詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウェイン・ワン監督「千年の祈り」(★★★)

2010-03-18 12:00:00 | 映画

監督 ウェイン・ワン 出演 ヘンリー・オー、フェイ・ユー

 離れてしまった家族のこころ。それを回復しようとする試み。中華鍋を買って、一生懸命、料理する老いた父が悲しい。その、料理そのものの、あじけない冷えた感じがとても悲しい。中華料理は世界一おいしい料理だというけれど、それがおいしいのは食べる人がしあわせであってはじめて生まれるおいしさだ。食べる人が、楽しくなければ、どんなに豪華でもおいしくはない。楽しい、とは、こころが通い合っているということだ。
 こころを通い合わせるためには、語り合うことが不可欠だ。
 父の部屋と娘の部屋。ふたつの部屋の扉が開かれている。壁をはさんで、父と娘が背を向けている。そういうシーンがあったが、このシーンが、この映画の父と娘の関係を象徴している。どんなに扉が開かれていても、そのあいだを「空気」がどれだけ自在に行き来しても、こころが通じ合うとはかぎらない。見える「空気」そのものが、部屋を区別する壁よりも強靱なのだ。分厚いのだ。
 一方、ことばが通じなくても、語り合うことでこころを通わせるというシーンもこの映画にはある。父と娘ではなく、父とイラン人の老女性。互いにカタコトの英語で、ジェスチャーをまじえながら話しあう。その時間を楽しみに、ふたりは公園へやってくる。ベンチに腰掛ける。
 けれど、それもまた、はかない幻。
 懸命に語りあいながら、ほんとうのことを隠してしまう。家族の関係を隠してしまう。家族に愛されていな--ということを、こころを打ち明けて語ることができない。だから、父とその老女性は、ふいに別れてしまうことになる。
 語る。そのとき大切なのは、「真実」を語るということである。しかし、その真実を語るということは苦しい。苦しいけれど、それを語るしかない。その一点にたどりつくまでを、この映画はていねいに描いている。
 このていねいさは、たぶん脚本を読むともっとわかるかもしれない。そして、舞台の方がもっと切実につたわってくるかもしれない。舞台にのせれば、とてもいい芝居になると思う。そう思うけれど……。あ、映画では、苦しいねえ。映画独自の、映像で納得させるという部分が少ない。父親の、猫背を矯正するコルセット(?)のように、変になまなましい肉体にせまる描写もあるのだけれど、なんだかなあ……。
 芝居で、目の前で役者が動く--そういう形で見れば、たぶん、もっともっと作品の抱えているものが切実に迫ってくるだろうなあ、と、そういうことばかり考えた。

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志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」

2010-03-18 09:26:57 | 志賀直哉
志賀直哉「沓掛にて-芥川君のこと-」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は教科書の印象しかない。「好き」という感じはなかったのだが、読みはじめるとおもしろい。ことばは、やはり子どものときは、おもしろさがわからない。文学は大人になってしら読むものなのだ、とあらためて思った。
 「沓掛にて-芥川君のこと-」は芥川が自殺したあとの文章である。いわば「追悼文」ということになるのだが、とてもかわっている。芥川の思い出を書いているには書いているのだが、えっ、追悼文にこんなことを書いてしまうの? というようなことを書いている。「妖婆」について触れたくだり。(旧字、正字はめんどうなので、いま使われている漢字で引用する。をどり文字も適当になおした。)

二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたといふのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあつた。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思ふが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭も其方(そのほう)へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくやうで面白くないといふやうな事もいつた。

 芥川の小説の、どの部分が気に食わないか--そんなことを、わざわざ書いている。そういうことを芥川に指摘したと書いている。
 こういうことは、私は書かないだろうなあ。追悼文には書かないだろうなあ。でも、志賀は書いている。
 この正直さが、とても気に入った。とてもおもしろいと思った。

 ことばに対して正直なのである。芥川の小説について書きはじめたら、そのことばに対する気持ちを抑制できなくなる。芥川が自殺したか、生きているかということより、文学のことばはどういうものであるべきか、ということばに対する気持ちの方が優先してしまう。
 ひと(他人)に対する配慮よりも、ことばに対して真摯である。うそをつかない。その正直さ--あ、これは美しい。

 志賀のことばは簡潔だが、その簡潔さは、うそを削ぎ落としてたどりついた簡潔さ、正直がたどりついた簡潔さなのだと、いまごろになって気がついた。




小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社

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神尾和寿『地上のメニュー』

2010-03-18 00:00:00 | 詩集
神尾和寿『地上のメニュー』(砂子屋書房、2010年02月20日発行)

 神尾和寿『地上のメニュー』に驚いた。いや、正確に言うと、冒頭の「たんぼのことば」に頭を殴られたような衝撃を受けた。えっ、神尾和寿って、こういう詩人だった? めったにしないことだが、思わず5回ほど、読み返してしまった。私の知っている神尾とはまったく別の神尾がいる。私はいままで神尾を読んでいたのだろうか、と不思議な気持ちになった。
 そして、私は、まだほかの詩を読んでいないのだが、ともかくこの詩に夢中になってしまった。

ふかい緑の田圃に 見え隠れして
はるか向こうに
電柱が 一本

こちら側にも もう一本が立っていて
鳥も寄せつけずに
先端が 潤んだ空に突き刺さりながら

一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り

その電気とは かつては言葉だった
とのこと
命令やうわさ話や絶大なる賞讃、同じ賞讃のなかでも本音と建前 それから

呪いと祝福 ある時には
決闘を申し込む
言葉も とどく

受けてやろうじゃないか
斧を握り上げて とろけるような団欒から抜け出た
わが弟 は

一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら

 読むと、目の前に田んぼが広がってくる。夏の、緑の盛んな田んぼ。見渡すかぎりの緑。風が吹くと葉裏が光る。ゆらゆらと、風の道をつくることもある。そこに電柱が立っている。
 電柱は道に沿って立っていることが多いが、田舎へ行くと、曲がりくねった道に沿って電柱を立てるより、田んぼを突ききってまっすぐに電柱を並べる方が経済的なのだ。そういう田舎の風景である。そういう電柱、電線は、まだ電気がはじめて集落に(家庭に)やってきたときの記憶を内部に抱え込んでいる。
 「電気は明るいなあ、電気は便利だなあ」
 そういう声を遠くで聞きながら、電柱は(電線は)誇らしげである。だから、鳥なんか寄せつけない。電柱の誇りが、「おれを、そんじょそこらの木といっしょにするな」と見栄を切らせている。
 もうそういう時代ではないから、まあ、電柱はそういう声を内部に秘めていることになる。
 ここに書かれているのは、現実であり、過去であり、記憶であり、歴史なのだ。といっても、それはけっして教科書に書かれるような歴史ではないし、また、過去でもない。ただ、そこに暮らしたひとの内部にだけ存在する過去であり、記憶であり、歴史である。

一方で 電線はといえば非常にゆるく
わたっている
電線のなかでは 電気がいそがしく走り回り

 電柱、電線の、見かけと内部(?)の違いのように、あらゆるものには見かけ(外部)と内部がある。建前と本音もある。田舎の暮らしにも、そういう二面性がある。それは、田舎だけではなく、あらゆる人間の暮らしにあることだ。
 「ゆるく/わたっている」
 これは電柱と電柱のあいだに張り渡された電線の描写である。すこしたわんで、その線がぴんと張り詰めたものではないことを、この2行は語っているが、この「ゆるく」のなかに、神尾の思想が凝縮している。
 電線の内部で電気が忙しく走り回れば回るほど、電線は「ゆるく」なければならない。忙しさ、緊張をつつむ「ゆるさ」。それがあって、世界は成り立っている。神尾は、緊張に満ちた世界を「ゆるさ」で包み、そこに静かな笑いを引き起こす。
 --と書いていけば、それはそのまま、私の知っている神尾につながるのだが、あ、こんなふうに自然にそのことを実感したことがなかった。神尾は彼が向き合っているものを「ゆるく」包みこみ、その「ゆるさ」のなかで他者を引き受けている、とこんなに自然に感じたことはなかった。

 田舎には、田舎から飛び出してどこかへいってしまった人間がいる。いまも、大量にいる。いや、いま、田舎は、田舎を飛び出して行ったひとのために、電気がはじめてその村にきたときのことを知っている人しか残されていない、という状況に近い。
 電柱と、電線のなかには、とおい「栄光」の記憶があるだけだ。
 あの「栄光」から1万年?

