詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(112 )

2010-02-21 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『トリトンの噴水』。この長い散文詩(?)には、一か所、忘れらないところがある。この作品は途中から改行がなくなる。段落がなるなる。その直前の段落である。

 サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。人間はナタ豆のやうに青くなつた。

 「人間はナタ豆のやうに青くなつた。」ではなく、その前の「サピアンス夫人を初め、もろもろの女がToiletteに行つゐる間に私は考へた。」がとても印象的だ。そこに書かれていることが、とても俗っぽいというか、誰でもが経験することだからである。
 まあ、人がトイレに行っている間に考えるか、あるいは自分がトイレに行っている間に考えるかは、人によって違うかもしれないが、トイレというのは人と人を完全に切り離す。プライバシーの意識というような高級(?)なことではなく、もっとありふれた次元のことなのだが、それがありふれていて、手触りがあるだけに、この詩の中に出てくるさまざまな外国語に比べて、ぐっと身近に感じられる。そのために、この行が印象的なのだ。
 そうしてみると(というのは変な言い方だが)、ことばというのは、ある意味では、読者(私だけ?)は、自分のしっていることばだけしか理解しないということかもしれない。自分の知っていること、自分のわかること以外は、知らない、とほうりだしてしまうことができる--特に、文学、詩の場合は。
 わからないこと、知らないことを読んだってしかたがない。

 そして、またまた、そうしてみると、なのだが……。

 ネプチュンの涙は薔薇と百合の間に落ちて貝殻のほがらかなる偶像を蹴つて水晶の如き昼を呼ばん。

 たとえば、この文を、どう読むことができるか。
 あ、他人のことは別にして、私のことを書こう。
 私は、ここでは「意味」を探して読まない。だいたい、この文の「主語」「述語」の関係を、私は真剣には追わない。いや、追うことができない。

 ネプチュンの涙は(う、わかる)薔薇と百合の間に落ちて(うん、わかる)貝殻の(わかる)ほがらかなる(わかる)偶像を蹴つて(わかる)水晶の如き昼を(わかる)呼ばん(わかる)。

 (わかる)ということばを挿入してみたが、私は、西脇の文を、ひとつの文としてではなく、それぞれの部分として(わかる)と感じているだけである。そのわかったものをつないで「意味」をわかりたいとはまったく感じない。
 「ネプチュンの涙は」「昼を呼ばん」という文に短縮すれば短縮できるかもしれない。それが「意味」だとすれば「意味」かもしれない。けれど、それは、まあ、どうでもいい。その、「ネプチュンの涙は……昼を呼ばん」という短い文(?)の間から、つぎつぎにこぼれていったことば、そのことばの輝きをただ美しいなあ、思って読むだけである。
 こぼれながら、「意味」から逸脱し、「無意味」になることば。そういうものが、なんといえばいいのだろう、先に引用した「Toiletteに行つゐる間」のように、手触りとして実感できる。
 そして、それを感じることができれば、それは詩として、十分なのではないか、と思うのである。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
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坂多瑩子「穴」、水野るり子「夜ごとのアリス」

2010-02-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「穴」、水野るり子「夜ごとのアリス」(「二兎」1、2010年02月25日発行)

 「二兎」1では、5人が「不思議の国のアリス」にインスピレーションを得て、ことばを動かしている。
 坂多瑩子「穴」がいちばんおもしろかった。

大根の葉っぱが
穴だらけになって
穴の上には
おんぶバッタが
わんさといて
穴によくまあ落ちないでと
感心して
穴をのぞいていると
すっとあたりが暗くなって
ところどころ
電球がついているけれど
長い廊下で
教室がひとつふたつ
いつつあって
つるつるした石の階段もあって
触ると
ぬるま湯みたいにあたたかく
子どもたちが通りすぎていくけど
でも外は真っ暗で
手すりにまたがって降りてみたら
背中がもぞもぞしてきて
大きな手が頭の上にかぶさってきたから
急いで逃げると
走ってる
というより
とんでる
感じがして
おんぶバッタだ
騒がしい声が
遠くで聞こえる

 リズムが非常に気持ちがいい。えっ? と思うようなことが書いてあるのだが、リズムがいいので、えっ?と思っている暇がない。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒より短い。私の感覚では、0.46秒は「ああっ」から「あああっ」の間の長さである。けっこう長い。これだけの間、ブレーキがきかないというのは、こわい。トヨタの説明している「フィーリング」というのはとても変である。また、0.46秒とか70センチ?というような数字は「具体的」「客観的」であっても、「肉体感覚」からずれている。声に出して「あ」と言えるか、言えないか、それとも「あああっ」と声に出せる長さか、そういうことを誰も指摘しないのは、とても危険なことである。)
 書き出しの「大根の葉っぱが/穴だらけになって」というところから、すでに、えっ?は始まっている。私は大根の葉っぱが穴だらけという状態を見たことがなくて、ここでちょっと立ち止まった。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒よりかなり長い。)大根にたしかに葉っぱはあるし、大きくなれば虫も食うかもしれないが、まあ、街中ではそういうものには出会わない。スーパーなどでは葉っぱがついていてもたいてい刈り込まれている。大根の葉っぱに穴? ともう一度考え直したいのだけれど、「穴だらけになって/穴の上には」と「穴」という字が並んでことばを動かしているので、ついつい、考えることを忘れてしまう。
 「穴」といえば、アリスの穴だよなあ。おっこちて、そこからすべてがはじまる。異界への入口が「穴」だよなあ。
 そう思っていると、おんぶバッタが穴の上にいて、坂多は「穴によくまあ落ちないで」と感心している。でも、バッタが葉っぱの穴に落ちるって、どういうことさ、なんて、反論している暇がない。(トヨタのプリウスのブレーキのきかない0.46秒より短い。)
 すぐとなりの「穴」が、また、視線をひっぱっていく。
 この詩の書き出しに「穴」ということば、文字は4回出てくる。「学校教科書の文章教室」では、同じことばを繰り返すのはよくないというような指導がおこなわれるが、この詩では、その「文章教室」に違反したことばの動きがおもしろい。
 この矢継ぎ早の「穴」の繰り返しが、この詩のおもしろさの出発点である。
 坂多の詩は「書かれている」のだが、リズムは「話しことば」のリズムなのである。「書きことば」(文章教室は、書きことばの指導、話しことばは「話し方教室」の方に属する)では、同じことばはうるさい感じがするのかもしれないが、話しことばでは、ことばは声となって消えていくので繰り返されないと「頭」に残らない。書きことばは紙の上に残っているが、話しことばは、あらわれるとすぐに消えていく。

 で、このことを逆に考えると……。(ちょっと、飛躍が大きいかな?)
 書きことばで同じことば(文字)を重ねるというのは、ことばを「残す」ためではないのだ。逆に、前のことばを消すためなのだ。
 坂多のこの詩がその具体的な例になるが、「穴」は繰り返されるたびに、その「穴」の存在が明確になる(意識に具体的な「穴」として定着する)というよりも、まったく逆に動いている。
 最初の「穴だらけになって」の「穴」は大根の葉っぱにあいている具体的な「穴」である。けれど「穴の上には/おんぶバッタが/わんさといて」の「穴」は? バッタがいるのは「穴」の上ではなく、「穴」のそば、葉っぱの上ではないのかな?
 変でしょ?
 「穴によくまあ落ちないで」というけれど、バッタが葉っぱの「穴」に落ちるなんてことがある? 万が一落ちたって、バッタは飛べるから、それは落ちるとは言えないよね。もう、これは葉っぱにあいた「穴」、バッタが葉っぱを食ってあけた「穴」ではないね。でも、「穴」ということばをそのままつかっている。ほんとうは別のことばでいわなければいけないはずなのに、同じ「穴」をつかい、それより前の「穴」を無効(?)にしている。
 次の「穴をのぞいていると」の「穴」は、たしかに「穴」だけれど、葉っぱの「穴」は「穴」自体をのぞくということは、ふつうはできないね。穴「を」のぞくのではなく、あな「から」のぞく。
 ほら、葉っぱの「穴」は完全に消えているでしょ? 変でしょ? この詩の書いていること--というか、ことばのつかい方。
 この変なところ、「流通言語」になりえないところが、詩、なんですねえ。

で。

 また、もとにもどって。
 この変なことばの運動を軽々とやってのける(そんなふうに感じさせる)ために、坂多はここでは「話しことば」の特徴を利用している。
 「話しことば」は声にした瞬間から次々に消えていく。それは、いいたいことを途中でかえてしまっても、前にいったことが消えてしまっているので、前にいったことと「ずれ」ているよ、という指摘がむずかしい。「書きことば」の場合、書かれている部分をふたつ並べることで、こことここに「矛盾」がある、「ずれ」があるというのはわりと簡単に指摘できるが、「話しことば」の場合、ちょっと面倒くさい。正確に「覚えて」いないといけない。いやだよねえ、他人のいったことをわざわざ正確に覚えるなんて。
 そして、これは話している本人にとっても同じ。前にいったことをきちんと踏まえて話すというのは「基本」であるけれど、話している途中に気分がかわって、いいたいことをいいきらない先に、次のことを言ってしまう、言いはじめてしまう--そういうことがある。
 坂多は、この、書きことばなら「文章」として完結しなくてはいけない部分を(句点できちんと区切らないといけない部分を)、完結しないまま、ずるずるずるっと、ずらしていく。
 「主語」と「述語」が、この詩では完結した文章として存在していない。
 ことばが発せられる過程で「主語」がかわり、それに対応する「述語」は完結しないまま、ずるっと動く。
 そしてその「ずるっ」に、「状況」を描写することばも「ずるっ」と引き込まれていく。

穴をのぞいていると
すっとあたりが暗くなって

 なんでもない「状況」の描写のようだけれど、この「状況」の転換のリズムがすばらしい。
 坂多は「大根の葉っぱ」と書きはじめたとき、どこにいた? スーパー? 違うね。そんなことろにバッタはいないから。大根畑? かもしれない。けれど、「穴をのぞいていると/すっとあたりが暗くなって」というときは、もう、「穴」をのぞいてはいない。「すっと」穴の中に入り込んでしまっている。穴の中に落ちてしまって、そのために「すっと」あたりが暗くなってしまっているのだ。
 「すっと」などということばは、ちょっといいかげんで、「文章教室」では嫌われるだろうけれど、その前の「わんさといて」の「わんさ」同様、「話しことば」としてなら、まあ、許されるね。(ここでも、「話しことば」が巧みに利用されている。)

