詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロン・ハワード監督「ダビンチ・コード」

2006-05-20 22:50:56 | 映画
監督 ロン・ハワード 出演 トム・ハンクス

 非常につまらない。映画になっていない。主役は紋章学者のはずである。紋章(図柄)に隠された秘密を探る学者である。「図」(絵)が主役になっていいはずの映画だろう。しかし、この映画では主役は「絵」ではなく「文字」である。
 殺人事件があって、直後に「文字」を読まされる。つづいて文字の謎解き。しかもそれが文字の並べ替えである。トム・ハンクスの意識の動きを文字の色を変えて浮かび上がらせる。なんだ、これは。これが映画が。最初から怒りが込み上げてくる。
 トム・ハンクスが殺人事件の容疑者に仕立て上げられ、逃げながら、謎解きをする。その移動、場所の移動をのぞけば、すべてことばで説明される。つまり、映画として成り立っているのは場所の移動だけである。これでは観光映画である。夜のルーブル美術館は魅力的だし、トム・ハンクスの乗せて女刑事が町中を逆走するのはいかにもフランスぽいが、それだけである。しかも場所が変わるたびに、ご都合主義まるだしで新しい人物が登場し、ことばで事件を説明する。これでは、ひどすぎる。
 謎が「歴史」に絡んでいる、時間に絡んでいるから、ことばでしか説明できないということなのかもしれないが、こんなにことばに頼った映画は近頃めずらしい。(あの「グッドナイト&グッドラック」でさえことばではなく映像として成立していた。)名優のトム・ハンクスでさえ、演技をしている余裕がない。トム・ハンクスが主演をやっているから見に行く観客もいると思うが(私もそうなのだが)、そのトム・ハンクスに見るべきところがない。他の役者はそれ以上に見るべきものがない。
 しかも何を信じるかは、その人次第という結論ではどうしようもない。あまりにも観客をばかにしている。嘘でもいいから、トム・ハンクスはキリストが人間であり、その子孫が生きているということを信じているのか、あるいはそんなことは嘘っぱちだと判断しているのか、それを演技として明確に見せなければ役者をつかって映画にする価値がない。
 原作は小説である。小説はことばでできている。ことばでできている作品がことばに頼るのはいいが、そして、あらゆることをことばを読む人間の判断にまかせるのはいいが、映画は何より映像である。映像で観客に考えさせ、信じ込ませなくてはいけない。この作品では誰もその努力をしていない。ただ原作がベストセラーであることに頼っている。分厚い本を読むのが面倒だから映画で本を読んだ気持ちになってみるかという観客に頼りきっている。
 しかし、こんな作品では、あの部分がわからなかったから本で確かめてみるか、という気持ちすら起きないだろう。今年最悪の映画の一本であることは間違いない。見る価値はありません。時間の無駄です。

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若狭麻都佳『女神の痣』

2006-05-20 14:48:34 | 詩集
 若狭麻都佳『女神の痣』(思潮社)。視覚にこだわっている詩人だ。まわりの存在だけではなく、文字の視覚にもこだわっている詩人だ。たとえば「続・続・二重写しのトロンプルイユ」。

喉には
穴があいて
ことば
から


   抜け
      おちる

 こうした書き方を見ると、ふと疑問が浮かぶ。若狭には、ほんとうに、こんなふうに世界が動いて見えるのか。「色が抜けおちる」というのは存在から色が離れて落下していくというふうに見えるのか。それとも「抜けおちる」ということが親身に実感できなくて、ことばに頼って(あるいは、ことばの表記に頼って)、それを視覚として納得したいのか。私には、どうも後者のように感じられる。
 「色が抜け落ちる」というとき、私は、その色が、ある存在から離脱して落ちていくというふうには感じられない。抜け落ちた色がその存在の足元に落ちているとは感じたことがない。それは目に見えないままどこかへ消えてしまっている。抜け落ちるとは言っても落下ではなく、むしろ浮上して霧散する、どこにも存在しなくなるという感じがする。抜け落ちた色を、その存在のそばに見つけることは私にはできない。見つけるとしたら、その存在の近くではなく、むしろ信じられないような遠く、どうしてこんなところにあるのか、と思うようなところである。ああ、あの色はこんなところに存在していたのか、と発見することはあっても、その存在の足元に抜け落ちた色を見た記憶がない。
 そんなことを考えながら、私は、若狭はことばを見たことを書いているのではなく、見たいものがあって書いている、動かしていると想像する。しかも、ことばは見たいものを見たいものの形であらわしてくれると信じてことばを動かしている。

 若狭は、では何を見たいのか。「ことば」を見たいのだろう。あるいは「ことば」が隠しているもの、ことばでしか言い表すことのできないもの、見えないものが見たいのだろう。ことばで見えないものにたどりつきたいのだろう。たどりついて、しかも、それをことばとして見たいのだろう。「あらまほしき」。

初夏の夕刻。
風の疾さで
ことばが走る
熱が抜けはじめた足首に置き忘れた
懐かしい蝙蝠の
揺らぐ羽音
にわかに溢れてはひらめいて
少しとまどいながら
微笑む誰かが
瞳の隠れ家に
ほんとうの誰かを映している
そこだけは
とても明るい
せせらぎのように舞いながら
幽かに呼んでみる

“キミは…ぼく?”

 「微笑む誰かが/瞳の隠れ家に/ほんとうの誰かを映している」。肉眼で見ることができるのは「瞳」までである。それから先はことばでしか見ることができない。
 そして、そこに若狭が見ようとしているのは……。
 「キミは…ぼく?」と問いかけている。「わたし」ではなく「ぼく」ということばを選んで、問いかけている。「わたし」を直接見るのではなく、「ぼく」という虚構をとおして「わたし」を見ている。そうであるなら簡単だが、そうではなく、若狭は「わたし」ではなく「ぼく」を見たいのだ。「ぼく」はことばでしか見ることのできない若狭である。ことばでしか見ることのできないものに、若狭は自分自身をゆだねている。
 若狭は若狭であること、「わたし」であることを自覚している。たとえば「半身」。

半身の
蝉の姿をした
きみとわたしを
陶然と凝視(みつ)めている
わたしがいる

 そして「わたし」を見たいと望むとすれば、それはこの作品にあらわれているように「わたし」を見つめる「わたし」をこそ見たいのだ。そういう人間にこそなりたい、と言い換えればわかりやすくなると思う。「わたし」は常に存在するが、その「わたし」は理想の「わたし」ではない。ことばでたどりつきたい「わたし」、ことばでしかたどりつけない「わたし」ではない。ことばでしかたどりつけない「わたし」は、「わたし」をみつめる「わたし」である。

