詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英「世界に影が射すと」、樋口伸子「偽装詩人になるまで(3)」

2010-07-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「世界に影が射すと」、樋口伸子「偽装詩人になるまで(3)」(「耳空」3、2010年06月25日発行)

 私は詩を読みながら、そこに書かれていることとは関係ないことを考えるのが好きである。この詩人は何がいいたいのか、この詩人の思想はこうであるとかということを、分析的に考えるのではなく、詩人の思惑とは関係なく、ただ、そこに書かれていることばからかってにあれこれ考えることが好きである。
 きのう、北川透の詩を読みながら、

嘘つきは詩人の始まり

 と思った。そのとき例に引いたのが(あ、私ではなく、北川が「うそ」として引いていたのが)、「父はやせていたからスープにするしかないと思った。」である。谷川俊太郎のことばである。このとき「うそ」は北川によって、谷川から分離された。いや、それは谷川のことばであり、谷川俊太郎という「署名」つきで引用されているのだが、ことばを「署名」といっしょに引用することによって、不思議なことに「うそ」と「谷川俊太郎」が分離した。
 「父の死」そのものを読んでいたとき、私はそれが谷川俊太郎のことばであると理解しながらも、なぜか、自分の「肉体」のなかで動いていることばとして感じていた。具体的にいうと、谷川は谷川の父・徹三のことを書いているのだが、私は谷川のことばを読みながら「徹三」ではなく、私自身の「私の父」のことを思っていた。ことばは、谷川のことばであるけれど、同時に、私自身のことばでもあった。
 ところが1行だけ取り出され、谷川俊太郎という名前といっしょにならべられたとき、それは「父の死」を読んだときのように、私の「肉体」のなかで私のことばにはならなかった。同時に、そのとき谷川俊太郎の「肉体」も消えていた。ただ「名前」がそこにあって、それと「父はやせていたからスープにするしかないと思った。」があった。それは谷川俊太郎の「肉体」から分離したことばであった。
 引用によって「肉体」から(たぶん--詩ということば全体、「ことばの肉体」からと言い換えると、わかりやすくなるかもしれない)、分離され、「名前」に結合されたとき、そこに不思議な化学変化みたいなものが起きて、それが「笑い」になった。
 「笑い」が「うそ」を対象として、自己から分離した。分離させた。そこには、どんな「肉体」もない。ただ「頭」がある。思考がある。「肉体」から分離した「思考」、「肉体」の外にある「思想」というものは、どれもこれも、奇妙におかしいもの、笑いを誘うものである。
 そういうことを自覚しつつ、どうやって「肉体」につなぎとめるか。「うそ」をどうやって「肉体」にとりこむか。つまり「うそつき」になるか。
 逆説的ないい方になるが、北川が谷川の「父はやせていたからスープにするしかないと思った。」を「ことばの肉体」から分離し、「名前」と結合することで「うそ」を明確にし、わらいとはした瞬間、逆に、「父はやせていたからスープにするしかないと思った。」が谷川の「肉体」(ことばの肉体)と緊密につながっていることが明確になったのだ。そのつながりの緊密さ--そして、その緊密さのなかで、「悲しみ哀しみ・愛しみ」になっていることが、逆説的に証明されたのだ。
 うそ--詩人のうそ、うそつきの詩人は、そういうものでなければならない。
 「肉体」から切り離されたら「笑い」、「肉体」と結合されたら「悲しみ・哀しみ・愛しみ」という「矛盾」とともに存在するものでなければならない。

 と、ここまでが、前書き。

 渡辺玄英「世界に影が射すと」。渡辺は不思議な詩人で、マンホールとか水道管とか、都市の地下にあるものが詩のなかに出てくると、とてもいい感じになる。(と、私は思っている。)

マンホールの蓋を踏んで歩く
まだ世界は崩れない
次のマンホールまでゆるゆると線をつないで
ふみはずさないように
朝だ(昼だ(夜だ
まだ破裂しないアスファルトの上の

 「都市の肉体」、その見えない内部を意識するとき、渡辺の「肉体」が厚みをもちはじめるのかもしれない。「まだ世界は崩れない」「まだ破裂しない」とくりかえされる「まだ」という時間の「間」が、「肉体」の「厚み」、「肉体の内部の層」の「間」を増幅させる。「間」と「間」が響きあい、それがそのまま「都市」の「層」にもつながっていく。
 渡辺は主として「表層」をことばで駆け抜けるのだけれど、その「表層」が、どこかで「深層」を引っかき回す--そして、それが「世界」になっていく、という感じが、「都市の地下」をことばの運動のなかにとりこむとき、リアルになる、ということかもしれない。
 で、そういう作品のなかに、「うそ」が出てくる。うそつきは詩人の始まりの、うそが。--といいたいけれど、ちょっと違う。

(パズルの正解はここにしかない(というキオクのうそ
(「全世紀の暗渠を走るしめった火花」(というキオクのうそ
あたりには
日射しと日陰とくうきのにおい
ちきうのハカリが傾かないように そっと
マンホールの蓋を踏んで歩く

 渡辺の「うそ」は「笑い」にならず、「悲しみ(センチメンタル)」とだけ結びついている。「キオク」と渡辺は書いているが、それは「頭脳」の「キオク」であって、「肉体」の「キオク」ではない。--少なくとも、私は「パズルの正解はここにしかない」「前世紀の暗渠を走るしめった火花」を、「肉体」と結びつけることができない。「マンホールの蓋を踏んで歩く」は「肉体」と結びつけることができるのだけれど。

 こうなってくると、ちょっとつらい。
 渡辺は「頭脳」で「うそ」をついている。そうすると、渡辺のことばを追いかけるには、「肉体」ではなく「頭脳」が必要になる。
 「肉体」というのは不思議なもので、何度も書いてしまうが、路傍で誰かが腹を抱えるようにしてうずくまっていると、あ、このひとは腹が痛いのだとわかる。他人の肉体の痛みなんて、自分の肉体の痛みではないのに、なぜか、わかってしまう。そういう力を「肉体」はもっている。
 ところが。
 ある「問題」について、誰かが「頭」をかかえてうなっている。そのとき、その「頭脳」の「痛み」をわかるのは同じ問題を考えたことがあるひとだけなのである。
 「頭脳」の「共有」はかぎられたひとにしかできない。渡辺が都市の表層を駆け抜けるとき、その表層はあくまで、渡辺と同じ「頭脳」によって「共有」された「表層」である。

(少佐! 助けてください! 敵が見えません!

 たとえば、という行が途中に出てくるが、この「出典」が私にはわからない。「マンホールの蓋を踏んで歩く」は「肉体」で追跡できるが、「(少佐!……」は、何によっても追跡できない。
 こういうのは「うそ」ではない、と私は思ってしまう。
 そして、渡辺は「キオクのうそ」とはっきり書いていたなあ。そうなんだなあ、キオクのうそなんだ。「頭脳」のうそなんだ。
 これが「笑い」になるのは、「頭脳」派集団という、特別な「場」でおいてだけだろうなあ、と思う。



 「頭脳派の笑い」「頭脳派のうそ」といえば……。樋口伸子「偽装詩人になるまで(3)」。あとがき(?)によれば、樋口は学園紛争当時東大で働いていたらしい。そして、そこで「盗作詩・無断盗用詩」(パロディー)を書いていた。それが「真面目な活動家に受けた」そうである。
 東大だから「頭脳派」というのは短絡的ないいかになるけれど、少なくとも似たような「知」を共有している集団である。「盗作詩・無断盗用詩」の「出典」が「共有」されている。だから、そこでは「笑い」が生まれる。「うそ」の詩、ニセモノの詩、--それが「うそ」であると判断できる「頭脳」によって、それは「うそ」になるのだ。
 「うそ」は最初から「うそ」なのではなく、受け手がいて「うそ」になる。

また本か。
恋しいな、気障な奴らのいないこと
銭やお辞儀のないとこが。
またひとりのイソーローが
慢性孤独病で死んだ。
みてくれはおかしかったが
垢抜けのした奴だった。
ああ天下のことは日々に非なりだ。

 これは「ジュウル・阿呆ルグ」という「署名(?)」をもつ「イソーローの死」という作品である。
 こういう作品を「笑い」として受け止めることができるのは、「知の解体」をめざしていた学園闘争のさなかの「頭脳」集団である。

 嘘つきが詩人の始まり、であるとしたら、嘘をつくにも相手を選ばなければならない。あ、違った。嘘つきと付き合うには、どんな種類の嘘なのか判断して詩人を選ばないとね--だって、嘘によって、読者があらかじめ選別されているんだから。
 
 樋口のように、最初から「これは嘘」と明言し、同時にかぎられた「場」で読まれることを想定して書かれたものは納得ができるけれど、誰にでも開かれたふりをして、その実「頭脳」を限定してくる渡辺のことばのような作品は、私は苦手だ。


けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社

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北川透「螺旋的体験」ほか

2010-07-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「螺旋的体験」ほか(「耳空」3、2010年06月25日発行)

 北川透「螺旋的体験」は「道具的体験」というタイトルのうちの一篇。螺子を起点にことばを動かしている。

螺子のフリーセックスはエロチックでない。規格品同士の愛なんて。
女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。さぁ、祭りの始まりだ。
螺子の喜びは結合にはない。恋愛が結婚制度として固定されてはね。
ネジは自分の体に彫られた、つる巻線によってオーガズムに達する。
螺子の入る円筒の内に螺旋構造がなければ、地下室までは行けない。
ボルトがナットに馴染む為には、固さだけでなく緩みが必要である。

 「螺子」と「ネジ」。つかいわけてるのかな? 螺子には雄ねじ、雌ねじがある。「女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。」を手がかりにすれば、「ネジ」は「女ども」に誘われるから男(雄ねじ)? そうすると螺子は女? まあ、いまの時代、セックスは異性同士がするとはかぎらないから、「女どもが花盛りの車輪にネジたちを誘った。」だけで、どっちが男、どっちが女なんていえないかもしれない。
 でも、どうしてなんだろう。
 螺子-結合、というと、どうしてセックス、どうしてエロチックなものを連想するんだろう。
 でも。
 そんな単純な連想は、北川にしては、想像力の暴走の度合いが小さくない? 「ネジは自分の体に彫られた、つる巻線によってオーガズムに達する。」や「ボルトがナットに馴染む為には、固さだけでなく緩みが必要である。」は、その「しつこさ」によって笑いを誘うけれど、「想定の範囲内」というものじゃないかなあ。
 と、思っていると。

螺子が螺旋状に登り詰める体験がなければ、一篇の詩も生まれない。

 突然、変なことばが入ってくる。「登り詰める」がセックス、オーガズムを連想させるけれど、螺子って「登り詰める」もの? その前には「地下室までは行けない」--下るものとして書かれている。
 変だねえ。
 変だけれど、変だからこそ、これでいいのだ、とも思える。「下る」ことが「上る」こと。「体験」というのは、どっちともとれるのだ。一方じゃなくて、矛盾した方向に「肉体」が押し広げられる。セックスというのは、自分の「体験」だけれど、相手の「体験」でもあり、それがからみあっている。矛盾している。矛盾していて、それが矛盾じゃなくなる。
 --たぶん、そこに「生まれる」ということが関係している。
 「産む」じゃなくて「生まれる」。

 ここで、こんなふうに飛躍するのは変なのかもしれないけれど、ここ2、3日考えていたことのついでに書いてしまうと、北川のことばは、男のことばだねえ。「産む」とは言わない。無意識(?)の内に「生まれる」を選んでしまう。
 何かを体験する。そして、その体験が何かを「産む」のではない。その体験から何かが「生まれる」。その「生まれる」という仕組みは、たぶん、男の「肉体」からは「産む」という形でとらえることができない。それは、ある意味で、突然の変化なのだ。肉体のなかでじっくり育ってきて、やっと、それを「産み出す」のではなく、わけのわからない一瞬があって、突然、生まれる。
 またまた変な表現をつかえば、それは射精のようなものだ。
 射精と「産む」が違うのは、射精には、その「肉体」から出て行くものが成長(?)する実感がないということだろう。他人にもそれが大きくなる(たまっていく?)のが、外からはわからない。たしかに、その瞬間はわかるけれど、でもどうしてその瞬間がやってくるか、女が子どもを「産む」ようには、明確に把握できない。
 それは、どうしよもない「突然」なのだ。「登り詰め」て、その結果「生まれる」。