一万年たった 今も帰らない
敵は強かったのか、命を取るまで残酷だったのか
それとも
敵には いまだ巡り会っていないの
かしら

 この誇張のなかにある悲しみ。寂しさ。けれど、それを「敵には いまだ巡り会っていないの/かしら」とつつみなおす温かさ。
 それは、日本の風景のやさしさ、風土のやさしさかもしれない。「土地」にねづいて生きるやさしさかもしれない。電柱のように、そこに立ったまま、どこへも動いていかない暮らしの(生きかたの)やさしさかもしれない。
 神尾は、そういう風景を生きている。




七福神通り―歴史上の人物
神尾 和寿
思潮社

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柏木麻里「蝶と空」、吉田加南子「しずくのために」

2010-03-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
柏木麻里「蝶と空」、吉田加南子「しずくのために」(「径」4、2009年12月10日発行)

 本を読むとき私は本の余白にメモを取る。だから私の読んだ本は、古本屋では売りものにならない。書き込みで汚れているからである。
 たとえば、私は「径」4の2ページ目、柏木麻里の「蝶と空」という作品の、「2. 」が印刷されているページに、

感覚の論理。感覚が論理になるための通過領域としての空白。余分なことばを削ぎ落とすための「場」。
ことばではない。空白こそを読まねばならない。

と、書いている。これは「2. 」「3. 」のためのメモである。
 柏木の作品は、余白がたくさんある。そして、それをネット上で正確に再現することはできないのだが、それなりに引用してみると、次のようになる。

  2.

なにもないやわらかさから連れだされて

どうしてゆくのか蓮は



    3.

  蝶が からだをうごかすと

  空は

  あたたかい花の匂いで

  虹になってしまう

 ここに書かれていることばを「論理的」に分析することは、私にはできない。ことばの「意味」(論理)を正確に追うことはできない。私は「論理」を追うのではなく、1行1行にあらわれてくることばを、「意味」から切り離して、「もの」として見ている。
 私は「読んで」いるのではない。「見て」いるのだ。ことばを。
 あるいは、ことばが空白にかこまれて、ぽつんと存在している感じを。
 むりやり、ことばをつないで行くことはできる。「論理」をつくろうとすれば、たぶん、つくれる。
 蝶がからだを動かすと空があたたかい花の匂いで虹になる--というのは、蝶には花から花へと渡ってきた記憶がある。そして、その記憶は蝶のからだににおいとしてしみついている。蝶が翅をふるわせて舞うとき、その翅にのこっている匂いが空中に飛び散る。そのひとつひとつの匂いは、匂いであると同時に、その花の色を思い起こさせる。記憶のなかに花の色が広がる。それが蝶の飛ぶ軌跡を追いかけて、虹になる。その虹の色は「七色」ではなく、蝶がたどってきた花の色だ……。
 あ、でも、こんなふうに「空白」を埋めてしまってはいけないのだ。逆に、そういう「論理」を思いついたとしても、それは捨て去ってしまわなければならない。
 あるいは、こういうべきか。
 この余白には、柏木がことばを動かすときに動いていた「論理」の運動が捨てられている。その捨てられたものを拾い集めるのではなく、柏木の余白の力を借りて、私たちも「論理」を捨てるとき、余白に守られて、ことばがあたらしく生まれ変わる。いのちそのものとして動いていくのだと。
 それは、どこへ動いていくのか?
 わからない。わからないから、詩なのである。
 そして、それは動いていく、というより、柏木のことばをつかって繰り返せば、それは「連れだされて」行くのだ。ことばの「意味」の檻から、ことばの「意味」のない(つまり、流通言語の意味とはちがった)世界へ、まっさらな「空白」へ。
 ことばをつつむまっさらな空白--その空白と拮抗することば。
 柏木のことばは、そういう世界を生きようとしている。

 私は、そう書きながら、また、それとは違うことも感じている。特に「2. 」の部分に。
 「連れだす」「蓮」その文字のなかにある「響きあい」に、何か、いままでの柏木とはちがったものがあるように感じている。
 「蓮」(蓮の花)は、私の印象では、深い泥のなかから何かの力によって連れ出され、水面に出て、そこで開くものである。この「蓮」に対して、柏木は「どうしてゆくのか」と問いかけている。ある力に誘われたからといって、どうしてそれにしたがって行くのか。
 誘う力と、誘われるもののなかには、何かつながりがある。
 「連」と「蓮」の文字--その文字のなかにあるような、不思議なものが存在する。余白だけではなく、柏木は、ふとそういうものを見てしまっている。
 そんなことも感じた。
 そして、その印象が、まわりにある「余白」に不思議な色を与えているようにも感じる。
 感覚的なことばばかり並べてしまったが、そんなことを感じた。



 吉田加南子「しずくのために」は柏木の作品と似たところがある。吉田の方が詩人として先輩であるから、柏木の詩は、どこかで吉田の影響を受けているといった方がいいのかもしれないけれど。
 吉田と柏木の作品の違いは、「余白」の量である。吉田の方が少ない。そして、吉田のことばは、「余白」のない部分では「論理」のことばを持っている。

 映す
 って
 映しているもののところにいっている
 って
 ことね

しずくの底
って
しずくのとけたあとの空

 影がふくらむ

 身ごもります

 「って」「って」「って」。これは「というのは」という「意味」になる。そこでは、ことばがことばによって説明されている。「説明ですよ」という「おことわり」が「って」なのである。そして、その「説明」を「こと」で受け止める。
 最後の部分は、

 影がふくらむ
 って
 身ごもる
 って
 ことね

と言い換えることもできる。それは逆に言えば、それぞれの「って」をとると、「影がふくらむ//身ごもります」というスタイルのことばになるということでもある。
 吉田も、柏木も、「余白」によって「論理」を消していることがわかる。

 吉田の方が「消している」、柏木の方は「捨てている」というくらいの違いを、私は感じているのだけれど、こういう感覚的なことは説明するのがむずかしい。吉田の空白はもりあがっている。山の形をしている。それに対して柏木の空白は深淵の形をしている、と言えばいいだろうか。


蜜の根のひびくかぎりに
柏木 麻里
思潮社

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言葉の向こうから
吉田 加南子
みすず書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(116 )

2010-03-16 10:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「二人は歩いた」。この詩のなかに、とても好きなことばがある。

キノコとキチラガイナスとが人間の最後の象徴に達していたことを発見して
二人はひそかによろこんだ
この男の友は蝶々の模様のついた縮緬の
シャツを着ていた
ハイヒールの黒靴をはいたおめかけさんの着ている
tea-gownのようで全体として
けなるいものだ

 「けなるい」。この形容詞は現代ではあまりつかわないように思う。広辞苑には「けなり・い」という形容詞と、「けなり・がる」という自動詞が載っている。例文は、狂言と西鶴の胸算用から引用されている。
 この形容詞を、私の田舎では、私の子どもの頃はごくふつうに使った。うらやましい。ごくふつうに、と書いたけれど、自分で「あれが、けなるい」とはあまり言わず、「何をけなるがっているのだ」と他人をたしなめるときによくつかった。他人は他人。自分は自分。比較してはいけない。--いけないといわれると、なおのこと、そのことをしてしまうのが子どもというものだから、そんなふうにたしなめることが効果的かどうかはわからない。わからないけれど、そのことばを通して、私は「他人」というものをはじめて知ったと思った。「他人」というか、「他人」と「自分」の違いというか……。
 西脇は、たんに「うらやましい」というだけの意味でつかっているのかもしれないが、うらやましいけれどことばにしては言わず(友には語らず)、ただ詩に書き留めただけかもしれない。きっと声に出して、「そのシャツがけなるい」とは言わなかっただろうと思う。「けなるいものだ」という1行の言い切りかた、そのリズムに、そういうことを感じた。声に出していってしまってはいけない感情だから、書くにしても、できるかぎりの凝縮のなかに、そのことばを置いている--そんなことを感じた。
 そして、その抑制(?)のリズムは、次の部分と呼応する。

