詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鎌田尚美「涸れ井戸」ほか

2020-09-15 11:21:44 | 詩(雑誌・同人誌)
鎌田尚美「涸れ井戸」ほか(「現代詩手帖」2020年09月号)

 鎌田尚美「涸れ井戸」は「現代詩手帖」2020年09月号の投稿欄の作品。書いていることはわかるが、これを書いている鎌田の気持ちがぜんぜんわからない。これを選んだ暁方ミセイと時里二郎の気持ちもわからない。
 たとえば、

天井から下がる蠅取紙にはいくつかの命が囚われ、これも扇風機の風に揺れていた

 これは鎌田の記憶なのか、それともだれかから聞いた話なのか。あるいは、想像なのか。「蠅取紙」をほんとうに見たことがあるのか。
 詩は(文学は)事実を書かなければいけいなということはない。事実というのは、ひとの数だけあるだろうから、どんな嘘にもそのひとなりの「必然」がある。そして、その「必然」だけが「事実」だと私は思っているのだけれど。
 「蠅取紙」をほんとうに見るとは、ただ見るだけのことではない。その部屋でその人が動いたことがあるかどうか、ということである。こどもならば、思わず走り回ったりする。そうすると何かの拍子で蠅取紙が髪にくっついたり肌にくっついたりする。つまり自分が蠅になる。そういうことを体験したことがあるか、ないか。自分が蠅になって、はじめてわかる「いのち」というものがある。死を、蠅やなにかの生き物に平然と押しつけて、人間の「いのち」というものがある。鎌田が「命」と書いているのは、この詩の中に形を変えて動いている「死」である。
 この詩にはいろいろないのちと死が出てくる。私の知らないいのち/死もあるが、こういう肉体で覚え込んでいるいのち/死に出会うと、このひとはほんとうに知っていて書いているのか、と気になってしまう。
 この疑問は、次の連(?)で、いやあな感じになって吹き出す。

まさおは鶏舎で餌をあげていた
一羽だけ餌に寄って来ずまさおから離れていくものがいて、あの鶏は腹が減っていないんだねと云うと、まさおは卵を産まなくなった鶏は人を避けるんだと云った

 これは、鶏が卵を産まなくなったら絞め殺され(食べられる)ことを本能的に(あるいは直感的に)知っているからだ。そういうことが暗示されている。これは実際に鶏を飼ったことのある人なら、肉体で覚えていることだ。その肉体を、鎌田、暁方、時里は共有しているのか。
 こんな疑問を持つのは「餌をあげた」「腹が減った」ということばの間には、私の「肉体」では受け入れることのできない齟齬があるからだ。鶏に餌を「あげる」ということは、絶対にない。あくまで餌は「やる」ものだ。やがて腹が減ったら食べるものに餌を「あげる」ということはない。餌を「あげる」人間が、「腹がへる」というのも、私にはなじめない。「あげる」ということばをつかうひとは「おなかが減る」と言わないだろうか。こういうことばの行き違いを指して、私は「齟齬」と呼んだのだが。
 さらに鶏が放し飼いにされている建物を「鶏舎」とはいわないなあ。私の肉体は「鶏小屋」ということばで、そういう場所を覚えている。「鶏舎」と言えば、ケージに鶏が閉じこめられ、ずらりと並んだ「産卵工場」だ。ケージの床は斜めになっていて、産んだ卵は手前に転がり出てくる。そういうケージができてからは、私の住んでいたような田舎でも鶏小屋はなくなって、2、3羽であっても、壁にケージをくっつけて、ケージで飼っていた。そして、そういうときは絶対に餌を「あげた」とは言わない。大切にする「気持ち」をこめない。大切なのは鶏ではなく、生きている自分である。
 肉体で覚えている「事実」と、肉体で覚えている「ことば」が合致しない。これを合致させる肉体とはどういうものなのか。私は鎌田も知らないし、時里も暁方も知らない。彼らがどんなふうにして自分自身の肉体、ことばと向き合ってきたか知らないから、このことを合致させてきたき言われれば、あ、そうなんですね、と言うしかないが。

 朝比奈信次「マンボウザメ」は「気仙川」でマンボウザメを見たときの思い出を書いている。選者は暁方。ほんとうにマンボウザメを見たのかどうか知らないが、次に書かれていることはほんとうだろう。