教室がひとつふたつ
いつつあって

 この「ひとつふたつ」から「いつつ」あっての飛躍もいい。「飛躍」といっても「話しことば」だから飛躍がかぎられている。「ひとつふたつ/五十」ではなく、「肉体」でいっきに把握できる数の飛躍であるところが、とてもいい。「ひとつふたつ/五十」だったら、いつのまに、そんなに数えた?とあやしまれる。でも、ひとつふたつと数えはじめているとき、目はことばよりはやく動いているから、ぱっといつつと把握してしまう。そして、それにことばがおいついて「いつつ」という。この「肉体」のリズムが、そのまま「話しことば」のリズム。
 このリズムがほんとうに有効だ。

子どもたちが通りすぎていくけど
でも外は真っ暗で

 この2行の、「けど」「でも」は「書きことば」では重複である。むだである。けれど、「話しことば」では、それは「重複」ではなく、一種の「強調」である。論点(?)の移行を強調する。「逆説」をいいたくて「けど」があるのではなく、いま書いたことば(いま話したことば)から飛躍したくて「けど」「でも」がつかわれている。
 「話しことば」の独特のリズムがつかわれている。

 文章を完結させない、「主語」「述語」をきちんと対応させる文章をつくらない--という気分屋の「話しことば」のリズムを利用した、最後の部分が、また絶妙だ。

とんでる
感じがして
おんぶバッタだ
騒がしい声が
遠くで聞こえる

 「感じがして」は前の行の「とんでる」を引き継ぎ、私(坂多)には、「とんでる/感じがして」ということになるが、
 次の「おんぶバッタだ」。
 これが問題。
 「学校教科書文法」では、「おんぶバッタだ」は、騒がしい声の具体的な内容になるのかもしれない。子どもか誰かが「おんぶバッタだ」と叫んでいる。その騒がしい声が聞こえる--ということになるかもしれない。
 けれど。
 私は、ここは、私(坂多)が突然「おんぶバッタだ」と自覚したと読みたいのだ。「とんでる/感じがして」(あ、これは私が)「おんぶバッタ」(になってしまったから)「だ」。
 だから、ほら。「騒がしい声が/遠くで聞こえる」。その「声」はたしかに「おんぶバッタだ」と叫んでいるのだが、「遠い」。それよりも、もっと「近く」、坂多の「肉体」のなからか「おんぶバッタだ」と驚き、叫ぶ、声がする。

 「感じがして」--この「感じ」、だれものものでもない、自分のもの--それが、ことば全体を統一する。
 とても気持ちのいい詩だ。



 水野るり子「夜ごとのアリス」は「ナンセンス」なことばが、「アリス」そのものの運動を連想させて楽しい。

(曲がりくねったアリの巣アリス
(アリ地獄はポーカーフェース
(空き家のタンスにキリギリス
(ビンの底にはオレンジジュース


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ナンシー・マイヤーズ監督「恋するベーカリー」(★★+★)

2010-02-20 23:52:37 | 映画


監督・脚本 ナンシー・マイヤーズ 出演 メリル・ストリープ、スティーブ・マーティン、アレック・ボールドウィン

 メリル・ストリープの芸達者ぶりだけが印象に残る。
 離婚して、セックスなしの生活が長くつづいていて、ひさしぶりに元の夫とセックスする。そして、突然、表情がいきいきする。その感じが、とてもいい。メリル・ストリープの店のスパニッシュの従業員が「カリエンテ」と言っている。英語で言えば「ホット」にあたる。私は語彙が足りないので「いきいき」と書いてしまったが、まあ、色っぽいの方がいいのかもしれない--けれど、ちょっと「色っぽい」ということばはつかいたくない。
 なぜかというと……。
 この「色っぽさ」を、ナンシー・マイヤーズは、男の視線ではなく、女の視線でとても巧みに描いている。(カリエンテは、男の視線、男の従業員のことばである。)
 メリル・ストリープは、まず、自分のしている不倫(?)を、主婦友達に話す。悩みを打ち明けるふりをして、自慢する。セックスによっていきいきとした感じがメリル・ストリープにもどってくるのだが、それは男にみせびらかすというか、男の歓心をひくためのものではないのだ。まず、女の友達と「共有」したい喜びなのだ。
 メリル・ストリープ、というか、メリル・ストリープに託したのナンシー・マイヤーズ「女性」の生き方--それは喜びの「共有」なのである。どんな喜びであっても、それは「共有」されなければならない。セックスは男と女の個人間の問題で、ふたりの間で共有されるもの--というのは、もしかすると、男の見方かもしれない、と、この映画を見ていると思ってしまう。
 メリル・ストリープとセックスしていきいきするというか、まるで子どもに帰ってしまう役をアレック・ボールドウィンが演じているが、彼にとってはセックスの喜びは、メリル・ストリープと共有できれば、ただそれだけでいい。ところが、メリル・ストリープは違うのだ。女は違うのだ。
 ふたりの態度を比較すると、ナンシー・マイヤーズの描きたかったことが鮮明になるだろう。
 メリル・ストリープは主友達に喜びを語り、精神科医にも相談のふりをして(実際に相談するのだけれど)、自分の喜びを語る。さすがに、彼女に言い寄ってくるスティーブ・マーティンに対しては、そのことを語れないが、ほんとうは語りたい。そこにメリル・ストリープのほんとうの「悩み」がある。
 喜びの共有--それは、また、セックスだけの問題だけではない。
 この映画には、人間が生きるための重要な要素として、セックス以外にもうひとつ、食べるということが描かれている。この食べることの喜び、いっしょに食べる、食べる喜びを共有する、それもまた人生を明るくするのである。
 アレック・ボールドウィンは、まあ、食べるだけの一方的な男で、ここにはナンシー・マイヤーズのきびしい「批判」が隠されている。それとは対照的に、スティーブ・マーティンはメリル・ストリープといっしょにチコレートクロワッサンをつくって食べる。食べ物をいっしょにつくり、いっしょに食べるという喜びを「共有」している。メリル・ストリープが簡単に(あるいは一方的に)アレック・ボールドウィンになびいてしまわないのは、こういう事情があるのだ。
 人生にはさまざまな喜びがある。そして、そのさまざまな喜びのうちには、男が喜びと認めていない(実感していない)ものもある。愛する人といっしょに料理し、それを食べるという喜びもそのひとつだろう。セックスは男と女との個人的なものだけれど、その個人のつながりからうまれる「家族」、その「家族」によって「共有」される喜び、それにもナンシー・マイヤーズは視線を注いでいる。
 メリル・ストリープとアレック・ボールドウィンの子ども、3人の子どもたちは、「家族」の喜びの「共有」について、きちんと語っている。

 あ、これはコメディーというには、ちょっと欲張りすぎた映画なのだ。ナンシー・マイヤーズの「思想」というか、いいたいことが前面にですぎた映画なのだ。そのために、笑いたいけれど、私なんかは、ちょっと笑えなかったなあ。
 ナンシー・マイヤーズにとって、絶対に撮らないといけない映画であることは、とてもよくわかったけれど。




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おおしろ建「爪・足の小指の場合」

2010-02-20 16:13:20 | 詩(雑誌・同人誌)
おおしろ建「爪・足の小指の場合」(「KANA」17、2009年10月30日発行)

 ことばが暴走する。
 いや、そうではなくて、想像力が暴走するのだ--という言い方があるかもしれない。
 けれども、ことばなしに、想像力は暴走しえないだろうと思う。
 おおしろ建「爪・足の小指の場合」は、足の爪を娘にからかわれた父親が「島の言い伝え」を思い出す詩である。

海岸で若者と犬は娘を巡って闘った 何日も海は血で染まった
ついに犬が勝った
犬は意気揚々と娘を引き連れ横穴に消えた
やがて子供が次々と産まれた
これがその島の創世記の話である
以来 島の人々は犬の子孫と呼ばれた
その証拠に今でも
足の小指の爪は犬の爪のままだという

むすめに言われて足の小指を見れば確かに
おかしな形で、犬の爪にそっくりである。
なぜか夕暮れともなれば、そわそわして出かけたくなり
挙げ句の果てには、夜の巷で遠吠えを繰り返している。

 「島の言い伝え」(ことば)は、ことばゆえに暴走する。「何日も海は血で染まった」というようなことば、ことばでしか存在しえない世界である。だれが、なんのために暴走させたのか、暴走させることで何をつたえたかったのか、何を隠したかったのか--何の説明もない。
 それが、いさぎよくていい。
 私がおもしろいと思うのは、その「言い伝え」の暴走のあとである。ことばが暴走したあと、それを批判するのではなく、暴走にのっかってしまう。暴走にのっかって、「これは私の暴走ではない。これは島の言い伝えである。私はそのことばを生きているだけだ」と開き直るようにして「犬の子孫」になり、「犬」そのものにもなってしまう。
 爪が犬の爪の形をしていたからといって、その人が犬であるわけではないのだが、爪が犬の形をしているからということを利用して「犬」になってしまう。

 「犬」は「比喩」であって「現実」ではない--と言う人がいるかもしれないが、そうではなく、「暴走」するいのちの中にあっては、「比喩」そのものが現実である。「比喩」を超越する現実はない。
 いま、ここを振り捨てて、自由になるために「比喩」を利用する。ことばを利用して、ことば以上に暴走する。いま、ここを超越するために、ことばがあるのだ。
 
 最後の2行は、明るくて楽しい。「ことば」をいいはじめたのは、私ではない--と開き直って、ことばを利用している「犬」になってしまい、まだ人間でいるしかない娘を笑っている。

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胡続冬「河のほとり」

2010-02-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
胡続冬「河のほとり」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 胡続冬「河のほとり」はたいへん美しい詩である。感想を書くのを忘れてしまいそうなくらい、ただ、じーっと文字を追い、そしてまた最初からたどりなおしてしまう。
 いや、感想を書くのを忘れてしまうのではなく、書けない、といった方がいい。引用してみよう。自分の手で書き写せば、何か書けるようになるかもしれない。