 詩集の最後にタイトルとなった「女神の痣」という作品がある。この作品には注釈がついている。「これは、白銀の毛におおわれ異様に光る三ッ目と、頭に一本の水晶の角を持つ美しいフェノメーヌが、わたしに囁いてくれた詩です。」
 「わたし」ではない誰か(ここでは「フェノメーヌ」と呼ばれている)がささやきかけてくれることば、「詩」そのものになりたい、ことばそのものになりたい、という欲求が明確に書かれている。しかも、若狭は、それを「声」として聞くだけでは満足できない、文字として形として、そのことばを定着させたいとたぶん願っているのだろう。ことばを見たい、ことばが見える通りに世界が存在すると信じて若狭は詩を書いているように感じられる。
 ことばは視覚でとらえられる、と信じて若狭は詩を書いているように感じられる。

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フェルナンド・メイレレス監督「ナイロビの蜂」

2006-05-20 02:06:34 | 映画
監督 フェルナンド・メイレレス 出演 レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ

 アフリカの映像が新鮮で、すばらしく美しい。冒頭に湖の上を跳ぶ鳥のシーンがある。白い影が湖面にも映っている。ことばで書いてしまうと、ハリウッドの監督の映像とフェルナンド・メイレレスの映像の違いがわからなくなるが、ハリウッドの映画とはまったく違った新鮮な映像である。構図そのものが違うのだと思う。意図そのものが違うのだと思う。フェルナンド・メイレレスは美しい構図を探していない。美しいアングルを探していない。どうすれば実際に見たままに映像化できるかを考えているようだ。初めての土地へ行ったとき、私たちはその風景の構図を考えることができない。世界を安定的にとらえる構図が、新しい土地では(あるいは新しい社会では)成り立たない。目はいつもよりも宙ぶらりんになる。視覚がむき出しになる。むき出しにさせられる、無防備にさせられる、ということかもしれない。そのむき出しのままの視線、無防備の視線が風景と出会い、一瞬一瞬、映像をつくりだしていく。それが新鮮で、とても美しい。
 この視線は、そして単にアフリカの風景だけに対してそうなのではないことが映画の展開とともにわかってくる。そこで展開される視線、映像そのものが徐々にストーリーそのものに変化していく。映像がとても濃密な時間となって立ち上がってくる。
 レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズが見ているものが何かを最初は知らない。知らないまま、レイチェル・ワイズにひきずられるようにして彼女の見ている世界をぼんやりと眺めている。そうした眺め方があるということを「頭」で認識して、なぞっている。ところが彼女が事件に巻き込まれ、死亡してから、レイフ・ファインズは彼自身の目でレイチェル・ワイズが見つめていたものと向き合うことになる。そのとき彼の目は丸裸である。予備知識がない。世界を見るための「構図」がない。むき出しである。その瞬間に見えたものを手がかりに、そのつど「構図」をつくりだしていかなければならない。どんな全体像になるかわからないまま、見たものを世界として定着させなければならない。この不安な緊張感が、新鮮で美しい映像になる。
 新しい映像がただ単に新鮮なだけではなく美しいのは、ありきたりのことばになってしまうが、それを支えるものが「愛」だからである。
 「愛」とは自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決意して他者に向き合うことだが、レイフ・ファインズがレイチェル・ワイズが死亡した後にとる行動はまさにそういうものである。レイフ・ファインズは自分の仕事を失う。大好きだったガーデニングもしなくなる。ただただレイチェル・ワイズが見つめていた世界、それがどんな「構図」をもつ世界なのかを追い求める。レイチェル・ワイズの視線の「構図」そのものを、彼自身の視線の「構図」にしてしまう。そうやって、レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズへと還っていく。究極の愛というものがあるとしたら、たしかにそれはこういうものだろう。
 エンディングが悲劇なのに美しいのは、そこには愛が完成したという印象が残るからである。
 それにしても、この社会的に重いテーマ、そして複雑で真摯な愛を、ハリウッドの文法とはまったく違った、大地に根ざした映像にして提出するフェルナンド・メイレレス監督の力強さはすごい。まったく新しい映像の積み重ねが、いままで見ていた世界をひっくりかえす。いままで見えていたものとは違った「構図」となって立ち上がってくる。感動してしまう。

 レイチェル・ワイズはこの映画でアカデミー助演女優賞を獲得している。主演女優賞を獲得した「ウォーク・ライン」のリーズ・ウェザースプーンも、それまでの印象を一新するすばらしい演技だったが、レイチェル・ワイズが主演女優賞にノミネートされていたらどうだったろうか。自己主張を曲げない剛直さと他者への深い愛をはっきりした視線で伝えるとてもいい演技だった。

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川越文子『美しい部屋』

2006-05-19 21:28:23 | 詩集
 川越文子『美しい部屋』(思潮社)。孫の誕生と、それにともなう思いが静かに語られている。書かれていることがらは孫をもった女性にとって共通の思いだろう。そこに目新しいものはない。そして目新しくないということが、この詩集のよさかもしれない。目新しくないことがらでも、そのつど書いていけば、おのずといままで書かなかったことを書いてしまう。持続のなかで、作者だけの発見が必然的に生まれてくる。「おさがり」はそういう作品だ。

一歳九ヶ月しかはなれていないあかんぼうなので
身につける全てのものがおさがり
おしめはもちろん
哺乳びんさえ
ベビーベッドにはすりキズがあり
だぼだぼの乳児服にはよだれのしみ
でも そのなかで
一心に問いかけてくるまっさらな笑顔
お古ばかりに包まれているから
なおさら目立つ まっさらなひとみ
お古がなんだい!
おれは生まれてきたばかりだ と

ああ そうだった
思ってみればわたしたちが立つ風景のすべては
おさがりだった

 なるほどなあ。風景は「おさがり」か。大切に受け継いでいかなければならないのは、「おさがり」としての風景そのものもそうだが、私たちの周囲にあるものすべてが私たちだけに属すのではなく、後世に「おさがり」として伝えていかなければならないという意識だろう。川越はそうしたことを声高には言わない。あくまで「孫がかわいくてしかたがない」という口調の中に隠して語る。その、一種の無邪気さが美しい。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(18)