自転車に乗つて来た女の子から道をきいて
エコマの上水跡をさぐつた
玉川の上水でみがいた色男とは江戸の青楼の会話にも出てくることだが二人は心にかくした

 「心にかくした」。
 ことばを動かしているのは、あらわしたいものがあるからだが、一方で隠したいものがあってことばを動かすこともある。こういう気持ちは矛盾しているとしかいえないけれど、矛盾しているからこそ、おもしろいのだと思う。
 そして、この矛盾のつくりだす「リズム」というものが、きっとことばを貫いている--と私はひそかに感じている。
 「けなるいものだ」は詩のことばとして書かれている。けれど、それは「玉川の上水でみがいた色男」か、あるいは「青楼の会話」か、あるいはそのふたつをあわせたものかはわからないが、そのことばを「心にかくした」ように、実際には、その場ではあきらかにされなかったことばである。
 その、実際には(現実には)、声としてだされなかった「思い」としてのことば--それが、ふいに噴出しながら詩をいきいきさせるのだと思う。

 また、そういうことと「二人」、あるいは「ふたつ」ということが、どこかで関係しているとも感じる。「ひとつ」ではなく「ふたつ」。そのとき、何かしらの「対立」がある。その「ふたつ」(ふたり)は、たとえある場所をめざしていっしょに歩いていても「ひとつ」にはならない。「ふたつ」のままである。そのことがつくりだす「リズム」がある。
 西脇は、人間とは、融合しない。「他人」とは「ひとつ」にはならない。「他人」に共感するときも、「他人」に対して、というよりも、他人の「何か」に対してのことである。たとえば、「蝶々の模様のついた縮緬の/シャツ」とは「ひとつ」になりたい、という気持ち「けなるい」が生まれるが、そのシャツを着ている男そのものにはなろうとはしない。「気持ち」を隠したまま、いっしょに歩く。
そのときの「わざと」そうするこころ、それが、そのままリズムとなって詩を動かす。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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嵯峨恵子『定本 おかえり』

2010-03-16 00:00:00 | 詩集
嵯峨恵子『定本 おかえり』(ふたば工房、2010年02月23日発行)

 嵯峨恵子『定本 おかえり』は病で倒れた母を、父と嵯峨のふたりが介護する日々をつづっている。「お別れ会」が一番こころに残った。

お母ちゃんの葬式の件やけど
父がさりげなく切り出す
まだ頭がしっかりしてる頃
あの人献体するって
お医者さんの前ではっきりゆうたんだよ
だから 葬式じゃないから
まあ お別れ会だな
話題の主はといえば
今日も口を開けて寝ている
涼しくなると寝やすくなるのか
食事と排泄以外やる事もないからか
一日の大半を寝ることに費やしている
あんまり寝てばかりいると頭が働かなくなるよ
とほっぺたをぺたぺた叩いても
しぶい顔をして目も開けてくれない
こうして毎日
死ぬ練習をし
着々と
本人は本番に備えているのかもしれない
そうして
母のいなくなった日
私たちはいなくなった母を囲むのだろう
お茶や着付け、お花のお弟子さんたち
近所のおばさん
親戚の人たち
母を知っていた人たちばかりが
わが家に集まるのだ
お別れ会
それいいね
それでいこう
私もさりげなく応える

 母が「死ぬ練習」をしているのだとしたら、嵯峨と父は「死を迎える練習」をしているのだろう。それはつらい練習だけれど、練習ができるまでになった、その一種の「やすらぎ」のようなものがこの詩をつらぬいている。
 「やすらぎ」と言ってしまってはいけないのかもしれないのだけれど。ほんとうは、とても苦しいことなのかもしれないのだけれど。
 その苦しみは2行目と最終行の「さりげなく」に書かれている。
 嵯峨と父は「死を迎える」準備をしている--と書いたけれど、その前に、死を迎える前の準備の準備をしている。「お母ちゃんの葬式の件やけど」と父が口にするまでに、父は何度、そのことばを練習しただろう。実際に声に出したかどうかはわからないが、何度も何度も、頭のなかで繰り返したに違いない。どういう反応を娘(嵯峨)はしめすだろうか。こういう反応をしたときはこんなふうに応え、別の反応をしたときはあんなふうに……とあれこれ考えたに違いない。そして、実際に、それをことばにするとき、また不安が襲ってくる。どういう反応があるだろう。また、ふいに悲しみも襲ってくる。生きているのに、こんなことを言わなければならないなんて……。
 あふれる感情をおさえ、なんでもないことのように、「さりげなく」言う。もちろん、それは「さりげなく」どころではない。そして、それが「さりげなく」どころではないということは、長い間いっしょに生きてきた娘なら、すぐにわかる。父が無理をしていることがすぐにわかる。
 わかるから、その父のことを思い、父が「さりげなく」切り出したと書くのだ。
 それに応える娘(嵯峨)も「さりげなく」を装う。悲しみをおさえ、むしろ、それが「よろこび」にかえられるように懸命にこころを動かす。

お別れ会
それいいね

 「いいね」。それが「いい」はずはない。「いい」のは母が死なずに生きていることである。わかっているけれど、その最良の「いい」をあきらめ、その次の「いい」を受け入れるために、嵯峨はこころを動かす。
 その練習を何度も何度も、こころのなかで繰り返す。その様子を、こころに描いてみる。そうして、自分自身に「それいいね」と納得させる。
 それから、その納得をするために、どれだけ涙をこらえたか、それを悟られないように、「さりげなく」応える。

 ふたりの「さりげなく」にはむりがある。ふたりの「さりげなく」は「わざと」よそおわれた「さりげなく」である。
 だから、そこに詩がある。思想がある。人間のいのちをととのえる力がある。





私の男―Mon homme
嵯峨 恵子
思潮社

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キャロル・リード監督「第三の男」(★★★★★)

2010-03-15 16:36:04 | 午前十時の映画祭

監督 キャロル・リード 出演 ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ

 何度見ても好きなシーンというものがある。「第三の男」の、オーソン・ウェルズが初めて顔を見せるシーンもその一つ。柱の陰に隠れている。2階から窓の明かりが照らし出す。その瞬間の困ったような、にたっと笑う顔。悲しげで、ふてぶてしい。この、オーソン・ウェルズの顔から、この映画は突然生々しくなる。オーソン・ウェルズならではの存在感だね。
 その美しい恐怖、悪夢のような輝きと、夜のウィーンの陰影の美しさがとても似合っている。石畳の作りだす光と影の諧調のなかに足音が音楽として響く。いいなあ。
 このシーンに限らず、この映画はモノクロ特有の光と影をたくみに使っている。後半の下水道のシーン。カラーだと下水道の汚さが厳しく迫ってくるだろうけれど、モノクロだと汚くない。光の反射は、汚いどころかきれいである。水のつややかさ。追跡の光。逃走する影、追いかける影。肉体の生々しさではなく、シルエットの拡大された動きの素早さ。まるで夢を見ているようだ。
 こんな光と影の交錯は現実にはあり得ないのだろうけれど、その非現実性が、映画っぽくていい。モノクロ特有のウソが快感である。
 冒頭の、ジョゼフ・コットンが「ハリー」の家へたずねて行くシーンの、壁の影もほんとうはあり得ない。階段の壁に、ジョゼフ・コットンのコートを着た影が何倍もの大きさで投影される。これがカラーだと、絶対に変に見える。モノクロだと、光と影の記憶だけが引き出され、影がどんなに大きくても異様に見えない。(この拡大された影が、後半のサスペンスへ自然につながっていく。)
 傑作だなあ、とつくづく思う。
 この映画では、光と影の楽しさのほかに、もう一つ不思議な工夫がされている。カメラが水平に構えていない。柱、扉、天井などが、水平、垂直にならないシーンが次々に出てくる。現実が微妙に歪んでいる。その歪みの中で、歪んだ人間(?)というか、犯罪と、正義が交錯する。正義の追及に突っ走るのではなく、犯罪に身をすりよせる部分、まあ、恋愛なのだけれど、というものが、粘着力のある感じでまじるのだが、その不思議な歪みが、水平、垂直ではない室内の感じとからみあってとてもおもしろい。

 映像の面白さとは別に。昔は気がつかなかったこと。
 ジョゼフ・コットンが文化講演会(?)に呼ばれる。作家なので、小説について質問を受ける。「意識の流れ」についてどう思うか。あ、ジョイスだ。と、思う間もなく、「ジョイスをどのように位置づけるか」。ジョゼフ・コットンは作家といっても大衆作家なので、なんのことか分からない。うーん。この映画が作られた1949年当時、どれくらいこの話題について行ける観客がいたんだろう。日本ではどうだったのだろう。よくわからないが、イギリス文学にとっては大変な衝撃だったことがわかる。社会的出来事だったから、映画にまで顔を出しているのだ。
 あ、ジョイスをもう一度読もう――と、私は丸谷才一の「若い芸術家の肖像」の新訳を買ってしまった。




