詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」

2020-09-10 11:26:14 | 詩(雑誌・同人誌)
愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」(「詩的現代」34、2020年09月10日発行)

 愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」は変わった詩である。

ベンヤミンは書いている
「詩という形式は、
ブルジョワジーがかれらの生存のちゃちなお飾りとしているもの」であるが、
ブレヒトは、それとは違って、烈しく歌うというのだ
「ブルジョワジーの支配の本質をあからさまにいいあらわすのに、
お上品すぎるということはない。
教区のひとびとを教化する賛美歌、
民衆を調子よくまるめこむ民謡、
兵隊を死地に送りこむ愛国的バラード、
安価な慰安をわめきたてる恋の歌--」
別口に、ブレヒトは歌う
ブレヒトの賛美歌
ブレヒトの民謡
ブレヒトの愛国的バラード
ブレヒトの恋の歌

 最初の鍵括弧のなかのことばはベンヤミン。これはまちがいない。しかし、そのあとの「ブルジョワジーの支配の本質をあからさまにいいあらわすのに、」からのことばはだれのことばなのだろうか。ブレヒトがどこかで語ったことばなのか。それともベンヤミンがブレヒトのことを紹介して書いていることばなのか。
 よくわからない。そのよくわからないという感じに拍車をかけるのが、「別口に、ブレヒトは歌う」という行からのことばなのだ。
 これは事実? 事実だとして、それを事実と認定しているのはだれ? 愛啓なんだろうなあ。

 それでいいのかなあ。

 最初の「ベンヤミンは書いている」からして、だれが、どうして、ということを考え始めるとめんどうくさい。
 愛啓は何のためにベンヤミンを引用したのか。愛啓はベンヤミンのことばに惹かれて引用したのか。ブレヒトのことばに惹かれて引用しているのか。そして、そのブレヒトのことばというのは、ブレヒト自身が語ったことばか。ベンヤミンの要約か(あるいは引用か)。どこまでがベンヤミンで、どこからがブレヒトかわからない。どこからが愛啓のことばなのかも実はわからない。ベンヤミンが書いていると書きながら、愛啓が捏造しているということもある。
 だから。
 ことばは「所属」を問うてもしようがないのだ。
 ことばは読んだときから、読んだ人のものなのだ。それを「肯定」するときはもちろんだが、引用したことばを否定するときでさえ、そのことばを「自己否定」という形でしか否定できない。そのことばには与しないということを意識するという形で、明確に存在させないといけない。変わって言ってしまうのが、ことばなのだ。同時にことばの「持ち主」も変わっていってしまうのだ。
 
 で。(で、でいいのか。)
 このあと、ベンヤミン、ブレヒトをくぐりぬけた愛啓のことばが2連目として動き始める。つまり、「別口」がはじまる。

新しい組合に必要なのは
規約と役職であった
わいわいがやがや話合って
いざ、規約が作成され
役職が決まってしまうと
すべてが
規約に従い
すべてが
役職に委ねられ
つまらなくなった
元気のいいことを言っていた者が
役職についた
新任の彼が副委員長になり
科学の先生が委員長になった

 この語り口は、なんとなく「三番オペラ」を思い起こさせる。「もの」(人間)がそこにある。それぞれが独自の「肉体/思想」をもっているので「わいわいがやがや」なのだが、瞬間瞬間に「人間」が「もの」のように立ち上がってくるのがとても楽しい。
 中学校(高校?)の職員室で、先生の組織の役職が決まっていく、というだけのことを書いているのだと思うが、妙に、私自身の知っている「先生」を思い浮かべたりしてしまうのだ。
 わけもなく、この詩は「しり切れとんぼみたいでいいなあ」「詩は、こういうしり切れとんぼ」のなかにあるなあ。ベンヤミンもブレヒトも、このしり切れとんぼの「事実」にはかなわいなあ。愛啓はこんな詩を書いていたのか、とちょっと考え込んだりした。
 そしてこの「しり切れとんぼ」の美しさは、しかし、ベンヤミンという気取った引用で始まり、ブレヒトとぶつかることで生まれた者だとしたら、それを生み出したのはベンヤミン? ブレヒト? その出会いを見つけた愛啓? いや、だれでもないだれかだな、とまた振り出しに戻ってしまうのだが。

 驚いたことに。


 次のページに、まだ六行残っていた。

委員長は群れないタイプであって
新任の彼は
ただ若いだけだった
彼は書記長の方がよかったと思ったが
責任をとる順が二番目だと
みんなが考えたのだろう

 うーん。
 愛啓は、この六行が書きたかったのかもしれないが、私はつまんないなあ、と思ったのだ。ことばが、なんといえばいいのか「思考」にもどってしまう。「事実」ではなくなる。言い換えるとベンヤミンになってしまう。ベンヤミンを私は読んだことがないのだけれど。
 もし、最終連というか、「締め」のようなものが必要なら、愛啓の「感想」ではなく、委員長の「演説」のようなものがいいだろうと思う。ベンヤミンで始まり、ブレヒト、愛啓を通って、読者がまったく知らない人が意見を言う。ベンヤミンはブレヒトにかわり、愛啓にかわり、「他人」になってしまう。
 文学というのは、ことばをとおして、自分が自分でなくなってしまうこと、「他人」に生まれ変わることだからね。
 「引用」がおもしろいのは、「引用」が「他人」への引き金になるからだ。きのう感想を書いた田中庸介の作品も、細田傳造の作品も「他人」が登場し、その「他人」に触れることで、「自分」のあり方が違ってくるからだ。もちろん「自分」を引きずっているから、本人は「自分」というだろうけれど、私から見ると田中ではない田中(他人=初めて出会う人)、細田ではない細田(他人=初めて出会う人)。細田の場合は、いつでも「新しい面」を持ってあらわれる人と言った方がわかりやすいかもしれない。