 あ、私の読み方は、またまた「誤読」? ねじまげ?
 でも、たぶん、それでいいんだろうと私は思っている。北川の思考を正確にとらえ、それを肯定する、あるいは否定するということばの反応のほかに、北川のことばから何を考えるか、どんなふうに考えることができるか、とことばを動かしていくことがあってもいいだろう、と私は思っている。
 それに、ほら、北川のことばもどんどんかわっていく。

全ての思考する機械の運動に、オネジとメネジの原理が働いている。

 これは、何かに侵入していくこと、何かの侵入を受け入れること、かな? どんな思考も、他者のなかへ侵入しながら考え、他者を受け入れながら考える。たしかに、オネジ、メネジの相互作用がある。そして、そこにはそれぞれの「固さ」と「緩み」があって、そこから新しい何かが「生まれる」。
 北川のことばは、そして、どんどんかわりる。そこには「ねじ曲げる」も登場する。

螺子巻く。ねじ切る。ねじ込む。ねじける。ねじ曲げる。ねじ向け。
ネジだ。ネジだ。ネジが狂っている。ネジが外れた。捩子腐りだぜ。

 「ねじける。」ということばに、私は、「ネジが外れた」ように笑ってしまった。この最後の2行は、それまでのエロティック、セックスからはじまったことばの運動に比べると、なんだか「ネジが狂っている」状態だけれど、奇妙におもしろい。
 2行目にでてきたネジの「祭り」って、こういうこと? わからないけれど、楽しい。私は結局私が楽しんだことを北川のことばのなかに「ねじ込む」のだ。

 「うそつき機械的体験」もとてもおかしい。

真実を告白します、というツールを通し、わが嘘つき機械の始まり。
告白します。わたしは浴場で少女を犯しました。ドストエフスキイ。
夜明け。イエスは湖上を歩いて、弟子たちの所へ行かれた。マタイ。
労働者のために誰が一番尽くしてくれたか。ヒトラーさ。セリーヌ。

 「正直」は「嘘」になる。--うまくいえないが、何かを裏切る。
 ことばの過激な運動。それは、正直と嘘を超越して「真実」というものになるのかもしれない。それは「直視」できない。そこからは、つねに何かが「生まれている」。
 この「嘘つき機械的体験」には、私の大好きな「父の死」の一節も入っている。

父はやせていたからスープにするしかないと思った。谷川俊太郎。

 谷川には申し訳ないけれど、笑った。笑ってしまった。そうか。「うそ」か。「うそ」なんだね。いや、そんなことは、言われなくてもわかるのだけれど、「うそ」と言われたときの方が、もっともっと谷川のそのことばが好きになる。
 その一行が好きなのは--それを読むと、なんとなく笑えるからだね。私は、こころのどこかで、その一行を笑っていた。声には出さずに笑っていた。それが北川の詩を読んで、笑ったとき、思わず声が出てしまった。そして、とても明るい気分になった。「父の死」が、もっともっと好きになった。

 嘘つきは詩人の始まり、だね。いや、嘘つきは詩人のてっぺん、だね。


わがブーメラン乱帰線
北川 透
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志賀直哉(10)

2010-07-20 10:03:36 | 志賀直哉

「馬と木賊」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「馬と木賊」は、かなりかわった文章である。「「馬」といふ活動写真は面白かつた。」とはじまるが、「馬」がどういう映画なのか、よくわからない。
 映画は、

 母馬(おやうま)が売られた仔馬を気狂ひのやうになつて、嘶(いなな)きながら探し廻はる場面を見、

 という2段落目(2行目)の途中までに書かれた、それだけである。志賀がこの文書をを書いた当時は評判になった映画で、なんの説明もいらないということかもしれないが、誰が出たとも、どんなストーリーとも書いていない。志賀が書いている部分がクライマックスなのか、ほんのエピソードなのかもわからない。
 文章は、このあと、

私は昔、赤城(あかぎ)の山の上で、はぐれた馬の親子が互に呼び合つてゐるのを見た時の事を憶ひ出した。

 とつづいて行く。
 そして映画ではなく、志賀の実際に見た馬の描写がつづく。はぐれた馬の親子がやっと互いを見つけ出したときの喜びの様子、それが一転して何もなかったかのように草を食べはじめたときの様子を書いている。
 それから突然、能「木賊刈(とくさかり)」で、人さらいに連れて行かれた子どもと老翁が再会し、喜ぶ場面を見たときの感想を書いている。
 老翁の喜びの動きを見て、

馬の親が出会つた喜びに暫く跳(と)んでゐたのよく似てゐた。
 私が「木賊刈(とくさかり)」を見たのは今から凡そ二十年前(まへ)、馬のそれを見たのは二十七年前(まへ)、そして最近活動写真の「馬」を見て、前の舊い二つを憶ひ出した。

 と終わる。
 
 映画の感想は?

 まったくのしり切れとんぼというか、映画などどうでもいいような感じの文章なのだが、不思議に、その映画を見てみたい気持ちになる。
 なぜなんだろう。
 志賀直哉は、「馬」という映画を見て、あたかもはぐれた馬の親子がやっと再会したかのような、そして生き別れになっていた子どもと老人が再会したかのような感覚になったのだ。
 その感情が、そこにあふれているからだ。「映画」の説明ではなく、映画にふれたときの志賀の感情が、そのまま、ルール違反(?)のように、直接、そこにあふれているからだ。みたこともない形であふれているからだ。
 「馬」をとおして、赤城山で見た馬の親子に再会し、能「木賊刈」に再会した。そのとき、志賀は馬の親子のように飛び跳ねていた、老翁のように体が動いていた、ということだろう。志賀は、そのとき赤城山の馬になり、能のなかの老翁になっているのだ。
 --もちろん、こころのなかでのことだが。

 文章の途中、

老翁の感情がその儘に映つて来た。

 という表現がある。この「映る」。これが、この短い文章のハイライトであると思う。
 「映る」というのはふつう「反映」のことだが、「はえる・かがやく」というような意味もある。志賀は、老翁の感情が、老翁の動作のなかから、まるで「いのち」のように輝きだしてきて、それが直接、志賀をとらえた、という意味でつかっていると思う。
 赤城山で馬の親子を見たときも、きっとその感情が馬の動きのなかから光となってあふれだし、志賀がそれにとらえられたというのだろう。
 ある感情が、その感情の主体(馬、老翁)を突き破って、ひかりとなって輝き、あふれだす。それが「映る」。そして、それを見るとき、その「いのち」が志賀直哉に「移ってくる」。
 「映る」から「移る」へ。それは「感染する」(うつる)ということかもしれない。
 そして「移る」「感染する」というのは、ある存在と存在、ほんとうは離れているのに、それが接触するということでもあるのだが、そのときの「離れている距離」というのは、その瞬間消えてしまう。
 志賀は、能を見たのが何年前か、赤城山で馬を見たのが何年前か、わざわざ書いている。それは、そこに書いてある「時間--時の距離」が、映画をみたその一瞬、消えてしまったということだ。
 感動というのは距離をなくし(消して)、「いま」「ここ」にあるものとして「共振」することなのだと思う。
 志賀直哉は、この「共振」を剥き出しの形で、ぐい、と押し出してくる。



志賀直哉全集 (第3巻)
志賀 直哉
岩波書店

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荒木元「空の傾斜 2」、北川朱実「中空の地図」

2010-07-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木元「空の傾斜 2」、北川朱実「中空の地図」(「この場所 ici 」3、2010年06月30日発行)

 詩を読んでいて、その全体が気に入るというのではなく、ある部分がとても好きになるということがある。
 どこが好きで、どこが嫌いか--そういう詩を読むと、自分自身がリトマス紙かなにかで分類されているような気持ちにもなる。いったい私は何か好きなのだろう。そこから少しだけ考えてみるときがある。

 荒木元「空の傾斜 2」の途中。

水たまりはしだいに空を押しひろげ
暗さを増していった

 この2行はとても好きだ。繰り返し繰り返し読みたい気持ちになる。実際、何度も読んでしまう。雨が降って、そしてまだ降っていて、水たまりはしだいに大きくなる。それを水たまりが大きくなるといわずに「空を押し広げる」。そして、「暗さを増して」いく。それは「水たまり」の「暗さ」なのだろうけれど、とても深い。「水たまり」と「空」の間にある「空間」の深さに匹敵するような深さである。
 たぶん、「水たまりがしだいに空を押しひろげ」たときに、そこに意識していなかった空間ができるのだ。そして、そのなかにある「暗さ」が「水たまり」に映り、「暗さを増して」いく。「暗さ」は、「水」そのものの「暗さ」ではなく、「水」が映す「暗さ」。そして、その「暗さ」は単に水に映る、水を深くするというだけではなく、何か「水」をあふれて、空と水のあいだにある「空間」そのものをもかえていくように思えてくる。
 そこでは、水に何かが映る、そして水がかわるということだけではなく、その映し出された何かを見ることによって、その姿を映しだしたもの--それ自体が変わっていくようでもある。
 このイメージは、次のように広がっていく。

駅前広場の一本の木
見あげる空の深さの分だけ
その根方で
からだはふかく沈みつづける

 水を中心にして「深さ」が天と地の両方に、拮抗するように領域をひろげる。「見あげる空の深さ」とは「空の高さ」のことだが、水にとっては、それは「底」へ展開する運動なので、「深さ」になる。そして、「深さ」はのぼるではなく、「沈む」。視線は、空を見上げ、のぼるが、他方からだはその反動で「沈む」。
 この運動は、矛盾するふたつの方向が同時に存在することによって、はじめて成立する。どちらか一方では、おもしろくない。つまり、不思議がない。考えを刺激しない。あたらしい次のことばの運動を誘わない。矛盾だけが、あたらしい運動を誘うのだ。
 だが、その運動がもう一度言いなおされて、次のようになるとき、私はちょっとがっかりする。

雨は
吸い上げたいのちと ひとつづきの静けさで
葉をうちつける

 何がいけないのだろう。何が邪魔してしまうのだろう。
 矛盾を「ひとつづきの静けさ」ととらえなおすのは、とても美しい。そうか、矛盾とは「ひとつづき」であることによって「矛盾」に「なる」のだ、と感心する。気がつかなかった。「ひとつづき」。とてもいいことばだ。いつか、矛盾を説明するときに借用しようと思う。
 感心しながらも、私がつまずくのは、たぶん「いのち」ということばのせいだ。
 「暗さ」「深さ」をつなぐのが「いのち」か。うーん。私は、既成概念にとらわれているのだと反省しながら書くのだが、「いのち」なら「明るさ」「高さ」の方がぴんと来る。「暗さ」「深さ」を「いのち」というのなら、もう少し、その部分を「押しひろげ」てみせてほしい、ことばで読ませてほしい、と感じ、その瞬間に、じれったいような、変な気持ちになる。
 ことばの運動の先を追いつづけるよりも、なぜか、「水たまりはしだいに空を押しひろげ/暗さを増していった」という2行を繰り返し読んでいたい気持ちになる。



 北川朱実「中空の地図」は書き出しにひかれた。

よく見えるから
こんなにも見晴らしがいいから
もう誰ともすれ違うことはないと思ったのに

夜明けに
知らない手が
知らない窓をあけるのを見た

一日が
地上三十メートルから始まるこの部屋は
遠い どんな場所とつながっているのか

 荒木が「ひとつづき」と呼んだものを、北川は「つながる」という動詞で書いている。
地上三十メートルから始まるこの部屋は
遠い どんな場所と「ひとつづき」なのか

 そう書き換えてみるとき、荒木と北川が急接近する。
 そして、その違いも見えてくる。
 北川は「つながる」(つながり)を考えるとき、そこに「ひと」(他者)を差し挟む。「いのち」ではなく、「他者」という具体的な存在を差し挟む。その「他者」は「知らない」ということを出発点としている。「知らない」、つまり接点がない--「ひとつづき」ではない、だから、それを「つなぐ」のである。「つない」で、「つながる」に「なる」のである。
 引用しなかったが、荒木が「葉」(これは引用部に登場する)や「浜辺」「雲」「鳥」というものが「いのち」と「ひとつづき」である。それは「他者」ではなく「自然」というものかもしれない。
 けれど北川の「つながる」は何よりも「人間」なのだ。詩の後半には「友人」が登場する。北川は、その友人に地図を書いている。