第三の男 [DVD] FRT-005

ファーストトレーディング

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若い藝術家の肖像
ジェイムズ ジョイス
集英社

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伊藤啓子「上の湯にて」、長嶋南子「眠れ」

2010-03-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤啓子「上の湯にて」、長嶋南子「眠れ」(「きょうは詩人」15、2010年02月18日発行)

 伊藤啓子「上の湯にて」は、共同浴場でのおばあさんたちとの会話を描いている。

あとから入ってきたわたしのために
ひとりずつ詰めてくれた
横に動くたびに
たっぷりしたお乳やおなかが
順繰りにゆさゆさ揺れ
わたしの風邪ひきそうな体つきでは
気後れしてしまう
まだまだ生きていないという気になる

腰だの足だの
痛むところを順繰りに披露している
隣のおばあさんに
どこからきた 会社が休みかと訊かれた
父の葬式を終えたばかりでというと
んじゃ まだ骨が痛いなといわれ
ほかのおばあさんたちもうなずいている
この地方の
骨折り、のような言い方なのだろうか

湯に浸かっていても温まらない
からだの芯が冷え冷えする
そう言われてみれば
ものすごく骨が痛む気がする

 「そう言われてみれば」が気持ちがいい。とても自然だ。人間は不思議なことに、自分の気持ちがわからない。自分のからだがわからない。自分のことを語ることばは、いつでも自分ではみつけだせない。それは他人がもってきてくれる。
 他人のことばはもちろん他人のことばであって、自分のことばではないから、それがそのまま自分の感じていることになるわけではない。そこに「思う」(想像する)が入ってくる。そうすると、何かが「ずれ」る。
 「骨が痛い」とは、「この地方の/骨折り、のような言い方なのだろうか」。そう思いめぐらしてみると、何気なくつかっていた「骨折り」(苦労)ということばが新しく見えてくる。その「新しい何か」がずれ。
 伊藤が書いているのは、それ。

 そして。

 私は、いつでも、作者が書いていないことを読んでしまう。書いていないのに、それが書かれるはずということを考えてしまう--つまり、「誤読」をするのが大好きなので、ここからちょっと「誤読」してみる。伊藤が書きたかったのは、ふと伊藤をすくってくれた「ずれ」なのだと思うけれど、それはそれとして、ちょっと別なことばで、わたしの感じたことを書きたくなった。
 この詩、父の死を書き、その「骨折り」を書いてる--けれど、こっけいでしょ? なんとなく、笑ってしまうでしょ? おばあさんたちの「大内やおなか」の動きもそうだし、「まだまだ生きていないという気になる」という伊藤の思いもそうだし、なによりも、「そう言われてみれば/ものすごく骨が痛む気がする」の、自分のことなのに、自分のことじゃないみたいな、ぼんやりした感じが「くすくす」という感じを呼び覚ましませんか?
 なぜなんだろう。
 ことばは他人からやってくる--ということと関係があると思う。
 「骨が折れる」は日常的につかっている。そのことばの「骨」には意味がない。「骨が折れる」には意味があるけれど、その「骨」には意味がない。それが、「骨が痛い」といわれると、急に「骨」が意識される。
 そして、そのとき。
 「骨が折れる」というのは、「骨」ではなく、「こころ」の苦労なのだけれど(まあ、肉体的な苦労も含まれはするけれど)、その肝心な「こころ」が一瞬忘れ去られてしまう。「骨が折れる」というのは「こころ」が苦しむではなく、「骨」に負担がかかるということなのだと考え直してしまう。「骨」のまわりに筋肉があって、まあ、からだ全体を動かす。「骨」がいつも中心になって、からだが動く。
 この「中心」ということばを手がかりにすれば、そこから「こころ」までの距離はほとんどないのだけれど……。
 そこまで、いかない。そこへいくちょっと手前で一呼吸休んでみる。
 「笑い」というのは、その一呼吸なんだね。
 何かわからないことがある。ここでは「骨が痛い」がちょっとわからない。それはどういうことだろう、と考える。そのとき、ふっと、いままで考えていたことがずれる。その考えは、つきつめれば、論理として完結するかもしれないけれど、(そして自分のことばになんてしまうかもしれないけれど)、そんなふうになってしまうのは、ある意味では「他人」になってしまうことでもあるので、その手前で、ちょっと立ち止まり、全体を見渡す。そのときに、世界の「すきま」みたいなものがのぞいて見える。
 それが、軽い笑い。ユーモア。
 それによって、伊藤は伊藤自身をほぐしている。それが、疲れたからお風呂でもはいるか……というような感じで休んでいるのがとてもいい。



長嶋南子「眠れ」の作品もユーモアがある。そして長嶋のユーモアは、「他人」がほんとうの「他人」ではなく、長嶋のなかから生まれてくる「他人」によって引き起こされる。

わたしには息子がいないようでも
いるようでもあり
おまえが息子のお面をかぶって
自分の胸をつついているのだろう
と声がする
母が眠れないのはかわいそうといって
針を引き抜き
わたしをほどいて縫い直している
母だと思っていたら
おまえは母の仮面をかぶっているのだろう
なにも縫えないくせに
手元を見ればわかる
と別の声がする
これらのことは
本当は眠っているのに
眠れない夢を見ているのだと
自分に言い聞かせる
眠れよ
わたし

 伊藤の詩では他人のことばが伊藤を動かした。伊藤のこころを解きほぐした。長嶋は、自分のことばで「他人」をつくりだし、その「他人」に語らせている。そして、そこから「対話」している。
 長嶋の笑いの余裕は、そういう自己対話ができるところから生まれている。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社

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志賀直哉「山鳩」

2010-03-14 08:29:30 | その他(音楽、小説etc)
志賀直哉「山鳩」(『志賀直哉小説選 三』岩波書店、昭和62年05月08日発行)

 きのうの志賀直哉を読んだつづき。ついつい、ページをめくってしまった。「山鳩」は書き出しに惹かれた。

 山鳩は姿も好きだが、あの間のぬけた太い啼聲も好きだ。

 ででっぽっぽー、と思わず書いてしまう。カタカナでは、間のぬけた感じがしなくなるからだが、そういう感覚の奥へ深く入り込んでくることばの、短く、剛直な感じがとてもいい。「あの」ということばもいいなあ。山鳩の鳴き声は誰もが知っている。だから「あの」なのだが、「あの」によって、有無を言わさず鳴き声を思い出させる力がある。
 この書き出しの1行だけで、この短編は読む価値があると思うが、最後もまた、とてもおもしろい。
 熱海の山荘は山の中にある。山鳩が2羽で飛んでいるのをよく見る。あるとき、福田蘭童がやってきて、猟をした。獲物は山鳩など、野鳥である。翌日、2羽で飛んでいるはずの山鳩が1羽で飛んでいる。「気忙(きぜわ)しい感じ」で飛んでいる。どうやら福田が撃ち落としたのは志賀が見ていた2羽のうちの1羽らしい。
 次の猟期。

 可恐(こはい)のは地下足袋の福田蘭童で、四五日前に来た時、
 「今年は此辺はやめて貰はうかな」といふと、
 「そんなに気になるなら、残つた方も片づけて上げませうか?」
と笑ひながら云ふ。彼は鳥にとつては、さういふ恐しい男である。

 なんだか笑ってしまうのだが、最後の「恐しい」ということばが、とてもいい。あ、「恐ろしい」ということばはこんなふうに使うんだ、と奇妙に(奇妙に、というのも変だけれど)納得してしまう。
 書き出しの「あの間のぬけた」も同じだが、誰もがつかっていることばなのに、それがぴったりと文章におさまって、動かない。それ以外のことばが考えられない。独特の、ことばの定まり方である。
 志賀直哉は名文家である--というあたりまえのことを、あらためて思った。



志賀直哉小説選〈3〉
志賀 直哉
岩波書店

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小林稔「髀肉之嘆(ひにくのたん)」

2010-03-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 小林稔「髀肉之嘆(ひにくのたん)」(「ヒーメロス」13、2010年03月05日発行)