あくる日ひとりのクラスの子にこっそり
告げると
話はかんたんに広がり
彼らはうれしがった
夕方そっと言って
沢山のひとみを動かしたが
マンボウを見かけることはなかった

 たぶん嘘なのだ。そして嘘であるとわかっていても、真実であってほしいと思う気持ちが、こどもを「かんたん」に動かしてしまう。うれしがらせてしまう。そして、嘘とわかっている真実を確かめにゆく。「ひとみ」という「肉体」がそのとき、はっきり動く。朝比奈の「ひとみ」は動かずに、仲間の「ひとみ」が動くところを見ている。そのとき、だましたはずの朝比奈が仲間によって裏切られる。だまされる、のではなく、「だます/だまされる」とは違った真実のようなものが生まれるのだ。
 そういう瞬間が、「肉体」と「ことば」によって一つになり、いままで存在しなかったものが出現する。それを朝比奈は、こう書き留める。

川の水のどこかで
マンボウが信仰になる

 鎌田も「信仰」のようなものにまでことばを動かしていきたかったのだと思うけれど(わたしはそう理解しているけれど)、「神話/信仰」のようなものは、「素材」を揃えればできあがるのではない。「肉体」と「ことば」が緊密に動かないと、「よくできた思い出」におわる。

 佐藤しづ子「貝殻状断口」は、時里が選んでいる。

氷砂糖をおかずにカンバンをかじり
夜空を眺めてみる
たにみるものも
よむあかりも
ながれるねがいもないので

 読みながら、あ、暁方の選びそうな詩だなあ、と思った。朝比奈の詩のときは時里が選びそうな詩だなあと思った。ところが、逆の選者が選んでいる。別に、どうということもないのだけれど、二人のあいだで、微妙な「影響」が動いているのかもしれないと思った。







**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅はなぜ圧勝したか

2020-09-15 09:20:18 | 自民党憲法改正草案を読む
菅はなぜ圧勝したか
   自民党憲法改正草案を読む/番外392(情報の読み方)

 2020年09月12日の読売新聞(西部版・14版)3面に、自民党総裁選の「分析」が載っている。

菅氏 地方でも浸透/石破氏 人気に陰り/岸田氏 知名度不足

 選挙結果報道のときつかわれる「浸透」「人気に陰り」「知名度不足」がそのままつかわれている。これは何を意味するか。読売新聞は「分析」などしていない。ただ過去に書いた「分類」にあわせて、ことばを振り分けているだけである。
 なぜ、「浸透」したのか。あるいは何が「浸透」したのか。
 もっぱら菅が秋田(地方の)農家の出身、段ボール工場で働いて学費をためて大学へ行った「苦労人」であるという「苦労人の経歴」が「浸透」したのである。石破、岸田にはこの「苦労人の経歴」がない。
 でも、なぜ「浸透」した? そう宣伝したからである。菅自身も語っているが、菅を支持する人間が、それを巧みに宣伝したのである。これにマスコミも加担している、と指摘するのは簡単。そんなことは、もう指摘しなくても「事実」として明白になりすぎている。

 私は、少し別のことを考えた。これから書くのは、その別のこと。

 今回の総裁選には「コロナ対策」が影響している。菅はしきりに「コロナ対策」で安倍の政策を「継承」すると言ったが、それよりももっと「無意識」に近い部分で「コロナ対策」が影響している。
 「コロナ対策」でしきりに言われているのが「3密回避」。極端に言えば大勢の人が一か所に集まって、しゃべるな、ということである。一度に狭い場所に、集まり(接触し)、話し、許されるのは数人まで。これを逆に言えば、少人数の会合だけが許されていることにある。これがいちばんのポイント。
 菅はどうして総裁候補として急浮上したか。二階が手を回し、安倍、麻生らと「密会」したからだ。「狭いところで、集まり、話す」という点では問題があるが、大勢ではない(密集しない)という点では問題を回避している。密集しないために、何をするか。「大勢のひとを排除する」のである。 多様な意見を排除するのだ。
 選挙結果というのは、大勢の人の意見の反映(結集)であるけれど、それが結集されるまでの過程に大きな問題があったのだ。大勢の人、多様な意見は排除されていたのだ。
 数人の意見だけが交換され、そこで「菅候補」が決まり、それが派閥を通じて国会議員に伝達され、さらに地方に伝達される。それが読売新聞の書いている「浸透」のほんとうの意味である。菅、岸田、石破が地方を遊説し、大勢の人と意見をかわすなかで菅の意見が「浸透」したわけではない。地方遊説はなかった。「地方の集会」は最初から排除されていた。それぞれの候補の「ことば(政策)」は最初から排除され、だれを総裁にするかという決定だけがあったのだ。
 こういうことが可能だったのは、いまが「コロナ感染期間」だったからである。「3密」を避けるということが「政策」としてあったからだ。
 民主主義というのは多様な意見の反映であると定義するならば、今回の総裁選は民主主義とはまったく相いれない形でおこなわれた、単なる「多数決」の儀式である。しかもそれは「議論(多様な意見の発表)」を排除した形でおこなわれた。「議論」なしの「多数決」は民主主義ではない。「多数決」と「民主主義」は同義ではない。問題なのは、「多数決(選挙)」で決まったから、その決定は「民主主義」に合致しているという主張がまかり通るところだろう。

