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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」

2009-01-18 13:22:37 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」(「橄欖」83、2008年12月10日)

 早矢仕典子「十月の鯨の顎の下で」にとても魅力的な行がある。作品の2連目。

南向きの校舎の窓には 西日が
白い内壁に刻まれた窓枠の影がみえる
あれは 六十年前に見たはずの影だったか
それとも 六十年後に見るはずの影だろうか と記憶をたどる

 母校かどうかはわからないが、夕方の学校。校庭から見ると、窓枠の影が壁に映っているのが見える。それは60年前に見た影だったか--ここまでは、普通の感想である。その次の行がおもしろい。

それとも 六十年後に見るはずの影だろうか と記憶をたどる

 これは、これから60年後に見る影だろうか、という意味ではない。そうではなくて、60年前、つまり子供だったとき、同じように壁に映った影を見ながら、この影を「六十年後に見るはずの影だろうか」と思ったかどうか、その「記憶をたどる」というのである。60年前にもどって、その影をどんな思いで見たのだろうか、と記憶をたどる。
 子供のとき、そんなことは、まず考えない。壁に映る窓枠の影を美しいと思い、それをいつか大人になったとき思い出すだろうかというようなことはふと頭をよぎるかもしれないが、そこに「60年後」という具体的な数字は出てこない。
 「六十年後」という具体的な数字は、いまが「六十年後」だからはじめて生まれてくるものである。そしてそれは、「頭」で考える数字ではない。「肉体」が呼び寄せる数字である。ぐい、とひとまとめにしてしまう力が「肉体」にはある。
 「頭」にとって、「六十年前」と「六十年後」はまったく違う。けれども、「肉体」にとってはそうではない。それは校庭から教室の壁を見る、そこに窓枠の影が映っているのを見る。ああ、秋なんだなあ。秋の夕暮れなんだなあ、と思う。その思いだけが「肉体」にとっての真実であり、そこでは60年という時間は消えてしまう。
 それは「60年」という時間が「肉体」になってしまったということである。
 そういう「時間」と「肉体」のありようを引き継いで、4連目。ここにも、とても美しいことばがある。

アパートの階段を上りきったところに
ナルセさんが手すりにもたれかかって立っている
公園の 残り少ない今日の日の光の中で遊ぶ愛息の姿を見つめている
振り返ると
私たちは何事かを話す
とうにわすれてしまっていたような なつかしい十月の話

 「振り返ると」の主語はなんだろう。「愛息」だろう。子供が振り返る。その振り返るという肉体の動きに誘われて、私たちも「振り返る」のである。「手すり」の背後を、ではなく、「私たち」の「肉体」の背後を。もしかしたら、そこには「愛息」が「六十年後」に見るなにものかが存在するかもしれない。それは「壁に映った窓枠の影」ではなく、母親たちが手すりにもたれて子供を見守っているという姿である。そして、それはきっと、早矢仕が、やはり遠い昔に見つめたことがある彼女自身の母たちの姿なのではないだろうか。
 あるいは、遊びの最中に、ふと母親の存在を振り返って確かめたときの記憶かもしれない。離れた場所で、互いに「ここにいるよ」「みつめているよ」とことばではなく、目と目で確かめあった、その温かい感情。おっぱいのにおいのような、あまい、うれしい感情。--そういう、視線をかわすこと、見つめ合うことによって生まれる、母と息子の「間」の空気。空気を見るのだ。
 私たちが見るのは、いつも空気なのだ。何かと何かの間に存在するものなのだ。壁に映った窓枠と私の間にある空気。それは、いまも60年前もかわらない。そして、母と息子の間にある空気も、時代がどんなにかわろうとかわらない。
 肉体、別個の肉体(私の肉体と、ナルセさんの愛息の肉体、そしてナルセさんの肉体)を媒介にして、その空気のなかに、長い長い時間が溶け合う。溶け合って「永遠」になる。それは「わすれてしまっていたような なつかしい」なにごとかである。
 「永遠」はなつかしい。「永遠」はいつでもすぐそばにある。空気そのものとして存在する。それはほとんど「いま」と同義語である。だから、私たちはそれをわすれてしまっている。「いま」だけにしばられて忙しく生きているように感じる。でも、そうではなく、いつでもそばにある。いつでもその「永遠」のなかを生きている。それに気がつかないだけだ。

 「肉体」のなかにある「永遠」。時をこえるなつかしさ。60年生きた「肉体」が、そういうものを静かに抱きしめている。あたたかい、とてもあたたかくて、いい詩だ。


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(7)中井久夫訳

2009-01-18 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
第三の男    リッツォス(中井久夫訳)

男が三人、海をみつめていた。窓の下に坐って。
一人が海を語った。二人目が聴いた。三人目は語りもせず、
聴きもしなかった。海中深く潜っていた。浮かび上がった。
窓ガラスの向う側で彼の動きがひどくのろのろして見えた。
うすい青色に染まってはっきり見えた。沈んだ船を探検しているのだ。
その生命の失われた時鐘を鳴らしてみた。こまかな泡が
かすかな音とともにどっと昇って行った。
--突然「あいつ、溺れたのか?」と誰かが尋ねた。聞かれた相手は
「うん、溺れたね」と言った。三人目が海中から絶望して二人を見た、
溺れた人間を見る目付きで--。



 この詩は2種類の読み方ができる。1行目の「三人」というのは実は3人ではない。昔は3人でいっしょに行動していた。友達だ。3人のうち1人が溺れ死んだ。2人は、その彼のことを思い出して語っている。溺れたときの様子を。1人が語り、もう1人が聞いている。それは、ある意味での追悼である。
 もう一つ別の読み方ができる。生き残ったのは1人である。2人は溺れ死んでしまった。そして、その遺体はまだあがっていない。残された1人は、2人の遺体を探して沈没した船へと潜っている。そして、夢を見ている。溺れたのが2人ではなく、ほんとうはじぶんひとりが溺れ、残された2人は、溺れた彼のことを窓の下で坐って思い出し、語っている--と。2行目から3行目の「三人目は語りもせず/聴きもしなかった」は、そういうことを想像させる。3人目は、2人と自分が逆だったらどんなにいいだろうと思いながら2人を探しているのである。かわれるなら、かわってやりたい。そういう強い友情で結びついているのだろう。

 リッツォスの詩は、いつも不思議なドラマを内包している。そのドラマは、読者の読み方によってさまざまにかわる。かわることを受け入れて、読者に向かって開かれている。ドラマとは、たぶん、読者のなかにあるのだ。ストーリーはいつでも読者のなかにあるのだ。その眠っているストーリー、ドラマを呼び覚ますのが詩である。リッツォスの詩である。
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くらもちさぶろう「みずたまり」