 小林稔「髀肉之嘆」のことばには「既視感」がある。

私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。

私が読み耽る書物は乱丁ばかりであった。

私の歩みは追憶に過ぎぬのであれば足跡と呼びうるものをうしろ向きに消していくことであろう。

 技巧的な短編小説にでてきそうなことばばかりである。
 でも、この既視感は、この作品の場合、欠点ではなく、長所となっている。
 タイトルの「髀肉之嘆」は「故事」。戦場に行けない日々がつづいて、ももの肉がついて太ってしまうことを嘆くこと。小林は、その「故事」をいわば語りなおしている。独自の「物語」を重ね合わせることで、換骨奪胎という語り直しをやっている。
 そういう「既成の物語(故事)」へむけて、ことばを動かすときのことばは、「新しい」ものであるより、「聞いたことがある」方がいい。「聞いたことのあることば」の方が「うそ」というか、「故事」というか、つまり「いま」「ここ」にあることではないということが明確になるからだ。(「うそ」とは「いま」「ここ」にないことを語ることばである。そして、「故事」とは「いま」「ここ」ではないできごとである。「いま」「ここ」にはない、ということでいえば「うそ」と「故事」は重なり合う。)
 「新しいことば」では、それが「うそ」か「ほんとう」かわからない。安心できない。「うそ」か「ほんとう」かわからないということは、「故事」が「故事」でなくなってしまうということである。そこで語られることが、新しい「事件」(できごと)になってしまうことである。「新しさ」、「新しい生々しさ」が、読者を(私を)、「新しい物語」へひっぱっていく。「物語」はそのとき「故事」ではなくなる。それでは、わざわざ「故事」を冒頭にかかげる必要はない。

 「故事」には新しくないことばが必要なのだ。

 でも、もし、そうであるなら、なぜ、この作品は書かれなければならないのか。この作品が「詩」である理由は何なのか。新しいことばがまったくない作品、既視感のあることばをただ積み重ねるだけの作品が詩になりうるのか。

 実は、ひとつ、「新しいことば」がひそんでいる。小林は一回だけ書いている。

 遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。

 「思う」。これが、新しい。そして、その「思う」が小林の「肉体」であり、「思想」である。
 なぜ、「思う」が思想なのか。
 少し脱線してみる。
 日本の昔話の、はじまりの定型。「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」これは、いわば「うそ」のはじまりである。「いま」「ここ」とは関係ないことの「はじまり」のことばである。これから語られるのは「いま」「ここ」とは関係ないこと、つまり「うそ」がはじまります、と宣言することばである。
 もし、これに「思う」がついていたら、どうなるだろう。
 「昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいたように思う。」
 とたんに「うそ」が消えてしまう。
 そのあと、どんな「物語」がはじまろうが、それは、常に「思う」をひきずってしまう。どんなに奇想天外のことが起きようが、それは「思ったもの」(思われたことがら)である。
 そして、そこには、「思う」という「真実」だけがある。
 これは「故事」についても同じである。小林はこの作品で、戦場に行かないために、ももの肉が肥えてしまったことを嘆くという「故事」を語りなおしているのだが、それに「思う」を追加した瞬間から、そこに書かれていることがらではなく、ただ「思う」ということばだけが存在するのだ。

 「思う」ことだけが、人間の存在意義なのだ。

 「思う」ということばを印象づけるために、小林は、あえて既視感のあることばを書きつらねるのだ。「思う」は一回しか登場しないが、それは、小林があえてそうしているのである。ほんとうは、あらゆることばの最後に「思う」が存在しているが、そのことに気がついているか、と小林は問いかけているのかもしれない。
 「思う」というこころの動き--それは「真実」としてゆるぎがない。小林の書きたいのはそれなのである。「思う」ことのゆるぎなさ。「我思う、ゆえに我あり」とは小林のためのことばかもしれない。
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蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」

2010-03-13 19:31:41 | その他(音楽、小説etc)
蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」(読売新聞2010年03月13日夕刊)

 蜂飼耳「偶然という奇跡の瞬間」は、志賀直哉の小説を紹介している。志賀直哉が飼っていたクマという犬が失踪した時のことを書いた作品の一部が要約され、引用されている。

 直角に交わる十字路を、バスは西から東へ。クマは南から北へ。その瞬間、クマに気づいたのは奇跡的なことだった。気づいて、娘が「クマだ」と叫ぶまでは、わずか三秒ほど。「十字路での三秒のチャンスは偶然というにしてはあまりに偶然すぎる。私は次のような計算をしてみた。一日が八万六千四百秒、一週間は六十万四千八百秒。それを私達がクマの発見に費やした三秒で割ってみると二十万千六百。つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」

 最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。ほんとうに志賀直哉は小説の神様? うそでしょ。いやいや、ほんもの。
 志賀直哉は、クマをみつけた偶然が信じられない。実感がない。だから、その実感を作りだそうとして、必死になってもがいている。どんなふうにすれば、自分が「奇跡」と感じたことが、読者に「奇跡」と実感してもらえるか、それを探して書いた文章なのだ。
 自分の実感だけなら、「奇跡」という実感なら、そんな計算をしなくたって分かる。
 私は志賀直哉をほとんど知らないが、あ、志賀直哉は読者のことを考えながらことばを動かしていたんだ、と、この文章で直感した。そして、急に、この小説が読みたくなった。家に全集があるはずだ。「選集」だったかもしれない。「選集」なら、小説が含まれていないかもしれない。ないと、残念だな・・・。
 (あ、私は、出先で書いているんです。)
 
 ひとつだけ文句(?)をいうと。
 「三秒」。うーん、いまのバスと志賀直哉の時代のバスはスピードが違うから何とも言えないけれど、犬がクマだと気付くまでに三秒、というのが私にはよく分からない。私なら、0・3秒くらいかな。三秒は長すぎるよ。犬を飼っているものの実感としては。自分で飼っていなくても、知っている犬なら1秒はかからない。識別するのに。
 昔はきっと秒の感覚というものを志賀直哉をはじめ、読者も持っていなかっただろうな。ほんとうに短い時間、あっ、という間もない、が三秒なんだろうな、当時は。そういう感じ、自分の実感を分かりやすくするための数字――と思って読むと、ちょっとおもしろいね。

*

             (ここから先は、14日0時すぎに書き加えたものです。)

 蜂飼の引いている「盲亀浮木」を読んでみて、ちょっと驚いた。(家に帰って、本を探して読んでみた。岩波の『小説選 三』に収録されていた。)
 最後の計算の文章――こういう文章は私は本来好きではない。「頭」で書くな、といいたくなる。--と、私は書いたのだが、その文章はそこでは終わっていなかった。志賀直哉はデジタルな計算だけで、文章を終えていなかった。「つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」につづけて、次のように書いている。

妙な例かもしれないが、一円玉を二十万六千八百個置いて、それから、その一つを選び出せといはれても、それは全く不可能だらう。ところがさういふことが実際に起こつたのだ。

 あ、この例はいいなあ。私は何度か1万角形と9999角形はことばでは識別できるけれど、目ではできないという例を出してきたけれど、志賀直哉の出している例は、それに似ている。
 こんなふうに「肉体」が絡んでくる例だと、そこには「頭」のうさんくささがない。それがいい。「偶然」「軌跡」が「頭」で把握されたものではなく、「肉体」で把握されたものであることがわかる。
 数学の計算をやりながら、志賀直哉自身、その計算だけでは、うさんくささが残ると思ったのかもしれない。

 でも、蜂飼は、なぜ、一円玉の例の部分を省略してしまったのだろう。なくてもいいと思ったのかな? なくても、たしかに志賀直哉の書いていることは、その「意味」というか「論理」はわかるのだけれど、何か、ちょっと違うね。
 私の、それこそ直感なのだけれど、志賀直哉は「偶然」というものを文章化するにあたって、秒の「計算」よりも一円玉の例の方を書きたかったのだ思う。計算だけでは満足できなくて、一円玉の例を持ち出すことで、やっと安心したのだと思う。
 書きたいことが書けた--と思ったと思う。

 こういう部分って、好きだなあ。
 志賀直哉を読み直している時間はないのだけれど(もっと読みたいものがあるので……)、あ、でも志賀直哉を読み直そうかなあ、などとも思い、こころが揺れ動いてしまう。




志賀直哉 [ちくま日本文学021]
志賀 直哉
筑摩書房

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イ・チュンニョル監督「牛の鈴音」(★★★★)

