詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(18)

2014-04-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(18)          2014年04月09日(水曜日)

 「デメトリオス王」はプルータルコスの『デメトリオスの生涯』に対して異議を唱えた詩。「王よりもむしろ俳優のごとく、彼、王の衣を鼠色の上衣に替えて密かに落ち行きぬ。」を引用したあとで詩をはじめている。王なのに、まるで俳優みたいじゃないか、というのがプルータルコスの意見なのだが、

金色の長衣を脱ぎ、
紫の長靴を投げ捨て、
急ぎ、質素な衣服をつけて、
忍び足で去った。
劇果てて、俳優が
衣裳を換えて去るように--。

 同じように「俳優」という比喩をつかっているのだが、どこがプルータルコスと違うか。プルータルコスは「王の衣」と簡単にいってしまっているところを、カヴァフィスは「金色の長衣裳」「紫の長靴」と具体的に描写している。さらに「脱ぎ」「投げ捨て」と、王衣を捨てるときの肉体の動きを書いている。「密かに」という抽象的なことばも「忍び足で」と肉体の動きを引き出す形で書いている。
 一方、プルータルコスが「鼠色の上衣」と具体的に書いているのに対して、カヴァフィスは「質素な服」と書いているだけである。
 ふたつを比べると、プルータルコスの方は、逃げた王の「手配書」のように見える。逃げている王の姿が見える。ところがカヴァフィスのことばでは、逃げる前の王の姿の方がくっきりと見える。金色の長衣と紫の長靴。それが王である。
 威厳のあった王を忘れない--そこに、カヴァフィスの姿勢がうかがえる。王を思い出すのは、彼が王だからである。逃げてしまえば王ではないのだから、そういものは語る必要がないとも言っているようだ。
 でも、なぜ、「俳優」という同じ比喩をつかったのだろう。
 「劇果てて」に秘密(カヴァフィスの思想)があるかもしれない。プルータルコスは「劇果てて(劇がおわった)」とは書いていない。カヴァフィスは、ひとつの「こと」が終わったとはっきり認識している。
 これは逆に言えば、現実(政治/戦争)というものは「劇」に過ぎないとカヴァフィスが認識しているということかもしれない。シェークスピアではないが「世界は舞台」なのだ。そこでは次々に登場人物があらわれる。役が終わればさっさと消える。それでよい、と思っている。
 詩のなかのことばでは「脱ぎ」「投げ捨て」と「着けて」の対立、「急ぎ」と「忍び足」の対立が、「こと」の緊迫を伝えていておもしろい。肉体が動いているのがわかる魅力的なことばの選択だ。

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大橋政人「花の温度」

2014-04-08 10:59:20 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「花の温度」(「独合点」119 、2014年03月15日発行)

 大橋政人「花の温度」に、はっとした。あ、こんなことを思うのか、とびっくりした。

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の暖房を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか

 花(花びら)にさわって温度を確かめたことはない。だいたい花というのは「見る」ものであって「さわる」ものではないからね。何かのことでさわったことはあるが、たとえば散りかけた花びらをむしるとか、においをかいだときにくちびるが触れてしまったとか……でも、温度を確かめようとしたことはない。確かめようとしたことはないが、そういわれれば花びらは熱くはない。それを思い出す。意識しなくてもおぼえてしまうこと、というものはあるのだろう。
 暖房をあげても熱くならないかどうか、私は知らないが、まあ、そうだろうなあと思う。少なくとも「熱くて/さわれない」というようなことにはならない。
 と、思う。
 でも、考えると変だなあ。自分で実際に確かめたことでもないのに、それをほんとうだと思う。
 同時に、大橋はどうしてこんなことを考えたのかなあ、とも思う。
 わからないけれど、このわからない瞬間に、ぱっと大橋が見えてくる。そうか、大橋というのは、こういう人間なのか。
 で、「こういう人間」の「こういう」を説明しようとすると、どう書いていいかわからない。
 変だね。変だけれど、何か気持ちがいい。

花瓶の
水ばかり
飲んでる
せいだろうか

 うーん、こういう納得(?)の仕方が、また、実に、不思議。
 笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい、というのではなくて、そうだなあ、「無意味」といえばいいのかなあ。こんなことを考えたって、感じたって、何の意味もない。その場かぎりのこと。こんなことに気がつかなくたっていいし、忘れたっていい。
 でも、こういう「無意味」といっしょにいるのはいいねえ。

 この「無意味」に、大橋の一行一行の「短さ」がとてもあっている。各連をそれぞれ一行にしてしまっても「意味」は変わらない。けれど、印象は変わる。

熱くてさわれないような花はない

部屋の暖房を強くしても花は熱くならない

花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい

花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか

 散文にしてしまうと、もっと違ってしまう。

熱くてさわれないような花はない。部屋の暖房を強くしても花は熱くならない。花弁に指でさわるといつも花瓶の温度と同じくらい。花瓶の水ばかり飲んでるせいだろうか。

 窮屈になる。この窮屈というのは「意味」がつよく迫ってくるからである。花びらの温度なんて何の意味もないのに、それに「意味」があるかのように迫ってくる。論理が形作られてしまう。
 これでは、だめなんだね。
 ばらばらに近い感じ。ふっと思いついたことを、間をいっぱい広げて、つながらないようにする。人間というのはどうしても意味を求めるから(意味を求めてことばをつないでしまうから)、どれだけばらばらにしたっていいのである。
 多くの詩は、この「ばらばら」な感じをつくりだすために、比喩やあれやこれやの「逸脱」を繰り広げるのだけれど、大橋は「空白」を持ち込むだけ。「空白」にも「意味」はない。何も書かれていないのだからね。その「無意味」の「空白」で、「無意味」をそっとつつんで見せる。
 だから、なんというのだろう、読んだあと、美しい空白を見たような感じになる。空白にこころがあらわれたような気持ちになる。
 とてもいいなあ。