僕はひとすじの河を抱いて一夜を明かした
僕たちがどうやって知り合ったのかは僕も忘れた
要するに そいつが岸に流れ着き
ふらふら通りを歩くうち エレベーターに飛び乗って
僕の部屋までやって来たのだ ひとすじの河は
鎖骨を持っており 緩やかな流れだったが
敏捷に泳ぐ魚が頭いっぱいに詰まっていた
一日中河で休んでも夜になると
やはり不眠症になる河が こんな風に
そっと僕に抱かれて 僕の話す千里も離れた海や
万里も向こうのひとの世の話に
聞き入っていたかと思うと みるみる そいつの
身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった 僕は
そいつのやわらかな波を握ったまま
昏々と幾世も眠った ふと目覚め
カーテンを開くと そのあでやかで
物憂い河が日の光のもと
恩愛に満ち流れるのが見えた

 いちばん印象的なのは「身体中の水滴が残らず目を閉じた」である。あ、と叫んでしまう。この1行を読んだ瞬間、ほかの行はどうでもよくなる。完全に忘れてしまう。「河」について書いてあったということくらいは覚えているが、そういうことが書いてあったということさえ、どうでもいい。
 河がある。そして、その河の水滴が残らず眼を閉じる。ここに詩がある。完全な詩がある。

 で、何が、その完全な詩、か。

 ああ、めんどうくさい。そんなこと、説明しないとわからないなら、説明したって、きっとわかりっこない。そう思ってしまう。
 見える? 河の水滴が眼を閉じるのが見える? 見えないなら、もう、これはあなたにとって詩ではない。ただ、それだけのことだ。河がある。河に水滴がある。その水滴の全部が眼を閉じる。そのときの、まつげ、まぶた、見えなくなる瞳--そのすべてが見える人だけのために書かれた詩である。
 詩のことばは、選ばれた「詩人」という人間にだけ、どこからともなくやってくる。そして、やっぱり「選ばれた読者」だけが、それを味わうのだ。
 --こんなことを書くと、「選民主義」だの「差別」だのと言われそうだが、そうとしかいいようがない。
 詩には「意味」などない。「事実」しかない。そして、詩は、だれにとっても「外国語」である。それぞれの「1か国語」である。翻訳は不可能。だから、そこに書かれていることばに震えるか、震えないか、それだけなのだ。

身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった

 この「比喩」。「星と同じくらいおとなしくなった」と書かれるときの魚の変化。「おとなしい」というのは、私にはどうでもいいことのように思える。「星と同じくらい」という言い方がすごい。星って「おとなしい」? ルルルルって流れない? なんて、ことを言ったってしようがない。「星と同じくらい美しい」とか「星と同じくらい遠い」とか「星と同じくらい小さい」とか--そういう「流通言語」を叩き壊している。見た目には「おとなしくなった」が「流通言語」を叩き壊しているかのように見えるけれど、ほんとうは「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で「流通言語」を叩き壊しているのだ。
 「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で--というのは、「星と同じくらい」ということば自身のなかに、そのことばが何かをひっぱってくる力を持っているということである。あるときは「美しい」、あるときは「遠い」、あるときは「小さい」ということばをひっぱってくる。そういう力で、今回は「おとなしい」(おとなしくなった)ということばをひっぱってきた。そして、それをひっぱってきて、結びつけた瞬間に「星と同じくらい」も「おとなしい」(おとなしくなった)も、同時に、完全に壊れてしまった。宙ぶらりんに、無意味になった。「星と同じくらいおとなしくなった」は何のことかわからないでしょ? わからないというのは「無意味」ということ。それは、「星と同じほど美しい」「星と同じほど遠い」「星と同じほど小さい」と比べてみればわかる。わからないものが「無意味」、わかるものが「意味」。
 そして、わからないもの、「無意味」にこそ、ことばのおもしろさ、詩がある。

 そうであるなら。

 「身体中の水滴が残らず眼を閉じた」という1行は、まったくわからない。そこには「無意味」しかない。あらゆる「意味」が破壊されている、ということになる。だから、詩なのだ。「無意味」であることによって、「完全な詩」になってしまっている。
 もう、だれにも、どうしようもない。
 そのまま、1行として、そこに存在させておくしかない。

 感想など、書く必要はない。書けないのは、書く必要がないからだ。完璧な詩は、いつでもそういうものだと思う。

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誰も書かなかった西脇順三郎(111 )

2010-02-19 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「体裁のいい景色(人間時代の遺留品)」は断章で構成されている。私は「意味」を気にしない読者だけれど、ときどき「意味」も考える。似たことばがでてきたとき、あ、これはこれの言い換えか、という具合に。
 ひとはだれでも、同じことを同じことばで繰り返すか、別のことばで繰り返すことの方が多い。新しい何かを言うよりも。新しいこと--というのは、そんなに多くないのかもしれない。繰り返しの中の「差異(ずれ)」のなかにしか新しいことがないのかもしれない。ことばは、もうすでにあふれるほど書かれてしまっているから……。

   (1)

やつぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である

 「脳髄」と「淋しい」は西脇の詩のなかでは頻繁に出てくる。出てくるたびに私は、西脇は「淋しい」が好きなんだなあと感じる。その「淋しい」は、私の感じる「淋しい」とは少し違うと思うけれど、その違いをつきつめて考えることはしない。「ひとがいなくて淋しい」とは違う何か、けれど「人がいないときの淋しい」にも通じる何か--それくらいの感じでしか読んでいない。
 すこし、考えてみることにする。
 この2行を「学校教科書文法(あるいは解読法?)」にしたがって読めば、脳髄は進歩しない、だから「淋しい」物品である、ということになる。進歩しないことが「淋しい」に通じる。「脳髄」を「物品」と対象化することで、進歩しないことは「淋しい」ことであると、客観的(?)に定義している。
 でも、進歩って何? 「脳髄」には日々、いろいろなものが蓄積される。学習をとおして、いわば「進歩」するのが脳髄である。「何が」進歩するのか--そのことが省略されているので、この2行は、正確(?)には「意味」をとることができないけれど、まあ、学習による知識の蓄積--そういうものはほんとうの進歩ではない。そういうものでいっぱいになってしまう脳髄というのは「淋しい」。
 「学校教科書解読法」では、これくらいまで考えるのかな? でも、なんというのだろう、こういう解読そのものが、西脇からいわせれば「淋しい」の典型かもしれないね。

 (いま、「物品」ということば、その「音」について書いてみたいという欲望にとてもつよくかられているので、ちょっと挿入する形で……。
 この2行でいちばん驚くのは「物品」ということば、その「音」である。
 私の「音感」でいえば、ここは「代物(しろもの)」ということばがくる。さび「しい」、「し」んぽ「し」ない「し」「ろ」ものであ「る」。「し」の「音」と「ら行」が交錯する。のう「ず」い「じ」つに、という「ざ行」の通い合いも「し」につながる。「ず→じ→し」という具合。
 でも、西脇は「物品」と書く。
 この「音」を聞いた瞬間(見た瞬間、読んだ瞬間と言い換えるべきか)、私の「脳髄」の「音」は、西脇に比べると、格段に「淋しい」ことがわかる。
 「物品(ぶっぴん)」は冒頭の「やつぱり」と呼応しているのである。
 「淋しい」ということばをつかいながら、どこかに「やっぱり」淋しくはない「音楽」をひそませている。
 それが西脇だ。)

 「淋しい」にもどる。

   (2)

湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから
おれはおれのパナマ帽子の下で
盛んに饒舌つてみても
割合に面白くない

 「淋しい」は「割合に面白くない」と言い換えられている。たんに「面白くない」ではなく「割合に」ということわりがあるが、この「割合に」という不思議な「思い入れ」のようなものが「淋しい」と深く関係しているかもしれない。
 客観的ではなく、主観的な、何か。不足感。それが「淋しい」かもしれない。

 (で、またまた脱線。
 「湖畔になる可く簡単な時計を据付けてから」の「なる可く」は「なるべく」と読ませるのだと思う。
 でも、そう読んだあと「簡単な」という「音」がつづくと、いま「べ」と読んだばかりの「可」を、「肉体」は「か」と読み替えている。そして、それが「据付けてから」の「か」へジャンプしてゆく。間にあることばを飛び越えて、なる「か」く「か」んたんなとけいをすえてつけ「か」ら--という具合になってしまう。
 「意味」と「音」が「文字」(書きことば)によって、とんでもない具合に暴走してしまう。
 それは「パナマ帽子の下(した)で」「盛んに饒舌(しゃべ)つてみても」にも通じる。「饒舌つて」の「舌」に目が触れたとき、「しゃべって」と読むべきであることはわかっているのに「した」と読みたくなる。「下」と「舌」が重なり合う。そして、「饒舌つて」を「しゃべって」以外の「音」でどう読めば面白くなるんだろうか、とどきどきしてしまう。
 でも、これって、「割合に」面白くない。どちらかというと「淋しい」。しゃきっとした感じで、何かが動かない--「進歩」がないからね。)

 もう一度「淋しい」にもどってみる。

   (4)

青いマンゴウの果実が冷静な空気を破り
ねむたき鉛筆を脅迫する
赤道地方は大体に於いてテキパキしていない

   (5)

快活なる杉の樹は
どうにも手がつけられん
実にむずかしい

 「テキパキしていない」は「淋しい」に通じると思う。「進歩」がないからね。「ねむたき」も「淋しい」に通じるだろう。停滞しているものは「面白くない」。だから「淋しい」。--「やつぱり脳髄は淋しい/実に進歩しない」は、そんなふうに形を変えて表現されている、ということかもしれない。
 「むずかしい」も「淋しい」だろう。(4)(5)は、絵を描いているときの描写だろう。「快活な」杉の絵を描くには手がおいつかない(手がつけられん)。「むずかしい」。だから「さびしい」。
 そうすると(?)、「淋しい」の対極にあるのは、「快活」ということかもしれない。「テキパキ」ということになるかもしれない。快活でテキパキしているものは「面白い」。そうでないものは「淋しい」。

 でもね、西脇は、次のようにも書くのだ。

   (8)

頭の明晰ということは悪いことである
けれども上級の女学生はそれを大変に愛する

 「淋しい」は「面白くない」というふうに「明晰に(あ、私の分析は明晰ではなかった?)」結論づけてしまうのは「悪いこと」である。
 わからないことを、わかったように分析し、そこに道筋をつけ、あたかも「進歩」したかのように装うこと--脳髄にできるのは、そういうことにすぎない。そういう擬似的な脳髄の操作、作業。それこそが、実は「淋しい」である。

