詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(103)

2020-09-30 10:23:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (思いだして欲しい)

かつて何を話したか
いまかつてのその場処と時間帯はどうなつているか

 「時間帯」ということばに私は驚いた。「時間」を「帯」と場所のように広がりのあるものとしてとらえている。
 「時間」は瞬間、「時間帯」はひろがり。
 「時間帯」ならば、そこには当然「変化」が含まれるだろう。変化を前提として「思いだす」というのは、変化は当然であるという意識からだろうか。
 それとも逆に「時間帯」のなかで「持続」しつづけたものがある、ということを思い出し、それを復活させることができるか問いかけているのか。
 「いま」ということばに、何か、願いのような切実さを感じる。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北爪満喜『bridge』

2020-09-30 09:42:29 | 詩集

北爪満喜『bridge』(思潮社、2020年10月01日発行)

 北爪満喜『bridge』の「消えられないあれを」は港に沈んだ自転車の描写からはじまる。長いあいだ沈んでいるので、藻がまとわりついている。

捨てられた日からずっと
港をゆく人々に見られて
消えられないあれを

 「あれ」は自転車である。「消えられない」という動詞が複雑である。自転車そのものは自分で動くことはできない。「消える」ということはできない。けれど、北爪は「消えられない」と書く。そのとき自転車はほんとうは意思を持っているのだけれど、なんらかの理由で意思を奪われた存在となる。この強烈な「意味の転換」のせいだと思うのだが、私は「あれ」を「あれら」と複数形で読んでいた。自転車だけではなく、自転車とともにある日々、藻、水さえも含めて「消えられない」ものと感じてしまった。「見られて」いるのは自転車とは限らないからだ。水の色も藻もゆらぎも、そしてそれを「見る人」そのものも「消えられない」のだ。
 このあと、詩は、こう展開する。

夢の中に手を差し込んで
置き去りにした私を
だらりとした腕の
消えられない少女を
抱き上げて
抱えてきたい
何度も思う

 もう一度「消えられない」があらわれる。「消えられない」という動詞を接続点に「自転車」と「少女」が結びつく。「自転車」は「少女」の比喩であり、「少女」は「自転車」の比喩である。そして、それは「私」だ。
 「消えられない」は、このとき「消えようとしても消えられない」という「もがき」のようなものとなってあらわれる。苦しみになってあらわれる。苦悩しているからこそ「抱く」という動詞が寄り添うのである。
 「置き去りにする」という動詞が「消えられない/苦しみ」を別の角度から語る。「置き去りにした」は「置き去りにされた」存在をあきらかにする。能動ではなく、受動。受動を生きるしかない存在。その無力感が「だらり」ということばのなかに生きている。
 「置き去りにされた」ものは、置き去りにされたまま、無力に、「だらり」と腕を下げてそこにある。いる。「消えられない」。「置き去りにされた」けれど、「消えられない」は、「置き去りにした」方から見れば、どうなるか。「置き去りにした」ら、そこにそのまま「消えずに」ある、いる。
 自転車と少女が強く結びついているように、「置き去りにした私」と「置き去りにされた少女」は強く結びついている。そして、その「結びつき」ことが「消えられない」なのである。「消せない」よりも、それは強く迫ってくる。ふつうの動詞の規則(文法)を破って動いているからだ。学校文法では言えないことが、ここでは動いている。
 「消せない/消えない」を、その動詞の奥にある闇へと引き込んでいく「消えられない」。
 それを「思う」。思うたびに、それは「いま」となって闇からあらわれるのだ。

藻だらけになった自転車は
ハンドルを首のように傾げ
水の底から空へ
首をうわ向けている
まるで私が見えているように

 「自転車」には目はない。だから見ることはできない。しかし「置き去りにされた少女」はどうか。「置き去りにした私」が見えるはずだ。「見える」を突き破って、いつまでも「見る」。「置き去りにした私」が視界から消える、つまり「見えなくなっても」意識からは消えない。覚えている。「見る」と自分の外にあるものを見るだけではなく、自分の内部にあるものをも見るのである。
 だからこそ。
 「置き去りにした私」は「置き去りにされた少女」から「見えている/見られている」と感じるのだ。
 そして、このとき「消えられない/あれ」とは、いま、ここにいる「私」そのものである。「私」は「少女」を置き去りにしてきた。その「記憶/意識」は「消せない」ではなく「消えられない」ものとして、北爪の肉体を突き破って、ことばになって噴出する。
 だから、詩は、こう結ばれる。

水の底のように歪む膜を
破って
引き上げられる

この今 に



 この詩が印象的なのは、この詩の構成、一行の長さとも関係しているように思える。「私」と「私」の対話は「まだ落ちてこない雨が」でも繰り返されている。その作品では「ひらがな」だけの部分とふつうの「交ぜ書き」の部分が呼び合う形になって展開している。
 「意味」としてわかるけれど印象が弱い。
 なぜだろうか。たぶん、リズムが詩になっていないのだと思う。
 こんにち、多くの詩の一行が長くなっている。ワープロで書くようになって一行が長くなってしまったのだが、その長さが「リズム」を持っているかどうか、新しいリズムを作り出したかどうかは、私はよくわからない。私が単に古いリズムを生きているだけかもしれない。長いリズムについていけずに、そこにあるものを感じることができないのかもしれない。
 「玄武の空がほそくながく」のおわりの方。

急降下すると
広々とした
野には村が現れて
あちらこちらに点在する
茶色い草木の屋根の庭には
そよぐ樫の木々のそばに
数羽の鶏がかけている

 「広々とした/野には村が現れて」という引き締まった神話のような展開がある一方で、そのあとがだらだらする。一行自体は必ずしも長いとは言えない。ただ、前の三行と比較すると長い。

急降下すると
広々とした
野には村が現れ
あちらこちら
草木の屋根の庭に
樫がそよぐ
数羽の鶏がかける


 こんなふうに、ことばを切って捨ててしまえば、どうだろうか。少なくとも「あちららこちら」をもう一度「点在する」と説明しなおすことでリズムが生まれるとは、私には感じられない。「木々」の複数、「数羽」の複数がうるさい。少なくともどちらかを「単数」にした方が目には優しいと、私は思う。 
 これは、この部分だけを短くすればいいというものでもなく、全体のバランスがあるのだけれど。北爪は全体的に「長いリズム」で書いているから、それはそれでいいのだと思うけれど。
 私はどちらかというと短いリズムが好き、というだけのこと。








**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする