「論理的」に小説を解体していくという読み方、一緒にしてみたいと思うひとはいませんか?
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村上春樹の「海辺のカフカ」の「第一章」の書き出しの読み方。前回は、
家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。
というところまで読んだ。(そこまで紹介した。)
そのとき「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」はなぜ現在形なのかということを少し書いた。過去形でも「意味」はかわらない。しかし、村上春樹は現在形で書く。この現在形は、次のように引き継がれていく。
ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。
「その写真も引き出しの奥に入っていた。」といったんは過去形がつかわれるが、それからあとは一貫して現在形である。
現在形をつかうのは、ひとつには「写真」に映っている「事実」は時間とは関係がない、時間の経過によって「事実」が変化しないからである。「僕と姉」は海岸にいる、笑っている、は変わらない。十年後、写真のなかの「僕と姉」が「山にいる、けんかしている」には変わらない。こういうことは、外国語でもおなじである。「事実」は現在形で書くことができる。たとえば、
2012年12月26日、安倍内閣が発足する/発足した
2020年9月16日、安倍内閣が総辞職する/総辞職した
この二つの表現は、ともに許容される。日本語の場合、「動詞」を「名詞」に変化させた上で「安倍内閣が発足」「安倍内閣が総辞職」と書くことができる。(外国語でもできると思う。)どちらを採用するかは、書く人の「主観(好み)」である。「認識の仕方」である。こういうことは、学術的な歴史書でも新聞などの報道でも、小説でもおなじである。
そして、小説の場合は、「主観」であることが、現在形で強調され、読者を「主観(主人公の思い)」に近づけることになる。「主観」はいつでも「現在形」なのだ。過去を思い出すときも、そのときの感情は「いま」なのだ。「いま」こころが動いている。それが現在形をつかう理由なのだ。
「あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。」も「戻す」ということを強く意識しているから現在形なのだ。
僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑って「いた」。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になって「いた」。
と書くことも可能なのだが、「笑っている」「影になっている」という方が、いま、写真を「見ている」という臨場感がでる。僕が「動いている」という感じが強くなる。そして、それは読者にもまた写真を見ているという錯覚を引き起こす。
この錯覚が、「笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」という一種の異様な印象を受け入れさせ、さらに「その顔には二重の意味がこめられている。」という思考の世界へと読者を誘い込む。
それにつづく描写は、「客観的描写」ではない。「僕と姉」が海岸にいるは、誰が見てもおなじ。他人が見れば「山にいる」に変わるわけではない。しかし、「二重の意味」は「僕」が考えたことであって、ほかのひとは違うことを考えるかもしれない。
外国人を相手に、この部分を読んだとき、まず、「何が書いてあるのかわからない」という反応があった。「光と影。希望と絶望。笑いと悲しみ。信頼と孤独。」ということばの羅列。そのことばの「意味」は辞書で引けばわかるが、なぜ、ここに、そういうことばが次々に出てくるのかわからない。
それは、わからなくて、あたりまえ。「客観的事実」ではないからだ。あくまで「僕」が考えたことであって、「僕」の「主観」だからである。「主観」が他人にわかるまでには時間がかかる。ある人が笑っているにしろ、泣いているにしろ、それは楽しいから、悲しいからとは限らない。絶望して笑うこともあれば、うれしくて泣くこともある。「主観」は、ほかのことがら(事実)とつきあわせないと、正しくは把握できない。つまり、突然「主観」が出てきたら、それはわからなくてあたりまえであり、それは小説を読んでいけば少しずつわかることなのだ。
この三段落目でいちばん「説明」がむずかしいのは「おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。」の「おかげで」である。「そのために」という客観的な書き方ではない。「そのせいで」ということばでもない。「おかげ」はなんらかの「利益」につながる。「僕」にとっての「利益」とは何か。
「分断されたみたいになっている」から、それからあとのことを考えることができたのだ。もし姉の顔も僕の顔と同じように正面を向いていたら、「僕」の考えは、小説に書かれているようには動かなかったのだ。考える力をくれた。だから「おかげ」という表現がつかわれていることになる。
高校国語に「論理国語」が導入されることについて、文学嫌い(?)の人がよかったよかった、主人公の感情について考えるのはいやだったというようなことを体験として語っている文章を読んだが、それは文学を論理的に読む習慣が、その人になかったというだけである。「論理国語」などという分野をつくらなくても「論理」は存在している。小説の中にもきちんと書かれている。どう読むかだけである。
たとえば、外国人は、きょうの文章では「てらいもなく」「みっともない」「ぶかぶか」が、わかりにくい、と言う。辞書を引いたが納得できない、という。
私は、こう説明する。「わかりにくいことばは、必ずもう一度ほかのことばで言い直されている。それを探してみよう。」
私が差し出すヒントは、
「僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ているけれど、姉は?」
「姉は横を向いている/カメラをまっすぐに見ていない」
「人とあったとき、まっすぐに見ない、横を向くのは、どんなときですか?」
「なんとなく、見つめられたくないときとか」
「そういう気持ちが、ない、だからまっすぐに見ている。僕と姉とは、気持ちが違っているということを強調しているのだと思います。」
村上の「てらいもなく」という表現が正しいかどうかは少し脇においておくが、村上はことばの意味を特定できるように「論理的」に書いている。この「論理」を発見させることができるか、発見できるかが、「国語(ことば)教育」のおもしろさだと思うが、文学嫌いのひとは、そういう教育を理解できなかった、あるいはそういう「訓練」をしてこなかったというだけだろう。そういう人が「論理国語」を学んだとしても、私には、結果はおなじに思える。「論理」を見つけ出していくのは、そのことばをつかっている人間だからである。
もうひとつ、「みっともない」「ぶかぶか」はどうか。これも姉との対比で書かれている。「姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て」いる。それは「ぶかぶか」ではない。きっと身体にぴったりとあっている。似合っている。見栄えがする。その様子が見えるように「赤い花柄のワンピース」と具体的に描写している。対比すると、見栄えがしない、かっこ悪い、を「ぶかぶか」で言い直していることがわかる。「ぶかぶか」は否定的な意味合いでつかわれていることがわかる。
とっても「論理的」でしょ?
こういうどこまでもどこまでも「論理的」に小説を解体していくという読み方、一緒にしてみたいと思うひとはいませんか?
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