 人間は、どうしても、そういう「悪」に染まってしまう。「脳髄」を持っているかぎり、その罠に陥ってしまう。ここから、どうやって脱出するか--西脇が考えているのは、ほんとうは、そういうことだと思う。
 「淋しい」には「脳」を破壊し、そのあとの世界を夢見る何かがこめられている、と私は感じている。





ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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駱英「タルキートナのクジラの骨」

2010-02-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
駱英「タルキートナのクジラの骨」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 私は「誤読」する。「意味」を誤解するだけではなく、文字通り「文字」を間違って読んでしまう。
 たとえば、駱英「タルキートナのクジラの骨」。

ある原住民の長老がクジラの骨を売ってくれた
それはひとの霊魂か魂魄を収める器のように見えた
原住民の長老は米ドルを手にして呟く
わしには器に飛び込む自分が見えたんだ

 この4行目の「わしには」を私は「わたしには」と読んでしまう。3行目に「原住民の長老が……呟く」ということばがあるのだから、4行目は、長老の「つぶやき」のはずである。文法意識のしっかりしている人間なら、読み間違えないだろう。けれど、私は読み間違えてしまう。その前の(2行目の)

それはひとの霊魂か魂魄を収める器のように見えた

 の「器」が意識にひっかかっているからだ。「器のように」とあるから、これは「比喩」。「比喩」というのは、いま、ここにはないけれど、それを持ち出すことで、「意識」というか精神の動きをひとつの方向にひっぱっていくものだ。強いことばだ。その強いことばが、

わしには器に飛び込む自分が見えたんだ

 で繰り返される。そして、それはともに「見えた」でしめくくられる。クジラの骨が「器」(のように)「見えた」見えた、クジラの骨の「器」に飛び込む自分が「見えた」。「器」のように「見えた」のは、詩人・駱英(わたし)にとってである。だから、その「器」に飛び込む「自分」が「見えた」というのは、「器」に飛び込む駱英(わたし)が「見えた」ということだろう。
 「わし」と書いてあるけれど「わたし」と読んでしまった理由はそこにある。
 この段階で、私は私の「誤読」に気がついていない。


原住民の長老は声を大きくする これは二千年前の代物だ
わしらの祖先が大きなクジラを一頭仕留めたんだが
クジラのやつ祖先の一族三百人を呑み込みおった
祖先は毎日クジラの頭蓋骨製の器を見て憎しみをかき立てて
かく予言した この器は二千年後に人に買われる
苦しみも憎しみもそのとき忘却できる、と

 「原住民の長老は声を大きくする」とあるから、この6行も駱英の祖先の話ではない。「わしらの祖先」ということば、「呑み込みおった」の「おった」ということばに、あ、これは「長老」の祖先の話であり、長老が駱英に話しかけているんだと気がつきながらも、私はまだ「わしらの祖先」を「わたしらの祖先」かもしれないなあ、と「誤読」したがっている。長老の祖先ではなく、「わたしらの」(駱英らの)祖先、と読みたい気持ちになっている。駱英は、そこに「他人」の経験ではなく、自分の経験であり方かもしれないものを見ている--そう読みたい気持ちが、駱英のことばを、そんなふうに「誤読」させるのだ。
 すると、とても変なことが起きる。

今度は 私に器でもがく自分が見えた
三百の霊魂が三百の悲しみを訴えかけてくる
だがクジラはその大きな頭蓋骨で私とその祖先たちをすっぽり覆ってしまった

 私が「誤読」したように、駱英が「私に器でもがく自分が見えた」と、器(クジラ)にのみこまれているのだ。
 「今度は」ということばで、私は、はっと気がつき(はっと、目が覚め)、前の行を読み直し、あ「わたし」ではなく、これまで書かれていたのは「わし」だったのか、と気がつくのだが、その気がついた瞬間に、
 「今度は」
 駱英が「誤読」しはじめている。

 --これは、とても奇妙な言い方になるけれど、駱英は長老の話を聞くことで、その話を「私(駱英)」の祖先の話と「誤読」し(正確には「誤読」ではなく、「誤聴」といえばいいのだろうか、日本語らしく「誤解」といえばいいのだろうか)、そこにつながる「自分」をみつめはじめているのだ。
 あ、私が「誤読」しただけではなく、駱英も「誤読」しているじゃないか。「誤読」のなかで、私と駱英が重なっているじゃないか。
 こんな感想は、駱英にとっては「意味」をなさないし、多くの人にも、私の書き方は間違っているということになるのは承知しているけれど……。

 私が書きたいのは、実は、ここ。

 こんなふうにねじくれて「誤読」したとき、私は、その詩人が大好きになる。詩人のことばが「他人」のことばではなく、自分のことばのように大切になる。
 私は駱英のことばを「誤読」し、駱英と長老らの祖先、そしてクジラと重なる。駱英のことばを「誤読」することで、私自身が駱英になって、それから長老らの祖先になって、クジラにのみこまれていくのを感じる。そのときの「肉体」の動きは、駱英が長老のことばに誘われ、自分を、そして自分の祖先を、長老らの祖先と「誤読」(誤解)し、クジラにのみこまれていく動きと重なる。
 だから、

だがクジラはその大きな頭蓋骨で私とその祖先たちをすっぽり覆ってしまった

 この1行の「その祖先」の「その」は誰(何)を指す? わからないでしょ? 「私」と「と」で結ばれているのは「だれ」? 私「と私の祖先」? あるいは私と「長老らの祖先」?
 区別がつかない。
 「誤読」をとおして、ほんとうはつながっていないものがつながってしまう。
 そして、そのときの「つながり」には、「区別」がない。

 この「つながり」を駱英は「宇宙」(世界)と呼んでいる。詩は、次の2行でしめくくられる。

私は思う おそらくこれが今日の宇宙と世界の象徴なのだ
よかろう 自分と一緒に三百の霊魂を北京まで連れ帰るとしよう

 この「宇宙感覚」は、私には、とても気持ちがいい。



 駱英の今回の詩の「誤読」で、私は、もうひとつ別のことを感じた。「書きことば」と「話しことば」の違い。
 「書きことば」の「誤読」の方がスピードが速い。暴走の度合いが大きい。
 こんなことは現実的には矛盾しているのだが、駱英が長老の話を聞いて、自分の祖先と自分を「誤読」するよりも早く、私は駱英の書いていることば(書きことば--書かれたことば)をとおして「誤読」してしまった。
 私の「誤読」に駱英がやっと追い付いてきた、という奇妙な感覚にとらわれてしまった。
 こういうことは、「書きことば」の方が「話しことば」よりもスピードが速いという仮説(?)でしか、証明できない。
 私は、クジラにのみこまれた祖先と私--という関係を、私は「わし」という「文字」を中心にして「誤読」した。そのとき「器」「見る」(見えた)ということばも影響していたが、「誤読」そのものは「わし」であって、「器」「見る」は「誤読」はしていない。「器」「見る」は正確に読んでいる、いちおうは。
 もし、私が書かれた文字(駱英の詩)を読むのではなく、駱英のように直接長老から話を聞いているのだとしたら、「わし」を「わたし」と「誤読」(正確には「誤聴」、「聞き間違い」)はしない。「わたし」と「わし」はだいたい、「聞き手」と「話し手」であり、会話のなかでは、混同のしようがない。話している人が、だれが「わたし」で、だれが「あなた」かわからなくなるようなことはありえない。
 また、この詩が「朗読」されたとしたら(その詩を朗読をとおして聞いたとしたら)、やはり私は「誤解」しないだろう。「わたし」というときと「わたし」というときでは、声の調子が違う。「呑み込みおった」の「おった」が象徴的だが、どんなことばも、いったん「声」となって「口」から出るときには、そこに「肉体」が刻印されていて、その刻印のなかで「わたし」と「わし」(別人)を勘違いすることはない。
 話しことば(対話)のなかで、話者(相手)を「わたし」と勘違いするということ--つまり、その話に吸収されるようにして、相手の勘定に揺さぶられ、自分が自分でなくなってしまうというのは、その人の話をじっくり聞いたときにおこることである。「わし」というひとことで、先の先まで「誤解」するというか、共感してしまって、感情が先走りするということはない。
 「話しことば」は、のろのろと進むのだ。「話しことば」は「誤読」(誤解)しようとしても、「誤解」しているなあ、と話者の方が気がつき、「いまの話、わかった?」とかなんとか、問いかけてくる。「書きことば」は、そういう「応答」がない。だから、どんどん暴走する。「誤読」が一人歩きする、ということがあるのだ。 

 あ、これは、「誤読」癖の弁解にすぎない? かもしれないなあ。



都市流浪集
駱 英
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(110 )

2010-02-18 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「修辞学」という詩がある。「修辞学」とは何か--を定義しているのだろうか。たしかに、そんなふうに読むことはできる。その書き出しが、私は好きである。ここに西脇の「修辞学」に関する「哲学」が書かれていると思う。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 詩を定義して、かけ離れたものの突然の出会い、ということがある。西脇のこの1行は、その定義をそのまま生かしている。
 西脇の場合の、「かけ離れたもの」は「ない」と「ある」。「ない」と「ある」はまったく別の概念である。それがこの1行において出会っている。「足のヒョロ長い動物」は重要ではない。それは「もの」ですらないかもしれない。西脇にとっては「もの」とは「概念」である。この詩では「概念」を「もの」として扱っているのである。「ない」と「ある」が出会ったとき、どうなるのか。「ない」ということが「ある」ということは、どういうことなのか。
 考えると、ややこしい。面倒くさい。
 このややこしく、面倒くさいことが書かれている1行が、しかし、ほんとうにややこしく面倒くさいかといえば、そうでもない。そんなことを感じ、考えるよりも、何か別なのもに突き動かされる。
 「であいのである」。「でない/のである」というのが、たぶん学校教科書の文法分析になると思うけれど、私には「でない/の/である」という具合に見える。「の」が「である」と「でない」を固く結びつけている。
 「の」は不思議な粘着力を持っている。なんでも結びつけることができる。かけ離れたものを突然結びつけたものが詩ならば、その結びつけを可能にする「の」、その粘着力こそ詩だということになる。
 あ、でも、何かが違うなあ。
 私が感じるのは、そんなややこしいこと、面倒くさいことではない。

