詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤裕子「再び しびとに夢を見てはならない」

2020-09-07 17:20:15 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「再び しびとに夢を見てはならない」( 「YOCOROCO」18、2020年06月06日発行)

 佐藤裕子「再び しびとに夢を見てはならない」は何を書いているのだろうか。

       一箇所が壊れ全体が壊れる此処へ来る積もりはなかった
薄闇は肩に懐く
       廊下は折れあらぬ空所を探り当て音の澄む傾斜を閉じる
モノクロの創傷
       大角を振り嘔吐しながら痩せる剥製廃液に浸し泡立つ舌
猫は尽きた黒炎

 同じスタイルで十五連つづいている。
 「意味」はとれるかもしれないし、とれないかもしれない。そのとき「意味」とは第一義的に佐藤が書いたこととは関係がない。ただ私が「読みたい」という欲望にしたがってでっちあげるものである。
 こんな具合。
 私は「此処」へ来た。来るつもりはなかったが、来てしまった。来てみると、壊れているところが見つかる。それは一箇所(一部)だが、その欠落は全体につながる。ここには「来るつもりはなかったが、来てしまった」と「一部しか壊れていないが、そのために全体が完全ではなくなっている」が微妙に交錯している。「来る/来ない」「壊れる/壊れない」は、緊密につながっている。意識のなかで。言い換えると、意識はいつでも「接続」と「切断」を不規則に生きている。まだ何もはじまっていないが、もうすでにはじまってしまっている。終わっているとさえ言える。
 これを「薄闇は肩に懐く」と言い直す。「此処」が「薄闇」なのかもしれない。そして、その「薄闇」が「来る/来ない」「壊れる/壊れない」の「切断/接続」を見えにくくし、それでもその存在を知らせてくる。「懐く」の定義はむずかしいが、「薄闇」が「意識」に懐くのではなく、「意識」が「薄闇」に懐いていくのかもしれない。矛盾のようなものを「海闇」というあいまいなものにあずけ、それを自分だと思ってみる。そういう動きを「懐く」と定義してみる。
 「ここ」は次の行で「廊下」と言い直される。「空所」は「壊れたところ(穴)」かもしれない。「廊下」を「折れたら(曲がったら)」、いままで気がつかなかった「空所」に出会ったということか。あるいは、そこに「壊れ」があったことをなつかしいもののように思い出したということか。そこからどこへ行くわけでもない。「閉じる」。いまいる世界を様々に描写し始める。「世界(薄闇)」に「意識」を懐かせる。それは「世界」を「もの」から「意識」へ変更するということかもしれない。
 書かれることは「具体」ではあっても、あくまで「意識」としての「もの」なのだ。この「壊れ(穴)」を何によって「閉じる/ふさぐ」ことができるか。
 「壊れ(穴)」は「創傷」へと変化する。そうすることで「此処」は「肉体」になる。「自己」の「外部」として存在するものではなく、「自己の内部」になる。「創傷」は「内部/外部」の接点(接続/切断)の場である。
 次の行は何だろうか。「大角を振り嘔吐しながら痩せる」は痛ましい「肉体」の反応だ。それは「壊れ」であり、「空所(欠落)」であり、同時に「私」の客観的「肉体」ではなく、「剥製」を見て反応した主観的「肉体」である。「意識する/感じる」とは他者を内部にとりこみ、他者を生きるということでもある。「廃液」を「保存液」と言い換え、私は「標本」を思うのだ。生を欠落した存在、いのちが壊れ、形だけが残った存在。瓶にはいっている何かの剥製。それはそのまま「私の剥製」でもある。「肉体」であり「意識」である。そこに標本(剥製)となって存在しているものは、「泡立つ舌」というような苦しみを経てきたかもしれない。
 標本(剥製)を「猫」だと思ってみる。「尽きた」は「いのちが尽きた(死んだ)」であり、死にながら標本(剥製)となることで、別のいのちを生きている。「黒炎」として。この「黒炎」は「薄闇」と呼応しているだろう。
 私は学校の「理科準備室」のような「場」を想像するのである。

 もちろん私の「想像」は正しくはない。テキトウなものである。私はだいたい佐藤の書いていることを「理解」しようとはしていない。ただ、佐藤のことばを借りて、妄想がどこまで動くか、それを私のことばで追いかけてみただけである。
 しかし、こういうことが詩を読むことだろうと、私は思っている。
 ときどき書いた人の思ったことと、私のかってな思い込みが重なることがあるかもしれないが、重なるといっても「他人」なのだから一致はしない。むしろ、一致しないから、勝手に「このことばがいいなあ、これは嫌いだなあ」と思う。書いた人の「気持ち(思想?)」と合致してしまったら、すべての作品が「傑作」に見えるに違いない。「他人」は、わからない存在(自分とは完全に違う存在)だから、そのひとの「気持ち」なんかにはなれない。なってしまったら、自分ではなくなる。