日暮れて
帰り道を聞かれて
川を書き 橋を書いたけれど

書くはしから
インクが滲んでいく

水を吸い上げて
紙も
木へ変える途中なのだろう

 あら。
 ふいに、荒木と同じ「木」がでてきて「水」がでてきた。
 この最後に、私は不満(?)をもっているのだが、まあ、それは今回は書かない。
 北川を弁護(?)して言えば、「他人」と向き合うことで、北川自身が「知らないひと」になり、そのとき見えてくるものは「他人」そのものではなく、「他人」と「わたし」をつなぐ、それこそ「いのち」なのだろう。そして、それを書こうとして、「木」にたどりついたのだろう。
 そして。
 その「木」に関して言えば、(これは蛇足なのだろうけれど)、やりは荒木と北川では違う。荒木の場合はあくまで「自然」でしかないが、北川は「木」を「紙」との「つながり」でとらえ直している。人間が手を加え、「木」を「紙」にする。その「紙」が「木」にかえる。それは「人工」と対比しての「自然」である。
 北川のことばにはいつでも「人間」の生き方がひそんでいる。

バザールの雪、黄金の風―荒木元詩集
荒木 元
思潮社

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人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
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アルフレッド・ヒッチコック監督「北北西に進路を取れ」(★★★★★)

2010-07-19 15:23:14 | 午前十時の映画祭


監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ケーリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メイソン

 この映画は、おもしろすぎて、どこから語っていいかわからない。
 まず、最初のシーンがとても好き。タイトルバックなのだが、縦の線と斜めの線が交錯し、それが国連ビルに変わっていく。いきなり国連ビルではなく、人間の描いた線--それが重なり、ひとつの姿をとる。その過程。いわば、無から何かを作り上げていくときの、プロセス。そういうものを見せることで、「映画というのは、ひとの思っていることと、現実をうまく組み合わせてつくるもの。あくまで、ひとの方が先」と宣言している。いまの映画は、いきなりはじまるけれど、昔の映画は、こんなふうにしてゆっくりはじまったんだねえ。いいねえ。
 それから、主役がケーリー・グラントである点がおもしろい。事件にまきこまれて007のジェームズ・ボンドみたいなことをやるのだけれど、タフ・ガイという印象がない。映画のなかにも「いいスーツを着ている」というような台詞が出てくるが、着こなしがとてもいい。今では古くさいスタイルになっているのかもしれないけれど、上着から見えるカッターシャツの襟、袖口--その白のバランスがとても美しい。広告会社の社員という設定だけれど、まさに、ひとを騙して(あ、広告会社のひと、ごめんなさい)、みてくれで勝負するという感じ。そういう人間が、007の世界へひっぱりこまれるんだから、おかしいよねえ。
 さらに、ケーリー・グラントの陰りのない感じ、おぼっちゃま、という感じに輪をかけるのが、母親。まるで、マザー・コンプレックスのかたまり。これもおかしくて、たのしい。そのくせ、女にもてる。顔とスタイルの色気。ほんのワンシーンだけれど、ケーリー・グラントが閉じ込められた部屋から逃げるとき、隣の部屋をとおる。寝ていた女が「出て行って」と言った直後、色男ぶりに気づいて「出て行かないで」と声の調子をかえることろなんか、たのしいねえ。
 ショーン・コネリーも、007のなかでは、冷静でユーモアがあって、あ、イギリス人ならではという感じがしたが、ケーリー・グラントもアクションで見せるというより、ふつうの感じ、ふつうの会話のやりとりの「冷静さ」がイギリスのにおいを残していていいなあ。ヒッチコックの、イギリス人の行動が自然に反映しているんだろうなあ。
 アクションじゃなくて、しらずしらずにまきこまれていくというのが、誰にでも起きそう(?)な感じを誘うのもいい。こういうとき、ほら、ショーン・コネリーだとふつうの感じがしない。ケーリー・グラントの、まあ、ルックスとスタイルは別にして、ふつうの人間っぽい体つき、ものいいが、「まきこまれ型」の事件にはぴったりだよね。
 列車内での追跡なんかも、ゆったりしていていいねえ。最近の映画なら、手持ちカメラで画面を揺らし、カットも小刻みで緊迫感をあおるんだろうけれど、悠然としている。どたばたしない。列車の2階のベッドに隠れ、「窒息しそう」とか「必要なのはオリーブオイル。まるで、オイルサーディンみたいだから」なんていうユーモアを忘れないところが、ヒッチコックだねえ。
 ラストシーンもいいねえ。断崖から女を引き揚げる手のアップ--それが一転してカメラが切り替わって寝台列車の上のベッドへ女を引き揚げる手に変わる。似たようなシーンがいろんなスパイ映画につかわれている(パロディー?)けれど、ヒッチコックが最初にやったんだよね。
 実際にセックスするシーンはないけれど、ここでも「裏窓」同様、女がスリッパを履いていることに注目しようね。トンネルに突入する列車でセックスを表現しているなんて、男根主義丸出しの見方があるのだけれど、私はフェミニストなので、靴ではなくスリッパでセックスが象徴されている、と指摘しておきますね。
                           (午前十時の映画祭、24本目)

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中島悦子「カメレオンの粉」ほか

2010-07-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子「カメレオンの粉」ほか(「孔雀船」76、2010年07月30日発行)

 中島悦子「カメレオンの粉」も、きのう読んだ岩佐なをの「御案内」と同じように何が書いてあるかわからない。ただし、その「わからない」はずいぶん性質が違う。

沙漠に生きる空白のカメレオンを干物にする

カメレオンはまじないの粉になる。密かに飲ませるのに成功すれば、カメレオンの寿命と同じになるという。カメレオンの粉は、毒ではない。あくまでまじないの力によると、スークの呪術師に言い含められている。心の中の殺意が現実になりますように、なりますようにと。呪術師は灰茶の小さなカメレオンの干物を手品のように動かす。

 「スーク」がわからないといえばわかるけれど、カメレオンが生きているところの部族(?)のようなものだろう。私はいいかげんな読者なので、それくらいで満足する。だいたい、カメレオンも実物を見たことはないから、ほんとうにいるのかどうか知らないのだから……。
 で、そのカメレオン。中島は「空白のカメレオン」と書いている。これは、わからないねえ。ふつうのカメレオンがいるかどうかも私は知らないのにこんなことを書くと変だけれど、このときの「わからない」は実は、そんなものいるわけないだろう、でたらめ書くなよ、である。
 が。
 でたらめ書くなよといいながら、矛盾したいい方になるが、このでたらめ、「空白のカメレオン」が、この詩のなかではいちばんよくわかるのだ。
 変でしょ?

 変だけれど、詩では、こういう変なことがいちばん大切だ。

 空白のカメレオンは「空白の」ということばと「カメレオン」ということばでできている。この「できている」ということのなかに、詩、がある。あることばと別なことばが結びつく--いや、結びつかせてしまう。そのときの、その「結びつき」のでき方のなかに、岩佐のことばを借りていえば、ことばとことばの「結びつき」の「スキを衝きスキマを通ってややってくる」何かがある。それが、詩。
 実際には存在しない(生きていない)のに、「空白の」と「カメレオン」が結びついたとき、そこにいままで存在しなかったものが、存在してしまう。ことばは、不在を存在させてしまう。その力--それが、詩。
 そういうものが、いま、この瞬間にある。--これは、何よりも明白に「わかる」。

童話のように虹色の目玉をしたカメレオンが、虹色の干物になって、虹色の粉になる。それが砂漠漠の砂に混ざっていくという幻想。カメレオンの心だけが混ざっていく砂漠。

 ここも、おもしろいねえ。わからないけれど、わかる、という部分だ。
 「という幻想」ということばがなければ、この作品はもっと楽しい。というか、それって「幻想」って書いてしまえば、詩じゃなくなってしまうよ。
 「幻想」ではなく、虹色の粉も、「空白のカメレオン」も現実。ことばがつくりだした現実であるときに、詩、になる。
 それが「幻想」にもどるとき、詩は消えてしまう。
 詩は読みたいけれど、幻想は読みたくないなあ。幻想なんて、どんなにリアルだ、リアルだと本人がいったって、そりゃあそうでしょう。その人のものであって、そのひとにとってリアルでないものなんて、何もない。そうではなくて、そのひとのものなのに、読者のものになってしまうもの--それが詩。
 詩は、読んだひとのもの。



 尾世川正明「フラクタルな回転運動と彼の信念」。1連目が非常におもしろい。

ウォーキングの場所として公園の遊歩道があって
遊歩道が池をめぐるタマゴ型で少し波打っていて
周回中には対岸がいくどとなく近づいたり遠のいたりする
彼はむかしからそのことに深い意味をみつけていて
朝の運動は彼にとっては聖なる儀式のひとつになっているらしい

 ことばの運動が、前に書いたことばをひきずりながらゆっくり進む。ゆっくり進むと、なんだかわからないがヘンに歪む。何かが「近づいたり遠のいたりする」感じがする。書かれていることばは全部わかるが、そしてそこに書かれている「意味」も半分くらいはわかるつもりだが、この半分くらいわかるというあいまいななかに、ひきずりこまれ、あれ、何がわかって、何がわからないのかなあ、判然としないなあという感じがいいのだ。
 中途半端。
 尾世川が、彼のことばが中途半端というのではなく、読んでいる私のなかで、私のことばが中途半端になる。どこへ動いていくべきなのか--それがわからない。わかるのは、あ、尾世川のことばについていってみたいという気持ちが起きる、ついていくしかない、という気持ちになる。
 誘われる。次のことばへ次のことばへと誘われるのだ。

公園の周回路は一周が約2キロほどあるので
一周回ればからだがあったまって筋肉はしなやかに
二週回ればエンドルフィンは下垂体からあふれ
百周でも千周でも永遠に歩き続けられるような高揚感に
腰は柔らかくしなり足はバネのように軽く弾む

 「エンドルフィン」「下垂体」--聞いたことがあるけれど、よくわからない。(笑い--笑ってごまかすな、という声が、私のなかからも聞こえてくるのだけれど)、このよくわからないことばが効果的だなあ。
 あ、私の中途半端にとって、という意味です。
 引きずり込まれ、尾世川の書いていることを信じるしかない。そうすると、「腰」とか「足」とか、充分に知っていることばがでてきて、その一方で「腰は柔らかくしなり」って、ええっ、そうなの? そうかもしれない、と不思議な気持ちになる。
 中島の書いていた「空白のカメレオン」と同じように、ことばにした瞬間、書いた瞬間、そういうものがあるかどうかは別にして、それが存在してしまう。腰はやわらかくしなるものでなければならない、と思ってしまう。
 こういうことばの運動のなかに、詩がある、と思う。



 望月苑巳「定家卿の花鳥風月スケジュール」も、うそとほんとうが交錯し、その「交錯」そのものが「事実」に、つまり詩に「なる」ことを証明している。
 詩は、ことばによって、「なる」ものなのだ。

苔むす石段を降りると
ウェディングドレスの裾に、結婚行進曲がまとわりついている
祝宴はとうに始まっていた。
定家は自分も願わくば
こんなところで式を挙げてみたかったと悔やむ
慌てて祝辞を得意の歌にしてみた。

掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞたつ

 定家とウェディングドレスでは時代が違う。だから、定家がここに書かれているようなことをほんとうに思うわけではないだろうけれど、それをことばで思わせてしまうのだ。そして、そこからことばが自分勝手に運動を始める。詩人は、その運動につきしたがうことのできるひとのことである。

マッチ売りの偽書
中島 悦子
思潮社

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岩佐なを「御案内」

2010-07-18 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「御案内」(「孔雀船」76、2010年07月30日発行)