2009-01-17 11:50:18 | 詩(雑誌・同人誌)
くらもちさぶろう「みずたまり」(「日本未来派」218 、2008年12月01日発行)

 「対象」と人間。「もの」と人間。対象が人間以外であるとき、ひとは、どんなふうにして「対象」のなかに入っていくことができるか。感情を持たない存在に、どうやって感情を重ね合わせることができるか。
 ピクシーの映画「ウォーリー」では、とてもおもしろいシーンがあった。ごみ処理ロボット「ウォーリー」がこおろぎ(ゴキブリ?)とふたり(?)で地球に生き残っている。ウォーリーがこおろぎを踏む。はっと、気がついて、助けあげる。そのあと、生き返った(?)こおろぎが、ウォーリーの体を這う。くすぐったい。ウォーリーが笑う。この瞬間、ウォーリーが「ロボット」ではなく、人間になってしまう。小さい何かが肌を動き回ったとき、くすぐったいという肉体の感覚、肌の感覚に、人間の(私の)感覚(思い出)が重なり、一体化する。このあとは、もう、ウォーリーのやっていることは、すべて人間の感情・精神にみえてくる。
 何かと人間を重ね合わせるには、「肉体」の感覚がとても大切なのだ。「肉体」はとても不思議で、他人が「肉体」の苦悩にうめいているとき、その痛みは「私」のものではないにもかかわらず、「痛み」を感じることができる。(だから、だまされることもあるのだが……。)「肉体」には、「個人」の枠を超える力があるのだ。
 くらもちは、こういう感覚を大切にしている。「みずたまり」は「肉体」の「はずかしい」という感覚を美しい形で取り込んでいる。

はやく きえていって しまいたい
はずかしい すがた を じめん の うえ に
さらして いたくない

わたし わ はだかだ
はだ が ひとめ に さらされている だけ でわない
からだ の なか まで みえる

 「はだか」を見られることの「はずかしさ」。この「肉体」の感覚。「はずかしい」は「肉体感覚」ではない、というひともいるかもしれないが、視線と結びついたこの感覚は、私には、やはり「肉体感覚」である。「肉体の思想」である。
 私たちには、何か、見せていいものと、見せなくていいもの、という区別がある。暮らしの中で身につけた感覚がある。「頭」で考えるのではなく、無意識に、そうしてしまう「肉体」の反応がある。それは「頭」で考えるよりも前に、たとえば父や母から教え込まれるものかもしれないけれど、「頭」で考えるよりも前、ということが大切なのだ。「肉体」の基本なのだ。
 その見せてていいもの、見せなくていいもの、あるいは隠しておいた方がいいもののひとつに「からだ の なか」がある。これはもちろん「こころ」のことである。くらもちは「こころ」と書いてはいないが、「こころ」だろう。感情の、精神の動きだろう。そんなものまで、どうしようもなく、見られてしまう「水たまり」。透明だから。
 「肉体」をさらすことは「こころ」をさらすことである。「こころ」がさらされているから、それが見え、くらもちは「みずたまり」の「こころ」を自分の「肉体」(そして、肉体のなかにあるこころ)と重ね合わせ、「みずたまり」の気持ちを代弁することができる。

わざわざ どうろ わきに しゃがみ こんで
のぞきこむ もの が いる
はずかしがって
かお を そむけて いること にも きがつかない
わざわざ たちどまる のわ
わたし が きれいな きょくせん の
にんげん の かたち に にている から か 

 くらもちは、こんなふうに「みずたまり」と「人間」の「こころ」と「かたち」を重ねたあと、5連目で、思わぬことを書く。びっくりしてしまう。

はは わ ちじょう に わたし を うみ おとした
にんげん に あう こと を ねがった

 この2行が、とても、とても、とても美しい。
 くらもちは「みずたまり」と「肉体」を重ねているだけではない。その重ね合わせをとおして、「みずたまり」の向こう側にまで繋がっている。「向こう側」とは、「みずたまり」の歴史、「水たまり」の「血の繋がり」のことである。あらゆるものには「繋がり」がある。そして、その繋がりというのは、必ず「血の繋がり」なのである。「はは」がいるのである。この「血の繋がり」「はは」を「いのち」と言い換えると、くらもちの書いていることがより鮮明になるかもしれない。
 そして、それだけではない。「あう こと を ねがった」。この「あう」にこめられた思想がすごい。
 出会いは、ひとを変えるのである。ひとと出会うとひとはかわる。もちろん「もの」もかわる。
 実際、この作品では「みずたまり」はくらもちと会って、その結果、「はずかしい」という「こころ」をもった存在に変わった。そして、くらもちも、「みずたまり」と会うことで、「みずたまり」に「はずかしい」という「こころ」があることを知る人間にかわった。

 人間はなんのために生きているか。なぜ、生きているか。その「定義」はいろいろあるだろうが、そのひとつには、まちがいなく「人間はかわるために生きている」ということがある。何かに出会い、自分をかえていく。かわっていく。そのために生きている。かわっていくために、ことばを動かす。詩を書く……。

 このあともくらもちの詩はつづくのだが、そこに描かれているものは、そういう「いのち」にふれることで、くらもち自身が生まれ変わる姿だ。
 詩を書く。対象に自分を重ね合わせる。その「こころ」と「こころ」、「肉体」と「肉体」を重ね合わせるとき、くらもちは、対象の向こう側の「いのち」、ことばでしかつかみとれないものに触れて、生まれ変わる。対象の持っている「いのち」の歴史が、くらもちの今を洗い清める。何かに出会い、その何かと生きるというとは(一体になって何かを感じるということは)、自分の「いのち」を洗い清めて生きることなのだ。


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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(6)中井久夫訳

2009-01-17 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
溶解    リッツォス(中井久夫訳)

時として言葉はひとりでに訪れてくる、木の葉のように--。
目に見えない根が、土壌が、太陽が、水が木の葉をたすけた。
朽ち葉もたすけた。
意味がすっとつくことがある、木の葉の上の、蜘蛛の巣のように、
あるいは埃のように、あるいはきらきら光る露玉のように。
木の葉の上では少女が自分の人形を裸にしてはらわたをえぐっている。
露の滴が一つ、髪の毛にかかった。頭を挙げた。何も見えない。
雫の冷たい透明性が彼女の身体の上で溶けた。