2006-05-18 14:51:18 | 詩集
 「梅一輪 一輪ずつ」(『緩慢な時』)。不思議な7行がある。

梅一輪 一輪ずつ
梅一輪 一輪ずつ

緩慢な
じつに緩慢な時が咲きひらいてくる
祖霊
宇宙に悩み

 梅の一輪ずつの移ろいに時間を見ている。時間が「咲きひらいてくる」とは現在という瞬間の中に、それまでの時間が噴き出してくることをいうのだろう。「祖霊」、先祖の霊(過去の時間)が、その瞬間に見えると、渋沢は書いている。このイメージは『緩慢な時』全体に共通するイメージであり、それまでの「直列の詩学」「放電の詩学」とはずいぶん異なる。少なくとも「直列の詩学」では、そこに噴き出す時間が「過去」であるとは想定されていなかったのではないだろうか。逆にいままで(つまり、過去からいまにいたるまで)、ここに存在しなかったものが、新しいものが噴出するというのが「直列の詩学」のことばの運動だった。
 そして、その「祖霊」、過去の時間は「宇宙に悩み」、その結果として時間が開く、充実するという。梅一輪、いまここにある最小のものと宇宙が結びつけられる。直列させられる。直列というよりもむしろ「侵入」と言ってもいいかもしれない。たぶん、「直列の詩学」を「侵入の詩学」と言い換える時なのかもしれない。過去と現在が直列で結びつけられるとき、そこでは「時間」の侵入がある。「時間」は侵入してきて一瞬になる。一瞬は梅一輪の小ささ、はかなさではあるが、それは瞬時にして宇宙でもある。宇宙誕生の「ビッグバン」のようなものかもしれない。ここでは時間ははかれない。「緩慢な時」と渋沢は名付けているが、それは「緊迫の時」「ゆるぎない時」「濃縮された瞬間」とほとんど同じ意味である。「緩慢な時」と呼ぶのは、その瞬間をゆったりとしたもの、ひろがりのあるものとしてとらえたいという意志がそうさせるのである。

 先の7行の後の展開にもおもしろい行がある。

一輪 梅一輪ずつの移りはあり
亡霊のように人の面影も浮かんでくる
わたしのまだ行ったことのない東の都会
西の都会には
過ぎた性器の足跡を古書街に漁る友人や
時間の とりわけ空間の組成に関する
不可思議な図面を引いている友人がおり
それぞれに奇妙な信号を(または呪文を)送り届けてくる

 「奇妙な信号」「または呪文」は詩と読むことができるだろう。多くの人がそれぞれに「不可思議な図面」を描いている。それぞれに宇宙について考えている。そうした図面を渋沢は

時間の とりわけ空間の組成に関する

と定義している。「とりわけ空間の」という定義は、多くの友人は宇宙を「空間」の問題として考えていると語る。渋沢にそう見えるのは、渋沢自身は宇宙を「空間」ではなく「時間」の組成としてみつめたいという思いがあるからではないだろうか。「とりわけ」ということばは、渋沢の意識の中にひそむ志向を間接的に、そう語っている。

 宇宙を、世界を「空間」としてではなく、「時間」としてとらえたいという思いが、このころの渋沢にはあるのだと思う。
 「時間」の不思議さは、いまこの瞬間に過去を思うとき、その過去が「きのう」であっても「500年前」であっても、同じように結びつくことだ。いまときのうを結びつけて考えることと、いまと500年前を結びつけて考えることとの間に、時間的な困難さの差は存在しない。いまはいつでもどんな時間とも直接的に結びつく。(逆の言い方をした方がはっきりするかも知れない。私たちは、「きのう」へも「500年前」へも、けっして行くことはできない。その困難さに差は存在しない。これは「空間」の問題と比較して考えると不思議である。1メートル後ろ、あるいは1メートル先へはすぐに行ける。しかし100キロ離れた場所へはすぐには行けない。「時間」は物理的存在であるけれど、私たちへのかかわり方は「空間」とはかなり違う。特に「過去」は意識そのものに深く関係する。)

 「時間の直列」はほとんど「時間の侵入」と同じである。そこでは時間が重なり合う。重なり合うとき、ある時間と別の時間を隔てるものは何もない。それは「融合」なのか、それとも完全なる一体なのか。

 「梅一輪 一輪ずつ」ということばに誘われるようにして、私は「無」について思いをめぐらしてしまう。混沌としての「無」。すべての「生成の場」としての「無」。そこにあるのは「梅一輪」であると同時に「宇宙」全体でもある。私が梅を見るとき、私は梅になり、私が宇宙を思考するとき私は宇宙になる。
 「梅一輪 一輪ずつ」には謡曲『実盛』からの引用がある。『実盛』を引用するとき、渋沢は実盛になる。重なり合い、一体になり、その瞬間、二人を隔てる「時間」は消滅する。消滅することによって、時間は逆に豊かになる。はっきりと存在し始める。ゆったりとひろがる。「緩慢な時」とは、そうやって実現された豊かな時間のことである。
 「侵入の詩学」ではなく、ほんとうは「消滅する時間の詩学」というべきなのだろう。渋沢は、この作品の後、ゆったりと日本の伝統、文化と融合するが、そのときの基本的な姿勢がこの詩集の中に存在している。とても重要な詩集だと思う。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(17)

2006-05-17 12:35:21 | 詩集
 『緩慢な時』(1986)は特徴的な詩集である。主に謡曲が引用されている。引用とは他者との出会いである。他者が完成させたことばと出会い、ショートする。放電する。もちろん他者と出会って、他者のエネルギーを自己の内部に取り込む「直列の詩学」という方法も人によってはありうるだろうが、渋沢のころみているのは他者のアネルギーを利用して「放電」することだ。

 冒頭に「穴の設計図」という詩がかかげられている。第2連。

もうその難破のゆくえを追うな
追ってみても
どのみちしわがれた夜がしわがれた朝へと
誤報につぐ誤報をざらつく故意の血の色に染めて
迅速に さらに迅速にはこんでゆくだけのことだろう
とぎれとぎれに水があり 野があり 地平があり
地平を蹴やぶりつんざいて
音もなく天地を左右にひき裂く稲妻があり
それらすべてを呑みこもうと待ちかまえている口がある

 「口」と呼ばれているものが「穴」である。そこへ「誤報につぐ誤報」を投げ込んでいく。「つぐ」は「直列の詩学」の接続と同じ意味である。「誤報」とは直列の詩学の「爆発」あるいは「暴発」のことである。ことばの制御をこえた存在である。接続の意識があるからこそ、「とぎれとぎれ」という切断の意識もあらわれる。接続と切断が、渋沢のエネルギーを増大させ、また放電を経てゆるやかな状態にもどす。ゆるやかを「緩慢」と言い換えれば、それはそのままこの詩集のタイトルにもなる。ただ、この緩慢は弛緩とは違う。意図的にたくまれたものである。
 「穴」は放電した渋沢のことばを投げ入れる穴である。「仮死の浜 冥府の海」でこの「穴」が再び登場する。