足のヒョロ長い動物でないのである。

 この書き出しの1行を読んだとき、私は「ではないのである」の真ん中にある「の」に「肉体」が反応してしまう。この「の」がおもしろい、と感じてしまう。そしてそれは、先に書いたような、かけ離れたものの出会い、結合、その力--ということとは、あまり関係がない。
 この「の」は、それより先に「足の長い動物」ということばのなかにも登場している。それが響きあっている。その響きあいがおもしろいと感じるのだ。
 この「の」は隠れた部分で「長い」にも影響している。この1行が「足の短い動物でないのである」ではおもしろくない。音が響きあわない。「足のヒョロりと細い動物でないのである」もだめ。「ヒョロ長い」(ながい)の「な行」の存在が、この1行をすばやく読ませている。(ついでながら、「ながい」は鼻濁音で読むとさらにスピード感が増す。
 この1行には、ほかの「音」も響きあっている。そして「音楽」をつくっている。「動物(どうぶつ)」「で」「で」という「だ行」。「ヒョロ長い」というだらりとのびた音の響き、リズムが「でないのである」の「ひょろながい」音楽にそのままつながっている。

 ことばは「意味」を伝達するけれど、「意味」にはならない「音楽」もつたえる。あるいは、生み出すといえばいいのだろうか。
 西脇はこの詩で、かけはなれたものをいろいろ結びつけ、概念に刺戟を与えているが、その「意味」だけではなく、西脇は、緩急自在に「音楽」を生み出していく。1行目の音楽は、すぐに別の「音」そのものをひっぱりだす導入部にもなっている。

乾酪の中から肩を裸に出している一つの貴婦人はアランポエポエネエポエとす。

 翻訳調のごつごつした文章。特に「肩を裸に出している」「一つの貴婦人」が荒っぽい。「ひとつの」は不定冠詞をわざわざ日本語にしたものだけれど、そういうときだって、ふつうは「ひとりの」と書くべきところを、西脇は、わざと「一つの」と書いている。ことばを、わざとそんなふうに荒々しくさせておいて、

アランポエポエネエポエ

 この音は「エドガー・ランポー」を思い起こさせるが、そういう「意識」をかきまぜながら、「アランポエポエネエポエ」と「無意味」な音にしてしまう。西脇は、「意味」ではなく、最初から「音楽」を書こうとしているだけなのだ。

 --こう書いてしまうと、私が最初に書いた「西脇は概念をものとしてあつかっている」ということからずれてしまった印象を与えるかもしれない。
 いや、印象だけではなく、じっさいにずれてしまっているのかもしれないけれど。
 「概念」を「もの」としてあつかうことで、「概念」を「無意味」にする。さらに、その運動を「意味」で固定するのではなく、「音楽」でどこかへ逃がしてやる--そういうことを西脇はしているのではないだろうか。
 そう思った。



西脇順三郎全詩引喩集成
新倉 俊一
筑摩書房

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松川紀代『異文化の夜』

2010-02-18 00:00:00 | 詩集
松川紀代『異文化の夜』(書肆山田、2010年01月30日発行)

 松川紀代『異文化の夜』に「深更」という詩がある。松川紀代という詩人を私は知らないが(たぶん、はじめて読むのだと思うが)、突然、この詩人が好きになってしまった。短い詩なので、全行引用する。

具合がわるくなって
私は自分の部屋で眠っていた

時間がたって
部屋は真っ暗(のつもり)

扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた

同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音

なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた

娘や息子も 真昼のように談笑している
横向いて こころ空っぽにして 薬包をさがす

 2連目の(のつもり)がいいなあ。部屋は真っ暗ではない。けれど、そのつもりになってみる。そして、「真っ暗」ということばの方へことばを動かしていこうとする。すると、逆に、ことばは「真っ暗」ではなく、「明るい光」を集めてきてしまう。
 ことばと「現実」が「ずれ」てしまって、そこに不思議な「肉体」があらわれてくる。

扉という扉が全開で
二階の踊り場も こうこうとしていた

同じ階下で 誰かがジャズを聞いていた
食器の音 椅子をずらす音

 これは、「私」が「部屋」のベッド(たぶん)にいて、めざめて、それから想像した「世界」の風景である。想像したといっても、「空想」ではなく、「いま」「ここ」と触れ合う「肉体」が集めてきたものが、こういうことばになっているのだ。
 実際に「二階の踊り場」を見てきたわけではない。けれど、部屋のなかに入ってくる光から、そう「想像」している。階下から聞こえてくる音を聞き、「想像」する。その「想像」がことばになって動いていく。
 この、ことばの動き、それが描き出すもの--それは、やはり(のつもり)というものに含まれてしまう。
 「部屋が真っ暗」というのが「のつもり」なら、「扉という扉が全開で/二階の踊り場も こうこうとしていた」というのも「のつもり」であってもいいのだ。「のつもり」ということばが、松川と世界をつないでいく。「のつもり」のなかに松川がいる。
 いいなあ、この正直さ。
 あらゆることは、ことばにすることで、はっきりと存在しはじめる。けれど、その「はっきり」が実はほんとうではなく、ことばで描いただけの「のつもり」だとしたら?

 実際、わかっていることなど、なにもない。何があって、何がないか、もし何かがあるとして、それはなぜあるのか、どのようにして「ある」という状態をたもっているのか--なにもわからない。すべて「のつもり」でいるだけなのである。
 と、いってしまうこともできるかもしれない。

 もし、そうであるなら、そのとき、「私」の「のつもり」のほかに、「他人」の「のつもり」がからみあったら? 何が起きる? 何が「ある」ということになる?

なんだか知らないけれど
マリアが窓を開けた

 ほら、「なんだか知らないもの」が、ふいにあらわれてくる。それも、もしかしたら「のつもり」かも……。
 こういうとき、自分の「肉体」が深々としてくる。わけのわからないものが「肉体」の奥に沈んでいることがわかる。--これ、なんというのだろう。きっと「悟り」とか「覚醒」とかとはまったく逆の状態だな。すべてが未分化、未分節。こんとん。そこから、なにかがあらわれてくるのを待つしかない。
 「私」は、いま、「未生」の状態。(のつもり)

 これは、ちょっとことばにならない。(のつもり)ということぐらいしかできない。そのことばにならないものを、ことばにならないまま、(のつもり)の状態で書き記すことのできる「正直さ」--これが、私は好きだ。

 「深い亀裂」という作品も大好きだ。病院へ祖母を見舞いに行く。幼い息子が病院の階段をどこまでもどこまでものぼっていく……。

幼い息子はどんどんかけのぼっていった
止まりなさい
子供は走っていって
向こう側で ポカンとしていた
追いついて愕然とした!
息子の一歩手前 幅五十センチほどもある溝で
二階分はありそうな深い亀裂が下へ
夫にも 祖母にも
そのことを私は黙っていた
どうしゃべったらいいのか
無難な言葉にはできなくて

 「どうしゃべったらいいのか」わからない。そして「黙っていた」。でも、……書いてしまう。ことばは、黙っていても、「書く」ことができる。そして、その「書く」ということ、あるいは「書かれたことば」は、ほらほら、動いていこうとしている。どこへ? 知ってるくせに。
 知っているから、ちょっとこわくて、(のつもり)とはぐらかす。はぐらかした、の、つもり。

 ことば--書きことばが「暴走」を待っている。詩が始まるのを待っている。それをしっかりみつめて、(のつもり)という。いや、書く。「暴走したらダメよ」と言い聞かせて、「暴走」を促しているのだ。ほら、誰だって「ダメ」といわれたら、「ダメ」といわれたことをしたくなるでしょ?

 いいなあ、この感じ。

 「深い亀裂」で、ほんとうに見たのは何? 松川は、それを読者の「誤読」にまかせている。あ、そうなのだ。ことばが暴走するとき、そこには作者の思いではなく、読者の思いが噴出してくるのだ。
 「話しことば」では、こうはいかない。「書きことば」だから、それは作者の手を離れ、ただ「暴走」するのだ。
 いや、「暴走」する(つもり)。「暴走」した(つもり)

 いいなあ、ほんとうにいいなあ、いいなあとしかいえない、この感じ。




やわらかい一日―詩集
松川 紀代
ミッドナイト・プレス

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コートニー・ハント監督「フローズン・リバー」(★★★★)

