詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「ためいき営業」、呉生さとこ「生贄の女王」

2009-01-25 09:01:46 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「ためいき営業」、呉生さとこ「生贄の女王」(「モーアシビ」16、2009年01月20日発行)
 
 「モーアシビ」の詩人たちの作品はとても長い。そして、その長い長いことばが、とてもすばやく進んで行く。状況を反芻しながら(ただし、違ったことばで反芻しながら)、状況がふつうとは違った方向へ動かしていく。
 白鳥信也「ためいき営業」の、最初の方の部分。

一瞬、机の周りの空気がなくなってすかすかになる
急に息が苦しいなって思うと、その人のなかに空気がはいっているんだよ
吸ってるんじゃない、はいってゆくんだよ

 一度「吸ってるんじゃない」と否定の形で状況を説明して、もう一度前にもどる。この切り返しが「すばやい」。
 ふつうは、呼吸をするとき、ひとは「空気を吸う」というけれど、そういうふつうではないということを「否定」を交えて明確にした上で、「はいってゆくんだよ」と「入る」を強調する。その「強調」が切り返しのすばやさによって増幅する。つまり、いっきに白鳥の世界にひきこまれる。
 一度、そんなふうに「ふつう」を「否定」してしまうと、あとはもうどんなことを書いてもいい。微妙な部分で「ふつう」を「否定」し、「ふつう」からずれてゆく。そこから描写はさらにていねいになる。ていねいになるのは、ていねいでないと、「ずれ」が加速しない。なぜ、そんなふうにずれてしまったのかなあ、と思わせてはいけないのだ。気づかれないうちに、どんどん加速し、「ずれ」を拡大してゆく。どこで「ずれ」たのかわからないまま、拡大してゆく。

空気がどんどんはいるから
その課長、急に天井を仰ぎ見るように反り返って
それから一気に肩をおとして猫背になって
半開きの口から
ためいきが出てくる
空気が静かに揺さぶられて落ちていくんだ
どこまでもどこまでも落ちていきそうな
哀しい息のかたまりみたいなんだ
床のあたりため息が渦巻いて
もうただならない世界に放り込まれたみたいで
眼の前がまっくらになるほどしびれて
そう、しびれんだよ、まったく
こっちの体の内側が、まったくなんていったら言いのかな
暗澹とする
そう暗澹とするんだけれどそれがかえって心地よさに変わるんだよ

 「こっちの体の内側が、まったくなんていったら言いのかな」は誤植で、ほんとうは「こっちの体の内側が、まったくなんて言ったらいいのかな」だろうけれど、この誤植がなんとも、この作品全体を象徴していておもしろいので、そのまま引用した。
 「ずれ」は、この「いったら言いのかな」の誤植のようなのだ。
 何かが違う。けれど、その「間違い」はじっくり眺めないと見落としてしまう。そして、白鳥のことばは、その「じっくり」を拒否するようにして、たとえば「吸ってるんじゃない、はいってゆくんだ」とか、「眼の前がまっくらになるほどしびれて/そう、しびれんだよ、まったく」というふうに、否定や肯定を強調する。「じっくり」考える前に、強引にことばを先へ動かしてしまう。
 これは同時に、「いったら言いのかな」のように、白鳥自身をも錯覚させる。白鳥自身がことばのスピードを制御できずに、奇妙なところへ突き進んでしまう。どこへ進んでいるかわからない(方向を制御できない)から、白鳥の作品は長くなるのである。
 これは、しかし、欠点ではない。どこまでもどこまでも、ただスピードにまかせて突き進んでゆけばいいのである。そうすれば、その奇妙なことばは、私たちが日常つかっていることばが(流通していることばが)、やはり無意識に加速しているかもしれない。加速したまま、「ずれ」ていってしまっているかもしれない--という自省をうながす。そういうことを考えさせるためのことばである。



 呉生さとこ「生贄の女王」も長い。子宮ガン(?)の手術を受けたときのことを書いてる。
 呉生も「ずれ」を描いているが、それは「ずれ」というより、一種の飛躍であり、飛躍によって彼女自身を世界から切り離し、同時にことばの運動も「世界」とは無関係にしてしまう。ただし、「世界」とは無関係であるが、呉生自身の「肉体」とはしっかり関係づける。

ヒトツ ヒザヲカカエテ
フタツ マルマッテ
ミッツ オヘソヲノゾキコンデ
ヨッツ フカクコキュウシナサイ

わたしは従順に 用事の姿勢になって
深いへその穴からへその緒の先を覗き込む
ああ なんてエロティックなからだ
硬くとがる恥骨のかたち
五月の草のように生える恥毛
病んだ子宮が縦一文字に切り裂かれると
母と性交した新月が
祖母の膣を突き刺す三日月が
曾祖母の卵管を転がった十六夜月が
古びたまま 残っている

 呉生は「肉体」がどこまでも「母」とつながっていることを発見する。それは「いのち」の発見である。「いのち」はどこまでも、そしてどんなところへもつながっている。だから、どこまでもそれを追いかけて、追いかけることで、「世界」をのみこんでしまうことができる。「世界」をのみこんだとき、呉生が存在することを知っている。知っていて、呉生は延々とことばを書くのである。
 ことばが「肉体」になり、「いのち」になっていく運動といえる。




アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(14)中井久夫訳

2009-01-25 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
地下室付三階建    リッツォス(中井久夫訳)

三階には貧乏学生が八人。
二階にはお針子が五人と飼い犬が二匹。
一階には地主とその養女と。
地下室には籠類と瓶類とねずみと。
三つの階の階段は共通だった。
ねずみは壁を登った。
夜、汽車が通る時、ねずみたちは
煙突から屋根に出て、
空を眺めた。雲も。庭の柵も。
料理店の灯も。
その下ではお針子が鎧戸を閉めた、
口にいっぱい針をくわえて。



 静かなスケッチである。
 6行目からはじまる「ねずみ」の描写がおもしろい。ねずみがほんとうに空を眺めたり、料理店の灯を眺めたりすしたかどうかは、わからない。ねずみはほんとうはそんなことをしないかもしれない。けれど、そうさせたい。ねずみに、そういう行為をさせたい。--それは、その建物のなかにいる人間たちの夢である。ねずみに託して、そういう夢を見ているのだ。それは、そこに住む人間たちがしたくてもできないことなのだ。時間がなくて……。
 人間は、たとえば「お針子」は、ねずみになって、ずーっと何かをみつめているという夢を「鎧戸」を閉ざすように閉ざして、仕事にもどる。