 この詩も、前半と後半で印象ががらりとかわる。前半は詩の幸福を描いているように思える。詩は、ひとりでにやってくるものである。探していてもなかなか見つからず、忘れたころに突然やってくる。その気まぐれな訪問を制御することはできない。詩のことばは、突然やってきて、そのことば自体の力で拡大してゆく。詩の領土をひろげていく。
 ここからかが、とてもおもしろい。
 後半である。その拡大もまた、制御できないのである。異様なものも「意味」として呼び寄せてしまう。意味をひろげて行ってしまう。「人形を裸にしてはらわたをえぐる」。それは残酷なことだろうか。歪んだ行為だろうか。だが、そんなふうに不気味に見えるものの上にも、透明なものがやってくる。美しいものがやってくる。その、不思議な出会いを、ひとは制御できない。それは、やってくるように見えても、ほんとうは、深い深い根が出発点かもしれないのである。「雫」の光は、根があってはじめて可能なのもかもしれない。
 大切なのは、それがどんなものであれ、出会って、溶け合う。溶解する。

 詩は異質なものの出会い。それは、どんなに対立しても、出会いの一瞬において、どこかで完全に溶け合っている。溶け合うものがないかぎり、そこには出会いはない。反発しながら、出会い、溶け合う。その不思議な運動のなかにこそ、詩がある。
 リッツォスの詩が、前半と後半で変わってしまうのは、その変わること、ことばが勝手に運動していく力こそが詩だからである。リッツォスは「存在」としてての詩ではなく、「運動」としての詩を書いている。ことばは動いていくことで詩になる。


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羅喜徳(ナ・ヒドク)「あの水玉たちは」

2009-01-16 11:37:28 | 詩(雑誌・同人誌)
羅喜徳(ナ・ヒドク)「あの水玉たちは」(「something 」8、2008年12月24日発行)

 「something 」には韓国の詩人の詩がハングル文字とともに紹介されている。いつも、韓国の詩人の詩にひかれる。今回紹介されているのは羅喜徳(ナ・ヒドク)の作品。訳は、韓成礼(ハン・ソンレ)。どの作品も魅力的だ。そのなかの「あの水玉たち」。

彼が消えると
四方から水音が聞こえ始める

蛇口をいくら強く閉めても
水垢のついた古いキッチンの上に
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……
休む間もなく落ちる水玉たち

生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける

ドアをたたく音のようでもあり
足音のようでもあり
ときどき鳥がさえずる声のようでもあった

 描かれる対象がとても美しい。「水垢」さえもが美しい。そこには生活が蓄積している。生きてきた時間がきちんと定着している。生活というのはある意味で少しずつずれていく。思いのままにならないものが出てくる。たとえば、ここに描かれている「水玉」たちのように、どんなにしっかり生活していても、どこからともなく何かが漏れてしまう。それはただ単にそのままにしておけばだらしないだけのことだが、そこにそういうものがあるとしっかり認識するときから、さびしい美しさになる。そこから時間が見えてくる。そして、そこから「水垢」ということばもみえてくる。「水垢」ということばは、生活をきちんとしようとする意志がないとみえてこないものである。きちんとしようとすると、あ、この「水垢」もきれいにしなければ、という意識とともに浮かび上がるのだ。「水垢」は生活を邪魔する物だが、そういうものがみえてくるということは、生活をきちんとしようとする意識があるからである。その意識が美しいのである。さびしいのである。
 羅が描いているのは「時間」である。私たちのあらゆる一瞬は「時間」を、過去を持っている。過去とは暮らしであり、いのちのことである。そのいのちが、懸命に、いまという一瞬に、姿をととのえようとする。過去と今をつなぎ、一瞬を、すこしでも幅の広いものにしようとする。
 たとえば、3連目。

生の漏水を知らせる信号の音に
乾いた木の根をつけるように耳を傾ける

 ここに登場する「水」と「乾いた木」、そして「根」。これは草木を育てたことのある人間の意識である。乾いた草木は水を求める。その「根」は土の中に隠れているが、草木を育てたことがあるひとなら、その「根」を人間の「のど」のように感じる。自分の肉体の一部として感じる。その「肉体」としての「共感」が、たんに「根」→「のど」でとどまるのではなく、さらに「耳」に拡大していく。この拡大、自然に広がってしまう感覚のなかに、暮らしがあり、過去があり、いのちがある。
 こういう「共感」を、自分の「肉体」そのものとしていきるとき、羅は、人間であり、同時に一本の木なのだ。だから、4連目には自然に「鳥」が登場する。「木」には「鳥」がやってくる。「渇き」→「根」(のど)→「耳」という動きの中で、人間と木がいったいになり、「木」→「鳥」と、世界が広がっていく。
 この広がりを、羅は感謝の気持ちで受け入れる。いのちがあること、いのちは、さまざまな存在といっしょにあること。そのことを羅は感謝の気持ちで受け止める。
 詩はつづいてゆく。

あ、あの水玉たちは
私と切らすために来てくれたようだ

水玉の中で子供が一人泣き
水玉の中であじさいが咲き
水玉の中ですぐに金魚が死に
水玉の中で器が割れ
水玉の中で頃雪が降り
水玉の中でリンゴが熟し
水玉の中で歌声が聞こえ

遠くから水管に乗って上り
空き部屋の沈黙を濡らす水玉たちは
涙ぐんだ瞳で揺りかごの中の私を揺らす
私の心臓も水玉に似て
逆流する悲しみも忘れたまま眠りに入る

 「来てくれた」--このことばの、深い感謝。いのりのような、つぶやき。思わず涙が出る。
 あらゆるものが「来てくれる」。喜びも、悲しみも、絶望も。それが積み重なって、生活になる。暮らしになる。いのちになる。いきてきたことの、ひとつひとつの時間が、しっかりと「ことば」になる。「ことば」をとおして、羅はあらゆる存在と羅自身の「心臓」をひとつのものにする。その心臓が鼓動を打つたびに、過去が、暮らしが、いのちが、そっとひろがり、羅をつつつむのだ。
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宇宿一成『光のしっぽ』

2009-01-16 01:48:50 | 詩集
宇宿一成『光のしっぽ』(土曜美術社、2008年10月10日発行)

 「牛眼は緑」という作品がすごい。死んでしまうの牛を、死ぬ前にする。その瞬間を描いている。その3連目。

父は大きな出刃包丁を
その牛の頸部に刺し込み
肩までめり込ませて心臓をついたのだ。
父の腕が牛の体から離れると
腕を伝って落ちていた血が激しく噴き出し
寝床のわらを赤黒く染めて広がり
このほうが早く楽になるのだから
そういった父の方に
大きな瞳を向けてうずくまっていた
牛の目が緑色に透き通ってゆくのを
十一歳の私は身じろぎもせずにみつめていた