歩きながら地球をまるごと引用して
みえない穴に投げこめば
わたしたちのからだは初めて自発的に動きだす

 ここに書かれた「自発的」ということばが重要である。「動きだす」ということばが重要である。直列の詩学は自発的な爆発であった。その爆発は爆発力を制御するものがないという意味において。放電でも、やはり自発的であることが要求されている。渋沢は常に自発的に動くことばを求めている。探している。自発的に動くことば、渋沢(個人)をはなれて、まるでことばそのもののに命があり、その命が自発的に動くように動いていくことばを求めている。

 『緩慢な時』は長編の詩で構成されているが、詩集そのものがまた一篇の「長編詩」なのである。最初の作品でつくりだされた時間が次の作品に引き継がれていく。それは自発的な動きである。エネルギーと意味が引き継がれていく。その引き継ぎの象徴が「穴」であり、引用という行為である。

 このことを、渋沢は遺伝子に触れる形で語っている。
 「穴の設計図」というタイトルは「遺伝暗号は、タンパク質の素材であるアミノ酸をつかまえる“穴”の設計図である」という遺伝暗号の謎を解明する生物物理学の学説からとられている。(それを紹介する新聞記事が引用されている。)蓄えてきたエネルギーを穴にむけて投げ込む。穴がそのなかから有用なものをつかみとり、そこからおのずと育っていく物がある。そういう「夢」が長編詩になっているともいえるだろう。「遺伝」の力、おのずと何かを引き継ぎ、動かしていく力、そういうものがこの長編詩では描かれている。引用されているものが謡曲などであることを考えると、日本の古典、日本語の古典を引き継ぎ、そこから何かが育っていくのを渋沢は願っているともいえる。

極微の穴から
無限大の穴までの
穴の輪廻をゆく者は
時に路地うらの酒場などにもあらわれ
いささかは秘密の言語を語り
酔態に沿う
そのつどの白紙のへりから
うつろな哄笑を残して去ってゆく

 これは詩人の「自画像」そのものだろう。「秘密の言語」とは詩にほかならないだろう。
 渋沢は、日本語の古典を引き継ぐための複雑な「遺伝子の穴」をこの長編詩で試みたのかもしれない。そうなることを願ったのかもしれない。



 「穴の設計図」にかぎらず渋沢の作品にはリフレインが多い。「穴の設計図」にはいくつかのリフレインがあるが「秋の夜の/雨の音のなかにひそむ/ひそかな惨劇は」という行が目を引く。耳をとらえる。特に変奏が美しい。

あらためて秋の夜の
雨の音のなかの
ひそかな惨劇が窮迫し
 
 「あらためて」が特に美しい。冒頭の「あ」だけではなく「あらためて」のなかにひそむ「あ」の響きが「秋」の「あ」「雨」の「あ」と通い合い、喉、口蓋に快感が走る。


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八木道雄「たしかめたいだけ」

2006-05-16 22:50:13 | 詩集
 八木道雄「たしかめたいだけ」(「石の詩」64)。
 詩を読んでいて絶句してしまうことがある。ことばが、もうそれだけ、それ以外にありえないと思い、ただそこに書かれたことばを繰り返し繰り返し読むしかないときがある。八木道雄の「たしかめたいだけ」がそれである。

谷の木にさわるとき
ぼくは 木になりたいのではない
ぼくは ただ ぼくと木を つなぐ
はるかな なにかを たしかめたいだけ
青空の 風にそよぐ葉が ぼくとひとつだった頃の
淵の光を 探したいだけ
たとえば ぼくが右手で 木が左手だった頃の
ぼくが見たかもしれない でもすっかり忘れはてた
河原に落ちる 吊橋の 美しい影など

 私は、ここに書かれていることばのすべてに魅了されたわけではない。「ぼくが右手で 木が左手だった頃」ということばに私は魅了された。私はたしかにそういう瞬間を知っている。大好きな木に触る。私が右手で木が左手である、という瞬間がある。そのとき目が葉っぱだったのか、耳が葉っぱだったのか、あるいはひっそりと隠れている鳥が耳だったのかわからないけれど、たしかにそういう瞬間かある。
 八木は「たしかめたいだけ」と書いているが、ほんとうは「たしかめ」なくてもそうであることを知っていると思う。たしかめる必要などない。ただ木にさわれば、それが実現する。そういう木がある。ひとには、それぞれそのひとの木がある。そういう木を持たないひとは不幸である。八木はそういう木をもっている。私もそういう木をもっている。ただ、そういう幸福を感じる。
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「グッドナイト&グッドラック」

2006-05-15 23:09:32 | 詩集
監督 ジョージ・クルーニー 出演 ジョージ・クルーニー、デビッド・ストラザーン

 アメリカのマッカーシー旋風と戦ったCBSニュースキャスター、エド・マローを描いている。
 モノクロである。
 モノクロならではの映像と思い、感心したのは、エド・マローが最初に登場し、壇上であいさつする前のシーン。煙草を吸っている。紹介されて壇上へ出ていく。そのとき胸に吸い込んだ煙草か吐き出される。ライトのなかでその吐き出された煙の動きがくっきり輝く。そのとき、エド・マローの肉体がくっくり浮かび上がる。これから自分は意見述べる、それは自分の生涯をかけたことばである、という決意、決意のための深呼吸のような深々としたものがくっきりと伝わってくる。
 このシーンで、この映画は完全に成功した。エド・マローの肉体を私は完全に信じてしまった。これからはじまるのは単に歴史としてのエド・マローのストーリーではなく、ひとりの生きた人間の、決意に満ちた生き方を描いているということを確信してしまう。
 役者の肉体、その映像というのは、すごい力である。
 ひとりの役者が確実に肉体をもってあらわれると、それにつらなる役者も同時に肉体をもち始める。ジャズシンガーのダイアン・リーブスが特にすばらしい。映画のストーリーとは関係なく、というか、ひとつのエピソードが終わるたびに間奏曲としてジャズが流れるのだが、彼女の歌声と肉体が、彼女ひとりで当時の社会全体を画面に呼び込むのである。テレビ局以外の風景というか、記録された映像(ニュース)以外は出て来ないのに、その瞬間に1950年代が姿をあらわす。
 モノクロの、余分なものを削ぎ落した感じそのままの映画になっている。

