詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(133 )

2010-07-11 15:20:41 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇順三郎のことばに対するまじめな研究論文を読んだ後につづけて書くのは、なんだか窮屈な感じがするが、まあ、書きつづけてみる。書きはじめれば、きっと気分も変わるだろう。(「日記」なので、私は気楽である。)
 『失われた時』(1960年)。その「Ⅰ」。

夏の路は終つた

 私はこの書き出しが好きだ。何が書いてあるか、はっきりとはわからない。有無をいわせず「終つた」と断定してしまう意志(?)の強さにぐいと引きこまれる。強いリズムに引きこまれる。

 「夏の路は終つた」。これはしかし、なんだろう。
 「夏の路は終つた」というが、現実にはそういうことはありえない。「夏」は終わるだろうが、「路」が終わるということはない。正確にいうなら、路を歩く夏は終わった--ということになるだろう。けれど、西脇はそういう「学校教科書」文法とは違ったことばをつかう。
 「夏の路は終つた」--この行で、他の読者はどんなイメージを思い浮かべるのだろうか。たとえば夏の野。丘のようになっている。路がのぼっていって、空中で途絶えている。あるいは、遠い遠い野。路は遠近法の焦点のように消えている。
 書きながら、あ、私は無理をしてイメージをつくり出しているなあ、と思ってしまう。私は、不思議なことにイメージを思い浮かべない。「路」がぜんぜん思い浮かばない。
 西脇が絵画的(イメージ)詩人であると聞くとき、私が落ち着かなくなるのは、こういう体験があるからかもしれない。
 私は「路」をイメージとして思い浮かべることができない。あえていうなら、私は突然、「イメージ」の欠落に落ち込む。「路」が見えないまま、その見えないものが何かあるとという短いことば、その短さの中にあるリズムの強さが、2行目へ一気に引きこむ。

あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた

 あ、「路」というのは、どこか山の中だね。それは「路」ではなく「径」という字でもあてるべきものかもしれないし、もしかすると「けもの道」ですらないかもしれない。だれも歩いていない。ただ西脇だけがぶらぶらと歩いているだけである。
 「路」なんて、ない。
 2行目にきて、あ、「路」なんてないじゃないか、ということに気がつく。そしてそのとき、「黒い岩」と「黒苺」は、見えるのである。「路」を消して、リアルに浮かび上がってくるのである。
 このイメージ(?)の、まったく見えなかったり、突然くっきりみえたりする「差」が楽しい。
 正確に表現することはできないが、西脇のことばは「イメージ」を残さない。次々に消してしまう。「絵画」というのは、イメージを平面に定着させたものである。けれど、西脇はイメージを定着させていない。むしろ、次々に消している。それは「絵画」ではない。(あえていえば、映画がイメージをつぎつぎに消しながら突き進むけれど……。いうならば、それは「映画的」であるかもしれないけれど、絵画的ではない--私にとっては。)

魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 もう、ここには「路」は完全に消えている。そして黒い岩も黒苺も。
 「現実の眼」ということばを正直に信じれば、西脇にとって「夏の路」は「現実の眼」が見たものではなかったことになる。「魚の腹は光つている」からが「現実の眼」で見るものになる。
 「失われた時」はプルーストを思い起こささせる。「楡」はトーマス・マンを思い起こさせる。そうすると、「現実の眼」というのは必ずしも「現実」ではないかもしれない。「文学」というか、「芸術」をくぐりぬけてきた眼ということになるかもしれない。
 そのことから逆に、「夏の眼」を想像してみるなら、それは「文学(芸術)」を離れた眼になるかもしれない。なまの肉体の眼。いや、自然の眼。加工されていない眼。文学から遠く離れて、休んでいる眼。そういうことになるかもしれない。

 西脇は「眼」の経験を書こうとしている。けれど、それは私たちがふつうにいう「眼」ではない。「文学の眼」と「自然の眼」の違いを体験する眼である。
 私たちの意識は(当然目も、つまり視神経も)、私たちがなれ親しんできた「生活」に影響されている。知らず知らずに「文学的」に世界を見てしまう。それを「夏」に体験した「自然の眼」に、あたらしく体験させてみる--そのときの、内的変化(精神・意識の動き)を西脇は書こうとしている。
 私は、そう感じられる。
 「眼」が体験するものだから、それは一義的には眼にみえるイメージ(絵画)に似ているかもしれないけれど、それは絵画として定着させようとすると破綻してしまう--私は、そう感じてしまう。
 絵画とは別のものが西脇の「芯」に存在する--と私はいつも感じてしまう。




西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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トッド・フィリップス監督「ハングオーバー」(★★★★★)

2010-07-11 12:00:00 | 映画

監督 トッド・フィリップス 出演 ブラッドリー・クーパー、エド・ヘルムズ、ザック・ガリフィアナキス、ヘザー・グラハム

 とてもよくできた脚本である。(脚本家、だれ?)特に新しい何かが描かれるわけではないが、リズムがよくて、細部がとてもていねいである。ドタバタなのに。こういう映画は、私は2回見るというとはないのだが、今回は、昨年秋にニューヨークへ行ったときに見たのが忘れられずに、また見てしまった。
 いちばん好きなのは虎のシーンだなあ。私はもともと虎が大好きで、虎が出てくればそれだけで50点プラスしたいくらいなのだが……。(「地獄の黙示録」も虎のシーンがあるから+αの評価だけれど。)まあ、その虎は置いておいて。
 と書きながら、ふと。
 酔っぱらいって、英語でも虎? ふいに気になってしまった。
 ということは、またまた、おいておいて。
 というふうに、この映画も、適当にストーリーが進んで行く。
 で。
 もし、虎よりも好きなシーンがあるとすれば。スタンガンのシーンかなあ。主人公の3人が釈放してもらう代償に刑務所ツアー(警察ツアー?)の子供たちのスタンガンの標的になる。
 警官「誰か、撃ってみたい人?」
 子供「はーい、はーい、はーい」
 このシーンの、わきの方、スタンガンショーを提案した警官2人とは別に、ツアーの案内役らしい警官がいて、その警官も子供と一緒になって、
 「はーい」
 と真っ先に手を挙げる。
 いいなあ、これ。
 無責任で。
 これに先立って、逮捕された3人を携帯電話のカメラでふとった少年が撮影するシーンがある。それに怒った3人のうちのひとり(彼もまたふとっちょである)が、電話をけりとばす。少年は「何するんだ、いつか復讐してやる」と、声には出さないがにらみ返す。その少年も「はーい」と手をあげ、ちゃんと復讐する。
 ね、ちゃんと伏線が生きているでしょ? しかも、無理がないでしょ?
 この映画、きっと、ラスベガスで聞きかじったあれやこれやのデタラメを全部盛り込んでいるのだと思うけれど、その盛り込み方に無理がない。
 そして、容赦がない。何といっても、酔っぱらっていて何も覚えていない。それが設定だから、何が起きてもぜんぜんおかしくない。
 問題はリズムだけ。
 滞ってはだめ。ただひたすら駆け抜ける。
 設定が、行方不明になった「花婿」を結婚式までに見つけ出すという「時間制限」があるから、まあ、駆け抜けないことにはしようがないのだけれど、ほんとうにスピーディー。伏線はきちんとしているけれど、逆戻りをしない。状況説明(?)にまだるっこしさがない。
 で、このまだるっこしさがないことのいちばんの理由は。
 それは、3人の「記憶」を映像で再現しないこと。何をしたかを映像でたどらないこと。映画は映像を見せるものという観点からすると、これはそれを逆手にとっている。一部、マイク・タイソンの豪邸から虎を盗むシーンは、監視カメラがとらえていた映像として再現されるが、映画そのものとして再現されることはない。欠落している「記憶」は最後まで欠落している。
 欠落しているから、軽いのだ。スピードがあるのだ。明るいのだ。
 そして欠落しているから、彼らが何をしたかもよくわかる。もし、彼らが実際にしたはちゃめちゃが映像化されたら、単なるドタバタで10分で飽きるだろう。他人のドタバタなんて一回笑ってしまえば、もうおかしくはない。
 これまた逆説っぽいいい方になるが、おかしくないことだけが、おかしい。まじめだけが、おかしい。真剣だけがおかしい。
 3人の男は「花婿」を探している。真剣である。だから、おかしいことがおきる。真剣なときは、何かを我慢しないといけなかったりする。そして、それはとんでもないことだだったりする。
 あ、だんだん、まじめな感想になってしまいそう。
 やめよう。
 最後の結婚式の歌手の歌も変だし、その歌手もへたくそなところも楽しい。(タイソンの歌も上手とは言えない。)そういうどうでもいいところが、とてもリアルなのもいいなあ。
 おまけもいいなあ。
 主人公たちのはちゃめちゃは「映画」にはならないが、デジタルカメラの写真には残っている。それが最後にぱっぱっぱっぱっぱっと映し出される。「ニューシネマ・パラダイス」のキスシーンのように。それが、実に充実している。「欠落」が一気にそこに噴出してくるんだからね、充実するしかないのだけれど。
 「一回、みんなで見るだけ。後は削除」
 あ、そんな気持ちでこそ、この映画は見るべきだね。
 私は2回見てしまったけれど、1回かぎりとこころに決めて見ると、もっと楽しいかもしれない。映画を見る前に、そういうことを考えたりはしないけれど、これから見るひとは「1回かぎり」とこころに決めて、それから見てください。
 とても楽しい。
 楽しすぎて、もう一回見たくなっても、私は責任を持ちません。ほら、書いてあるでしょ? この映画は一回かぎり、絶対に、一回かぎりだよ。
 念押しです。

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八木幹夫「目覚め」

2010-07-11 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「目覚め」(「no-no-me」11、2010年07月15日発行)

 「わたし」とはだれなのか。八木幹夫「目覚め」は次のようにはじまる。


めざめて
わたしがわたしであることの
ふしぎ

めざめて
どうして
わたしはあなたではなかったか

めざめて
どうしてわたしは空とぶ鳥ではなかったか

めざめて
どうして
わたしは川原の石ではなかったか

 ここまでは、この疑問までは、八木は「ふしぎ」と書いているが、私には「ふしぎ」には感じられなかった。むしろ、こういうことを思うのは、ごく自然なことのように思える。「わたし」が「わたし」ではない、という夢は、「こども」ならだれでも夢見る。あこがれる。というか、ここに書かれていることは、まるで「こども」じゃないか。「あなた」は、まあ、「おとな」の感覚かもしれないけれど、鳥とか石なんて、「こども」の世界だ。不思議なのは、そういう「こども」っぽいリズムをそのまま書いていることである。正確ではないが、八木の年齢をおぼろげながら知っている。だから、よけい不思議に感じる。
 ところが、次から、突然、世界が変わってしまう。


めざめて
わたしは
あなたと
鳥と
石に
あやまった

めざめて
ずっと野山で
遊んでいたかった
あなたや
鳥や
石のように

めざめて
わたしにもどるまえの
はるかな時間が
なつかしい

 「あなた」という「だれか」や「鳥」「石」は、「わたしにもどるまえの」「わたし」なのである。「他者」ではない。「だれか」になりたいのではないのだ。「こども」はだれでも、自分の両親は別にいる。私は両親の子供ではないと夢見る。それが子供にとっての「わたしではないわたし」になる最初の体験だが、その子供の夢の鏡の裏のように、八木の書いている「わたし」は「だれか」にあこがれているのではない。
 ここに書かれているのは「こども」の夢ではない。

 「わたしにもどるまえ」の「わたし」。それは、この詩では「あなた」「鳥」「石」と書かれているが、それは便宜上三つにわけて書かれているだけで、三つではない。ひとつなのだ。「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「あなた」であり「鳥」であり「石」である。それは、なにかでしっかり結びつけられている。
 その「なにか」を、八木は「はるかな時間」と書いている。
 「わたしにもどるまえ」の「わたし」は「はるかな時間」に住んでいる。それは、「はるか遠くにある時間」、遠い遠い過去ではない。「はるかな」は「いま」を起点として「はるか」はいう「距離」(隔たり)を指して言っているのではない。直線で結ばれる「いま-過去」の、その「-」を「はるか」と言っているのではない。
 その「はるか」には「距離」がない。「いま」がそのまま拡大していって、無限になる。「無限のいま」が「はるか」なのだ。
 だから「なつかしい」は「過去」、遠いところが「なつかしい」のではなく、「いま」「ここ」の、あえていえば、凝縮した一点、「いま」の「中心」が「なつかしい」のだ。その「中心」は「中心」であるから「一点」なのだが、「中心」であることによって「無限」なのだ。
 そこからどこへ行くか--その方向が「無限」という意味である。
 「いのち」は、そういう「無限のいま」のなかにある。

 私は、いま、オリヴェイラ監督の「コロンブス 永遠の海」という映画を思い出している。その映画に描かれている「永遠」、あるいは「郷愁」は八木の「無限のいま」、それを「なつかしい」と感じる気持ちに似ている。
 それは、「わたし」から遠いどこかにあるのではなく、「わたし」の、「わたし以前」としか言えない「中心」にあるのだ。
 八木は、それを放心してみている。放心のなかに、八木は、めざめる。それは、あたらしく生まれなおすということでもある。
 「なつかしい」といった瞬間、八木は「無限のいま」の「中心」へ吸い込まれていっている。吸い込まれていきながら、その吸い込まれていくことを自覚し、そこから帰るようにして「ことば」を動かしている。その、矛盾した往復運動、往復運動の矛盾のなかに、「いのち」というものがある。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社

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早矢仕典子「黒い絵画」

2010-07-10 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「黒い絵画」(「no-no-me」11、2010年07月15日発行)

 ひとはなぜ書くか。ことばを動かすか。書けないからである。自分が感じていること、見たこと、聞いたことが書けない。いままで知っていることばでは書けない。だから、それを何とか別のことばでいいから、書きたい。そう思うのだ。どう書いていいかわからない。ことばがどう動いていくのか、わからない。だから、書くのだ。
 早矢仕典子「黒い絵画」を読みながら、そう思った。

ひとの詩を読みながら うとうと していると
誰やらの眠りの中 からずるずると持ち帰ってしまったこの
みょうな だれやらの桃 じゃない 腿の付け根 の方から
かぶりついていた という食感! 女だったか 男だったか
プラド美術館では ゴヤのための薄暗い部屋で ゼウスの父
サトゥルヌスがわが子の 頭から かぶりついていたけれど
ちょうどそのようなサイズ の脚 だったような

 「みょうな」「食感」。詩を読みながら、「読後感」ではなく、「食感」。頭のなかではなく、感情のなかではなく、「肉体」のなかに残る感じ。口や、舌や、喉や、胃にのこる「みょうな」(妙なではない、妙という漢字で整理できない)何か。
 「桃」と書いて、すぐに「腿」と訂正したい何か。
 この、書きながら、書いても書いても、訂正(言い直し)をしないではいられない感じ--それを早矢仕は「みょう」と言っているのと思うのだが、それを何とかことばにしたい。いま書いたことばを訂正しながら、--言い換えると、否定しながら、ことばを探している。
 このリズムは、途中にふいに挟まれる1字空き、たとえば「だれやらの桃 じゃない 腿の付け根 の方から」の1字空きのリズムのなかに、きちんと書き留められている。ことばではなく、「1字空き」という、その空白として。
 書けない何か--「流通言語」(いまあることば)では空白でしかない何か、それにつまずきながら、それを跳び越えながら、早矢仕はことばを探すのだ。書きたいこと--というよりは、ことばを探す。書きたいことははっきりしている。けれど、それを書くことばがない。だから、それは、ことばを探す旅である。
 ことばを探す旅は何もことばのなかだけを旅するわけではない。「絵画」のなかも旅する。そのとき、絵画を見る「目」は目を逸脱していく。「目」でありながら、口になり、舌になり、喉になり、胃になる。そして、いくつもの「肉体」をくぐりぬけて、ことばになる。あ、いつでも、ことばは、「肉体」をくぐりぬけながら動いているのだと、早矢仕のことばを読むとわかる。
 早矢仕のことばが「肉体」であるから、そこで出合うのは、他人のことばであると同時に「肉体」でもある。

う となり もうこれ以上は という満腹感まで
持ち帰ってしまった ところが 脚をもがれたからだの方
でも それはなかろう こんな中途半端はやめてくれ と
あちら側からうったえてくる もっと ほら食べておくれ
そうはいわれても もうあの食感は二度とごめんだ 一度
目が覚めてしまった以上 戻りたくもない ゴヤの満腹
ゴヤの嘔吐 いやわたしだって もうごめんだ

 ここで早矢仕のことばを動かしいるのは「中途半端」という感覚である。それは「わたし」にあると同時に、「他者」にもある。「みょうな」は「中途半端」でもある。どこにも落ち着きようがない。「いま」を否定して、どこかへ行きたいが、その「どこか」がどこかはっきりわからない。ただ「いま」が嫌なことだけははっきりしている。「いま」ではない「どこか」。「ここ」ではない「いつか」。何か、「時間」とか「場所」とかの基準も入り乱れて、ただ、「いま」「ここ」を否定しなければ落ち着かない感じ--それが「満腹」、満腹すぎての「嘔吐」と重なって、つまり「肉体」の奥から突き上げてくる衝動となって、早矢仕を突き動かす。

それはなかろう 最後まで食べておくれ食べつくしておくれ
こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった

 「最後まで」--あ、「最後まで」が「中途半端」を超えたところだね。でも、そんなことは、ことばにはできない。ことばはいつだって、「いま」を否定するだけなのだ。それしかできない。そして、そのできないことを、できないと知りながらやろうとするのが、たぶん「文学」なのだ。
 そして、そういうことをやっていると、「みょうな」ことが起きる。

こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった

 「わたし」が「他者」になってしまう。「わたし」が「わたし」を超越してしまう。ことばは、結局、そういうところへ行く。「わたし」ではなくなってしまう。そうなることでしか、ことばは終われない。もちろん、そうやって「わたし」が「ゴヤ」になってしまったところで、今度は、その「ゴヤ」が「わたし」なのだから、また、ことばは動き回るしかない。終わることはできない。「終わり」は幻である。
 それはつまり、果てしない「循環」である。くりかえしである。
 そうであっても、やはり、動くしかないのである。最後まで、引用しておこう。

