冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」(「乾河」89、2020年10月10日発行)
詩にはいつでも、わからないものがある。
冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」。
この書き出し。三つの「の」のつながり。これが、まず、わからない。この「わからない」は「気づく」によって、さらにわからないものになる。いったい冨岡は何に気づいたのか。三つの「の」のつながりに気づいたのか、それとも「耳を澄ませている自分」に気づいたのか。
ここには矛盾とはいわないが、何か、「ひとつ」ではないものが存在し、それが動いている。「の」でつないだような、一種の「強引さ」のようなものがある。
このことが、思いがけない形で展開していく。
「耳を塞がれている静けさの中で」というのは、「静けさが耳を塞いでいる」を受け身の形で表現したものだろう。そこには書き出しの「私」が「私」を隠した形で強調されている。
「私」は隠されるのだが、微妙に、違った形であらわれもする。
「その水」の「その」は一連目の「水」を引き継ぎ、ここに書かれていることが「気づき」であることを教えてくれる。そして、このときの「主語」は「私」なのである。
その「気づき」は「存在」への気づきなのか、「論理」への気づきなのか。「存在」への気づきとして読むには、「その」が重たい。「存在」によって生まれてくる「論理」を明らかにするために、「その」という「意識」が動いているのだろう。そういうことばの動かし方で「私」を隠しながら、「私」をあらわす。
三連目は起承転結の「転」か。
「私」が隠れているので、別の誰かが登場してくる。「声」。「その声」。ここにつかわれている「その」は直前の「夢の中で……」と言った声という意味だが、「その水」の「その」に重なる。つまり「水の声」ということができる。水は流れ続け、自分の背中に追いつく。それは水の体験である。自分の体験をもとにして、「私(冨岡)」に問いかけ、同時に「私(冨岡)」に起きていることについて、断定している。
これは、「私」の「気づき」なのか。それとも「事実」なのか。別の体験が、いま起きていることに重なるようにして、ふいに、どこかからあらわれたのか。
そのあとである。
これは、「転」をもう一回突き破って別世界へ行ってしまうような、「結」とは違った運動である。
ここに、私は、非常にびっくりした。瞬間的な「わからなさ」に「えっ」と声を上げてしまう。
こういう「反撃」(追いつき、背中を見るのはいいけれど、追い越して顔を見たのか)は、「論理」を超えている。「直感」の「絶対性」を持っている。
たぶん三連目までは、男の詩人でも書ける。同じように書いてしまうだろう。三連目の「声」を私は「男の声」と思ったが、それはそういう理由による。「私(冨岡/女性)」のなかにある「異質(男性)」なもの、と思った。三連目までは「論理」が動いているのである。「異質」を発見し、「異質」と向き合う自分に気づく、「異質」と対話する。
その「論理」に乗っかってはいるのだが、同時に「論理」を叩き壊しているのが、
である。
「論理」のままなら、「それで その背中はどんなふうに見えましたか」だろう。しかし、冨岡は、そういう「論理」を拒絶して、
と笑い飛ばすのである。こういう絶対的拒絶は、「禅問答」のような感じもするが、ようするに、その場に立ち会ったものでないかぎりは理解できない「わからなさ」である。
言い直すと。
「禅問答」の「わからなさ(わかりにくさ)」は、それが書かれたものだからである。こういう「問答」があった、という形で残されているからである。問うた人も、答えた人も、「私」ではない。「私」はそこにいない。他者と他者がぶつかりあい、その一瞬にあらわれてくる「時間」というものが、「肉体」を消去した形で書かれている。「肉体」で、その場に存在していなかぎり、「禅問答」は単なるテキストであり、「存在」とは関係がない。「禅問答」(考案、といのうだっけ?)は「実践」なのである。「実践」として自己の「肉体」を存在させること。そこには、絶対的「不透明さ」が不可欠なのだ。「不透明」であることによって、「現在」を叩き壊し、瞬間的に「絶対的透明」の存在(「道」の存在?)を出現させる。その出現は、その「場」に「肉体」が存在しいかぎりつかみとれない。
こういうことを、女は「意地悪」としてやってのける。これは、「肯定的」な意味で書いているのだが、こういうことは男にはなかなかできない。それをしかし、冨岡は、書き出しの三つの「の」で準備しながら、男にもわかるようにことばを展開して見せてくれている。
五連目にも「その声」という形で、「論理」を残してくれている。
そして、最終連。
「空(洞)」のなかで「風景(=世界/現実)」の「一部になる」と冨岡は書いているが、私という「空」のなかに「世界」があると主張しているように、私には聞こえる。私は、そう「誤読」する。
私の無(空)の世界、空の世界の私、世界の空の私。
書き出しの三つの「の」は、そういうところとつながっている。つまり「水(=の音)」を契機に、ことばの運動が展開している、と私は読んだのだ。
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詩にはいつでも、わからないものがある。
冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」。
私の体内の水の音に耳を澄ませている自分に気づくことがある
