詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「ホルンのこだま」

2009-12-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「ホルンのこだま」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)

 「びーぐる」が「谷川俊太郎と<こども>の詩」という特集を組んでいる。谷川は3篇新作を書いている。どの詩にも、こどもらしくて、同時にこどもらしくないものが書かれている。こどもらしくて、同時にこどもらしくないもの、というのは矛盾しているが、そういう矛盾が書かれている。矛盾であることによって、こどもであり、同時にこどもではない。そのことが、よけいに、こどもを感じさせる。実感させる。記憶を、それも「自分の記憶」というより「人間の記憶」を思い起こさせる。
 「ホルンのこだま」の全行。

そのふるいホルンはぴかぴかだった
おじいちゃんがふきはじめると
おとはまどからでていって
のはらのむこうのおかをこえていった

なぜかぼくはかわになって
このくにをでてさばくへながれていきたかった
でもそんなきもちはだれにもいえない
かべにかかったしゃしんをみると

しらないまちをでんしゃがはしっている
ぼくはいまのままでいいんだろうか
おかあさんのこどもでいいんだろうか
おじいちゃんのまごでいいんだろうか

ホルンのこだまがかえってきた
なつかしいきもちがなつかしい
ぼくはきっととおいむかしにもぼくだった
ぼくであることにくるしんでいた

 こどもらしくて、同時にこどもらしくない。その典型的な行が「でもそんなきもちはだれにもいえない」である。自分のなかにある不思議な気持ち。不思議な空想。「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という空想は、こどもらしい空想である。それは、そのまま誰かに言ってしまってもかまわないはずの空想である。でも、谷川の描く少年は、「そんなきもちはだれにもいえない」と考える。
 なぜか。

なぜかぼくはかわになって
このくにをでてさばくへながれていきたかった

 「なぜか」わからないからである。自分でも「なぜか」わからない。自分でもわからないことを他人に言ってもわかってもらえない。この判断、冷静な(?)分析は、こどもっぽくない。こどもは、こんなふうに冷静に判断などせず、思っていることをそのまま言ってしまうものである。
 いや、違う。この冷静な分析こそ、こどもっぽい。自分で「なぜか」わからないことを、同じように他人が(大人が)わからないかどうかは、実際はわからない。それなのに、「なぜか」わからないことは、他人に(大人に)言ってみてもわからないと即断してしまうところこそ、こどもっぽい。
 「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という原因を「他人」がわかるということは、まあ、ない。そういう意味では、谷川の書くこどもの感想は正しい。(と、いえると思う)
 けれど、人間は「なぜか」を特定できないけれど、その「特定」できない理由のために、ひとが(こどもが)、なにかとんでもない空想をしてしまうということ。そういう空想の奥には「なぜか」わからないものがあるということは、わかる。
 わからないということが、わかる。納得できる。
 こどもはわからないということが、わからない。わからないものがあってもいいということが、わからない。わからないものは、わからないまま、そこにある、ということを納得できない。なんでもかんでも、わかってしまいたい。それが、こどもっぽい考えである。
 谷川の<こども>は、しかし、そのこどもっぽいこどもから逸脱している。

 そうした矛盾とは別の特徴も、谷川の<こども>はそなえもっている。これから触れる部分こそ、谷川の<こども>の<こども>たるゆえんかもしれない。いや、谷川らしさのゆえんかもしれない。<こども>を逸脱して、<谷川>であるゆえんかもしれない。
 谷川の<こども>のこころの自分から出てゆき、そして自分に帰ってくる。自分を捨てて「他者」になり、その「他者」は結局「人間」とは交流できずに、自分に帰ってくる。その往復運動が<谷川(こども)>である。
 ホルンの音が窓から出て行くように、谷川のなかの「きもち」は谷川ではなく、「川」という「他者」になって砂漠(他の場所)まで流れていく。けれど、それは「きもち」のなかでおきたことであって、実際には起きない。谷川は実際には「川」という「他者」にはなれないし、「砂漠」という「いま」「ここ」とは違う「他の場所」へも行けない。
 そして、そういうふうにしたかったという「きもち」を「だれにもいえない」まま、谷川の「きもち」は谷川に帰ってくる。「きもち」だけが谷川の「肉体」から出てゆき、谷川という「肉体」へ帰ってくる。「きもち」だけが、まぼろしの「旅」をする。
 この「旅」は孤独の旅である。旅をすることで、谷川は「孤独」を発見する。
 
 孤独は基本的には「きもち」の問題なのだが、谷川の場合、それが「きもち」と書きながら自分から出て行き、自分にもどり、「自分」を再発見する。「きもち」をいれておく存在としての「自分」。「きもち」が幻の旅をするための出発点であり、帰着点である「自分」。その「肉体」。あるいは「場」。「場」の孤独。
 この発見を谷川は「なつかしい」と感じている。「なつかしいきもちがなつかしい」と反復している。それほど「孤独」が谷川にしみついてしまっている。
 「孤独」は谷川の「肉体」となってしまっている。
 
 谷川の描く<こども>は、孤独と「肉体」の関係を生まれながらなにして知っている。生まれつき、そういうことを納得できる超能力をもっている。「孤独」の天才である。
 そして、こういう孤独が「ぼく」のものでありながら、「ぼく」を超越したものであることをも知っている。人間は誰でもそういう「孤独」を生きているということを、こどもでありながら体得している。

ぼくはきっととおいむかしにもぼくだった
ぼくであることにくるしんでいた

  「ぼく」だけではなく、だれもが自分の気持ちが自分から出て行き、そして自分に帰ってくるしかないことを知る。知っている。知っていて、なおかつ、孤独な旅に出て、孤独を確かめて、より孤独になるために帰ってくる。孤独は「ぼくであること」なのだ。
 「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。



トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社

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八柳李花『Beady-fingers.』

2009-12-18 00:00:00 | 詩集
八柳李花『Beady-fingers.』(ふらんす堂、2009年10月26日発行)

 八柳李花『Beady-fingers.』のなかにはさまざまな「音楽」がある。「音楽」は私にとってはとても不思議なものだ。同じ「音楽」でも体調によってまったく違って聞こえる。きょう、私の体調はあまりよくないのかもしれない。複雑なものに酔うことができない。なぜかシンプルなものに傾いてしまう。
 とういわけで、私がこれから書いていく「削がれた跡にのこるもの」はもしかすると八柳の詩の全体をあらわしているとは言えないかもしれない。「蝉亡」について書こうとして、あ、ちょっと長くなりそう……と思って、その次のページに広がっている「削がれた……」についてなら書けるかなあ、と思ったのがほんとうのところである。
 いつか「蝉亡」について書きたい。けれど、きょうは「削がれた……」について書く。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 この書き出し。そのリズム。先行する1行を捨てていくスピードと、それを追いかけるようにすがってくる響きが、きょうの私にはとてもよく聞こえる。「よく」というのは「鮮明に」という意味と、「気持ちよく」という意味とをこめてのことである。
 2行目までは、主語は「言った男」である。それが3行目で「言われた男」にするりと切り替わる。「言った男」の後には、ほんとうは句点「。」があるのだろう。(私は句点「。」を意識のなかでつけてしまう。)
 ところが、「言った男」に「言われた男」がが並列され、直後に、改行があって「の、」という単独の、とても意味的に不安定なことばがあらわれる。
 特に「の、」の読点「、」がとてもいい感じに私には響いてくる。
 2行目に句点「。」はなかった。けれども、ここでは読点「、」がある。ことばの運動(文章にとって)、句点「。」の方が、読点「、」よりも重要なはずである。ことばとともにある意識は句点「。」によって意識の運動にくぎりをつける。「意味」を確定しながら、運動をつづける。ところが、八柳はその句点「。」を省略しながら、読点「、」を大切なもののように、はっきりと、とても目立つ形で書いている。

の、

 この1行は、どうしても目立ってしまう。なんの意味もない、と言ってしまうけれど、そこからなんらかの意味を分析できないような単独のことば。
 八柳は句点「。」ではなく、読点「、」で意識をくぎり、そのときの「深呼吸」のようなもので、ことばを動かしている。
 別なことばで言いなおすと、「頭の意識」ではなく「肉体の摂理、生理」でことばを動かしている。「頭」ではなく「肉体」がことばを受け止めて、「肉体」が受け止めた動きにしたがって動いていく。そこには「頭」とは別な運動がある。
 1行目(と2行目)にもどって読み直した方がわかりやすいかもしれない。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男

 1行目は

「夜の動物園に来てみないか」と

 と書き直すことができる。言ったことばをカッコのなかに入れて、それが地の文とは違ったものであることを明確にすることができる。学校作文では、たぶん、誰かの言ったことばはカギカッコのなかに入れて書きなさい、と指導される。そういう流儀、「学校作文」の流儀にしたがって言えば、八柳の書き方は、すこしずれている。そこでは「誰が」という「主語」が重視されていない。「頭」の違いによって「主語」を区別しようとはしていないということもできるかもしれない。「頭」で考えると、本来は違うものを、「違い」を強調しない形、一種の連続性のなかに取り込んでつないでしまう。ただし、そのとき、「肉体」はちょっと反応する。「呼吸」をととのえる。

夜の動物園に来てみないかと
言った男

 ではなく

夜の動物園に来てみないか、と
言った男

 「頭」で考え直せば(整理し直せば)、それは同じ「意味」になる。男が「夜の動物園に来てみないか」と言った。それを倒置法で表現したことにかわりはない。けれど、「肉体」には、それは同じではない。読点「、」を意識する。そこには「呼吸」がある。一瞬の切断がある。そして、その切断を乗り越えていく「覚悟」のようなものがある。
 「肉体」の「覚悟」がことばを動かしているのだ。

 「肉体」の不思議さは、「肉体」によって私たちは完全にひとりひとりに分断されるにもかかわらず、「頭」以上に簡単に「他者」と結びついてしまうことにある。ひとが「頭」で考えていることは、ときにはまったくわからない。けれども「肉体」は「他人」を、それが自分とは完全に切り離された「肉体」であるにもかかわらず、自分の「肉体」のように感じてしまう力を持っている。
 ひとが道ばたでうずくまってうめいている。そのとき「肉体」は、その「他人」の痛みを、「痛い」とことばで説明されないにもかかわらずわかってしまう。こういうことは「頭」では起きない。「頭」で考えたことがら、そのことばは、わからないときは絶対にわからない。現代哲学(翻訳哲学?)の、ややこしいことばの動き、それが伝えたいとしていることは、何度読み返してもわからない。現代数学、物理学になると、もう「数式」がわからない。何度説明してもらってもわからない。道ばたでうずくまっているひとの「肉体」の苦悩はことばで説明してもらわなくてもわかるのに……。
 「肉体」は「自己」と「他者」を簡単に混同する、というか、融合させてしまう。ただし、その融合のとき、一瞬の「呼吸」がある。道ばたでうずくまり、うめいているひとを見たとき、「はっ」と一瞬思う、そのときの「呼吸」--そういうものがあって、「自己の肉体」は「他者の肉体」と接続する。接続して、融合する。

 そういう「呼吸」が八柳を動かしている。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 この4行目の「の、」。その読点「、」で呼吸した瞬間、5行目の「耳」は「誰の耳」になるだろうか。
 2行目「言った男」の後には句点「。」があり、それが省略されていると私は最初に書いたが(便宜上、そう書いたのだが)、その句点「。」のきびしい断絶が、この「の、」の「呼吸」によってのみこまれてしまう。
 「の、」の読点「、」の呼吸によって、それにつながる「耳」が「言った男の耳」にも「言われた男の耳」にもなってしまう。重なってしまう。ちょうど、「道ばたでうめいている男の肉体の痛み」が、とおりかかり、「それを見てしまった男の肉体の痛み」になってしまうように。
 ほんらい別々のもの、「頭」で考えるとまったく別々のものが「肉体の呼吸」によって融合し、新しい領域へことばを動かしていく。

耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 いったん融合してしまうと、それはまったく切り離すことができない。道ばたでうずくまりうめく男を目撃し、その痛みを感じ取ってしまったら、ひとは、その男をそこに置いたまま立ち去ることはできないのと同じである。(まあ、「頭」で動いているひとは立ち去ってしまうかもしれないけれど……。)
 もう、「水槽の記憶」は「言った男の記憶」か「言われた男の記憶」か区別がつかない。いや、それ以上に、その記憶は二人によって「共有されたもの」という印象に変わってしまう。
 ほんとうは二人の男がいるのに、「二人」という「事実」は捨て去られ、共有された「記憶」が主語になってしまうのだ。そしてその「記憶」は、繰り返しになるが、「頭」ではなく「肉体」で共有されたものである。
 ここから動きはじめることばは「頭」ではなく「肉体」で動いていくことばである。だから、それを「頭」で整理しようとすると、何かわけのわからないものになる。
 詩のつづき。

なにか釈然としない物事の順序には
黙されたメッセージがひそむというから
二点を最も離れた仮定の上から
意味を付加しようと気づいた
線で結ばれた感覚はすでに特定されて
随分長いこと魚は鳴いているだろう
という
後ろめたい非難がぞくりと削がれる
というのも一種の反復、
反復の積み重ねであるなら、と
更にあたらしい像を重ね