 ジョージ・クルーニーがモノクロを選んだ理由は、別なところにあったかもしれない。視覚が色彩で攪乱されない分、耳がとぎすまされる。ことばをくっきりと立ち上がってくる。映画にとってことばはあまり重要な要素ではないと思うが、この映画の場合は、ことばをとおして戦うジャーナリズムを描いているので、ことばが立ち上がってくるように工夫しているのだと思う。エド・マローのジャーナリズムは何を伝えるべきかを、かたくなに語りかけるラストシーンは感動的である。思わず背筋をのばして耳を傾けてしまう。
 この映画がすばらしいのは、しかしジャーナリストのことばを立ち上がらせるだけではなく、映像そのものとしてもマッカーシーの間違いがわかるようにきちんと描かれている点だ。ことば、あるいはエド・マローという人物の偉大さだけに頼らずに映画をつくっている点だ。マッカーシーが繰り広げる裏付けのない「情報」、恣意的な論理展開の乱暴さを、この映画は映像として暴いている。同時に、そうしたマッカーシーの間違いを映像としてどう処理すれば明確にできるかという工夫のありよう(報道の仕方)も丁寧に映像として描いている。つまり、映像でジャーナリズム論を展開している。どの映像に、どうコメントするか、映像とコメントの配分をどうするか、など。この処理はあまりにてきぱきしているので(映画という上映時間内に処理されているので)、みごとを通り越してちょっと怖い部分がある。エド・マローのストーリーが前面に出すぎて、当時のアメリカの社会全体の苦悩のようなものがどこかに置き去りにされている感じがする。エド・マローと彼のまわりの人物が立派すぎて、人間の苦悩があいまいになった感じがする。これは、まあ、無い物ねだりの蛇足の感想かもしれないが……。

 ところで……。
 モノクロ映画というのは久しく見ていないので印象があいまいだが、この映画は最初からモノクロフィルムで撮影されたのだろうか。カラーフィルムをモノクロ処理したのだろうか。映画がはじまって最初の方の白の輝きはたしかにモノクロフィルムという感じがするが、途中はちょっと違う感じがしてしまった。光のめりはりが平板な感じがした。映像を見つづけているうちに単に私がモノクロの画面になれてしまったのかもしれないが。
 詳しい人がいましたら教えてください。

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ゲーリー・ソト「農場の詩」(再び)

2006-05-15 15:23:13 | 詩集
 ゲーリー・ソト「農場の詩」(越川芳明訳)(「現代詩手帖」5月号)の感想を書きながら、何かを書き漏らしている気がする。毛虫が鍬で切られる。ちぢんで環のようになる。それがなぜそんなにも美しく見えるのか。ほんとうは哀れな姿なのに美しく見える。太陽の光まで見えてくる。それはなぜなのか。

農場監督が ピューと口笛を鳴らすと
弟と僕は
鍬(くわ)を肩に担ぎ
農場を後にした。
バスのところにもどりながら
ブロークンの英語で ブロークンのスペイン語で
おしゃべりした
レストランの食事にも
ダンスのチケットにも
稼いだ金をつかう気がしなかった

ひび割れたバスの窓ガラスから
僕は綿花の葉を見た
小さな手がさよなら と合図しているみたいだった。
三月は綿花のために長い列を鍬で掘った
土埃が大気中に舞い
鼻の穴に入ってきた
目にもだ
手の爪の先には黄色の土が

鍬がぼくの影の上を
行ったり来たりして 雑草や
太った毛虫が真っ二つにちょん切られ
ちぢんで
環のようになって

太陽が左側にあって
ぼくの顔を射したとき
汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり
ポタっと落ちて 初めて
地面に触れた

 自然とは人間が太刀打ちできないものである。そのことを感じる。そして、それを美しいと感じる。自然の非情さが、存在のすべてを美しく感じさせる。
 農業は人間をむき出しにする。自然が相手だから、どうしても人間の肉体そのものが自然と直接的に触れてしまう。
 「土埃が大気中に舞い/鼻の穴に入ってきた」が強烈だ。自然は単に「触れる」のではない。人間に侵入してくる。その侵入を鼻の穴の粘膜がじかに感じる。直接を通り越して、なんとういかむりやり感じさせられる。そんなものを感じたくはない。しかし感じて、交わって、生きていく。それが農業だ。
 こうした繰り返しのなかでつくられる死生観は「無常」へ通じる。人間はやがて鍬でちょん切られた毛虫のように、ちぢんで輪になって、風と一緒に飛んで行くしかない。そうやって自然に、世界に帰っていく。土に触れていると、その還元の感じが直接的に触れてくる。人間も自然の一部だということがよくわかる。
 こうしたことは「貧乏」である方がリアルに感じる。機械ではなく、鍬で、鎌で、自然と向き合う。ほとんど手で向き合うというのと同じだ。体全体をつかって自然に帰るのだ。だから、そこで出会う生な肉体が毛虫であっても、その肉体にこころが反応する。それはほとんど肉体そのものの反応といってもいい。
 ゲーリー・ソトが自然そのものと肉体で交感しているは、最終連の「海」が如実に語っている。

汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり

 「僕の中にある海」。
 絶句してしまう。綿花畑で働きながらゲーリー・ソトは目の前の大地、渇いた土や毛虫と一緒にいるだけではない。その足は、そこから遠い遠い(たぶん、遠い)海へとつながっている。足が、手が、肉体が海とつながっている。
 巨大な、それこそ人間の太刀打ちできない世界そのものが、綿花畑で働くという行為をとおして詩人の肉体のなかで完成している。そこには肉体以外の何の装飾もない。「貧乏」の美しさは、その装飾のなさからくる。素手の肉体の美しさ。肉体を飾るものがあるとすれば汗だけである。肉体を磨くものがあるとすれば労働だけである。

 ここから世界がはじまる。その世界をゲーリー・トスは叩いても壊れない堅実なことばにしている。ことばそのものが肉体になっている。

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ゲーリー・ソト「農場の詩」

2006-05-14 22:00:27 | 詩集
 ゲーリー・ソト「農場の詩」(越川芳明訳)(「現代詩手帖」5月号)。
 詩人が描いているカリフォルニアと私が暮らした田舎は風景が違う。しかし、どんな風土のなかでも生きている人間、生きている虫には差がないようだ。