2010-03-13 10:36:11 | 映画


監督・脚本・編集:イ・チュンニョル 出演 牛(40歳)、チェ・ウォンギュン、イ・サムスン

 おじいさんと牛の表情に引きつけられる。動きに引きつけられる。おじいさんは79歳。牛は40歳。ともに、ゆっくりゆっくり動く。ぎごちないが、ともかく自力で動く。いや、働く。義務として。働かないと、生きていけないから……というのは、ちょっと違うなあ。つらいけれど、働くことが好きなのだ。働いていると、いっしょにいることができる。それが好きなのだ。たとえば、畑を耕す。田んぼを耕す。牛に鋤をひかせる。そのとき、ふたり(ひとりと一頭だけれど、ふたりといってしまおう)を邪魔するものはだれもいない。雨が降ったって同じだ。ふたりで雨合羽を着て、ただ黙々と前へ進む。その一歩一歩は、なにより、いま、ここに、いっしょにいる喜びなのだ。
 それは「生きている」よろこびと言い換えてもいいかもしれないけれど、私は、言い換えたくない。「生きているよろこび」いってしまうと、それはうさんくさい「哲学」になってしまう。「哲学」なんて、いらない。ただいっしょにいる。そのことがうれしい。
 それも、「他人」といっしょにいる、ということが。
 「他人」というものは、絶対的にちがった存在のことである。人間と牛だから、ことばは通じない。まったくちがった生き物である。そのまったくちがったものが、ちがったままいっしょにいる。そのとき、そこには「特別」な何かが生まれている。その「何か」をことばなんかにはしない。ことばは、つうじないからね。それが、うれしい。いっしょにいると、ことばをつかわないのに、何かが通じる。それがうれしい。その瞬間が大好きである。
 これは、ふたりとともにいるおばあさんを組み合わせるととてもはっきりする。おばあさんとおじいさんは、ことばをしゃべる。ことばは通じている。けれど、それはいつもおどはあさんから、おじいさんへの苦情ばっかり。文句ばっかり。このおばあさんの苦情、文句、怒りが、なんといえばいいのだろう、一種の「嫉妬」のように、スクリーンをいきいきさせる。おばあさんが、怒りをぶつければぶつけるほど、牛とおじいさんの親密な関係が深まっていく。だれにも邪魔されない、大切なものになっていく。
 牛にも、おじいさんにも、言いたいことがあるかもしれない。文句もあるかもしれない。でも、それは、いわなくてもわかるね。畑を耕す、田んぼを耕す。思い荷物を運ぶ。あ、ここが越えられない。この石一個が邪魔している。それを感じながら、体をゆっくり動かす。邪魔しているものを、そっと抱き込むようにして、乗り越える。そのとき、「肉体」が一致する。ひとつになる。そのとき、いっしょにいるよろこびが高まる。
 もちろん、「ことば」が通じるときもある。「ことば」をかわすときもある。牛が、顔がかゆくてこまっている。棒に顔をこすりつけながら、小さな声を漏らす。おじいさんはそれを聞き取ると、さっと身を起こし、牛に近づき、ブラシで顔の毛をすいてやる。汚れをとってやる。牛が、うれしそうな顔をする。いいねえ。
 ほかにも美しいシーンがいろいろあるが、私が息をのんだのは、おじいさんと牛の足をローアングル。牛と並んでおじいさんが歩いている。それを牛の手前から撮っている。ふたりの顔は見えない。ただ足だけが動いている。それが二人三脚のようにシンクロする。声をかけるのでもなく、ただ歩いているだけなのだが、動きが一致する。
 同じ時間を生きてきて、ほんとうに肉体がひとつになっているのだ。何もいわなくても同じ歩幅で歩いてしまうのだ。これは、いっしょにいるから生まれる美しさなのだ。無意識の美しさだ。
 この無意識の美しさ(牛の声を聴いて、顔をすいてやるのも、おじいさんにとっては無意識である。だからこそ、おばあさんは「嫉妬」する)が、自然の美しさと重なるとき、とてもいい気持ちになる。
 おじいさんと牛のいる村(?)の木々の緑や草の緑がとても美しい。その緑は、毎年毎年繰り返される緑である。毎年毎年生まれる緑である。その、毎年毎年の繰り返し、毎年毎年の生まれ変わり--それが、ふたりにもあるのだ。ふたりはともに「年寄り」である。年を重ねてきている。けれど、ふたりとも年をとってはいない。毎年毎年生まれ変わっている。毎日毎日生まれ変わっている。毎日生まれ変わって、その日にできることをするだけだ。その仕事は他人から見ると繰り返しだけれど、ふたりには繰り返しではない。「よろこび」には繰り返しというものはないのだ。
 ふたりの体は外見は、骨と皮だけの、いわば醜いものだけれど、そういう「老いて」いくものの一方、けっして「老いて」はゆかないものがある。毎日のよろこびがある。それが、ふたりの「老い」を突き破って、瞬間瞬間に輝く。だから、美しい。

 そんな美しい世界にも死はやってくる。別れはやってくる。それが悲しく、切ないね。
 途中、牛を大事にするおじいさんが、村人にからかわれる。「そんなに牛を大事にして、牛が死んでしまったら、どうやって生きていく?」「牛が死んだら、喪主は私だ」おじいさんが笑いながら答えている。それは冗談ではなくて、ほんとうの気持ちなのだ。
 実際に、牛の最期を見取って、牛を山の畑(空き地)に埋めるまで、この映画はきちんと取りきっている。
 それまでの過程にも、感情移入してしまうシーンがいくつもある。一度は、もう育てられないから牛を売ってしまおうとする。それを察知してか、いつもはゆっくりゆっくりとではあるけれど歩く牛が、牛舎からでることさえ嫌がる。市場へ歩いていく途中で止まってしまう。市場では牛が買いたたかれようとする。おじいさんはそれが嫌で高値をつける。牛は売れ残る。そのとき、牛が涙を流す。安心の涙だ。
 いよいよ最期。その前に、おじいさんは手製の鼻輪を外してやる。首につけいてた鈴を外してやる。そのときの寂しさを、無念さを確認するようにして牛が眼を閉じる。ああ、そのとき、牛が見たものは何だったのだろう。おじいさんの顔だろうか。おじいさんがこらえている涙だったろうか。ありがとう、と動いた唇だったろうか。
 スクリーンに映し出されなかったシーンが、くっきりと眼にみえる。それから、涙で見えなくなる。
 (見るときは、ハンカチを余分にもっていってくださいね。)
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谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

2010-03-13 00:00:00 | 詩集
谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

 「父の死」の最終連。風呂場で、谷川は父を思い出す。生きていたときの父を思い出し、生きていたことを思い出すことで、父が死んだということを思い出す。そこでは死と生はかたく結びついている。色即是空。空即是色。生即是死。死即是生。その結びつきが「正直」である。ことばのなかで、谷川は「正直」になってしまう。そこではすべては区別がない。風呂場で、あの手ぬぐいかけは遠くて不便だと思ったのは、谷川であり、同時に父でもある。谷川がそれを近くに移さなければ、と思ったということは、父もまたそう思ったに違いない。「いのち」の現場では、だれかが思うことはだれでもが思うことなのだ。死んでしまった父は、谷川に向かって、やっとそのこと、手ぬぐいかけを近くに移さなければ……ということに気がついたか、と笑っているのかもしれない。そういう視線を感じて、谷川は泣いたのだ。
 「もの」は外部からやってこない。「世界」からやってこない。「もの」は「ことば」のなかにすでに「いる」。「ある」ではなく「いる」。そして、それは「ことば」となって「世界」と交渉し、「世界」のなかへ「生まれ出る」。
 「ことば」のなかに「いる」ものは、実は「死んでいる」。つまり、いま「世界」から見捨てられ、「ことば」にならずに、「ことば」以前として「いる」にすぎない。それが動いて、死を突き破って、生まれ、「世界」になる。

いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「わかんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ

 この部分は不思議だ。大好きだ。こころが震えてしまう。
 「私」は「子ども」に何か聞こうとしている。表面上は、そう読むことができる。けれど、私には、「私」が「私」の外にいる「子ども」に対して質問しているようにはみえない。感じられない。「子ども」は「わかんない」と答えない。「わかんない」と答えているのは「私」のなかに「いる」、「私という子ども」なのだ。
 そして、その「私のなかにいる子ども」とは「気持ち」である。
 「子ども」は何も答えない。けれど「気持ち」がつたわってくる、というのは、そういうことだと思う。「気持ち」がよみがえり、「気持ち」が生まれてくる。

