詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神山倫『こころえ』

2010-03-24 00:00:00 | 詩集
神山倫『こころえ』(ミッドナイト・プレス、2009年06月25日発行)

 「二つの円」という短い作品がある。

二つの円を
重ねると
多少のズレができる

このズレは
「孤独」じゃなくて
「あたたかさ」なんだ

完全な一致なんて
「無」に等しいだろう

 神山の「主張」が凝縮している。3連目の2行は、神山がいいたいことのすべてだろう。でも、私は、この2行を「思想」とは思わない。感じない。抽象的すぎて、「肉体」がない。
 けれども、私はこの作品に「思想」を感じる。あ、いいなあ、と思う。
 それは、この詩には不思議な部分があるからだ。たとえば、1連目。
 なぜ、二つの円を重ねるとズレができる? 半径10センチに設定されて、コンパスで描かれた円。それはいくつ重ねようとズレない。それが、だれの書いた円でもぴったり一致する。そうしないと「半径10センチの円」にはならない。また、たとえばパソコンのなかに半径10センチのハードディスクがあったとする。それは同じ機種のパソコンなら寸分の狂いなく半径10センチのハードディスクである。少しでもズレがあったら困ってしまう。
 --と、書いてくるとわかるのだが、神山がここで書いているのは、数学の素材としての「円」ではない。教科書に出てくる円ではない。また、工業製品の設計図に出で来る円、それが商品化された円でもない。それは人間が書いた円、しかも手で書いた円である。ここには「手で描いた」ということが書いてないけれど、それが書かれていないのは、神山にとっては、あらゆる存在は「人間の肉体」をとうしてそこに存在するということが自明のことだからである。神山にはそのことがわかっている。わかりすぎているので、書かなかった。こういう、作者自身の「肉体」にしみついて、「肉体」になってしまっている「ことば」はけっして書かれることがない。作者にとって、それは「ことば」ではなく「肉体」だから、「ことば」として書くことができないのだ。(書くことがあるとすれば、そのことばを差し挟まないと、どうにも説明が不可能なときである。)
 神山が描いているのは「人間が手で描いた円」である。だからこそ、2連目には、その「人間」の「こころ」が登場する。神山が描いた円をなぞるようにして、誰か(たとえば私)が円を描く。そこにはどうしてもズレが出る。神山の肉体の癖と、私の肉体の癖は違うから、完全に一致することはない。そうしたすれ違い、一致しない部分を「孤独」じゃない、とまず、神山は言う。このときから、神山は「円」を「比喩」(あるいは象徴)として語っている。「円」のかわりに、たとえばある本の感想を語り合う。あるできごとについて語り合う。そうすると、神山と私の感想は何かちがったものを含んでいて、そこが重ならない。ときには、そのズレから会話が弾まなくなるどころか、怒りが爆発することがあるかもしれない。そうすると、何か「孤独」のようなものを感じる。自分の感じていることがわかってもらえない寂しさ。こんなふうに感じ、考えるのは私だけなんだという寂しさが生まれるときがある。
 でも、それは「孤独」じゃないんですよ。「あたたかさ」なんだよ、と神山は言う。
 え、どうして? ひとと意見が合わなかったり、ときには喧嘩までしてしまう。ひとと一致しないことがなぜ「あたたかさ」?
 わからないね。
 その説明を、神山は3連目で、完全に一致すると「無」になる、と抽象的に書いているだけである。
 そして、抽象的にしか書けなかったことを、実は、神山は他の試作品で少しずつ語っている。手書きの「円」のズレが少しずつであるのと同じように、具体的なことは少しずつしか語れない。
 どんなふうにして、それを語るか。要約してしまうと、ちょっと味気なくなるかもしれないけれど、ひとが感じる「孤独」、その「孤独」を感じることができる力(肉体)こそが「あたたかさ」のはじまり、誰かにそっと触れはじめるはじまり、触れると、ほら「手から」相手のあたたかさが伝わってくる。そのとき、「わたし」のあたたかさも、きっと相手につたわる……。
 そういうことの繰り返し。
 誰かが円を手書きする。それに合わせて別なひとが円を手書きする。そのズレ。ズレをズレとして認めて(誰かと私はちがった存在である、それぞれに「孤立」している、と認識して)、そこからそのズレそのものへそっとは近づいていく。そうすると、そこに「あたたかさ」が生まれてくる。ズレそのものはあたたかくはないけれど、あたたかさが生まれる「場」なのだ。
 「貼り紙」という作品では、そのことが行方不明になった老人、それをさがす家族を描くことで書かれている。
 「おじいさんをさがしています」という貼り紙を神山は見つける。読む。それは最初の「円」。猫や犬でもないのに、こんな貼り紙ははじめて、と思う神山。そこに、もうすでに「円」のズレがある。やがて、貼り紙は破れ、神山はおじいさんのことを忘れる。ズレは大きくなる。そして、

しばらくたって
貼り紙が新しくなっていた。
《警察から遺体の身元確認の連絡がきました》
と書いてある。
となり町の歩道橋に倒れていたという。
おじいちゃんと悲しい対面になりましたが
家族としては結果がわかりほっとしています、
貼り紙を見て心配してくださった方たちには
たいへん感謝しております、
と書かれている。

 新しい「円」が、また書かれた。それは最初の「円」に重ね書きされたものだけれど、はげしいズレがある。そして、そのズレのなかに「孤独」(かなしみ)があると同時に、家族の「あたたかさ」(くやしさも)がある。貼り紙を読んでくれたひと、心配してくれたひとがいると想像し、感謝するこころ(あたたかさ)がある。
 この新しい「円」に神山は、また「円」を自分自身で書いてみる。

わたしは急に申し訳ない気持ちで一杯になって
その場で頭を下げた。

 あ。
 思わず涙が出てくる。
 神山は何もできなかった。何もできなかったどころか、おじいさんのことを忘れさえした。家族の「円」と神山の「円」はズレるどころか、完全に分離してしまっていた。そのことを「申し訳ない」と思う。そして、頭をさげる。頭をさげることで、少しだけ「家族」に近づいていく。分離してしまった「円」を、もう一度重ね合わせようとする。重ならないことはわかっているけれど、その重ならない部分がせめてズレにまでもどるようにと頭をさげる。
 そのとき。
 私は思う。そのとき、「神山の円」と「家族の円」はズレているからこそ、あ、重なった、という感じが生まれる。コンパスで書かれた半径10センチの円なら、重なってもなんの不思議もない。けれど違っていたものが少しずつ近づいてゆき、違いが小さくなる。近づいてい行く瞬間に、あ、重なる、重なる、重なった、と「こころ」が叫ぶ。
 そして、あたたかないなあ、と実感する。神山の「ことば」ではなく、頭を下げるという、神山の「肉体」そのものが。



 

こころえ―神山倫詩集
神山 倫
ミッドナイト・プレス

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誰も書かなかった西脇順三郎(120 )

2010-03-23 12:14:05 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「茶色の旅行」は百人一首のパロディのようにして始まる。

地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。

 「しろたえのふんどしをほす」だと悪趣味だが、「ふんどしをほすしろたえの」には笑いがある。前者は「しろたえの……」というリズムが解体されていないから悪趣味なのだ。リズムそのものを解体して、そこに「しろたえの」というオリジナルを追加するとき、音楽がいきいきと動く。記憶が動く。音の不思議さは、いまがすべて「過去」になっていくことだが、西脇は、その「音楽」の法則を逆手にとっている。逆流する「音楽」がある。それが楽しい。
 その楽しさに飲み込まれて忘れてしまいそうになるが、「無限な女を追うさびしさ」というのは、西脇特有の言い回しだと思う。この表現のなかにも「ふんどしをほすしろたえの」と同じリズム構造がある、と私は思う。
 無限の女を追うことが、「私(にしわき)」の「さびしさな」のではなく、元の形にもどせば、女そのものが「さびしさ」であり、それを追う旅は「無限」なのだ。--とはいうものの、そのふたつは、切り離せないのだけれど。
 この詩のなかで、西脇は、陶器に絵つけをしたり、粘土をこねまわしたりしている。いろんな絵を描き、いろんな形のものをつくった。

そんなことをトツトリの宿で
イナバの女と酒をのみながら
心配をしたのだ。
この女にも平行線のように
永遠に於いて会うのだ。
女の心には紫のすみれを灰色に変化させる
染物やの術がある

 西脇にとって、女は「永遠」である。つまり、普遍である。男が常に動くのに対して、女は「永遠」にいて、男の運動を照らしだす。導く。西脇の願望は、「永遠」に、つまり女にたどりつくことである。女に「なる」ことである。男で「ある」、女で「ある」という状態ではなく、「なる」という運動--それが西脇の願望だ。
 そして、そういう運動のために、リズムの乱調が必要なのだ。「いま」を支配しているリズムを壊すことが。

 女とは何か。自然の無常である。それは男(ある)にとっては、永遠にたどりつけない。「なる」をめざしてみても、最後は「平行線」に出会うだけである。それは「さびしさ」に出会うことである。それは出会ってみなければ生じない「さびしさ」である。
 無限な女を追うことがさびしいのではない。追わなければさびしさは生まれない。運動としてのさびしさ。それは、いつでも西脇を待っている女なのである。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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志賀直哉(3)

2010-03-23 12:09:43 | 志賀直哉

 「萬暦赤絵」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
 「萬暦赤絵」を買いにいって、犬を買ってきてしまう小説だが、その本筋からすこし離れた部分でも、志賀直哉のことばはいきいきと動いている。
 「萬暦赤絵」といっしょに展示されている銅器の描写が、とてもいい。

私の眼はそれよりも先づ銅器に惹かれ、いささか圧倒された。その紋様(もんよう)の野蛮なこと、そしてその如何にも奇怪(きっくわい)なこと、まさに驚くばかりであつた。総てが実に強く、そして寧ろ無遠慮過ぎた。私はかういふ器物を日常に使用してゐた人間の生活を想像し、不思議な力を感じ、同時に恐しく感じた。

 「無遠慮」ということばの強さ。それは、「遠慮がない」というよりも、「飾らない」、いや、「実」を優先するということだろう。遠い先、いま、ここにないものを「何かをおもんぱかる」ということをしないということだろう。なるほど、その時代の人は、遠いもの、自分のいまとは無関係なものなどを考えている余裕などなかったかもしれない。
 そういう余裕のなさは、一種の「弱さ」であるけれど、「強さ」でもある。いまは、「自分」のことより、「他人」の視線(自分から、遠い先にあるもの)を気にして、何かしら遠慮する。それは、「弱い」暮らしであるのだ。
 うーん。
 これは、なんだか私には、志賀の文体を語っているようなものにも思えるのだ。
 志賀の文体は、刈り込まれ、簡潔である。流麗というよりは、実質的な、不思議な強さがある。その文体は「不思議な力」を持っていて、私には少し「恐ろしい」。少なくとも、私は、志賀直哉の文体は苦手な文体のひとつだった。そして、それは私自身は気がつかなかったが、苦手というより「恐ろしかった」のだと思う。
 そういう文体をつくりだしている、志賀直哉の「暮らし」のあり方が、ひととのつきあい方などが、「恐ろしかった」のだと、いまなら、思える。

 志賀直哉は、ここに書かれている「無遠慮」「野蛮」「奇怪」--それは、それに先立つもうひとつの文章をも思い出させる。展覧会にしている客の身なりの描写である。(をどり文字は、表記できないので、引用にあたって書き換えた。)

これぞと思ふ詩なの前でいちいち老眼鏡をかけ、覗込んで見てゐた半白の背の高い男などは普段着に羽織だけ更へてきたといふ風情だつた。足袋までは見なかつたが、これで足袋さへ綺麗なら風俗として却つていいものだ。

 この展覧会は、いわば「晴れ」の場である。綺麗な身なり形でやってくる。一般の客も、骨董屋の番頭たちも。そこへ、ひとり、羽織だけは綺麗だか、その下は普段着という男が混じり込んでいる。その「野蛮」。その「無遠慮」。ただし、志賀は、それに急いで、もし足袋が綺麗だったら、それは「野蛮」「無遠慮」ではなく、風俗として「いい」ものになる、とつけくわえている。
 普段着という「野蛮」も、それを挟み込むように羽織と足袋がおしゃれなら、「野蛮」がアクセントにした新しい風俗になる、ということだろう。そういう新しいものを「いい」と志賀はいっている。そこには「生活」の「実」をふまえた「粋」がある。それが「いい」。
 ただの「綺麗」よりも、内に(あいだに)、「野蛮」を隠しているもの、「内部」が強いもの--それを肯定していることになる。
 志賀は、そういう文体を追求していたのだと思う。
 だからこそ、次のようにつけくわえている。

尤も讃めてからは云ひにくいが、これは私自身であつたかも知れない。

 普段着の上に、きれいな羽織、足元の足袋もきれい。そういう普段着の「実」と、よそいきの「きれい」の結合が志賀自身であるから、「実」だけの銅器に驚いたということなのだが、驚きながらも、志賀は銅器の「実」の「無遠慮」の強さに共感している。



暗夜行路 (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社

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藤維夫「どこでもいい場所」、井上瑞貴「十二月の坂をくだった」

2010-03-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「どこでもいい場所」、井上瑞貴「十二月の坂をくだった」(「SEED」21、2010年02月15日発行)

 藤維夫「どこでもいい場所」には静かな倦怠と虚無がある。

そこがどこでもいい場所だから
おそい落日の丘にきて
木々に向かいあう
川の対岸と向き会う
たぶん閉ざされたまま静止している

 この5行目の「主語」は何だろうか。「木々」か「川の対岸」か。あるいは「わたし」か。不明の主語。不在の主語。不在がつくりだす「音」のなさ、無音の虚無がある。
 私の勘違いかもしれないが(正確な分析にもとづくものではないが)、藤の描くものは「音」を欠いている。ことばに「音」があるから、対象は「音」がなくてもいい、「視覚的」であればいいということかもしれない。
 ここでも「川の対岸」は登場するが、「川」そのものは登場しない。水音がない。その「音」のなさと、主語の不在が、沈黙のなかで響きあう。それが「静けさ」である。
 「静止」ということばが出てくるが、そのなかにも「静」ということばがある。このとき「止まっている」のは「音」である。
 「視覚」は動いている。その動いている「視覚」--その「主体」が「主語」ということになる。

渇望のはて
長い冬がある
偽りの青ざめた瞳は病み
男はひとり何を思うのだろう

きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが
鳥か蝶かもわからない染みのような雪
そういう今は過去なのかもしれない

 「青ざめた瞳」。視覚に付加された色彩。ここに、この作品の「主語」があるまで「視覚」であることが刻印されている。
 「聴覚」ではなく「視覚」。

 「聴覚」(音)と「視覚」(色・形)は何が違うか。次の2行が明確に語っている。

きょうはやさしい雪が舞いこんできた
過去なのか現実なのかわからないが

 「聴覚」にとっては「過去」と「現実」の違いははっきりしている。「過去」は次々に消えていく。それが「音」の世界である。聴覚にとって「過去」と「現実」がわからないということは絶対にありえない。いつでも「現実」(いま)しかない。「過去」は存在しない。
 ところが「視覚」は違うのだ。「視覚」は動かない。静止している。「木々」「対岸」それは動かない。舞い込んで来た雪。それは動いているけれど、動かない。つまり、ずーっと動くことで雪でありつづけている。「視覚」は「いま」と「過去」を区別できないのだ。「いま」見えているものが「過去」とどう違うか、理解できない。把握できない。
 「視覚」にとって「時間」は「不在」なのである。「主語」の不在と、「時間」の「不在」が、「音」(聴覚)の「不在」と重なり、そこに「視覚」の「静止」した存在だけが浮かび上がる。
 それが、いま、藤の向き合っているものである。
 そこまでことばを動かしてきて、4連目で、やっと「主語」である「わたし」がことばとして登場する。

軋む呼吸をじっと耐えながら
わたしの虚無を睨む
空虚な航跡
色彩をつよく敷き懊悩の骨片は散らばり
過去は前方の絶望へと帰っている

 「わたし」を登場させながら、その「主語」である「わたし」を「わたしの虚無をにらむ」と別の「主語」にゆずる形で動くことば。あくまで「不在」を貫こうとすることばとの意思。--ここに「倦怠」がある。「不在」の完遂こそが「倦怠」なのだ。

 最終行の「過去は前方の」というふつうの時間感覚とは矛盾することば。時間は直線的に流れ、あるいは不可逆的に流れるから、過去は常に後方であるという意識と軋轢を起こすことば--そこにも、藤の「主語」が「視覚」を生きていることが明記されている。
 「聴覚」にとって、「過去」が「前方」ということはありえない。
 「視覚」にとっても「過去」は「後方」でありえるかもしれないが、「視覚」とは動いているものでも、それを「過去」とは理解しない、次々に過去が消えていくとは理解しない。簡単な例でいえば、たとえば 100メートル競走。スタートからゴールまで走り抜ける人間の動き。それは、ランナーが走り抜けたあとも、10秒前はあのスタート地点、10秒後はゴールのテープを切った、ここ、という具合に「視覚」の上で(架空の空間で)再現し、それを「同時」に眺めることができる。
 そういうふうにして、藤は「過去」を「前方」に見ている。

 藤は「視覚」的人間である。その子とが、非常にくっきりと浮かび上がる詩である。



 井上瑞貴「十二月の坂をくだった」には、奇妙な「音楽」がある。

どこかで降り始めた雨のしたで見失ったひとを
ただ思い出したいと思って雨を待った
変わりやすい月が変わる
言葉で感じる女を無言で抱くように月は再会の月になる

 「雨」「月」。繰り返されることばは、繰り返されることで別個の存在になる。「降り始めた雨のしたで」「雨を待った」わけではない。いま、雨は降っていない(存在していな)。そういう状況のなかで「降り始めた雨」とともにある「思い出」を「思い出す」ために「雨を待った」。
 この繰り返しは、いま、私が井上のことばを書き直した、思い出を思い出すという繰り返しのなかにこそ、その「いのち」のようなものがある。(井上は、正確には「思い出したいと思って」と書いている。)
 この感覚--思い出を思い出すという繰り返しの感覚。思い出したいと思うというときの、「思う」の念押しというか、重複させることで何かを明確にするという手法。そこに「聴覚」の一つの形があると私は考えている。過ぎ去っていく。だから何度でも何度でも思い出を思い出す。そこに「音楽」というものがある。

 あ、抽象的で、よくないなあ。

 いま私はモーツァルトを思い出している。(土曜日に「アマデウス」を見たせいかもしれない。)モーツァルトの音楽は、繰り返し、繰り返し、繰り返しである。そこに濃密な感覚があふれてくる。時間が「過去」になることを拒絶して噴出してくるときの、あざやかな輝きがある。
 井上がこの詩でめざしているものは、そういうものかもしれない。

ぼくたちに似た河を探しながら十一月の橋を渡り
十二月の坂をくだった
灯りの半分が点される夜には無傷の雨を待った
光が汚す道のりを闇が清める十三月

 「十三月」という、ここにはありえないもの、非在を噴出させるために「音楽」はある。
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アンジェロ・ロンゴーニ監督「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」(★)

2010-03-22 23:09:52 | 映画

監督 アンジェロ・ロンゴーニ 出演 アレッシオ・ボーニ、クレール・ケーム、ジョルディ・モリャ 

 カラヴァッジョという画家を私は詳しくは知らない。映画で紹介されている作品の何点かは見たことがあるが、どこで見たかは思い出せない。画集で見たものもあるかもしれない。
 この映画では、カラヴァッジョを人間のリアルな肉体を描いた画家としてとらえている。絵に登場する人物は、題材とは無関係に、カラヴァッジョがみつけだしてきた人間である。人間をモデルにして、たとえばマリアを描いた。カラヴァッジョの描く人物は、それが聖書のなかの人物であっても、空想で描かれたものではなく、実在の人物をモデルとしている--そういう紹介のされかたをしている。
 たぶんそのとおりなのだと思うけれど。
 実在の人物のなかに、たとえばマリアを見出していく--そのときの、肝心な「過程」が映画からは見えて来ない。偶然、美人を見つけて、その美しさに、あ、マリアだと思ったなら思ったでもかまわないけれど、そのときの瞬間的な「ひらめき」(インスピレーション)が、もどかしいくらい伝わって来ない。
 何度かあらわれる死に神(?)、馬に乗った黒い仮面の男--その出現が、まるで「絵に描いたように」リアルではないからだ。なぜ、黒い仮面、黒いマント、黒い馬が死に神? モデルは?
 そうなんだなあ。この死に神にだけは「モデル」はいない。
 カラヴァッジョにとって、「死に神」の「モデル」がいない以上に(もしかしたら、カラヴァッジョは「死に神」を見たかもしれないけれど……)、この映画の監督に「死に神」の「モデル」がいないのだ。
 カラヴァッジョはもちろん実在の画家、彼の絵を愛し、彼を支えた人たち、絵を依頼し絵のモデルになった人たち、そして、16世紀という時代、ローマにも「モデル」は存在するが、「死に神」だけには「モデル」がいない。
 そのために、「死に神」が紋切り型になってしまっている。あら、つまんない。
 「モデル」の一番の強みは、そのひと自身の「過去」を持っていること。画家の(作者の、映画では監督の)、想像できない「過去」、オリジナリティーを持っていること。(俳優自身もそうだね。)その、その人のオリジナリティーが「空想」を突き破って、「物語」を現実にかえてしまう。そういう強烈な力を持っている。
 でも、「死に神」には「モデル」がいない。
 カラヴァッジョが「モデル」なしには作品を描けなかったのなら、そのカラヴァッジョを苦しめた「死に神」にも「モデル」は必要。常にカラヴァッジョの「肉眼」のなかに生きていた「死に神」を監督が「モデル」をとおして共有していないから、なんだ、これは、単なるカラヴァッジョというストーリーのなぞりじゃないか、ストーリーを突き破る「詩」がないじゃないか、という感じになってしまう。
 「モデル」がいないなら、描くのをやめればいいのだ。この映画は「死に神」を除外してつくりなおせば、「リアル」な肉体に惹かれて、ただその「肉体」の実在性、「肉体」が抱え込む光と影にひかれて絵を描いたカラヴァッジョの姿をもっと「リアル」に再現できたのではないだろうか。

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誰も書かなかった西脇順三郎(119 )

2010-03-22 22:40:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「あかざ」は、自然の無常が好き、なぜなら詩は自然の無常と向き合ったとき、「私」のなかに生まれるものだから--という西脇の詩学が鮮明にでた作品である。詩の最初の方に、

だが考える人間の話をするのは
恥かしいのだ。

 という行が出てくるが、この「恥かしい」の定義はむずかしい。だから、そのことについては、書くことを保留しておく。
 後半の、ことばの動きが、私はとても好きだ。

翌朝はタイフーンが去つたひとりで山へ
あがつて青いドングリの実を摘んだ。
もう人間の話はやりたくない
でも話さなければならない
スリッパをはいて話をした。
紺色に晴れた尖つた山々のうねり
の下でこのテラコタの大人は笑つた
「ソバでも食べてお帰りなさい。また
忘れなければ花梨を送りますぜ」 

 「テラコタ」は「素焼き」のことだろうか。「素焼き」のように素朴な、いわば「自然の無常」と共鳴するひと--という思いが、西脇のなかにあるのだろうか。
 というようなことは、「意味」的には重要かもしれないけれど、これも保留。というか、書くのは省略。
 この後半の部分では、「スリッパをはいて話をした。」の1行が、とても好きだ。無意味である。「もう人間の話はやりたくない/でも話さなければならない」という重苦しさを完全に蹴っ飛ばしてしまっている。
 「スリッパ」という弾ける音が軽くて、気持ちがいい。
 そして思うのだ。最初に「保留」したこと、「恥かしい」のことを。
 「スリッパ」の軽い音、そして軽い存在(なくても、まあ、こまらない、少なくとも死ぬことはないなあ)--これが「恥かしさ」の対極にあるものだと。
 「考える人間の話をするのは/恥ずかしいのだ。」また、話したくない人間のことを話さなければならないのも「恥かしい」。だから、その話の内容は書かない。けれど、「スリッパ」をはいて話したことは「恥かし」くはない。「スリッパ」のことは書いても「恥かし」くない。だから、書いている。
 無意味と軽さ。話(考え?)をつなげてひとつのものにするのではなく、つながっていくものを叩ききることば、その音、その無意味さ--そこに、人間の「すくい」のようなものがある。
 最後の2行。
 西脇が何を話したか、そんなこととは関係がない。話(講演?)は話(講演)。終われば、話したことばなど捨て去って、ソバを食べる。その断絶のあざやかさ。それに結びつく「スリッパ」である。





評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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小久保佳世子『アングル』

2010-03-22 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小久保佳世子『アングル』(金雀枝舎、2010年01月29日発行)

涅槃図へ地下のA6出口より

 巻頭の一句である。とても気に入った。「涅槃図」は開かれている美術展の目玉、ないしは小久保がその展覧会でぜひ見たいと切望している作品なのだろう。だから、美術館への通路ではなく、作品の名前が来る。場所を作品が越えている。地下鉄(たぶん)の出口には、「A6出口」が美術館に通じていると案内してあるのだが、その他人の(?)つくってくれた案内を通り越して、こころがすでに美術館のなかにいる。美術館のなかの「涅槃図」とともにある。その感じが気に入った。「A6出口」という無機質なことばが、小久保のこころの熱さを逆説的に浮かび上がらせている。
 俳句というのは、基本的には、向き合っている対象といったいになり、私が対象であり、対象が私であるというような世界なのだと思う。そういう「定義」(?)からすると、小久保の巻頭の作品は少し風変わりということになるかもしれないが、私は俳句の門外漢なので、こういう作品に惹かれてしまう。
 季語がないのだけれど、こころが先回りする感じが「春」につながる。暗い地下(鉄)から、光あふれる屋外へ。その光の向こうにある「涅槃図」。地下からの出口が「涅槃」につながる--そう思うとき、差しこんでくる光がある。その書かれていない「光」に春を感じる。あるいは、これは、この句を読んでいる「いま」が春だからそう思ってしまうのかもしれないけれど。
 「出口より」の「より」も、なんとなくおもしろい。口語では「から」になる。私は「より」なんて言わない。言った記憶がない。思い出せない。そういうことばがある。けれど、「意味」は知っている。「意味」は知っているけれど、絶対に言わないことば--それに触れると、なんといえばいいのか、「頭」のなかに「肉体」がぐにゅっとねじりこんでくる感じがする。自分の「肉体」ではなく、だれともしれない「肉体」が。「他人」が、「肉体」のまま、入ってくる感じがする。「より」ということばとともにある「肉体」というものが、ぐにゅっと入ってきて、そこから私の「肉体」へともどっていく。喉が、舌が、発声器官が、その「音」をつくりだすために動く。その不思議さ。そのとき、あ、そうだ、そういうことばがたしかにあったのだと思い出す。
 「出口より」、あ、「より」か……と思うのである。
 そして、このときの変化が「涅槃図」ということばが「頭」に思い起こさせるもの、「肉眼」に思い起こさせるものとも、いくらか似ている。「涅槃図」なんて、(なんて、といってはいけないのかもしれないけれど)、まあ、私の関心の外にある。それらしいものはわかるけれど、具体的に思い出すものなどなにもない。なにもないけれど、たしかにそれはあって、そしてただあるだけではなく、ある人々(ある時代)にはひとととても強烈に結びついていた。「より」のように、「肉体」にしみついていたんだなあ、と思うのである。
 そういうものがいっしょになって「地下」とも響きあう。「出口」が導く「トンネルのような通路」とも響きあう。無意識というと少し違う気がするけれど、「肉体」の奥に眠っていたものが呼び覚まされて動きだす感じ--そしてその先にある「涅槃図」。うーん、と考えはじめる。
 そういうものへ、そういうことへ、私のことばは動きはじめる。
 あ、これは「俳句」の鑑賞じゃなくなっているなあ、と思いながらも、まあ、いいか。私は俳句のことは知らないのだし……。

 ほかに気に入ったのは。

山車を曳くわけの分からぬものを曳く

 「わけの分からぬ」がいい。そういうものが、ある。17文字のなかに「曳く」が2回出てくるが、この繰り返しが「わけの分からぬ」と強烈に結びつく、その強烈さもいい。わかっていることは「曳く」という人間の「肉体」の動きだけである。曳いているのは「山車」だけなのか。そのとき「肉体」はいったい何を曳いているのか。たとえば、そこには存在しない「涅槃図」を曳いてはいないか。そしてそのとき、肉体はもしかすると、いま、ここ、ではなく地下の「A6出口」へ向かってはいないか。--もちろん、こういうことは、ここには書かれていな。書かれていないから、きっと私の感想は「わけの分からぬ」感想になっているのだと思うけれど、そういうことを、私は考えてしまう。感じてしまう。

 飛躍して言ってしまうと、小久保のことばは「肉体」をもっている、と感じるのだ。それが、おもいしろい、と感じるのだ。私は。
 抽象が「肉体」をもっている、という感じがするのだ。

無いものを数へてをれば桜かな

 この句にも、「山車」につうじるものを感じた。また、「数へる」「をる」という旧仮名遣いのなかにもある「肉体」も同時に感じた。
 現代仮名遣いにも「肉体」はあるけれど、旧仮名遣いの方が、何かしら「肉体の肉体」という感じがする。強くて、太い。強靱だ。そういうものがあってこそ、抽象というものが動くのかもしれない。動かせるのかもしれない。

ダイバー消え水面に臍のごときもの

 一句選ぶとすれば、私は、この句を選びたい。写生の句ということになるのかもしれないが、この句では「わけの分からぬ」や「無いもの」というような抽象の代わりに「臍」というなじみのある「肉体」が登場する。そして、それが具体的で誰もが知っているもの、知っているだけではなく、もっているものなのに--あ、それが突然、抽象になってしまうのだ。
 「臍のごときもの」だから、それは比喩なのだが、比喩になることで「肉体」が抽象になる。具象が抽象になる。
 小久保はしっかりした「肉体」をもっているだけではなく、その「肉体」をきちんと動かしていく「精神」をもっている。
 そういうことを感じた。

アングル
小久保佳世子
金雀枝舎

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ジェイソン・ライトマン監督「マイレージ、マイライフ」(★★)

2010-03-21 13:21:14 | 映画

監督・脚本 ジェイソン・ライトマン 出演 ジョージ・クルーニー、ジェイソン・ベイトマン、ヴェラ・ファーミガ
 


 出だしはたいへん快調である。小さなキャリーバッグにカッターシャツ、ネクタイ、下着などをてきぱきと詰め込む。バッグをひっぱり歩く。曲がり角。くるっ、くるっ、と最短距離で曲がる。キャリーバッグの扱いになれている。
 それもそのはず。年間320 日も出張している。ジョージ・クルーニーの仕事は、リストラ宣告である。リストラ宣告ができない気の弱い(?)上司にかわって、代理でリストラを宣告する。(へえっ、こういう仕事があるんだ。)そういう非情な仕事を、毎日毎日テキパキとこなしている。その具体的な「日常」として荷物のパッキング、キャリーバッグの使いこなしがある。こんな具合に「日常」が正確に描かれると、映画はとても活気づく。細部のアップから、生活そのものがあふれてくる。
 バーで知り合った無数のカード(優待カード)を互いにみせびらかしあって、意気投合するシーンなんかにも、その「異常」が「日常」にかわってしまう感じを絶妙に表現している。
 ジョージ・クルーニーの甘い顔、笑顔、それに丸みのある声が、非情な(異常な)仕事とアンバランスで、とてもいい。仕事の非情さ(異常さ)を隠し、非情を「日常」に変えてしまう。そこでは「異常」であればあるほど、それが「日常」なのだ。観客ができないこと、しないことが「日常」なのだ。

 「仕事を失うと、こどもから尊敬されなくなる」と訴える社員に、クルーニーは次のようなことをいう。
 そこで語られることも、一種「異常」なのだけど、クルーニーの顔からこぼれるようなひとなつっこい目が、それを「日常」に変えてしまう。(クルーニーの目を思い出しながら読んでください。)
 「こどもたちがスポーツ選手にあこがれる(尊敬する)のはなぜ? 夢を追っているからだ。あなたは、仕事をうしなうと尊敬されないというけれど、いまでも尊敬されていないのでは? 夢を追っている姿をみせていないのでは? あなたには夢がありませんか? フランス料理をつくること、シェフが夢なのではないですか? この会社にはいる前に、フランスまで行って修行している。いまこそ、その夢に向かって前進するチャンスなのではないですか?」
 あ、すごいですねえ。ぐぐっときますねえ。フランス料理をつくることはできないけれど、シェフが夢ではないけれど、そうか、夢を実現するチャンスか……。説得されてしまいますねえ。
 説得というのは、「異常」事態を「日常」として受け入れることなんですねえ。

 でも、おもしろいのは、このあたりまで。
 後半は、いったい何をやっているの? 奇妙な家族愛という「日常」がクルーニーの「異常」を告発しはじめる。ぜんぜん、おもしろくありませんねえ。映画なんて、どっちにしろ絵空事。「日常」で批判されたくないなあ。映画を見るのは、映画でしかありえない「異常」が「日常」に侵入してきて、「日常」を活性化してくれるから。ただ、それだけである。
 愛に気づくクルーニーなんて、おもしろくないねえ。せっかくの色男なんだから、色男ならこんなことができる。こんな勝手な生きかたができるという「夢」をくれなくっちゃあ。
 後半は、まあ、眠っていてください。

 でも、最後の最後、クレジットが流れているときだけは目を覚ましていてください。「異常」なことが起きます。そこに「夢」があります。本編のストーリーが終わったからといって席を立つひとは、この「夢」を知らずに映画館をでてしまうことになります。


グッドナイト&グッドラック 通常版 [DVD]

東北新社

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志賀直哉(2)

2010-03-21 00:46:06 | 志賀直哉
志賀直哉「豊年虫」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 曲輪(くるわ)見物の部分に、次の描写がある。(正字体の漢字は、引用に当たって簡単なものに変えた。)

 新しい家(うち)は丈が高く間口が狭く、やくざに見え、古い家(いへ)は屋根が低く間口が広く、どつしりとしてゐた。

 「やくざ」ということばの使い方に、なるほど、と感じた。「どっしり」の反対。軽薄。安っぽい。きざったらしい。けばけばしい。きどった。……あれこれ、考えてみるが、なかなか「現代語」にならない。いま、私がつかっていることばにならない。ことばにならないけれど、志賀直哉が感じたものが直感的につたわってくる。
 こういう日本語に出会うと楽しくなる。

 車屋を急がせて、そばを食べたあとの描写。

 二度目の賃金を訊くと、御馳走になつたからと車夫は安い事をいつた。つまり貰ふべき賃金から蕎麦の代だけ引いていつてゐるのだ。その律儀さが可笑(をか)しくもあり気持よくもあつた。

 この「可笑しい」も、少し変わっている。おもしろい。こころを動かされる。すぐれている、かもしれない。そうなのだ。心根がすぐれている、という意味だろう。だから、それが「気持よい」。
 どんな文学も、それぞれの「国語」で書かれているが、それは「国語」であって、「国語」ではない。たとえば志賀直哉の書いている文章は、「日本語」という「国語」であるまえに、「志賀直哉」という「外国語」なのだ。
 そういうことばに出会ったとき、「日本語」は活性化する。動きだす。この瞬間が、私は好きだ。

 それから、「豊年虫」が畳の上でもがいている描写がある。

 見ると羽は完全だが、足がどうかして立てない風だつた。立つたと思ふと直ぐ横倒しになるので、蜉蝣は狼狽(あわて)てまた飛び立たうとし、畳の上を滑走した。そしてそれをどうしても離れないので、こんなに苛立つてゐるのだと思はれた。

 「それをどうしても離れないので」というのは非常にまだるっこしい感じがする。簡潔な描写が得意な志賀の文章にはふさわしくないような感じが一瞬するのだが、この部分が、私はこの小説のなかでは一番好きである。
 志賀は、ここでは蜉蝣を描写していない。客観的に見ていない。志賀直哉自身が、足の悪い蜉蝣になってもがいている。そのもがきながらの気持ち--どうしてもうまくいかない。その「どうしても」の気持ち。それが「苛立ち」にまっすぐにつながっていく。
 「どうしても」というのは、こんなふうにして使うことばだったのだ。




小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
志賀 直哉
新潮社

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北原千代「薬草園」

2010-03-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「薬草園」(「ばらいろ爪」創刊号、2010年03月21日発行)

 だれの詩でも、わからない部分がある。そして、そのわからない部分が一番おもしろい。いろいろなことを考えることができる。わからないので「意味」に縛られない。不思議な解放感がある。
 たとえば、北原千代「薬草園」。

-よく眠れますから-
薬草園の主人は言った
枯れた箒草と微かな息にもほどける綿毛
星形の花びらのひとつかみ
棒シナモンとワイン・・・
-いえ、あなたは調合など知らなくてよいのです-

飲みものは熱くひりつき喉元からふくらんでいった
ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった
わたしはのほっていった

 1連目は、「眠れない」と訴えた「わたし」(北原)に対し、薬草園の主人が特別な飲み物をつくってくれたということだろう。「かすかな息にもほどける綿毛」という魅力的なものも、ほどかれて、その飲み物には入っている。「星形のはなびら」のような、夢にでてきそうな美しいものも溶け込んでいる。
 それを飲んだときの、印象。「肉体」の記録としての2連目。
 熱いものが喉元でふくらむ。喉の粘膜から血管に直接染み込んでいくような描写のあとの、

ほんのすこし爪先で蹴りあげるとのぼっていった

 この1行が、とても美しい。
 「何が」のぼっていったのか。「どこへ」のぼっていったのか。2連目だけではわからない。わからないから、わかっていることをたよりにして、私の肉体は反応してしまう。
 温かい飲み物を飲んで、爪先で蹴りあげる。「なにを?」--「わたしを」。そのとき、「わたし」がのぼっていくことになるのだけれど、私には「わたし」より先に、「肉体」のなかにとけこんだ特別な飲み物そのものがのぼっていくように見える。感じられる。「どこへ?」「どこを」。「肉体」のなかを、たとえていえば「血管」のなかを。飲み込んだ温かい液体--それはまず「肉体」のすみずみにまで血管で運ばれる。「肉体」のすべてがあたたかくなり、ふくらむ。その「肉体」の一番はしっこの「爪先」。それを動かす。すると、その動きを逆流するように、血液の中のあたたかいもの、「肉体」のなかのあたかいものが、のぼってくる。「爪先」から「肉体」の上へ、上へとのぼってくる。そして、疲れた「頭」をあたたかくつつんでくれる。
 そうすると、そこに枯れた箒草、かすかな息にほどける綿毛、星形のはなびらというような、やさしいものが、「頭」のなかにも広がる。
 「肉体」のなかに広がったものが、「肉体」の印象をかかえたまま、「頭」を「肉体」の一部につつみこんでしまう。
 いいなあ、眠りに入っていくというのはこういう至福の時間だよなあ、と思う。



詩集 スピリトゥス (21世紀詩人叢書)
北原 千代
土曜美術社出版販売

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ミロシュ・フォアマン監督「アマデウス」(★★★★)

2010-03-20 17:43:11 | 午前十時の映画祭
監督 ミロシュ・フォアマン 原作・脚本 ピーター・シェーファー 出演 F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス

 「午前十時の映画祭」7本目。
 この映画の基本的なおもしろさは、原作と脚本にある。凡人と天才を向き合わせ、凡人の苦悩を浮かび上がらせる。しかもその凡人は並の凡人ではなく、天才が理解できるという凡人なのだ。
 サリエリ。
 私はこの映画ではじめてサリエリという作曲家を知った。同時に、天才を理解できることの苦悩というものの存在をもはじめて知った。このテーマは、なかなか観客のこころをくすぐる。(私のこころをくすぐるといいかえるべきか。)自分は天才ではない、けれども天才を理解する能力はあるかもしれない。そんなふうに考えると、ちょっと楽しい。そして、その天才を理解する能力というのは、とても苦悩に満ちたものなのだ、となると、ちょっとかっこいいではないか。そんなかっこいい人生(サリエリの人生がほんとうにかっこいいかどうかは別問題)を生きてみたい--そういう気持ちにさせられる。
 凡人の苦悩、凡人としてのヒーロー。しかも凡人らしく、敗北するヒーロー。
 でもねえ、これは、なんというか、とっても奇妙なセンチメンタリズムでもあるんですね。だって、モーツァルトをほんとうに評価したのはサリエリではなく、もっともっと凡人のふつうの人々。作曲なんかできないし、作曲しようとも考えたことのない人々。ただ音楽が好き。おもしろいものが好き。そういう「庶民」。そういう人たちがいて、なおかつ、モーツァルトに喝采をおくった。その結果、モーツァルトの曲が今日まで残っている。
 ほんとうはサリエリなんて、いてもいなくても、どうでもいいのです。その、いてもいなくてもいいひと、天才を理解し苦悩するなんて、どうでもいい才能を、悲劇に仕立てていく脚本、そのストーリーの展開の仕方が、まあ、すばらしいといえばすばらしい。
 でも、映画には、ちょっと不向き。
 これはやっぱり舞台、芝居小屋の作品だね。役者が目の前で動く。その動きの細部ははっきりとは見えないけれど、ことばと動きがいっしょに動くことで、観客を役者の「肉体」の内部へ引き入れることで成立する舞台、芝居にむいている。「こころ」はことばと肉体の組み合わさった内部にある--ということをリアルに感じられる舞台にむいている作品である。
 映画のアクション(肉体の動き)というのは、こころを内部にとどめない。アップによって、こころを肉体の細部にまでひっぱりだし、さらに肉体の外へ(カメラのレンズへ)解放する。カメラのレンズをとおって、拡大する。スクリーンに広がるのは、拡大された肉体であり、拡大されたこころなのだ。
 この映画が描いてる天才を理解できる苦悩、嫉妬の苦悩というのは、うーん、拡大されて、肉体の外へひきだされてしまうと、ちょっと寒々しい。やはり、そこにいる役者の肉体の内部にとどまり、肉体まるごとのままがいい。変な言い方になるかもしれないが、あ、サリエリがモーツァルトの才能をただひとり完璧に理解しているように、私(観客)も、ただ私だけがサリエリがモーツァルトの天才を理解し苦悩しているということを理解しているのだ--と思った方が、もっとおもしろくなるのだ。だれもかれもがサリエリの苦悩を理解できるのではなく、ただ私だけが、サリエリの苦悩を知っている--そう感じるとき、興奮はいっそう高まる。
 たぶん、その興奮は、原作・脚本のピーター・シェーファーが一番強く感じた興奮だと思う。その興奮は、「文学」の興奮であり、それは映画とはちょっとなじまない。私は、それはやはり舞台・芝居の方がリアルに感じられると思う。密室で、そのときかぎりのもの。コピーして、いつでも、どこでも見ることが可能なものではなく、その日、その時、その場へ観客が足を運び、その日、その時、その場で動く役者を見て、その日、その時、その場にだけとどめておくべきものなのだ。役者の肉体の記憶と観客の肉体の記憶が重なるときにのみ、ふっとあらわれ、ふっと消えていく--そういうものの方が、いいと、私は思う。

 ★4個の理由は、舞台で、芝居で、この作品を見たい--という私の欲望が強くて働いて、結果的に1個減点という感じになった。公開当初の印象では★5個の傑作だった。スクリーンで見るのが2度目なので、印象が少し違ってしまった、ということ。



アマデウス ディレクターズカット [DVD]

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豊原清明「短編映画『俳句!』」

2010-03-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「短編映画『俳句!』」(「白黒目」22、2010年03月発行)

 豊原清明は不思議である。ことばを書くとき、私はどうしても、ことばの「過去」を気にしてしまう。そのことばがどこからやってきたか、それを明確にしないと、ことばを動かせない。たとえば、いま、こうやって書いている文章。それは豊原清明のシナリオを読んだことによって動きはじめている--ということを、私は最初に書かずにはなにも書けない。
 ところが、豊原はそんなまだるっこしいことをしない。いきなり「現在」から書きはじめる。「現在」からことばを動かしはじめる。しかし、そのことばは「過去」を持っている。ことばに「肉体」がある。

○ タイトル「俳句!」

○ 「脚本・監督 豊原 清明」

○ 僕の左手の平
川柳「六十のさえない奴がなぜ恋に」
僕「僕は、俳句をしたい!」

○ 僕の部屋
僕の声「二十年間、閉じこもっていた。」

○ 父
父の声「吟行にいこう。」

 ○は、映画のそれぞれのシーンである。最初にタイトルや、監督の名前がでる。そのシーンさえもが、何かしら「過去」を持っている。いま、ほとんどの映画は、突然はじまり、そのあとでタイトルや監督の名前が出ることが多いが、豊原は古いオーソドックスな手法でタイトルや監督の名前を出す。その静かなトーン。それ自体が、すでに豊原の記憶を語っているような感じがする。いま、あちこちで上映されている映画とは違う、もっと古くて温かい映画を見てきた記憶--そういうものが、静に反映されている。
 そして、そこへ、唐突に、父が出てくる。出てきたと思ったら、それはなんの脈絡もなく「吟行へ行こう。」というのだが、その「吟行」に「過去」がある。これが「銀行」だったら、きっと「過去」は見えて来ないのだが、「吟行」ゆえに、「僕」の「過去」がみえてくる。あ、俳句の吟行--そうなのか、豊原は、部屋のなかにとじこもってことばをさがしているのではなく、実際に、外に触れながらことばを動かして生きているのだ、そういうふうにことばを動かしているということを、父も知っているのだ、という「過去」が見えてくる。
 この「過去」の見せかたが、なんとも、すごい。自然である。正直である。ぐいと引き込まれてしまう。

○ 明石公園(昼過ぎ)
   植物のきらめき。メガネをかけた、僕の顔。父に撮って貰う。
   僕の呆けた顔。

○ 公園景色
   公園の自然を撮りながら、
僕の声「何とかや…。」
  父に撮って貰う。
  ベンチに座って、句を、ノートに書いている、僕。
  花や草木を見ている、デブの僕。
  公園の、景色を撮る。
  寒い、景色。ジャンパー、コート。

○ 室内
   トチの木の写真。
父「わしも、書いている。」
僕「何時からや。」 

 この変化。飛躍。飛躍のなかにある「過去」。
 ふつう、ことばが飛躍すると、その先に「未来」があらわれる。「未来」という方向性が生まれる。
 けれど、豊原のことばは飛躍すると、突然「過去」が巨大な固まりとなって見えてくる。あ、ことばは、こんな「過去」をもっているのか、とびっくりする。
 僕(豊原)は俳句を書いている。それに対して父が「わしも、書いている。」という。それは「俳句を書いている」という意味である。違うかもしれないが、私は、そう感じてしまう。
 そして、そのときの反応。
 「何時からや。」
 あ、まるで、ある日の一日の一瞬を切り取ってきたことばそのままである。「僕」は、いつから父が俳句を書いているか問うているのではない。そういうときなら、「何時から俳句を書いている?」と成文化されるだろう。そういう成文化をするひまがないくらいのスピードで「何時からや。」ということばが発せられる。それは、そのことばに「怒り」のようなものが、つまり激しい感情があるからだ。
 そして、それは単に、そのことばに激しい感情があるというだけではなく、豊原がそんなふうにして、唐突に激しい感情を父に繰り返しぶつけてきたという「過去」をも浮かびあがらせる。
 繰り返された「日常」--そのなかで組み重なってきた、ことばのスピード。
 そういうものを豊原は瞬時に再現し、定着させる。

 その「怒り」のあとの、悲しみ。こころの寒さ。それは一転して、屋外へほうりだされる。

○ 寒い池
僕の声「寒い! 寒すぎる! たまらん! 家、帰りたい!」

○ 買って貰ったペットボトル
   握りしめる。

○ 自分の手の平
左手「六十のさえない奴がなぜ恋に」
   右手に、今日の句を書く。
   両手を撮る。
-終わり-

 この、リズムの、あまりに直接的な、直接的すぎるリズム。カメラなしで、こんなに映画的な映画を再現するというのは、ほんとうに天才である。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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誰も書かなかった西脇順三郎(118 )

2010-03-19 09:47:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 あるところで、「March Madness 」ということばが話題になっていた。音が美しい、と書かれていた。えっ? この音のどこが? 私はもともと耳がよくない(並外れた音痴でドレミも正確には歌えない)ので、私の耳の「美意識」がおかしいのかもしれないが、「March Madness 」ということばには共通の音がM しかない。他の音と響きあわない。私は、そこに「音楽」を感じることができない。
 私が「音楽」を感じ、音が美しいと感じるのは、たとえば西脇順三郎の「しゅんらん」である。タイトルも美しいが、書き出しがとてもすばらしい。

二月中頃雪が降っていた。

 これだけで、私は夢中になる。「にがつなかごろゆきがふっていた」。ひとそれぞれ発音の癖があって、同じ文字で書かれる音でもちがったふうに響くだろうけれど、私には、この行の「鼻濁音(が・ご)」と「な行(に・な)」の響きあいが美しい。私は音読をしないが、無意識に発声器官は動く。そのときの、快感が、とても好きである。
 鼻濁音から鼻濁音へかけてのリズムもとても好きだ。に「が」つなか「ご」ろゆき「が」。3音節ずつ、はさまっている。
 こんな操作を西脇が意識的にしているとは思えない。わざわざ指を折ってリズムをそろえているとは思えないのだが、とても気持ちがいい。きっと自然に身についたものなのだと思う。
 つづきを読むと、もっと美しい音が出てくる。

二月中頃雪が降っていた。
ヒエの麓の高野(たかの)という里の
奥の松林へシュンランを取りに出かけた
仁和寺の昔の坊主などは考えないことだ。
途中知合の百姓の家を訪ねた。
そのカマドの火がいかに麗しいか
また荒神のために釜ぶたの上に
毎週一度飾られる植物の変化を
よくみておくべきであるから。

 「ヒエの麓の……」ではじまる「の」の繰り返し(西脇は「の」という音が好きである。)。「仁和寺の」の「の」を含めた「な行」の揺れ。そして、

そのカマドの火がいかに麗しいか

 この行から、音が「か」の響きあいにかわる。その「か」まどのひ「が」い「か」にうるわしい「か」。次の行にも、その次の行にも「か」がゆれる。そして、

よくみておくべきであるから。

 あ、この「から」の「か」。「か」からはじまる「から」という音の明るい解放感。いいなあ。うれしくて、モーツァルトを聴いたときのように、笑いだしてしまうなあ。
 まあ、「意味」もあるにはあるだろうけれど、西脇はきっと、この「から」という音を書きたくて、この詩を書いたのだと私は直感する。(別なことばで言えば、「誤読」する。)
 その「か」と明るい響きは、次のようにひきつがれ、転調する。

それで読者は「シュンランはあつたか」ときく
だろう「ありました」という

 「あつたか」の「か」。その乱暴な(?)響きと「ありました」の明るい響き。これがもし、

それで読者は「シュンランはありましたか」ときく
だろう「あつた」という

であったなら、「音楽」はまったく違ってくる。暗くなる。「あつたか」「ありました」と「ありましたか」「あつた」では、「意味」は同じでも「音楽」が完全に別種である。。「あつたか」「ありました」という能天気(?)なというか、解放感に満ちた「音楽」のあとなので、次の飛躍が、まるで天空の虚無の輝きのように感じられる。

生まれた瞬間に見る男の子のペニスの
ような花の芽を出しているシュンランを
二株とイワナシを三株掘つた。

 西脇は「男の子のペニス」と書いているが、私には、これは天使のペニスにしか見えない。そういう現実離れした、明るい神がかりの飛翔。こういう至福を運んでくるのが「音楽」である。西脇の「音楽」である。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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神尾和寿『地上のメニュー』(2)

2010-03-19 00:00:00 | 詩集
神尾和寿『地上のメニュー』(2)(砂子屋書房、2010年02月20日発行)

 きのう読んだ「たんぼのことば」につづく「その手」もおもしろかった。

この手は いわゆる

悪いことをする 癖に染まっているので
大漁旗を振らせましょう
この手は

いつも 約束を破ってきたから
ひたすら汗をかかせましょう
この手には

愛撫する特技が ありますね
上等の油をぬってあげてください
この手は

 ここにはリズムの工夫(わざと)が施されている。各連の3行目の「この手は」の述語はそれに先行する2行であり、各連は倒置法で書かれている、と読むことができるが、そうではなくて、次の連の主語である、とも読むことができる。
 倒置法と読むよりも、次の連の主語と読む方がおもしろい。
 次の連の主語として読むとき、その「読み」に独特のリズムが生まれる。主語から述語へと直接進むのではなく、1行あきの一呼吸を置いて、述語が動きはじめる。このリズムは、主語に対する述語が書く前から決まっていたという印象ではなく、いったん主語をいってから、さて、なんとことばをつづけようかと一瞬悩んでいるような、いいかえると、むりやりことばをひねりだしたような感じがする。悪く言うと、主語を言ってしまったから、述語を言わなければならなくなった。まあ、いいや、なんでも言ってしまえ。というような、捨て鉢(?)な印象がどこかに漂う。
 そして、その捨て鉢な雰囲気というか、ことばに対する無責任さ(?)が、とてもいい。詩なんてねえ、というと詩を書いているひと(それから読んでいるひと)に対して、ちょっと申し訳ない気もするけれど、詩なんてねえ、いいかげんなものだ。いいかげんというのは、たとえば、法律とか、日常の約束とかに比べて、という意味だけれど。
 詩に書かれていることがほんとうである必要はない。ほんとうかどうかなど、どうでもいい。ことばが動いて、その動きの瞬間瞬間に、いままで気がつかなかったような何かが輝けばいい。輝くだけではなく、それが落とし穴だったとしても、とてもおもしろい。日常体験できなかったことが、ことばとして体験できればそれでいい。
 「この手は」と一気に言って、それからちょっと間を置いて「愛撫する特技が(間)ありますね」なんて、手相占いの呼吸だね。(知らないけれど--私の感想は、いいかげんだねえ。)手相占いなんて、ことばは、その場その場で選ばれるものだろう。相手の反応をちらちら見ながら、このひとはどんなことばを求めているのだろう、何を言ってもらいたくて(聞きたくて)ことばを待っているのだろう--という呼吸をはかりながら、ことばを動かす仕事だと思うけれど、その雰囲気の、一種の「でたらめ」のなかに、ことばの自由がある。「真実」かどうかは、受け手が考えればいい。どんな「意味」があるかは、受け手が考えればいい。ことばとことばの脈絡を切断し、ことばを自由に動かしてやればいい。
 そして、詩というのは、その脈絡を切断されたことばが無軌道な(流通言語からみると無軌道な、という意味だけれど)結合を繰り返し、その結合の運動そのもののエネルギーになってしまえば、それでいいのである。

 神尾の詩の印象は、ユーモアを書きながら、どこか粘着力があり、苦しい感じが残っていたが、「たんぼのことば」「その手」には、いつもの「苦しさ」が隠れている。たぶん、3行ほどずつの「連」という構成が粘着力を窮屈に感じさせないのだろう。空白、1行あきの呼吸が、ことばの脈絡を軽くする。脈絡はあっても、それが「飛躍」になっている。それが楽しさを呼び込んでいる。

 粘着力を保ちながら、その粘着力がおかしい(楽しい)作品も、もちろんある。「むずかしい顔」「蚊の手帳」が愉快だ。「蚊の手帳」の方を引用しよう。

単純な
手帳である
刺したのは
やわらかい肉だったのか かたい肉だったのか
吸った血は
うまかったのか まずかったのか
ただ その二種類の
報告だけが
饂飩のように綴られていく

 なぜ、「饂飩」? 何、これ? 神尾は何を書いている?
 たぶん、この詩を「朗読」で聴いたら、そう思うだけだろう。けれど、「読む」と違うねえ。私は、声をあげて笑ってしまった。
 うどん、って、すするよね。「すする」は「啜る」。ほら、「綴る」そっくり。音もにていないことはないけれど、文字はそっくり。
 神尾は、ほんとうに「蚊」のことを書きたかったのかなあ、それとも「啜る」と「綴る」という文字が似ていることを発見して、それを書いてみたかっただけなのかなあ。わからない。わからないし、まあ、そんなことは関係ないね。ただおかしい。
 突然の「うどん」の飛躍がおかしいし、なぜわざわざ「饂飩」などというむずかしい漢字をかいたのかなあ、というと、「綴る」「啜る」の文字を「頭」のなかに呼び込むためだったんだねえ、ということもわかる。
 饂飩のあとの展開もおかしいよ。

情けないほどまでに とぼしい筆圧を
ともなって
哺乳類誕生の歴史を 祝う
正しい
手帳でもある

 なぜ「哺乳類」なのかなんて、まあ、どうでもいいな。(私にとっては、という意味ですよ。)「饂飩」「情けない」「とぼしい」。そこから、なんとういか、「蚊」ではなくて、人間が見えてくるでしょ? 「とぼしい筆圧」なんて、人間っぽいねえ。人間的な、人間的な、あまりに人間的な--という感じ。
 神尾は、この人間的な、あまりに人間的な、かなしいおかしさを書きたいんだなあということが伝わってくる詩である。
 この詩(「蚊の手帳」)は、「たんぼのことば」のように、短い連の構成ではできないないが、それぞれの行が短く、それがリズムを軽くしている。軽いリズムを獲得したとき、神尾の詩は楽しさが倍増する--そんなことも思った。





七福神通り―歴史上の人物
神尾 和寿
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(117 )

2010-03-18 20:12:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「六月の朝」には、とても変なところがある。

ひじり坂と反対な山に
暗い庭が一つ残つている
誰かが何時種を播いたのか
コスモスかダリヤが咲く。

 タイトルは「六月の朝」。6月に、コスモスやダリヤが咲く? コスモスかダリヤというけれど、コスモスとダリヤは見間違えるような花? まさかねえ。
 どうしたんだろう。西脇は何を書きたかったのだろう。
 ぜんぜん、わからない。(西脇ファンの人、教えてくださいね。)
 西脇の名前がなかったら、この4行で、私はこの詩を読むのをやめていると思う。でも、西脇の全集のなかに入っているので、私は読みつづける。
 そして、まあ、私はいいかげんな人間にできているらしく、いまさっき、これはいったい何? と思ったことを忘れて、やっぱり西脇のことばの動きは楽しいなあ、と引き込まれていく。

ヴェロッキオの背景に傾く。
イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

 ヴェロッキオ、イボタ。前者はイタリアの彫刻家・画家。後者は日本の(?)、初夏の白い花。ぜんぜん関係ないものが、カタカナの音のなかで交錯する。「意味」ではなく、「音」そのものが楽しい。濁音が意識を攪拌する。
 そして、この音は、その前の「コスモスかダリヤが咲く。」の濁音と呼応しているのだ。「コスモスかダリヤ」というのは「実景」ではなく、この詩のことばの音楽を活性化するために、わざと書かれたことばなのだ。
 「ひじり坂」「反対な山」「暗い庭」。この日本語たっぷりの音。そこから脱出するための、音の飛躍。そこにどんな植物が書かれていようが、それは「視力」を楽しませるものではなく、「聴力」を楽しませるためのものなのだ。だからこそ、せせら笑いが「きこえてくる。」なのだ。「繁み」に女を隠し、女を隠すことで、それまで見たもの、コスモス、ダリヤ(ほんとうは存在しない)を隠す。そこには何かを「隠す」繁みと、その奥から聞こえてくる「音」だけがある。
 そういう操作をしたあとで。

      よくみると
ニワトコにもムクの気にも実が
出てもう秋の日が悲しめる。

 もう一度、「視力」にもどる。そのときは、濁音は隠れてしまう。清音が、いま、ここを、いま、ここから引き剥がしてしまう。秋へ。しかも、秋の日の「悲しみ」へと。
 ここには視覚と聴覚の、すばやい交錯、錯乱、乱丁がある。

 あ、乱調と書くつもりが、「乱丁」か。
 私は脱線してしまうが、「乱丁」の方がいいかもしれないなあ。入り乱れて、それを無意識にととのえようとする精神がかってに動く。そのときの、軽い美しさ。美しさの軽さ。--西脇のこの詩には、そういうものがある。
 それは、次々に展開している。音を遊びながら。

キリコ キリコ クレー クレー
枯れたモチの大木の上にあがつて
群馬から来た木樵が白いズボンをはいて
黄色い上着を着て上から下へ
切つているところだ キリコ
アーチの投影がうつる。キリコ
バットを吸いながら首を動かして
切りつづけている。

 キリコ、クレー(画家)と木樵。「キリコ」「きこり」。かけ離れたものが、ことばの、その音のなかで交錯する。出会う。「群馬」「バット」というのはほんとうかな? ほんとうは違っているかもしれないけれど、ここでも「音」が選ばれている--と私は感じる。
 音優先の、ことばの動き。それは、まだまだつづく。

        おりてもらって
二人は樹から樹へと皮の模様
をつかつて永遠のアーキタイプをさがした。
会話に終りたくない。
彼はまた四十五度にまがつている
古木へのぼつていつた。
手をかざして野ばらの実のようなペンキを塗つた
ガスタンクの向うにコーバルト色の
鯨をみたのか
      アナバースの中のように
海 海 海
群馬のアテネ人は叫んだ
彼のためにランチを用意した
ヤマメのてんぷらにマスカテルに
イチジクにコーヒーに
この朽ちた木とノコギリのために--。

 いま、ここにある風景と、いま、ここにない風景が音のなかで出会い、動く。衝突のたびに、「永遠」がきらめく。永遠とは、不可能、あるいは、不在そのものかもしれないが、そういう意識を笑うように、最後にあらわれる「ノコギリ」。
 あ、その音のなかに「キリコ」がいて「木樵(きこり)」がいる。まるで、「ノコギリ」というのは、「キリコ」と「きこり」「の・コギリ」みたい。「の」というのは「助詞」です、はい。



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西脇 順三郎
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