ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)
監督 ロン・ハワード 出演 ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ボノ
俗に三大テノールという。ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス。私は音楽に詳しいわけではない。オペラは見たことがない。だから、いい加減に書くのだが、この三人は、私の感覚ではどうみても「同等」ではない。だから「三大」というのは奇妙な感じがする。(では、だれが三大かと言われたら、こたえようがないのだが。)
まずホセ・カレーラスの声がピンと来ない。プラシド・ドミンゴは声よりも顔が目立つ。顔で人気が出たんだろうなあ、と思う。ルチアーノ・パバロッティは美声もあるが、何よりも「大声」という感じがする。そこが、非常に魅力的だ。こんな大声を出すことはできない。ホセ・カレーラスは完全に見劣りがする。
で、再び、なぜ「三大テノール」か。この映画では、その秘密が明かされる。ホセ・カレーラスが白血病で入院した。彼を励まし、退院したのをきっかけに「三大テノール」として、一種の「応援コンサート」をやったのだ。これが成功し、「三大テノール」が誕生した。ホセ・カレーラスが見劣りがしたのは、単に声が小さい、体が小さいだけではなく、病み上がりという問題があったのかもしれない。
つかわれている音源は古いものもあり、音質的には問題があるのかもしれないが、それでもパバロッティは飛び抜けて魅力的である。声が大きくて、まっすぐという印象が非常に強い。こんなふうに大声が出れば、私は音痴だが、音痴であっても歌うのは楽しくなるだろうと思う。
声について、ボノがおもしろいことを言っている。パバロッティがオペラに復帰したとき、全盛期の声とあまりにも違う、と悪評だった。しかし、ボノは「つかいこんだ声の魅力がある」という。それを証明するように、プラシド・ドミンゴの指揮で、死んでゆく男かが歌うシーンがある。その声が、非常に切実である。若いときの、まだまだ大声が出せるというような感じではなく、限界を知って、それを受け入れる声の不思議な「なつかしさ」のようなものがある。
ああ、そうなのか、と納得する。
オペラともパバロッティとも関係ないのだが、「声」で思い出すのは、美空ひばりの「津軽のふるさと」である。少女時代の音源がCDとして発売されている。クリアな音ではないのだが、私のこの古い音源が非常に気に入っている。おとなになってから(?)の「津軽のふるさと」も何度か聞いたが「なつかしさ」が違う。少女なのに、大人以上に「なつかしさ」を知っている。一生に一度だけ体験する「ほんとうのなつかしさ」。その「なつかしさ」は、どこかでパバロッティの「なつかしさ」に似ている。それは「代表作」のひとつではあっても、「最高傑作/絶対作(?)」ではない。しかし、「これしかない」というものを内に抱え込んでいる。思わずこころが惹かれ、動くのである。
ひばりは音符が読めない、と言われた。パバロッティも「どうして譜面どおりに歌わないのか」と批判されたとき「音符が読めないんだ」と応えたという逸話がある。(映画には出てこなかった。)そのことと関係するかどうかはわからないが、パバロッティがジュリアードで教えたとき、女性に「君の場合は、演奏よりちょっと速く歌った方が魅力が出る」というようなことを言う。「楽譜」として存在する音よりも、自分の「肉体」のなかにある音を解放する、その力にまかせるということだろう。こういうエピソードを聞くと、ああ、パバロッティはただただ歌うことが好きだったんだ、自分の「肉体」の声にしたがって歌っていたのだ、ということがわかる。自分を解放している。だから、あんなに伸びやかなのだ。
(キノシネマ天神1、2020年09月24日)