 対象をしっかりみつめて、正確に書いている。正確に書こうとしている。たぶん、「正確」というのが宇宿の「人柄」なのだ。「正確」であろうとすることが。「正確」に書くことが対象に対する礼儀だと宇宿は信じている。ここでは、牛をする父への、そして殺されていく牛への礼儀だと、宇宿は信じ、それを正確にことばで報告しようとしているのだ。こういう礼儀がしずかに滲み出してくることを指して、私は「人柄」と呼びたいのである。「個性」ではなく、「人柄」と。
 宇宿のことばには「個性的」な印象はない。淡々としていて、文学というよりも科学といった印象が強いことばである。宇宿は、いわば「個性」を排除して、科学であろうとしている。そして、その科学であろうとする謙虚さのなかに、「人柄」がにじむのである。

 個性的な詩は多い。しかし、「人柄」を感じさせる詩は、そんなには多くはない。私は「人柄」が浮かび上がる詩がとても好きだ。

牛の目が緑色に透き通ってゆく

 ああ、こんなふうに見つめてくれるひとがいるから、牛は死んでゆけるのだと思う。どんな変化も「正確」に見つめ、報告してくれるひとがいるから、どんな変化も受け入れることができるのだ。死を、少年が受け止めてくれている--そういう安心のもとに、牛は死んでゆくのだ。宇宿の「人柄」にすべてをあずけて、牛は死んでゆくのだ。
 この死を、宇宿はしっかり見つめた上で、その死を「事実」から「真実」に高めていく。ことばでしかたどりつけない「思想」に高めていく。
 それが4連目。

あの緑の目は
死に臨む明るさであったろうか
意識は昏くなっていっただろうに
私たちもいつか喫する眠りなのだと
ひと仕事終えた父の銜えた煙草の煙が
呟くように空気に散っていった
動物にとって死は
唐突に訪れる一点の暗闇でしかないのか

 「死に臨む明るさ」とは、なんと美しいことばだろう。その「明るさ」は、やはり信じることがあるからこそ生まれるものなのだ。たしかに死は暗いであろう。その暗闇がたとえどんなに長いものであろうと、信じることで、それは短いものになる。一瞬になる。通過点になる。
 ああ、そうなのだ、とこころから思う。
 牛ではないが、たとえば私が死んでゆくとき、その死をしっかり見つめてくれるひとがいれば、やはり死んでゆくことが平気だろうと思う。平気というと、嘘になるかもしれないが、なんといえばいいのだろうか。何かを信じることができる気がするのだ。「正確に」見つめてくれるひとの、そのこころのなかで、自分は生きていくんだ、と思える気がする。
 死とは、肉体を失ったあと、だれかのこころの中で生きはじめることなのだろう。そのとき、「正確に」見つめてくれるひとのこころだったら、とても安心する。安らげると思うのだ。そのひとの「人柄」にすべてをあずけられると思い、安らげると思うのだ。




光のしっぽ (21世紀詩人叢書・第2期)
宇宿 一成
土曜美術社出版販売

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(5)中井久夫訳

2009-01-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
枚挙    リッツォス(中井久夫訳)

街路で立ち止まってながめている人々。
扉の上の番地の意味のない表示。
釘を細長い卓子に打ち込んでいる大工。
誰かが電信柱に名前のリストを貼りつけた。
新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。
葡萄の葉の下にいる蜘蛛。
女が一人、家から出て別の家に入った。
黄色い壁。濡れている。塗料が反り返って剥げかけてる。
カナリアの籠が死んだ男の窓に吊るされる。



 街の描写。何かが欠けている、という印象がある。ひっそりとしている。欠けている何かになることを、すべてのひとが恐れているような、はりつめた厳しさがある。「新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。」のも、風のせいではなく、そのはりつめた厳しさのせいである、という感じがする。ふつうは聞こえないのに、みんなが耳を澄ましているから聞こえてしまう音--という感じである。

女が一人、家から出て別の家に入った。

 この1行が描く動きも、非常に緊張している。ほかの動きはいっさいなく、ただ家から家へすばやく動いて行って、扉はしっかり閉ざされている。まるで壁のように。そして、そういう印象のあとに、実際の壁が描かれる。
 いくつものものが描かれているのに、視線が自然に動くのは、いま指摘した「扉」(扉ということばは出てこないが)から「壁」への移動のように、その移動が不自然ではないからだ。移動に脈絡があるからだ。

 そして最後に、この静かな緊張が「死んだ男」に起因するらしいことがそっと語られる。
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スティーヴン・ソダーバーグ監督「チェ 28歳の革命」(★★★★)

2009-01-15 11:47:43 | 映画
監督 スティーヴン・ソダーバーグ 出演 ベニチオ・デル・トロ

 「チェ 39歳別れの手紙」と二部作構成のうちの前編。「モーターバイスクール・ダイヤリー」の続編ともいえるかもしれない。「モーター……」は監督も出演者も違うが、ともにチェ・ゲバラの人間性を浮き彫りにしている。
 映画の魅力は、ベニチオ・デル・トロの熱演によって輝いている。ソダーバーグはベニチオ・デル・トロから誠実さ、真摯さを引き出し、誠実、真摯こそが愛だと語る。そして、その愛が革命のすべてなのだ、と語る。「愛」と「革命」と結びつければ、それはそのまま「キリスト」になるかもしれないが、たぶん、チェにふれた人々(革命軍でいっしょに行動した人々)には、チェは人間の顔をしたキリストに見えただろうと思う。そういう感じが伝わってくる映画である。
 この映画の中で、チェは「愛」を「ことば」と定義している。映画は、ことばによってみせるものではないが、この映画は、むりなく「ことば」を浮かび上がらせている。きわめて珍しく、きわめて美しい映画である。
 象徴的なシーンがいくつもある。
 一。革命軍に参加したくて、農夫や少年がやってくる。彼等に対してチェは「読み書きができるか」を問う。鉄砲を撃つのに「読み書きが」必要か。チェは必要だという。「読み書き」はひとにだまされないためのものだ、という。ことばは「読み書き」をとうして吟味されるのである。それは「反芻」とおなじことである。あることばを「読み」「書き」、そうすることで反芻する。見つめなおす。見つめなおすとき、ことばの奥を貫くものが見えてくる。そういう訓練をしないことには、人間は、しっかりと連帯できない。どんな行動でも、その奥にあるものにまで目が届かないと、ほんとうにおこなわれていることはわからない。チェは、そういう「ほんとう」を探しており、その「ほんとう」をみんなと共有したかったのである。
 二。行軍の途中、休憩する。そのときチェは本を読んでいる。「読み書きを習いたい」といっていた若い兵士は疲れて草の上に横たわろうとする。するとチェは彼に向かって「算数のノートをだして勉強しろ」と言う。「疲れているから」。「そんなことではだめ」。ここでもチェの主張は同じである。銃を撃つのに算数は必要はないかもしれない。しかし、人間を統率するリーダーになるためには、算数や読み書きが必要なのである。算数や読み書きはものごとの奥にある「ほんとう」を発見するための方法なのである。そういうものを発見するという訓練をしないことには、人間の「ほんとう」はつかみきれない。チェはひとから「ほんとう」をつかみだし、チェ自身の「ほんとう」をぶつけ、「ほんとう」と「ほんとう」を組み合わせることで「信頼」をつくっていった。そういうことが、とてもよくわかる。
 三。首都制圧へむけて車で移動する。ジープを、赤い車が追い越していく。兵士が乗っている。チェはそれを留める。どこで手に入れた車か、問う。奪ったものだと知ると、それを返して来いと命令する。相手が「敵」であったとしても、不正はしない。正義をつらぬく。「ほんとう」をつらぬく。その姿勢をかえない。(脱走し、農家から金を奪い、強姦した男を処刑するシーンも出てくる。)
 チェはつねに「ほんとう」を探し、それを結びつけ、「正義」ということばで「信頼」を強固にする。その生き方が、まっすぐに伝わってくる。

