鎌田尚美「涸れ井戸」ほか(「現代詩手帖」2020年09月号)
鎌田尚美「涸れ井戸」は「現代詩手帖」2020年09月号の投稿欄の作品。書いていることはわかるが、これを書いている鎌田の気持ちがぜんぜんわからない。これを選んだ暁方ミセイと時里二郎の気持ちもわからない。
たとえば、
これは鎌田の記憶なのか、それともだれかから聞いた話なのか。あるいは、想像なのか。「蠅取紙」をほんとうに見たことがあるのか。
詩は(文学は)事実を書かなければいけいなということはない。事実というのは、ひとの数だけあるだろうから、どんな嘘にもそのひとなりの「必然」がある。そして、その「必然」だけが「事実」だと私は思っているのだけれど。
「蠅取紙」をほんとうに見るとは、ただ見るだけのことではない。その部屋でその人が動いたことがあるかどうか、ということである。こどもならば、思わず走り回ったりする。そうすると何かの拍子で蠅取紙が髪にくっついたり肌にくっついたりする。つまり自分が蠅になる。そういうことを体験したことがあるか、ないか。自分が蠅になって、はじめてわかる「いのち」というものがある。死を、蠅やなにかの生き物に平然と押しつけて、人間の「いのち」というものがある。鎌田が「命」と書いているのは、この詩の中に形を変えて動いている「死」である。
この詩にはいろいろないのちと死が出てくる。私の知らないいのち/死もあるが、こういう肉体で覚え込んでいるいのち/死に出会うと、このひとはほんとうに知っていて書いているのか、と気になってしまう。
この疑問は、次の連(?)で、いやあな感じになって吹き出す。
これは、鶏が卵を産まなくなったら絞め殺され(食べられる)ことを本能的に(あるいは直感的に)知っているからだ。そういうことが暗示されている。これは実際に鶏を飼ったことのある人なら、肉体で覚えていることだ。その肉体を、鎌田、暁方、時里は共有しているのか。
こんな疑問を持つのは「餌をあげた」「腹が減った」ということばの間には、私の「肉体」では受け入れることのできない齟齬があるからだ。鶏に餌を「あげる」ということは、絶対にない。あくまで餌は「やる」ものだ。やがて腹が減ったら食べるものに餌を「あげる」ということはない。餌を「あげる」人間が、「腹がへる」というのも、私にはなじめない。「あげる」ということばをつかうひとは「おなかが減る」と言わないだろうか。こういうことばの行き違いを指して、私は「齟齬」と呼んだのだが。
さらに鶏が放し飼いにされている建物を「鶏舎」とはいわないなあ。私の肉体は「鶏小屋」ということばで、そういう場所を覚えている。「鶏舎」と言えば、ケージに鶏が閉じこめられ、ずらりと並んだ「産卵工場」だ。ケージの床は斜めになっていて、産んだ卵は手前に転がり出てくる。そういうケージができてからは、私の住んでいたような田舎でも鶏小屋はなくなって、2、3羽であっても、壁にケージをくっつけて、ケージで飼っていた。そして、そういうときは絶対に餌を「あげた」とは言わない。大切にする「気持ち」をこめない。大切なのは鶏ではなく、生きている自分である。
肉体で覚えている「事実」と、肉体で覚えている「ことば」が合致しない。これを合致させる肉体とはどういうものなのか。私は鎌田も知らないし、時里も暁方も知らない。彼らがどんなふうにして自分自身の肉体、ことばと向き合ってきたか知らないから、このことを合致させてきたき言われれば、あ、そうなんですね、と言うしかないが。
朝比奈信次「マンボウザメ」は「気仙川」でマンボウザメを見たときの思い出を書いている。選者は暁方。ほんとうにマンボウザメを見たのかどうか知らないが、次に書かれていることはほんとうだろう。
たぶん嘘なのだ。そして嘘であるとわかっていても、真実であってほしいと思う気持ちが、こどもを「かんたん」に動かしてしまう。うれしがらせてしまう。そして、嘘とわかっている真実を確かめにゆく。「ひとみ」という「肉体」がそのとき、はっきり動く。朝比奈の「ひとみ」は動かずに、仲間の「ひとみ」が動くところを見ている。そのとき、だましたはずの朝比奈が仲間によって裏切られる。だまされる、のではなく、「だます/だまされる」とは違った真実のようなものが生まれるのだ。
そういう瞬間が、「肉体」と「ことば」によって一つになり、いままで存在しなかったものが出現する。それを朝比奈は、こう書き留める。
鎌田も「信仰」のようなものにまでことばを動かしていきたかったのだと思うけれど(わたしはそう理解しているけれど)、「神話/信仰」のようなものは、「素材」を揃えればできあがるのではない。「肉体」と「ことば」が緊密に動かないと、「よくできた思い出」におわる。
佐藤しづ子「貝殻状断口」は、時里が選んでいる。
読みながら、あ、暁方の選びそうな詩だなあ、と思った。朝比奈の詩のときは時里が選びそうな詩だなあと思った。ところが、逆の選者が選んでいる。別に、どうということもないのだけれど、二人のあいだで、微妙な「影響」が動いているのかもしれないと思った。
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鎌田尚美「涸れ井戸」は「現代詩手帖」2020年09月号の投稿欄の作品。書いていることはわかるが、これを書いている鎌田の気持ちがぜんぜんわからない。これを選んだ暁方ミセイと時里二郎の気持ちもわからない。
たとえば、
天井から下がる蠅取紙にはいくつかの命が囚われ、これも扇風機の風に揺れていた