鍬がぼくの影の上を
行ったり来たりして 雑草や
太った毛虫が真っ二つにちょん切られ
ちぢんで
環のようになって
風と一緒に飛んでいった

 この6行、特に「太った毛虫が真っ二つにちょん切られ/ちぢんで/環のようになって」の3行がとても気に入った。鍬でも鎌でもなんでもいいが、草と一緒に毛虫を切る。その毛虫が黒い血を流しながら丸くなる。私とは何の関係もない虫、殺されてあたりまえの虫なのに、なぜかとても親密な感じがする。ゲーリー・ソートはそんなことはひとことも書いていないが、こんなふうにきちんと描写するのは、その毛虫に何かを感じているからだろう。
 「貧乏」を感じているのかもしれない。
 「貧乏」というのは、自分がもたないもので何かをされたとき、それを防ぎようがないということだ。毛虫が鍬や鎌に対して何の防御方法ももたないように、貧乏はまたあらゆるものに対して防御方法をもたない。切られたら、腹を抱えるようにして丸くなって死んでいく。これは哀しい。
 貧乏に救いがあるとしたら、そんなふうにしていつも何かの具体的な死をみつめることかもしれない。人はいつでも死ぬ。無残に死ぬ。だが、それまでは生きている。何があっても生きている。--矛盾でしかいえないが、不思議な交感がある。毛虫と肉体を共有できる。憎しみと、声にならない怒りを共有できる。そしてたぶん、殺されるときに流れ出る血の熱い熱い感じを。

 無情の美しさを感じた。なつかしく感じた。とてもとてもなつかしく感じた。

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シネィド・ィーリスィー詩選

2006-05-13 14:11:17 | 詩集
 シネィド・ィーリスィー詩選(熊谷ユリヤ編訳)(「現代詩手帖」 5月号)。
 4篇の作品が訳されている。どれもおもしろい。共通して感じるのは、ことばの展開のなかに時間が噴出してくることだ。今、ここではない時間、しかし、今、ここにある時間に共通するものが瞬間的に噴き出てくる。そして今そのものを攪乱する。それはたとえば「逃避行」のように歴史を題材にとったものでは逆に歴史の一瞬のなかに現代が、現代までの歴史が突入するという形をとる。

わたくしたちの聖なる殉教者、父君たる王の処刑後、
ウォースターの戦いでクロムウェル軍に大敗の後、
正当な世継ぎたる王は、逃避の身となりました--
腐った胡桃の染料で父白の高貴な肌を浅黒く染め
ある時は樵として、ある時は下僕に身をやつして--
西暦紀元一六五一年 夫は王党派のわたくしを
鉄轡の仮面の拷問にかけました。わたくしは
舌を動かしてはならないことを学ばされたのです。

 歴史はしばしば男の(この作品に則していえば、王の、あるいは戦争の)歴史として記述されるが、その影には女の記述されなかった時間がある。その時間が、今、この詩のなかで歴史を描くふりをして、現代に復讐している。シネィド・ィーリスィーの詩は時間の復讐である。

 「塩を称えて」はイラク戦争を批判している。

朝、卵に塩を振りかけている。あれから
一年が経とうとしている。ラジオでは「われわれが直面する
脅威--」のドキュメンタリー。鋭く切り込み
鞭打つ声は、ガラスを粉々にする甲高さ。
イラクの資源が石油ではなく塩だったなら? 湯沸かしの
音も忘れて、数秒間、想像にひたる。ダヴィンチの食卓。
ユダが塩を振った時、魂の救済も零れ、今でも
私たちは、殺しに手を染めようとしている。

インドは「塩の行進」で大英帝国を揺さぶり、独立した。
塩は私たちを作り、私たちを、そこへ導くもの。

 最後の「そこ」とは何を指しているだろうか。「そこ」としか名付けることができない時間である。なぜ「そこ」としか名付けられないか。いたるところに、そのつど、出現するものだからである。
 そしてそこには、いつも愛と憎しみが共存している。

 「遺伝は存在の証」。父と母。その反目。それでも今、「私」がここにいるのは父と母の愛があるから。

父は私の指にいる。けれど、母は私の掌に。
私は両手をかかげ、喜びにひたり眺める--
父母が、この手に存在の証を刻んだことを知っている。

たとえ遠く離れ反目し合っていても、たとえ北半球と
南半球で、別々の恋人と眠っていても、私の指と掌が
触れ合う場で、ふたりは触れ合っている。

 この肉体感覚は、深い。「触れる」は肉体そのものの存在をあらわす感覚だ。触覚がなかったら人間は存在できるだろうか。そんな疑問までつきつけてくる、深い深い行だ。強いことばだ。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(16)

2006-05-12 14:36:37 | 詩集
 『薔薇・悲歌』(1983)にひっそりとした作品がある。「周囲の色も」。

二月は
むろん追憶の季節でもなければ
未練の季節でもない
二月は満ちてくる水のとき
ひと知れぬ痛みをくぐり
仮面を棄て
頬のあたりに思いもかけぬ
出来事がひりひりとにじんでくるとき

この書き出しがほぼ同じ形で最後に登場する。

なぜなら二月は
追憶の季節でもなければ
未練の季節でもない
ひと知れぬ痛みをくぐり
仮面を棄て
頬のあたりに思いもかけぬ
出来事がひりひりとにじんでくるとき
すでに少しずつ
周囲の色も発しはじめて

 大きな違いは「二月は満ちてくる水のとき」が削られ、その後2行が追加されていることである。なぜ「二月は満ちてくる水のとき」は削除されたのだろうか。なぜ渋沢はその行を余分なものと判断したのだろうか。
 「満ちてくる水のとき」その「み」の繰り返し。それは前の行の「未練」の「み」に通じる。「未練」ということばでは言い足りない何かがあって、それを補うために「満ちてくる水のとき」と書いたのだろう。そして、その言い足りないものを、似た行のなかに挟まれた部分で書いてしまったので最後の方は「二月は満ちてくる水のとき」という行を省いたのだろう。

 間にはさまれた行に次の10行がある。

わたしは芸もなく
居あわせた南の人と
島の海辺の熱い樹のはなしをした
熱い樹や
月々の花のはなしをした
近いですね
とその人は言い
そうですね
とわたしも言った
ほかにどんな応答がありえたろう