 いま、私は、偶然のようにして「よみがえり」と書いてしまったのだけれど、それは「黄泉帰り」ということかもしれない。
 大人になった「私」にとって、「子ども」の「気持ち」は死んでしまっている。死んだ形で「私」のなかに「いる」。それが「黄泉帰る」。「黄泉」(死の世界)から帰ってくる。
 「よみがえり」(黄泉帰り)のなかには、生と死が、一つになっている。
 ここにも生即是死、死即是生、という運動がある。
 そういう運動のなかでは、「か細く」は「太い」よりもはるかに強い。なぜか。「細い」の「小ささ」こそが「一」だからである。「か細く」は「細く」よりもっと「細い」。それは無限に「一」、小さい「一」に近い。その無限に近い「一」からすべてが始まる。それが無限に小さい「一」であればあるほど、それは「多」になる。

 「わかんない」は何も持っていない。だからこそ、すべてを持っている。そこから、すべてが誕生する。そこから、すべてがよみがえる。「わかんない」は、一瞬、すべての関係を切り離す。「無」になる。「空」になる。だからこそ、そこにすべての「色」がある。すべての「色」がよみがえり、具体的になるための、何かがある。

 どこを切り取っても同じことが起きる。同じことを私は書いてしまうだろう。たとえば、

むかしバイオリニストの恋人がいた
あのあと目の前で弾いてくれた 素裸で
細くくねるバイオリンの音と彼女の匂いが
いっしょくたになって皮膚に沁みこんだ

 「バイオリンの音」と「彼女の匂い」が「いっしょくたにな(る)」。聴覚と嗅覚が「いっしょくたにな(る)」。「いっしょくたになって」区別が「わかんない」。はっきり区別されるべきものが「一」になる。「一」になって、そこから「多」にかわっていく。そういうことが、あらゆる瞬間に起きる。いや、「よみがえる」。
 それは、すべて谷川のことばのなかで起きる。谷川のことばのなかに「いる」もの、「いたもの(死んだもの)」がよみがえるのだ。
 そして、そこに「世界」が誕生する。
 いま引用した「バイオリニスト」の思い出は、思い出であるのに、過去ではなく「いま」そこに、そのままある、生きて「いる」ものとして見えるのは、それが「生まれている」からだ。「よみがえり」、そして「生まれる」。
 谷川が、この詩で書いているのは、そういう不思議な、矛盾した、だからこそ切実な運動である。



 きりがない。きりがないけれど、きりをつけるために、書いておこう。この詩は最後に、不思議で不思議で不思議でしようがない行をもっている。

見えない糸のように旋律が縫い合わせていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるのか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない

 「音楽」って何? たとえば、モーツァルトの曲? ベートーベンの曲のようなもの? いや、違う。この連に先立って、「音楽」ということばが出てくる部分がある。

遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れこんでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある

 それは、いわゆる音楽ではない。旋律とリズムをもったものではない。いや、旋律とリズムはあるかもしれないが、楽器で演奏できるものではない。楽譜によって表現できるものではない。
 それは「ことば」なのだ。それも「生まれる以前のことば」。「ことば」になる前のことば。「ことば」になる前だから、それは「ことば」ではない。けれど「ことば」。
 この矛盾。
 それが色即是空。空即是色。
 それは「ことば」のなかに「ある」のではなく、谷川の場合、「ことば」のなかに「いる」。そして、それは「よみがえる」。死にながら、その死をもう一度死んで、よみがえることば。
 「父の死」の最後の連、風呂場での谷川と父との対話に似ている。死んでしまった父が、その死を死んで、手ぬぐいについて思っていたことがよみがえる。谷川のことばとしてよみがえる。そんな感じの「和解」。
 「徹三」即是「俊太郎」、「俊太郎」即是「徹三」--こういう表現は、谷川にとって気持ちがいいものではないかもしれない。そうわかっているが、私は書いてしまう。「徹三」はたまたま「父」だけれど、それは「徹三」だけではないのだ。すべての「いのち」なのだ。

 「臨死」ということばがこの詩のタイトルにあるが、谷川は、ほんとうに「死」というものを知ってしまったのかもしれない。それはもちろん「わかんない」ものなのだが、その「わかんない」ということを、完全に知ってしまったのかもしれない。
 「わかんない」という「場」(時?)において、色即是空、空即是色、一即是多、多即是一、生即是死、死即是生という運動が起きる。そして、それは、ことばとして生まれ、ことばが世界になる。

 どこからか、ことばが聞こえてくる。そして、そのことばに導かれて歩いていくとき、谷川はことばになる。
 こんな定義にならないような、おなじことばの繰り返し--そういう繰り返しと矛盾でしか語れない何かに谷川は触れている。
 そんなことを感じた。    
                     

トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社

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谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(2)

2010-03-12 00:00:00 | 詩集
谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(2)

 谷川俊太郎「臨死船」(『トロムソコラージュ』新潮社、2009年05月30日発行)は不思議な詩である。
 きのう私は「父の死」について書いた。最後に、その最終連を引用した。それは生きている谷川が、死んだ父を、つまり生きていたころの父を思い出す詩であった。生きているころの父を思い出し、父が死んだのだと気がつき、泣くのだが、それは夢なので、ほんとうに泣いたのか、夢の中で泣いたのか分からなくなる。--そういう作品であった。
 「臨死船」を読んだとき、突然、その最後の連を思い出したのだ。そして、「あ、臨死船、谷川俊太郎が父になって、父から谷川を見ているのだ」と思った。
 「臨死船」そのものは、谷川の「臨死体験」(ほんとうにあったのかなあ……)を書いているのだから、谷川徹三が谷川を見ている、というのは変な言い方なのだが、「父の死」の最終連の、風呂場--その風呂場で会った死んだはずの父と谷川のやりとり、やりとりとはいえないほどの短い会話だけれど、それを谷川徹三の方から描きなおせば「臨死船」になる。そう思った。そして、谷川は、この作品では「父」になってしまっている、「父」の視点から、世界を見ていると感じた。(具体的に見ていくと違うのだけれど、読んだときの印象、私のこころの中では、そういう変化が起きている。)
 谷川俊太郎と谷川徹三は別人なのだけれど、この詩のなかで、静に、不思議な形で「和解」していると感じた。谷川は父が死んだということを、20年たって、いま(といっても、2009年だけれど)、受け入れ、納得し、そうすることで、「死」と「ひとつ」になっている、そう感じた。

 そして。

 この「父の死」と「臨死」の間には、とてつもない大きな隔たりがあると感じてもいる。「ひとつ」になっているにもかかわらず、大きな隔たりがある、というのは矛盾だけれど、矛盾したことばでしか語れないことがある。それを感じている。
 書かれている内容が逆--ということではなく、そのことばが、なんだか大きく変わっている、隔たっていると感じてしまう。
 そして、その隔たりがあるからこそ、谷川と、父の死との「和解」が起きているとも感じるのかもしれない。
 それをどう言っていいのか、実は、私はわからない。まあ、いつでも私は何もわからずに、ことばが動いていく方向へただ動いていくだけなのだけれど。
 まあ、書いてみよう。どうなるかわからないけれど。

 「父の死」について書いたきのう、私は「正直」ということばをつかった。谷川の「正直」をとおって、すべてのものがあらわれる。谷川の「正直」が「父の死」と向き合うとき、「正直」と「父の死」が「ひとつ」になり、そこをとおってくるものはすべて「ひとつ」である。「多」であるけれど、「ひとつ」である。一即是多。多即是一。
 このとき、というか、「父の死」を読むとき、私は、多くの「もの」が「父の死」をとおって、「いま」「ここ」にあらわれてくる。そして、そのあらわれてきた多くの「もの」を谷川がことばでつかまえている、というふうに感じていた。世界が、谷川のことばのなかで「ひとつ」になる。
 色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。
 それを、谷川の「正直」なことばが、つかまえている、と感じていた。谷川のことばが「正直」であるがゆえに、「いま」「ここ」にあらわれてくる色即是空。空則是色。一即是多。多即是一。そのすべてをとらえることができる、と感じた。