 まあ、テキトウなことを思いながら、それでどうなるかといえば。
 「佐藤はことばが好きなんだなあ」ということだけが最後に印象として残る。申し訳ないが、一週間もすれば何が書いてあったかは忘れる。私が書いたことも忘れる。佐藤が詩の形をととのえて、その形の中にことばを押し込め、意味を作り出そうともがいている。それを延々とつづけられるのは、たいへんな体力だと思う。「ことばの肉体」と「佐藤の肉体」がどこかで重なって、互いを利用しながら(互いに頼りあいながら)動いている。その感じが、最後に「なつかしい」もののように思い出される。
 こんな言い方が正しいとは思わないが、百人一首とか、万葉集とか。そういうものを読んだあと、それを思い出そうとするが思い出せない。しかし、それが「五七五七七」という構造を持っていたということを思い出すようにして、佐藤は何か「形」のなかでことばを歪めながら、歪むときにだけ明らかになる「ことばの肉体のきしみ」みたいなものを伝えようとしていたな、と思い出すだろう。





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破棄された詩のための注釈19

2020-09-07 14:18:15 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈19
                        谷内修三2020年09月07日

 ひとつのありふれたコップにすぎないが、価値を与えることができるかもしれないという意識が襲ってきた。価値を意味と言い換え、重みと言い換えてみた。重みは重要性ということばといっしょにやってきた。どちらの方が陰影が大きいか、あるいは暴力的な輝きを持つことができるか。暴力的な輝きとは破壊的な美のことだろうか。新しい名前、いままで存在しなかった比喩のことかもしれない。こうしたことは精神を集中して戦ってみるだけのことがらである。

 もちろん一個のコップのままでもいいのだが、コップ以上のことばが、いつか誰かによって書かれてしまうことを思うと我慢できないのだと言った。「私ではないものの豊かさに欲望し、嫉妬してしまう」とつけくわえた。

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「継続性」という嘘(読売新聞のことばのつかい方)

2020-09-07 09:19:23 | 自民党憲法改正草案を読む
「継続性」という嘘(読売新聞のことばのつかい方)
   自民党憲法改正草案を読む/番外389(情報の読み方)

 2020年09月07日の読売新聞(西部版・14版)は1面と3面で、自民党総裁選に関する世論調査をしている。その見出し。

「次の首相」菅氏46%/経済政策「継承を」51%/本社世論調査(1面)

総裁選「圧勝」へ弾み(3面)

 どこまでも菅「よいしょ」をつづける。一般国民は「総裁選」への投票権を持っていない。いくら国民の支持が高かろうと「総裁選」には無関係である。だいたい国会議員の支持だけで有効票の過半数を超えているのということはすでに報じられている。「勝利」が決まっている人間に対し「圧勝へ弾み」と書いてもしようがないだろう。1票差であっても勝てば総裁なのだから。
 問題は「圧勝」ということばで、菅の「安倍継承路線」があたかも正しい政策であるかのように印象操作することである。3面には、こういう見出しもある。

「継続性」で菅氏支持

 「継承」を「継続性」と言い直している。だが、そういう「言い直し」をするくらいなら、何を継承・継続するのか、その点検の方が大事だろう。
 読売新聞は、3面に「簡単」に、こう書いている。

 読売新聞社の全国世論調査で、菅官房長官への支持がライバルの石破茂・元幹事長と岸田政調会長を大きく上回った背景には、コロナ禍が収束しない中、大きな政治的な変化を望まない国民が多く、「安倍継承」を掲げる菅氏に有利に働いた面がありそうだ。

 この「政治的変化」とは何を指すのか。具体的なことがさっぱりわからない。「コロナ禍が収束しない中」国民が求めるのは、まずコロナの終息だろう。ほかのことはともかくコロナを終息させてほしい。「大きな変化を望まない」は「これ以上コロナが悪化しないでほしい」であり、「すぐにコロナが終息するという大きな変化」なら、それは大歓迎で受け入れるはずだ。コロナが悪化するという「大きな変化」は困る、というだけのことだ。抽象的なことばは、具体的に言い直してみないと、その「意味」はわからない。
 でも、菅は、何をするのか。具体的に見てみよう。
 「自助・共助・公助」という理念から推測すれば、コロナは「自己責任(個人の責任)+共同責任(夜の街の人たちの責任、夜の街を管轄している自治体の責任」であり、「国は責任を果たしている」と主張している。
 国の果たした責任というのは、「GOTO」キャンペーンのことだ。キャペーンによって経済てこ入れをした。「GOTO」はこれからもつづける=継続する。それ以外は何もしない。
 ほんとうに、こういうことを国民は望んでいるか。