 ほんのひとときの、つましい夢。ねずみによって、それがいきいきしてくる。そして、そんな気持ちで読み返す時、5行目が、とても美しく見える。

三つの階の階段は共通だった。

 貧乏学生が通る。お針子が上る。地主も養女も上る。ねずみは「壁を登った」とあるけれど、ときには(人間がだれもいないときには)階段を上ったかもしれない。だれもに「共通」の階段なのだ。おなじように、ねずみの夢も人間の夢と共通なのだ。生きているもの、いのちがあるものに「共通」の夢なのだ。

 「共通」ということばが、とても美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」

2009-01-24 12:31:36 | 詩(雑誌・同人誌)
茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」(「未定」13、2008年11月01日発行)

 茂田昌孝「断片・少年の四季--心の螺旋階段を降り下る--」はタイトルの副題の「降り下る」からもわかるように、ことばが少し多い。「降りる」か「下る」で「意味」は充分伝わるのだが、「降り下る」では、なにか念押しをされたような感じがする。たぶん、念押ししたいのだと思う。そういう「念押し」は私の考えでは、少し詩から遠い。「余韻」が消えてしまうというか、読者の想像力をあまり信用していないのかな、という感じもする。しかし、その念押しこそが茂田にとっての詩なのだと思う。言ったことを、もう一歩深めて、しっかりこころに刻む--そういう行為が茂田にとっては詩なのだと思う。
 <白雲と空蝉>の後半。

--暗く碧い心の 何処か分からない底に 何とも知れぬ
他に侵食されない 煌く粒子が生じて 次第に育ち
何時しか しっかり根を下ろし きっと大人になっても 老い惚けても
消滅せずに 中心に居据わるだろう--

 「しっかり根を下ろし」の「しっかり」。茂田は、自分の考えを「しっかり」書きたい。「しっかり」書くことで、考えを「しっかり」させたいなのかもしれない。
 「しっかり」が茂田のキーワードである。思想である、と思う。「しっかり」はなくても意味は通じる。意味は通じるけれども、そう書かずにいられないもの。そのなかに、無意識の肉体、思想がある。
 この「しっかり」は<暗闇が吹き付ける雪>では、別のことばで書かれている。その二つを結びつけると「しっかり」の思想がよりわかると思う。

夜の窓辺に烈風が雪を叩き付ける 純潔の新雪が張り付き
窓を開けるように誘う 突風の荒れる暗い外の様相は窺い知れない
部屋の隅で膝を抱えて寒気を凌ぎ 宿題の笛を作る
細身の竹を削り 細工を施し 一心に笛の製作に取り組む
見事な出来映えだが 吹けど 吹けどいっこうに音は出ず
もう一度 笛に心を込めて吹く --無音のままだ だからこそ真にぼくの笛
幼い孤独は仄かな灯火となって 胸の基底に潜む種子をひっそりと温める

 4行目の「一心に」は「しっかり」と同義である。「しっかり」とは「一心に」「心を込めて」(6行目)何かをすることである。そして、その「しっかり」「一心に」「心を込めて」すのことを、茂田は「ひっそり」(最終行)とも書き換えている。言い換えている。その行為は、誰かに向けてのものではなく、茂田自身に向けての行為なのである。
 自分の中に、「胸の基底に」だけ存在していれば、それでいいのである。他人に伝わるかどうかではなく、自分がそれを大切にしていればいい。自分自身がそれを守り通すことが大切なのである。
 ここには、ほんとうに静かな思想がある。たとえて言えば「無音のまま」(6行目)の思想である。鳴らない笛をつくる思想である。それがたとえ鳴らなくても、それをつくるとき、茂田のこころの中には美しい音が鳴りつづけている。鳴る、鳴らないは他人に聞こえるかどうかであって、聞こえる聞こえないを判断基準にすれば、その笛の音は茂田にはいつでも聞こえる。

 「無音の思想」、「無音」を「しっかり」胸に刻むためのことば--そして、その詩。こういう詩は、美しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(13)中井久夫訳

2009-01-24 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
輪    リッツォス(中井久夫訳)

同じ声だ。今はもっとしゃがれてる。それがあえぎつつ彼に告げる。
「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」。そう、いつも変わらぬ
繰り返しの輪。輪の中にあるのは
空の寝台。テーブルにランプだけが載って、
二本の手があてどなく
裏返し、表返すのを照らしている、
柔らかい黒皮の手袋のすっと長いのを二つ。



 この詩は、なんとなくエロチックな妄想をかきたてる。「声」が最初に出てくる。「しゃがれてる」「あえぎつつ」。そういう声が「「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」と告げる。「彼に」。カヴァフィスの詩なら、完全に男色の世界になってしまうが、リッツォスの場合には、どうも違う。「彼」というのは、そこにいる誰かなのか。私には、なぜか「俺」が「俺自身」を「彼」と呼んでいるように感じられる。自分自身に「告げる」。--こういういことは、ふつうは「告げる」とは言わないかもしれない。特に「彼に、告げる」とは言わないかもしれない。
 けれど、なぜか、ここにふたりの(あるいはもっと多数の人間がいる)という感じがしない。孤独な感じがする。それは「空の寝台。テーブルにランプだけが載って、」という描写が、人気(ひとけ)を感じさせないからかもしれない。
 「俺」は「空の寝台」をみつめ、テーブルの脇で、テーブルの上のランプの明かりで手元を照らして、手袋を繰り返し繰り返し、裏返し、表に戻すという「無意味」なことをしている。何の気晴らしかわからない。けれど、そうせざるを得ない。「もう、やめよう」と思いながらも、繰り返してしまう。「ここでやめて」と言いながら、同じことを繰り返す。止めることのできない繰り返し--そこに、孤独がある。

 この詩は、その繰り返しの孤独ゆえの魅力とは別に不思議な味がある。前半は「声」、そして聴覚。そのあとランプ。視覚。そして、最後に手。触覚。感覚が次々に移っていく。その移り変わりのあり方、かわってしまってもとにもどらぬ旅の感覚が--また、孤独を、ひとりきりであることを、せつなく浮かび上がらせる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェームズ・グレイ監督「アンダーカヴァー」(★)

2009-01-23 14:20:01 | 映画
監督 ジェームズ・グレイ 出演 ホアキン・フェニックス、マーク・ウォールバーグ、エヴァ・メンデス、ロバート・デュヴァル