 「臨死船」では、そういう印象ではないのである。
 逆なのだ。
 逆というのは、きっと正しい言い方ではないのだけれど。

 「もの」が「いま」「ここ」にあらわれて、それを谷川のことばがつかまえる、ではなく、「もの」が谷川の「ことば」のなかにあらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえている。谷川の「ことば」を、「いま」「ここ」という「現実」が「現像」し、「定着」させている--という感じ。
 谷川の家に、「人」や「弔電」や「花篭」や「別居している妻」や「諏訪の男」や「天皇からのあれこれ」がやって「来た」ように、いま、谷川の「ことば」に、いろんな「もの」がやって「来て」、それが谷川の「ことば」を動かしている。そして、その「もの」がやってくる「出発点」が、「ことば」の外にあるのではなく、「ことば」の内部にあるのだ。「来る(来た)」とは違う何かがあるのだ。「もの」は「ことば」の内部にある。そして、それが谷川の「正直」に作用している。

 谷川の「正直」が「ことば」を動かしているのではなく、「もの」の「正直」が谷川の「ことば」を動かしている。
 それは、もしかすると、谷川が「もの」の「正直」という次元に到達したということかもしれない--と書いて、あ、これはなんだか想像を絶するすごいことを書いてしまったなあ、とちょっと怖くなった。
 谷川のことばは「正直」である、まではいいけれど、谷川は「もの」としての「正直」に到達しているって、まるで「ほとけ様」ではないか。「もの」の「正直」というのは「人間」であることを超越して、「いま」「ここ」に存在するすべてである、ということなのだから。

 具体的に、詩のことば、そのものに、触れてみる。そこから、私が感じたことを、もう一度言いなおしてみる。

知らぬ間にあの世行きの連絡船に乗っていた
けっこう混みあっている
年寄りが多いが若い者もいる
驚いたことにちらほら赤ん坊もいる
連れがいなくてひとり者がほとんどだが
中にはおびえたように身を寄せ合った男女もいる

 「父の死」のキーワードは、「来た」にあったかもしれない。すべてが「来た」。それに対して「臨死船」では「来た」ではなく「いる」。
 「父の死」では、すべての「もの」は「来た」。そして、それを谷川はことばにした。けれど、「臨死船」では、すべての「もの」はことばのなかに「いる」。そして、それが「いま」「ここ」に「あらわれる」。先に私は、谷川の「ことば」に「もの」があらわれて、それを「いま」「ここ」がつかまえると書いたけれど、正確には、「ことば」の世界にすでに存在して「いる」ものだけが、その奥底からことばの「表面」にあらわれてきて、それが「いま」「ここ」という現実と接触し、「いま」「ここ」という現実のなかに定着していくということなのだ。
 谷川の「ことば」のなかに「いる」ものが、「ことば」となることで、この世に生まれ、この世をつくっていく。その、この世には、「死」も含まれる。(あ、だから、この詩を「父の死」そのもの、谷川徹三が谷川俊太郎を見ている、と感じたのかな?)

 すべては「いる」。谷川のことばのなかに「いる」。「ある」ではなく、「いる」のである。「いる」というのは、「ある」とは違って、「生きている」ということである。「もの」なのだけれど、命を欠いた「物質」ではなく、「いのち」として生きて「いる」。その「いのち」が「臨死」という危機に出会って、「生きています」と声を上げているのだ。そして、生まれるのだ。「臨死」と谷川は書いているが、これはもしかすると「臨生」かもしれない。
 この詩では、あらゆるものが、「私には命がある、生きている」と叫んでいる。谷川の「ことば」のなかから、すべてが「ことば」そのものになろうとして、表へ出てこようとしているのだ。
 それは、あるときは「年寄り」、あるときは「若者」、そして「赤ん坊」だったり、男だったり、女だったりする。それは谷川という人間の中の、複数の(多としての)「ひとり」であり、その「ひとり」がさまざまに「いのち」をかえながら、生きている。生きているから、外へ出ていこうとしている。
 そして、これは、「外から」(?)の働きかけがあったときも、なぜか、「外」そのものではないのだ。

おや どこからか声が聞こえてきた
「おとうさん おとうさん」と言っている。
どうやら泣いているようだ
聞き覚えのある声だと思ったら女房の声だった
なんだか妙に色っぽい
抱きたくなってきた もうカラダは無いはずなのに

 この声は、「父の死」のときのように、「外」からやって来たものである。「聞こえてきた」の「きた」はそのことをはっきり証明している。
 それなのに、一度その声を聞いてしまったら、それからあと、そこに起きることは「外」のことではなく、谷川の「内部」のことになる。谷川の内部にあるものだけが、それにあわせて動く。谷川の「内部」に生きている「女房」の声になって、谷川に呼びかけている。谷川の「内部」にある「色っぽい」記憶、思い出の声になって、呼びかけている。
 そして、谷川の「内部」がかわる。「抱きたくなった」という変化が起きる。
 「女房」といっしょに、谷川の「欲望」が生まれる。「臨死」なのに、「臨生」となって、死んでいたはずの「抱きたい」というこころが生まれてきてしまう。
 「死んでいる」のに「生きている」に「なる」。
 それは「区別」がなくなる、ということかもしれない。
 「父の死」では、外からやって「来た」いくつもの「もの」の区別がなくなった。やって来たすべての多は一つになった。それは「いま」「ここ」という谷川の「外部」で「一」に「なる」。
 けれども、「臨死船」では、その「一」は谷川の「内部」なのである。「臨死」ではなく「臨生」を経て、「一」は「多」になって、「ことば」として生まれてしまう。その「ことば」は、「もの」のような「正直」さを持っている。気持ち、こころのない「正直」を持っている。気持ち、こころがないというのは、もちろん、逆説である。それは、まだ存在しないものだから(ことばとなって定着しない何かなので)、「ない」としか言えないものなのだ。
 そういう「正直」がここにある。
                         (つづく、かもしれない。)




トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社

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金堀則夫「ひめくり」

2010-03-11 16:14:26 | 詩(雑誌・同人誌)
金堀則夫「ひめくり」(「石の森」154、2010年03月01日発行)

 金堀則夫「ひめくり」は「日めくり暦」によせて書かれた詩である。

きょうのひも
つぎのひも そのつぎのひも
にちじょうがある わたしがある
めくる手は
空爆か
空白か
空気がめくれない
地球をひっくりかえす
手もない
わたしのにちじょう
あのひとたちとのひびがつづくなら
こわかったり むごかったり
わたしのひはつづかない
つづかないから ひとがめくっていく
そしていつまでもひはつづいていく

 ひらがなと漢字が交錯して、私は「誤読」する。「くうばくか/くうはくか/くうきが」めくれない。なにかが「いま」「ここ」にあるものの奥でつながっている。その不思議な印象が、ひらがなだけで書かれた時よりも、強くなる。漢字を「見る」ことが、「音」を覚醒させる。そして、その覚醒が、見えなくてもいいものまで浮かび上がらせる。
 「あのひとたちとのひびがつづくなら」は漢字交じりで書けば

あのひとたちとの日々がつづくなら

 となるのだろうけれど、私は、何度も何度も、

あのひとたちとの罅(ヒビ=亀裂)がつづくなら

 と読んでしまうのだ。「空爆」「空白」「空気」は、ひととひとの「ヒビ(亀裂)」である。それは大きい時戦争になり、空爆がある。関係が途絶え、関係の「空白」がある。あるいは、そこまでいかないまでも「空気の読めない」という印象がのこる冷めた感じ・・・。「日々」が「ヒビ」にすりかわって、「日」と「日」の間の、その「ヒビ」から何かが漏れる、こぼれる。
 でも、「日めくり」をめくる「手」がどこかにあって、「日」は生まれ変わりながらつづいていく――という事実(?)のなかで、その印象はどんどん強くなる。「日」が増える(?)というか、そういう「日」が積み重なり、「日」が「月」になり、「年」になるとき、「ヒビ」は増幅する。拡大する。

わたしのまえにある ひは
ひでない ひ
めくれていない すぎていない
にちじょうがある
 
 続いていくカレンダーのなかの「日」。すぎていく「日」その「日」と「日」のなかに、日常がある。ひととの付き合い、交流がある。日常には「ひと(人)」が隠れている。「日と日」は「人・日」である。「ひと」がいるから「ヒビ」も生まれる。
 さらに。
 私は、さらに「誤読」する。
 「日とひ」は「日・問ひ(とひ)」でもある。「日々の問い」それが「日常」。常の、つまり、かわることのない「日」。「日」の「問い掛け」。問いとしての、詩――それが、この作品を動かしている。






かななのほいさ―詩集
金堀 則夫
土曜美術社出版販売

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