 チェは、そんなふうにして、ことばと肉体、ことばと行動をひとつのものにした。ことばを生きる肉体を人の前にさらし、ことばとして輝いた。革命前夜の行動の合間に挿入される国連での演説、インタビュー。そこでもことばが輝いている。ことばを伝える肉体が輝いている。それは、個性というよりは「人柄」である。人間は「個性」にひかれるのではない。いつでも「人柄」に魅了されるのだ--ということを、この映画はしっかりとつたえている。
 骨太の映画である。

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江里昭彦「脱じぱんぐ」ほか

2009-01-15 11:10:08 | その他(音楽、小説etc)
江里昭彦「脱じぱんぐ」ほか(「左庭」12、2008年12月15日発行)

 江里昭彦「脱じぱんぐ」は俳句。10句のなかから2区。

接吻につかう猫舌二枚かな

 「接吻」と「猫舌」のとりあわせが意表をつかれる。「二枚かな」の念押し(?)も楽しい。
 先日読んだ武田肇や高岡修の俳句は、私には古すぎる印象があって、どうも落ち着かない。「文学」のなかから「文学」を蒸留しているような感じがして、透明ではあるけれど、その透明さがちょっと不潔な感じがするのである。
 江里の句からは、そういうものを感じない。「接吻」ということばは、もういまの日本人はつかわないけれど、そういう古さに、「猫舌」という、ほんとうに限られた状況でしかつかわれないことばがぶつかると、あ、日本語っていいなあと思う。「キス」と「猫舌」は音があわないけれど、「接吻」と「猫舌」は音があう。耳の中で音楽になる。その音楽は、華麗なメロディー、かろやかな旋律というものではなく、あ、こういう音楽があったのか、という驚きの響きである。それは、驚きの方が大きくて、まだメロディーにはならない。メロディーになる前の、あらゆる音が一瞬消える瞬間の、生まれる前の音楽である。

暴れるから腿にはさんでひく楽器

 ここにも不思議な発見がある。「文学」から「文学」を蒸留してくるという知的技巧ではなく、江里自身の肉体でつかみ取ってきた世界がある。
 特に「ひく」という優雅ではない音いい。「弾く」と漢字で書くと窮屈だが「ひく」というひらがなが、とてもやわらかくて、肉体を刺激してくる。「腿」は「もも」と読ませるのかなあ。私なら「また」と読ませたい。「もも」だと音が暗い。「また」だと「「ABARERUKARAMATANIHASANDEHIKUGAKKI」と「あ」の響きが明るくなる。もちろん、「もも」と暗い音を交えることで音の領域が広がってより音楽っぽいという感想もあるだろうけれど……。



 江口は「祥月命日」というエッセイも書いている。父が亡くなり、共同墓地の一角を継承するための手続きをした、と書いている。共同墓地の様子を、思い描いている。その部分。

しばしば参る者があって掃除がゆきとどいている所、供花が枯れたままの所、墓石のめぐりが雑草だらけの所、区画を所有しても墓石を購入する資金がないのか、いつまでたっても朽ちた卒塔婆が立っているところなど、家ごとの表情はさまざまである。

 「家ごとの表情はさまざまである。」がとてもいい。墓の様子なのだが、単に墓の様子ではなく、生きて暮らしている現実の「家(家庭)」の姿が浮かび上がってくるところがいい。あ、そうなのだ。どんなときでも、人間は死んでしまった人間ではなく、いま、生きている人間のことを思い浮かべるのである。死んでしまった肉親よりも、生きている、赤の他人のことを思い浮かべるのである。
 これはまた、そんなふうに江里もみられるということを意味している。だから、先の引用のあとには、次の文がくる。

 いずれ私も、いろんな意味で試されることになるのだな、と思う。

 笑ってはいけないのだろうけれど、私は笑ってしまう。この笑いは、生きている人間に対する共感である。生きているって、おかしい、という共感である。
 江里の俳句には、どこかそういう「気分」がある。生きている人間をみつめて、感じていることを書いている--そういう安心感がある。



 岬多可子「あてどなく」は「漢字」を題材に書きはじめている。

<蔓>が<夢>と見えて
延びていった先端が
支えを求めてさまよっているのは
不穏で不安で

 文字で始まった世界は、どうしても「頭」のなかで動くので苦しい。「不穏」「不安」も肉体を刺激せず、「頭」をちくちくする。「ふあん」「ふおん」も、見紛うほど似ている、ということなのかもしれないが、こういうことばの動きは、私には窮屈に感じられる。
 どんなふうにして岬は「頭」からことばを解放するか。3連目。

求めて かなわなければ
<蔓>は<蔓>と 
<夢>は<夢>と
絡み合うしかなく
●われて迷う縄は
みずからの重みに垂れ下がる
 (谷内注・●は「糸」偏に、「陶」のツクリの部分を組み合わせて漢字、「なう」)

うーん、岬は、縄をなったことがあるのかな? そういう経験があって、「なわれてまよう縄は/ みずからの重みに垂れ下がる」と書いているのかな?
「頭」からことばを解放しようとして「文学」のなかへ入って行ってしまっているような気がする。ちょっと、苦しい。
ここから、岬は、もう一度ことばを動かす。

蝉がつながったまま堕ち もう秋

腹部 黒く腫れた塊から
こほこほと
ふきこぼれてくるのだろうか
夢って

「蔓」を捨て去って、死んだ蝉の腹部にまでことばの「蔓」をのばして行って、「夢」だけを救い出している。この「夢」は、しかし、悪夢だね。悪夢にたどりつくことで、 1連目の「不穏」「不安」もやっと落ち着く。でも、こういうことばの運動は苦しいねえ。つらいねえ。楽しくないねえ。
もっと肉体を感じさせることばが読みたい。



ロマンチック・ラブ・イデオロギー―江里昭彦句集
江里 昭彦
弘栄堂書店

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(4)中井久夫訳

2009-01-15 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)

眠りの前    リッツォス(中井久夫訳)

彼女は後片づけを終えた。皿も洗い上げた。
あたりはしいと十一時。
靴を脱いでベッドに入ろうとして、
一瞬たじろぎ、ベッドの傍でもたついた。
決着を付けたくないものを忘れていたのか?
家は四角でなくなり、ベッドもテーブルもなくなった。
無意識にストッキングを明かりにかざして
孔を捜す。みえない。でもあると確信している。
壁の中か、鏡の中に--。
夜のいびきが聞こえるのは、この孔からだ。
シーツの上のストッキングの形は
冷たい水に張られた網で、
黄色い盲目の魚が一尾そこを横切ってる。



 孤独な「彼女」。「無意識にストッキングを明かりにかざして」の「無意識に」ということばに胸を揺さぶられる。人間はいつでも「無意識に」逸脱していく。何かしなければならないのだけれど、そんなことをしてはいけないのだけれど、本来の目的とは違ったところへふと迷い込んでしまう。しかし、その「場」は、ほんとうはとても重要な「場」なのかもしれない。重要であるけれど、それを意識できない。--それが無意識。
 そこで、人間は何かを捜す。ありもしないストッキングの孔を捜すように、あるいは、そこにはないからこそ、そのないはずの孔を捜すように。孔の有無が重要なのではなく、捜すという行為が重要なのだ。「場」が重要なのではなく、その「場」においての行為、運動が重要なのだ。
 「彼女」は何をみつけたか。
 盲目の一尾の魚。それは、「彼女」自身の姿である。自分は、ストッキングの網の下で、知らずに泳いでいる魚。盲目だから、「網」もみえない。でも、見えない「網」にとらわれているのだ。そして、そのとらわれていることを「網」は見えないけれど、「無意識に」感じている。「無意識に」感じながら、「無意識に」、どこかに「孔」はないかと捜している。
 「彼女」は自分自身を見つけたのだ。
 夜。みんな寝静まっている。「彼女」は、するべきことはすべてしてしまった。あとは、眠るだけ。すると、どこからか「いびき」が聞こえる。静かに眠っている人間がいる。その眠りから遠いところに「彼女」は、まだ、こうやって起きている。
 取り残された孤独。同じように、同じ家で生きていながら、取り残された孤独。その孤独が、「彼女」を冷たい水の中の、盲目の魚にかえてしまうのだ。

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永井章子『時の系譜』

2009-01-14 07:49:20 | 詩集
永井章子『時の系譜』(思潮社、2008年11月30日発行)

 「塔」のなかに魅力的なことばがある。2、3連目。

塔が塔になっていく過程を私は知らない
堂の内にため込んでいる静謐の中身を私は知らない


塔が意味するものと
私が塔から意味されるもの
との間の かすかなずれを
痛む延髄で感じている

 3連目の「との間の」。これはとても微妙な表現である。「との間の」がなくても、「意味」は通じる。「塔が意味するもの」と「私が塔から意味されるもの」。それは同じではない。「ずれがある」と永井は書くのだが、そのふたつの「もの」を比較するだけではなく、そのふたつの「間」をみつめている。
 ふたつのものはぴったりと重なり合ってはいないのだ。重なりあわないのだ。結びついていないのだ。
 だが、その「間」とは、どれくらいの「距離」(隔たり)があるのだろうか。「かすかな」だから、それは小さい「距離」であるはずだ。意識的には、非常に近い。手で届かない「距離」とはいえないかもしれない。しかし、「肉眼」では見えない。手でも触れることはできない。
 なぜ? どうして?
 「間」は「肉体」とは関係ないのだ。関係がないというとおおげさだけれど、「肉体」だけではとらえられないものなのである。それは、 「延髄」で感じるだけである。「延髄」とは「脳」と「肉体」のつなぎめである。
 思考は、「脳」と「肉体」のつなぎ目でせめぎあっている。ことばを求めている、ということなのだろう。
 そして、そのつなぎ目でせめぎあっているのは、「知らない」ということと関係しているかもしれない。「知らない」ことはたくさんある。「知らないこと」が「意味」を要求する。「意味」を知れば、たぶん「脳」と「肉体」は和解するのだ。「ずれ」を感じることなく、「もの」が「からだ」のなかに入ってくるのだろう。
 だが「知らない」ことがあって、そういう「和解」が成立しない。そういう、一種の「不和」(和解の反対の概念である)が「ずれ」を感じさせるのだ。

 ここには「脳」と「肉体」とがいっしょになった、真剣なまなざしがある。その真剣さが美しい。それはそれが何であるかわからないままに、「静謐」をつかみとるのである。そして「静謐」を感じ取ってしまうからこそ、それをもっと別なことばでつかみなおそうとして、不思議な「ずれ」を感じるのだろう。

 「知る」ことと「感じる」こと「との間」にも「ずれ」があるのだ。

 この真剣なまなざしは、「間」にひとつの「哲学」を発見する。最後の2連。

私のもっている時間と
あの人のもっている時間の差など
何程のことだろうか
生きている証だって
ない と笑ってしまう

けれど 私は
思い出している
本当は存在しなかったかもしれないものを追った長い時間を
塔と対峙して 私は

 あらゆる「もの」と「もの」との「間」には「時間」があるのだ。「時間」のずれがあるのだ。時間は伸縮自在に伸び縮みする。「いま」と「1300年前」を結びつけて考えるときと、「いま」と「きのう」を結びつけて考えるとき、それぞれの「間」を「肉体」で把握することはできない。「脳」でなら、「1300年」と「24時間」はまったく違った「距離」だが、「肉体」にはそれを測る手段がない。また「脳」も本当ははかることはできない。数字を司る「脳」はそれを数字として区別はするが、感情は、その「距離」をはかれない。数字以外の意識も区別できない。ある時間を想像するとき、それはいつでもすぐ目の前にあらわれてくる。「1300年」と「24時間」には差異、隔たり、距離があるにもかかわらず、その距離はないに等しいのだ。「間」は、あって、ないものなのだ。
 「間」があって、同時にないもの。-- それは、「塔が意味するもの」と「塔から意味されるもの」との「間」と同じである。「脳」のあるしゅのことばでは区別できても、「肉体」や「感情(こころ)」はそういうものを区別できない。
 「あの人」はいつでも、どんなときでも、思い描くだけで、そばにいるのだ。いや、いっしょにいるのだ。
 そのせつなさ。
 永井は、そういうせつなさを知っている。いや、「肉体」のなかにもっている。「肉体」として、それをもっている。
 そこでは「距離」は、あっても、ないのだ。「間」はあるけれど、それはいつも計測不能なものである。ただ感じるだけのものである。だから、それは、ある意味では「存在しなかったかもしれないもの」なのだ。その存在しないもののためにひとは苦しむ。そして、喜ぶ。そうやって、生きる。それが「時間」というものに、なぜか、なってしまう。

 ひとつひとつのことばが、深い感情と思考に支えられている。





時の系譜
永井 章子
思潮社

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(3)中井久夫訳

2009-01-14 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)
慎みのなさ    リッツォス(中井久夫訳)

翌朝、彼はほとんど病気だった。
ゆうべさんざん言葉をつめこまれた、ポンプで以て。
もう沢山だ、言葉は。だが言葉を振り払えない。
通りを隔てた家はすっかり白く塗り換えている。
どぎつい白さ。ペンキ屋の声が冬の光の中でやけに大きく響く。
屋根のてっぺんにいる一人が煙突を抱いた、セックスするみたいな恰好だ。
白いペンキのぼってりした滴が
朽ち葉の降り積む黒土に飛び散った。



 夕べと翌朝。その間に何があったか。「言葉を詰め込まれた」とは、口論のことだろう。女に言い負かされたのである。それですっかり、しょげかえっている。思い出すのもいやだけれど、思い出してしまう。
 屋根でペンキを塗っているペンキ屋がバランスをくずして煙突にしがみつく。それがセックスする恰好に似ている、と感じるのは、女との口論が原因で、セックスできなかったせいだろう。あるいは、不満足なセックスだったためだろう。どうしても思い出してしまうのだ。
 白いペンキ、飛び散ったペンキが、「彼」には精液に見える。

 鮮やかな白ではなく、「どぎつい白さ」。その「どぎつい」という修飾語に、「彼」のさびしさが漂う。


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江知柿美『天にも地にもいます神よ』

2009-01-13 10:47:37 | 詩集
江知柿美『天にも地にもいます神よ』(書肆山田、2008年10月31日発行)

 江知柿美のことばは広がっていく。人間はだれでもひとりだが、同時に複数でもある。その複数へ、私以外の人間へ、そして「もの」へと広がっていく。そして、その広がりの中で、江知は粗素るものと交感・交流する。
 「短い道」の後半。

この道は
樹海へと通じ
あの高い頂きに通じている
そしてもっと遠いところへと
横たわると地底から山の
寝息がきこえる
燃えてくる 奥から 熱く
わたしにつながってくる
山はいつか目覚めるだろう
その肌にわたしを乗せたまま
噴き上げるだろう
烈しい溶岩がわたしの上を
流れるだろう
この道
その閑けさ
涯につながる
暖かいわたしを
感じるだろう

 2度つかわれている「つながる」。これが江知の「思想」(キーワード)である。ことばはただ「広がる」のではなく、広がって、それから「つながる」のだ。「つながる」は「通じる」とも同じ意味だ。
 「わたし」は「大地」と「つながる」。「大地」は「溶岩」と「つながる」。「つながる」とそこを「通じる」動きをするものがある。そこを通るものがいる。そして、その運動は「通じる」を超える。ときには、たとえば噴火のように、溶岩が「つながる」ものの奥から突然あふれてくる。それは大地を破壊する。「わたし」をも破壊する。
 しかし、その「涯」には、「わたし」をも「大地」をも超越した「閑けさ」があるのだ。「永遠」があるのだ。「永遠」ということばを江知はつかってはいないけれど……。

 この「つながり」、そうやってできる「道」が平坦でも単純でもないことを描いている。「何を見るだろう」の書き出し。

クレーの色の階段を昇っていくと
突然昂ってくることがある
静かなものから動的なものへと
階段の段差は等間隔とは限らない

 この部分で重要なのは「昂ってくる」ということばである。クレーの絵のグラデーションの階段。それを昇っていく、通っていくと、「昂ってくる」。つまり、自分の中で変化が起きる。感情が、精神が、いままでと違ってくる。昂った感情・精神が見るものは、それまでの江知が見ていたものとは違ってくる。どう違ってくるか。何が違ってくるか。それは、実は、わからない。わからないからこそ、人は、それに向かって進むのである。わからないものまで昇りつづけ(あるいは降りつづけ)、人は、いままで知らなかったものと「つながる」。そうして、「わたし」を超越する。それまでの「わたし」を捨てて生まれ変わる。
 芸術に触れる感動が、ここでは、そんなふうに静かに語られている。
 末尾の2行

何を見るだろう
昇るごと 降りるごと

 「ごと」ということばからわかるように、この変化は、常に動く。何かになって「完成」するということはない。感情・精神は常に生成しつづけるのである。
 だから、そこには「限定」はない。「無限」があるだけである。
 「在る処」では、その「無限」を次のように言い換えている。

わたしたち存在しているものの間に存在している
あるもの

 たとえば「わたし」と「大地の奥」の間に存在しているもの。「溶岩」。そういうものの「間」に存在しているものとは、「運動」である。「間」を行き来する「運動」である。そして、その「運動」こそが「つながる」ということでもある。
 「在る処分」には、次の行がある。

ただ一様のひろがりだ
境界線はありえない
だが目を凝らすと静かに罅割れてくる
浮かび上がってくる
沢山の
恐ろしい
懐しい
目 が光っていたりする

 「つながる」とき、そこでは「境界線」がなくなる。そこには、ただ生成があるだけである。そこからは「わたし」をのみこんでしまう「溶岩」のようなものも生まれてくるし、その「溶岩」によって「わたし」の「死」さえ生まれてくるかもしれない。
 だからときには「恐ろしい」。けれども「懐しい」。矛盾。こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」の意味がある。「矛盾」を超えて、「思想」は肉体になる。

 「恐ろしい」のに「懐しい」のは、それが「永遠」だからである。それが人間のかえるべき「場」であるからである。

 「永遠」が「恐ろしい」、そして「懐しい」のは、そこには生と死が同居しているからである。「永遠」という時間の中では、いつも生成がある。生成は、あるものが死に、別のものに生まれ変わることである。
 生と死は、あらゆるものの中に存在し、「わたし」を誘う。「わたし」とつながる。その「つながり」に、やがて「おわり」があると夢想するのは、死んでいくことが宿命の、人間のいのちのいのりであるかもしれない。
 「糸杉」の後半。とても美しい数行。「もの」、「いのち」は「点」ということばで表現されている。