2010-02-17 21:27:44 | 映画
監督・脚本 コートニー・ハント 出演 メリッサ・レオ、ミスティ・アップハム、チャーリー・マクダーモット

 アメリカ、カナダ国境の雪の質感がとてもいい。私は映画に描かれている場所に住んだことはないし、行ったこともないのに、こういうことを書くと無責任かもしれないけれど、雪に魅了された。私の知っている雪は北陸の雪がほとんどすべてだが、その雪とはまったく異質。雪がみずからの冷たさで凍るときの青さが雪全体を破壊している。もう、それは雪ではない。川が近くにあって、その水分の影響で(川には氷が張っているから直接水分の蒸発というのはないだろうけれど)、雪が水のように粘っている。水分の少ない雪はさらさらしているが、この映画に出てくる雪は、粘着力がある。そして、その粘着力を内側から支えている--というか、雪の結晶を破壊して、噴出してくる凍る力。凍る力というのは--うーん、いいことばが思いつかないが、なにかをくっつけてしまう。ドライアイスや凍りすぎた(?)氷に手を触れると、指がくっついてしまう。そんな感じで、雪が雪をくっつけ、雪でなくなる。そこにあるのは「雪」と呼ばれるものだが、すでに「雪」ではなくなったもの、「雪」であることを破壊された「もの」なのだ。
 この質感に、ともかく圧倒される。
 そして、この質感に影響されているのだろう、そこに登場する人々も、その人でありながらその人ではない。何かに破壊されて、その破壊したものの力が、その人を突き破って、本来ならばくっつくはずのない人間を結びつけてしまう。その結びついた人も、また何かに破壊されているのだが、その破壊する力をその人はどうすることもできない。それまでの「私」を突き破っていく力だけが生きる力を持っているからだ。
 メリッサ・レオはローンの支払いに困り、移民を不法入国させる仕事をすることになる。このときメリッサ・レオを破壊し、突き破っているのは「金」であるように見える。彼女といっしょに仕事をするミスティ・アップハムも金が必要だ。彼女を破壊しているのも「金」であるように見える。ところが、ほんとうは「金」がふたりを破壊しているのではない。ふたりを破壊し、ふたりがそれまでのふたりではいられなくしているのは「金」ではなく、子供への愛である。こどもを愛していて、その愛だけは壊したくない。愛そのものである子供だけはなんとしてでも守りたい--という気持ちが、ふたりを破壊し、違法行為に駆り立てるのだ。「金」ではない。
 そのことが明らかになるのは、パキスタンの移民を不法入国させるとき。鞄を預けられる。メリッサ・レオは、その鞄のなかにテロの材料があると思い込み、途中で捨てる。ところが、鞄のなかには赤ん坊がいたのだ。それを知ってふたりは鞄を捨ててきた凍った川へ引き返す。幼い命をそんなふうに見捨てることはできない。ふたりは、話し合いというほどの話し合いもせず、即座に決断し、行動する。子供の命を救う--ということに反対のことはできない。そんなことをしてしまえば、自分の子供も救えない。子供の命を救ったことにはならない。
 子供への際限のない愛--それがふたりを破壊する力である。そして、そのふたりを破壊し、ふたりを突き破ってあらわれるこどもへの愛がふたりを結びつけるのだ。「子供のために」。その共通のものがあるから、ふたりは互いを裏切らない。ふたりを破壊した力がふたりを結びつけ、協力させる。
 そして、この、ふたりを破壊した子供への限りない愛が、またふたりを再生させる。パキスタン人の赤ん坊のことはすでに書いたが、ふたりの違法行為をどう償うか--その判断のぎりぎりのことろで、メリッサ・レオならどんなふうに子供を守れるか、ミスティ・アップハムならどんなふうに子供を守れるか、ふたりは、パキスタンの赤ん坊を救ったときと同じように、ほとんど会話らしい会話もしないまま、結論に達する。
 (どんな結論だったか、映画で確認してください。)
 このあと。
 あの、冷たい、青い、凍ることしか知らない雪が、きらきらと白く輝く。いままで灰色だった空気の色に光が満ちる。人力メリーゴーラウンドにのって明るい笑顔の子供。自転車をこぎながら楽しそうな少年。それをみつめる女--その、どこにでもいる母親の顔。なにも求めずただ子供をみているだけの女の顔。
 これは、とてもいい。
 そして、これはファーストシーンのメリッサ・レオの顔となんと違うことだろう。ファーストシーンのメリッサ・レオの顔はまるで老婆である。メリッサ・レオは「生活」に破壊されてしまっている。そのあと、どんなにマスカラをつけ、マニュキアをしたって、破壊されてしまった顔はもとにはもどらない。ただ、子供への愛がきちんと実を結んだとき、新しい顔が生まれるのだ。--これは、メリッサ・レオだけではなく、あらゆる女に共通のことなのかもしれない。ラストシーンは、それを象徴している。

 冷たく青く、凍った雪が、破壊された女が生まれ変わるとき、その雪も、空気も明るく輝く--そいういう映画である。
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孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」

2010-02-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 きのう、北川透「第三の男へ」の感想を書いた。書いているうちに、だんだん、書いていることが「ずれ」てきてしまった。「ずれ」ながら、別の書きたいことに近づいていってしまった。ことばは、まあ、そんなふうに、あっちへいったり、こっちへきたりしながら動いてしまうものなのだろうなあ。
 私は、そんなふうにしか書けない。

 きょうは、孫文波「古を詠む詩 江南を懐かしむ」の感想を書いてみたい。書いてみたい、と思うのは1行目が好きだからである。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、

 ああ、「言葉による想像は暴走する」--それは、そのままきのう読んだ北川の詩に対する感想になってしまう。おとつい読んだ陳黎の感想にもつながってしまう。「いま」、ことばは、国を超えて、同じように暴走しているのかもしれない。
 そして、その「言葉」は、「話しことば」ではない。「書きことば」だ。詩として書かれたことばが暴走するのだ。きっと。
 「話す」というのは、目の前にことばを聞く相手がいる。そのとき、ことばは暴走しにくい。「話しことば」も暴走するかもしれないけれど、暴走しはじめると、きっと相手が、「いま、なんて言った?」と聞き返すと思う。「話しことば」はいつでもその暴走を邪魔する相手と向き合って動くしかない。
 けれど、「書きことば」には、その暴走をとめる「相手」がいない。ひたすら暴走していけるのだ。書かれていることば、印刷されていることば、「声」と違って、肉体を離れたあとも消えてしまわないで、紙の上に存在している。存在を確立して、その確立された存在を土台にして出発し、暴走できるのだ。(話されたことばもまた、「脳」のなかに存在しているから、「脳」を出発点に暴走できる--なんていう反論は、とりあえずしないでくださいね。)
 そして、いったん書かれてしまうと(印刷されてしまうと)、その「ことば」の所有者はだれかわからなくなる。書いたひとは著作権は私にある、というかもしれないけれど、そういう「法律」の問題ではなく--ことばは、「書かれたことば」は、書いたひとの思惑(書いた人がこめた「意味」)を無視して、読んだ人によってかってに「誤解」される権利を持っている。その「誤解」を利用して、ことばは暴走するのだ。
 たぶん、書いた人も、書いてしまったことばを読んだ瞬間、なぜそのことばを書いたかよりも、そのことばをどう「誤読」して、その先へ動かしていけるかを考えるのだと思う。私は、少なくとも、北川は、そういうことばの動かし方をしている詩人だと思う。
 書く、書いて読む。その行為の断絶と継続、その飛躍と飛躍を否定しようとする粘着力のようなものの間で、ことばをより自由にしようとしている。書く、書いて読む、という行為のなかで、「書きことば」が「書いた」ときの「意識」とは無関係に読み替えられ、暴走をはじめる。その暴走に、ことばの自由を感じる--そういう詩人に見える。
 「言葉による想像は暴走する」と書いた孫文波もまた同じような詩人だと思う。
 そういう前提に立って、私のことばは動いていくのだが……。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、

 これはほんとうにおもしろい1行だ。
 「言葉による想像は暴走する。」ということばと、「川を渡れば、」の間にはなんの脈絡もない。中国語のことは私はわからないが、「川を渡れば」という部分だけを読むと、その「主語」は「言葉」とも「想像」とも「私」ともとることができる。日本語では「私」は省略できる。「話しことば」の場合、「主語」はなんとなく、話していることばの調子、声の調子で想像がつく。けれど書きことばには、そういう手がかりはなにもなく、ただほうりだされている。だから、この1行だけ読んだとき、読者は、「主語」を「言葉」「想像」「私(これはまだ書かれていないが……、そしてこれはあるいは「あなたが」かもしれないのだが……)」から自由に選びとることができる。
 それはこの1行を書いた孫文波にとっても同じである。
 「言葉による想像は暴走する。」ということばを書いたとき、孫文波はなにか特別なことを考えていたかもしれない。けれど、それをいったん書き終え、読み返したとき、「主語」を唐突にかえることもできるのだ。そういうことが「書きことば」では起きる。そして、暴走が始まるのだ。
 ここでの実際の暴走は……。

言葉による想像は暴走する。川を渡れば、
赤い灯が手招きするし、緑の酒もしかり。
霊隠寺、鶏鳴寺、しめて四百八十寺、
線香や蝋燭は盛んに焚かれるが、目にするのは経は読まずに
賽銭勘定に忙しい和尚。柱に読書人の家柄の扁額が掛かる家で
<秀才>の子孫は詩文を読まず、経済の活性化に専心する。
そうして娘たちはいたるところに花のよう、紅の香りが顔を打ち、
風流の士は老荘の哲学を語らず、スリーサイズを語るばかり。
キュッとアップの白いヒップこそ、まさしく水豊かな春の川の流れる地である。

 詩のタイトルにあるとおり、古(いにしえ)をさまよいつつ、現代へとわたりあるく。ことばは、どんなふうにでも噴出する。
 「言葉による想像は暴走する。川を渡れば、」というはじまりの1行の、切断と連続、飛躍と粘着を、どこまでも拡大する。暴走する。
 --とは、いいながら、ねえ。
 ここにも「ことば」の「気脈」を感じてしまうのだ。過去と現在がぶつかり、さまざまなことばがでたらめに噴出してくるようであっても、そこには「気脈」があるのだ。「気脈」としかいいようのないなにかがある。
 私は、そのなにかを「音楽」と感じている。「音」と感じている。
 「話しことば」と違って「書きことば」は「音」をもたないように見えるが、ほんとうは「音」をもっているのだ。そして、その「音」が響きあって、自分に気持ちいいものと通い合い、「ことばの肉体」はセックスし、こどもを生むのだ。「意味」ではなく、「音楽」となって、どこかへ飛んで行ってしまう。消えていってしまう。
 書きことばは、「音楽」になることで、話しことばを超越していくのだ。「音楽」は消える--けれど、楽譜のように、そこに「書きことば」が残っている。そして、それが「音」を誘う……。

 あ、また、わけのわからないことを書いてしまったなあ。

 「現代詩」--同じようにことばが暴走し、「意味」を拒絶する詩のなかでも、とても読みやすいものと、読めども読めども読み進むことのできない詩がある。とても読みやすい詩は(たとえば北川の詩は)、そのことばのなかに「音」がある。「音」の「気脈」が通い合っている。音楽がある。--これはもちろん「印象」であって、具体的に証明できることではないのだが……。
 孫文波、北川、陳黎--この3人が互いの詩を、そのことばをどう感じているか知らないが、私は、その3人のことばに、不思議に似たもの、通い合う「気脈」のようなものを感じた。


現代詩手帖 2010年 02月号 [雑誌]

思潮社

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デイヴィッド・リーン監督「戦場にかける橋」(★★★★★)