 これらの行のなかに見え隠れする「意味」を「頭」で整理することもできる。できるけれど、こういうことばは「頭」で整理するのではなく、「音楽」として「肉体」で消化するしかないのである。
 あえて「頭」を駆使すれば(酷使すれば? 無理やり「誤読」すれば?)、二人のおとこから「二点」と「離れた」存在、「線で結」ぶ、そういうふうに別なものを別なものにおきかえて「反復」し、意識は動いているという具合になるかもしれないが、そういうことはたぶん八柳のことばの運動を窮屈にする。
 ことばは、もともと「意味」などもっていない。というか、「意味」になっていなことばそのものが、つまり「意味」にしばりつけられていない自由なことばが詩なのだから、「頭」で「意味」を結びつけても意味はない。
 いま引用した部分にも、読点「、」が出てくる。
 そこにはやはり「呼吸」がある。「二人」「二点」「結ぶ」ということばが「反復」ということばにたどりついた瞬間、八柳は、たぶん私があえて「頭」で考えればというふうに書いたようなことを「肉体」のどこかで感じたのかもしれない。(まったく違うことを感じたのかもしれいないが。)そして、その感じたことが「反復」ということば、音になっていることを「肉体」に納得させるために、一呼吸したのだ。

というのも一種の反復、
反復の積み重ねであるのなら、と

 「反復」と「積み重ね」はある意味では重複であるが、それに気がつかない(?)ほど「肉体」は深く感応している。そして、その「肉体」が感応しているものを正確に「肉体」に取り込み、さらにことばを動かすために、八柳は、たてつづけに2回呼吸している。2行つづけて読点「、」を正確に書き留めている。

 「頭」ではなく、「肉体」が八柳のことばを支配している--そういうことを「肉体」で受け止めて読み進むと、八柳の「音楽」--「意味」を超越したことばの運動がたのしく響いてくる。

 (「頭」の部分は、瀬尾育生が「光の中へ」というしおりに書いているので、そちらを読んでください。)




Beady-fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂

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ノーラ・エフロン監督「ジュリー&ジュリア」(★★★)

2009-12-17 12:00:00 | 映画
ノーラ・エフロン監督「ジュリー&ジュリア」(★★★)

監督・脚本 ノーラ・エフロン 出演 メリル・ストリープ、エイミー・アダムス、スタンリー・トゥッチ
 
 私はノーラ・エフロンの映画が大好きだ。独特の味がある。女の視点というものが他の監督とはまったく違う。とても女っぽいと思う。他の監督の場合、監督が女性であっても、そこには「男」の視線がまじりこんでいる。「人間」であるまえに「女」として描かれる。常に「性」が見え隠れする。ノーラ・エフロンの場合、「女」であるまえに「人間」なのである。それが独特であり、そこに女っぽさを感じる。女の監督でなければ撮れない映画だと思ってしまう。
 この映画には世代を超えた女が二人登場する。そして二人とも結婚している。結婚しているから当然セックスをする。そのセックスが、もちろん人間のすることだから同じ行為なのだが、「時代差」を感じさせない。50年前と現代ではセックス感が違っている。二つの時代が描かれればそこにあらわれるセックスだって違うのがふつうである。これをノーラ・エフロンはまったく同じ感覚で描いている。彼女にとって、それは同じなのだ。「女のつつしみ」というようなもの、あるいは「女の官能の追求」というようなものは、どこかわきへ置かれてしまっている。女にとってはセックスは官能の追求、エクスタシーの追求、自分が自分でなくなってしまうという喜びの体験ではなく、あくまで自分が自分であること、自分の内にとどまる行為なのである。自分が自分であって、となりに男がいる。そして、そのぬくもりが温かい。そのぬくもりがうれしい。ぬくもりが楽しい。その喜びなのだ。それは「時代」とは関係がない。
 最初にノーラ・エフロンの映画を見たのは「マイケル」だった。ジョン・トラボルタが天使をやる。その天使がおおもて。何人もの女といっしょにベッドでセックスをする。いわば乱交だね。けれど、女たちがそのことをまったく気にしていない。官能の追求、自分だけ特別な人間になるということを求めていない。いっしょにいてあたたかい。そこに他の女がいても、困ることはない。あたたかさをいっしょに楽しむだけ。そういう雰囲気だった。へぇーっと驚いたが、そういう感覚があってもいいし、あ、これが女独特の感覚なのかもしれないと思った。
 それがずーっとつづいている。あたたかいもの、あまいもの、自分をつつんでくれるものがあればいい(いればいい)。それが幸福。
 この映画では二人の女性が料理をとおして「幸福」をつかむが、二人はともに「別世界」へゆくわけではない。あくまで自分の世界にいる。料理の本が売れる。それは女を有名人にし、お金をもたらすけれど、そのことで「生活」を変えるわけではない。そうなっても自分で料理をし、男といっしょに食べ、友人たちといっしょに食べ、「おいしい」と言い合い、いっしょにいることを喜ぶ。その喜びから外へ出ていかない。いっしょにいる喜び、いっしょに何かする喜び、その温かさ--それを大切にする。
 「失敗」の描き方も、とても温かい。失敗の悲惨さを拡大しない。料理の下ごしらえが床に全部こぼれてしまう。そういうシーンのとき、映画ではカメラは床に散らばった材料をアップでとらえがちだが、ノーラ・エフロンの映像はそんなふうにはならない。カメラを引いて、全体のなかで、あ、失敗しちゃったという感じだ。料理は失敗しても、そんなこととは関係なくテーブルはテーブルとして、そこにある。椅子だってこわれるわけではない。「もう、いやになっちゃう」と女が泣きだしてしまうときも、その顔のアップではない。寝っころがって手足をどたばたするが、そのとき観客の目に飛び込んでくるのは、失敗したって生きている、ちゃんと元気じゃないか、「肉体」があるじゃないか、という安心感である。これは、すばらしい。とても、とても、とても、とてもいい。カメラが「失敗」を責めないのだ。かといって「同情」もしない。ただ、その全体をつつみこむ。「失敗」を気にかけず、ただ、それをつつみこむ。家具には感情はないから当然、料理の材料に感情はないから当然--と考えがちだけれど、そうではない。そんなふうに「失敗」をあたたかく支える、見守るという視線をカメラに定着させた監督はいない。
 あらゆる細部を細部をつきつめて強調するのではなく、全体のなかで受け止め、全体のなかにある「空気」をあたたかくする。あ、これが「女の夢」なんだなあ、すくなくともノーラ・エフロンの夢なんだなあ、と静かにつたわってくる。
 「空気」で思い出すのは、またまた「マイケル」だけれど、天使を探しに行った先で、女が「甘いクッキーの匂いがする」という。すると男は「甘いにおいなんか関係ないじゃないか」と怒る。この違い。男は「目的」のことしか考えていない。けれど、女はそのとき女をつつみこむ「におい」に、「空気」に反応する。このにおい、実は、ジョン・トラボルタ天使のにおいなのだけれど--この人間をすっぽりつつんでくれる温かく甘いにおい、その空気こそ「生きがい」という視点が、ほんとうにほんとうに、女っぽいと私は思う。大好きだ。この感覚を男ももつようになると、世の中変わるだろうなあとも思う。


 
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岸田将幸『<孤絶-角>』

2009-12-17 00:00:00 | 詩集
岸田将幸『<孤絶-角>』(思潮社、2009年10月25日発行)

 ことばはむずかしい。ことばには「意味」がある。そして、その「意味」が社会に流通する。--そういうことと、詩は無関係にある。と、いっていいかどうかわからないが、まあ、社会に「流通」することばとは違った「意味」が一生懸命つくられようとしている。
 あ、こんなふうに書くと、きっととんでもない方向にことばが動いていく。ことばがかってに動いて行ってしまう。まあ、かってに動いて行って悪いことはないのだが、岸田将幸『<孤絶-角>』の感想を書こうとしているのに、なんだが詩集を置き去りにしてしまいそうな気がする。

 「意味」について書きはじめたのは、「孤絶-角」というものを、私は知らないからだ。「孤絶」ということばすら、私は知らない。「文字」から判断して「孤立」している、しかもその「孤立」の仕方は「絶対的」なものである--と想像してしまう。「孤絶-角」というのは、すべての存在から完全に孤立した角(かど、街角のかど、かな)、あるいは角度(分度器で測る角度の角、ものが交わるときにできる角)のことである--と勝手に想像してしまう。
 でもねえ。「角」というものがふたつのものが交差することによってできるものだとすると、それが「孤立」するということはありえない。「角(つの)」でさえ、出っ張ったものという定義のほかに、それぞれの斜面が交差して、そこでその存在が終わるところと言ってしまえば、そこに複数の存在の交差が生まれてくる。だから、「角」というものが「孤」になることはありえない。
 それが「孤」であるとき、「孤」と定義されるとき、そこでは「交差」が無視される。別のことがらが意識される。たとえば「角(つの)」が「孤立」していると定義されるとき、そのツノの斜面は無視され、ツノの底辺が意識される。底辺とつながっている部分、たとえば頭部、頭皮というものが意識される。ツノはたしかに頭部(頭皮)と底辺で接触しながらも、その頂上は底辺から「距離」をもっている。この「距離」を中心にして、ツノの先端はツノとつながる頭部から「孤立」している--というふうにいうことはできる。そのとき、ツノをツノたらしめている先端の角度あるものは、その角度を構成するものによって存在しているということが「省略」されている。
 「角」が「孤立」(孤絶?)するとき、その「角」をつくっている要素が「省略」されている。たぶん、このことが重要なのだと思う。

 岸田は、「孤絶-角」というものについて書く。それがどんなものであるか私は知らないが、そういうものがあると仮定したとき、それを描写する岸田のことばはなんらかの「省略」を含んでしまう。何かを「省略」しないことには、「孤絶-角」というものは存在しない。
 では、岸田は何を「省略」しているのか。

 私にはよくわからない。よくわからないから、「直感」で言ってしまう。岸田が「省略」しているのは「数学」である。純粋論理である。岸田のことばで言いなおすと「数式」である。そして、面倒くさいことに、岸田は「省略」したはず(するはず)の「数式」について、触れもするのである。あたかも「論理」があるかのように書くのである。

新たな数式を生まねばならない。きっとそれは次の人がぎりぎり踏み外すことのない足場になるはずだ。その数式は彼を沈黙させ、彼はしばらく別のことろで生きて行かなければならなかったかもしれない。

 「数式」が「省略」されるのは、それがまだ存在しないからである。「生まねばならない」とは、それが存在していないことを明確に語っている。それは存在しない。だから「省略」しても誰も気がつかない。
 岸田は、そういう人間の意識を利用して、わざと「数式」ということばを提出し、岸田のことばに「省略」があること、「省略」することがことばを動かすエネルギーになっていることを巧みに隠蔽する。そして、「数式」とは無縁の「自由」を手にいれる。ことばを「自由」に動かす。
 そういう「読み方」(誤読の仕方)が一方にある。そういう「読み方」をすることができる。
 また、別の「読み方」もできる。別の「誤読」の方法もある。「数式」を「省略」する。まだ存在しない「数式」を「生まなければならない」という意識が岸田のことばをつねにしばりつづける。岸田のことばは常に意識から「自由」になることはできず、先行することばの運動にひきずられつづける。「不自由」になりつづける。
 引用の先を引用すると、そのことがわかる。

新たな数式を生まねばならない。きっとそれは次の人がぎりぎり踏み外すことのない足場になるはずだ。その数式は彼を沈黙させ、彼はしばらく別のことろで生きて行かなければならなかったかもしれない。しかしだ、その別の場所を育んだのはある死者の息づかいの跡であったかもしれない。そうして彼はある死者の跡を引き受けつつ、また別の人を生かしめるために別の場所に立ったのかもしれない。数式から外れる彼の暮らしは実はある死者の存在を事後、認めることになるかもしれない。

 次々に新しいことばが出てくる。「死(者)」と「生(かしめる)」という対立概念がぶつかりあう。「論理」が正面衝突してしまう。それは「自由」な結果としてのぶつかりあいなのか、それとも「不自由」な結果としてのぶつかりあいなのか、どうとでも「誤読」することができる。
 岸田は、このどうとでもとれる「誤読」を誘いながら、ことばの重力をさらに「隠蔽」する。つまり「省略」する。しかしその「省略」、あるいは「隠蔽」はいわばブラックホールである。そこには何もなくて、何もないことによってすべてがある。そこではブラックホールのようにすべての光は消えてしまい、何も見えない。しかし見えないということが、存在しないということではない。見えないのは、その存在が巨大だからである。巨大すぎる重力がすべてを見えなくする。
 ここで、またまた、矛盾が出てくる。すべてがあつまり、凝縮し、巨大な重力になるということは、その結果として「見えない」という状態をつくりだすが、そこには何も存在しないということではない。そこにはすべてがあるという逆説的な存在の形式がある。すべてが「一」になってしまっているために「見えない」のだ。
 いわば、数式が収斂し、たったひとつの「式」になってしまったのだ。だから、それは「省略」ではなく、もう書かなくていいのだ。ひとつしかないものをわざわざ明確にする必要はない。ひとつしかないものは、定義の必要がない。

 ふいに、もとにもどるのだが……。
 岸田の書いていることに「意味」はない。岸田は流通する言語から「意味」を引き剥がしている。「意味」を「省略」している。ことばを孤立させ、そして孤立したことばがことば自身の重力にしたがってブラックホールにのみこまれること、そのことば自身がブラックホールそのものになってしまうという運動へと、ことばを駆り立てている。
 だから、どんなふうにでも「誤読」できる。「正確」によむとは、どれだけ「誤読」を論理的に(?)つづけることができるかという「連続性」にかかってくる。
 「連続性」は「孤絶」とは対立する概念だから、「誤読」を「連続」させるというのは、まあ、岸田のことばを読む態度としては奇妙なことになってしまうが、岸田が「孤絶」したことばをめざしてことばを「連続」させている、延々と書いているのだから、こうした対立・矛盾は必然でもあることになる。

 あ、ちょっと面倒なところに入り込んでしまったかもしれない。目が悪いので、ここで岸田にならなって(?)、途中を「省略」して結論(?)めいたことだけ書いておこう。
 岸田のこの詩集では、岸田の「矛盾」と読者の「矛盾」が出会いながら、より巨大な「矛盾」のなかにのみこまれる。その過程で岸田のことばと読者のことばが衝突し、そこから一瞬光が発生するが、その光は巨大な矛盾(意味の重力、流通する言語の意味ではなく、まだ生まれていない意味の重力)に呑み込まれ、何も見えない。真っ暗な光が「脳内」をかけめぐるだけである。その、真っ黒な閃光を感じる「肉脳」(私が日記で書いている「肉眼」とか「肉耳」の延長で呼んでください)を鍛えないと、この詩集はなんのことかわからないだろう。「肉脳」へむけて書かれたことばなのだ。

 私は「肉脳」なんて、もっていない。だから、そこで爆発的に起きている黒い閃光を追いつづけることはできない。具体的な批評・分析は、まあ、岸田のこの詩集を高く評価している他の詩人がしてくれるだろうから、それを待っていればいいだろう。
 「肉脳」をもたないけれど、私は、この詩集が、実は楽しかった。
 ふたつの「誤読」の仕方を私はしてみたが、そういう複数の「誤読」の可能性の楽しみがあるし、また、「音楽」がとても気持ちがいいのだ。「意味」ではなく、「音楽」が岸田のことばにはある。
 先に書いた「省略」を「音楽」があざやかに埋めて、「省略」を感じさせないのである。「音楽」に酔わされて、「省略」の罠(?)を忘れてしまうのである。
 私は「音読」するわけではないので、実際に声に出すとどうなるかわからないが、岸田の書いていることばは、黙読すると喉や口蓋、そして目にもリズミカルに響いてくる。気持ちのよいリズムに乗ってことばを追っていくことができる。「意味」は考えず、ただことばが先行することばを利用しながら、少しずつ変奏していく--その変奏の仕方に「連続性」と「休憩」(断絶、とはちょっと違う)、「休憩」後の「飛躍」が快感なのである。
 この快感はモーツァルトを快感と感じるか不快と感じるかの快感のあり方に少し似ているかもしれない。私にとってモーツァルトは体調がいいときは快感だが、熱があったり疲れていたりするとただただ疲れるだけの音になる。--だから、きょうは、岸田の詩集はおもしろかったと書いたが、別な日は不快であると書くかもしれない。そのあいだを揺れ動く詩集だ。そこに、魅力がある。



“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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古谷鏡子『入らずの森』

2009-12-16 00:00:00 | 詩集
古谷鏡子『入らずの森』(砂子屋書房、2009年11月10日発行)

 古谷鏡子『入らずの森』には「空」がたくさん登場する。目次をみただけでも「空のなかのへ水のなかへ」「そらの日」「そらの目」「そらが空からやってきた」と「空」「そら」が並んでいる。古谷は「空」についていつも考えているのだ。
 「空」はもちろん「青空」の「空」でもあるが、そこには別の感覚がまぎれこんでいる。

虚空 空無 空なるあらゆる事象
辞書のなかでひたすら言葉がからまわりしている
それぞれの名前にはそれぞれの顔と文字
そらにはどんな文字を幽閉することができるだろうか
どんな言葉も
そらんじて
どんな文字も
雲散霧消して
魚のように逃げていく
              (「訪問者」)

 「空」は「そら」であり「くう」である。そこには何もない。--というのはほんとうか。「雲散霧消」ということばが出てくるが、「空」には何もないように見えて「雲」があり「霧」がある。そして、そこにはもっとほかのものもある。「鳥」「風」「光」も。
 「空」は「そら」であり「くう」である。そこには何もない。--ということを古谷は別な形で言い換えもしている。

青い空のはるかむこうのことについて
にんげんは
いとも簡単に
無限という言葉を発明した
かぎりなく遠い空かぎりなく無言の闇 これで当分のあいだは安心
そして
有限の人生を生きるかれらは無限という言葉に懸想して日を送る
永遠の恋人よ と

 「空」は「そら」であり「くう」であり、同時に「無限」である。では、そのとき、たとえば「雲散霧消」した「雲」「霧」そして「鳥」は? あるいは「風」「光」は? それは人間が「無限」ということばを発明したのと同じように、「雲」「霧」「鳥」「風」「光」ということば(発明されたことば)とともに、そのことばを発したときだけ存在する。
 ことばが「無限」のなかに「有限」のものを存在させるのだ。そこにはもちろん「人間」も、つまり「わたし」(古谷)も含まれる。「無限」にさらされながら、「無限」と直面しながら、古谷はていねいに「わたし」という人間を動かしている。「わたし」が「無限」のなかに存在するものに「名前」をあたえながら、「わたし」と「他者」との「有限」をつくり、そのなかでさらにことばを鍛えている。ことばが何をなづけることができるか、と考えている。何かに名前をつけ、その何かといっしょに生きる--そのときのことばの運動が詩である。
 この「無限」と「わたし」の通路を、古谷は「窓」というふうに呼ぶこともある。

その朝
不意の目覚めのように 窓はあった
鉛色の活字がいっぱいつまった壁をくりぬいて
窓はあった
        (「窓という幻想」)

 「鉛色の活字」とは「ことば」であるかもしれない。ことばががいっぱいつまった壁--それを「くりぬいて」窓があった。「窓」は「ことば」をくりぬいた部分。それは、まだ「ことば」が存在していない部分ということかもしれない。
 詩とは、まだ「ことば」になっていないところをとおって、新しく「ことば」を発見(発明)することであり、そのとき通る場所を古谷は「窓」と呼ぶのだ。

 そうだとすれば、古谷は、まだことばになっていない「世界」をとおって、その「ことばになっていない世界」を「ことば」にしようとしている。
 この行為はたしかに詩と呼ぶにふさわしい行為である。
 詩はいつでも、まだことばになっていない世界をことばにする。そしてそのことばは、まだ生まれていないことばである。「生まれていないことば」で何かを名付ける--というのは矛盾である。矛盾だから、そこに詩がある。真実がある。思想がある。
 「生まれていないことば」。それを探すために何をするか。それを生み出すために何をするか。
 古谷は、いま、ここにあることばをていねいに点検する。見つめなおす。
 いま、ここにあることばのなかに、「空」(くう)を探そうとするのだ。
 「そらが空からやってきた」の書き出し。

図書館の
エレヴェーターのなかでそらと出会った
小さな箱のなかで
わたしはそらの眼の凝視に耐えられない
わたしはそらに背をむける
視線にたじろいで顔をそむける

 「図書館の/エレヴェーター」が象徴的である。「ことばの保管庫」としての「図書館」。そこにはあらゆることばがある。その「ことば」の地層をくりぬいてエレベーターは上り下りする。それは「鉛色の活字がいっぱいつまった壁をくりぬいて」できた「窓」に似ている。
 それは「空」ではない。そして「空(くう)」でもない。
 それを古谷は「そら」と呼んでいる。「音」にしてしまえば「空(そら)」となってしまうけれど、「空」と書かずに「そら」と書くことで、「空(そら)」でも「空(くう)」でもないものと向き合う。「そら」のなかでは「空(そら)」と「空(くう)」が出会いながら、その両方でもないまったく新しいもの、古谷だけが発見したものに出会う。その存在は、他者にとっては「空(くう)」であるけれど、つまりまだ定義されていないことばの運動領域であるけれど、古谷はそれを「そら」と書くことで定着させようとしているのだ。

 ことばの遊びにすぎない。--そんなふうに見えるかもしれない。同義反復(?)にしか見えないかもしれない。
 しかし、これは同義反復に見えたとしてもつづけていかなければならない運動なのである。進んだか進まないかわからない距離だけれど、そこを進むしかない。ことばのなかに「空(くう)」を見つけ、それを「空(そら)」に変え、その「空」のなかに鳥を飛ばせ、風を吹かせ、音を響かせ、そして、そんなふうにひろがった「空間」のなかに人間を動かして時間を重ね、ひとの世界は広がっているのだから。
 「ことば」。いま、ここにある「ことば」。それは、何か物足りない。自分の「こころ」を正確にはいいあらわしてはくれない。その、少し不満な、でもどうしていいかわからないものをなんとかしようとして、次々にことばは生まれ、詩は生まれてくるのだから。こういうことは古谷だけではなく、古人からずーっとつづいている「文学」の伝統である。古谷は、そういう「王道」を歩いている。
 「花の散るなかで」はそういうことに身を寄せて書かれている。

はなが散っている
はら はら ひら ひら はらり はらり
擬態のことばは
優しすぎてものたりない そこで古人はいう
花吹雪 花筏 散花

 「空・そら・くう」、まだ存在しない何かを生み出すために、それをはっきり見るために、ひとはことばを発明する。「花吹雪」「花筏」。そして、無残にも、ことばは乱暴を働くこともある。「散花」。
 詩はつづいている。

花吹雪 花筏 散花
花誘うあらしの戦場(にわ)にどれほどのいのちが散り
立ちあがることもできない風雪のなか
そうやってひとの身は古り 日を経てきた

 そういう「乱暴」がおこなわれることもある。だからこそ、そういう「乱暴」に対抗しうることばを見つけ出さなければならない。そういうことを胸の奥のどこかに秘めながら、古谷のことばは動いている。そう感じさせるていねいさ、「肉体」のやわらかさが、静かな音楽として響いてくる。



眠らない鳥―詩集
古谷 鏡子
花神社

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チャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」(★★★★★)

2009-12-15 21:24:22 | 映画
チャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」(★★★★★)

監督・脚本 チャーリー・カウフマン 
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、ミシェル・ウィリアムズ、サマンサ・モートン、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト

 おもしろいシーンがいろいろある。
 エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンの「役」を演じながら、「三角関係になり、サマンサ・モートンが泣く」という「ストーリー」を考え出し、それに対してサマンサ・モートンが「私は泣かないわ」と抗議する。けれどもフリップ・シーモア・ホフマンは、サマンサ・モートンが泣くというストーリー展開を採用してしまう。
 このシーンが、この映画をいちばん象徴している。
 芝居の演出家であるフリップ・シーモア・ホフマンは、突然舞い込んできた大金でオリジナルの芝居を考える。舞台はニューヨーク。実物大のニューヨーク。そして登場人物も現実そのまま。自分の現実をそのまま「舞台」にしてしまう。
 ストーリーは収拾がつかない。いつまでいっても終わらない。現実の状況が次々にかわっていくので、それにあわせ芝居もかわっていくからである。
 ここまでなら、それは単なるドタバタ喜劇。
 しかし、チャーリー・カウフマンはこれをどたばた喜劇にせずに、一種変わった「哲学」というか、「文学」に変えてしまう。現実と芸術(虚構)の関係を考える「哲学」にしてしまう。
 その象徴的なシーンが最初に指摘したエミリー・ワトソンのシーンである。現実の世界では、フリップ・シーモア・ホフマンとサマンサ・モートンが愛し合っている。芝居のなかでは老人(?)がホフマンを演じ、エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンを演じている。その現実と虚構の関係が崩れ、サマンサ・モートンは老人と親しくなるし、フリップ・シーモア・ホフマンはエミリー・ワトソンとセックスをしてしまう。芝居が現実に越境してきて、現実を変えてしまうのである。サマンサ・モートンは、越境してきた虚構(エミリー・ワトソン)に、自分自身の現実を破壊されてしまう。サマンサ・モートンが虚構になり、エミリー・ワトソンが現実になってしまう。
 これが非常に、非常に、非常におもしろいのだ。

 ふつう、現実を整理し、きちんとした「ストーリー」にしたものが「芸術」である。「私小説」を考えるといい。「私小説」のなかに書かれているのは作家の現実の一部。その一部がある感動を引き起こすようにして整えられている。虚構のことばを、現実が鍛え、整える。そういう関係で私小説は成り立っている。
 はずである。
 はずである、と書くのは、実はそれだけではないからだ。
 大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』について以前書いたとき指摘したことだが、現実が「私小説」に反映するだけではなく、書かれた「文学」が実際の生活に反映し、現実を整える、美しい形にするということが起きるのだ。現実があって、それが「私小説」として書かれるだけではなく、そこに書かれてしまった「にんげん」が現実の人間にはねかえってきて、現実の人間の「思想」を鍛えるということがあるのだ。現実の人間の「感情」を育てるということがあるのだ。