 この10行が私はなぜか非常に好きである。具体的なことは何も書いていない。居あわせた人を渋沢は「南の人」と書いているが、彼が南の人であるとわかるためには、そこに書かれている以上のことがらがすでに存在したということでもある。そうしたものを省略し、さらに「近いですね」というときの「何が」を省略している。だからこそ、その「近いですね」だけが突然立ち上がってくる。「近いですね」ということばを発する人が立ち上がってくる。それに対してただ「そうですね」と答える。ほかにどんな応答もありえないという。
 ここに何か「未練」そのものが潜んでいるように私には感じられる。
 何か共通する「主語」(「近いですね」の主語)がある。しかし、それはほんとうは「わたし」にとっては近くはない。けれど「そうですね」としか言いようがない。南の人とわたしのあいだには微妙なずれ、感覚の差異があるのだけれど、それはことばで明確にすべきものではない。あるいは明瞭にできない。そうしたものを抱え込んだままじっとしている。それが「未練」の定義である。「未練」でありながら「未練」ではないと言う。そのときのほんとうの未練がここにある。どこからともなく「満ちてくる水」のようなものが。ただし、どこからともなくというのは方便で、ほんとうは「どこから」がはっきりわかっている。
 「思いもかけぬ/出来事」という表現もあるが、実は、思いもかけぬことなどありはしない。すべて「思い」そのものとして立ち上がってくる。
 そんなふうにして2月には、すべてのものが「色」を発し始める。色が形を明確にし始める。2月のなかにある季節(自然)の変化と人間のこころのなかにある「未練」のおだやかなあらわれ方、「未練」が色を発する瞬間のようなものが、ここにはとらえられていると思う。

 さっと読みとばしてしまうのだが、読みとばしたあとで、なぜか再び「近いですね」「そうですね」という対話が読みたくなって読み返してしまう作品である。
 「周囲の色も」の「も」が「何」と「周囲の色も」なのか感じるようにと、ひっそりとささやきかける作品である。


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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(15)

2006-05-11 15:06:39 | 詩集
 「夾竹桃の道」(『回廊』)の書き出しは渋沢の詩にしてはきわめてめずらしい。イメージではなく「意味」が前面に出てくる。

苦しい夏も
熱狂的な気晴らしも果てた
われわれの愛も詩法も
破れかぶれだとひとはいう
いいではないか その通りなんだから

 だが、これはほんとうに意味なんだろうか。意味ならば「熱狂的な気晴らし」が何を指すか明瞭でなければならない。「愛」「詩」が何を指すのか明瞭でなければならない。「苦しい夏」と「熱狂的な気晴らし」が「も」という並列に存在しなければ理由も明瞭でなくければならないし、「果てた」が「苦しい夏」「熱狂的な気晴らし」を主語とする動詞なのか、あるいは渋沢特有の行わたりがここに存在し、それが「愛」や「詩」を修飾することばなのかも明瞭でなければならない。しかし、何一つ明瞭ではない。何も説明されていない。
 これはイメージなのである。
 何も目指すものがない。ただ目の前に空白があるというイメージを言語に置き換えたものである。たまたま季節が夏だった。だから夏に向き合って、その夏の空白に向けて渋沢はことばを動かしている。放電している。
 「意味」がもし存在するとするなら、それはその後のことばのなかにこそある。

この季節とともにいまあまりにも身近に
突然に果て過ぎ去ろうとしているものたちがあり
いつのまにか忍び寄っていた
ひそかな翳りが
眼路いっぱいにひろがる気がする

 「気がする」が「意味」である。何かが「たちあがり」「翳りが/眼路いっぱいにひろがる」という「気がする」。明瞭なのは「気がする」ということだけである。「気がする」だから、もちろん対象は不明瞭である。
 あとは、その「気がする」というものを、ひたすら言語化する。イメージ化する。内在するエネルギーを外部へむけて放出する、放電する。
 「気がする」という「気」はそうやって明瞭になろうとするが、なかなかうまくいかない。だからこそ「気がする」というのだが、明瞭なものが「気」だけであることは、繰り返される「気」ということばが証明している。

逃れでてわびしい病院のそとの道を歩くと
紅い夾竹桃の花がいっそう不吉な気分を掻きたてる
ああその塀のあたりに
ひとはなんと気遠い時間を溜めているのだ

 ここに書かれた「気」(気分を含む)を2行目の「気晴らし」の「気」と結びつけて見直すと、その「気」が滞留したものであることが明瞭になる。目の前に「気」が滞留していて、何もできない。どこへも進むことはできない。直列の詩学ならば、内部に「気」を蓄積し、それを爆発させることで前進できるが、放電の詩学ではそうはいかない。放電するためには、空白が必要だ。無が必要だ。しかし、目の前にあるのは何もない空虚にみえながら、実は、あらゆるものが滞留した状況である。
 ほんとうに目の前にあるものが何もないのだったら、渋沢は、最初の5行を書かなくてもよかった。ところが目の前には「無」はない。「気」の滞留がある。

わたしにしてもこんなときこそ生の繁吹の
ほうにむかってどのようにか
力づよい一行を踏みだしたいと希うがうまくゆかず
打ち砕かれた前歴を通じて
べつの世界をあらためて分娩するはずのものは
みえない檻に〈監禁された監禁者〉よろしく
仕末におえぬ袋小路であえいでいる

 この「自画像」に「意味」がある。「意味」が動いている。「力づよい一行を踏みだしたいと希う」というのが、この時期の渋沢の姿だろう。直列の詩学は常に「力づよい一行」を生み出した。一歩一歩がエネルギーの爆発へむけて進んでいった。放電の詩学ではそうはいかない。
 一種のとまどいがここにある。それがそのまま言語となっている。
 放電の詩学を生きる渋沢は、この詩を再び「自画像」で締める。

あまりにもしずかな影を扱いかねて
気遠くあまりにもしずかな影を扱いかねて
わたしは吐いている
いつまでもただひたすら吐いている

 「あまりにもしずかな影を扱いかねて/気遠くあまりにもしずかな影を扱いかねて」に再び登場する「気遠く」。この2行は、その「気遠く」を強調するものであって、「あまりにもしずかな影」というのは修飾文である。(文法上は「気遠く」が修飾語であるけれど。)
 「気」の滞留。それを乗り越えてあふれるまで、ただひたすら、ことばを吐く、放電する。これが渋沢の放電の詩学である。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(14)

2006-05-10 22:14:19 | 詩集
 『回廊』(1979)について。
 渋沢の詩のリズムは、私には読みやすいものと読みづらいものとが混在する。どちらかといえば読みづらい。そうした印象があるなかで「回廊」はずいぶん風変わりだ。冒頭の1行が非常に読みやすい。