 ロバート・デュヴァル、マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックスという組み合わせにひかれて見に行ったのだが、無残な映画である。組み合わせだけで、おもしろそうでしょ?
 でも、無残だった。
 麻薬組織の中に警官一家の末っ子がやくざな仕事をしている。父と兄はその末っ子を利用して麻薬組織を摘発しようとする。だが、末っ子の身元がばれて、悲劇が起こる。兄が銃撃され、父は死ぬ。その悲劇をきっかけにやくざな末っ子が復讐に立ち上がる。なんだか、二番煎じ、三番煎じみたいなストーリーだ。映画にとってストーリーは付随的なものだから、どんなものであってもかまわないと思うけれど……。
 この映画がつまらないのは、映像が「写真」である。簡単に言うと動かない。ひとが動いても(演技しても)、そのことによって映像が深まらない。ものが動いても、それによって映像が深まらない。
 最初の見せ場。末っ子が殺し屋からのがれてホテルを移動する。父の車と別の車が護衛にあたっている。そこを殺し屋が襲ってくる。土砂降り。その雨が活かされていない。きれのある映像が撮影できないので、雨で全体を見えにくくして、ごまかしているだけである。
 最後の見せ場。殺し屋を湖の葦原に追いつめる。火を放って、あぶりだそうとする。でも、待ちきれずにホアキン・フェニックスが煙の中は入っていく。殺し屋を追いつめる。このシーンも先の雨のシーンと同じく、せっかくの火と煙が緊張感を高めるというよりは、映像の細部をごまかすための手段になっている。まったくおもしろくない。
 雨も炎も煙も「もの」ではなく、説明になってしまっているからだ。映画は「説明」はいらない。ただ映像を「情報」として見せればいい。情報があふれかえって、観客がどう判断していいかわからなくなってしまってもいいのである。いちいち「説明」されると、何かを判断しなければならないという、切羽詰まった緊張感が消えてしまう。
 クライマックスというか、見せ所のシーンがそれだから、ほかは批判するのも面倒になる。いちばん観客がどきどきしていいはずのシーンだけ、批判しておく。
 ホアキン・フェニックスが麻薬工場にもぐりこむとき、隠しマイクを持っているのだが、それが敵(?)に見つかるシーンなど、笑い話である。ポケットからマッチとライターが出てくる。このとき、観客は誰だって、「なぜライターを持っている人間がマッチをもっている?」と思う。それを、わざわざ麻薬組織のボスがホアキン・フェニックスに問いかける。そのあとで、ライターを分解して隠しマイクを発見する。小説ではないのだから、こういうことを「ことば」で説明しては映画にならない。そんなことをいちいちことばで問い詰めるやくざがいるとしたら、それは場数を踏んでいないやくざであって、そんな人間が麻薬組織を動かせるわけがない。
 すべてが説明過剰だから、映像が間延びしてしまう。「ことば」の情報量は、映像の情報量に比べてとても少ない、ということをこの監督は知らないようである。少ない情報で多いはずの情報を説明しようとするから、映画にスピードがなくなるのである。ことばは少なくなればなるほど、映像は緊迫感が出てくる。雨の中の車を走らせながらの銃撃も、「伏せろ」だとか「大丈夫か」などという必要はないし、燃える葦原へホアキン・フェニックスが入っていくシーンでも「どこへ行くんだ、やめろ」というような間延びしたことばはいらない。
 あくびをかみ殺すのに苦労する映画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺正也「木」

2009-01-23 08:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺正也「木」(「石の詩」72、2009年01月20日発行)

 渡辺正也「木」は、清潔なことばが響きあう。その共鳴が美しい。書き出し。

木が倒れたのは
骨が崩れたせいだ
音もなく
根元が透きとおるように砕けた

 「木」は「骨」の一文字によって、「木」そのものを超越する。「人間」になる。そして、それは「死」を呼び込む。しかも「透きとおった」死を。
 これが7連目と響きあう。

野に出しておけば
やがて無うなります
と 僧が言うので
ホトリ ホトリ と折って束ねた

 これは単純に読めば、倒れた木を野ざらしにし、やがて土に還っていくのを自然にまかせるということ、少しでも早く土に還ることを願って、あるいは風にさらされてチリになって、どこかに消えてしまうことを願って、木の枝を折るということになる。しかし、そのせつめい(?)を僧がしたとなると、その「木」はまさに「骨」になる。そして、それは「木」の根幹ではなく、人間の「根幹」になる。
 人間の骨も、「野に出しておけば/やがて無うなります」となるか。ならない。けれども、そうなることを願いたい気持ちがどこかにある。死んで「骨」が残されるのではなく、「無」そのものになってしまう気持ちがどこかにある。人間も、そんなふうに消えてしまうことはできないだろうか。
 最後の2連。

あれは木ではなかった

境界のない
薄墨の夜と
こぼれ落ちるいのちの影
そこにうたたねするように
ぬばたまの闇の
濃くなっていく果てを見ていると
霧が出てきた
ひょっとしたらまだ
立っているかも知れぬ木の下のヤブランは
冷気のなかで
黒い実をつけているだろうか

 そうなのだ。「木」ではないのだ。
 だからこそ、7連目。「ホトリ ホトリと折って」というやわらかな響きのことばが選ばれている。
 「人間」、いや「人間」をも超越したもの、「木」にも「人間」にも、あらゆるものにも通じる「いのち」なのである。
 「いのち」の行く末を見る。凝視する。そのとき、そこに何があらわれるか。記憶である。生きているものの記憶、生きて実を結び、いのちを繰り返すものの記憶である。
 「死」は、そういう「いのち」の記憶を反復するためにある。そのために、ことばがある。そして、いくつもの「いのち」を融合させるために「比喩」がある。




零れる魂こぼれる花
渡辺 正也
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(12)中井久夫訳

2009-01-23 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
分離その三    リッツォス(中井久夫訳)

ゆっくりとものの中味がなくなる。夏の浜べの
大きい骨のように。馬の骨か戸外の動物の骨か。
内側はからっぽ。骨髄がない。
残る部分は硬くて白いばかり。色が抜け、細かい孔があいて、
冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。
扉の把手を持ってるのか、把手がきみを持ってるのか、
そもそもきみなり把手なりが持つなんて出来るか。
どちらか言えまい。
きみが紅茶を飲もうとする。その時突然、
きみが見ると指の間は陶器の把手だけだ。茶碗がない。
把手を調べる。真白で、重さがなくて、ほとんど骨。
きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。
温かい湯気がじわったにじみ出てる。
向うの深い裂け目から壁の中に。
きみの飲めなかった紅茶からの湯気さ。