 「継承/継続」は何を継承/継続するかが問題だ。
 菅は、森友学園、加計学園、桜を見る会前夜祭などは「解決済み」と言っている。「解決済み」という「政策」を継続する。つまり、何もしない、と言っているにすぎない。公文書の改竄、破棄、隠蔽は継続されるのだ。
 経済はどうか。経済はアベノミクスによる成長が嘘だったことが判明している。ごまかしきれずに失速していることが判明している。それを「継続する」とはどういうことか。国民は低賃賃金で働かされ、株の保有者だけがもうかる啓作がつづき、多くの国民の暮らしがますます悪くなるということである。
 「継続/継承」は「よいこと」を継続/継承するときにつかうことばである。
 悪いことを「継続/継承」するとは言わない。
 経済が不景気ならば、「アベノミクス」にかわる新政策を打ち出さないといけない。新政策を打ち出して失敗したら菅の責任である、と言われるから新しいことを何もせず、安倍のやった通りにする。もし、経済が悪化しても、それは「アベノミクス」のせいであって、菅のせいではない、と言い逃れるつもりだろう。国民が安倍を評価したからそれを「継続/継承」しただけだ、と菅は言うだろう。「責任逃れだ、という指摘はあたりません」というつもりなのだ。
 消費税も社会保障に必要だから下げないと言っている。これも何かをするというよりは何もしないである。
 一方で、安倍がこれから「遺産」としてのこしていく「敵基地攻撃システム」を継承(つまり構築)するならアメリカからの武器の「爆買い」も継続される。
 読売新聞は、政策をひとつひとつ取り上げて、どの政策を継承すべきかと問うたわけではないだろう。病気辞任した安倍はかわいそうという「情緒」のなか、安倍はがんばったという「印象」をつくりあげたうえで、「継承/継続」ということばをつかっている。「現実」を分析した上で、「継承/継続」と言っているわけではない。

 政治とか、経済とかの問題はむずかしいが、簡単な例で言い直せば、たとえばジャイアンツが連敗し続け、最下位であるとする。そのときだれが「前監督の方針を継続/継承する」と言って新監督に就任するだろうか。「現状を打破する」ために「新監督」が登場するのである。違う方針で戦い、スランプを脱けだすために「新監督」が必要なのだ。いままでどおりを繰り返すのなら「新監督」は必要ない。

 菅と読売新聞の言う「継承/継続」は、単に安倍の「称賛」にすぎず、いまでも「安倍頼み」で動いているということなのだ。それは、裏を返せば、いつでも安倍が再復活してきて「安倍路線」を「継承/継続する」と言っているにすぎない。なにもかわらないのなら、「頭」をかえる必要などない。安倍を再復活させるために「継承/継続」ということばをつかっているのだ。
 これは逆に言えば。
 これからも何もかわらない。国民は我慢し続けることを「継承/継続」しろ、という意味なのである。すべては「国民の自己責任」という国の責任を放棄した政治がつづくということなのだ。










*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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どうしてだれも書かないのか。

2020-09-07 06:30:52 | 自民党憲法改正草案を読む
どうしてだれも書かないのか。

なぜ、みんなが一斉に菅になびいたか。
国会議員だけでなく、あらゆるマスコミが一斉にこびはじめたのは、なぜか。


思い出そう。
前川事件、読売新聞報道。
前川は、風俗店通いをでっち上げられた。
前川にやましいところはなかったから、前川は生きのびた。
他のひとはどうなのか。


ひとに知られたく秘密を抱えているのだろう。
内調が議員や新聞社幹部の秘密を握っている、と推定すればすべて説明がつくのではないか。


前川事件の時、菅がどういう行動をしたか。
菅に質問すべき一番のことがらは、管と内調との関係だろう。


私は読売新聞しか読んでいないのでわからないが、この点を取り上げたジャーナリズムはあるのか。


ひとの秘密を調べ上げ、それをもとにひとを支配することを仕事にしている人間が、権力の頂点に立っていいのか。
すでに秘密をちらつかせる、恐怖の独裁が始まっていると見るべきだ。
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