かいろう かいろう かいろうくぐり

 この行は「かいろう かいろう かいろうくだり」「かいろう かいろう かいろうめぐり」という変奏で繰り返される。「ろう」の繰り返しとそれを締める「り」の押さえ。耳にとても気持ちがいい、というよりも舌や口蓋、喉に気持ちがいい。(私は声に出して詩を読むことはないが、読むと自然に舌や喉が動いているのを感じる。)そのとき、私は最初の2回の「かいろう」はほとんど「かいろ」と読んでいる。「う」の音のほとんど消えてしまっている。そのくせ3回目は「かいろう」とゆったりと読んでいる。それは何か「ろ」という音を楽しむためという感じが残る。意味ではなく、音の楽しみが、ここにある。
 その「ろ」はしばらくして突然復活する。

櫓からろ 泥からろ
樹液のなかに巣ごもる燠火から炉へ

 「櫓からろ」の「ろ」は何だろう。「泥からろ」の「ろ」は何だろう。次の行の「炉」だろうか。私にはそうは思えない。何ものでもない「ろ」ではないだろうか。意味の(あるいはイメージの、と言った方がいいかもしれない)定まっていない「ろ」ではないだろうか。
 音が先に出てくる。そして、あとから「意味」が追いかける。イメージが追いかける。そして「炉」になる。
 「かいろう かいろう かいろうくぐり」も同じである。最初の「かいろう」は何ものでもない。2度目も何ものでもない。繰り返すことで、舌や口蓋、喉が記憶を呼び覚まし「回廊」になる。今、便宜的に「回廊」と書いたが、本当はまだ「回廊」にはなっていない。具体的なのは意味、イメージではなく、単に音だけである。
 だからこそ、この詩は、冒頭の1行のあと、1行の空白を挟んで

はじめの合唱のまえに

とつづく。渋沢は、この1行を「音」として手に入れている。どんな意味、どんなイメージもそのときは存在していない。具体的な意味もイメージも、何も存在しないまま詩ははじまる。それはつまり、具体的な意味(といっても渋沢は「意味」を求めているのではないだろうから、ここでいう「意味」とは便宜上、そう呼ぶだけの「意味」である)、あるいはイメージを求めて詩は展開するということでもある。

はじめの合唱のまえに
おどろくべき単一な水いろの雲や
地下のほらあなに鎖でつながれていた無地のゆめ
馬の神の特徴と海の神の特徴を
知られるかぎりの地図のうえにくりのべて
櫓からろ 泥からろ
樹液のなかに巣ごもる燠火から炉へ
七巻きして流れるわたし自身のふれ込みは
いうまでもなく芽ぐみのときの物狂いのせい

 音のなかで放電し、そこから何かが立ち上がってくるのをただ待っている。何かがあらわれてくるのを待つのが、いつのまにか渋沢の詩になったのかもしれない。特に「馬の神の特徴と海の神の特徴を」という行はそのことを明確に物語っているように思える。「馬」「海」と漢字で書くとまったく別の存在だが「うま」「うみ」と書き直してみると、それは単に音の違いにすぎない。音の変奏である。音があって、そのあとで意味やイメージがやってきているのである。

 そうしたことで一篇の詩はできるのか。もちろん完成するのである。それまでに直列の詩学でたくわえてきたエネルギーが渋沢にはある。渋沢のことばは、直列の詩学でエネルギーをため込んでいる。今はそれを放出するだけである。「七巻して流れる」(私はこれを「ななまきしてながれる」とな行のなかで読む)の「流れる」に従えば、渋沢は自分のたくわえたことば、詩学を、ゆったりと流れるままにまかせはじめているといえるかもしれない。
 作為を放棄する。そして、ただ渋沢が出会ったものと向き合うだけだ。何かに向き合えば、おのずとそこにショートが発生する。そして放電がはじまるという具合である。
 この詩には「宮川淳」という固有名詞が出てくる。この詩は宮川淳と出会い、そこからはじまった放電を描いているともいえる。

そう われわれは二人でなければならない

という行が詩の後半に出でくる。誰かに出会う、何かに出会う。そういうことがなければショートもない。放電もない。

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田中清光「声」ほか

2006-05-09 17:06:22 | 詩集
 田中清光「声」(「現代詩手帖」5月号)は水の描写が非常に美しい。

ゆたかにふくれる川の水
小さな叫びとともに土地から土地へ
生命も運ばれてゆく
もし太陽がどんより垂れかかることがあっても
川面の水のつよい張りが
水平線を支える

 川はどこまで流れていくのか。田中は水平線を越えて流れる川を描く。その水の力にうっとりしてしまう。水の力が体のなかにみなぎってくるのを感じる。
 つづけて田中は書いている。

水は
あふれこぼれるのではなく
休むのでもなく
不可逆の軌道にそって 人びとの体内をも流れ
往くものに
絶対自由へ
跳べ とおしえる

 「水は/あふれこぼれるのではなく」ということばは、まるで川の水が水平線を押し広げているような感じがする。「休むのでもなく」も非常にのびのびした感じがする。体を解放する感じがする。そういう感覚があるから「体内」ということばが異様に響かない。逆にぴったりくる。まるで、川の流れをみつめながら、水平線の向こうまで跳び越えていけそうな気持ちになってくる。
 田中が書こうとしたものは、最後の連を読むと、私の感想とは無関係のことかもしれないとも思う。しかし、そういうことはどうでもいい気持ちが私にはする。引用した14行(1行あきを含む)に私は感動してしまった。
 私の住む街に田中が描いているような大きな川はないけれど、思わず川を見に行きたいという気持ちになった。



 吉田文憲の連作「崩れ落ちそうな瞬間をつなぎとめて」(「現代詩手帖」5月号)は田中の詩とは逆に精神を非常に細密な部分へと誘う。

なにかを言わないために、なにかを言う。

それは隠されてあるものなのか、顕れてあるものなのか。

だが遠くとは、どこか。それはここに咲いている淡い花、その花の傍らで微笑んでいるいなくなった人たちの顔、それはこの朽ちたベンチにわたしが坐っているいまここでもあるのではないでしょうか。  (谷内注 「ここ」に原文は傍点がある。)

 それぞれ別の小タイトルがついている作品から引用したのだが、ともに共通する精神がある。あらゆることが不確かである。自己の存在証明は、いつでも自己の不在証明でもある。だからこそ、吉田は詩を書くのだろう。ことばを選択する。その一瞬に、「いま、ここ」が存在する。「ここ」ではなく「遠く」とつながるために。
 存在の遠近感は消える。
 詩とは、存在の遠近感が消え、宙吊りになることだ。
 そしてそれは、田中の「絶対自由」ともどこかで通い合うにちがいない。吉田のことばもまた「跳べ」とささやきかけている。それは離れた場所や高みへのジャンプというよりは深淵へのジャンプかもしれないが。
 吉田の描き出すこの緊張感も、とても美しい。

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