 リッツォスの描写はとても繊細である。たとえば5行目。「冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。」この独立した美しさ。「白」の描写なのだが、「白」のなかにある「白の諧調」が見えてくる。「白」にはいくつもの「白」があることが見えてくる。「空虚」(中味がなるなる)の色が、その諧調の中に、あるいは諧調のひろがりのひろさで、見えてくる。
 13行目。「きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。」この行も繊細だ。「ゼロになろうと」の「なろうと」が「半分の形」をより明確にする。ある完成されたかたちが望めないなら、いっそう「半分」であることをやめてゼロになりたい。--このときの、孤独。
 それは、5行目の「冬のどしゃ降りの部屋」と通い合う。

 「分離その三」。何からの分離からは、ここには書かれていない。しかし、ここに書かれている孤独に共感するとき、何からの分離かをつきつめることは意味がない。孤独がみつめる風景、日常の暮らし、そのなかにただよう「白」に代表される「色の諧調」それを呼吸するだけでいい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」ほか

2009-01-22 09:34:24 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」ほか(「詩誌酒乱」2、2008年12月10日発行)

 森川雅美「(いくつもの名づけえぬ橋の先端に)」の出だしはとても快調である。ことばが疾走していく。意味を拒絶している。意味を否定することは詩になることだ。とてもいい。

いくつもの名づけえぬ橋の先端にあらわれる不意の海馬に
流木が現れてはスローモーションで落下しもう一度の目からの
細い糸の延長線上に小さな雫にも似た針が深く地面に突き刺さり
誰もいない水面にはたぶんそっくりな誰かの臨終の顔が
看取られることもかなわずに浮かび計測される肺胞に
繁殖する緑黴びが間歇に訪れる数度のくしゃみとして吐き出され
冷静に推測する霊の息継ぎであるなら粉にも似た鳥の羽ばたきが

 「主語」は何? 「主語」はどれ? わかりません。わからなくしたまま、ことばが動いていく。わざと「わからない」ようにことばをかき混ぜている。いいなあ、この体力、と思う。
 しかし、私は7行読んで、実は、いやな感じがしたのだ。3行目「小さな雫にも似た」、7行目「粉にも似た」。あ、もう体力がつきかけている。「冷静に推測する」の「冷静に」にも、その体力の消耗はあらわれていて、ちょっとつまらない。「冷静な判断」「冷静な推測」「冷静な思考」。なんでもいいのだけれど、「冷静な」は「頭の働き」を修飾するときにしばしばつかわれる。常套句だ。そういうものがまじりはじめると、もうことばを動かしているのは「肉体」ではなくなる。「頭」になってしまう。
 そして、8行目。

逢う魔が時に響き結晶するもうひとつの眼の方角に凍結する

 「逢う魔が時」って、何? せっかく、それまで「肉体」で強引にことばとことばの「逢う」瞬間の、「間」が「魔」にかわる楽しさを書いてきているのに、こういうことばがでてきては、もうそこから先は「肉体」が動いていかない。「頭」が動いていくだけである。
 ことばはたくさん出てくる。けれども、それは「融合」しない。ただデジタルにことばとことばが出会いつづけるだけであって、そこにある変化は「頭」で把握した変化でしかない。ようするに「うるさい」という感じが私にはしてしまう。



 鈴木啓之「池」は「頭」が「肉体」になっている。「肉体」で書こうとしないことが、逆に「頭」を「肉体」にしている。その感じが好きだ。

古地図の中で水が落ちる音がする
不意に立ち止まってみると
瞬間もまた濡れている

 とてもいい。「古地図の中で水が落ちる音がする」ということは、現実にはありえない。(なんとなく、「古池や蛙とびこむ水の音」を思い出してしまう。)それは「頭」でつくりあげた世界である。鈴木は、「頭」を意識している。意識すると、「頭」は肉体になる。「古地図」のなかを歩きはじめている。池を見つける。そして立ち止まる。その瞬間「瞬間もまた濡れている」。この「瞬間」というのは「頭」のなかにあらわれた「瞬間」であるはずなのに、「頭」のなかをはみだしている。「水の落ちる音」は「聴覚」だけの世界ではなく「濡れる」という「触覚」の世界にまで広がっている。こういう感覚の越境は「肉体」の領域に属することがらである。「頭」のなかでは、感覚の越境、感覚の融合というのは起きない。「頭」はあるまで感覚をそれぞれに分離し、デジタルに観察するものである。
 ここから、さらに鈴木のことばは動く。

だから(という訳ではないのだが)
アパートの狭いベランダを池にする計画を
話し合いたい

 (という訳ではないのだが)という括弧のなかに入ったことばがおもしろい。「頭」の論理「だから」に対して、「頭」のなかの「頭」が(という訳ではないのだが)と、ちょっと考え直している。「頭」が「頭」を少しだけ否定している。「頭」が分裂している。そのとき「頭」は「肉体」なのである。
 1連目で聴覚と触覚は融合したが、2連目で「論理」が分裂・対立する。感覚は融合するものであるが、論理は分裂・対立するものなのである。分裂することを許容できるのは、実は「頭」が「肉体」になっている、「ひとつ」になっているからである。これが大切なのだ。
 「頭」はどんなことでも、いくつのことでもばらばらに存在させることができる。それを同じ「頭」のなかの現象として誰かに(読者に)提出できるのは、そのとき「頭」が「肉体」として「ひとつ」だからである。「頭」が「ひとつ」になっていないときは、それは鈴木一人のことばではなく、鈴木とまた別の誰かのことばというときである。
 「頭」の考えることは、分裂する。対立する。けれど、それが「肉体」であるときは、それが「共存」になる。その「共存」の仕方が(共存のさせ方)が「個性」というものだろうと思う。
 途中を省略して、

そんな無造作な午後は
狭い路地をやたら急いで駆け回る
誰かの自転車のせいで不安定に(いつでもという訳ではないのだが)崩れさる

 もう一度(訳ではないのだが)が出てくる。笑ってしまう。とても愉快な気持ちになる。



 廿楽順治「化城」にも複数のことばの動きが出てくる。

あんなあほうに
おれのいたましい遠近感がわかってたまるか
青春がぬれちゃって
ひとのはげ頭に貼りつていている
かぞえきれない金色のはだかがきみがわるい
(汗までかいてるよ)