 岩佐なを「御案内」は最初は何が書いてあるか、わからない。

ウォガマラマンダビャリ
その性質
ウォガマラマンダビャリ
わるくない

 カタカナ難読症の私は1行目でつまずいてしまう。いきなり読めない。「ウォ」までは読めるが、次は1字ずつ。そして「ビャリ」までたどりついたら「ウォ」しかおぼえていない。
 ついさっき、感想を書くために転写したのだが、やっぱり読めない。正しく転写しているかどうか、自信がない。(まちがっていなかったら、奇跡。)1行目はキーボードを打ったが、3行目はコピー&ペースト。読んでいるふりをして、私は3行目を読んでいない。このあともう一回同じ行が出てくるが、やはり私は読んでいない。
 なぜ、こんなことを書いているかと言うと……。
 私は詩を読むとき(あるいは、どんな文学作品を読むときでも)、読んでいない行がある、読めない行があるからであり、この読めない、あるいは読まないというとこが、しかし、とても重要なのではないかと考えるからである。
 私のような考えは邪道かもしれない。文学というのは、ひとつひとつのことばに作者の「意識」が存在しているから、それをないがしろにしてはいけない。そういう考えが「正当」な考え方かもしれない。先日読んだ澤正宏の「『ギリシア的抒情詩』の奥深さ」というのは、西脇のことばがどこから出ているか、それをていねいに解明したものだが、そういう読み方が「正しい」読み方なのかもしれない。けれど、私は、そんなふうに全部読んでしまうと何かおもしろみがないような気がしてしようがない。
 わからないものはわからないまま、ほうりだしておく。知らない。わかる--と自分が信じていること、わかるとと言ってしまえること(それが「誤読」であっても)、それを踏まえて、何かを考える、あるいは何かを感じる--感じるという運動をすることがおもしない。
 そして、強引に言ってしまうと、岩佐もそんなふうに考えている詩人なのでは、と思うのだ。(あ、これは、我田引水の典型だね。)

スキを衝きスキマを通ってやってくるといわれている
実体がないともいわれている
夢のなかには棲まない
もちろん現実に馴れ親しまない

 これは「ナントカカントカ」 のことだが、やっぱりなんのことかわからない。(「ウォ……リ」というのはコピー&ペーストするのも面倒というか、私の意識を正確に書き表すことにらないないので、「ナントカカントカ」と私が意識しているままに、書いておく。)そのナントカカントカは、何かわからないけれど、「スキを衝きスキマを通ってやってくる」と書かれると、私は、あ、岩佐はこのナントカカントカが「好き」なんだなあ、と思ってしまう。だから何とか、それを書きたい。自分が好きなものをひとに教えたい、そう思っているんだろうなあと思いながら読む。
そして、そのナントカカントカは「夢のなかにも棲まない」--あ、考えてしまうなあ。感じてしまうなあ。そのナントカカントカがすごくリアルに迫ってくる--というのは矛盾だが、それを知りたい、と思うようになる。
 ナントカカントカって、何なのさ。はやく教えてよ。

(眠るときどんなまくら)
自分でよこになるのではなく
さいごによこになってもう立ち上がらないとき
あたまに何をあてられるか
ふつうは枕だとおもっている
後頭部もそうおもっている

 「まくら」は「夢」のつづきで出てきたことばだろうけれど、あれ? 何か変。何を書いている? 何かずれていっていない? と思いながらも、「自分でよこになるのではなく/さいごによこになってもう立ち上がらないとき」って死ぬとき? 死ぬって、自分で横になるのじゃないわけ? 誰かが横にしてくれるの? なんて変なことを思いながらも、何かが少しわかったような気持ちになる。
 たぶん、「自分でよこになるのではなく/さいごによこになってもう立ち上がらないとき」ということばのなかには、「日常の論理」があるからなんだね。「死」についていの一般的な常識、論理--「さいごによこになってもう立ち上がらない」ことを死と呼ぶという日常の論理、死の説明のようなものがひそんでいるから、何かがわかったような錯覚になる。
 そして、死の「日常の論理」でいえば、そういうとき「北枕」ということになる。そこから「あたまに何をあてられるか/ふつうは枕だとおもっている」ということばも出てくるのだろう。
 それはそれでいいけれど(何がいいんだろう?)、次の

後頭部もそうおもっている

 これは何なのさ。「ふつうは枕だとおもっている」の「主語」は何? だれ? 岩佐? 読者? ふつうの人々? わからないねえ。「後頭部」って死んだひとの後頭部? それって、死んだひとが思っているということと同義?
 何だかわからないけれど、その変なものが、それこそ「日常の論理」、あるいは「ことば」そのものの「スキを衝きスキマを通って」突然あらわれてきたように感じてしまう。

後頭部もそうおもっている

 なんて、ほんとうにそう思っているのかどうか、確かめようもない。「後頭部」は返事をしないでしょ? でも、そういう変なことを「ことば」は書くことができる。「ことば」にすることができる。「ことば」は「実体」といっていいのかどうか、そういうものがなきこと、不確かなことを書くことができる。そして書いてしまえば、それがどういうものであれ、ことばの運動のなかで「事実」になってしまう。
 他人の書いたもの(たとえば岩佐の書いたもの)を、私が読んでかってな意味・解釈を書き加えることを「誤読」というが、それでは、岩佐が事実を踏まえずに書いたこと、想像で書いたこと、たとえば「後頭部もそうおもっている」はなんと呼ぶべきことがらなのか。「誤記」? うーん。ちがうなあ。「後頭部もそうおもっている」というのは事実に対する岩佐の「誤読」だろう。あるいは「捏造」だろう。「捏造」を書いたものだろう。「うそ」を書いたものだろう。そして、不思議なことに(でもないのかな?)、そういう「捏造」のなかには、そう思いたいという揺るぎない事実--岩佐の思いが反映している。うそ、捏造なのだけれど、それは岩佐の思っていることを正確に反映している。そういう「正確」をことばの運動のなかで「事実」になったもの、と私は考えるのだけれど……。
 言い換えると。
 岩佐は、いわゆる「現実」の「事実」を書いてはいない。岩佐はいわさのことばの運動のなかで「事実」になってしまったものが、どんなふうに運動していけるか、そのことを書いている。岩佐は「ことば」を動かし、ことばというものがどこまで動いていけるか、後ろからせっついているのである。(あるいは、前から引っ張っている、かもしれない。)
 
 詩のつづき。

それからどこへ連れて行かれるかは
わからなくて
(おまかせでいい)
意識のむこうの
案内係
待ってました
ウォガマラマンダビャリ
外国人じゃないんだよ。
ふんふん。
言葉は使わず威力ももちいず
ていねいにひとりびとりを
案内する
悪者としてではなく
紙石鹸くらいのうすい気配で

 「ナントカカントカ」は三途の川の案内人のように思える。「それからどこへ連れて行かれるかは/わからなくて」のすぐあとには、「いい」が省略されている。そして、その「いい」は次の(おまかせでいい)の「いい」のなかに強く甦ってきて、断定になるのだが、この(おまかせでいい)のいいかげんさというか、日常的な小料店かなにかでの注文みたいな感じが、死を日常にぐいとひきつける感じがいいなあ。
 そんなふうに、「ナントカカントカ」がなんとかかんとか、わけのわかるものになってしまったあと。
 あ、そこからが、見事だねえ。
 職人だねえ。芸人だねえ。うなっちゃいますねえ。

紙石鹸くらいのうすい気配で

 このエンディング--最終行といわず、あえてエンディングといいたいなあ。
 岩佐は、三途の川の案内人なんかどうでもいいのだ。わざと、わけのわからないふうに書いて、「外国人じゃないんだよ。/ふんふん。」というやりとりまではさんで(句点「。」までサービスして、ここはちがう文体だよ、と強調して)、ことばを詩の形式に仕立て上げ、
 で、

紙石鹸くらいのうすい気配

 これが書きたかったんだねえ。いまはもう見かけることのなくなった(少なくとも私は何十年と見ていない)「紙石鹸」ということばを復活させる。そしてそれを「気配」ということばとくっつける。
 この運動。
 それを書きたかったんだねえ。
 
紙石鹸くらいのうすい気配

 わけがわからないけれど、いいよなあ。あ、そうか、うすい気配には紙石鹸という比喩があるのか、そういうふうに紙石鹸を比喩にしてしまえばいいのか。
 感激してしまった。
 感激して、「ナントカカントカ」が正確にはなんと言うのか、それはいったい何であったのか(なんの振りをしていたのか)、なんてどうでもよくなってしまった。
 岩佐の書いていることは全部忘れてしまっても「紙石鹸くらいのうすい気配」だけは記憶しつづけるだろうなあ。





岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社

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金子鉄夫「うみなんていくな」、木葉揺「レジもえ」

2010-07-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「うみなんていくな」、木葉揺「レジもえ」(「現代詩手帖」2010年07月号)

 金子鉄夫「うみなんていくな」は「新人作品」の欄に載っていた。1行目が、とてもおもしろかった。

なぜひとはかなぁしくなると

 「かなぁしくなると」って、なんだろう。「意味」的には「悲しくなると」なのだろうけれど、その「意味」を小馬鹿にしたような調子がある。そして、この小馬鹿にしたような調子に何を感じるかはひとそれぞれだが、私は一種の「矛盾」を感じるのだ。いや、感じたいのだ、と言った方がいいかな。
 たぶん、私は、金子のことばを読んでいない。私は私のなかにひそんでいることばを、金子のことばを借りて探している。「かなぁしくなると」という書き方を私はしない。もし、するとするなら、どういうときだろうか。私は、そんなことを考えながら、書き出しの1行で止まったままである。
 「かなぁしくなると」というちょっと歌うような(メロディーにのせてみたくなるような--シューベルツだったっけ、ふるいふるい歌にそんな調子のことばがあったような……)響きに触れると、あ、これを小馬鹿にするのは、そういう小馬鹿にしてしまいたい感じのなかで動くものがみたいからなんだなあ、と思う。
 だれでも、なんでもいいのだが、小馬鹿にすると、小馬鹿にされたもののなかで、感情がすばやく動く。反発する。そのとき見える、まぼろしのようなもの--それが好き。好きな何かを見たくて小馬鹿にする。
 そういうことってない?

なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへいくのさ

 2行目は、何かを小馬鹿にするときの、小馬鹿の根拠(?)のようなものだ。わかったような、わからないような、--いや絶対にわからないことを、わからないだろうと言って、聞いている人(小馬鹿にされている対象)をさらに馬鹿にする。
 「なぜ、ひとは悲しくなると/海へ行くのさ」では、単なるセンチメンタルの否定だが、それを小馬鹿にしながら言うとき、そこに不思議な「愛」が粘りつく。小馬鹿と愛は矛盾しているが、矛盾しているから、そこがおもしろい。
 粘りつく--と私は思わず書いてしまったが、ここには粘着力がある。ことばの、何がなんでも絡みついてやる、というよな粘着力がある。
 粘着力というのは、私には、愛にしか見えない。
 ほんとうにいやなら、そんなもの、ほおっておけばいい。「なぜ海へ行くのさ」と否定的にからみつかなくたっていい。でも、絡みつきたい。つながりたい。接続したい。
 きのう読んだ長嶋南子は「肉体」で接続したけれど、男・金子鉄夫(男だよね)は、「肉体」では接続できないので、ことばで接続しようとする。接続するために、まず、否定することで「自己」と「他者」を明確にし、それからその「ちがい」のなかへ、ねちねちねちねちとことばが接続していく。
 これは、奇妙な暴力だね。

なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへいくのさ
(へらへらわらってんじゃねぇ)
あな
あなまちがうほど愛したひとに
うらぎられたって
どんつきの沈んだ浜辺で
本日のて、あしを散らすのは惜しい

 (へらへらわらってんじゃねぇ)といったって、「愛したひとに/うらぎられた」なんて「こころ」につながってしまって、うろたえているのは、小馬鹿にした対象ではなく、小馬鹿にした金子の方だ。
 ことばは、どうしても「こころ」につながってしまう。「肉体」にはつながらず、「こころ」につながってしまう。これが、男・金子鉄夫のことばと女・長嶋南子のことばの違いだね。
 もう、こうなってしまったら、「つながりたい」なんて言ってはいられない。べたべた。ねちねち。つながってしまっている。「切る」しかない、「切断」しかない。
 で、そういうときに、「肉体」が出てくる。男の場合。

