詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「雁信」

2007-12-02 12:45:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 海埜今日子「雁信」(「hotel 」18、2007年10月20日発行)
 ひらがなだけで書かれている。その書き出しが魅力的だ。

くうふくをおさえて、ぎょうかんをでかけた。

 「行間」が「ぎょうかん」にかわるとき、意識はどこをさまようのだろうか。手紙(たぶん、恋文)を読むとき、文字も読むが、同時に「行間」を読む。ことばに託された思い、書き表すことができなかったものを読む。そこには人に知られたくなくて書き表さなかったものがある。読み手に想像してもらいたいと願って、わざと書かなかったことがある。書こうとしたけれど、思いの方がことばを乗り越えてしまって、ことばが追いつかず書けなかったものがある。いりみだれ、ゆらぐ。
 --その揺らぎのなかへ入っていくようで、その書き出しに強くひかれた。

でんぶんはそらからふって、つもって、ひっぱりますか、ろうとのようにくちをあけ、あたしはとてもとりをまっていた、

 天から降るは下降の運動、積もるは停滞、引っ張るは、私は天へ引っ張る上昇、として読んだ。--そこには矛盾した動きがあり、矛盾しているからこそ、「待っていた」のこころが浮かび上がる。「待っている」というのは何かを一心に待つということがあるけれど、そのとき、「一心」とはいっても、心は乱れる。ふと、違うことを感じたりする。待っている--その待っているものは必ず来る、いやもしかしたら来ないかもしれない、来てほしい、いや来てほしくない、そうすればあきらめられる……といういくつもの心、矛盾した心が「待つ」のなかにある。その矛盾が「ふって、つもって、ひっぱり」という動きの中にある。ひながなの読みにくさ--それが、そういう心の揺らぎを呼び覚ますのである。平鹿なで書かれている理由がここにある。
 そして、その途中にふいに挿入される「ろうとのようにくちをあけ」という無機質な比喩と肉体の対比。無機質な形と放心した肉体の無防備感じ。その交錯がおもしろい。抒情におぼれていくのではなく、何かがそれを防いでいる。

あたしはとてもとりをまっていた、

 は「待っていた」であり、また「舞っていた」でもある。
 句点「。」ではなく読点「、」で終わり、改行で

まいますか、ふるいさほうに、くぎをうたれ、もじのしみかたをあおぎ、まとをいるようにして、はばたきのうけざらをつくってやらなければならなかった。

 「まっていた、」と書いたとき「待っていた、」と「舞っていた、」がすれ違い、入り乱れ、まじり、「待っていた、」から「舞っていた、」へずれてゆく。
 「恋文」を待ちながら、同時に「恋文」をはこぶ雁になる。「恋文」はもしかすると「あたし」がつくりだした幻かもしれない。願望かもしれない。来る保証はない。来てほしい。そういう願いがつくりだした幻かもしれない。
 だからこそ、

ともかくとりをなんとしてでもえがくのだ。

 ということばも生まれる。雁は実在の雁、恋文を運んでくる。それをはっきり現実にさせるために、ただ「待つ」のではなく、心を舞わせ、その心を空の中で実在の「雁」として「舞わせる」。そのとき、たとえほんとうの雁が来なくても、心の中で「雁信」が実在することになる。
 その、心が実在させるものをもとめて、ことばが揺らぐ。行き来する。「ぎょうかん」を。
 ひらがなが、とても効果的である。


コメント (1)
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豊原清明「月の音符を身にまとう」

2007-12-01 10:49:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「月の音符を身にまとう」(「火曜日」92、2007年11月30日発行)
 豊原のことばは、ときどき私を、私の生まれた家へつれてゆく。たとえば、「月の音符を身にまとう」。

白くなった木は
月の音符を浴びている。
どもう月には異星人がいて、
人にはきこえぬ音を立て、
木を黄色くし、紫にし、
真っ赤にする。
血しぶきをあげて
きえゆく人の、人の、
青臭い思い出。
僕は青をすべて削除できた。
この不安は青ではなく、
白である。

 私の家には柿の木があった。私はその木を見ている。月の光を浴びて白い。しかし見ているうちに、枝の先、幹の陰、ゆがんだこぶの周囲--さまざまな形のさまざまな部分で色が目を覚ましはじめる。白の中にあるさまざまな色が、夜の闇にひそむ力によって引き出されるのか、あるいは夜の黒のなかにひそむさまざまなものが白い光に吸いよせられて化学反応を起こすのか。それとも、単に私が現実を正確に見ることができないだけなのか。現実をゆがめてみているだけなのか。その瞬間、私は不安と、一種の恍惚とした喜びも感じている。木がそんなふうに見えることの不安と喜び。それを感じている。
 清原の場合は、どうだろうか。

僕は青をすべて削除できた。
この不安は青ではなく、
白である。

 この3行に、私は吸いよせられてしまう。引きつけられてしまう。そして、ふいに2行目を思い出すのだ。「月の音符を浴びている。」ふいに聞こえない音楽が聞こえるのである。聞くことのできない音楽が聞こえてくのである。つまり、沈黙が。
 完全な断絶が。
 それがとてつもなく美しい。

 詩は事実ではない。そして、事実ではないが、事実を含んでいる。社会生活をするすべての人が共有することによって社会関係を機能させるのに役立つ「事実」を詩はもっていないが、そのかわり社会生活とは関係のない個人的な事実を含んでいる。社会的な事実と個人的な事実のあいだには、どうすることもできない断絶がある。
 そういうものが断絶となって、すっと走ることがある。沈黙となって走ることがある。--それと共振する。共鳴する。そして何かがかわる。
 そのとき、私はたとえば「火曜日」という詩誌を読んでいない。パソコンに向かってもいない。生まれ故郷家にいて、夜中、月の光で白くなっている柿の木を見ている。
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