 廿楽の場合「頭」というより、「声」という感じがする。もう「肉体」になってしまっているのだ。「思い」が複数あるということが。複数の「思い」を受け入れるのが「肉体」であることを知ってる。そして、それを生きている。
 こういう「生き方」は安心する。信じることができる。「思い」うひとつにしようとする無理やりさがない。無理やり「思考」をつくろうとはしない。複数を受け入れ、複数であることを許容する。そういうものに触れたとき、あ、こういう「思想」(肉体)なら、自分のことも受け入れてもらえるんじゃないかなあ、と安心するのである。
 別な言い方をすると、廿楽のことばのなかでなら、遊ぶことができるな、と思うのである。好き勝手がいえるな、と思うのである。わざとちょっかいをだしてみたり、ちゃちゃをいれたりできるな、と勝手に私は思うのである。
 私は、そういうことができる詩が好きだ。




山越
森川 雅美
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(11)中井久夫訳

2009-01-22 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
白い風景    リッツォス(中井久夫訳)

気づかれないで彼は去った。戸のところを踏む足音も聞こえなかった。
夜中とうとう雨が降らなかった。奇蹟だ。
あくる日ははてしない冬の日射し。
それはそっくり、白い洗面所で
髭を剃ってるだれかさんに。
濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。
剃刀は切れない。皮が赤くなる。髭があちこちに残る。
胸が悪くなるオー・ドゥ・コローニュの匂い。



 孤独の風景。男色のふたりの別れを描いているのだろうか。
 2行目、「夜中」は「よるじゅう」と読むのだろうか。雨が降れば「彼」は出て行けない。けれども雨が降らなかったので、濡れることなく(ためらうことなく)出ていった。そして、冬の、何もない透明な日差しだけが、その何もなさの上に降り注ぐのである。
 真っ白。
 この白から、ことばは「白い」洗面所へ動き、そこで男に髭を剃らせる。髭を見るときは鏡を見る。鏡が映し出すのは自分の姿だが、それは同時に「彼」の姿でもある。男は同じように、朝、髭を剃る。そういう「肉体」が、他人になってしまった二人の間で反復される。
 「肉体」は不思議なもので、それぞれの人間にひとつなのに、ある瞬間、共有するのだ。それは、たとえば、この詩に描かれている「髭を剃る」という行為の反復のなかで、という形をとることもあるが、もっと別なものもある。たとえば、だれかが腹を抱えるようにしてうずくまっている。それを見るとき、私たちの「肉体」は無意識にそういう姿勢を反復している。「肉体」の内部で。そして、あ、このひとは腹が痛いんだとわかる。「肉体」と「肉体」の間には「空気」があって、ふたつの「肉体」を分離しているにもかかわらず、そのとき、何かが共有される。
 そういうことが、人間にはあるのだ。(ほかの動物にもあるかもしれない。)そして、そういうことが人間と人間の結びつきをつくるのである。そして「空気」が共有される。「こころ」が浮かび上がる。「思い出」がよみがえる。「空気」を呼吸するたびに。
 「濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。」というのは、「彼」は、そんなふうにして鏡の曇りを拭いていたということを思い出したのだろう。
 この思い出が、胸をかきまわす。強い匂いの「オー・ドゥ・コローニュの匂い」のように。嫌いだ。そして、その嫌いだというこころが、孤独にはせつない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市島三千雄「ひどい海」

2009-01-21 09:29:36 | 詩(雑誌・同人誌)
市島三千雄「ひどい海」(「市島三千雄生誕百年記念誌」2008年11月25日発行)
 
 市島三千雄は、鈴木良一の書いている「編集後記」によれば2007年11月20日に生誕百年を迎えたらしい。新潟の詩人である。私はこの冊子ではじめて市島三千雄を知った。
 「ひどい海」の初出は大正14年の「日本詩人・2で月号」ある。その、書き出し。

雨がどしや降つてマントを倍の重さにして、しまふた

 途中にはさまれた読点「、」が魅力的である。一瞬、呼吸がある。その呼吸が魅力的である。
 なぜ、市島は、ここで呼吸をしたのだろう。
 たぶん、いま書いている文体が、いつもの意識とは違うからである。「雨がどしや降つてマントを倍の重さにしてしまふた」ということばは、どことなく、日本語とは違う。ちょっと翻訳調のような感じがする。「雨がどしや降つて、マントが倍の重さになつた」なら、翻訳調ではなく、ふつうの日本語の感じになるかもしれない。ふつうの日本語、ふつうの口語の感じとは違うところへ踏み込んでしまった、という意識がどこかにあって、それが「倍の重さにして」で、一瞬、迷ったのである。
 ことばが自然に動いて、「雨がどしや降つてマントを倍の重さにして」までやってきて、そこで少し立ち止まる。それを無理やり動かすのではなく、そこからもう一度ことばが自然に動いてくれるのを待つ。そして、その自然に動いてくれるのを待っていたら、「しまふた」ということばがやってきたのだ。
 あ、詩人だなあ、と思う。
 こんなふうにことばが動いてくるまで待っていられるのは詩人の特徴であり、ひとつの能力だ。凡人は、むりやり動かしてしまう。言いたいことを言ってしまう。そして、むりやり言ってしまったために、ほんとうに言いたかったことからずれていってしまう。
 市島はそういうことはしない。ことばが自然に動いてくれるのを待つ。そして、動きはじめたら、そのことばに乗って、ことばの動くにまかせてしまう。
 ことばを動かすのではなく、ことばに動かされてしまうのが詩人なのである。詩人がことばをつかまえるのではなく、ことばが詩人をつかまえ、ことばの動くがままを、間違えずに追いかけることができるのが天性の詩人なのだ。
 「しまふた」をそのまま引き継いで、ことばは動いていく。

つめたい雨が一層貧弱にしてしまふた
波がさかさまになつて
広くて低い北国が俺のことを喜ばしてゐる
臆病なくせして喜んでゐる
なんと寂しい。灰色に火がついて夕方が来たら俥が風におされて中の客はまたたくまに停車場に来た