 私は「結論」はどうでもいい、ただ人間が変わっていくということだけが好きなんだなあ、と気づく。だから、せっかくかわったのに、もとにもどるのを見ると残念な気持ちがする。
 愛啓の六行は、私にとっては「残念な六行」ということになる。




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菅へのよいしょ(読売新聞の場合)。

2020-09-10 10:04:52 | 自民党憲法改正草案を読む
菅へのよいしょ(読売新聞の場合)。
   自民党憲法改正草案を読む/番外390(情報の読み方)

 2020年09月09日の読売新聞(西部版・14版)は1面。自民党総裁選告示を伝えている。見出し(レイアウト)が特徴的だ。

菅氏「規制改革進める」/3氏出馬14日選出 論戦スタート

という大きな見出しがあって、前文がある。それから

岸田氏 格差是正 石破氏 社会変革

 私に投票権があるわけではない。大半の国民も投票権を持っていないだろう。しかしまがりなりにも「選挙」である。いくら菅が圧勝するとわかっているにしろ、見出しの大きさをここまで差別的にあつかうのはどういうものなのだろう。
 見出しも見出しなら、記事の量も遥かに違う。菅の主張は38行つかって紹介しているが、石破、岸田はふたりあわせて8行。
 いわゆる「公平性」からはるかに遠い。自民党総裁選が告示されたと読むのではなく、読売新聞はここまで菅氏に肩入れしている、と読めばいいだけなのかもしれないが。

この傾向は09月10日もかわらない(西部版・14版)。1面に「続報」がのっている。

菅氏「不妊治療に保険適用」/岸田・石破氏と討論

 この見出しだけでは、菅は「不妊治療に保険適用」と言ったが、岸田・石破は保険適用に反対と言ったかのように受け取られてしまう。
 「少子化対策」はたしかに「安倍政策」の「継承」と言えるのだろうけれど、「少子化」というのは「不妊治療」がいちばんの問題なのだろうか。
 私は違うと思う。
 「少子化」が改善しないのは、「医療」の問題がいちばん大きいのではなく、「子育て」の環境がととのっていないということだ。子供を産んでも、いまの仕事をつづけられるか。子供の養育と仕事を両立できるか。子供の教育費を捻出できるか。いろいろな不安(特に経済不安)があって、子供を産むことを断念しているひとがいる、ということではないのか。
 考えてみればいい。妊娠・出産・育児の期間、会社から、働いているときと同じ給料が出るなら、多くのひとは子供を産むことに消極的にはならないだろう。給料の完全保障は「理想」にすぎないが、最低限、もとの職場、もとの「地位」に復帰できる保障(復帰後も、異動されない保障)が確立されていれば、出産するひとは増えるだろう。子供が自立するまで、育児をサポートする体制をととのえる、教育費・医療費の完全無償化を進めれば、さらにこどもを産み、育てたいと願うひとは増えるだろう。
 いろいろな環境をととのえた上で、「子供を産み、育てたいけれど、妊娠できない」という人に対しての「不妊治療」を進めるべきなのだ。不妊治療をいくら進めても、その後の労働環境、育児環境がととのえられないかぎり、「出生率」は上がらないだろう。
 「妊娠」さえすれば、子供が増える、という視点は、女性を「出産」のための存在と見ていることにはならないだろうか。「妊娠」も大事だが、「出産」後、つまり「育児/教育」も大事なのである。「少子化」は、そういう問題をふくめて解決しないといけない。
 これは、また「のぞまない妊娠」という問題ともむすびつけて考えるとわかることでもある。性被害にあって妊娠した女性、避妊しなかったために妊娠してしまった女性もいる。その人たちをどう救済し、支援していくか。
 「少子化対策」と「不妊治療」は重なる部分もあるが、それがいちばんの重要な問題ではない。

 こういう「だれも反対しない政策」を掲げ、あたかも菅だけが「不妊治療に保険を適用する」という方針を打ち出していると報道するのは、「討論」を矮小化するものだ。
 私は討論会を見ていないのでわからないが、石破にも岸田にも、「だれも反対しない政策」を主張しているなら、それを見出しにとり、三人の主張のうちどれがいちばん大事かを読者に判断させる工夫をしないことには、菅を当選させるために書いている記事ということになってしまう。いくら菅の当選がわかりきったことであるにしても、「選挙報道」としての妥当性を欠いているだろう。
 ちなみに、石破と岸田の発言を見出しにとるとしたら、どうなるか。3人の主張を、読売新聞の記事をもとに、届け出順に並べてみる。(読売新聞は、ふつうの選挙では「届け出順」に紹介するが、総裁選はそうしていない。これは「恣意的」である。)

石破「拉致問題解決へ日朝に連絡事務所」
菅「不妊治療に保険適用」
岸田「地域格差是正へデジタル化推進」

 並べてみると、討論会とはいいながら、ぜんぜんかみ合っていない。こんな討論会を「要約(紹介)」するのに、菅の主張だけを見出しにするのは、あまりにも恣意的だろう。



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