点は次々と増し次々と重なり
繋がっていった
点はどこまでも深く掘ることができる
捉われると身動きできなくなる
どの点にも痛みがあって
穴の中に沁み込んでいく
この連鎖の終りが開放の日なのだろうか

糸杉は朱色に染まって光っている

 「開放」は「解放」かもしれない。「いのち」からの解放。それは死からの解放、死の束縛からの解放かもしれない。


 



天にも地にもいます神よ
江知 柿美
書肆山田

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(2)中井久夫訳

2009-01-13 00:35:24 | リッツォス(中井久夫訳)
少なくとも風が    リッツォス(中井久夫訳)

夜。食堂。シャンデリアに止まった蠅。
盆に止まった蠅。パンに止まった蠅。コップに止まった蠅。
老人はがつがつ食べる。他の皿をそっと盗み見る。
テーブル・クロスは白い。まっ白である。通りを吹き過ぎる風は
街灯を吹く風である。ああ、風。ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。
壁にこっそり挿しこまれた筒。卓子の下の、大きな寝台の発条の間の筒。
舐める蠅と紙ナプキンと眠りを通ってすぎる風。おお、風だな、と老人は言った。
老人は匙を置いた。立ち去った。われらは夜っぴて彼の帰りを待った。
時折り、小さな氷のキューブを
枕元に置く水差しに落とし込みながら--。



 5行目の風の比喩が美しい。

ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。

 風そのものが「筒」である。「筒」はいたるところにある。壁の中に、卓子の下に、そして寝台の発条の間にも。寝台のスプリングを「筒」とたとえたとは、とてもおもしろい。完全な「筒」の形をしていなくても「筒」なのである。中に空洞があれば、中を何かが通り過ぎることができれば、「筒」なのである。
 そうであるなら、人間は、どうであろうか。人間もまたひとつの「筒」ではないのか。人間の体の中を、食べ物が通り過ぎていく。そして、それは蠅も同じことである。生きている物はみんな「筒」を体の内に持っている。
 そして。
 風が「筒」の形で通り過ぎるなら、人間も、その「筒」のまま、風になることができる。風になって、どこかへ行ってしまうことができる。
 そうなのだ。老人は、そのことに気がついた。そして、立ち去ったのである。風になって。

 まだ「筒」の自覚のない人間が、老人の帰りを待っている。帰るはずのない、人間を待っている。「水差し」に氷を落としながら。「水差し」と「筒」の違いは、「水差し」には入り口はあるが出口がない。「水差し」は不完全な「筒」なのである。
 それは、ある意味では、生きている人間の不完全さを象徴しているかもしれない。



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武田肇『ベイ・ウインドー』

2009-01-12 15:19:00 | その他(音楽、小説etc)
武田肇『ベイ・ウインドー』(銅林社、2009年01月09日発行)

 武田肇の3冊目の句集である。俳句のことは私はまったくわからない。だから、俳句としてではなく、短い詩として読んだ。(引用の漢字は本文は「旧字」「正字」)
 好きな作品は、

向島商ひ中が雪の果て

 雪の中の商家が見える。客はいない。「商ひ中」の札(?)だけが健気にがんばっている。「雪の果て」というのは、作者が雪の中を歩いてきたからだろう。雪の向うに「商ひ中」という文字を見て、人恋しさに誘われる。温かいものを感じる。人のつながりを感じる。自然(気候)は非情のものである。人間の思いなんか、気にかけてはくれない。そういう気候と人情との差異といえばいいのだろうか、そういうものを超えて、こころが人情に動く。そういう瞬間がぱっと把握されていると感じる。

春愁や釦の穴へ指落つる

 釦の穴を手持ち無沙汰でまさぐる。それを「落つる」といったところが気に入っている。「落ちる」にはこういうつかい方があったのか、とうれしくなった。ただし、「春愁や」の「愁」は私にはうるさく感じられる。「愁」ではなく、もっと具体的な春、具体的ではなくても、たとえば「晩春」とか「早春」とか(春の真っ盛りはなんというのだろう--春の真っ盛りがほんとうはいい感じなのだと思うけれど)、「情緒」を含まないことばの方が、指の動きがくっきり見えると思う。指の動きにあわせて、こころが動くと思う。「春愁や」と言い切られてしまうと、指の動きがひきずられてしまって、こころに遊び(余裕?)が乏しくなる。

名月や断面はまだ闇の中

 これは、満月を詠んでいるのだと思う。私たちは月の半分しか見ていない。裏側は見ていない。それを「断面」と呼んでいる。そうか。「断面」か。驚いてしまった。それが「闇の中」というのも、とても鋭い指摘だと思った。
 武田の感覚は、ある意味でとても論理的なのだと思う。
 そして、その論理的であることが、ときどき詩を疎外するようにも感じることがある。 たとえば、

毬止まるそこまで春の裾野かな

 この作品はとても好きなものであるけれど、

砲丸を投げたそこまで夜の秋

 という作品を読んだとき、あ、私が感じている「そこまで」と武田の感じている「そこまで」は違うかもしれないと思った。
 「毬」の作品は、とてものどかな広がりを感じさせる。それは人間のわがままというか、欲望を受け入れてくる。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、自然(気候)は非情なものであるけれど、非情ゆえに、人間が何をしようと気にせずに余裕を持って受け入れてくる。ころがった毬が止まった場所。そこを人間が「春」と呼ぶなら、そこまで「春」として受け入れてくれる。そういう人間と、自然との「やりとり」(交渉)を感じる。それが好きな理由。
 ところが、「砲丸」は何か違う。「そこまで」のつかい方も、ぎょっとする。センチメンタルの「論理」が強すぎる。人間と自然(気候・時間)がやりとりして「秋」が存在するというよりも、一種の押しつけのようなものを感じる。「論理」を「夜の秋」に押しつけている感じがする。これは「そこまで」というよりも、「投げた」という動詞のせいなのかなあ。

 よくわからない。

 不満を書いたついでに、嫌いな作品。

海に佇つ若きのあらば海陰る

 海さえも少年(たぶん)の若さに輝きを失う--と書くことで、少年の輝きを描いている。そういうことはよくわかるけれど、そういう「論理構造」が、どうもうるさい。「あらば」という条件づけがうるさく感じるのである。
 少し趣向は違うが

遠泳のあと少年の五指くらき

 この作品にも「論理」がある。遠泳で少年の体は冷たくなっている。そのため指が温かい色を失って、「くらく(き)」なっている。そういう「論理」が、少年の繊細な美しさを疎外している。少年のはかなさにこころを奪われている作者のゆらぎを疎外している。感覚が触れ合っているというよりも、「論理」で繊細なこころを「証明」している、という気がするのである。
 こころは「証明」するものではない、と思うのだ。「証明」が出てくると、私はうるさく感じる。


ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎

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