 このことばの自在な動きはとても美しい。
 「つめたい雨が一層貧弱にしてしまふた」は、「何を」貧弱にしてしまったのだろう。マントを? マントのようでもあるが、たぶんマントではない。マントを着ている「俺を」貧弱にしたということだろう。「俺を」と書かれないこと(書かないこと、ではなく、書かれないことなのだ)が、ことばをより自在にする。
 わからないものを含むことは、1行目の読点「、」がことばがやってくるのを待っていたのに対して、逆に、ことばに追い越されていくという感じがする。ほんとうは「何を」があったのに、ことばが速すぎたのだ。受け止める間もなく詩人をとおりぬけてしまった。「何を」を受け止められないまま、ことばのスピードにのみこまれたのである。スピードにのみこまれながらも、そのことばの全部ではなくても、一部はしっかりつかみ取ってしまう。これも詩人のなせる業である。ふつうは、「何を」を受け止め損ねると、そのあとのことばがひとつもつかめなくなる。詩人は、あることばをつかみそこねても、それにつづくことばを本能的につかみ取ってしまう。
 そして、「波がさかさまになつて」という行。この波は日本海の波であると同時に、ことばの波である。詩人の背丈を超えて、高く高く立ち上がり、それから転げ落ちる。さかさまに。「さかさまに」と書いてあるけれど、そのとき見えるのは「さかさま」とは逆にただ高い高い波である。高すぎるので、さかさまになって落ちてくることが予感として肉体に迫ってくる。
 そういう高さを描いておいて、「広くて低い北国が俺のことを喜ばしてゐる」。書かれなかった「高さ」と書かれる「低さ」。この距離が不思議だ。とても美しい。そして、この行にも書かれないことばがある。「空」である。低いのは北国の空、冬の空である。たぶん、さかさまになるまで高く高く上り詰めた波が、空を超えてしまったのだ。空は、今は波よりも低いところにある。逆転しているのだ。世界が。その逆転が、感覚を酔わせる。そして、その酔いが「喜び」である。
 波と空が、高さにおいて逆転する。それは価値観の逆転である。詩は、ある意味では、価値観の逆転をことばの衝突のなかに浮かび上がらせるものである。
 逆転は、次々に逆転を呼ぶ。「臆病なくせして喜んでゐる」。この、矛盾。この美しさ。矛盾でしかいえない真実がある。こころは、逆転をとおして解放される。こころは、そんなふうにすべてを逆転していくことばの運動にただ身をまかせるだけだ。
 次の、「なんと寂しい。灰色に火がついて夕方が来たら俥が風におされて中の客はまたたくまに停車場に来た」という強引な1行もすばらしい。「なんと寂しい。」のあとに改行があれば散文になるが、ここでもことばのスピードが改行をのみこんでしまうのだ。意識がことばを制御するのではなく、ことばがあらゆる感情をつくりだして行く。そして、そこには感情すらもないのかもしれない。あるのは、スピードだけである。ことばのスピードだけである。
 また、この1行のなかにも、ことばのスピードのなかにのみこまれてしまったことばがある。「灰色に火がついて夕方が来たら」とは「灰色の空に火がついて」ということだろう。「空が」ガのみこまれてしまっている。すでに波にのみこまれて空はなく、ただ意識のなかにだけあるから、書かれることはないのかもしれない。その、存在しない「空」に赤い夕焼け--火がついたまぼろし。なんとも美しい。なんともすばらしい。

 私は新潟を知らない。けれどもその近くの海は知っている。冬の海は知っている。冬の雨も知っている。市島のことばは、その、私の知っている冬と海と夕暮れを、まるで暴れ回る北風のようにでたらめに動かす。自在に動かす。酔ってしまう。
 市島の詩は、まだまだつづくのだが、この疾走することばはランボーよりも、私には強烈に見える。
 (詩のつづきは、冊子で読んでください。)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(10)中井久夫訳

2009-01-21 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
処刑を前に    リッツォス(中井久夫訳)


壁を背にして立つ。払暁。目隠しなしだ。
十二丁の銃が狙う。彼は静かに思う、
若くてハンサムな自分を。きれいに髭を剃れば映えると思う。
遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。
うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。
あったかいところがちょっぴり悲しい。宦官の目が行く箇所だ。
やつらの狙う箇所だ。もう自分の銅像になっちまったか?
自分で自分の銅像を見る。裸体。ギリシャの夏のきらきらしい日なか。
広場の空にすくっと立つ。群衆の肩の向うに、貪欲な観光の女たちの肩の向うに。
三人組の向うに--黒い帽子をかぶった三人の老婆の向うに。



 前半がとても美しい。リッツォスの描く「聖」が鮮やかに出ている。特に4行目。

遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。

 最後の「なる」がいい。ひとは何かに「なる」。それが遠い地平線の、うっすらとした暁の色。あかるみ。もう人間ではない。人間を超越する。そのときが、詩。詩そのものの瞬間。そしてそれは、死んでいく男の祈りである。
 しかし、人間は、簡単には何かになれない。なりたいけれど、なれない。いつでも「肉体」がついてまわる。気になるのは「こころ」ではなく、「肉体」だ。「肉体」こそが「こころ」だからである。

うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。

 の「うん」という、自分自身への言い聞かせも、とても気持ちがいい。「肉体」に語りかけることばは、いつでも「口語」である。「口語」が歩いてまわる「場」はとても限られている。そこにはいつも体温がある。次の行の「あったかい」がとても自然なのは、この「口語」の力によるものだ。
 そこから出発して、男は、いまの「現実」をとらえなおす。もう一度、自分が何に「なる」か(なれるか)、祈りを点検する。現実が見えてくれば見えてくるほど、4行目の祈りが透明になる。4行目にもどって、その行だけを読んでいたいという気持ちに襲われる。
 こういうときの気持ちを「共感」というのかもしれない。あらゆる行を振り払って、そのなかの1行だけを抱きしめていたいと思う気持ちを。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・クローリー監督「BOY A」(★★★★)

2009-01-20 02:09:58 | 映画
監督 ジョン・クローリー 出演 アンドリュー・ガーフィールド、ピーター・ミュラン
 主演のアンドリュー・ガーフィールドの表情がとてもいい。かたまっていない。はっきりとした顔になっていない。揺れている。それは、自分をまだ持っていないということである。自分を探している顔である。まだ、どんな顔をしていいのか、わからないのである。
 理由はある。彼は10歳のとき犯罪を犯した。更生施設に長い間入っていた。そして、出所してきた。過去を隠したまま(偽りの過去を作って)、誰も知らない土地で新しく生きはじめる。どんな顔をしていいか、わからない。どんな人間でも、無意識に自分の顔を持っているが、彼には自分で作り上げた顔がない。「犯罪者」の顔は、彼を裁いたひとが作り上げた顔、押しつけた顔である。それは「他人の顔」なのである。彼自身の気持ちとは無関係の「他人の顔」なのである。
 その他人が作り上げた顔からようやく解放されて、自分の顔を探さなければならない。だが、どうしていいか、わからない。「いま」の顔は、「過去」を隠しているがゆえに、「自分の顔」ではないのだ。「他人の顔」でもないけれど、「自分の顔」でもない。半分、いや、これまでの人生そのものとは、やはり「無関係」の顔なのである。
 仕事を持ち、恋人ができ、人生が豊かになればなるほど「自分の顔」が必要なのに、永遠に「自分ではない顔」を生きなければならない。「関係」が明確な「顔」が必要なのに、どうしても「無関係」を含んでしまう。そのことが、彼にとっては、激しい苦痛である。
 こういうとき、「顔」にあらわれるのは、「ひとがら」である。「関係」をすべて取り去って、「無」になる。そのとき、あらわれるのは「ひとがら」である。
 アンドリュー・ガーフィールドの演じている青年は、ひとに支えられているとき、生きているという感覚がもてる「ひとがら」である。自分がだれかのために何かをするというよりは、ひとに支えられて、そのひとといっしょに生きていくという「ひとがら」である。自己主張よりも、他人の気持ちを優先させる「ひとがら」である。そして、相手の気持ちにあわせることで、自分のすべてを受け入れてもらいたいと思うのだ。
 そういう「ひとがら」であるがゆえに、他人の視線が気になるのだ。「殺人者」であると知ったら、相手はいい気持ちはしない。絶対に、受け入れてくれない。他人が受け入れてくれなくても、自分自身で生きていくという「ひとがら」ではないのである。
 そういう彼が一度だけ、自分の「顔」をはっきりと打ち出す。それは交通事故を目撃したときだ。そこには大怪我をした少女がいる。彼女には「意識」がない。瀕死であるから、彼を「受け入れる」「受け入れない」という判断のしようがない。そういう絶対的な弱者の前で、彼ははじめて「顔」を持つ。ひとを助けるとき、助ける側には「顔」は必要はないのだが、そういう必要のないとき、はっきりと「顔」があらわれる。無意識の「顔」があらわれる。「ひとがら」のいちばんいい部分があらわれる。
 けれど、その「顔」は持続できない。
 社会は、「新しい顔」よりも、「過去の顔」を「アイデンティティー」として押しつける。「新しい顔」を支えてくれるのは(受け入れてくれるのは)、その「顔」によって直接助けられた少女だけなのである。ひとりでもそういう人間が存在するのは希望になるといえば希望になるかもしれないが、逆に、絶望をより強くうかび上がらせることにもなる。この少女しか、自分を受け入れてくれない。
 そして、最後に青年が手に入れるのは、「絶望」の「顔」なのである。「過去」が知れ渡り、やっと築き上げてきたと思った「関係」が次々に否定される。「関係がなかった」ということにしてくれ、と「無関係」をつきつけられる。「無関係」はいつでも「絶望」とのみ結びついてしまう。
 この、「顔」の変遷を、アンドリュー・ガーフィールドは、「個性」ではなく、「ひとがら」として演じている。これには、ほんとうにびっくりする。引き込まれてしまう。

 一方、アンドリュー・ガーフィールドを支える保護司を演じたピーター・ミュランの顔も非常によかった。アンドリュー・ガーフィールドが「無関係」のなかで揺れる表情を生きているのに対し、ピーター・ミュランの顔はしっかりかたまっている。動揺しない。「関係」をはっきり自覚し、その「関係」にふさわしい顔を作り上げている。いつでも同じ「顔」でアンドリュー・ガーフィールドに向き合う。
 しかし、その顔も、あるとき揺らぐ。ほんとうの自分の息子との「関係」のなかで揺らぐ。「顔」はいつでも、なにかしら無理をしているのである。ひとは状況にあわせて「複数の顔」を生きるということはできないらしい。
 たぶん、この映画は、そういうことを静かに語りかける。もし、ひとが状況に応じて「複数の顔」を持つことができたなら、アンドリュー・ガーフィールドは「殺人事件」に巻き込まれなかった。「殺人者」にはならなかっただろう。
 これは逆の視点から見れば、この映画が告発している問題に通じる。ひとは(社会は)だれかが「複数の顔」を持つことを許さない。「殺人者」はどんなに更生しても「天使の顔」を持つことを許さない。「殺人者の顔」を生きることを押しつけてしまう。

 この映画は、どちらが正しいとは言わない。ただ「顔」を固定化する動きが悲劇を生み出している、とだけ告げる。とても考えさせられる映画である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(9)中井久夫訳

2009-01-20 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
さかさま    リッツォス(中井久夫訳)

大気の中に根。根の間に顔が二つ。
その庭の底に井戸が。
彼等が昔、指輪を投げ入れた。
それから高い空を見上げた。
ばあさんが一人、大きな林檎をかじりながら
空っぽの植木鉢にオシッコをしてるのを
見ないフリをして。



 「大気の中に根。」というのは逆さまである。従ってこれは、水に映った木のことである。水に映った木は逆さまになっている。根は大気の中にあることになる。もちろん、それは見えないが、見えなくて当然である。大地の中にある根だって見えない。そこに「ある」と人間は想像しているだけである。そうであるなら、大気の中に根が広がっていると想像しても何の不思議もない。
 二人(男女だろう)は、その見えない根の間から顔を覗かせる。つまり、水面を覗き込む。そして、その水面というのは井戸である。その井戸には、二人の指輪が沈んでいる。眠っている。二人は、その指輪に顔を近づける。それは、井戸に映った高い高い空を見上げるのと同じことである。二人は、その高い高い空に近づいていく。投身する。
 悲劇である。

 この悲劇の瞬間、その庭のすみっこ、植木鉢におばあさんがオシッコをしている。
 悲劇(聖)と「俗」の遭遇。これは、リッツォスの詩のなかに何度も登場してくる組み合わせである。聖と俗の組み合わせが、聖をより聖の高みに運ぶ。
 どんな聖も、すぐとなりには俗がある。
 そして、聖は、たとえば、この詩に書かれている「根」のように、「大気の中」にある。何かに映したときに、逆さまの形で、想像力の中に姿をあらわす。それは肉眼では見えない。こころの動き、精神の動きのなかでのみ、姿をあらわすものである。そういう姿を映すための「鏡」として、「俗」が描かれる。リッツォスの詩のことばは、そんなふうに動いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林嗣夫「神戸で」

2009-01-19 11:15:19 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「神戸で」(「兆」140 、2008年10月30日発行)

 林嗣夫「神戸で」は神戸で開かれた詩のゼミナールに参加したときのことを、高知から出発するところから書き起こしている。

早く着きすぎたから
ロビーで携えてきた本を読む
読みながら要所に線を引こうとするのだが
どうもまっすぐに引けない
指はまだバスに乗っていて
旅をつづけているらしい

 とうい魅力的な部分がある。「肉体」の感覚にとても正直な詩人である。「いま」という時間を私たちは生きているが「肉体」が「いま」という時間になじむには少し時間がかかる。「肉体」のなかには「過去」が、それまで過ごしてきた「時間」が蓄積していて、それが「頭」のようには、デジタルな切り換えができない。そういう「ずれ」に、林はとても敏感であると思う。「肉体」に正直な人間だけが明確に意識できるずれだと思う。
 この「ずれ」を見つめる視線で、岩成達也の講演や、清水恵子の朗読、そして二次会の様子などが静かに語られる。
 そして、最終連。これが、とてもすばらしい。