ねぶるかぜにさわぐいんもう
(いんもうは無頼のあかしだって)
むすび萌える萌えるでじたるまみれに
血ぃまわせよ
(はろーっはろーっ)
ちぃさなおっぱいを隠してまで
ちへいせんに馳せるな
散る散る
本日のて、あしは
このにぎやかな背景に散らせ

 「肉体」といっても、男の場合は、悲しいねえ、「いんもう」くらいしか武器(?)がない。でも、そんなことば、そんな「肉体」をあらわすことばじゃ、だれも驚かない。「萌える萌える」と書いてみたって、「萌え」なんて、もう「肉体」の痕跡すらないのじゃないだろうか。
 でも、承知で書くんだろうなあ。それしかない。
 矛盾をそうやってひきずりながら、書きつづける、そのことばを鍛えつづける。その先に、詩はあらわれる。いま、ここにはなくても、この先に詩がある--そういう可能性を感じさせてくれる矛盾が金子のことばにはある。    



 木葉揺「レジもえ」もおもしろかった。

ショッピングモールを歩いていた
胸にぬるい痛みをおぼえ
振り向く

吹き抜けに響く高音
雑貨店で
女性店員がレジを打っている
ベージュの
プラスティックの

髪を直して歩き始める
でも振り返る
あのベージュ
エスカレーターに乗り
吹き抜けの光に包まれる

 ここにははっきりした「肉体」がある。「つながる・肉体」がある。女の「肉体」がある。
 「胸にぬるい痛みをおぼえ/振り向く」とき、もう「胸」は「胸」ではなく、腰になり肩になり、首筋になり、顔になり、ようするに身体そのものになり、ねじれながら「つながる」。「つながる」というのは、どこかに「ねじれ」がある。振り向く--この動きがねじれである。「胸」が腰から足へ、「胸」が肩から首、顔、眼へと「ねじれ」をもって拡大していく。そのときの木葉の「肉体」の拡大がかかえこむ「連続・接続」は、木葉の「肉体」を超越して、レジの女性につながってしまう。
 木葉は木葉自身の肉体とは別に、レジの女性という「外部の肉体」をもってしまう。木葉はレジの女性になってしまうのだ。
 対象を小馬鹿にする金子はけっして対象そのものにはならない。対象を「外部の肉体」とは感じない。むしろ、「内部のこころ」と感じる。だから、その「こころ」に「肉体」をくっつけて、無理やりにでもほうりだすために、「いんもう」だのなんだのという「肉体」を持ち出すのである。
 木葉は、金子とは逆。
 「外部の肉体」は離れれば離れるほど、せつなく(?)結びついてしまう。「プラスティック」さえも(髪止めのプラスティック--プラスティックの髪止めをした女性を私はふと思い浮かべたのだが)、もう「肉体」になっている。離れれば離れるほど、放してくれないものになっている。
 木葉は、その「連続・接続」を切り離したくてことばを書きつづける。そして矛盾に陥る。書くということはどんなに「切断」を書いても「接続」をもってしまうことだからである。その矛盾。--その矛盾の先に、やっぱり詩があらわれてくる。詩が待っている、と私は思う。


現代詩手帖 2010年 07月号 [雑誌]

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ミゲル・サポチニク監督「レポゼッション・メン」(★)

2010-07-16 22:57:16 | 映画

監督 ミゲル・サポチニク 出演 ジュード・ロウ、フォレスト・ウィテカー、リーヴ・シュレイバー

 未来の話である。人工臓器を患者に高金利ローンで販売し、ローンの返済ができなくなると人工臓器を回収する。まあ、高金利金融の一種、サラ金の取り立ての新手。その取り立て屋、人工心臓を移植し、そのローンがはらえなくなり……。
 まあ、どんな話でもいいんだけれど。映画だから。
 気になるのは「レポゼッション・メン」という日本語のタイトル。「メン」とわざわざ複数形にしている。「取り立て屋たち」。おもしろくないねえ。こういうとき、日本語は単数。「必殺仕置人」とかさ。ひとりでやらなくても単数。仕事だから、複数形にはしない。
 なんで、こんなくだらないことを言うかというと。
 「レポゼッション・マン」と単数だと「ひとり」のことかな? ジュード・ロウの苦悩を描きながら、人間の本質、いのちの本質に迫っていくのかな、という、まあ、幻想だけど、期待をもって映画を見ることができる。主人公は「ひとり」かな、と勘違いしながら見ていくことができる。
 ところがねえ。
 この映画、ひとり取り立て屋の苦悩と闘いを描いているわけではない。複数の取り立て屋の苦悩を描いている。ジュード・ロウとフォレスト・ウィテカーのふたりの苦悩。そして、ストーリーには、実はフォレスト・ウィテカーの苦悩がとても重要な影を落としている。いや、ほとんど、フォレスト・ウィテカーがこのストーリーのカギをにぎっているという具合なのだ。
 それもまあ、許せるとしても、タイトルでそんな「謎解き」をしてしまっては、ねえ。
 映画がとてもひどいできなので、タイトルに謎を残してみました。謎解き、できましたか? とでもいうような具合である。観客を馬鹿にしていない?

 見るべき映像はなにひとつありません。
 強いてあげれば、ジュード・ロウ。(彼が主演じゃなかったら、見に行く客自体がいないと思う。)彼の頭の左側。あの10円玉禿はほんもの? それとも役柄上、つくったもの? それを見きわめたいひとは、映画をみてもいいかなあ。最初から最後まで、私は、それだけが気になって仕方なかった。


 
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長嶋南子「ホームドラマ」

2010-07-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「ホームドラマ」(「現代詩手帖」2010年07月号)

 女のことば、男のことば--という区別はあるのか、ないのか。私はときどき(ときどき、ですから、ね)差別主義者になる。そして、女のことばは、ある。そう思い込む。たとえば、長嶋南子「ホームドラマ」。

病んだり死んだりしてドラマは進むので
夫には死んでもらった 次は子ども

ムスコの閉じこもっている部屋の前に
唐揚げにネコイラズをまぶして置いておく
夜中 ドアから手がのびてムスコは唐揚げを食べる
とうとうやってしまった
ずっとムスコを殺したかった

 こういうことばは男には書けない。あ、正確には、私には書けない。そういうとき、私は単純に、これは女のことばだ、と思う。そう思うことで、安心(?)する。
 他人、他者--そういう外部の「肉体」に対する向き合い方が、どうも男と女は根本的に違う。どんなに勉強(?)したって、男には絶対にもちえない「肉体」感覚がある。女の「肉体感覚」--というと、まあ、これは変ないい方で、より正確に言うと、男の私にはたどりつけない「肉体感覚」というものが、ある人たちの書くもの、つくるもののなかにある。そして、その「ある人」が女であるとき、私はそれを「女の肉体感覚」というのだけれど……。(差別主義者--という批判があるとこわいので、私は、こんなふうにせっせと弁明しながら書くのだが……。)
 私にとって「他者」(他者の肉体)というのは、あくまで「外部」である。(この、「外部」については、きのうの日記の浦歌無子の作品について触れたときに書いた。)そして、それは「接点」はあるかもしれないが、接続はしていない。切断している。
 人間の肉体というのは不思議で、自分の肉体でなくても、たとえば路傍で腹をかかえてうずくまり、うなっている人を見れば、あ、この人は腹が痛いのだとわかる。他人の肉体と自分の肉体をつなぐ、なんらかのものがある。何かが他人の肉体と私の肉体をつないでいる。そのために、私たちは、自分の痛みではないものを、わかる。わかるけれども、そしてときにはわかるをとおりこして「実感」にもなることがあるが、実感しても、次の瞬間にはその「実感」を忘れて、救急車を呼んだりする。実際に、倒れてうなっている人は、痛みのせいで救急車を呼ぶことはできないが、他人である私は、それができる。つまり、完全に他者とは切断しているから、そういうことができるのだ。
 男の感覚は、そこから先へは進まない。(私の場合は、進まない。)ところが、女は、違う。
 腹痛の例をそのまま拡大できればいいのだけれど、それではうまく語れない。つづかない。私のことばは動いていかない。--要するに、破綻する。うまくうそが言えない、ということかもしれない。
 だから、突然、ここで長嶋のことばに戻る。
 長嶋のことばを読むと、どうも、他人を、具体的には、この詩には夫とムスコが出てくるが、そのふたりは、長嶋とは「切断」していない、と感じてしまうのである。長嶋と夫、ムスコが「切断」しているというのは科学的事実(?)であり、切断しているからこそ、夫が死んでも長嶋は生きている。ムスコを殺しても長嶋は死なずに生きている--ということなのだが。
 あ、それでは、何かが違うなあ。
 夫が死に、ムスコを殺しても、長嶋の肉体にはなんの変化もない。それは、長嶋の肉体と夫の肉体、ムスコの肉体が「切断」されているからではなく、逆に、しっかりと接続しているからである。夫が死んでも、ムスコを殺しても、長嶋の肉体に変化がないのではなく、逆なのだ。長嶋の肉体と夫、ムスコはしっかりと「接続」している。「接続」しているから、夫が死んでも、ムスコを殺しても、長嶋の「肉体」のなかでは夫は死なない、ムスコは死なない。だから、何度でも長嶋は夫を死なせることができるし、ムスコを殺すことができる。長嶋が死なないかぎり、夫は死ねない。ムスコは死ねない。--そういう「肉体感覚」が、そのまま、長嶋のことばになっている。
 長嶋にとって、夫の死、ムスコ殺しは、「精神的な世界」のできごとであって、「肉体的な世界」のできごとではない。肉体はいつでも夫とムスコの「いのち」を長嶋の「もの」として肉体のなかにもっている。しっかりと、それはつながっている。

うんだのはまちがいです
うまれたのはまちがいです
まちがってうまれました
まちがってうんでしまいました
まちがわずにうまれたひとはいません

 「まちがう」--それが「つながり」である。「正しい」ではなく、「まちがう」ことが「接続」のすべてなのである。長嶋の肉体と夫の肉体、そしてムスコの肉体は「接続・連続」していない。これは科学的に「正しい」。でも、それを長嶋は「接続・連続」していると間違えている。
 間違えることが「接続」のすべてである--というのは、先に書いた路傍の腹痛の人間の例にもどると説明できるかもしれない。
 私たちは、路傍にうずくまり、呻いているひとを、「腹痛だ」と「間違える」。間違えた結果、おおあわてで救急車を呼んだりする。ほんとうは痛くないかもしれない。芝居だったかもしれないし、腹痛ではなく、脳の障害だったかもしれない。「正解」はあとになってみないとわからない。「正解」がわからないままの、強引な想像、自分勝手な想像(腹が痛いと感じるのは、私の勝手な想像である)は、「まちがい」である。そして、この「まちがい」(勝手な思い込み)が人と人の、離れて存在する肉体を強く結びつけてしまう。
 でも、その「まちがい」は結果的に路傍に倒れているひとを助けることになるから「まちがい」ではなく、「正しい」ことなのでは?
 あ、そうなんだねえ。そこが問題なんだねえ。
 「まちがい」なのに「正しい」。そういうことが、世の中には無数にある。「正しい」方がまちがっていて、「まちがっている」方が正しい--そういう結果になることが、無数にある。「まちがい」と「正しい」は、どこかでとても強い力でねじれながら「接続・連続」している。
 その、「接続・連続」の仕方--そこに、私は「女」を見てしまう。
 男には、こういう「まちがい」と「正しい」を「接続・連続」させる「肉体」がない。「肉体」がないから、私は、まあ、しちめんどうくさいことばを長々と書き、少しはそれに近づけたかなあ(近づきたいなあ)と思うのだ。

 女は、「まちがい」であっても、それを自分の「肉体」で「つないで」しまえば、それは「正しい」になることを知っている。世の中で何がいちばん「正しい」か。生きていることである。生きているものがいちばん正しい。自分の肉体が生きているかぎり、ひとが「まちがっている」と言おうが、あるいは自分で「まちがっている」と感じようが関係ない。それは「正しい」なのである。
 いのちを受け入れ、いのちを産んで、どうなるかわからないけれどともかく「つないで」しまう。それが女だからである。生きて、「つないだ」ものが「正しい」のだ。それだけが絶対に「まちがっていない」ことなのだ。