それはなかろう 最後まで食べておくれ食べつくしておくれ
こちらもじつは わたしの姿をしたゴヤなのだった 聴覚の
ない老いぼれたわたしは思い出そうとする いったい だれ
の どんな詩を喰らってこんなめにあっているのか その詩
こそがきっと 本物のゴヤなのだ ゴヤの満腹 ゴヤの嘔吐
最後まで食べておくれとうったえている 片方の脚以外無残
に食べ残された だれかの 眠りの中の
くろい絵


詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(132 )

2010-07-09 12:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 きょうも「番外篇」。八木幹夫「西脇順三郎の風土」を読んだ。「幻影」27(2010年05月31日発行)
 『旅人かへらず』の詩に登場する「風土」について書いている。「六五」の

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 この「さがみ川」は「相模川」であり、八木は土地鑑がある。それで、西脇のことばを現実の風景と結びつけ、そのときに感じる「違和感」を手がかりに西脇のことばを考えている。
 きのう読んだ澤のことばに比べると、私は、八木のような読み方が好きだ。八木は八木で「正解」を追い求めているのかもしれないけれど、西脇が具体的にどの風景を描いているかということよりも、西脇のことばに触れて感じたことを書いている。
 たとえば、

 西脇さんは目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。

 という具合である。八木は西脇を「画家」の目をもった詩人ととらえている。ただし、その「画家」は、八木の目とは違った世界をとらえる。そのことを楽しんでいる。

詩人の意識の底には常に絵画的記憶が眠っている。
 詩に表現された現実は、写真や映像とは異なる。(略)詩のことばは固定的な現実的像を限定しない。読者の中で勝手に映像化されたり、ある種の情感に変化したり、五感とは異なった像を脳のどこかに自由に結ぶのだ。

 澤と八木の違いは、「読者」の「勝手」、「自由」をどれだけ認めるかという部分にあると思う。澤は読者の「勝手」「自由」を排除して、西脇のことばの「正解」を探しつづけている。八木は、「勝手」「自由」があってもいいじゃないか、という。それは、八木が、八木自身の「勝手」「自由」で、西脇のことばを読み、いろいろ思っているということだ。
 こういう読み方が私は好きだ。
 理由は簡単。
 あれ、八木さん、そうなの? と、気楽に言えるからである。私は「相模川」の風景を見たことがないので、八木よりももっと勝手に、もっと自由に西脇のことばを読んでいる。私は、風景を気にしていない。

 で、思うのだけれど。

 西脇って、ほんとうに絵画的? 私は西脇のことばから「絵画」を感じることは少ない。風景が思い浮かばない、というのではないけれど、もっと違うものを感じる。
 たとえば、『第三の神話』の部分、

ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような鬚をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする。

 この部分にふれて、八木は、

 「男がこの庭を造つたのだゴトン」というところで思わず私は可笑しくて吹き出してしまった。

 と書いている。吹き出してしまったが、やがて、「ゴトン」がシシオドシの音だとわかり、ことばが京都の詩仙堂の庭に収斂していく、一枚の「絵」になるのを、「目にした現実を画家の目でデフォルメし、ことばで対象を無時間の世界に置き換えてしまう。」というような感想を書く。 
 うーん。
 なんだか、かっこよすぎて、「可笑しくて吹き出してしまった。」というところからずいぶん遠くまできてしまったなあ。もっと、おかしいまま、笑ってよ、笑ったら違ったものがあふれてこない? 私は、そう思ってしまう。
 私は、実は、「男がこの庭を造つたのだゴトン」では笑わない。読んだ瞬間「ゴトン」はなんのことかわからないが、おかしくはなかった。同時に、「ゴトン」がとても重要だと、瞬間的に感じた。瞬間的に重要だと感じたから、笑えなかった。なぜ、重要だと感じたのか。とても単純である。「ゴトン」がないと、その行のリズムがあわない。「音」が足りない。
 前の2行の、特に「タビラコ」というわけのわからないもの(その前に「ペルシャ」があるので、なんだか外国の何か、もしかすると人?と思ってしまいそうな何か)、つまり、「絵」として浮かんでこない(絵画的ではない)ことばとつりあわない。
 音のバランスがとれない。
 「男が庭を造つたのだ」だけでは、その1行は「意味」が「絵」になりすぎて、前の行とつりあわない。
 そのアンバランスを「ゴトン」という音が重しのようにととのえる。「タビラコ」と「ゴドン」というふたつの、わけのわからない音が2行にわたった存在することで、音のバランスをとっている。
 そのことを私は瞬間的に感じた。
 絵画ではなく、何かほかのものが、西脇のことばを動かしている。
 それを私は「音楽」というのだけれど。

 それは、たとえば、次のような部分の感想を読んだときにも感じる。うーん。八木さん、そう感じるの? 私はまったく違うふうに感じるのだけど、とついつい、いいたくなる。

 三
  自然の世の淋しき
  睡眠の淋しき

 第一行目の詩句はまず常識の範囲で受け止めることができる。しかし「睡眠の淋しき」とはどういうことなのか。「ねむりの淋しき」と大和ことばでも可能なところを敢えて「睡眠(すいみん)」と漢語を持ち込んでくる点が新しい。さらに作品(二)の「人の世の淋しき」と作品(三)の「自然の世の淋しき」とは照応関係にもなっている。「人の世」と「自然の世」が等価であると言いつつ、いきなり「睡眠」が淋しいという発想には可笑しさと哀しさがつきまとう。

 私は、ここには「さ行」の音の響きあいがある、しか感じない。「し」ぜん。「す」いみん。「さ」び「し」き。そしてそれは、作品(二)の「うす明りのつく」のう「す」あかりとも呼応する。
 「意味」とは違うもの、「絵」とは違うものが西脇のことばを動かしていると私は感じてしまうのだ。
 それは、(四)かたい庭、(五)やぶがらしという一行ずつの詩においてもそうである。「かたい庭」を八木は枯山水の石庭と読んでいて、私は、思わず、あっ、と声を上げてしまったけれど(私は何も生えていない、土がかたくなった庭を思ったのだ)--それはそれとしておいて……。ここでも私は、「か」たいにわ、やぶ「が」らし、という音の呼応があるとしか感じないのだ。八木は枯山水の「枯淡」とヤブガラシの生命力の対比を読みとっているけれど、私は、「かたいにわ」「やぶがらし」とつづけて読むとき、とても気持ちよい音があるとだけ感じて、それがうれしい。
 あの有名な、「天気」でも同じ。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。

 くつがえ「さ」れたほう「せ」きのようなあ「さ」/なんぴとかとぐちにて「さ」「さ」やく/「そ」れはかみの「せ」いたんのひ。--読んでいて、とても気持ちがいい。「さ行」はちょっと複雑で、ほんとうは「さ行」と「し行」にわけなければいけていのかもしれないけれど、この詩では、ちゃんと「し」が避けられて「さ行」だけが響きあっている。「ささ」やく、から「そ」れは、への音の移行が、私は特に、あ、いいなあ、と感じる。

よせから
さがみ川に沿ふ道を下る
重い荷を背負ふ童子に
道をきいた昔の土を憶ふ

 これも「沿ふ」「背負ふ」「憶ふ」という音のなかにある「お・う」のくりかえしがリズミカルでいいなあ、と感じる。そして、その音の美しさに聞きほれてしまうので「道をきいた昔の土を憶ふ」という行の変(?)な感じを、まあ、いいか、と思ってしまう。「道をきいた/昔の土を憶ふ」と切れるの? 「童子に道をきいた」でひとつながり? 昔の土って、その道は昔は土だったけれど、いまは舗装されている、ということ?
 わかんないけれど、まあ、いいか……。



 ついでに。
 八木のいっている「画家の目」という感じは、澤のことばで言いなおせば「イメージ」ということになるのだと思う。
 その澤が、「雨」という作品について書いていた。

南風が柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 この詩から、澤は「ダエナ」をひっぱりだし、ギリシャ神話をだし、エロチシズムを説明している。それは「正解」としかいいようのない注釈(解釈)なのだと思うけれど、こういう解説を読みながらも、私は、やはり「音楽」を感じる。
 「絵」を持ち込んで説明されているにもかかわらず、私が感じるのは「絵」ではなく、「音楽」である。
 「絵」というのは、私の感覚では「空間」である。「雨」では、視線が青銅、噴水、ツバメ、潮(海?)、砂、魚、寺院、風呂場、劇場とぬらしていく。それは「空間」のなかに、配置しなおすことができる。
 でも、「ダエナ」は? 雨が青銅から劇場までぬらしていくのが「いま」という時間だとすれば、「ダエナ」は? それは私には「いま」に属しているとは感じられない。「空間」が破られて、「空間」ではないものがあらわれている。
 それは、八木のことばを借りていえば「時間」かもしれない。八木は「無時間」ということばをつかっているが、「無時間」とは、「いま」を逸脱している、超越しているということだと思う。
 そういう「時間」のなかに「音楽」がある。「音楽」は「絵画」とは違って「空間」がけではなく「時間」がないと成り立たない。