 ここから、今後の問題を予測してみよう。
 菅は「縦割り行政をやめる」と言っているが、たぶん逆だろう。「縦割り行政を強化する」。そして、そのとき、その「行政」を決定するのは菅を誕生させた「密室協議」なのである。自分の利益だけを守ろうとする二階、麻生、安倍らがあつまり「政策」を決定する。それを実行するためにいままでの「縦割り組織」を無視する。都合のいいように、そのつど組織を変える。簡単に言うと、「そういうことは、この組織ではできません」と官僚が反対すれば、その官僚は異動させられる。菅ははっきり「内閣の政策に反対の人間は異動させる」と明言している。
 国民の利益を考えるひとがいなくなる。菅を頂点とする「内閣(閣僚)」の利益だけを考えるシステムが、より完璧な形で完成するということだ。
 「政策決定」の「議事録」はつくらない。どういう議論が展開され、どういうことが検討された結果、そういう政策になったかは秘密にされる。「決定事項」だけが存在する。つまり「独裁」が完成する。安倍の狙っていたのが、「安倍の独裁」であったのに対し、菅は「派閥合同の独裁」を推進することになる。いままでは、官僚が安倍のために働いてきたが、これからは「派閥の首領」のために官僚は働かされる。「派閥の首領」はひとりではないから、どうしてもそこにはなんらかの「食い違い」のようなものも存在してしまうだろう。そういうものを解消するためにも官僚は働かされる。国家公務員は、もう、国民の方を向いて仕事をしている時間はなくなる。ただひたすら、「派閥首領」の方を向いて仕事をする。反対意見を言えば、別の部署へ異動させられるからね。
 これが、地方の組織にまで「浸透」させられる。上から押しつけられる。

 派閥の首領が所属する国会議員に何を言ったか、「記録」は公表されていない。さらに派閥の首領から命令された国会議員が、地元の県連にどんな指示をだしたか「記録」は公表されていない。しかし、わかることは、ある。各県で自民党員が大会を開き、意見を戦わすということはなっかった。民主主義の基本である多様な意見は、存在を封じこめられていた。
 地方に「浸透」したものがあるとすれば、「上意下達」というシステムの強化だけである。それは読売新聞の見出し、「岸田氏 知名度不足」ということばからだけでもわかる。外相もつとめた人間を知らない自民党員がいるとは思えない。知名度そのものについていえば、菅も岸田も石破もかわらないだろう。「石破氏 人気に陰り」というのも変である。むしろ「菅に反抗すると怖い」という恐怖心が地方にまで蔓延した。石破はその恐怖心に対抗するための方策を示せなかったということだろう。
 いまは「人気」ではなく「恐怖心」の方がひとを支配している時代なのだ。コロナ感染は怖い、失業は怖い。権力者にはすがるしかない。まるで、患者が医者に頼るしかないように、国民は政権に頼るしかないという状況を作り出し、支配する。そういう政治が、これからますます強まっていく。

 どう対抗するか。
 民主主義とは「ことば」である。政治が「ことば」であるように、民主主義のよりどころは「ことば」である。自分の「ことば」を話し続ける、書き続ける。「3密」回避ではなく、「ことば」を中心に「密」を作り出していくことが必要だ。










*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする