大橋英人『パスタの羅んぷ』(洪水企画、2020年08月31日発行)
大橋英人『パスタの羅んぷ』を開くと「序」に「くしゃみ」という詩がある。
くしゃみをしたら
ぼくまでとんでいった
じかん
のっかって
すなのような
未来を
とんでいたのだが
寒さに
ぶつかって
そこで目がさめた
わかったような、わからないような詩である。詩は、こんなふうにわかったようで、わからない感じがいいのかもしれない、と思うのだが。
一箇所。
すなのような
この「すな」が完全にわからない。「すなのような」は「未来」を修飾しているのだろうか。
違うような気がするなあ。
くしゃみをしたら、ぼくが、すなのようになって、時間にのって飛んで行った。けれど、「未来」の寒さにぶつかって、飛べなくなった。落ちた。目がさめた。
そんなふうに読んでしまう。
でも、なぜ「すな」なんだろう。
そう思っていると、次々に「砂」が出てくる。「砂」が出てこない作品の方が少ない。(数え上げて点検したわけではないけれど。)「砂」は「砂塵」とか「砂地」というような形でも洗われてくるけれど、単独のことが多い。
砂でなく
ゴミでなく
サビは
針のように
うかぶから
シンちゃんの声は
片道だけの
仮設のまま
で (牧野の、シンちゃん)
福井県坂井市三国町平山
砂にも
塵にも
しずくのようにうずくまるだけ
の人が いて (いちばん遠い場所)
あぶくのような
小骨の
袋
砂は
なにぶん鉄のかべゆえ
がれきのように燃えはしない (砂の水)
手がきれるほど
ちりめんのように冷たいものだから
あふれる砂は
皿をこえ
はるか山はだのように
粗い (ゼリーの、うさぎ)
なんだろうなあ。
単に小さい存在というだけではない。そう思っていると、いま最後に引用した「ゼリーの、うさぎ」の最後に、こんな風に、もう一回「砂」が出てくる。
地べたでも
灰はおろか
小石まで
砂には
やはり 鉄のようなげんこつが
「砂」と「げんこつ」が結びついている。そしてそれは「やはり」ということばでつながっている。砂は、岩(石)が砕けて小さくなった存在というだけではない。「無」ではない。そこには何かがある。それは「げんこつ」という比喩でしか語れないものである。「げんこつ」は何を握りしめているか。何であろうが「握りしめる」という動詞が大事なのだ。
誰もが何かを「握りしめている」。そのことを、大橋は
やはり
と強調している。
「砂」はこの詩集に何度も出てくるキーワードである。そして、「やはり」はこの詩集に一回だけ出てくるキーワードである。「砂」、その小さな存在についていろいろなことを思う。どう定義していいのかわからない。でも
やはり
「鉄のようなげんこつ」というところへ落ち着く。
そしてこのとき大事なのは、「やはり」と大橋自身が「確信」することなのだ。この詩ではたまたま「鉄のようなげんこつ」ということばと結びついているが、それは何と結びついてもいい。いろいろ思う。そして、いろいろ思った中から、ひとつを選び「やはり」と言い聞かせる。
この「過程」と「決断」を明確にするために「砂」が動いているのだ。
「くしゃみ」の「目がさめる」は、抒情詩ふうに読めば、「敗北する/そして現実を認識する」ということかもしれない。「やはり」人間は負けるのだ、ということかもしれない。しかし、そのときも「やはり」人間は一粒の砂として「げんこつ」を握りしめているだろう。
「牧野の、シンちゃん」には、こういう行が出てくる。
こんどボク 遠いけどいいところにいくの おバアちゃんのこどもになるから
ササキになる いっぱいべんきょうしてえらくなって帰る そしたらまた来る
ときおりふいに遊びにくるシンちゃんが ある日うれしそうにノロノロろれつ
のよくまわらない口調ではなしはじめた 私が小学生のころだから シンちゃ
んはおそらく二〇歳をこえていた
こういう途中の行を挟んで、最初に引用した部分が最後になる。
「砂ではなく」は「シンちゃん」は「砂」のような存在ではなく(あるいはゴミ、サビでもなく)
やはり
何かを握りしめた存在だったはずだ、と思い返しているのだ。「小さな砂ではなく/何かを握りしめているこぶしとしての砂」。砂のなかで、矛盾しているものが固く結びついている。このために簡単に整理することも断定することもできない。でも、「現実」というか「人間」というのもは、そういうものだね。ああでもない、こうでもない。そして最後に「やはり」と自分で決定する。人から見れば、矛盾を生きているとしか見えないかもしれない。その矛盾だらけの最中にも、ひとは一瞬一瞬、
やはり
と苦しい決断を生きている。自己決定している。シンちゃんも、そうなのだ。「牧野の、シンちゃん」から「ササキの、シンちゃん」になる。その「瞬間の決意(やはり、に至るまでの思い)」を私は具体的には知らない。大橋も知らないだろう。けれど、知らない世界にも「やはり」はあるのだ、と思うのだ。そういう、ことばにならない「やはり」を浮かびあがらせるために、大橋は「砂」という比喩をつかっている。
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