野菜畑のソクラテス―八木幹夫詩集
八木 幹夫
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財部鳥子「由布島の道行き」、稲葉真弓「夜の鳥図譜」

2010-07-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「由布島の道行き」、稲葉真弓「夜の鳥図譜」(「鶺鴒通信」θ春号、2010年04月03日発行)

 財部鳥子「由布島の道行き」は「島だより」という小詩集(?)の1篇。

花を付けた水牛の車に乗って引き潮の浅瀬を渡る
 というはかりごとに乗って
まゆちゃんよ 走れ と三線を弾く牛飼いは
緩やかな島うたを唄う 揺られながら私たちも唄う
 というはかりごとに乗って
可憐な水牛と記念写真を撮ろう
 というはかりごとに乗って
私たちはカメラの前でポーズしている
涎の長い水牛の「まゆ」という名札に涙をこぼす

 旅をする。そのとき、私たちは新しい何かと出合う。それは風景であったり、習慣であったり、食べ物だったり、ことばだったりする。そして、その「出合い」はある程度予測できるというか、予定して出発するものである。ところが、思いもかけないものに出合うことがある。
 財部は、水牛の引く車に乗るということまでは考えていた。その車のなかで案内人が島歌を歌い、それにあわせて財部も唄う--ということもある程度夢見ていたかもしれない。けれど、その水牛に名前がついている、というとは考えなかっただろうと思う。
 そういう考えもしなかったことに出合ったときの、不思議、それがとても自然に書かれている。「名札に涙をこぼす」というのは、なんといえばいいのだろう、涙をこぼしたいという「欲望」のようなものを誘う。
 何にでも名前はある。車を引く水牛にだって、その水牛といっしょに暮らしているひとは「名前」をつける。「ちゃん」をつけて呼んだりもする。その、人間の、あまりにも自然な姿--自然過ぎて見えなかったものが、ふいに「名札」の向こうからあらわれてくる。
 そのとき、涙は--涙は、きっと「郷愁」のようなものだ。なつかしい何かに触れるのだ。見知らぬ土地、見知らぬ旅で、自分が知っているもの、知りすぎているもの、知りすぎているために忘れてしまっているもの(忘れていても、肉体が覚えていて、無意識にやりすごしてしまうもの)が、ふいに、こころの底からわきあがってくる。
 このよろこび。
 それは、涙を流すしかない。泣きたい。ただ、泣きたい。

 詩は、1行あきをはさんで、ふいに、別の世界へゆく。

私たちの茶色のイノセントに涙がこぼれる
思い出せば母の忌日だ
母の前世は「まゆ」だったと思うほど
私たちはやさしくなった

 財部の母は「まゆ」という名前だったかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。どっちにしろ、母には名前があった。水牛に「名前」があるように、母には名前があった。名前を思い出すということは、母をより、具体的に、しっかりと思い出すことである。そのときの、より具体的に、しっかり--ということが、「暮らし」の、「肉体」の、「いのち」のやさしさだ。
 財部は、いま、それを、強い形で取り戻し、復元している。



 稲葉真弓「夜の鳥図譜」、探しているものが見つからない--という詩である。

まだ 会えない鳥を探しに行く
机に広げた鳥図譜の
どこかに きっと 私の卵はあるのだ

 「私の卵」ということばに、とても驚かされた。鳥図譜(図鑑のこと?)に私を探す--私はもしかするとツグミだったかもしれない、オオルリだったかもしれない、と思うのは、ありうることだと思う。
 でも、卵?
 その卵は、どっちだろう。稲葉が産んだ卵か、それとも稲葉が生まれてくる卵か。それはきっと真剣に考えはじめると、わからなくなる。たぶん、両方なのだ。稲葉が産み、そして稲葉が生まれてくる「卵」。
 ひとはだれでも、そういう「暮らし」をしている。「肉体」をかかえている。
 何かをすることは、その何かすることで、新しい「私」になることだ。何かをしはじめることは、何かを産むこと、そして何かをしつづけることは、何かになること。それは切り離せない。
 そういう切り離せないものを、稲葉は「卵」というひとことでつかみとっている。
 これは、(こういうことを書くといろんな批判が飛んできそうだけれど)、「産む性」としての女性だからこそ、つかみとれる実感なのだと思う。 

 この実感に、財部の作品について触れたとき書いた「郷愁」が、からんでくる--というのが、実は稲葉の作品である。多々し、私はその「郷愁」は「意味」としてはとてもよくわかったが、「意味」がわかるだけに「実感」がわからなかった。
 「卵」は、私は「産む性」ではないので「実感」がわからないはずなのに--なぜか、どきりとするくらい「肉体」に響いてくるのを感じた。
 「肉体」というのは、奥のところでは、男も女もかわらず、ただ、「いのち」である、ということかもしれない。
 そして「肉体」が「いのち」であるというのは。

 ちょっと、強引かなあ。

 「肉体」が「いのち」であるというのは、「人間」も「水牛」もかわらない。(もちろん、「鳥」もかわらない。)「いのち」には、みんな、名前があって、それが「いのち」を結びつけるのだ。きっと。

 だからね。というもの、またまた跳びすぎる飛躍なのではあるけれど。
 だからね、稲葉の詩の後半も「フルートの/漏れては消えていった音階」というような抽象的なことばではなく、「出せなかったミの音」とか何か、「卵」のように、具体的な「名前」であれば、きっと「郷愁」が「抽象」ではなく、「具体的」なのもになり、「実感」としてあらわれてくるのだと思うのだが……。



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誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

2010-07-08 11:33:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(131 )

 「誰も書かなかった西脇順三郎」というタイトルから離れてしまうのだけれど、きょうは、「他人が書いている西脇順三郎」。
 「幻影」というのは「西脇順三郎を偲ぶ会」の会報である。その27号。(2010年05月31日発行)澤正宏の「『ギリシア的抒情詩』の奥深さ」。2009年06月06日の記念講演が採録されている。
 とても驚いた。「コリコスの歌」という詩を引用しながら、澤は語る。

 浮き上がれ、ミュウズよ。
 汝は最近あまり深くポエジイの中にもぐつてゐる。
 汝の吹く音楽はアドビス人には聞こえない。
 汝の喉のカーブはアドビス人の心臓になるやうに。

 何かぜんぜんわかりませんね。だけれども、「コリコスの歌」というタイトルに注目しますと、資料に写真がありますが、「コリコスの歌」というタイトルは、実はそこに載せている『イメージズ』という、これはリチャード・オールディントンという人が書いた詩集ですが、そのタイトルをもらってきているわけです。

 澤は、簡単に言うと西脇のことばの「出典」を全部調べ上げようとしている。そして、実際、それを調べ上げているのである。
 書き出しの「浮き上がれ、ミュウズよ。」はH・D(ヒルダー・ドゥーリトル)という人の「OREAD」の「Whirl up, sea --」を借用したものである。そしてそれは、この詩がイメージの詩であることを語っている。「アドビス人」の「アドビス」はヘレスポントス海峡近くのトルコの町であり、「田舎の人」という「意味」を持っている。そして、その「田舎の人」というのは「日本人」である。
 そういうことを調べ上げた上で、澤は、「コリコスの歌」で西脇は、イメージの豊かな詩、新しい日本の詩を書くことを宣言している。その新しい詩は、藤村の感覚に親しんでいる日本人にはわからない。--そう宣言している、と解説している。

 なるほどねえ。

 この「なるほどねえ」という感想が、澤のことばを読めば読むほど、くりかえし、私の中から沸き上がってくる。西脇の書いていることばの「意味」がくっきりと見えてくる。こんなにくっきりとみえてくるということは、澤の解説が「正解」ということの証なのだろうと思う。
 無学の私は、澤のことばに対して、どんな反論もできない。
 ただただ、よくまあ、こんなに調べてくるものだなあ、と感心する。

 で、感心しておきながら、こんなことを書くのは変なのかもしれないけれど。澤の楽しみって、何?
 たぶん、ことばの「意味」を突き止めることなんだね。
 「意味」を突き止めるために、ひとつひとつ、ことばの「出典」をつきつめる。「出典」が描き出す「ことばの地図」によって、「ことばの街」を復元する。「意味」という「時空間」を再現する。あるいは補強する--といえばいいのかな? 
 あ、たいへんだなあ。
 澤は何度も西脇には追い付けない。全容を解明できない--と書いているけれど、その全容を解明できないと知ること、認識すること、その認識の証拠として「わかる」ことを正確に「わかる」と明記する--それが、たぶん、澤の楽しみなのかもしれない。
 西脇にはたどりつけないんだけれど、私はここまでたどってみました、と言えることが澤の楽しみなんだろうなあ。
 あ、すごいなあ。
 でも、とても変な気持ちになる。

 西脇の詩が、これ以上ないくらい「正解」として分析され、「意味」が特定されているのに、澤のことばを読んだあとでは、西脇の詩がそんなにおもしろいとは感じられないのだ。西脇がやろうとしていることはとてもよくわかるけれど、なんといえばいいのかなあ、ある詩人がやろうとしいること(本意)を正しく認識したり、そこに書いてあることを正しく把握することが、そんなに大切なのかなあ、と疑問に感じてしまう。
 あ、正しい(?)いいかたではないね、これは。
 簡単に言うと、澤のことばを読むと、澤が西脇のことばの「意味」を特定し、(特定でき)、そのことをとても喜んでいるということは、とてもよくわかる。あ、ここまで調べ上げ、「正解」にたどりついた--うれしい。その「うれしい」という喜びは、とてもよくわかる。
 でも、その喜びに、西脇の詩の楽しさが隠されてしまっている。澤の喜びが、西脇の詩を上回っている。
 澤は西脇に追い付けない、と書くけれど。

 追い付く必要ってあるの?