山の中腹にあるむが家に帰り着いたのは
夜明けも近いかと思われる真夜中だった
街で 親しい仲間と飲んでいたのだ
やっとここまできて
歩いて小道を登ってきて
暗い庭の
涼み台に腰掛けて一服しようとしたら
家の戸口を開けて母が出てきた
わたしが帰るのを
ずっと土間あたりで待っていたのだろう
母は腰かけているわたしのところへ来ると
赤ん坊におちちをふくませる時のように
着物の胸を開き
無言で わたしの頭を抱き寄せた
それから 今度はわたしが立ち上がって
背の低い母を抱いた
山の中腹にあるわが家の庭
夜明けが近いのか
かすかにカナカナが聞こえてきた

目が覚めたのは
神戸のビジネスホテルである
やはり 詩に疲れている
きょうはちょっと観光をして
お昼すぎの高速バスで高知へ帰る
母は91歳
要介護5 極度の認知症
絶対他者のほうへ行ってしまった
お土産でも買って帰りたいが
買ってもどうしようもない

 旅に疲れて夢を見る。その夢には「肉体」の奥に深くしまいこまれていたものが、疲れた「頭」のゆるんだ(?)ところから、いきいきとあらわれてくる。「頭」は、ふつうそういう意識をしっかりと制御しているのだが、いろいろなことに気を配り、いつも制御している部分を忘れてしまうのかもしれない。そういう瞬間をねらって、「肉体」にしっかりしみついている何かが復権してくる。「肉体」はいつでも生きていて、それは「いま」のなかにあらわれる時期をねらっているかのようである。人間は「肉体」なんだ、と主張しようとしているようである。林は、その主張をしっかりと受け止める。つまり、正確に「ことば」にして、「頭」へむけて報告するのである。
 たぶん、そんなふうに「肉体」の「ことば」を「頭」にきちんと報告することで、林は林の暮らし(思想・いのち)をととのえてきたのだろう。そこには「正直」に生きようとする林の「ひとがら」がにじんでいる。個性、というよりは、「ひとがら」。ひとがひとを好きになるときに、ぼんやりとつつみこまれる境界線のないひろがり--そういうものが、その境界性のないままの形でにじんでくる。
 境界線のない形なので、これをことばで説明するのはむずかしい。ただ、そういうものを感じるとしか、私には書けないのだが……。

 神戸への旅から帰って、高知の「いま」がふたたび始まる。そのとき、林の「肉体」は、そのいのちがつながっている母のことを具体的に思い出す。「頭」は神戸で刺激を受けた記憶を抱え込んでいるが、そういう「新しい」記憶ではなく、ずーっとつづいているもの、「記憶」とは呼ぶことのできない「いま」が、「肉体」が、そういう「頭」をひっかきまわす。夢は現実になり、現実は夢にもなる。こういう瞬間、あるいは、こういうことに対しても、林はとても正直である。いや、正直に「なる」。正直に「なる」こと、正直ななことばを書き記すことで、自分自身をととのえる。

お土産でも買って帰りたいが
買ってもどうしようもない

 この「どうしようもない」の美しさ。思わず涙が出る。
 「肉体」にも「頭」にも正直である林は、そのどちらでもたどりつけないものがあることを知ってしまった。知ってしまって、それでも何かをしたい。何かをしたいけれど、それがどんなぐあいに結実するのか、見当がつかない。
 「どうしようもない」けれど、やはりお土産を買って帰るのである。「どうしようもない」からこそ、「肉体」が知っていることを、「思想」を具体的な形にするしかないのである。
 この絶望は、愛である。哀しいと愛しいが重なり合い、境界線がなくなり、ただ「いのち」としてひろがる。そのはてしないひろがりが、とても美しい。 


風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(8)中井久夫訳

2009-01-19 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
窓の内と外    リッツォス(中井久夫訳)

外には陽に照らされた大きな雲。谷にさす大きな教会の影。
パンがナプキンに包まれて木に吊るされている。
風が山から吹き下ろす。階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。
窓の傍の女は羊毛でチョッキを編む
男は半長靴を脱いだ。自分の足を見つめる。
裸の足が黒土を踏む。女が編み棒を傍に置く。
起き上がる。ためらって、それから半長靴を手に取る。
両手を半長靴の中に入れる。膝まずく。寝台の下にはいずりこむ。



 晴れた日の谷間の集落。一軒の家。そのなかの男女を描いている。最後の2行が、私にはよくわからない。
 「起き上がる。」の主語は「女」か、「男」か。男は裸足で黒土を踏んでいるのだから、「起き上がる」のは編み物をしていた女だろう。編み棒を傍らに置いて、それから椅子から立ったということだろう。そして、男の履いていた半長靴を手にとる。両手を入れる。跪く。そのあとの「寝台の下にはいずりこむ」がわからない。女が「寝台の下にはいずりこむ」のか。なんのために? もしかすると、寝台の下に半長靴をしまいこむ、ということかもしれない。男はいつでも半長靴を脱いだあと、それをそのまま放り出しているのかもしれない。「自分で片づけて」と女は何度も繰り返し言ってきたかもしれない。しかし、男は片づけない。それで女が仕方なくいつものように片づけている--そういうことなのかもしれない。そんなふうに読むと、なんとなく私の知っているリッツォスに近くなる。
 窓の外にはいつもと変わらぬ風景がある。おだやかや谷間の風景である。
 一方、窓の内側、つまり家庭でも、いつもと変わらぬ光景が見られる。
 両方とも、いつもとかわらない。いつもとかわらないことが、ことばもなく(会話もなく)、いつものようにつづけられる。それが暮らしである。
 3行目の、「階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。」がとても美しい。とても繊細だ。
 もしかしたら、女もやはり、家のどこかに「隠れ家」を持っているのかもしれない。男は家の外に隠れ家を持ち、家庭を守っている女は女で、家の中に隠れ家を持っている。それは、どこ? 寝台の下? 私は、そうではなくて、たとえば男が脱いだ「半長靴」のなか、と考えてみる。女はそのなかに両手を入れてみた。そのとき女の両手が感じた男のぬくもり。それが女にとっての隠れ家かもしれない。その隠れ家を、そっと寝台の下にしまいこむ。大切な宝物のように、跪いた姿勢で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする