詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「人外詩篇 9」

2020-09-16 17:55:31 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「人外詩篇 9」(「現代詩手帖」2020年09月号)

 松浦寿輝「人外詩篇 9」を読み始めてすぐに、奇妙な行に出会う。

しかし沈黙にもじつは
いくつもの音
たくさんの音
無数の音がみなぎっている と

 「いくつも」「たくさん」「無数」の違いは何?
 これだけではわからない。わからないけれど、読んで瞬間に、はっとする。
 「いくつも」だけでは言えないことがあると松浦は感じている。その感じている「切実さ」が、「いくつもの音/たくさんの音/無数の音」という非論理的な性急なことばの積み重ねのなかにあらわれている。

わたしは知っていた
じぶんの行為にも思考にも無関係な音を
ふだんはただ 意識がそとに
排除しているだけなのだ

 これは「沈黙」の定義であって、「いくつもの音」(とりえあず、このことばでひとまとめにしておく)ではない。世界には「いくつもの音」が存在するが、自分の行為、思考とは関係ないものを排除しているので「沈黙」が存在するように錯覚する。
 この松浦の定義は、「沈黙」の定義であると同時に、人間存在の定義である。人間は自分の行為、思考を中心にして世界をとらえている。それは「音/沈黙」についてもいえる。もし、「意識を空白にして/ただ耳をすま」せば、世界はどんなふうにあらわれてくるか。

刃物を研ぐように 耳を研ぎすます
そんなうすい とてもうすい刃でなければ
真芯にあてられない繊細な響きがある
地面をはう虫の足の動き
微風にそよいですれあう葉と葉
屋内で息をひそめているヒトたちが漏らす
かすかなささやき

 「音」は「響き」と言い直され、「響き」が存在するとき、そこには「自分以外のものの行為(動詞)」が存在する。地面を「はう」、足の「動き(これは動詞派生の名詞)」「そよいですれあう」「息をひそめる」「漏らす」「ささやき(ささやく)」。そこには必ず「主語」がある。そして、その「主語」とは「わたし」ではない。「わたし」以外のものだ。そこにはもちろん「人間」もふくまれる。
 ここでは、松浦は、いわば「他者」を発見している。
 「沈黙」は自分で作り出したもの。しかし、「沈黙」は自己定義によって生まれてくるものであって、「世界」に自然に存在しているわけではない。「自己定義」をやめてしまう(意識を空白にする)と、それまで意識が排除していた「もの」が世界としてあらわれてくる。
 そして、その「あらわれ」には「響き」が伴っている。
 「響き」と「音」は、どうちがうのか。「他者」の動きが意識されるとき、「音」は「響き」になるのか。「響き」とは「他者の認識」なのか。
  もっと明確な「他者」を出現させ、詩は、転調する。

目をあけると 男とも女ともつかないきみが
立ちどまってわたしを見つめていた
しばらく見つめたあと
ことばが通じ合わないのはいいな とだけ
きみはひくいことばでつぶやいて
あとはだまってほほえんでいた

 「ことばが通じ合わない」のに、そのひとの「ことば(響き)」が「ことばが通じ合わないのはいいな」と聞こえたのはなぜか。「ことば」が「つぶやく」という動詞で定義されていることと関係するだろう。「つぶやく」のはひとに聞かせるためではない。ふつうは、言うつもりもなくて「声」が出てしまうのが「つぶやき」。話す(語る)ときとつぶやくときは、「響き」がちがう。行為と思考(意識)が違う。
 松浦は、ここでは「音」とは違うものとして、「響き」を定義しなおしている、ということになる。
 これを、さらに言い直す。

きみの顔は軒下の影のなかに入っていたが
ほほえみは直接わたしの心につたわってきた

 「響き」は「わたしの心につたわってくる」ものである。しかも、「直接」つたわってくる。「音」は「耳」をとおって聞こえてくる。しかし、「響き」は「直接」こころにつたわってくる。しかも、それは「響き(聴覚でとらえたもの)」ではなく「ほほえみ(視覚でとらえたもの)」として。
 感覚の越境がある。
 「直接」とは、この「越境」のことである。
 そして、この越境を促すのが行為(ほほえむ)ある。そこには「ことば」は存在しない。「ことば」をともなわないことを「直接」と言っていることがわかる。

 この詩の最初の方で、「自分の行為、思考」ということばが出てきた。「意識」ということばで言い直されているが、つまり「自意識」というものがある。「自意識」を「空白」にすると、「他者」がそれまでとは違った仕方で見えてくる。しかし、このときも「自意識」を中心に「自己/他者」の区別が存在する。
 その「境界」が消える瞬間がある。
 この瞬間を、何と呼ぶことができるか。

きみの足もとに 月光にうすぼんやりと
うかびあがっているあじさいの花
もし沈黙にいくつもの種類があるとすれば
ほほえみがつたえてくる沈黙は
そのもっとも上質な種類のものだ

 「沈黙」と言い直されている。「いくつもの音/たくさんの音/無数の音」は、「ことば」を経由して、また「沈黙」ということばに帰るしかない。
 これは、矛盾か。
 矛盾かもしれない。しかし、そういう矛盾でしか語れないものが、詩なのである。
 「沈黙」を定義しようとして、定義はできなかったが、「もっとも上質な沈黙」を発見するまでを松浦は描いている。








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「石破阻止」を言い換えると?

2020-09-16 09:15:48 | 自民党憲法改正草案を読む
「石破阻止」を言い換えると?
   自民党憲法改正草案を読む/番外393(情報の読み方)

 2020年09月16日の読売新聞(西部版・14版)3面に、自民党総裁選の「検証」が載っている。

「石破阻止」安倍首相動く/「後継は菅氏」麻生・二階乗る

 書かれていることに「新鮮味」はない。「検証」とは言うものの、既報のことがらを並べなおしただけである。
 こういうときは「検証」そのものを「検証」してみる必要がある。

 まず、見出し。
 ここには、ひとの名前しか出てこない。石破、安倍、菅、麻生、二階。これは何を意味するか。「人間関係」で総裁を選んだということである。「政策」を支持して菅が選ばれたわけではない。
 読売新聞は、とても「正直」なので、こういうことを隠せない。「事実」を書いてしまう。だから、おもしろい。
 記事では、どうなっているか。
 前文には、こう書いてある。(番号は私がつけた。)

 14日投開票の自民党総裁選では、安倍首相が菅官房長官を事実上、後継指名し、圧勝へと導いた。①首相は「反安倍」を鮮明にする石破茂・元幹事長の勝利を阻止することを重視し、②支持拡大が望めない岸田文雄・前政調会長よりも③自らを支え、実績を積んできた菅氏を選んだ。(政治部 藤原健作、阿部真司)

 ①「石破阻止」という見出しの要素が要約されている。「反安倍」が石破の定義なのだが、具体的にはどういうことか。記事を読み進むと、こう書いてある。

石破氏は森友・加計問題の再調査や、沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設について再検討を行うことを主張するなど、「安倍路線」の転換を訴えていたためだ。

 森友・加計問題再調査、辺野古移設再検討。「再」としか書いていないが、この「再」をとりあげて読売新聞は「反」と言い直していることになる。
 「再」だけでは「反」にならないことは、たとえば「再選」ということばを見るだけでもわかる。「再」が「支持」を意味することがある。
 だから、「再」を「反」と言い直すときには、そこに隠されている何かがある。「再」調査、「再」検討すると、「反対(いままで言われていることとは違ったもの)」のものが出てくることを読売新聞は知っているのである。
 知った上で「再調査阻止」ではなく「石破阻止」と言い換えることで、問題になっていることを「事実」ではなく「人間関係」にすりかえている。
 見出しを、

 森友・加計再調査阻止へ安倍首相動く

 とかえてみると、①の部分が明確になる。「石破阻止」ではないのだ。そして、それは「安倍」と「阻止」を使って言い直せば、「安倍逮捕阻止」なのだ。安倍は自分が逮捕されないようにするために菅を選んだということだ。
 なぜ、菅か。菅は、安倍と同じ「きず」を持っているからである。石破について触れた部分では書いていないが、菅については、こう補足している。

自らが入閣を後押しした菅原一秀経済産業相と河井克行法相が昨年10月に不祥事で相次いで辞任に追い込まれるなど、菅氏の求心力は低下した。

 明確には触れていないが河井はいま公判中である。妻の河井案里の選挙違反で、ふたりは起訴されている。そこには1億5000万円の資金提供問題が関係している。この1億5000万円問題は安倍の問題であると同時に菅の問題である。安倍が逮捕されたとき、菅も逮捕されるかもしれない。安倍が逮捕されないなら、菅も逮捕されないだろう。二人は「一心同体」なのだ。
 こう考えると、読売新聞の見出しは、

「安倍逮捕阻止」安倍首相動く

 と言い直すこともできるのである。そして、たぶん、これがいちばん正しい「裏事情」だと私は読んでいる。菅は自分が逮捕されないためにも、総裁になるしかなかったのである。安倍の引きずっている問題を「継承」し、隠し続けるしかないのである。
 前文にある「自らを支え、実績を積んできた菅」というのは、安倍が逮捕されないように支え、そういう実績を積んできた、という意味である。そして、それはそのまま菅の利益でもあったのだ。 
 菅は「自助・共助・公助」ということばを総裁選のとき持ちだしていたが、それは国民の側からみれば「自己責任・共同責任」のおしつけであり、国は何もしないと言っていることになる。菅は「安倍の自己責任」を「安倍と菅の共同責任」として受け止め、それを「国の責任」と自覚するから、隠蔽へと必死になるとも言える。菅も逮捕されたくないだけなのだ。

 ②に出てくる岸田は、読売新聞の見出しにはない。総裁選に出馬しているのに、石破、菅はあっても岸田はない。ここにも「秘密」がある。

 首相は「岸田氏では石破氏に勝てない」と危機感を強めた。総裁選では、出身派閥である細田派に加え、麻生派が岸田氏を支援しても、二階派や竹下派が石破氏支持に回れば、地方を中心に人気のある石破氏に軍配が上がりかねないためだ。

 二階、竹下派が岸田を支持すれば石破に勝てる。でも、支持を見込めなかった。なぜが。前段がある。

 岸田氏の評価は4月以降、下降線をたどっていた。新型コロナウイルス対策の現金給付を巡っては、実績作りにと岸田氏に取りまとめを任せたものの、調整は難航。給付額は二階幹事長や公明党の意向によって、「1世帯30万円」から「1人10万円」へと覆された。

 二階が岸田を評価していないことは明らかである。
 そして、それよりも重要なのは、二階は、二階の支持によって岸田が首相になるか石破が首相になるかのキャスティングボードを握っていると自覚していることである。安倍の認識は二階の認識でもある。
 だからこそ、いち早く菅支持を打ち出して、主導権を握ったのだ。
 岸田のことは二階にはどうでもいい。たぶん石破のこともどうでもいい。安倍が二階が石破支持に回ったら岸田は勝てないと思ったくらいだから、二階はもともとどっちつかずというか、自分のことしか考えていない。「幹事長」でいつづけるために菅を支持したということだろう。
 前文に出てこない麻生はどうか。

麻生氏は首相だった2009年7月、農相を務めていた石破氏と与謝野財務相(当時)から退陣を迫られた因縁がある。

 石破が総理になれば、麻生は大臣でいられなくなる。そう読んだのだ。菅で麻生と二階が同一歩調を取ったのは、自分の「地位」を守るためである。
 だから、ふたりとも「菅内閣」で再任されることが固まっている。

 どこかで読んだことがあるが、中国人は金で動き、韓国人(朝鮮人)は思想で動き、日本人は政治で動く、ということばがある。最後の「政治」は「人間関係」のことである。ひとを利用して自分を守る、ひととのつながりでものごとが決まる。
 安倍は都知事選の最中に「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と言ったが、そのことばのなかにあらわれた「排除」の考え方、「あちら」と「こちら」をわけて、人事によって「こちら」を強化する。
 そういう「人事(政治)」がこれからさらに強くなるのだ。菅はすでに内閣の方針に従わない官僚は異動させると言っている。「異動」とは人事そのものである。

 もう一度、読売新聞の見出しにもどってみる。ほんとうは、何があったのか。

「人事優先」安倍首相動く/「再任密約」麻生・二階乗る

 なのである。「人事優先」だから、石破の「政策優先/事実尊重」は阻止されたのだ。人事と理念や事実は相いれないときがある。そのとき人事を優先するというのが日本の「政治」なのだ。そのことをきょうの読売新聞は強調していた。見出しに出てきたのはひとの名前だけなのだから。

 しかし、傑作である。デジタル版で読むと、この作文(記事)の見出しの前に、【独自】と書いてある。こんなことを「特ダネ」とわざわざ言うなんて。総裁選の裏側を知っているというよりも、新内閣の「人事の裏側」を知っている、といいたいんだろうなあ。だって、菅が総裁に選ばれたあと、どうして菅が選ばれたよりも、内閣の顔ぶれはどうなる?の方に読者の関心は行ってしまっている。1面のトップも「内閣人事」である。「内閣人事の裏側検証」と書けば「特ダネ」なのに、そう書くだけの度胸がないのが、読売新聞の「正直」なところだね。









*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞
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