 私は、そこに疑問を感じてしまう。だれかに追い付き、追い越す必要って、あるの? 文学というのは、たしかに、それを書いた人の思想(感情)を正しく知る必要があるのかもしれないけれど、正しいことが「追い付く」こと?

 これは私の「自己弁護」になってしまうから、書いてはいけないことなのかもしれないけれど。
 私は「正解」にたどりつくよりも、あ、私はまた間違ってしまった。書いても書いても間違ったことしか書けないなあ。なぜ、こんな間違いへ間違いへと誘うことばを他人は書くのかなあ。そして、そのことばに誘われて、間違えてしまうことが、なぜ、こんなに楽しんだろう、と思う人間なのだ。
 うまく言えないけれど、こどもが、「してはいけません」といわれると、ついついその禁じられたことをしてしまうように、私は、何か間違ったこと、悪いことをしたい。自分自身を裏切るようなことがしてみたいのかもしれない。好きなひとについて行くと、「道」を踏み外してしまう。ようするに、自分の知らなかったことを、そしてしてはいけないということをしてしまい、してしまったあとで、でも、あれは自分の意思ではなくて、悪い友達に誘われたからそうなってしまった--そんなふうに、ずるい弁解をしたいのかもしれない。
 「間違い」のなかに、何か、自分を逸脱していくもの、自分のコントロールできないなにかがある--それが楽しいのだと思う。

 「正解」は、とても窮屈なのだ。

 で、ここで、こんな飛躍をすると、岡井隆に叱られるかもしれないけれど--岡井隆の『注解する者』、あの詩集の「注解」は「正解」ではあるんだろうけれど、生活というか日常にまみれている、暮らしの汚れが染み込んでいる。そのために、間違った美しさ、不純な美しさに達している。それがいいんだよなあ、と思うのだ。
 澤のことばには「間違い」がない。あるかもしれないけれど、素人には指摘できる「間違い」がない。岡井のことばには、こんな読み方は失礼かもしれないけれど、あ、奥さんをこんなふうにからかうのか、聴講生の質問にこんな具合にいらいらするのか、かわいいねえ、なんて俗っぽい感想を差し挟むことができ、そういう瞬間に、「好き」という気持ちが生まれ、積み重なって「大好き」になる。人を好きになるというのは、自分がどうなってもいいと思うこと、とんでもない「間違い」の一歩なのだけれど、その一歩が、澤のことばに対しては踏み出せないなあ。
 「間違っています。正解は、これです」と叱られそうで……。
 これが岡井なら(会ったことはないのだけれど)、「あんた、ばかですねえ」とこつんとたたかれる。そのとき、あ、岡井の手が自分の頭に触ってくれた、覚えていたいからシャンプーするのはやめよう、なんて、とんでもないことを考えてしまうんだけれどなあ。



西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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山本まこと『当座の光の中で』

2010-07-08 00:00:00 | 詩集
山本まこと『当座の光の中で』(私家版、2010年06月10日)

 山本まこと『当座の光の中で』を読んでいると、時代を勘違いしそうになる。40―50年ほどさかのぼった気持ちになる。「現在」を感じないのだ。
 たとえば「呼ぶ」。

鏡の中の藁が燃え
焼け出された私はきみを呼ぶ
それがなぜきみでなければならないのか

 この3行の中に出てくる具体的な「もの」は「鏡」と「藁」である。「鏡」は文学の中では、ものではなく、「流通言語」(意味にまみれた象徴)になっている。そして「藁」はどうかといえば、これ、何?である。
藁って、見たことある?
私は農家育ちだから、昔は藁を見た。縄をなったことがある。蓆をおったこともある。草履は作る前にあきらめた。渋柿の渋を抜くために、樽に藁をつめ、お湯をはって、そのなかに柿を埋め込んだことはある。――これは全部昔のことである。今は、めったに見ない。正月前にスーパーなどへゆくと正月飾り(しめ縄)があって、あ、藁が使われている、と思うくらいで、日常的に藁を見ることなどない。
だから、「鏡の中の藁が燃え」と言われても、いったい、どこにある藁?とびっくりしてしまう。山本は農家の納屋にでも住んでいるのか。それならそれでもいいが、では、2連目に出てくる次のことばと、どうつながるのか。

殺(や)られたら殺(や)り返す他者なき街の惨劇に耐えながら

 藁のある世界と「街」が結びつかない。「惨劇」が結びつかない。「役立たずの狂気なんかは迂回する」というかっこいいことばもあるけれど、どうも、ことばがかっこよさだけで呼び合っている気がする。
 しかも。
 そのかっこよさが、40-50年前のかっこよさなのである。藤圭子や西田佐知子の生きていた世界に通じるかっこよさなのである。彼女達が具現化する「肉体」(藁、のような存在感)は、弱いということで、不思議な「精神性」を獲得していた。精神的なことばではなく、弱い、敗者の雰囲気が、ことばのなかに「精神(意地?)」を漂わせ、その「意地」が歌を聴く者を支えた。そのときに、そういう歌謡曲と対峙するような形ではやっていた「現代詩」のかっこよさである。
 当時の「現代詩」には、「他者なき街の惨劇」というような、「それは具体的にはなんのこと?」と問い返したくなるようなことばがあふれていた。当時は、そのことばに対して、「それは具体的にはなんのこと?」とは問い返さなかった。それは、「藁」が当時の農村の現実だったように、当時の「都会」の現実だった。ただし、「まだ実現されていない現実」ではあったが。言い換えると、40-50年前、まだ「都会」で起きていることをことばにする方法はなかった。そして、ことばにならないことをことばにするために、無理やり「他者なき街の惨劇」というようなことばがつかわれたのだ。「他者」も「不在(なき)」も「街」も「惨劇」も、これから「肉体」が体験していく「もの」だった。精神のなかの「実在」だった。そんなふうに、精神のなかにあるものを「実在させる」語法が、「藁」と同様にリアルだった。
 でも、いまは、そんな時代じゃないね。
 じゃ、どんな時代?と問われれば、それとは違う時代という否定形でしかいえないのだけれど。
 そして、否定形で何かを語るかわりに、私は、詩を読む。詩人たちが、ことばに負荷をかけながら、ことばの奥にあるものを無理やり絞り出す力技に出合いたくて詩を読む。その、わざと捻じ曲げられた力技の、その力のなかに「現在」があると信じているので。
 それは、

クソッ、炎上する塔の尖端をかすめる荒い雪のような性とは何だ!
まだ足りぬ欠如のために犬の肉を喰らうのか

 というような「力技」とは関係がない。
 山本のことばの「力技」は、どうにも古臭い。「塔」が有効だったのは「党」が輝きを持っていた1960年代である。その当時は、まだ都会に雪は頻繁に降り、犬の肉を喰うしかない野蛮の輝きがあった。今じゃ、人間に食われるかなんて考えている犬は一匹もいない。のうのうと、「早くおやつ持ってきてよ、待っているのがわからないの?」と飼い主を非難する時代である。
 「現実」と向き合っていないことばは、かっこよくみえても、むなしい。
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マノエル・ド・オリヴェイラ監督「コロンブス 永遠の海」(★★★★)

2010-07-07 12:22:15 | 映画

監督・脚本・出演 マノエル・ド・オリヴェイラ 出演 リカルド・トレパ、レオノール・バルダック、マリア・イザベル・ド・オリヴェイラ

 コロンブスはポルトガル人だった--という説を展開する映画である。コロンブスは、未知を求めて旅をした。その未知を求めるというこころこそ、「郷愁」につうじるものである。「未知」に到達したとき、「既知」が「郷愁」になる、というのではない。「未知」に到達したとき、「未知」を求めるという「運動」そのものが「郷愁」になる。
 主人公は、コロンブスとは何人だったのか、ポルトガル人だったのではないのか--ということを追い求める。そのことを確かめるためにコロンブスの足跡をたどる。その「運動」そのものが、オリヴェイラ監督の姿に重なり、その長い活動そのものを「郷愁」のようにみつめる。実感する。
 粗筋を言えば、そうなるかもしれない。
 でも、粗筋なんて、映画には関係ないねえ。
 剛直で、完璧な映像の美しさ--この映画は、それにつきる。
 主人公がポルトガルからアメリカへ出航する。母が見送りに来ている。その母がひとりで家路へ帰っていく。そのときの俯瞰の映像。コンクリートの桟橋を母が歩いている。強い光がコンクリートに反射している。中央から左上へ、ただ母が歩いていくだけなのだが、とても美しい。主人公が見ている母--ではないのだが、主人公は船の上から母を、そんなふうにして想像でみつめつづけた、ということがわかる。
 ニューヨークについた霧の夜(霧の朝)も、その霧が人工的な映像処理なのだけれど(人工処理だから?)、想像力を霧のなかに引きこんでしまう。
 そして、いま、想像力ということばをくりかえしつかって、気がついたのだが、オリヴェイラの映像、音楽、ことばというのは、「現実」ではない。目や耳の「表面」を刺激してくるだけではなく、目や耳を成り立たせている想像力そのものへと働きかけてくる。
 それが特徴的にあらわれているのが、「剣」をもった女性である。シーンが変わるごとに、登場する。じっと「主人公」をみつめている。それは女性の姿をしているが、コロンブスかもしれない。何かを探している--何かを探している、その情熱を目撃する「証人」かもしれない。
 そういう「現実」ではないもの、ありえないもの、つまり「いま」の「視力」ではとらえることのできないものを含みながら映し出される映像は、どの映像も、非常にしっかりした枠のなかで、強烈な鮮明さで存在している。構図にゆるぎがなく、映像にゆるみがない。あまりに構造にゆるぎがないために、そういう構造そのものがまぼろしというか、何かを追い求めるための「精神」に感じられてしまう。
 その「精神」のなかでは、あらゆるものが明確である。きっちりした焦点で、あらゆる存在を光として定着させている。「ムード」とか「情緒」というものは、ない。あの霧のシーンさえ、そういうものはない。(ムード、情緒というものを排除するために、人工的に処理しているとさえ思える。)
 あまりに明確過ぎるので、その映像はスクリーンに映し出されて存在するというよりも、直接「網膜」に映し出されているという感じになる。しかも、その映写の「光源」は「脳」のなかなのだ。スクリーンに存在する映像なのに--それが、まるで自分の記憶の、意識の映像のように、自分と切り離すことができない。
 オリヴェイラの撮った映像なのに、自分の想像力がつくりだしている映像のように感じてしまうのだ。
 とくに最後、灰色の海が青くすんだ海に変わるとき、意識が晴れ渡り、何もかもがわかったような、強烈なインスピレーションが「真実」を教えてくれたような、鮮明な衝撃を受ける。外と内部がつながり、そこから世界がはじまっていく、という感じ。
 あ、これこそ、コロンブスが「新大陸」を発見したときの感覚なんだろうなあ。ふるい自分が壊れ、新しい自分が生まれる。過去と未来が新しい次元でつながり、世界がはじまる。
 その瞬間、すべてが「郷愁」になる。生きてきたことが「なつかしくなる」。最後に流れる「郷愁」の歌--これが、とても美しい。やはり、その音自体は、私の外から聞こえてくるのだけれど、自分の内部からあふれてきたもののように錯覚してしまう。
 共感というのは、こういうことなのかなあ。

 と、ここまで書いて、また別なことを考えた。
 この映画は、「共感」の映画なのだと。だれかが何かをする。たとえば、コロンブスがアメリカ大陸を発見する。その発見は「共感」によって、はじめて現実になる。
 アメリカ大陸が存在するかどうかは「共感」の問題ではない--といわれそうだが、「発見」するという行為は「共感」するものがいて、つまり、それを肯定してくれるものがいて、「現実」になる。--そいう一面があるはずだ。
 主人公は、コロンブスの情熱に「共感」して、コロンブスの旅をくりかえす。そして「剣」をもった女性は、そういう主人公の「精神」のなかの、理想の(?)共感者である。その理想の共感者は、最後は、現実の妻という「共感者」として具現化し、その「共感者」が「郷愁」を歌うのだ。
 ひとりがひとりであるのではなく、「共感」によって支えあい、それが現実となって広がるとき、世界は輝く。コロンブスが探していたもの、主人公が探していたものは、その輝きであり、その輝きを追い求めるという「旅」そのものだったのかもしれない。
 そしてそれは、たしかに「永遠」なのだ。そしてそれは「海」として広がっているのだ。


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浜津澄男『絵画の女』

2010-07-07 00:00:00 | 詩集
浜津澄男『絵画の女』(詩の会こおりやま、2010年06月25日発行)
 
 浜津澄男という詩人を私は読んだ記憶がない。たぶん、はじめて読むのだと思う。ことばが自在に運動するというのとは違うのだが、なんとしても動いていかなければならない「場」というものを浜津ははっきり自覚している。書きたいものがある--そういうことを感じる詩集だ。
 「鳥」の全行。

沼で黒い鳥が泳いでいる
何羽もの鳥が
一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである
先頭の鳥が奇声をあげると
残りの鳥がいっせいに羽を広げ、声をあげる
列が沼の中心部で
円を描いて動き始めている
次第に動く速度を増して
まわりながら少しずつ沈んでいる
沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい
沼の中心部に大きな穴があいている
穴から湯気が立ち昇り
黒い鳥たちが
勢い良く
空に向かって舞い上がっていく

 前半は、実際に浜津が見た光景かもしれない。(空想かもしれない--けれど、くっきり見えれば空想でも現実と差はない。)

一つの列をなして泳いでいる
無表情で機械的な泳ぎである

 という、しつこい(?)ことばの動きが鳥をではなく、鳥の動きを浜津が見ていることをくっきりと浮かび上がらせる。
 鳥ではなく、鳥の動き--それが浜津の視力をねじまげていくんだな、という感じがする。というか、すでに、ねじまげられている。何か違ったものを見始めているという感じが濃密にただようことばである。
 そして、実際、それから先は鳥の描写ではなく、鳥の運動の描写になるのだが、その描写が突然、鳥さえも超えてしまう。

沈んでしまったあと
円の内部の水が急になくなってしまい

 私は、ここに、ぐい、と引きこまれてしまった。円の内部の水のように、ふいに、そのことばの「底」(ことばの穴--排水口?)のようなものに吸い込まれていく感じがするのだ。
 何かが急に変わってしまった。
 「内部」ということばを手がかりにして「誤読」すると、「内部」と「外部」が入れ代わってしまったような感じがするのだ。
 「鳥」と「沼」という「外部」を見ていいたはずなのに、鳥の運動を見ているうちに、「鳥」と「沼」は「外部」ではなくなってしまう。--いや、こういう言い方は正確ではないなあ。「鳥」と「沼」という目で見える「外観」は、鳥の運動という「内部」、あ、これも正確ではないなあ……。なんというのだろう、鳥の運動--運動というエネルギーの「内部」に乗っ取られてしまう。「外部」と「内部」が入れ代わってしまう。
 「鳥」と「沼」を見ていたはずなのに、「鳥」が声をあげ、円を描き泳ぐときの、その動きに「沼」が飲み込まれてしまう。そこには「沼」はなく、運動がある。「鳥」の運動だけがある。
 そういうことを

円の内部の水が急になくなってしまい

 という1行で言い表そうとしているのだと思う。

 うーん。

 うなってしまうねえ。なんといっていいか、わからない。
 これは、もしかすると、浜津自身の困惑かもしれない。何が起きたのか浜津もわからないのではないか、と思う。その後の、突然の、まるでとってつけたような「結末」がそのことを語っている。
 「内部」の水がなくなることで、「内部」が急に出現してきてしまった。それにどう向き合っていいか、浜津は考えてこなかった。突然、そういうものに出合って、ことばがどんなふうに動いていくのか、なんの予測もなく、ただ茫然とみつめている。
 
 あ、この感じ。この感じのなかに、詩がある。詩人が生まれてくる瞬間がある、と私は思う。

 浜津の詩は、「現代詩」として完成されているとはいえないかもしれない。けれど、そこに、完成とは違った魅力がある。浜津には書きたいことがたしかにある、そしてそれをどう書いていいかわからないけれど、ともかく書こうとしている--その切羽詰まった力がある。それを感じる。

 浜津が感じていること、ことばで書こうとしていること--それは、きっと外部と内部の入れ代わりということだ。「コーヒーと女」という詩には、次の部分がある。

 女の意志で飲んでいるのではなく、形のない何者かに飲まされているように見える。容器のなかの液体も、コーヒーであるかどうか、疑わしい。飲むたびに、容器が少しずつ膨らんでいる。
 容器が弾力のある内臓のように変容している。内臓が女を飲み込んでいる。わずかに膨張と収縮があり、悲鳴や驚愕の声はなく、現象は静かに淡々と終了している。

 「内臓が女を飲み込んでいる。」という表現が特徴的だが、「内部」によって「外部」が飲み込まれ、「内部」と「外部」が逆転する。それが浜津のことばの運動である。
 そして、それを「ことば」そのものに置き換えていうと、「ことば」で何かを描写するとき、その「ことば」の内部にあるエネルギー、独自のパワーが、「ことば」の「外部」--「ことば」とは何かを描写するものであるという「定義」を突き破って、何かを噴出させてしまう。爆発させてしまう。飛び散らせてしまう。
 「ことば」は何かを描写するためにあるのではない。自分の「外部」にあるもの、たとえば「コーヒーを飲む女」を描写するために、「ことば」はあるのではない。「ことば」は何かを描写するというふり(?)をしながら、「ことば」自身が、その「内部」に持っている欲望を爆発させるためにあるのだ。

 「ことば」の「内部」を爆発させたい--そういう欲望を、浜津のことばに私は感じる。あ、詩人だなあ。詩人がここにいる、と感じる。
 本屋では手に入らないかもしれない。発行所の住所を書き記しておく。ぜひ、買って、読んでみてください。
 詩の会こおりやま
 〒963-0205
 福島県郡山市堤2-175 安部方
 残部があるかどうか、確認していません。一部1600円です。


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スープの沼―詩集 (1983年)
浜津 澄男
黒詩社

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深い海の魚―詩集 (1973年)
浜津 澄男
グループ銀河系

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ジョージ・ロイ・ヒル監督「明日に向って撃て!」(★★★★)

2010-07-06 11:37:30 | 午前十時の映画祭

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス

 好きなシーンがいくつもあるが、いちばん好きなのはやっぱり自転車に乗るシーン。ポール・ニューマンがキャサリン・ロスをハンドルに座らせて自転車をこぐ。バート・バカラックの曲が流れる。西部劇からはるか遠く離れて、「いま」が突然あふれてくる。それを真っ正面からとらえるのではなく、木立や小屋(?)の板壁越しに撮る。隙間から、二人の楽しい様子が見え隠れする。それが光のようにまぶしく、美しい。
 映画は違うけれど、やはりキャサリン・ロスが出演した「卒業」でも、キリサリン・ロスとダスティン・ホフマンが大学を歩くとき、回廊の柱越しに二人が撮られている。柱の影が二人を邪魔する。その邪魔なものかげの向こう側に、二人がとぎれとぎれにあらわれる。
 この夾雑物を自然に取り入れながら、画面に奥行きと自然な感じを広げるという手法は、アメリカン・ニューシネマによって完全に「市民権」を得るようになったものだけれど、そのなかでも、「明日に向かって撃て!」の自転車のシーンがいい。
 ストーリーと無関係--というと言い過ぎだけれど、ストーリーを突き破って、ただ、そこに映像の輝きがある。音楽の美しさがある。まねしたくなるよねえ。「西部劇」であることを忘れて、「いま」としてまねしたくなる。だれかを自転車に乗せて、光あふれる自然のなかを走ってみたくなる。恋をしてみたくなる。いや、恋、というより、青春かなあ。
 白い綿の塊みたいなものがふわふわ飛んでくるなかを、二人が歩くシーンもいいなあ。このシーンなんかも、自然の美しさと、その自然のなかで触れ合うこころ、青春の一瞬の思い出を撮りたくて撮っているだけのシーンだねえ。「あのとき、綿のようなふわふわした花が飛んできて、きみは話をしながら、その花を手でつかまえていた」と思い出す。なんの話をしたかは忘れても、そのふわふわと飛ぶ白い花をつかまえるきみの手、その目の動きを覚えている……なんて、青春としかいいようがない。
 ボリビアでポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが追いかけられるとき、というか、二人をボリビアの警察(?)が追いかけるときの、しゃれた音楽もいいなあ。西部劇とは無縁の音楽だね。ここにも、「現実」というより「夢」が輝いている。
 そういういくつもの「青春の輝き」があるから、キャサリン・ロスが「ホームに帰る」というときのさびしい目、そしてクライマックスの銃撃戦が胸に迫ってくる。あ、「青春」がおわってしまう……。
 そして。
 また、思う。この映画のなかでポール・ニューマンは何度も「俺たちはもう若くない」という。この「若くない」という自覚も、ひとつの「青春」なんだなあ。アメリカン・ニューシネマが、「もう若くない」という「青春」を映画に持ち込んだのだ。--でも、それは何もかもが「青春」の時代だったなあ。「もう若くない」も「青春」の感慨だった。いま、青春のおわりを自覚する青春はあるんだろうか、とふと思った。この映画がつくられた時代、世界は「青春」だった、と--いま、思う。

                          (午前十時の映画祭、22本目)


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関口フサ「ミスター・アルファベット」、藤富保男「一筋縄」

2010-07-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
関口フサ「ミスター・アルファベット」、藤富保男「一筋縄」(「銀曜日」36、2010年07月04日発行)

 関口フサ「ミスター・アルファベット」は風変わりな詩である。B、D、Eと三つの部分から成り立っている。AとCがない。Aは、以前に発表されているのかもしれない。(私は記憶力が悪いので、覚えていない。)
 全部がおもしろいというわけではない。でもBはおもしろい。

入口が一つで
出口が無数にある
多角形の街に
男は万華鏡のように迷い込む
街角から街角
男は街のほころびを縫い合わせて行った

 「万華鏡」の「比喩」がおもしろい。「比喩」と書いたが、比喩を超越している。
 ここでは「万華鏡」は何も「比喩」していない。(比喩していない、というような日本語はないけれど、どう書いていいのか思いつかない。)
 何かの譬えではなく、ここでは「万華鏡」は「万華鏡」そのものであり、それ以外のことばが「比喩」なのだ。「入口」も「出口」も「男」も「迷い込む」さえもが「比喩」である。
 つまり。
 読んだ瞬間、万華鏡って、そうだよなあ。入口が一つだと思う。のぞき穴。それは一つ。そして、ちょっと万華鏡を動かすと、そのなかでは模様がつぎつぎにかわる。その模様の一つ一つが、「入口」から別の世界へと私を誘っていく。「出口」は、その動きのそれぞれのなかにある、と思えてくる。

 でも、こういう読み方では、この詩はおもしろくなくなってしまうね。

 万華鏡を描いたのではなく、あくまで、街を描いている。街に入り込んだ男を描いている。そして、街を描写しはじめたら、その描写が、ことばにのっとられて違ったものになってしまう。
 その運動のおもしろさ。
 何かの描写、写生なんておもしろくない。ことばで何かを説明して、わかるようにする、なんておもしろくない。
 ことばが勝手に動いていって、書こうとしていたものと違ったものを勝手に書いてしまう。その瞬間がおもしろいのだ。
 「多角形の街」が「万華鏡」になってしまって、その瞬間から、「街」とどこかに消えてしまう。「万華鏡」は比喩ではなく、現実を突き破って存在してしまう特権的な何かである。
 こういう特権的なことばの出現が、私は好きだ。



 藤富保男が「一筋縄」という「落書き」を描いている。ことばは、ない。右の方に男がいて、伸ばした手の先に「縄」がある。その「縄」は「一筆書き」のように渦をまきながら、男の「顔」らしいものをかたちづくっている。男が「縄」を引っ張れば、「顔」は消えてしまう。
 で、それがなぜ「一筋縄」?
 あ、そんなことは、どうでもいいんですね。
 「一筋縄」と「一筆書き」がどこかで組み合わさって、どっちがどっちをのっとってしまった(突き破ってしまった)のか、まあ、わからないけれど、そのわからないものがわからないまま、そこにある。
 わからない--というのは、しかし、不思議なもので、ほんとうに何もわからないかというとそうではなくて、何か、あ、これはあれかもしれないなあ、と意識の底をくすぐる。わかる、と一瞬錯覚させる。
 その「錯覚」--それが、たぶん、詩。
 「誤読」が詩、あるいは、「誤読」を誘う仕組みが、詩。

 で、(何が、で、なのさ、と私は自分でいってみるのだけれど)
 この「一筋縄」の「一筆書き」はとっても「意地悪」。実は、「一筋縄」の「一筆書き」に見せながら、違っている。「顔」の「目」だけが、「縄」から離れて独立している。「一筋縄ではないかない」作品になっているのだ。

 笑ってしまうね。
            (作品は、ワープロでは再現できないので、省略。)

藤富保男詩集全景
藤富 保男
沖積舎

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すみくらまりこ『光織る女(ひと)』

2010-07-05 00:00:00 | 詩集
すみくらまりこ『光織る女(ひと)』(竹林館、2010年05月20日発行)

 すみくらまりこ『光織る女(ひと)』は、詩をことばの運動ではなく、ことばの「かたち」と考えているように見える。「女」と書いて「ひと」と読ませる。すでに存在することばを、ちょっと違う角度から眺めてみて、その「かたち」をとらえる。そういうことをくりかえしている。
 これも詩のひとつなのではあるのだろうけれど、安直である。
 私は「かたち」ではなく、その「かたち」を見るために動くことばが読みたい。どんなふうにことばが動けば「女」は「おんな」ではなく「ひと」になるのか。そのことを、ことばで追うのが「文学」だと思う。
 「女」を「ひと」と読むか、「むすめ」と読むか、「にんげん」と読むか。そういうことは、「ルビ」の問題ではなく、ことばの運動、意識の運動でなければならない。「ルビ」ですませるなら、何だってできる。「女」と書いて「ガラス」と読ませたり、「ねこ」と読ませたり、「うそ」と読ませたり、「にく」と読ませることもできる。
 そういう飛躍すら、この詩集にはない。とても安直である。
 一篇5行という「制約」を設定してことばを動かしているが、この「定型」も短歌ほどの蓄積がない。ことばを5行にするために(定型にするために)、ことばをたわめる。たわめられたものが、その抑制を突き破ろうと動くときの、自律的なおもしろさもない。安直な「ルビ」同様、ここでは、「頭脳」が安直に動いている。
 繊細な感覚、それを受け入れる数少ないことば……というものをすみくらは思い描いているのだと思うけれど、どうも「頭」で考えた「繊細な感覚」にしか、私には感じられない。
 「沙羅」という作品。

そんなに
土が恋しいか。
おまへは
散るために
咲いてくる。

 花は散るために咲いてくる--という「逆説」的な視点。そこには「女」に「ひと」とルビを打つような、安直な飛躍がある。
 なぜ、「沙羅」なのか。なぜ「バラ」や「ボタン」、あるいは「桜」ではなく、「沙羅」なのか。
 そのことが咲いてくるために散る、土にかえるために咲くという花のいのちの運動のなかに個別の問題として組み込まれないかぎり、それは詩にはならない。

 短歌や俳句の方が、はるかに、ことばそのものを運動としてとらえている。

光織る女―すみくらまりこ詩集
すみくら まりこ
竹林館

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齋藤恵子「水」、瀬崎祐「祝祭」

2010-07-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤恵子「水」、瀬崎祐「祝祭」(「どぅるかまら」8、2010年06月10日発行)

 きのう私は、とても変なことを書いてしまったかもしれない。どうにかして修正したいが、実は、どう修正していいか、よくわからない。
 齋藤恵子「水」の、

今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 この、母を描写したことばの不思議さ。
 着物の母がいて、病気の母がいる。--というのは、齋藤の記憶の母のことである。齋藤の記憶のなかには、元気な母と病気の母がいる。そして、その母が病気のとき、母は元気な自分を思い出し、その思い出の母の力で病気の母を励まし、階段をのぼっていた。そんなふうに、齋藤には見えた、ということだろう。
 病気の母は、そんなふうに懸命に生きている。
 その母に声をかけると、きっと母は病気の母になってしまう。着物を着て元気な母、病気の母を励ましている母は、声をかけた齋藤のなかに吸収され、齋藤に頼ってしまう--そういうことが起きるかもしれない。

 と、

 書き繋ぐと、またまた間違ったことを書いている感じになる。
 そんなことじゃないんだよねえ。齋藤が書きたいのは。

 齋藤は、病気の母が階段をのぼっていく、その姿を忘れることができない。ひとりで階段をのぼっているのだけれど、そのとき、病気の母は元気な母といっしょにいる。元気な母が病気の母をかばい、はげまし、階段をのぼっている。そんなふうにして、苦しいとき、苦しくない自分を呼び出して、ふたりになって生きている母--その母が好きなのだ。あ、すごい、と思っている。「ふたり」であることによって「ひとり」を一生懸命に生きている。
 そして、それをすごい、と感じながらも、そう書いた瞬間、実は齋藤は母を「ふたり」にしてしまっている。「ひとり」であるのは「ふたり」だからなのである。「ひとり」なら、「ひとり」ですらないのだ。「ひとり」なら、それは「病気の母」なのだ。「病気の母」が「現実」であり、「着物姿の母」は、「病気の母」の「肉体」のなかにいる、もうひとりの「見えない母」、現実ではない母なのである。そして、その現実でない母が誣言実の母を支えている。
 「ふたり」であることによって、はじめて「ひとり」。
 それは残酷な言い方になってしまうけれど、「おかあさん、おかあさんは病気で、もう元気ではないんですよ」と母に対して言うのと等しい。もちろん、齋藤が、そんなふうにして声にして母につげるのではないのだけれど、こころのなかで言ってしまっている。おかあさんは病気、そして、その病気の母を、過去の、いまは肉体として存在しない母が支えている。元気な母は、ほんとうはもういない。
 ことばは、いつでも、こころのなかで言ってはいけないことを言ってしまう。
 それは、黙っていれば、だれにもわからないことなんだけれど、齋藤の正直さは、それをことばにしてしまう。文字にしてしまう。
 そのとき齋藤自身のなかに、どうすることもできない「ひび」が生まれる。
 でも、その「ひび」を生きるしかないのだ。
 人間は、生まれてきて、ことばを語りはじめたら、内部にある何かが互いに押し合いながらどんどん深まっていく「ひび」をかかえ、生きるしかないのだ。
 問題は、その「ひび」をどう生きるかだ。
 そして、ここに、齋藤の美しい「生き方」がくっきりと浮かび上がる。
 齋藤は「ひび」をどう生きたのか。
 齋藤は、病気の母を元気だった母の精神が支えている、いのちを吹き込んでいる、ととらえ直したのだ。
 齋藤の見た「ひび」は、「深淵」とか「断絶」のようなものではなく、つまり、のぞきこむと底が見えないというようなものではなく、実は、「ひと」の「輪郭」をつくる。「輪郭」としての「ひび」を見たのだ。現実の肉体の内側にある精神の輪郭としての「ひび」。
 正直な人間の「ひび」は、人間の内部にありながら、他人から見ると、「輪郭」になる。そのひとの「肖像」になる。いつも、自分を律して、はげまして、自分だけで生きようとする生き方--母の姿。
 あ、美しいと思う。



 齋藤の詩を、瀬崎祐「祝祭」とつづけて読んでいいものかどうか、私は、実はわからない。書きながら、こんなふうに感想がつながっていっていいのかなあ、と思っている。思っているけれど、思ってしまったことは書かなくたって、書いたのと同じことになるので、書いてしまおう。

脂ののった魚の腹を左手でおさえ
先端が尖った器具をまっすぐに右手ににぎる
胸鰭のあたりから器具を刺し
魚のかたちを定められたものにととのえていく
身をかたくして魚は神妙だ
生臭さを失って魚は象徴となる

私をとらえているのは
かたちを追ってはいけないという思いだけだ
光る部分と影の部分の境界をたどれば
かたちは冷気のなかからあらわれてくる

 魚をくし刺しにする。丸焼きにするためのくし刺し。
 そのくしが、私にはなぜか、母を描写する齋藤のことばに思えてしまう。齋藤のことばは母の肉体の中に入り、肉体をではなく、精神をととのえる。肉体の形を追うのではなく、精神の形をととのえる。
 病気の母を着物姿の母がはげまし、階段をのぼるという生き方にととのえる。
 そのとき、そのことばのなかで、母がほんとうに生きはじめる。いのちの祝祭。病気の人間を「いのちの祝祭」といってはいけないのかもしれないかもしれないけれど、その病気という状態にあっても「健康」をたもちつづける精神--そこにはとても美しいものがある。「生き方」の手本のようなものがある。そして、それを探り当てるとき、それはそのまま齋藤の美しさになる。
 たぶん、どんなときでも、それは起きるのだ。
 瀬崎のことば、くし刺しにするという作業を追うことばは、魚を、魚本来のかたちにととのえる。それは海で泳いでいるときのかたちとは違うかもしれない。海で泳いでいるのとは違うかたちであるけれど、そのかたちになることで、ひとと出合う。
 そこに「祝祭」がある。「食べる」ということをとおしての、「祝祭」がある。
 食べられてしまう魚にとって「祝祭」なんかあるはずもないかもしれない。けれど、そこには「ことば」でしかとらえることのできない、出合いがある。その出合いを瀬崎は「祝祭」と呼んでいるのだと思う。

 何かが、ある存在が、ことばの動きで、それ本来の「かたち」を獲得するとき、それは「祝祭」なのだ。それが「死」であっても「祝祭」である。そして、その「祝祭」が、たぶん、いのちのなかで引き継がれていくのだ。
 そんなことを思った。




風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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キム・テギュン監督「クロッシング」

2010-07-03 22:44:17 | 映画

監督 キム・テギュン 出演 チャ・インピョ、シン・ミョンチョル、チョン・インギ

 この映画の感想はむずかしいなあ。
 映画なのだけれど、映画ではなく、「現実」として見てしまう。北朝鮮の現実、脱北者の現実……。映画にはもちろん現実をつたえるという仕事もあるのだろうけれど。
 どこに視点を定めていいのかわからないけれど、子供に焦点をあてると、子供の不思議さが、まあ、きちんと描かれていると思う。
 どんな状況でも、子供は大人(親)のいうことを絶対的に信じる。親の言うとおりにしようとする。親に気に入られようとする。親を批判しない。
 それがいちばんよくでているのが会話。
 韓国語(北朝鮮語?)がわからないので何とも言えないが、子供がいつも親に「敬語」をつかっているのが、美しくて、かわいそう。
 北朝鮮の国民全員が、「将軍様」の「子供」というのが、北朝鮮の現実--というふうに、見つめなおせば、うーん、この映画は少しは違ったものが見えてくるかなあ。

 なんだか、何もない家(ちゃぶ台と食器しかない家)、草を取って惣菜にしようとする貧しさ、路上にあふれる子供たち、闇市、横暴な憲兵(?)というものを次々に見せられても、こころが暗くなるばかり。
 さらに。
 子供は死んでいくとき、楽しかったことを胸に抱いている。雨のなかで、小石をボールにして父親とサッカーをしたこと--それがいちばん美しい思い出なんて。
 それが子供の「本質」なら、よけい、つらくなる。

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