西脇順三郎のことばに対するまじめな研究論文を読んだ後につづけて書くのは、なんだか窮屈な感じがするが、まあ、書きつづけてみる。書きはじめれば、きっと気分も変わるだろう。(「日記」なので、私は気楽である。)
『失われた時』(1960年)。その「Ⅰ」。
夏の路は終つた
私はこの書き出しが好きだ。何が書いてあるか、はっきりとはわからない。有無をいわせず「終つた」と断定してしまう意志(?)の強さにぐいと引きこまれる。強いリズムに引きこまれる。
「夏の路は終つた」。これはしかし、なんだろう。
「夏の路は終つた」というが、現実にはそういうことはありえない。「夏」は終わるだろうが、「路」が終わるということはない。正確にいうなら、路を歩く夏は終わった--ということになるだろう。けれど、西脇はそういう「学校教科書」文法とは違ったことばをつかう。
「夏の路は終つた」--この行で、他の読者はどんなイメージを思い浮かべるのだろうか。たとえば夏の野。丘のようになっている。路がのぼっていって、空中で途絶えている。あるいは、遠い遠い野。路は遠近法の焦点のように消えている。
書きながら、あ、私は無理をしてイメージをつくり出しているなあ、と思ってしまう。私は、不思議なことにイメージを思い浮かべない。「路」がぜんぜん思い浮かばない。
西脇が絵画的(イメージ)詩人であると聞くとき、私が落ち着かなくなるのは、こういう体験があるからかもしれない。
私は「路」をイメージとして思い浮かべることができない。あえていうなら、私は突然、「イメージ」の欠落に落ち込む。「路」が見えないまま、その見えないものが何かあるとという短いことば、その短さの中にあるリズムの強さが、2行目へ一気に引きこむ。
あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた
あ、「路」というのは、どこか山の中だね。それは「路」ではなく「径」という字でもあてるべきものかもしれないし、もしかすると「けもの道」ですらないかもしれない。だれも歩いていない。ただ西脇だけがぶらぶらと歩いているだけである。
「路」なんて、ない。
2行目にきて、あ、「路」なんてないじゃないか、ということに気がつく。そしてそのとき、「黒い岩」と「黒苺」は、見えるのである。「路」を消して、リアルに浮かび上がってくるのである。
このイメージ(?)の、まったく見えなかったり、突然くっきりみえたりする「差」が楽しい。
正確に表現することはできないが、西脇のことばは「イメージ」を残さない。次々に消してしまう。「絵画」というのは、イメージを平面に定着させたものである。けれど、西脇はイメージを定着させていない。むしろ、次々に消している。それは「絵画」ではない。(あえていえば、映画がイメージをつぎつぎに消しながら突き進むけれど……。いうならば、それは「映画的」であるかもしれないけれど、絵画的ではない--私にとっては。)
魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す
もう、ここには「路」は完全に消えている。そして黒い岩も黒苺も。
「現実の眼」ということばを正直に信じれば、西脇にとって「夏の路」は「現実の眼」が見たものではなかったことになる。「魚の腹は光つている」からが「現実の眼」で見るものになる。
「失われた時」はプルーストを思い起こささせる。「楡」はトーマス・マンを思い起こさせる。そうすると、「現実の眼」というのは必ずしも「現実」ではないかもしれない。「文学」というか、「芸術」をくぐりぬけてきた眼ということになるかもしれない。
そのことから逆に、「夏の眼」を想像してみるなら、それは「文学(芸術)」を離れた眼になるかもしれない。なまの肉体の眼。いや、自然の眼。加工されていない眼。文学から遠く離れて、休んでいる眼。そういうことになるかもしれない。
西脇は「眼」の経験を書こうとしている。けれど、それは私たちがふつうにいう「眼」ではない。「文学の眼」と「自然の眼」の違いを体験する眼である。
私たちの意識は(当然目も、つまり視神経も)、私たちがなれ親しんできた「生活」に影響されている。知らず知らずに「文学的」に世界を見てしまう。それを「夏」に体験した「自然の眼」に、あたらしく体験させてみる--そのときの、内的変化(精神・意識の動き)を西脇は書こうとしている。
私は、そう感じられる。
「眼」が体験するものだから、それは一義的には眼にみえるイメージ(絵画)に似ているかもしれないけれど、それは絵画として定着させようとすると破綻してしまう--私は、そう感じてしまう。
絵画とは別のものが西脇の「芯」に存在する--と私はいつも感じてしまう。
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