 実際にサマンサ・モートンは泣かなかったかもしれない。けれどエミリー・ワトソンに、サマンサ・モートンは泣く、と指摘されて、そのことばによって、サマンサ・モートンは自分自身の「こころ」を発見する。自分のこころなのに、それをエミリー・ワトソンに発見してもらって、あ、自分は泣きたかったんだとわかる。
 この映画のなかで起きていることはすべてそれである。
 この映画の最後の方で、ホフマン役の老人が死んでしまう。代役はどうするか。そのとき、ダイアン・ウィーストが女性であるにもかかわらず、ホフマンの役を買って出る。そんなの、むりじゃない? 特に、この芝居のように、「そっくりさん」が現実を芝居にするという劇ではむりじゃない? サマンサ・モートンとエミリー・ワトソンを見比べるといいのだが、メイキャップを度外視してもふたりは「そっくり」である。非常に似ている。フィリップ・シーモア・ホフマンとダイアン・ウィーストは、まず「性(男か女か)」が違う。「そっくりさん」は演じられない。
 ところが。
 それをダイアン・ウィーストはやってのける。どうやってかというと、フリップ・シーモア・ホフマンのやりたいこと、芝居の「理念」をきちんと言語化し、芝居の方向性を決定する。「演出」をのっとるのである。
 フリップ・シーモア・ホフマンは自分が何をほんとうにやりたかったのかわからないまま、芝居をつくりはじめてしまっていた。その「わからないもの」を役中のダイアン・ウィーストがきちんと「先取り」して形にする。それを聞いて、フリップ・シーモア・ホフマンは自分がやりたかったことをはっきり理解する。サマンサ・モートンがエミリー・ワトソンに「泣く」と指摘されて自分の感情を発見したように、フリップ・シーモア・ホフマンはダイアン・ウィーストに指摘されて彼の「芝居哲学」を発見するのである。

 すべての「真理」(サマンサ・モートンにとっての「泣く」という感情、フリップ・シーモア・ホフマンにとっての芝居哲学)は、外部からやってくる。彼ら自身の内部から自発的に発生するのではない。これは、芝居を演じている役者たちも同じである。彼らは自分の感情・哲学を発見して演じるのではなく、脚本の中に書かれている自分以外の感情を発見して、それを演じるのである。そして、その「自分以外のもの」を発見するためにこそ、あらゆる「芸術」はある。
 小説を読む。そして、そこに書かれている何かを、あ、これは自分がいいたくていえなかったことだと発見することがある。これこそ自分の気持ちだと感じることがある。それは、自分だけでは絶対に発見できない。確認できない。他人に触れること、他人のことばをとおして見つけ出すものなのだ。

 この映画は、そういうことを象徴して終わる。
 芝居は完成しない。役者たちは次々に死んでゆく。フリップ・シーモーア・ホフマンは、誰かもわからない女性の肩に頭をもたせ掛け「アイ・ラブ・ユー」と言って死ぬ。まったくの他人--その存在が人間を支えている。その誰だかわからない人間、ほんとうの「他者」に「アイ・ラブ・ユー」ということ。このとき「アイ・ラブ・ユー」は日本語では「ありがとう」かもしれない。そうやって、人間は一生を終わるのだ。常に「他人」に、見ず知らずの「他人」が「わたし」を発見させてくれる。そういう「他人」にどれだけ会えるか、一期一会の出会いを生きることができるか。
 そんなことを語りかけて終わる。

 この映画のテーマは、とても「哲学的」であり「文学的」だ。しかし、そう感じさせないリアルなおもしろさで映画は進む。チャーリー・カウフマンの脚本の力、演出の力がすごい。役者たちの力もすごい。演技派がそろわないと完成しなかった映画である。



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佐藤文夫「国語の時間」

2009-12-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤文夫「国語の時間 「こむ」の使い方」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 佐藤文夫「国語の時間 「こむ」の使い方」(初出『津田沼』2009年04月)もまた岡井隆の『注解する者』と強引に結びつけることができる。「脈絡」を「誤読」することができる。

はじめてできた恋人 わたしはあなたに 惚れこむ
やっと就職 新聞配達 そまつなお店に 住みこむ
息子は大学をでて派遣会社にヤットコサ 滑りこむ
サラリーマンは昼休み慌ただしく定食を 喰いこむ
老人は☎で騙され 息子のために大金を 振りこむ

 本文にはルビがついているものもあるのだが省略した。「……こむ」という脚韻(?)と行の形を整えるようにして書かれているスタイルを優先した。
 引用したような「……こむ」という行が、延々とつづく。「延々と」という印象は、たぶん、それに先立つことばがあまりに散文的すぎて想像力を刺戟しないからである。音楽というものが、「……こむ」の前に書かれていることばのなかには、まったくない。(と、私は感じる。)こういう音楽のないことばというのは私はとても苦手だ。「流通言語」というのはたいてい音楽を欠いているが、それが書き留められた形でつづくと、なんとも苦しくなる。
 あ、悪口から書きはじめてしまった。

 この詩は、音楽や発想の自由さという点では岡井のやっている「注解」とは無縁のものである。そういう一見「無縁」のものも、岡井の作品と強引に結びつけて考えることができる。不思議なことに。
 「……こむ」ということばのもとに、さまざまな「多」が集められる。動詞の「連用形」だけではなく、その「動詞」にかかわる形で「多」が集められる。その「多」は1行目をのぞけば「社会」である。それも佐藤が独自にみつめた「社会」というよりも「流通する社会」である。「流通言語」風にいえば「流通社会」である。そこには佐藤個人の「肉体」が関係していない。きのう読んだ谷川の作品と対比すると、そのことがよくわかる。谷川の作品は、どの行にも谷川が「多」となってあらわれていたが、佐藤の作品には、「多」としての佐藤は存在せず、「社会」が「多」となって流通している。安直なジャーナリズムに描写されている状況、批評がそのまま並べられているだけである。
 「……こむ」の使い方も「流通」している動詞の使い方の範疇を逸脱していない。誰でもが想像できる範囲の動きしかしていない。あまりにも安直な動詞なので、かえってびっくりするくらいである。
 
 しかし、これもまた「注解」なのである。「……こむ」という「一」が社会を「多」に解体し、その解体された「多」がもう一度「一」として「範疇」にくくられる。「一」になる。ことばの運動として「注解」の動きをそのまま引き継いでいる。そこには岡井の思想と通じるものがある、
 はずである。

 ……はずである、けれど、ねえ、おもしろくないですねえ。佐藤の作品は。申し訳ないけれど、私は、この作品がおもしろいとはまったく思わない。とてもつまらないと思う。
 で、なぜ、それではそういうつまらないものを50年に一度の大傑作『注解する者』と結びつけて書いているかというと。
 だれもが「注解」する。あらゆることがらに対して「注解」しないではいられない。そこに人間のおもしろさがあるのだけれど、「注解」すれば、だれもがおもしろいことばを書けるかというとそうではない。
 そのことをはっきりさせておきたいのだ。

 岡井の「注解」もしばしば日常的な、卑近な部分に触れることがある。家人との戯れ言のようなものが紛れ込んだりする。それは一見すると「流通家庭」(?)のような雰囲気である。どこにでもある夫婦のやりとり、しかも年月を経てきて「まるく」なりつつ、同時に「ちくり」も含んでいるという味わいの定着したやりとりである。しかし、それはやはり「流通社会」ではない。そこには不思議な岡井の個人的年月、岡井の「肉体」がにおいとして存在している。そういう「日常」においても岡井が「多」として動いている。
 岡井の書いている「流通家庭」は「流通家庭」ではなく、芭蕉が俳句に持ち込んだ「俗」のようなものである。それは「雅」を破壊して、「雅」のあり方を鍛える。そういう存在としての「俗」である。「俗」の美がそこにある。
 ことばは不思議なもので、「流通言語」にも「詩的言語」にもなる。それを区別するのは、「文学」の「肉体」である。そういう「肉体」と無縁なことばは、どんなふうに「注解」のためにつかおうと、それは「受験参考書」のようなものになってしまう。
「受験参考書」と文学としての「注解」の違いは、どこにあるか。
 「受験参考書」が「注解」するのはあくまで「テキスト」であって、「注解する者」の「肉体・思想」ではない。「テキスト」が解体され、それをどんなふうに読めば「答え」にたどりつけるか、適当に処理できるかというのが「受験参考書」の「注解」の仕方である。
 ところが「文学」においては、「テキスト」を「注解」するふりをしながら、「テキスト」はほうりだしたままである。実際には、「注解する者」の「肉体・思想・ことば」が「解体」され、それが無限にひろがり(「多」になること)、無限を獲得することで「一」になる。
 そして、そのときほうりだしておいた「テキスト」は、知らずに「一」の内部にはいってしまっている。「自分自身」を解体したはずなのに、「テキスト」が自分自身のなかに知らずに組み込まれている。「テキスト」と「私」という「一」が一体になってしまっている。それは「一」の内部にはいっているというより、「一」が「テキスト」をつつみこんでしまった、抱擁してしまった、という感じなのである。

 「注解」は抱擁、愛でなければならないのだ。
 愛というのは、なんといえばいいのだろう、ちょっと恥ずかしいけれど、自分がどうなってもかまわない覚悟で、つまりどこまでもどこまでも自分を解体しながら、相手をつつみこむようにして、相手と一緒に生きる覚悟のことである。そこには「流通言語」がはいってくる余地はない。「流通言語」をどこまでも拒絶し、ただひたすら「私」を解体することなのだ。

 岡井の『注解する者』の「思想・肉体」は、すぐれた作品のすぐれた点を指摘するのにも有効な「基準」にもなるし、つまらない作品の、そのつまらなさを指摘するときの「基準」にもつかえる。どんな作品に対しても、それが岡井の作品のどの部分と連続するか、あるいはどんなふうに連続しないかという判断の「ものさし」になってくれる力がある。岡井の『注解する者』を中心にして、現在書かれている詩の一大チャート図をつくることができる。
 おもしろい作品にであったとき、私は、これは岡井の作品とどこでつながっているのだろうと考えてしまう。つまらない作品のときは、これは岡井の作品のどこを踏み外してしまっているのだろうか、と考えてしまう。



 岡井の作品について、あるいは岡井の作品に結びつける形で、強引にことばを動かしつづけてしまった。きょうの「日記」で一応、『注解する者』への言及は中止する。
 あと一点、岡井の『注解する者』に関係づけて書きたい問題がある。「歴史的かなづかい」のことである。けれど、ちょっと適当な作品に出会えなかったので省略。何かのきかいがあれば、それについて書こうと思う。

詩集 津田沼
佐藤文夫
作品社

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谷川俊太郎「トロムソコラージュ」

2009-12-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「トロムソコラージュ」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 谷川俊太郎「トロムソコラージュ」(初出『トロムソコラージュ』2009年05月)もまた「注解」と関係づけて読むことができる。--と、書いてしまうと、これもまた論理の暴走、はなはだしい「誤読」になってしまうのだが、「誤読」であることを承知の上で、やっぱり私は関係づけて読みたいのだ。
 「注解」が成り立つためには「テキスト」が先行する必要がある。そして「注解」にはふたつの方法がある。
 ひとつは「テキスト」のことばだけ頼りに、「テキスト」自身を語らせること。「テキスト」のあることばが別のことばとどういう関係にあるかを浮かび上がらせることで「テキスト」の構造を明らかにし、その内部へはいっていくことを容易にするという方法。
 もうひとつは、「テキスト」以外のことばをつかって、「テキスト」を外部からみつめなおすこと。「テキスト」を「外部」の力で解放し、その構造を解明すること。
 前者の場合でも、実は、そこには「テキスト」以外のことばがはいってくる。Aという文章とBという文章には、なになにという関係がある、その関係からこういうことがいえる--と分析する場合、そこには「テキスト」以外の「なになにという関係がある」などの「注解する者」のことばが含まれる。
 そういう意味では「注解」は「テキスト」以外のことばを含まないことには成り立たないと言い換えることかできる。そして、そのことから「拡大解釈」して(論理を暴走させて)、「テキスト」に対して「テキスト」以外のことばをぶつけることは「注解する」という行為であると定義しなおすことができる。

今は二〇〇六年十月のいつか
ここはノルウェーのトロムソ
今ここをこんなふうに決めるまでに
どれだけの時間がかかったことか

 この4行が「正確」に語っているように、この谷川の詩は「ノルウェーのトロムソ」で「コラージュ」として書かれたものである。トロムソに行って、そこで谷川はトロムソにないことばをぶつけている。
 きのう読んだ國米隆弘は日本語に対してギリシャ語(かなあ?)をぶつけた。谷川はトロムソに対して、谷川自身の「日本語」をぶつけていることになる。
 これはまあ、しかし、なかなかむずかしい。
 書き出しにもどる。

私は立ち止まらないよ
私は水たまりの絶えない路地を歩いていく
五百年前に造られた長い回廊を
読んでいる本のページの上を
居眠りしている自分自身を歩いていくよ
太陽は陽気に照っている
または鉛色の雲の向こうに隠れている
または夕焼けに自己満足している
そして星は昼も夜も彼方にびっしりだ
私は立ち止まらないよ

 トロムソは谷川の「注解」をすなおに受け入れてくれない。トロムソの風景は谷川のの日本語ときちんと重なってくれない。つまり、うまく描写できない。描写をつづけると、それがどんな風景なのかわからなくなる。「風景」と「日本語」が齟齬をきたしてしまう。「太陽」からはじまる行が特徴的だ。

太陽は陽気に照っている
または鉛色の雲の向こうに隠れている
または夕焼けに自己満足している

 太陽はどんな状態にある? 特定できる? できない。こういうことを指して私は、「風景」と「日本語」が齟齬をきたす、というのだけれど。
 ほんとうにトロムソを「注解」する、つまり、トロムソのことをだれかにわかるように説明するというのなら、こういう日本語では困る。「注解」になっていない。説明になっていない。わからなくさせているだけである。
 しかし、これは谷川のことばのつかい方が間違っている--ということではないのだ。トロムソに来て、谷川の日本語は孤立している。風景とさえ一体になることができない。風景が日本語を拒んでいるのだ。「水たまり」「路地」などは「日本語」にきちんと対応しているのかもしれない。けれど、そこには日本の「水たまり」「路地」とは違うものがある。何か、ずれ、がある。そのずれが重なり、拡大して、「太陽」の描写になってしまう。
 谷川の日本語は「正確」である。なにひとつ間違えていない。だからこそ、その日本語がトロムソの風景とは合致できず、奇妙なものになる。日本語が「正確」でなければ、たぶん、もっと簡単に「太陽」を描写することができる。日本人が読めば、その「太陽」がどういう状態にあるか、はっきりわかるように(誤解のないように)描写できる。いいかえると、「流通する」形、通俗的なことばとして描写することができる。多くの旅行案内かなにかのように。けれども自分自身に対して「正確」な「日本語」を求めている谷川は、そういう「流通言語」を書くことができない。
 自分の知らないもの、トロムソに対して「日本語」をぶつけるということは、とてもむずかしいことなのだ。どんなことばがトロムソときちんと向き合えるか、谷川は手さぐりをしているのである。
 そして、ここから、詩がはじまる。

 わからないもの、はじめて見るもの(触れるもの)に対して、自分自身のことばをぶつけていく。そこにあるものが自分のどのことばときちんと対応しているのか、ひとつひとつ点検する。自分自身のことばを解体して、まだどんな関係も持っていない状態にして、それが状況と合致して動くかどうか確かめてみる。
 「注解する」とは、実は、そこにあるもの(テキスト)を「解体する」のではなく、自分自身のことばを「解体する」ことなのだ。「テキスト」が解体されるのではなく、自分自身が解体される--それが「注解」のほんとうの姿なのだ。
 岡井隆の「注解」にはしばしば岡井の日常(日常と思われるもの)が噴出してきたが、それは岡井が「解体」されて、「文学」以外の土台があらわになるということでもある。「テキスト」は解体されずに、岡井自身が解体されるのだ。「日常」だけではない。岡井がたとえば誰それの「注解」を引用する。そのとき、岡井は、そういう文献を読んでいる人間であると「解体」される。そういう「知識」をもっている人間として見えてくる。どんなときでも「注解」で明らかになるのは、「テキスト」ではなく、「注解する者」の全体である。

 谷川も次々に「解体」しはじめる。トロムソがどんな場所なのか、そこに何があるのかさっぱりわからないまま、谷川が「ばらばら」に右往左往する。

私は立ち止まらないよ
でも戦車はね ひっそり佇んでいるのがいい
木陰でね 少し錆びて
小鳥たちが止まりにくるよ
小鳥たちは色んな名前をもっているけど
私は覚えないよ 覚えたくないよ
だって小鳥は名前じゃないから

 谷川がトロムソで「戦車」を見たかどうかも、わからない。戦車ではなく「小鳥」を見かけ、そこから時間をさかのぼって(?)戦車が登場したのかもしれない。小鳥を描写するために戦車は谷川の日本語のなかから呼び出されたのかもしれない。

小鳥は一羽一羽がいのちなんだから
一は始まりの数だというけれど
終わりの数でもあるんだよ
私は一なんだ
誰かは知らないあなたも一だよ
だって宇宙そのものが一なんだから
球場に集まる何万人もほんとは一と数えていいのだ
だがね もしそこで誰かが自爆したら
死傷者をまとめて一とは数えられないね
名前が血を流すとき一は統計に呑みこまれる

 ここでもトロムソは描写されない。ただ谷川の日本語が「解体」される。それは谷川自身が解体されることである。谷川の「哲学」が解体されることである。「一」に対してどんな考えを持っているか。「宇宙」に対してどんな考えを持っているか。そういうことが明らかになるけれど、トロムソは明らかにならない。

一の私らをバラバラにするのはなんだ
なんだ 神田 パンダが 咬んだ
私は暇だ ダダ ダダ 大好き

 「宇宙」や「死者」に対する「哲学」が「解体」され、わかりやすい形になるというだけではなく、「哲学」とは関係ないようなものまで「解体」される。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」という1行がもっている音楽。音楽に対する感性のようなもの、音に対する「好み」のようなものも「解体」されてくる。見えてくる。
 そして、そういう「好み」が見えてくるとき、それは「好み」ではなく、それもまた「哲学」であるということがわかってくる。
 「肉体」にしっかりしみついていて、そのままでは見えないものが、トロムソという「他者」に出会って、自己解体しはじめる。「他者」を理解しようとして、「他者」を「注解」しようとして、自己解体をはじめる。

 詩とは、自己解体してしまったことばが、自己から「自由」になって、どこまでもどこまでも暴走していくとき輝くのだ。

 自己解体して、さらに自己解体して、もう一度自己解体して、ふと、何も解体するものがなくなったかなあというような、「空白」に「流通言語」が入り込んでくる。最初に引用した行のことである。

今は二〇〇六年十月のいつか
ここはノルウェーのトロムソ
今ここをこんなふうに決めるまでに
どれだけの時間がかかったことか

 あ、そうなんだ。詩人が「流通言語」を手にいれ、何かを読者にわかるように書くまでには「時間」がかかる。「解体」には時間がかかるのだ。
 でも、こういう「流通言語」は、谷川にあっては、一瞬のこと。さらに「自己解体」をつきすすめるための、ほんの小さな「土台」。作品は、このあと、どんどん突き進んでゆく。
 おかしいえね。おもしろいねえ。 

 谷川がせっかく「一」ということばをつかってくれているので、以前書いたことを、ここで繰り返しておこう。きょう書いていることがらを別の言い方で書き直してみよう。
 「注解する」。そのとき谷川という「一」は「解体」して「多」になる。谷川のなかから小鳥の名前を覚えたくないという谷川があらわれる。宇宙は一であると考える谷川があらわれる。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」ということば遊びをする谷川があらわれる。谷川は、いくつもの谷川になってゆく。「一」から「多」になる。その運動は延々とつづく。そして、そのことばの運動を最後まで追いかけると「多」であるはずの谷川が「一」として見えてくる。「多」になればなるほど、谷川は「一」に近づく。
 ほら、岡井の「一」と「多」の矛盾と同じことが、谷川にも起きていることがわかる。ね。岡井の『注解する者』のなかに展開されている「哲学」は誰にでもあてはめることができる「万能哲学」(?)でしょ?

 きょうこそは岡井の『注解する者』とは無関係なことを書こうと思いながら、なぜか、岡井の作品について触れてしまう。書かずにはいられなくなる。10年間は岡井の作品に触れながら書きつづけてしまうだろうなあ、というような気持ちになる。

トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社

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國米隆弘「七われわれの療養所(抄)」

2009-12-13 00:00:00 | 詩集
國米隆弘「七われわれの療養所(抄)」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 國米隆弘「七われわれの療養所(抄)」の初出は『レトマイレオスの生』(2009年03月)。この作品には、びっくりしてしまう部分がある。

さて、ここで何よりも触れておかねばならないのは味覚についてである。私たちは官能の赴くままにそれを知り、触り、口にする、--味覚するということは、語源学的に「賢人」を意味する、sapio 「味覚する」sapiens 「味を識別する」等に属する。

 びっくりしすぎて、私は笑いだしてしまった。
 「味覚」の「語源」って、どうして外国語にあるの? 中国語なら、まだ漢字を借りてきた国だからわかるけれど、なぜ、sapio 、sapiens が語源? なぜ、sapio 、sapiens を「翻訳」してまで、そこに語源がある、といわなければならない?
 國米って、国籍はどこ? いつもは母国語は何? 日本人じゃないの? 私は國米については何も知らない。申し訳ないが、詩を読むのは初めてである。日本人ではないのだとしたら、私の書いていることはまったく的外れだけれど、國米を私は日本人だと想像しているので、いやあ、びっくり。びっくりして、笑いだしてしまう。
 変でしょ? 日本語の語源を日本語に共通する文字もない外国語にまで求めていくのは。そんな、どう読むべきかもわからないような「音」、音を表記したもののなかに日本語の語源がある、というのは。
 語源学というのなら、「味覚」ということばが最初にでてきた日本語の文献、その文献のなかにでてきた他のことばとの関係を追っていかないと、とんでもないところへいってしまうのではないか。日本と同じ漢字をつかう中国で「味覚」はどんな「文字」で書くのか。それは本来どういう意味だったのか--そういう分析なら、なるほどなあ、と思うけれど、突然、何語ともしれない外国語が登場し(もっとも、『プトレマイオスの生』にはギリシャ語がたくさん出てくるのかもしれないが……)、それが日本語とつながっていると言われても、「そんなこといわれても、わからないよ」というしかない。賛成も反論もできない。納得のしようがない。びっくりして、笑うしかない。

 「味覚」の「味」には「口」と「未」がある。「味」とは「口」で何かわからないものを、小さなものを、それが明確になるまで育てて、それが何であるか確定すること。「覚」は「知る」こと。「覚」の冠は「学」につながる。学ぶこと。そして「見」は「見る」こと、知ること。しっかり学んで、それが「見える」ように、認識できるようにすることが「覚」。というふうに分析していくと、「味覚」というのは、口で、何かわからないものを(認識のなかでは、小さくて不明のものを)、あれこれ調べて、つまり、記憶の何かと比較しながら、ああでもない、こうでもないと分類・分析し、それが何であるかはっきりとわかるようになること--という具合のことがらなら、まあ、わからないでもない。(もっとも、これは私がかってにでっちあげた分析なので、私にとって「わからない」ということはありえないのだが--このことは、またあとで書く。)
 でも、私の分析(?)でいちばん問題になるのは、私の分析はけっきょく「味覚」の「味」、「口」につながる部分よりも、「覚」につながる部分が多いということ。「覚」の方に重点が置かれているということ。だから、「味覚」ではなく、「触覚」でも「嗅覚」でも、同じようにいえる。何かを学んで、分析し、それがどういうものであるか特定すること。わかるようにすること。それが「覚」のすべて。
 そして、その「覚」のなかにこそ、「賢人」の「かしこい」とか、「識別する」の「識」「別」が含まれるのではないか。
 だとすると、國米が「味覚」にこだわった理由は何?
 ほんとうに「味覚」が「賢人」につながるの? 「触覚」や「嗅覚」は「賢人」につながらないの? そういう疑問が出てくる。

 でも。
 しかし。
 というか、なんといえばいいのか。
 こんなふうに書きながら、私は、実は國米を批判したくて書いているのではない。
 またまた強引な印象を与えるだろうけれど、この奇妙な逸脱というか、とんでもない(と私は感じる)國米の「語源学」に、やっぱり岡井隆の『注解する者』の「注解」に通じる楽しさを感じてしまうのだ。
 「味覚する」ということばに対する國米の「注解」は、ギリシャ語(?)によっておこなわれている。「母国語」あるいは「母国語」の土台となっている隣接する国のことば、影響を与えつづけている国のことばではなく、遠くかけはなれた国のことばで「注解」すると、そこには母国語の「地層」を超えた奇妙なものが見えてくる。
 岡井の「注解」は日本語の「地層」、その「断面」の美しい縞模様を感じさせてくれるが、国米の「注解」は「垂直」な地層ではなく、「水平」な地層(のようなもの)なのだ。そこにはほんとうは広い広い「亀裂」というか「隔たり」があるのかもしれない。けれども、その「亀裂」、「隔たりの深淵」は、「日本語」にとらわれなければ、かるがると飛び越せる(渡れる)ものかもしれないのだ。
 「注解」するためには「知識」が必要だ。そして、その「注解」は「知識」によって、どんな形にもなりうる。「垂直」の地層を浮かび上がらせることもできれば、「水平」の地層を描き出すこともできる。

 別なことばで言おう。
 「注解」には「流儀」がない。どこからでも「注解」できる。どんなふうにでも「注解」できる。「味覚」ということばの「語源」をギリシャ語から「注解」することだってできるのだ。
 「注解」に「流儀」がない以上、「注解」からはじまる世界は、「テキスト」に強烈な粘着力でつながっていながら、「テキスト」からどこまでもどこまでも「自由」に離れてゆくことができる。
 國米の「注解」の運動は、次のように飛躍する。

味覚は精神よりも信頼に値する--この感覚は人を快活なものにする、それも打ってつけのものにする。これに疎く貧しければ、おそらくその人は興味に値しない。あらゆる感覚に鈍重なものは、とんでもないことに感覚が人を欺くのではなく、人が感覚を欺いているということを知らないのだ。
          (谷内注・本文に傍点がある部分があるが省略した。)

 「感覚が人を欺くのではなく、人が感覚を欺く」。それって、どういうこと? わからない。わからないけれど、なんだかわくわくしてしまう。なんだかわからないものを、あたかも「真理」のように平然と書いてしまう「文体」、その力にわくわくする、と言い換えてもいい。
 そして、この「わくわく」する感じは、やっぱり岡井の「文体」につながる。
 岡井の場合は、わけのわからない「真理」ではなく、くだらない(? 失礼!)徒労感や、日常の俗っぽい夫婦のやりとり、笑いのようなものが、「わくわく」させるのだけれど。

 國米の書いていることと岡井の書いていることにはなんのつながりもない。なんのつながりもないけれど、その「文体」、なんでも「注解」してしまう、そしてその「注解」からはじまるずるずるとした「逸脱」、なんでそうなるの?ということばの動きがどこかで通じる。
 「注解」すると、なぜ、ことばは乱れるのか。なぜ、とんでもない方向へ行ってしまうのか。そしてなぜ、そのとんでもない方向へ動いてしまうことが楽しいのか。その楽しさに詩を感じてしまうのか。
 これは考えはじめると、とてもむずかしいことなのかもしれない。

 だから、私は考えない。考えるのをやめて、岡井隆の『注解する者』は50年に一度の大傑作とほうりだしてしまう。
 ねえ、だれか、もっと頭のいい批評家が真剣に分析してくださいよ。




プトレマイオスの生―あらゆる歴史的転換の信仰からの超克
國米 隆弘
思潮社

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藤富保男「石についての余計な考察」

2009-12-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤富保男「石についての余計な考察」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 藤富保男はことばの関節を脱臼させる。そういう印象を、私は、強く持っていた。岡井隆のことばの運動とは違う次元でことばを動かしている。そう思っていた。しかし、そういう藤富の作品についてでさえ、私は岡井のことばの運動との連絡を感じてしまう。連絡をとりたい気持ちになってしまう。
 「石についての余計な考察」(初出は『藤富保男詩集全景』)は、タイトルの「余計な考察」という「考え方」そのものが岡井の「注解」につながる。「注解」とはほんらい「余計な考察」である。そういうものはほんとうはいらない。単純にテキストさえあればいい。
 と、書いてみて、驚くのだが、では、「石についての余計な考察」の、どの部分が「余計な考察」?

どこで彼はその石を見つけたのか
その石を どういう角度で見たか
拳の大きさの石を どこに置いたか

石は寺の前に医師として座っていたか
石は幸せな石であったか
彼はそれを どちらの手で拾ったか

風のむきは山からであったか
石はそのまま何に化けようとしたか
その量感を彼はどのように感じたか

うぐいす

その石は滑らかであったか
その石には苔が少し付いていたか
石はそのとき 少し叫んだか

山しずか

石にとって石はそれ自体 滅亡の固形であったか

石 少し笑う

 どこにも「余計な考察」はない。「考察」ははじまってしまえば、いつだって「余計」ではなくなる。
 でも、ほんとう?
 そもそも「余計」とは、誰にとってのことだろう。

 最初にもどらなければならないのだ。
 「余計」とは「テキスト」にとって「余計」なのであって、ことばを動かしている発話ものにとって「余計」ではないのだ。
 藤富の作品では「石」にとってはすべて「余計」なことがらであるが、書いている藤富にとっては「余計」ではない。そしてまた、そのことばを読んでいる私にとっても「余計」ではない。
 そして「余計」とは、「テキスト」とは「無縁」である、ということでもある。「どこで彼はその石を見つけたのか/その石を どういう角度で見たか」ということは、「石」にとってはなんの「意味」もない。藤富の書いていることとは関係なく、ただ「石」は存在する。そういう視点からいえば、藤富の書いていることは「石」の存在と「無縁」のことばの運動であり、「意味」はない。
 この「無縁」、「意味」がない、ナンセンスということのなかに、詩がある。

 詩とはナンセンスなのものなのだ。

 ここからが、岡井の「注解」とほんとうに重なる部分である。
 岡井の「注解」もナンセンスである。古典を引用し、著名な別の「注解」を引用し、作品の内部に入り込む--そういう「注解」がなぜ、「ナンセンス」か。たとえば、岡井が「注解」しているとのの姿を放送するテレビカメラ。カメラマン。彼は(あるいはテレビカメラ)は「独自」の視点を生きている。岡井に「注解」させておきながら、岡井の考えていることを追いかけてはいない。ただ自分の考えている世界しかない。
 岡井の「注解」に「意味」がない。岡井が「注解」している「テキスト」にすら「意味」がない。ただ、「映像」だけが「意味」を持っている。
 そういう「無縁」のものに「洗われ」ながら、ことばを動いていく。「ナンセンス」に動いていく。ことばはことばとして、どこまでも「ナンセンス」に動いていく。
 それは、ことば自身が、結局は、自分自身のことばを生きていくということでもある。その運動は、「テキスト」に触れているようにしながら、ほんとうは別の次元を生きているということでもある。
 だから。
 だから、というのは乱暴な方向転換なのだけれど。
 だから、一生懸命に「注解」する岡井の意志とは無関係に、岡井のことばを、私たちはまた、テキストとは無関係に読むことができるのだ。
 岡井はあくまで作品を「注解」している。けれども、私は、その「注解」を「注解」とは読まない。それはたしかに「テキスト」に触れはしているが、そこから「注解」からはじまるのは「注解」という「余計な」ことがらであり、その「余計な」もの、つまり「テキスト」からはみだしていく運動そのものに、あ、おもしろいと感じるのだ。はみだしていくことのなかに、その運動に詩を感じるのだ。
 
 でも、変でしょ?
 これって、「注解」のほんらいの目的とは矛盾するでしょ?
 「注解」というのは、「テキスト」の本質に近づくための道しるべ。それなのに、それが「テキスト」から遠くなる、遠くなることができる、遠くなるほど、その遠くなった部分に、あ、おもしろいと感じてしまう。
 変でしょ?
 変じゃない、にしろ、まあ、なんというか、「注解」している岡井に対しては、ちょっと申し訳ないような感想でしょ?

 でも、ここに詩があるのだ。詩はナンセンス。そしてナンセンスとは、「無縁」に関係がある。何かと「無縁」。それは何かの束縛を受けないということ--「自由」であること。
 そして、それは何かどころか、何ものからも「自由」ということでもある。あらゆるものから「自由」。そういう自由を、自由な運動をする特権をことばはもっている。少なくとも、そういう特権をもったことばを文学のことばと定義することができる。

 だんだん抽象的になっていってしまうが、岡井のことば、『注解する者』の「文体」からは、なんでも考えることができる。「余計なこと」を考えることができる。「余計な考察」をすることができる。「余計な考察」の楽しさを味わうことができる。

 ここから、もう一度、藤富の詩にもどってみる。
 何が書いてあったんだっけ?
 「石」に関する「考察」。「余計な考察」。不思議なことに(不思議ではないかもしれないのだけれど)、そういう「余計な考察」のなかにも、変な「粘着力」がある。「自由」なことばの運動のなかにも、変な「不自由」がある。

その石を どういう角度で見たか

 「その」。それは「それ」という形でも出てくる。いちばん特徴的なのが、次の連。

その石は滑らかであったか
その石には苔が少し付いていたか
石はそのとき 少し叫んだか

 「自由」なはずなのに、なぜか「石」から離れない。「その」とか「それ」には目英語でいえば「定冠詞」に通じるものがある。話者の「意識」がからみついている。「その」がことばを「石」にしばりつけてしまう。「粘着力」をもって「石」に結びつきながら、なおかつ「石」から離れる。この矛盾。
 あ、矛盾のなかに、詩があるのだ。矛盾だけが、詩なのだ。
 対象に近づき、同時に離れる。
 「注解」は対象に近づく作業である。そして、「注解」すればするほど離れていくという矛盾が起きるが、その矛盾が詩なのだ。「余計」であることがわかればわかるほど、それが詩になってしまうのだ。
 ナンセンス、無意味であることがわかればわかるほど、そこに詩がくっくりみえてくる。

 これは、まあ、泣き笑いだねえ。一生懸命近づけば近づくほど遠ざかり、そして遠ざかることでしか近づけないというのは、奇妙に悲しく、せつなく、そして、なんともいえずなつかしい。不思議な喜びがある。ひとの(注解するひとの)不幸を見る喜び(?)のようなものなのか。
 藤富はこの感覚を、唐突な「うぐいす」「山」ということばで叩ききって、さらに印象の強いものにしている。
 藤富は「石」について考えている。その考えとは「無縁」なところに、「無縁」な次元に「うぐいす」は生きている。「山」がある。
 それは、まあ、岡井の「注解」に強引につなげて書いてしまえば、テレビカメラマンや聴講生である。そういう存在が「注解」、「余計な考察」を中断させる。近づきながら遠ざかる運動を、別の力で叩ききる。ふいに、別の次元が闖入する。

石 少し笑う

 あ、そのとき、岡井に「注解」されていた「テキスト」も、くすくす笑っていたかもしれない--とも思ってしまうのだ。
 そして、その「少し笑う」テキスト(石)の「笑い」は、もしかすると、私たちが(私が)岡井の詩を読み、あるいは藤富の詩を読むときに、ふいに感じる「笑い」とどこかでつながっているかもしれない。



 藤富の詩と岡井の詩は無関係である。--無関係であるけれど、どこか遠くで、その「文体」は通じ合うものをもっている。そう感じさせる。その通じ合う「脈絡」を探したい--そういう気持ちを岡井の「文体」は引き起こす。
 あらゆることばの運動と岡井のことばの運動を比較したい、その連続性と、切断性を追いつづけてみたい--そいういう欲望を引き起こす詩集。それが岡井の『注解する者』。ぜひ、読もうね。



藤富保男詩集全景
藤富 保男
沖積舎

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大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」、文月悠光「狐女子高生」

2009-12-11 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」、文月悠光「狐女子高生」(「月暈」3、2009年12月01日発行)

 岡井隆『注解する者』を起点にして(批評基準にして)作品を読む--というのは、あらゆる作品に対して可能だと思う。実際に岡井隆の名前を出さないときでも、私は無意識に岡井のことばの運動を基準にしている。だから、ここでは、はっきりと岡井隆の名前をあげておく。岡井隆の「文体」を基準にすると、他の詩人の作品はどんなふうに見えてくるか--そのことを書きたい。

 大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」は「彼女」との関係を描いている。「彼女」に言わせると「わたしたちは付き合っていない」のだが、実際には「彼女」の両親の家に行って食事をしたり、一緒にマンションの見学に行ったりする。
 そのとき思ったりするのだ。作品の後半。いちばん美しい部分。

毎朝起きたら隣に彼女が寝ている載って想像するだけで素敵だ。生鮭をムニエルにしながら、彼女は考える。そして話してくれる。「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」バジルの壜を手に持ったまま、私もしばらく考えてみる。少なくとも、今泳いでいる海を私は知っていると思う。けれど彼女が知りたいのは帰るべき川のことだ。

 ここには「他人」(他者)が出てくる。及川俊哉の『ハワイアン弁財天』には登場しなかった「他者」が出てくる。「彼女」のことではない。んや、「彼女」のことなのだが、それまで想像して来なかった「彼女」、「知らない彼女」のことである。
 「彼女」は「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」という。そのときの「わたし」は「彼女自身」のことではなく、「鮭」のことだ。そして、「彼女」といえば、その「鮭」に対して「注解」しているのだ。「鮭」の思いを想像し、ことばにすることで、「鮭」に対して「注解」する形で、「世界」そのものに「注解」している。この「入れ子構造」は説明が面倒なので省略するが、簡単に言いなおすと、大谷(私)は「彼女」が「鮭」の思いを語ったのだけれど、それを「世界」に対する「注解」、「世界」を別の視点でみるきっかけを提供していることになる。
 それは、岡井にとってみれば、たとえば聴講生の質問、あるいは先人のテキストに対する「注解」である。そういうものは、岡井にとってはテキストを読み直すきっかけになる。自分のなかでは決着がついているけれど、まだ、ことばにしていない。そして、いま、「他者」のことばに出会って、それに対して正確に向き合うためにことばを新しく動かしていかなければならない--そういう状況へ誘い込むことば。「世界(テキスト)」に対して、新しく向き直るきっかけとなることば。
 「他者」とは、そういうものなのだ。
 「他者」のなかには「一」が岡井の知らなかった形で「多のひとつ」になっている。その「他のひとつ」と岡井自身の「多のひとつ」を突き合わせ、さらに別の「多」へと動いていく。そのとき、その新しい「多」が「一」そのものになる。
 「他者」とは「多」の発生(誕生)を促し、同時に、その「新しい多」によって「一」を具現化するのだ。
 大谷の作品にそって言いなおそう。
 「彼女」のことばは、大谷に「新しいこと」を考えさせる。想像させる。それは大谷の知っていることがら、海とは別のものである。そして、もし、大谷が「彼女」のことばに誘われて、鮭の帰るべき「川」を具体的に思い描き、その「川」が「彼女」の思い描いている「川」と一致したとき、その想像力のなかで「一」になる。いや、ほんとうは「川」は一致しなくていいのである。「川」へ向けて想像する。いくつもの「川」、「多」としての「川」が想像力のなかで流れはじめる。その「流れ」、そのときの想像力こそが「一」なのだ。そして、その「川」の想像力こそが「一」だから、それは「川」の流れ、たどりついた先の「海」とも融合する。
 この融合は、「一」ではないのだが。
 「一」はあくまで「イデア」が「具現化」するときの運動そのもののなかにある。「具現化」したものは「多」。「多」のなかに「一」は顕現化するのだけれど、それは「一」ではない。「多は一であり、一は多である」というのは「イデア」の顕現化の表層を語っているのであって、「一」はその運動そのものである。
 この運動を、大谷は「多」とか「一」とかいう、まあ、なんといえばいいのか、抽象的なことばではなく、「彼女」「鮭」「川」「海」というもののなかで展開する。「他者」がその運動の領域(幅)を広げ、そこに静かな感情が漂う--それが大谷の詩である。
 岡井の「文体」を基準にして読み進めると、大谷の作品は、そんなふうに読むことができる。



 文月悠光「狐女子高生」の場合はどうか。

つむぎたいのは、その不規則な体温。
手肌をつらぬく つむじ風。
プロセスは机の隅に押しやって
唇に海を満たす、吐く。
たおやかに、狂いだす血潮。
この学校ができる前はね
ここで狐を育ててたんだって。
そう告げて、
振り向いたあの子の唇は、とても青い
狐火だったね 覚えてる

 「他者」は「狐」とともにあらわれるが、それは話者(文月)が知っているもの、文月の記憶にあるものなので、厳密には「他者」ではない。だから、ここでは大谷の詩とは違って、その出会いは「多」を誘わない。2連目に「狐」のさまざまな形が描かれるが、それは「多」ではなく「多」の形をした「一」そのものであり、「あの子」と話者も「一」なのだ。
 「唇に海を満たす」--そして、話者が「青い唇」になるように、あの子は最初から「とても青い」「唇」をしている。話者は、話者と「あの子」が最初から「一」であること、「一」が「話者」と「あの子」という「多」として具現化しているだけであって、それは「他者」ではないことを知っている。
 文月は、この詩では「他者」には出会わない。文月の「肉体」を流れている「血潮」は「あの子」の「肉体」を流れている。「一」としての「肉体」を流れている。そして自殺(?)した、あるいは自分自身の体を傷つけた「あの子」の「肉体」を流れ、そこからこぼれた「血潮」は、それはまた文月の「肉体」を流れている「血潮」そのもの、おなじ「一」としての存在である。「イデア」が文月の血潮と「あの子」の血潮を完全につないでしまう。ひとつの「イデア」からあふれた血潮が文月の「肉体」と「あの子」の「肉体」という場で顕現化しているだけであり、それは「一」としての「多」なのだ。
 ここに「抒情」の根源がある。「感情移入」の根源があると言い換えてもいいかもしれない。
 「私(話者)」が「他者」のなかに「他」ではなく「一」を見つける。その「一」は現象的には「多のひとつ」だけれど、「イデア」としては「一」。その「一」をとおって、「私」は「私」のなかにある何かを「多」という形で具体化する。そこに存在する「多」に「私」の「多」を重ね合わせる。比喩化する。象徴化する--ということもできる。
 「多」の重ね合わせによる「一」。そのときの、ぴったり感じ。あるいは、重なり合うときの、ふっとなつかしさを誘うような寂しさ。重なり合わなければよかったのに、という静かな後悔、苦しみ、未練のようなもの。悲しみという逆説的な喜び。まあ、矛盾しているのだけれど、その矛盾のしびれるような感覚。
 これが「抒情」の正体である。

鼓動が血に濡れているなんて
いつ どこで 誰が決めたの。

 あ、美しいなあ。
 岡井の「文体」を出発点にして文月の作品を読むと、その行のところで、ため息が出てしまうのだ。





今泳いでいる海と帰るべき川
大谷 良太
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適切な世界の適切ならざる私
文月 悠光
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及川俊哉『ハワイアン弁財天』

2009-12-10 00:00:00 | 詩集
及川俊哉『ハワイアン弁財天』(思潮社、2009年10月25日発行)

 多くの詩集、というよりすべての詩集といっていいのだが、それは岡井隆の詩集とは無関係に編まれている。書かれている。詩とはもともと完全に個人に属するものだから、だれそれの詩を岡井隆の『注解する者』と結びつけて考える方がおかしいのだが、私はどうしても結びつけて考えてしまいたくなる。そういう強烈な力を『注解する者』は持っている。
たとえば及川俊哉『ハワイアン弁財天』の「ハワイアン弁財天 一」の次の部分。

いま世界にはハワイが足りないの
インドが足りないときも
ロシアが足りないときもあったわ
ローマが必要なときも、フランス不足の時期もあった
でも今はハワイが決定的に不足しているのよ
虹の光が弁財天の声に共振して揺れる
蜜がパンの生地にしみるように
その意味は僕の心にしみひろがり
心をあまく満たしていく
そうか、ハワイが足りなかったんだ
ハワイを配りに行こう
世界にハワイを!

 「いま世界にはハワイが足りないの」。これが「注解」である。「世界」を及川は(弁財天は、と及川は言うだろうか)、そんなふうに見ている。「注解」とは、いわば「手引き」である。「注解」によって「世界」が見えてくる。「注解」は世界に対するひとつの「見方」を教えるだけではなく、その「応用」(?)も教えてくれる。
 「いま世界にはハワイが足りないの」がひとつの「注解」であるなら、「いま」以外は?という疑問が生まれる。そして、次々に、インド、ロシア、ローマ(なぜか、ここでは一都市)、フランスという具合に、「かつて」が「注解」される。
 このとき、複数の国家、あるいは都市、地域は「多」としてあらわれているが、その「イデア」は「一」である。「足りない」(不足)を照らしだす「力」と仮にその「イデア」を名付けておけば、「一」がそのときそのときに応じて「多」として姿をあらわす--そういう具合に、及川は世界を「注解」する。
 ただし。
 (あ、これからが、岡井隆と及川の違いである。--違いを浮かび上がらせながら、及川を次のように読むことができる、という意味なのだが。)
 ただし、及川の「一」から「多」への運動は、実は、「多」とは無関係である。そこにどれだけ多くの国家、都市、地域がでてきても、それは「一」でしかない。「イデア」というのは、あらゆる存在のなかに存在することができる。どれだけ多くの存在のなかに存在しても、それは実は分割ささて存在するわけではない。「一」が「0・001」ずつに分割されるわけではない。それが「数学」と違うところ。そのつど、言及された存在とともにそこにある。それが「イデア」の存在の仕方。
 もちろん、「イデア」の存在の仕方自体は岡井にとっても同じなのだが、(だれにとっても--プラトンにとっても、という意味だが、それは同じなのだが)、岡井の「文体」が画期的なのは、その「文体」に「他者のイデア」とでも呼ぶべきものがまぎれこむことである。「他者のイデア」と「岡井のイデア」がよりあわさって、ひとつの「世界」をつくることである。
 及川の詩には「弁財天」という「他者」が出てくる--と読むこともできるが、それは「他者」ではなく、「及川のイデア」から派生したものにすぎない。あくまでそれは「及川のイデア」であるから、及川はなんの抵抗もなく、「弁財天のイデア」そのものとして「ハワイを配りに行こう」と言ってしまう。「弁財天のイデア」を生きることが「及川のイデア」の具現化になってしまう。
 岡井の場合は、そんな具合にはいかない。
 さまざまな先人の「注解」、そして家族のひとことの「注解」、テレビ局のひとの「指示」にみえるような「注解」--世界へのかかわり方が、岡井の世界へのかかわり方にからみついてくる。足を引っ張る(?)のか、背中を押すのか、それはちょっと微妙なところだけれど、及川が書いているように「一体」になることはない。「一」を拒絶して、「一」になったようにみせかけながら(たとえばテレビのカメラマンの指示にしたがいながらも)、どうしても「一」になれずに、新しい「多」を生み出してしまう。テレビのカメラマン、ディレクターの指示にしたがいながらも、そこに岡井自身の、それまで考えていたこととは少しずれてしまった(?)ことばが出てくる。「他」にふれて、岡井の「一」が「多」になる。
 それは別のことば、別の視点から言えば、岡井が「他者」のなかに岡井の「一」とは違う「イデア」を見て、それに拮抗して「一」を変更するからである。他者の「一」と岡井の「多」が響きあうのだ。あるいは、他者のなかにさまざまな「一」をみつけ、それを「地層」のように認識しながら、「地層」全体という「一」になるために、岡井は「多」へ踏み出すのだ。
 あるいは、こういうべきか。
 及川は「弁財天」という「一」を信じている。ところが岡井には、そういうふうに信じてしまえる「一」、帰依できる「一」というものをもたない。あるいは拒絶している。岡井は逆に「多」を、その「多」を支えてしまう「一」に拮抗しながら、「多」になることで「一」になろうとしている。

 あ、なんだか、書いていることが、ごちゃごちゃしてきた。
 きっと、いままで書いてきたことと「矛盾」することも書いている。
 これは、強引に言ってしまえば、岡井の「文体」は、私の論理の「矛盾」、あるいは「誤読」を飲み込みながら存在しているということだ。岡井の「文体」について言及すれば、必ずどこかで「矛盾」する。「矛盾」しないで岡井の「文体」を分析することはできない。その魅力を語ることはできない。
 そこには「一」が「多」になり、その「多」になることこそが「一」になるという運動がある。
 及川の運動は「一」が「他」になり、それがそのまま「一」なのだ。あるいは、及川の運動は「弁証法的」統一としての「一」。(これは、多くの詩人に共通する「一」。長が弘の「一」は、それをとても純粋な形でやろうとしている。)
 これに対して岡井は弁証法的統一を拒絶した「一」なのである。あくまで複数であることが「一」なのだ。

 「複数が一である」とか、「多が一である」とか。
 --矛盾しているよなあ。私の書いていることは矛盾している。それは承知している。しかし、そういう矛盾の形でしか言えないことがある。それが岡井の世界なのだ。それが、おもしろい。それが「大傑作」、「大事件」である理由なのだ。



 及川の詩集に戻ろう。
 この詩集は、先に引用した部分が特徴的だが、及川という「一」が「他者」の「注解」に同乗する形で、あるいは「他者」の「イデア」を疾走の加速力にして、つまり「他者」と一体となって世界に新しい「注解」を加えつづける。もっとも「他者」といっても、それは及川自身が生み出した「他者」なので、(先の詩で言えば、「弁財天」は及川が生み出したもの)、それは「一」以外にはありえず、そこでの運動は、真の意味での「他者」の妨害(?)はいっさいなく、ただひたすら加速する。1行目が2行めのスピードを生み出し、それがさらに3行目を駆け抜けさせる。
 「ひかりのその 五」の冒頭。

ひ、ひー。
ひー、ひ、ひー。
ひ、か、
ひ。か、ひ、か。
ひかりの。
ひ、ひかりのその。

 このことばの疾走は、

ひかりの、その
へりかひりか、ひ。
ひかっ。
ひかれる。

 というような、とても美しい音楽を生み出しもする。
 ここにあるのは「発語」という「イデア」である。そんなものがあるとして、のことだけれど。まあ、そんなふうに呼んでみたい--と私が思っているだけだけれど。
 及川は、ここでは完全に「一」である。及川は自分の存在、この詩を疑ってはいない。それが、まあ、魅力といえるんだろうなあ。
 私は、正直言って、目の状態がよくないのでいま引用した行以外は引用するのもつらいし、正確に引用できているかどうかもあやふやなので、簡単に「魅力」と書いて、そこで感想を放り出してしまっているのだけれど。
 (いいかげんで、ごめんね。)



ハワイアン弁財天―及川俊哉×詩集
及川 俊哉
思潮社

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長田弘「カシコイモノヨ、教えてください」

2009-12-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長田弘「カシコイモノヨ、教えてください」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 岡井隆の「文体」の外にあるもの、岡井隆の「文体」とは違った世界はどこにあるか。いろいろあるかもしれないが、すぐに思い浮かぶのは長田弘の世界である。
 「カシコイモノヨ、教えてください」(初出『世界はうつくしいと』2009年04月発行)。この作品でも、「他者」が引用され、そのことばと長田は向き合っている。その「向き合い」を「注解」と呼ぶことはできるが、「注解」の仕方がまったく違う。

夜、覆刻ギュツラフ訳聖書を開き、
ヨアンネスノ タヨリ ヨロコビを読む。
北ドイツ生まれの、宣教の人ギュツラフが、
日本人の、三人の遭難漂流民の助けを借りて、
遠くシンガポールで、うつくしい木版で刷った
いちばん古い、日本語で書かれた聖書。
ハジマリニ カシコイモノゴザル。
カシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。
コノカシコイモノワゴクラク。
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。福音がわたしたちに
もたらすものは、タヨリ ヨロコビである。
今日、ひつようなのは、一日一日の、
静かな冒険のためのことば、祈ることばだ。
ヒトノナカニ イノチノアル、
コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。
コノヒカリワ クラサノナカニカガヤク。
だから、カシコイモノヨ、教えてください。
どうやって祈るかを、ゴクラクをもたないものに。

 この作品のなかの、もっとも「注解」的な部分は、

コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。

 である。「カシコイモノ」「ゴクラク」を長田は長田の知っていることばで言い換えている。こうした、ことばをことばで言い換えることが「注解」になり、同時に、「別個」な存在の出会い、衝突という意味では「詩」になるのだが、その言い換え方、出会いのあり方が岡井の場合と大きく違う。
 岡井は「単語」で「注解」はしない。「文章」で「注解」をする。これに対して長田は「単語」で「注解」する。
 「文章」と「単語」は、どう違うか。「概念」のあり方が違う。プラトンのことばで言えば、「イデア」のあり方が違う。「文章」のなかにある「概念」は「運動」である。「文章」のなかでは「概念」は固定していない。運動している。何かを壊し、否定し、同時に何かを生み出している。そこには、ある意味では「未生」の「概念」が動いている。生まれようとしてうごめいている。ところが「単語」のなかでは、それは「運動」していない。「独立」して、「概念」そのものとして存在している。
 言い換えよう。
 岡井は、「注解」するとき、その「解答」をもっているようであって、ほんとうはもっていない。もっていないというのはいいすぎになるかもしれないが、「注解」しながら、ことばを「解答」の方へと動かしていく。ところが長田は「解答」しか提出しない。その「解答」がどうやって生まれてきたか、その「解答」の結果、「注解されるもの」はどう変わるのか、ということは語らない。
 もっと言えば、長田の場合、「注解」することによって、「注解されるもの」が変わってしまうということはない。
 岡井の場合、そうではない。岡井の場合だって、だれかに「注解」を求められ、それを説明するとき「解答」は想定されていて、その「解答」が揺らぐということは基本的にはないのだが、「注解」をする過程で、わきから(たとえば聴講生から)、想定外の質問が飛び出してきて、それに対して答えるために「気分」がずれていく。岡井のなかで「気分」が揺らぐ。その「気分」の揺らぎが「解答」に微妙に反映する。そして、その「反映」が、岡井の「肉体」そのものにも返ってくる。奇妙な疲労感や、不思議な解放感となって、「解答」に微妙な「気分」のにおいが残ることになる。この「気分のにおい」を「不純物」ととりあえず定義しておくと……。
 長田の詩には、そういう「不純物」はない。
 先行することば「コノカシコイモノ」と長田の注釈「ことば」がぶつかるとき、その「ふたつ」のことば、ことばが抱える「概念」(イデア)は、互いに不純物を取り去って、より透明に、より純粋になっていく。
 そこが違うのだ。

 「イデア」と「存在」の関係はむずかしい。
 「イデア」というのは、たぶん人間の思考する力のなかにだけ存在し、現実には存在しない。けれども、何か具体的なものと一緒になって、目の前にあらわれてくる。そして、その目の前にあらわれてきたものは、さまざまに形を変える(変化していく)、というか、実はどんなものをとうしてもあらわれることができる。そしてさらに、そのさまざまに形を変えるもののなかにあっても、「イデア」そのものはまったくかわらない。
 書きはじめると、どんどんややこしくなって、自分でもよくわからなくなるけれど……。長田の作品に戻って説明しなおすと。

コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。

 と長田は書いているが、「コノカシコイモノとは、路傍の石だ」と書いても「イデア」としてはなんの変化もないのだ。「ゴクラクが、踏みつけられる石だ」と書いても「イデア」はなんの変化もない。「コノカシコイモノとは、ゴクラだ」と書き直しても、「イデア」はまったくかわらない。
 長田にとって「イデア」とは「永遠普遍の一(いち、ひとつ)」なのだ。それに対して現実は「多」である。「一」と「多」が出会う「場」として「現実」があり、「多」が出会えば出会うほど、その「一」は純粋に、より完璧な「一」に近づいてゆくのだ。

 別なことばで大胆に言いなおすと、長田の書いている作品は「純粋詩」である。これに対して岡井の書いている作品は「不純詩・渾沌詩」である。

 岡井のことばは「純粋」へは向かわない。「一」へは向かわない。逆に「多」へ向かう。どこまでもどこまでも「多」へ向かい、そしてもしあるとき、その運動が完成するとしたら、岡井の言及した「多」のすべてが実は「一」だったということがわかる--そういうことばの運動である。

 あらゆる「多」のなかに「一」を見る長田。逆に「一」のなかにさまざまな「多」を見る岡井。--そう言いなおした方がいいのかもしれない。それは最終的には、どちらも「多」が「一」であり、「一」が「多」であるという哲学にたどりつき、その瞬間、融合するものだが、運動の方向がまったく逆である。
 どちらがいいというのではない。ただ、私には、岡井の運動の方がより画期的に見える。新しく見える。不純物というと「悪口」にきこえるかもしれないが、不純なもの、未整理なもの、渾沌をすべてのみこみ、やがて新しい「ビッグバン」を引き起こすためのすさまじい運動の出発点に思える。
 何度でも書くけれど、岡井の詩集は「大事件」である。
 岡井は巨大な「ビッグバン」、新しい宇宙創世へ向けて、日本語のさまざまな「地層」を凝縮した。それは、ぐいぐい押さえつけられて、マグマになって噴火する。その噴火が「ビッグバン」。

 クリスマスプレゼントを買うのをやめて、自分自身に岡井の『注解する者』をプレゼントしよう。「何がほしい?」と聞いてくれる人があったら「岡井隆の詩集『注解する者』がほしい」と言おう。詩に関心があるのなら。日本語に関心があるのなら。




世界はうつくしいと
長田 弘
みすず書房

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注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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吉野令子「抒情詩」、廿楽順治「化城」

2009-12-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
吉野令子「抒情詩」、廿楽順治「化城」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 きのう読んだ鈴木志郎康「笑う青首大根」について書いたこと、そのことばが岡井隆の「文体」に吸収されてしまう--ということは、たぶん、鈴木には心外だろうと思う。鈴木は鈴木で独自の文体を追求している。他人の文体に吸収されてたまるか、と。それはそうだと思う。そしてまた、鈴木の文体の独自さについて書かなかったことを申し訳なくは思うけれど、それでもやはり私は、どんなにあがいても鈴木の文体は岡井の確立した文体の一部として感じてしまう。岡井の文体に触れたあとでは。
 それは鈴木の詩に対してだけではない。ことばの運動を自覚的に確立しようとしているほとんどすべての詩に、同じことを感じる。
 たとえば、吉野令子「抒情詩」。(初出は、『その冬闇のなかのウェーブの細片の雪片』2008年11月発行)

このはるがつもるからこのはるがつもるから ごごのじごとははやめにきりあげよう そしてすみれいろの麗かなひかりのなかにさんさんごご集まり くるまざになってくるまざになってうたううたううっとりとうたうのだ おりしも輪のなかからばくおんがひびき 輪のちゅうしんのてれびじょんのぶらうんかんに せめられるさばくの血しぶきがちる くろいくもとともに血がひろがってゆく ばくげきはあたしたちのあずかりしらないわけではじまったとなみだごえでつぶやくつぶやく

 ことばが繰り返される。これは単に繰り返しているのではない。「注解」しているのだ。反芻することで、そのことばの内部へはいっていく。そして、そのことばの内部へはいっていくと、最初のことばから徐々に「ずれ」ていってしまう。うららかな春の午後、ひとが集まり歌っている。テレビを見ている。そのテレビに中東の戦争が映し出される。
 そして、

ばくげきはあたしたちのあずかりしらないわけではじまった

 という思いにつながっていく。
 ことばは、そんなふうにつながっていかなくてもいい。けれども、つながってもいい。つながってしまうとき、そこに「思想」が生まれる。いま、ここ、春の日本(おそらく)と中東(おそらく)の戦争は、出会うべきものではない。「てれび」がなければつながらない。その、出会うべきものではない(実際に、「肉眼」でもくげきしているのではない。そこに直接「肉体」が関与してむすびついているわけではない)ものが、ことばをとおして出会い、そこに「文体」をつくりあげる。その「文体」にとまどいながら、それを「文体」に完成させるために吉野は「繰り返し」という方法をとっている。
 言い換える。ほんとうは、言い換えたいのだ。しかし、ことばを変えてしまうと、それは違ったものになる。ことばを変えずに、言い換えたい。それは、最初に言ったことばを、そのことばのもっている「内容」を変更したいということでもある。
 そんなことはできない。同じことばを繰り返されたのでは、単なる「リズム」しかうまれない。
 それでも、そんなふうに書く。これは、最初のことばを、繰り返した同じことばで「注釈」するしかない。そのときの、いらだち(?)というか、どうすることもできない「矛盾」が次のことばを誘っているのだ。ほんとうは。
 繰り返さなかったら、うららかな春の午後は中東の爆撃へはつながらない。うららかな春のなかにいて、それに対する「違和感」を明確にしようとして、いまここにある「同じことば」で「注解」する。なんとか前のことばをこじ開けようとする。その「矛盾」をなんとかするために、次の行のことばが誘い込まれているのだ。
 現実があって、それをことばがなぞっているのではなく、現実を秒したことばを意識のことばが「注解」する。その「注解」のための「資料」のように(文献のように)、遠くにあるもの(いま、ここにないもの、--テキストそのものから別のところにあるもの)が誘い込まれ、誘い込んだことばと、いまの現実が出会って、ことばが揺れ動く。そういう運動のために、いま、ここにあるのではない「文体」が誘い込まれているのだ。
 いま、ここ、春の日本という「文体」と、中東の戦争という「文体」が強引に(?)結びつけられ、新しい「文体」になろうとしている。生まれ変わろうとしている。吉野は、そういう産婆術を、ここではやっている。

 私の書いていることは、「誤読」である。吉野の書いていることから「逸脱」している。--たしかに、逸脱している。誤読している、と私は思う。思うけれど、どうしても、「誤読」せずにはいられない。
 そういう「誤読」へと導いてしまう力を岡井の「文体」はもっている。「注解」の「文体」は、すべてのことばの地平と射程を変更させてしまう。だから、私は岡井の詩集は「大事件」である、というのだ。



 廿楽順治「化城」。(初出「酒乱」2号、2008年12月発行)

それから
われわれは語り合った
木になるまで
なんであんなになぐりあったのか
あんなあほうに
おれのいたましい遠近感がわかってたまるか
青春がぬれちゃって
ひとのはげ頭に貼りついている
かぞえきれない金色のはだかがきみがわるい
(汗までかいているよ)

 唐突にあらわれる「自己」。「あんなあほうに/おれのいたましい遠近感がわかってたまるか」などと言われても、だれも「あなたのいたましい遠近感」なんてわかりっこない。
 この「わかりっこないもの」が「注解」である。「注解」というと、「わかる」ための資料、材料と考えがちだが、それは「間違い」。
 「テキスト」を「注解」するひとは、いつだって「テキスト」だけを分析するわけではない。テキストのことばだけをつかうわけではない。たいてい、どこからか「テキスト」にとっては「他者」にあたるものをもってくる。
 「ここに書かれているこれこれについて、誰それという学者はこんなふうに解説している云々」などというのがいちばん安直な「注解」だが、その誰それの書いた解説というのはテキストにとっては「他者」である。
 吉野は、「注解」を「他者」ではなく、つまり別なところにあることばではなく、同じことばを繰り返すことで突き破ろうとして「肉体」を鍛えているが、それは「特例」。たいていは、よそから別のことば(他者としてのことば)をもってくる。
 廿楽は、そうした「注解」のあり方を逆手にとって、「他者」から隔絶した「自己」をぶつける。誰も知らない「自己」は「他者」から見れば、完全な「他者」である。
 「他者」の闖入、「他者」の強引な(?)結合--そこからはじまる「文体」の化学反応のようなもの。そこに詩がある。いままで存在しなかったことばの運動がある。
 そう考えると、ほら、廿楽のやっていることも、岡井のやっていることの「一部」に見えてくるでしょ?
 もちろん厳密には廿楽の「文体」と岡井の「文体」は違っている。違っているけれど、「文体」をどう鍛えていくか。「他者としての文体」をどう組み込みながら全体を構築するかというところへ詩が向かっているという点では同じものになる。

 「おれのいたましい遠近感」というようなことば、そして(汗までかいているよ)という唐突な口語の衝突、乱入--その組み合わせ方も、岡井の、「文語文献」(? 学術文献」と日常の「家庭会話」の「同居」に通い合うものがある。
 繰り返しになるが、もちろん廿楽の「文体」と岡井の「文体」は違う。けれども、「基底」は同じ。岡井が、ことばの運動を測る基準を、そこまで拡大してしまったいまとなっては、と私は思うのだ。
 「文献」も「日常会話」もなにもかも、いくつもの「ことばの地層」を即座に粘着力のある「文体」で結合させ、ことばの運動を自在に展開する岡井。その「文体」は太古から現代までの「地層」の深さと、広大な地平をもっている。

 そこには、とんでもない「自由」がある。みたこともない「自由」がある。ほんとうに「大事件」なのだ。岡井の詩集は。



その冬闇のなかのウェーブの細肩の雪片
吉野 令子
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たかくおよぐや
廿楽 順治
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大森寿美男監督・脚本「風が強く吹いている」(★)

2009-12-07 11:52:34 | 映画
大森寿美男監督・脚本「風が強く吹いている」(★)

脚本・監督 大森寿美男 出演 小出恵介、林遣都

 林遣都(たぶん)の走り方がとても美しいという評判に誘われて見に行った。目の手術以後、「走ってはだめ」と念押しされているので、走る快感をせめて映画からだけでも味わいたいと思って、見に行った。たしかに走り方が美しい。走っている気持ちになれる。だから、まあ、いい映画なのかもしれないが、私は最後の最後で大笑いをしてしまった。一緒に劇場に居合わせたひとは、きっと理由がわからなかったと思う。どちらかといえば、いちばん感動的なシーン、余韻(?)にひたるシーンで、私は涙が出るくらい笑いころげてしまった。
 ストーリーは箱根駅伝をめざす大学の陸上部の奮闘。予餞会に出て、最終的には駅伝にも出る。そして、最後の最後、アンカーがゴール直前で剥離骨折を起こし、はらはらどきどき、というものだ。そのはらはらどきどきはいいのだが、その最後の最後。
 実況放送をしているアナウンサー。風にメモ(資料)がとばされる。そして、「風が強く吹いています」と叫ぶのだ。なんだ、これは。これって、映画の台詞ではなく、小説の台詞じゃないか。
 映画のタイトルも(小説のタイトルも)、この1行をつかっている。
 でもねえ、こういう「余韻」というか感動の残し方は小説特有のもの。映画ではありません。映画は台詞で成り立っているのではなく、映像。風が強く吹いているなら吹いているでいいけれど、そんなことを台詞で説明しないとわからないなら、もうそれは映画ではない。映画であることを放棄している。
 役者を走るところから鍛えて、せっかく「肉体」に存在感をもたせたのに、それをわざわざ「ことば」でぶち壊すという監督の気持ちが(「頭の構造が」、あるいは「ばかさ加減」が、と読み替えてくださいね)さっぱりわからない。
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