この書き出し。三つの「の」のつながり。これが、まず、わからない。この「わからない」は「気づく」によって、さらにわからないものになる。いったい冨岡は何に気づいたのか。三つの「の」のつながりに気づいたのか、それとも「耳を澄ませている自分」に気づいたのか。
ここには矛盾とはいわないが、何か、「ひとつ」ではないものが存在し、それが動いている。「の」でつないだような、一種の「強引さ」のようなものがある。
このことが、思いがけない形で展開していく。
私の体内の水の音に耳を澄ませている自分に気づくことがある
私の中に水が流れている
うつけたような
耳を塞がれている静けさの中で
その水はかすかに流れている
「夢の中で 自分の背を見たことがあるか」
とその声は問うた
「その背に追いついたんだ」
「それで ご自分の顔を見はったの?」
その声の主は消えていた
でも誰だったのか
「耳を塞がれている静けさの中で」というのは、「静けさが耳を塞いでいる」を受け身の形で表現したものだろう。そこには書き出しの「私」が「私」を隠した形で強調されている。
「私」は隠されるのだが、微妙に、違った形であらわれもする。
「その水」の「その」は一連目の「水」を引き継ぎ、ここに書かれていることが「気づき」であることを教えてくれる。そして、このときの「主語」は「私」なのである。
その「気づき」は「存在」への気づきなのか、「論理」への気づきなのか。「存在」への気づきとして読むには、「その」が重たい。「存在」によって生まれてくる「論理」を明らかにするために、「その」という「意識」が動いているのだろう。そういうことばの動かし方で「私」を隠しながら、「私」をあらわす。
三連目は起承転結の「転」か。
「私」が隠れているので、別の誰かが登場してくる。「声」。「その声」。ここにつかわれている「その」は直前の「夢の中で……」と言った声という意味だが、「その水」の「その」に重なる。つまり「水の声」ということができる。水は流れ続け、自分の背中に追いつく。それは水の体験である。自分の体験をもとにして、「私(冨岡)」に問いかけ、同時に「私(冨岡)」に起きていることについて、断定している。
これは、「私」の「気づき」なのか。それとも「事実」なのか。別の体験が、いま起きていることに重なるようにして、ふいに、どこかからあらわれたのか。
そのあとである。
「それで ご自分の顔を見はったの?」
これは、「転」をもう一回突き破って別世界へ行ってしまうような、「結」とは違った運動である。
ここに、私は、非常にびっくりした。瞬間的な「わからなさ」に「えっ」と声を上げてしまう。
こういう「反撃」(追いつき、背中を見るのはいいけれど、追い越して顔を見たのか)は、「論理」を超えている。「直感」の「絶対性」を持っている。
たぶん三連目までは、男の詩人でも書ける。同じように書いてしまうだろう。三連目の「声」を私は「男の声」と思ったが、それはそういう理由による。「私(冨岡/女性)」のなかにある「異質(男性)」なもの、と思った。三連目までは「論理」が動いているのである。「異質」を発見し、「異質」と向き合う自分に気づく、「異質」と対話する。
その「論理」に乗っかってはいるのだが、同時に「論理」を叩き壊しているのが、
「それで ご自分の顔を見はったの?」
である。
「論理」のままなら、「それで その背中はどんなふうに見えましたか」だろう。しかし、冨岡は、そういう「論理」を拒絶して、
「それで ご自分の顔を見はったの?」
と笑い飛ばすのである。こういう絶対的拒絶は、「禅問答」のような感じもするが、ようするに、その場に立ち会ったものでないかぎりは理解できない「わからなさ」である。
言い直すと。
「禅問答」の「わからなさ(わかりにくさ)」は、それが書かれたものだからである。こういう「問答」があった、という形で残されているからである。問うた人も、答えた人も、「私」ではない。「私」はそこにいない。他者と他者がぶつかりあい、その一瞬にあらわれてくる「時間」というものが、「肉体」を消去した形で書かれている。「肉体」で、その場に存在していなかぎり、「禅問答」は単なるテキストであり、「存在」とは関係がない。「禅問答」(考案、といのうだっけ?)は「実践」なのである。「実践」として自己の「肉体」を存在させること。そこには、絶対的「不透明さ」が不可欠なのだ。「不透明」であることによって、「現在」を叩き壊し、瞬間的に「絶対的透明」の存在(「道」の存在?)を出現させる。その出現は、その「場」に「肉体」が存在しいかぎりつかみとれない。
こういうことを、女は「意地悪」としてやってのける。これは、「肯定的」な意味で書いているのだが、こういうことは男にはなかなかできない。それをしかし、冨岡は、書き出しの三つの「の」で準備しながら、男にもわかるようにことばを展開して見せてくれている。
五連目にも「その声」という形で、「論理」を残してくれている。
そして、最終連。
私の中では水が流れている
その音を聞いていると滑るように空洞に近づき
風景の一部になっている自分が見える
「空(洞)」のなかで「風景(=世界/現実)」の「一部になる」と冨岡は書いているが、私という「空」のなかに「世界」があると主張しているように、私には聞こえる。私は、そう「誤読」する。
私の無(空)の世界、空の世界の私、世界の空の私。
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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
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