主婦はなにごとがあっても子はうみます
ご飯をつくります
まちがってうまれてしまったのに
大きな顔をしています
主婦は大きな顔になるのです
小さい顔のひとはまちがえても主婦にはなれません

 「まちがい」が「つながる」。そして「正しい」に「なる」ように、女は女に「なる」。ボーボワールが書き漏らした「女になる」がここにある。「哲学」(思想)という「うそ」にはならなずに、「肉体」に踏みとどまることで、けっして「まちがえない」に「なる」力がここにある。

きのう子どもを食べているゴヤの絵を見ました
きのう天丼を食べました
カロリーが高いのでめったに食べません
どんぶりのなかにムスコがのっています
母親に食べられるのは
たったひとつできる親孝行だといっています

 そして、ムスコを殺す、食べる、というのは、母親がムスコにできる唯一の「孝行」ということに「なる」。ムスコを自分の「肉体」にしてしまう。「まちがい」を自分の「肉体」のなかにあるものにしてしまう。長嶋の「肉体」のなかにあるもの--それだけが、あらゆる「まちがい」を「つなぎ」、「正しい」を瞬間的にあらわすのだ。
 こういう女の哲学(女のことば)は、すごいと思う。



 書きそびれたが(途中で、きのう書いた浦歌無子を引き合いに出しながら、浦について書きそびれたが)、女は「外部」を自分の「肉体」にする。あるいは自分を「外部」にしてしまう。そして、その往復を「自然」にやってしまう人間のことなのかもしれない、とも思った。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社

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現代詩手帖 2010年 06月号 [雑誌]

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浦歌無子「さざんがく」、カニエ・ナハ「双樹」

2010-07-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「さざんがく」、カニエ・ナハ「双樹」(「現代詩手帖」2010年07月号)

 浦歌無子は「うら・かなこ」と読むのか。あるいは「うらかなし」(うらがなし)と読むのか。私は「うらかなし」と読んでいる。そう読みたい「距離」のようなものがある。ことばはいつも「肉体」に触れているが、その「肉体」は、どうも「浦歌無子」から離れている。彼女(?)と「肉体」の、齟齬--そういうものがある。「肉体」が彼女自身から遠くにある。「肉体」が離れていて、それが「うらがなしい」のである。

ウサギを飼っている
十歳のときにココロのなかにつくった廃屋に
ウサギの耳は長いけれど聞こえない
廃屋は沈んでいるから
沼の底で草を食べている
そこではアラベスク第一番が繰り返し流れているが
ウサギには聞こえない
わたしには聞こえる間断なく
ウサギが草をはむ音が

たとえばコールタールという言葉やホルマリンという言葉や
リノリウムということばが頭から離れなくなるのはこんな夜
あなたが椅子になれと言えばわたしは椅子になれるし
タツノオトシゴになれと言えばタツノオトシゴになれるのに
どうして耳を忘れてきたんだとあなたに叱られるのがひどくこわい
(耳はウサギが草をはむ音を聴いていて不在なのだが
どう言えばそれがあなたに伝わるのかわからない)

 ここに登場するウサギは、ココロのなかの廃屋にいるのだから、そしてココロというのは一般的に「肉体」のなかにあるのだから、ウサギは「わたし」の「肉体」にいまも生きている、といってもいいかもしれない。
 そのウサギが聞いている「音」はなんだろう。「わたし」はウサギはなにも聞いていない、ウサギにはなにも聞こえないと実感している。そして、「わたし」はふたつの「音」を聞いている。ウサギが聞こえない「アラベスク第一番」と「ウサギが草をはむ音」。
 一方、「わたし」は「ウサギが草をはむ音」が「現実の音」ではない、と知っている。「アラベスク第一番」は「あなた」にも聴こえるが、「ウサギが草をはむ音」は「あなた」には聞こえない。
 そして、「わたし」にはふたつの音が聞こえると書いたけれど、正確には、そうではない。「わたし」は「ウサギが草をはむ音」をはっきり聞いているのに対して(実感しているのに対して)、「アラベスク第一番」の方は「ぼんやり(上の空)で聞いている。そして、そのことを「あなた」に知られ、叱られるのがこわい。
 ほんとうは、「わたし」には「ウサギが草をはむ音」が聞こえているので、音楽が聞こえない、と「あなた」にいいたいのだが、そういうことが「あなた」に伝わるかどうか不安を感じている。

 これは、ココロの問題である。

 と、いうのは簡単である。
 しかし、私は、これをココロの問題であるとは感じない。浦の詩を読んだ瞬間、あ、浦の「肉体」は、ここに、ない、と感じたのだ。裏の「肉体」はウサギの耳になって、「いま」「ここ」ではなく、別の時間、別の場所にある--肉体が分離していると感じたのだ。
 浦は「十歳のときにココロのなかにつくった廃屋」というこばを書いている。そうであるかぎり、それは「ココロ」のなか、そして「肉体」のなかにあるのだろうけれど、それは単なることばの論理の問題。実際は、そうではなくて、「十歳のココロ」というしかないもの、「いま」「ここ」ではないどこか別の時間、別の場所なのだ。
 そこで「わたし」は「耳」になって、「ウサギが草をはむ音」だけを聞いている。なにも聞こえない。耳は、いま、「わたし」の「肉体」についているようにみえるけれど、それは幻。「耳」そのものが「肉体」になって、「いま」「ここ」ではなく別の場にある。その「分離」--それが、浦には、

うらかなしい

 「分離」と私が呼んでいるものを、浦は「不在」と書いている。(と、いま気がついた。「分離」「距離」と書いてきた部分を「不在」ということばをつかって書き直せば、もっと浦の詩をていねいに読み込めるかもしれない。--でも、まあ、それは次の奇怪にする。私の「日記」は書きっぱなし、である。)
 自分の「肉体」なのに、それが「いま」「ここ」にない。それが「うらかなしい」。そのことは、逆に言えば、浦の「肉体」は浦の「外部」にある、ということかもしれない。「外部」こそが「肉体」なのだ。
 浦は、ウサギが草を食べている音を聞いているが、このとき、浦は単にその音を聞く「耳」だけではない。同時にウサギであり、食べられる草であり、そのときの音でもある。いや「浦はその音を聞く耳」である、と書いたのは、きっと間違いである。浦は「耳」ではない。ウサギであり、草であり、音である。つまり、「肉体」ではないもの、「肉体」の外部こそが、いま浦の「肉体」なのだ。
 浦は、いま浦という「肉体」ではなくなっているのだ。
 だから、次のような奇妙なことも起きる。

いれたてのミルクティーを飲んでいると
舌のうえにざらりとした感触を覚える
舌を出して指でつまむと小魚である
飲みつづけていると二匹三匹四匹五匹いくらでも出てきて少し不安になる

 こんな「肉体」の変化が起きれば、ひとはびっくりしてしまう。けれど「わたし」は「少し」不安になるだけである。この「少し」は、こいう「肉体」の不在、自分の肉体が自分の「外部」にこそあって、「いま」「ここ」にある肉体は自分自身ではない(?)というような感じが、浦にとっては「日常的」というとおおげさだが、おきまりの現象だからである。

 この「肉体」の「不在」--「肉体」が手の届かないところに存在しているという感覚、その「不安」を忘れる(?)ために、あるいはいま、ここにある「肉体」が自分のものではないという奇妙な感覚(災い、と浦は書いている)から逃れるために、「おまじない」に3の段の九九を唱える。

さんいちがさん、さんにがさん、さざんがく、おまじないにおおいかぶさるようにウサギが草をはむ音がどんどん大きくなって さんしじゅうに、さんごじゅうご、沼からおどりでた小魚たちは さぶなくじゅうはち、ザクザクとウサギがはむ音に合わせて部屋中で身をくねらせ さんしちにしゅういち、あなたは「3」と書いてあるドアの向こうに消えてしまった さんぱにじゅうし、わたしの耳からウサギがはむ音がどんどんどんどんこぼれてきて さんくにじゅうしち、ザクザクと部屋を埋めつくす

 もう、「肉体」はない。「わたし」は完全に「外部」になってしまう。



 カニエ・ナハ「双樹」は、何かを語りなおそうとしている。「現実」を、「世界」を、と言ってしまえばどんな作品についても言えることになってしまうが……。その「何か」が私にはよくわからないが、わからないのに(わからないから、かもしれない)ひかれた。

微風。喉の奥の雲。よみびと。
夜毎の行間。水面にうつされ。
うてな。花のしきつめる常世。
シロツメクサ。天路を指さし。
よまれ。綿毛、私からはなれ。

 「双樹」の前半だが、ここでは「音」が互いに呼び掛け合っている。「意味」ではなく、純粋に「音」が「ことば」として結びつこうとしている。「音」が何かを語りなおす力になっている。エネルギーになっている。「よごと」と「とこよ」、「うつされる」と「うてな」、「しきつめる」と「シロツメクサ」、「よまれ」と「はなれ」、「わたげ」と「わたし」。
 「世界」は(現実は)、その「音」の向こう側にある。それへ向かって、カニエはことばを動かしている。この「音」が「声」になったとき、きっと大詩人が誕生する。その「喉」に期待したい。



詩集 耳のなかの湖
浦 歌無子
ふらんす堂

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みゆき「初雪」ほか、秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」

2010-07-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
みゆき「初雪」ほか、秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」(「ココー共和国」3、2010年07月01日発行)

 黄仁淑の「空の花」は雪のことだが、夏に(梅雨のさなかに)雪の詩がもう一篇届いた。みゆきの「初雪」。

やっと君のもとに
舞い降りることができたよ
雲の上から
ずっと君のことを見ていたんだ

君はこたつで丸まりながら
時おり窓から空を見上げては
僕のことを想ってくれていたよね
僕たちは両想いなんだ

さぁ出ておいでよ
ちょっぴり冷たいけど
今年最初のキスをしよう☆

 「現代詩」というより「ポエム」と呼ばれていることばかもしれない。
 「現代詩」と「ポエム」はどこが違うか。
 「両想い」ということばが出てくるが、「ポエムのことば」は「両想い」なのである。作者(詩人)と詩が「両想い」。

 この詩は「初雪」(僕)の立場で書かれているが、その「初雪(僕)」の想いとは、実は、詩人の想いである。「両想い」を装っているが、「片想い」である。「片思い」をあえて「両方」にわけて、「両想い」として描く。
 そこでは「ことば」が詩人を裏切ることはないし、詩人が「ことば」を裏切ることはない。
 「初雪」は、一種の恋の告白であるけれど、「失恋」のポエムであっても、「両想い」はかわらない。「ことば」も詩人も「失恋」を想っている。ことばは恋愛の成就を想い、詩人は失恋を想っているというようなことは「ポエム」では起きない。

 ほんとうの恋愛(というと、語弊があるかなあ)は、互いが互いを、そして自分が自分さえも裏切って、それでも何だかねちねちとつづいていくものだが、「ポエム」には、そういう裏切りはない。「ポエム」では「片裏切り」はあっても「両裏切り」はない。ところが、「現代詩」では、まあ、ほとんどが「両裏切り」なのである。詩人はことばを裏切り、ことばはことばで詩人の裏切りを裏切ってかってに
動いていく。
 ということは、ちょっと、わきに置いておいて(永遠にわきに置いて置いて)。

 まあ、この「両想い」の発見を、そのまま「両想い」という「ことば」で書き留めたところが、みゆきの作品の、おもしろいところだ。
 ここが、みゆきの作品が「ポエム」を超える瞬間である。

 「はじめまして!」にも、その「両想い」の一瞬がある。

新しい街
新しい家に
新しい風が吹く

私の頬をくすぐるそよ風さん
ちょっぴり警戒してるでしょ?
「どんな子が越してきたのかな?」って

 ここでは、みゆきは「私」を「そよ風」からみつめさせている。そして、そよ風に「どんな子が越してきたのかな?」という「想い」を語らせている。それは、実は「私」の「想い」でもある。「どんな街かな?」を、裏側から見ている。
 裏側といっても、それはほんとうは「裏」ではない。「同じひとつ」のものである。
 「両想い」は、いつも「ふたつ」ではなく、「ひとつ」である。切り離せない。