これは鎌田の記憶なのか、それともだれかから聞いた話なのか。あるいは、想像なのか。「蠅取紙」をほんとうに見たことがあるのか。
詩は(文学は)事実を書かなければいけいなということはない。事実というのは、ひとの数だけあるだろうから、どんな嘘にもそのひとなりの「必然」がある。そして、その「必然」だけが「事実」だと私は思っているのだけれど。
「蠅取紙」をほんとうに見るとは、ただ見るだけのことではない。その部屋でその人が動いたことがあるかどうか、ということである。こどもならば、思わず走り回ったりする。そうすると何かの拍子で蠅取紙が髪にくっついたり肌にくっついたりする。つまり自分が蠅になる。そういうことを体験したことがあるか、ないか。自分が蠅になって、はじめてわかる「いのち」というものがある。死を、蠅やなにかの生き物に平然と押しつけて、人間の「いのち」というものがある。鎌田が「命」と書いているのは、この詩の中に形を変えて動いている「死」である。
この詩にはいろいろないのちと死が出てくる。私の知らないいのち/死もあるが、こういう肉体で覚え込んでいるいのち/死に出会うと、このひとはほんとうに知っていて書いているのか、と気になってしまう。
この疑問は、次の連(?)で、いやあな感じになって吹き出す。
まさおは鶏舎で餌をあげていた
一羽だけ餌に寄って来ずまさおから離れていくものがいて、あの鶏は腹が減っていないんだねと云うと、まさおは卵を産まなくなった鶏は人を避けるんだと云った
これは、鶏が卵を産まなくなったら絞め殺され(食べられる)ことを本能的に(あるいは直感的に)知っているからだ。そういうことが暗示されている。これは実際に鶏を飼ったことのある人なら、肉体で覚えていることだ。その肉体を、鎌田、暁方、時里は共有しているのか。
こんな疑問を持つのは「餌をあげた」「腹が減った」ということばの間には、私の「肉体」では受け入れることのできない齟齬があるからだ。鶏に餌を「あげる」ということは、絶対にない。あくまで餌は「やる」ものだ。やがて腹が減ったら食べるものに餌を「あげる」ということはない。餌を「あげる」人間が、「腹がへる」というのも、私にはなじめない。「あげる」ということばをつかうひとは「おなかが減る」と言わないだろうか。こういうことばの行き違いを指して、私は「齟齬」と呼んだのだが。
さらに鶏が放し飼いにされている建物を「鶏舎」とはいわないなあ。私の肉体は「鶏小屋」ということばで、そういう場所を覚えている。「鶏舎」と言えば、ケージに鶏が閉じこめられ、ずらりと並んだ「産卵工場」だ。ケージの床は斜めになっていて、産んだ卵は手前に転がり出てくる。そういうケージができてからは、私の住んでいたような田舎でも鶏小屋はなくなって、2、3羽であっても、壁にケージをくっつけて、ケージで飼っていた。そして、そういうときは絶対に餌を「あげた」とは言わない。大切にする「気持ち」をこめない。大切なのは鶏ではなく、生きている自分である。
肉体で覚えている「事実」と、肉体で覚えている「ことば」が合致しない。これを合致させる肉体とはどういうものなのか。私は鎌田も知らないし、時里も暁方も知らない。彼らがどんなふうにして自分自身の肉体、ことばと向き合ってきたか知らないから、このことを合致させてきたき言われれば、あ、そうなんですね、と言うしかないが。
朝比奈信次「マンボウザメ」は「気仙川」でマンボウザメを見たときの思い出を書いている。選者は暁方。ほんとうにマンボウザメを見たのかどうか知らないが、次に書かれていることはほんとうだろう。
あくる日ひとりのクラスの子にこっそり
告げると
話はかんたんに広がり
彼らはうれしがった
夕方そっと言って
沢山のひとみを動かしたが
マンボウを見かけることはなかった
たぶん嘘なのだ。そして嘘であるとわかっていても、真実であってほしいと思う気持ちが、こどもを「かんたん」に動かしてしまう。うれしがらせてしまう。そして、嘘とわかっている真実を確かめにゆく。「ひとみ」という「肉体」がそのとき、はっきり動く。朝比奈の「ひとみ」は動かずに、仲間の「ひとみ」が動くところを見ている。そのとき、だましたはずの朝比奈が仲間によって裏切られる。だまされる、のではなく、「だます/だまされる」とは違った真実のようなものが生まれるのだ。
そういう瞬間が、「肉体」と「ことば」によって一つになり、いままで存在しなかったものが出現する。それを朝比奈は、こう書き留める。
川の水のどこかで
マンボウが信仰になる
鎌田も「信仰」のようなものにまでことばを動かしていきたかったのだと思うけれど(わたしはそう理解しているけれど)、「神話/信仰」のようなものは、「素材」を揃えればできあがるのではない。「肉体」と「ことば」が緊密に動かないと、「よくできた思い出」におわる。
佐藤しづ子「貝殻状断口」は、時里が選んでいる。
氷砂糖をおかずにカンバンをかじり
夜空を眺めてみる
たにみるものも
よむあかりも
ながれるねがいもないので
読みながら、あ、暁方の選びそうな詩だなあ、と思った。朝比奈の詩のときは時里が選びそうな詩だなあと思った。ところが、逆の選者が選んでいる。別に、どうということもないのだけれど、二人のあいだで、微妙な「影響」が動いているのかもしれないと思った。
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