2010-02-16 19:09:04 | 午前十時の映画祭

監督 デイヴィッド・リーン 出演 ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、早川雪洲

 デイヴィッド・リーンの特徴は映像の剛直な美しさにある。「戦場にかける橋」を最初に見たのは何年前だろう。30年以上前だ。リバイバル上映で、スクリーンに雨が降っていたが、緑の強烈な印象が残っている。あれは、どのシーンだったのか。それをもう一度見たかった。
 途中、橋を破壊にウィリアム・ホールデンたちがジャングルを進むシーン。地上から空を見上げる。黒沢明の「羅生門」のように、密集した葉のあいだから太陽が降る注ぐ。そのシーンにはっとしたが、見たかったのはそれとは別のシーンである。人間なんか(戦争なんか)関係ない――というような圧倒的な緑、その塊りがあったはず(見たはず)だが・・・。
 だが、なかなか、現れない。
 そして、橋の爆破が終わってしまう。映画が終わってしまう。その瞬間、頭の中に残っていた、あの緑がスクリーンからあふれてきた。橋は破壊され、列車は脱線、転覆、転落し、アレック・ギネスも早川雪洲も死んでしまっている。軍医がとぼとぼと歩く河原。カメラが引いて行き、ジャングルが姿をあらわす――その瞬間の驚き。
 驚き、というのは、「戦場にかける橋」の部隊がジャングルなのだからおかしいかもしれないが、私は、知っていても驚く。
 日本軍とイギリス軍の、軍人の精神論の対立、規律の確保、誇りの維持――そういう人間のドラマを見つづけていて、舞台がジャングルであることを忘れている。「主役」がジャングルであることを忘れていた。「主役」がジャングル――というのは、もし、そこにジャングルがなかったら、橋の建設そのものがないからでもある。進行を阻む、ジャングル、クワイ川――それがあってはじめて、そこに人間が登場し、労働する「意味」が生まれる。「主役」は人間であるより、ジャングルなのだ。
 デイヴィッド・リーンは、このジャングルを、ほんとうに美しく、完璧にスクリーンに定着させている。最初にこの映画を見た時そう思ったが、今回も同じ感想を持った。人間のしていることは、この絶対的な緑の前では、とてもささいなことだ。ジャングルの緑と太陽は、人間が展開する精神の愛憎劇など気にしない、鉄道建設も、破壊も、(緑の破壊さえも)、気にしていない。圧倒的な生命力で、すべてを飲み込んでゆくのだ。

 あ、緑について書きすぎただろうか。でも、やはりジャングルの緑があっての映画なのだ。
 どのシーンも、非常に剛直な美意識に貫かれている。構図が非常にかっちりしており、カメラのフレームのなかで役者がきっちり演じる。役柄もあるのだろうけれど、アレック・ギネス、早川雪洲は、肉体(言葉を含め、その動きそのもの)がしっかり屹立している。ウィリアム・ホールデンは対照的に、「自然」というか、だらしない力を具現していて、そのアンサンブルは、精神論と緑の対立のようで面白い。
 ジャングルの村でウィリアム・ホールデンが助けられるのは、彼が「精神論」の人間ではなく、「緑」の人間だからである。
 もし、ウィリアム・ホールデンがほんとうの「緑」の人間になってしまったら、この映画の結末は違った形になったかもしれないが、この映画の作られた1957年には、そういう思想もなかったしなあ。
 まあ、一方に、人間の力を超越した緑の自然があり、他方に、人間の「精神論」の世界があり、そして「精神論」には日本とイギリスの武士道と騎士の精神論があり、またアメリカの平民(?)精神論があり、その対比があるということなのだろう。
今から見ると、その人間観(国民観?)はいささか図式的だ。
そのせいもあると思うのだが、やはり、デイヴィッド・リーンのとらえた緑の力が一番印象に残る。人間はかわるが、自然の力、人間を超越する非常な力はかわらないということなのだろうか。




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北川透「第三の男へ」

2010-02-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「第三の男へ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 北川透「第三の男へ」には「わたしはことば。」ということばが出てくる。「ことば」になりかわって北川が語っている--というのが、まあ、ふつうの読み方なんだろうなあ。でも、私は、面倒くさいので、そんなことは考えずに、これは文字通り「ことば」が語っていることなんだと思って読む。
 では、そのとき北川は?
 知りません。そういうことを考えるのが面倒だから、しない。いいじゃないですか。ここに書かれていることが、ことば自身によって書かれたことばだとしても。詩は、もともと誰のものでもない。ことば自身のものでさえない。
 ことばは、そう語っている。

 ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点、単純な木片と枯葉になってしまうこと。いつも詩のことばは、その領域に憧れると共に怖れているのではないかしら。

 でも、むずかしいねえ。「ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点、単純な木片と枯葉になってしまうこと」ということばの「意味」が、ことばを「ただの音、孤立した線と点」にはしてくれない。ことばは「意味」に犯され、どのことばにどの「意味」を刻印するかによって、作者が特定されたりする。また逆に、どのことばから「意味」を剥奪したかということによっても、作者が「特定」される。
 ことばは、「ただの音、孤立した線と点」という「無意味」にあこがれ、詩人もそれに加担しようとするけれど、それは永久に実現しない運動だ。
 永久に完成しない、実現しないからこそ、それをやるのだ--などと言ってしまえば、精神論という「意味」につかまってしまう。

 いま、ことばは、とても面倒な「領域」にいるのかもしれない。もちろん、その面倒な「領域」というのは、ことばに対して敏感な人だけにしかわからないことかもしれないけれど。
 そして、その面倒くささは、どういえばいいのだろう。まさに逆説になってしまうのだけれど、ことばが「流通言語」から解放されて動きはじめたから、つまり、ことばが、ことば自身になりはじめたから、
 詩人の側から言えば、詩人が、ことばを「流通言語」から解放し、ことばに「自由」な動きをとらせることに成功したから、
 でもある。
 ことばが「美しい抒情のことばを欲情」し、そのなかで一体になっているときは、まあ、こういう問題は起きなかった。こういう面倒くさいことは起きなかった。
 けれど、ことばが「美しい抒情のことば」といったいになって、固定化されることに対して、詩人が疑問を感じ、ことばを「美しい抒情」という「意味」から解放しなくては、そうしないと、「いま」「ここ」におきている「こと」が語れないと気づき、ことばを「意味」から解放するためにあれこれやりはじめたところ、うーん、面倒くさいことになっちゃったんですねえ。
 「美しい抒情」以外に、なにに欲情すればいい? ことばは、告白しています。

ことばの本性を知らないの? もちろんそれは限りなく淫蕩ということ。わたしは老いさらばえているけど、誰とでも寝るもんね。ことばは女の振りをしようが、男の振りをしようが、両性具有に決まっています。男女両性器や中性器を持ってるだけじゃない。鳥類だって、魚類だって、獣類だって、草木類だって、かちんこの鉱物だけは御免蒙りたい気もするけれど、やわらかくてあったかい相手でさえあれば、想像上の動物とだって、威張りくさっているカミさんとだってやっちゃうよ。見て、見て、この変幻自在な精妙極まりない性なる器械を。誰の種なのか精子なのか分かんない、処女カイタイがいちばん気持ちいいのよ。ねぇ、マリア様。

 あ、どう説明すれば論理的(?)になるのかわからないけれど、このことばの暴走。そこに、なにが見えます?
 私は、このことばを引用しながら、ことばの「肉体」を思い浮かべていた。ことばには「肉体」があるということを、あらためて思い浮かべていた。ことばの「肉体」が、「性」とセックスを「欲情」して、集めてしまったことばが、ここにあるのだ。
 「ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点」になってしまうことをあこがれながら、他方でそれを拒絶するように(怖れるように、というのが北川のことばだったが)、ことばはどこかで「新しい肉体」を求めている。「新しい肉体」になろうとしている。

 ことばは、古い「肉体」を捨て去り、「新しい肉体」に生まれ変わろうと欲望している。もしそうなら、詩人は、そのための「産婆」をつとめなければならない。「産婆」であるべきだ--と北川は言うだろうか。ことばは、北川に「産婆になれ」と要求するだろうか。たぶん、そうなのだ。北川は「産婆になれ」ということはに突き動かされて、ことばを追いかけている。
 そして、その新しく生まれ変わろうとすることばを追いかければ追いかけるほど、ことばがことばの奥でかわしている「脈略」のようなものが見えてくるのだ。きのう読んだ陳黎の詩のなかに「気脈を/通じ合う」という表現があったが、ことばの奥にはたしかに「気脈」がある。

 ああ、これが問題。

 「気脈」の通じていないことばが交錯する詩はつまらない。けれど、「気脈」が通じていることばだけが寄り集まっては、単なる「古典」の復活になる。「古典」を破壊しながら、新しい気脈を準備しなければならないのだ。
 「新しいことば」に生まれ変わるとは、「新しい気脈」をことばに通わせるということなのだ。
 いちばんてっとりばやい(?)気脈の通わせ方は、セックスを利用すること。気脈が通じていなくても、「肉体」が通じてしまえば「気脈」ができあがるということも起きたりする。だからこそ、そこでは「乱交」がおこなわれるのである。
 でも、それで、ほんとうに「新しい肉体」としての「ことば」は誕生する?
 誕生したり、しなかったりする。胎内で肥大化して死産ということだってある。だからこそ、「産婆」が適切な処置をしなければならない。
 ことばは、北川の「産婆術」にすがっている。ことばの悲痛な声を聞きながら、北川はことばを取り上げる。--ことばと北川の、交渉が、そのまま、今回の詩になっている。あたたかい血を浴びて、ことばが、その交渉から頭をのぞかせ、産声をあげる。

夢の中の路地、揺れてる。揺れてる。
黒い巻き毛の髪燃え、プラスチックの顔から、白煙。
夢の中の路地、焼け焦げたハイヒール。散乱するハンドバック。
あんた、婚礼くらいしとけばよかったんじゃん、自爆する前。
夢の中の路地、遂に深夜、闇の帳の降りた海峡に、
忘れられた時と場所を包み込んだ、大きなビニール袋の、
「一九七二年の幽霊船」が、ぼんやりと姿を現す。
巨大な抹香鯨、暴れる海獣が……

 この「最終連」は「おわり」ではない。「はじまり」だ。この「はじまり」にことばがやってくるために、それまでのことばの消尽が必要だったのだ。「過程」など省略して、「はじまり」だけ書けば? というのは、「意味」と戦ったことのないことばの言い分だろう。「意味」とたたかいつづける北川と、そのことばにとって「はじまり」と同様に、その「過程」こそが詩であるのだ。




谷川俊太郎の世界
北川 透
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誰も書かなかった西脇順三郎(109 )

2010-02-15 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばは何の(どんな)力で動いていくのだろうか。ことばは動いていくのではなく、ひとがことばを動かす--という考えがあることは知っているが、私には、ことばはことばで動いていく、と感じられる。それは草花(植物)が草花自身の力で育っていくのに似ている。たしかにひとはそれを植えることができる。育てることができる。けれど、その草花そのものに生きる力がないと育ちはしない。同じことがことばにも起きていると思うのだ。
 そのとき、ことばは、たとえば詩人の「土壌」から何を吸収し、どんな力を育てているのか。
 「紀行」という断章でできた作品。その「4」の書き出し。

多摩人よ
君たちの河原を見に来た。
岩の割れ目に
桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。
ヴィオロンの春だ。
よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている

 この数行は「旅人かへらず」を思い出させる。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい

 「紀行」の登場人物は「旅人」となって多摩の河原へやってきた。「岩間」ではなく「岩の割れ目」に目をやって、そこでことばを動かしはじめている。ただそれでは「旅人かへらず」と同じままだ。そこで、少し「ずれ」る。

岩の割れ目に
桃の木のうしろに

 西脇のことばは「並列」を利用して(?)、すっと動く。そして、動いたあと、ことばは、ことば自身になってしまう。

桃の木のうしろに
釣り人の糸はうら悲しいのだ。

 「うしろに」「うら悲しいのだ」。このふたつのことばは「意味」をもっているかもしれない。もっているかもしれないけれど、私は「意味」よりも「音」に誘われてしまう。「河原」「岩の割れ目」と「釣り人」はつながっているかもしれない。つながって、河原で釣りをする人というイメージ、「意味」を作り上げるかもしれない。
 けれど、私は、そういう「意味」を忘れてしまう。
 「うしろに」「うら悲しいのだ」--この「音」の響きあいのなかに引き込まれて、ほかのことを忘れてしまう。「桃の木の横」「桃の木の傍ら」では「うら悲しい」ということばは動いてくれない。「うしろに」「うら悲しい」でも、何かが微妙に違う。「うしろ」と「うら悲しい」が呼応し、「に」と「のだ」が呼応しあっている。「うしろ」という3音節、「うら悲しい」6音節のリズムが、「に」の1音節、「のだ」の2音節のリズムとして繰り返される。
 こんな言語操作は意識してできることなのだろうか。私には意識してできることとは思えない。ことば自身が呼び掛け合って生きているからこそ、こういう不思議な音楽が生まれるのだと思う。
 そして、そういう「音楽」となったことばは、西脇の「土壌」から、とんでもない(?)ものを吸い上げる。

ヴィオロンの春だ。

 あらら。「ヴィオロン」と言えば「秋」でしょう。「うら悲しい」と言ったら「秋」でしょう。「秋の日の/ヴィオロンの」、それからなんだっけ、「うら悲し」でしょ?
 西脇のことばの草木は、でも、そういうものを単純に吸い上げず、どこかでことばの関節を脱臼させ「春」となって噴出する。
 この脱臼の瞬間にも、私は「音楽」を感じる。ゆかいな、笑う「音楽」だ。
 それは「旅人かへらず」のことばを借りて言えば「やかましい」音楽だ。
 この詩は、でも「旅人かへらず」ではないから、「かけす」は消える。かわりに「よしきり」が闖入してくる。そして、「濡れる(濡らす)のは「舌」ではなく、「小石」であり「足跡」だ。

よしきりの足跡は
小石に未だにぬれている

 あ、なんと美しい「黒」。水のあと。光の春に、ふいに残された新鮮な色の対比。乾く小石の「白」と、そのうえの小さな「黒」い印。
 この「黒」と「白」は、すこし進んで、次のようにかわってしまう。

黒玉のこの菫を摘み
はながみの間にはさんで

 「黒玉」と「はながみ」(白)。「白」は「小石」でも「はながみ」でも隠されている。「はながみ」という乱暴な「音」は「白」というイメージを隠すのに最適だ。

 それにしても、なんという不思議さだろう。
 「はながみ」という乱暴な「音」ではなく、これが「ハンカチ」だったら、この詩の「黒」と「白」は「抒情」になってしまう。そしてきっと「音」を失ってしまう。「はながみ」という乱暴な「音」か、それまでのことばの奥にある「音」の呼応を活性化させているのだ。「ハンカチ」だと「抒情」に収斂してしまい、「意味」になってしまう。「古今集」あるいは「新古今」につらなる「意味」になってしまうが、「はなじみ」という「音」がそれを破って、もう一度「音」そのものにもどるのだ。
 こんな動きは、とても人間には操作できない。いや、西脇はふつうの人間ではなく天才だから、その操作ができる、ということも可能だろうけれど、私は、こういう場合は、西脇は天才だから、ことばがそんなふうに勝手に呼応し合って「音楽」になるのをきちんと聞き取り、それをことばとして書くことができると言いなおしたい。あくまで、ことばが勝手に生きて、それを詩人が追いかけるのだ。



西脇順三郎の研究―『旅人かへらず』とその前後 (新典社選書)
芋生 裕信
新典社

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陳黎「日々の暮らしの片隅に」

2010-02-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
陳黎「日々の暮らしの片隅に」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 「現代詩手帖」2010年02月号に「アジア現代詩祭2009」に参加した詩人のアンソロジーが掲載されている。私はアジアにどんな詩人がいて、どんな作品が書かれているかまったく知らないので、とても興味深く読んだ。
 陳黎「日々の暮らしの片隅に」は「詩のことば」そのものをテーマにして書かれている。詩を詩で書いている。あ、北川透みたいだ、と思った。
 2連目。
 
対象と対象は互いに相手のことは聞いても付き合う必要はない
浮き上がってきてできたイメージが別のイメージに
好意を示し肉体関係を求める 声と匂いはしばしば事前につるみあい 密かに気脈を
通じあう 色はもじもじしている幼い姉妹たち そいつらは家にいて
カーテンベッドカバーバスローブランチョンマットをきちんと用意し 旦那様のお帰りを待って 明かりを
点さねばならない 一篇の詩は 一つの家のように 甘ったるい負担である
愛情も欲望も苦痛も憂いも全て引き取り 甲斐性の有る無しに関わらず包容する

 ことば、イメージが「肉体関係を求める」。これって、北川透そのままでしょ? 3連目には、北川さん、台湾では「陳黎」というペンネームで詩を書いているんですか?と質問したくなるような行がある。

そいつらは保険所で避妊手術を受けたりコンドームを買ったりする必要はない

 ほんとうにびっくりしてしまう。たぶん、台湾と日本の「現実」が似ているから、ことばは国境を超えて響きあうのだろう。
 --ということを書きたくて、実は、この作品を取り上げたわけではない。国を超えて、「現代詩」が似てしまうのは、まあ、当たり前かもしれない。
 私は、その「事実」よりも、2連目に出てくるあることばに、はっ、と驚いたのである。
 ことばは(イメージは)……

声と匂いはしばしば事前につるみあい 密かに気脈を/通じあう

 陳黎の書いている「声」「匂い」が具体的にどういう「文脈」から生まれてきたものか、私は推測できないが、私はつねづね、ことばはそれぞれ独自に「声」をもっていると感じている。「流通言語」では「独自の声」は消され(奪われ)、「意味」にしばられているが、ことばそのものは本来それぞれが「意味」とは無関係に独自の「声」をもっていると感じている。詩とは、その「独自の声」が「流通言語」の「意味」から解放されて、暴走するときに姿をあらわすと感じている。(陳黎は、「声」にくわえて「匂い」も書いてるが、まあ、ほかにもいろいろあるかもしれない。とりあえず、「声」だけに「代表」になってもらうことにする。)
 その「声」が「事前につるみあい 密かに気脈を/通じあう」。
 こういうことは、私は、ある、と思う。
 ことばというのは、どうしても「意味」へ向けて動いていくものだが、そういう「意味」をめざして動く前に、「意味」にならない前に(事前に)、「気脈を通じあう」。「気脈」とは「連絡」と似たようなものだが、「連絡」に比べると「気脈」はことばにならないものだろう。「意味」として「誰にでも」わかるものではないだろう。わかりあえるものにだけ、わかる。共通言語(流通言語)以前の、ことばになる前の、ことば。ことばは、いつでもそういうものを通じ合わせて動いている。
 そういう「気脈」が、次々にことばを呼び寄せる。
 「もじもじ」もそうだし、「甲斐性」も「避妊」も「コンドーム」も、ことばの「肉体」が呼び寄せる。
 1連目には「区役所」だの「戸籍」だのが出てくるが、それは3連目では「倫理道徳」というような形にかえて、集まってくる。ことばの「声」が「気脈」のつうじることばを集めてきて、そこに「自由国家」をつくる。それが詩なのである。
 陳黎が詩を書いているのではない。ことばが、かってに自分たちで「気脈」をつうじあわせて、動き回る。「自由国家」をつくる。陳黎がなにかをするとしたら、それは「流通言語」を破壊し、ことばを「意味」から解放するということだ。
 陳黎と北川透が似ているのは、その表現が似ているのではない。その「肉体」が似ているのだ。「意味」ではなく、ことばの「気脈」がかってに動くように、「流通言語」を破壊するという「思想」が通じあっているのだ。ことばには、ことば自身の「声」が(匂いが)ある。それを復活(?)させようとする「意思」が気脈のようにして通じ合っているのだ。

 あ、こういう考え方って、アジア的?
 私はアジアも西欧も区別がつかないので、よくわからないが。

 最終連は、かってに動いていったことばの、いまのことろの「最終」の「場」なのだろうけれど、この数行は美しいなあ。「気脈」云々なんて、書いてきたことが恥ずかしくなる。ことばの気脈も肉体関係も、なんにも関係がない。ただ動いたことばが、こんなところに出てしまった、という感じ。こんなところって、どこ? 知らないさ。どこ、って特定できたら「流通言語」の「意味」になってしまう。そういうものとは「無縁」、無縁であることによって成立する「無意味」の無垢さ。
 明るくて、へこたれない健康さ。
 ことばは「流通言語」から解放されて自由になれば、こんなふうに輝けるのである。

トマトがひとつ寂しくレジに載っている。君は言う
素晴らしいじゃないか トマトがひとつ寂しくレジに載っている
一行が一家を成している
こいつは日本、いやひょっとして絶句の盛唐からの移民ではないかと訝る
君は一切気にしない 一切気にせずそいつらを洗いざらい
小さな買い物袋に詰め込んでしまうのである




 トマトが出てきたついでに。(飛躍だらけの、補足)
 アルモドバル監督の「抱擁のかけら」という映画にトマトが出てくる。アルモドバルの大好きなスペインの赤--その赤の象徴としてのトマト。その上に一滴水が垂れる。つーっと、流れる。それが、ふいに、セックスの絶頂の最中に(たとえばペネロペ・クルスのような絶世の美女のセックスの前兆の最中に)、官能で熟れきった肌を流れる一筋の汗のようにみえる。トマトが絶世の美女の、輝かしい肌にみえる。
 これは、映像における「気脈」が通じたシーンである。
 そういうことが、ことばでも起きる。そういうことをことばで実現する--それが詩である。


現代詩手帖 2010年 02月号 [雑誌]

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