 「ポエム」はけっして切り離せない「ひとつ」のものを、「ことば」を借りて「ふたつ」にして、そこに「両想い」という運動を繰り広げさせる装置なのである。



 秋亜綺羅「山本山さんはむかしママゴトをした」ことばには、何かしら「ポエム」に通じる軽さと強さがある。何かをひとつの視点(自分だけの視点)でこじ開けるようにして動かすのではなく、対象を一瞬のうちに「表・裏」に分離させ、それから「表・裏」というのは「ふたつ」に見えるけれど実際は「ひとつ」にすぎない--ということを、とても手早く語ってしまう。
 それは「肉体」を刺激するというより「頭」を刺激する。
 みゆきの作品が、「これは、どういう意味かな? 何を語りたいのかな?」と頭で考えるとき、その頭と一緒にこころが動き、「想い」になって花開くというような感じだが、秋のことばも、頭を、想像力を刺激する。
 ただし。
 このとき、秋は、頭に重い負荷をかけない。これはどういう意味? と真剣に考えないとわからないような負荷、そこに書かれていることばの意味を特定するために特別な哲学書を読まないといけない、というような負荷はかけない。とても軽い負荷だけを選んでくる。そういう「軽さ」を選び取るために、秋ははげしくフットワークする。それが秋のことばの特徴だと思う。
 具体的に書こう。

裏に住む山本山さんは、上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、
裏から読んでも山本山さん、というわけだ。

 「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山、」は海苔(?)のCMで有名になったフレーズである。だれもが知っている。聞いたことがある。そういう「明白」なことがらをことばの出発点にする。読者に負荷を感じさせないところからことばを動かしはじめる。
 そのうえで、「裏から読んでも山本山」という、CMにはなかったフレーズをつけくわえる。ちょっと考えないといけない。けれど、それはほんの少し。考えたか考えなかったかわからないような一瞬。そして、その一瞬に、くすり、としてしまう。この「くすり」の「共感」が秋のことばの到達点である。めざしているものである。
 「両想い」ではなく、「共感」。「両想い」と「共感」の違いを定義するのはむずかしいけれど、きっと、「両想い」がたどりつくのは(たどりつくことをめざしているのは)、一種の「一体感(ひとつ、の意識)」だけれど、「共感」は文字どおり「共に・感じる」であって、「同じように・感じる」、つまり「同感」ではない。(同感は、「両想い」ににたところがある。)さらに言いなおすと、たとえば「裏から読んでも山本山」に対して、「なるほどねえ」と思うことも、「またくだらないことを大事そうに言って」と思ってもいいのである。
 そして、秋が読者に求めている「感じ」が「なるほど」なのか「くだらない」なのかは、実は、わからない。
 そして。(またまた、そして、なのだが)
 この「わからない」が「現代詩」なのだ。「なるほど」か「くだらない」か、わからない--その「わからない」という瞬間に、「脳」が活性化する。「脳」の血の巡りが急に活発になる。
 書き出しの「裏に住む」の「裏」は2行目の「裏から読んでも」の「裏」を楽に引き出すための誘い水だったのか……なんてことも自然に思い出すくらい、脳の血の巡りがよくなる。(あ、私の脳の血の巡りは、せいぜい、これくらいのことですが。)
 「わからない」。そして、「わからない」ということに興味があるひとだけ、次の行に進んで行くことができる。

しんしん雪が、山本山さんの家の屋根で白い舌をだして、手紙を書いていた。
そんな寒い日には、暖炉(だんろ)のそばのネコに、家族みんなであたったものだ。
ネコはサンマに恋をして、魚も喉を通らないほどだった。

 何かが少しずつ変だねえ。何もかもが「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」ではなく、「裏から読んでも山本山」に似ている。どこかで聞いた感じ。読んだ感じ。でも何かが違う。ちょっと変。「雪は空からの手紙」ということばだけではなく「太郎の屋根に……」という行も、それこそ「舌」をのぞかせながら隠れている。
 これは、何?

時間銀行では、時間を盗むのにもう少し時間をかせず必要があった。
強盗がもっていた暗号から意味を消していくと、数字が残った。
意味のない暗号なんて、もう暗号の意味はない。
考古学では、こういったものは、詩と呼ぶしかない。

 「意味」を考える暇もないまま、ことばが、何かを裏切りながら滑空していく。このときの「離脱感」。軽さ。そこに秋の真骨頂がある。
 秋が「ポエム」に関心があるのは、この「離脱」の「軽さ」が響きあうからだろう。(これは「共感」かな? 「同感」かな? 「両想い」かな?)

サイコロをふると、4ばかり出る日だった。
4月4日、4人の銀行強盗は正確に4時、舌を出して、時間泥棒に成功した。
そのとき、山本山さんの未来は盗まれた。
裏から読んでも、未来。
未来が盗まれると、過去も舌を出して、雪のようにとけていった。
過去はカコ、カコと鳴く。過去はカエルだった。

 「裏から読んでも、未来。」の「未来」は、紙面ではほんとうに「裏返し」に印刷されている。ちょっとした「遊び」がある。
 この「遊び」も秋の特徴である。「遊び」というのは「日常」からの「離脱」でもある。その「離脱」の領域に、ことばの、未知のとはいわないけれど、何かしらの運動の領域があり、それを秋は耕したいのだ。活性化させたいのだと思う。
 秋のことばは、このあとも、ただ軽い滑空をつづける。どこまで軽さをもって滑空できるか--それを秋は追いかけている。
 で、最後。最終行。
 ちょっとおもしろい仕掛けで、秋は、私たちをひきとめる。

山本山さんは裏返しても、山本山ち●だ。
 
 「山本山ち●」は紙上では、ほんとうに活字を裏返して印刷されている。そうすると「さ」は「ち」に見える。「ん」は表記できなかったので●で代用した。
 「裏から読んでも山本山」は、たしかに「山本山」までならそうだけれど、「山本山さん」なら? つまり「日常」(ふつう、人の名前には「さん」をつけるね--私は、この日記ではつけないけれど(笑い))なら、ぴったり同じに見えるようであって、ほんとうは違うんじゃない?
 私たちは、「裏から読んでも山本山は山本山」と単純に鵜呑みにするけれど、よく見れば違う。そういうことって、多くない? 現実に起きていることは、みんな、そういう「わな」を含んでいないだろうか。
 秋亜綺羅は、ブログで「時事問題」も語っているが、そこでの語り口も、同じである。一般にこういわれているけれど、「山本山さん」を裏から見ると「山本山ち●」に見える。何か違っている。その違いは、いろんなところにある。
 そういうものに、「現代詩」のことばも乱入させたい、ということなのだと思う。



季刊 ココア共和国vol.3
秋 亜綺羅,いがらし みきお,須藤 洋平,みゆき,小鹿 夏
あきは書館

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アルフレッド・ヒッチコック監督「裏窓」(★★★★★)

2010-07-13 22:07:23 | 午前十時の映画祭


監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ジェームズ・スチュアート、グレイス・ケリー

 こういう作品を見ると、ヒッチコックはほんとうにおしゃれだと思う。他人の部屋を覗き見している。もしかしたら殺人? 疑いを真実に変える(?)ために、証拠を探す。他人の部屋にまで侵入してしまう。ね、ありえないような、乱暴な話でしょ?
 これをグレイス・ケリーの美貌と、映画の台詞にも出てくるけれど、二度と同じ服を着ないという超現実的な設定で、洗い流してしまう。「あ、これは現実ではありません。えいがですからね」とていねいに説明する。
 夏の、暑い暑い下町なのに、クーラーもないのに、グレイス・ケリーは汗ひとつかかないというのも、クールですばらしい。
 いいなあ。
 オープニングから、「映画」を強調している。三つのブラインドを左から一枚ずつ引き揚げていく。それにクレジットを重ねる。「さあ、はじまり、はじまり」というわけである。
 いまの映画は、CDのように突然はじまる。アナログレコードは針を落とすぷっつんという音、無音(?)のトレースがあって、音がはじまる。アナログレコードはこころの準備ができてからはじまる--そんなふうに、昔の映画ははじまった。
 この感じが、とてもいい。特に「裏窓」のように、そんなことが現実にあったら困ってしまう、というような映画には。殺人--ではなく、のぞきと、のぞきによる告発というか、事件の成立というようなことがあると、なんだか、こわいよね。
 だから、これは映画、これは映画ですよ、と念を押す。
 ヒッチコックがピアニストの部屋に一瞬だけ顔を出すけれど、これも「映画ですよ」というヒッチコック流の「サイン」なのだろう。

 と、書いてしまえば、いまさらほかに付け加えることもない完璧な作品だけれど。
 会話のやりとりがイギリス風ですねえ。「のぞき」自体が「ピーピング・トム」といわれるくらいだからイギリス的なのだけれど、のぞきながらも知らないふりをする--それがイギリス的。
 いろいろな見方があると思うけれど、私は、イギリス人というのは、見ても、それを「ことば」として本人から聞かないかぎりは知らないということを押し通す。ナイスボディーの女性が下着(水着?)で美容体操していても、誰かが「私は見ました」といわないかぎり、それは見たことにはならない。だから、女性の方でも「見られた」ことにはならない。そして、「のぞき見した」なんてことは一般にだれも告白はしない。だから、そこでは「何も起きていない」--これがイギリス的現実。でも、「ことば」になれば、それは存在する。
 イギリスはあくまで「ことば」の国。シェークスピアの国。「ことば」になっていないことは存在しない。そして、「ことば」になりさえすれば、それは存在したことになる。この、ことば、ことば、ことばのおもしろさは、ジェームズ・スチュアートとマッサージのおばさんとのやりとりにたっぷり出てくる。グレイス・ケリーとのやりとりではストーリーの根幹に触れる。「女はバッグを手放さない。結婚指輪は外さない」は、「ことば」が殺人事件を裏付ける。ジェームズ・スチュアートは見て、想像しているだけ。そこには「ことば」の「証拠」がない。グレイス・ケリーは見ていないけれど、「ことば」で証拠を明確にする。「ことば」が成立すれば、ね、事件が成立する。犯罪が成立する。すごいですねえ。
 ちょっと、繰り返し。
 「ことば」にしないかぎり、存在しない、は刑事が、グレイス・ケリーの寝具(スリッパ)を見ても何も言わないことで、何も存在しないことになってしまう。
 このあたりが、特に、おしゃれだねえ。スリッパって靴を脱ぐこと。靴を脱ぐというのは、靴の国ではセックスをすることだからね。そこにセックスが暗示されている。ほら、「ローマの休日」でヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐシーンがあるでしょ。あれも、セックスの暗示。肉体の解放の象徴だよね。セックスシーンが映像としてなくても、見えるひとには見える、そのセックスシーンが……。でも、「スリッパを持ってきたの?」とは言わない。「スリッパ」ということばを発しない。
 そういう国の監督がアメリカで映画を撮るんだから、おもしろいよねえ。何か不思議な化学反応のようなマジックが起きる。
 「ことば・ことば・ことば」というわけにはいかない。シェークスピアじゃないからね。そして、同時に、あ、やっぱり「ことば」にするのが上手--と矛盾したことも思ってしまう。「映像」を「ことば」にしてしまう。
 最初の(?)クライマックス。
 グレイス・ケリーが殺人者の部屋に侵入して証拠を探す。殺された妻の指輪を見つけ出す。その見つけ出した指輪--これを、グレイス・ケリーは、双眼鏡でジェームズ・スチュアートがのぞいているのを知っていて、後ろ手にして見せる。「あ、証拠の結婚指輪」。「結婚指輪を見つけた」と「ことば」では言わない(言えない状況)で、ちゃんと「映像」で「証拠」を語らせる。
 うーん、おもしろいねえ。
 「ジェームズ、ジェアムズ」と大声で助けを呼んでいたのに、警官がきて、とりあえず殺人者の手から逃れることができたとわかったら、もう、「ことば」を発しない。大事なことは言わない。「この男は殺人者、妻を殺した。妻の結婚指輪はここにある」なんて、ことばで説明すると、何もかもが台無しになる。男が暴れ出してしまう。だから、それは話せる場所(警察)までとっておく。言わない。言わないかぎり、そこでは何も存在しない」。
 でも、ことばの国のひとではないアメリカ人、そしてカメラマン(これも重要だねえ--のぞく、というより映像のひと、ことばのひとではない、という意味で)には、映像でそれがわかる。

 ヒッチコックの映画がおしゃれなのは、彼がことばの国の生まれであることが関係しているかもしれない。
 映像が語るもの、ことばが語るもの。その区別をはっきり理解している。映像をことばとして明確に認識している、ということかもしれない。映像が語ることができるものは全部映像に語らせ、その補足、補助線を「ことば」が引き受ける--そういう構造でヒッチコックの映画はできているのかもしれない。
                          (午前十時の映画祭、22本目)


裏窓 [DVD]

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黄仁淑「空の花」

2010-07-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
黄仁淑(ファン・インスク)「空の花」(韓成礼訳)(「something 」11、2010年07月01日発行)

 黄仁淑(ファン・インスク)「空の花」は「雪」を描写している。

先に落ちていく雪片に阻まれて
後の雪片たちがふわふわと浮かぶ
空までの遥かな隊列です
向こうの深い天空で
似通った星たちが吸い込まれ
一緒に零れ落ちるかも知れません
私も吸い込まれて
どこかに零れ落ちてしまうようです

 雪は空から降ってくる。多すぎて、落ち切れなくて、浮かんでいる。こんなに多くの雪が落ちてくるのは、空の向こうの星が一緒に落ちてくるのだ、というのは美しいイメージだ。
 その落ちてくるものを書きながら、逆に、私が空に吸い込まれていくように感じる。一個の「星」として空に吸い込まれて、それから遠い宇宙の星とは逆に、どこかの星に零れ落ちる。

 あ、美しい。

 この部分はほんとうに美しいと思う。
 私は雪国の生まれなので、雪が降るのは小さいころから見慣れている。雪はたしかに降ってくるものなのだが、それを見上げていると雪が降ってくるのではなく、自分が空へのぼっていく感じがする。吸い込まれる感じがする。
 そして、あ、このまま高く高くのぼっていってしまったら、どうなるのだろう。空を超えて、どこへ行くのだろう。
 たぶん、黄仁淑もそう感じたのだろう。そして、そのあと、きっと宇宙を超えて、雪の降る別の星に、雪となって降るのだ、と感じたのだと思う。
 私は、そこまでは思ったことがない。
 ところが、黄仁淑は私の幼い空想のはるか向こうまで飛んで行く。そして、自分の「肉体」の運動とは逆のことがどこかで起きている可能性があるとも考える。想像する。
 どこか遠い宇宙の星にも雪が降ってる。そして、それを見上げる人ではなく星そのものが、その降ってくる雪を逆に駆け上って(降ってくる雪に吸い込まれて)、空を超え、いま、黄仁淑のいる土地に降って来ている。
 このとき、黄仁淑は空で起きている下降(降る)と上昇(吸い込まれる)を連続したものとしてとらえている。その運動が広がっているところが空を超え、宇宙になる。黄仁淑は空を、雪を描写しているのではなく、「宇宙」そのものになっているのだ。「宇宙」のひろがりが黄仁淑の想像力なのだ。。
 ほーっと、息が漏れる。

 黄仁淑は私の知らないことを書いている。知らないことなのに、それが不思議と「なつかしく」も感じられる。黄仁淑の書いていることばのように、そのまま、雪を見上げて宇宙を超えて、知らない星に零れ落ちてみたい、という夢を見てしまう。
 あ、はやく雪の季節にならないかなあ、とも思う。

 この詩の最後は、「宇宙」そのもののひろがりとは逆の方向(?)に収斂していくが、それはそれでなぜかとてもなつかしくもあるし、美しい。

自分の部屋に入ってドアを閉めると
急に静かになります
ポケットの中に雪がいっぱい入っています。

 黄仁淑は単なる「空想」を描いているのではない。黄仁淑の「宇宙」はいつでも、手に触れることのできる「現実」なのだ。


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川口晴美「春暁」

2010-07-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
川口晴美「春暁」(「something 」11、2010年07月01日発行)

 きのう読んだ八木幹夫の詩は夢と目覚めを書いていた。そこには「無限のいま」があった。川口晴美「春暁」も夢と目覚めを書いているが、そこにある時間は何だろう。

ぬるい雨の残る街の
坂の途中にある雑貨店は春のセール
パールピンクやフレッシュグリーンやベビーブルーの
カップ&ソーサーもメモリクリップもピルケースも
手に取ろうとするとあかるい雲みたいにやわらかく溶けていく
ほんとうに欲しかったのかわからないうちに
触れることなく置き去りにされたわたしは指先から冷えて
これは夢なのだから仕方ない

 「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」の「わからないうちに」に私はひきつけられた。「わからない」という「時間」の「うちに」。そこに「時間」を補うことができる。ここにはたしかに「時間」が書かれているのだ。「一瞬」ということばさえ入り込めないとても短い「時間」が。あるいは、書くことのできない「時間」が。
 この書くことのできない「時間」--それはいったいなんだったのか。どうやれば、「時間」を押し広げ、その「内部」へ入っていけるのか。
 川口は、それをむりやりことばで押し広げはじめる。

これは夢なのだから仕方ない
あたたかい毛布をたぐり寄せればいい
おもいながら佇んでいる耳元へ
会いましょう、という声がひびいた
そうだ会えばいい
夢なのだから
スカイグレイの石畳をこいびとと連れ立って
下ばかり見て歩いた
濡れたように光るみちにわたしの足先はぶれ
歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう
こいびとはなにも言わない

 不思議なくらい「間延び」している。前半のことばの動き、ことばとことばの距離のなさに比べると、ここには不思議な「空間」の広さがある。「わたし」と対象との「距離」がある。
 そして、川口は意識して書いているのか、それとも無意識に書いてしまったのかわからないけれど、その「距離」が「触れる」と「ぶれ(る)」の違いとして浮かび上がってくる。
 前半に書かれていた「色」と「もの」に「わたし」は「ふれる」ことができなかった。一方、いま、街を歩いている「わたし」の足先は、濡れた道に、その光に触れながら、なにかが「ぶれ」ている。触れているのに、その触れていることが実感できず、それが「ぶれ」として広がっている。
 この「実感」の欠如というか、稀薄さが、ことば全体の「間延び」の印象の底にある。
 しかし、「間延び」しているけれど、それはつながっている。
 この「間延び」と「つながっている」を繋いでいるのが、「わからない」である。「わからない」という感覚である。
 「歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう/こいびとはなにも言わない」という行間には「わからない」ということばが見えない形で存在している。書かれていないけれど、存在している。

歪んでいくのだけれどどこまでいけばいいのだろう
わからない
こいびとはなにも言わない

 「わからない」ということが、川口の「時間」が拡散するのをつないでいる。「間延び」しながらも、そこでは「時間」が何かに引き止められている。「わからない」という何かに。
 そして、この「わからない」が後半、おもしろいかたちで復活してくる。

こいびとはなにも言わない
わたしはたぶんその人を知らない
夢だから
さみしい街の
路地がふいにひらかれて
運河があらわれた
あわく濁った水の流れる運河の前にわたしは立ちどまり
うみ
と呟いた運河だとわかっていたのに
ひこいびとは立ちどまらずに行ってしまった
きっと最初からいなかったのだ夢だから
それはもういい
わたしを流れるあたらしい水のかたちのない冷たさに
目がさめる
3月の朝

 「運河だとわかっていたのに」の「わかっていた」。そして、その「わかっていた」を「わたし」は裏切る。「運河だとわかっていたのに」「うみ/と呟いた」。
 「わからないもの」は裏切ることができない。そして、そこには「隙間」がない。「わからないうちに」は「わからない時間のうちに」と言い換えるほどの「時間」の余裕がないし、「歪んでいくのだけれどどこまで行けばいいのだろう」か「わからない」ことは、「わからない」という「時間」さえない。「わからない」とさえ、意識化できない。いや、意識はしているのだが、その意識は肉体にあまりにぴったりとはりついているで、ことばにならない。
 「わかっている」ことは、そういうこととは違って、「わたし」と切り離すことができる。「と呟いた運河だとわかっていたのに」とその1行は空きもなく、密着して書かれている。ほんとうなら(学校文法なら?)「うみ と呟いた/運河だとわかっていたのに」だけれど、これを川口は「うみ/と呟いた運河だとわかっていたのに」と意識的にことばの位置をずらしている。ことばの「ぶれ」をつくりだして、強引に「間」を消している。
 「わからない」と「わかっている」が、川口の詩では、不思議な「時間」をつくりだしているのである。
 強引に書いてしまえば、八木が「無限のいま」という「時間」を書いたのに対して、川口は、「無限ではない」いま、「無限」の対極にある「時間」を描いている。八木の時間は、無限へ向けて放心していく。川口の時間は、「無限」の反対、「ゼロ」(意識の焦点?)へ向けて求心していく。
 「求心」なんてことばがあるかどうか知らないが、ようするに、広がるではなく「凝縮」していく。ブラックホールになっていく。
 八木のことば、意識が、「あなた」「鳥」「石」が「未分化」な状態を「幸福」としてもっていて、それを「なつかしく」思い、またそれを「永遠」とも感じるのに対して、川口の「未分化」は様相が違っている。川口にとって、いろいろな「色」や「もの」「こいびと」が「未分化」な状態というのはない。それは、最初から「分化」(分節化)している。

 あ、うまく書けない。
 視点を換えよう。

 川口にとって「未分化」は「存在」ではない。存在が「未分化」の状態というものを川口は想定していない。川口のことば、意識は存在の「未分化」という状態を、存在の根源的なありかた、いのちの原型とは考えていない。
 川口にとって「未分化」「分化」は、川口自身の内部の問題なのだ。

ほんとうに欲しかったのかわからないうちに

 「ほんとうに欲しかった」。欲望。川口の感情。そこへ向けての「求心」。
 八木は、変ないいかたかも知れないが、「心」を求めていない。それが「放心」ということでもある。「心」を放してしまう。自分のものではなくしてしまう。そうすると、そこに「無限」という幸福があらわれ、「いま」という時間となって輝く。
 川口は違う。「心」を自分の中で消滅させる--というか、「点」ですらない一点にしてしまって、「存在」と向き合う。--「心を無にする」、「無心」とは違って、あくまで、「心」はあるのだが、その「心」の「領域」(ひろがり)が限りなく「点」に近い。そういう状態になったとき、存在が「あたらしい」ものになってあらわれてくる。
 目覚め、朝、とは川口にはそういうものであって「ほしい」ということなのだと思う。



 もう一度、視点をかえよう。言いなおそう。

 「無心」ということでいえば、たぶん八木の「放心」の方が「無心」なのである。八木は、八木の「肉体」のなかから「心」を放り出し、いま、彼の肉体のなかには「心」は「無い」。それが「無限のいま」。そこから、あらゆる「分化」(分節化)がはじまる。
 川口は、「心」が「分化(分節化)」した結果、世界が複雑になっていると考える。「ほんとうに欲しかったのかわからないうちに」とは、「心」が完全に「分化(分節化)」しないうちに、ということであり、「心」が「分化(分節化)」すれば何もかもが明瞭になるのだけれど--だけれど、そういう「分化(分節化)」を一方で川口は望んではいない。--これは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。
 川口は「心」(意識)というものは「分化(分節化)」していくもの、そうすることで世界をとらえるものと「知っている」。そして、それを否定すること、「分化(分節化)」を限りなく「ゼロ」に近づけることで、「あたらしい」世界と向き合おうとする。

わたしを流れるあたらしい水のかたちのない冷たさに

 この1行に書かれた「あたらしい」には、とても重要な意味がある。川口は「あたらしい」と書かずにはいられないのだ。
 「あたらしい」世界は、「あたらしい」川口の「心」とともにある。川口の「肉体」のなかにあるものが「あたらしい」もの、「ゼロ」に近いものになったとき、世界は「あたらしい」。




半島の地図
川口 晴美
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