 でもね。

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

寒いのか
熱いのか
気も知れないから
着物も
着せられない

 最後の三行の「ことば遊び」、「気も」「着物」、「知れない」「着せられない」の音の遊び--これは、それまでの無意味な楽しさを、むりやり「音」の遊びに収斂させてしまっていないだろうか。何か「書きすぎている」という感じがしてしまう。それまでの空白の美しさが「音の意味」に変わってしまう。


十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(17)

2014-04-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(17)          

 人間の声にはいろいろある。強い声だけではなく弱い声もある。弱い声には、繊細な声というのもある。この繊細さを整えると抒情になる。一方、弱いだけで、どうにもならない声もある。「愚痴」になってしまう。そういう弱い声、どうしようもない声もカヴァフィスは聞きとっている。「トロヤ人」。魅力的ではないが、たしかに人間の声である。

われらの努力は運に見放された者の努力。
われらの努力はトロヤ的。
ようやくあるところまで手がとどき
ちょっと力がたまって
希望がもてそうになり、大胆になろうと思うと、

かならず邪魔がはいる。
アキレスが塹壕から飛び出て目の前に突っ立つ。
蛮声にわれらはちぢみあがる。

 「ようやく」「ちょっと」という何かから遅れた感じ(見劣りのする感じ)と「もてそう」という推測、「なろうと思う」という時間をかけた決意。これは英雄(神話の主人公)の声ではない。庶民の声である。思い(決意)で自分を引っぱっていく、人を動かすのではなく、動いたあとで、その思いを確かめている。ことばで状況を切り開かない--という意味では、詩ではない。詩とは、ことばで現実をかえていくものだから。
 一連目が「思うと、」という中途半端な形で終わるのも弱い声の特徴をあらわしている。文章として完結できない。完結する前に、事実がことばを追い越してしまう。
 そして「愚痴」が始まるのだが、おもしろいことに、そこには「かならず」があらわれる。そしてその「かならず」(必然)はよそからやってくる。自分で切り開いて「かならず……する」ではなく、「からなず……なる」。主語は「他者」である。この詩では「邪魔」がかならず入る。「かならず」は弱い声を押し退けてあらわれる。
 「突っ立つ」という短い複合語がおもしろい。「立つ」だけでは打ちのめされた感じがしない。「突き立つ」の音便だが、「突き立つ」ではなく「突っ立つ」だからこそ「民衆」という感じになる。口語(音便)、その「音」がそのまま民衆(兵ならば下級兵)の「肉体」になって見えてくる。
 「ちぢみあがる」も同じである。「縮む」「震える」というようなことばでは不十分。「縮む+あがる」という複合語が、ことば(声)に込めた「民衆」の気持ちをそのままあらわしている。複合語というのは勢いをつけて言わないと声にならないが、おかしなことに、恐怖というのは自分自身に勢いをつけないとことばにもならない。
 中井久夫の訳は、そういう声の仕組み(肉体とことばの関係)を浮き彫りにしている。
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アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(★★★★)

2014-04-07 10:01:15 | 映画
アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(★★★★)

監督 アブデラティフ・ケシシュ 出演 アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー

 アデルを演じたアデル・エグザルコプロスが非常にいい。みとれてしまう。感情の動きが、まるで本能のように美しい。(というのは、変な日本語か……。)強くて、どんな批判もはねのけて輝く。悲しむときさえ、それが剥き出しの悲しみであるので、美しい。だれでも味わう悲しみなのに、まるではじめての悲しみのように、それを表現することばがない。そういう美しさがある。

 大胆なセックスシーンが話題になっているけれど、セックスというのは余りにも個人的なものであって、他人にはわからない。(私には、美しいシーンかどうかわからない、というべきなのか。)その前と、そのあと、その感情がどれだけ濃密に表現されるかによって、セックスシーンの美しさが変わる。感情が濃密なら、官能も濃密に見えてくる。
 アデルがボーイフレンドとセックスする。そのシーンと対比するとわかりやすい。アデルはボーイフレンドとセックスしたあと「何か違う、何か求めているものと違う」というような、うつろな表情になる。物足りない、という顔つきになる。そのためにボーイフレンドから「よくなかったのか」と聞かれたりもする。「よかった」と答えるけれど、満足していない。うれしい、という感じがない。
 これと対照的なのが、アデルの家でのセックス。両親に声を聞かれないように、ときには口をふさぎながらセックスする。本能はどこかで抑制されている。でも、とても満足している。そして、そのあと「両親は私達が同じベッドで寝ていると知らない」と語りながらくすくす笑う。まるでティーンエイジャーがはじめてセックスしたような、というより、いっしょに秘密の旅行か何かをしているような、無邪気な表情になる。あどけない。これがすばらしい。純粋というのは、こういうことか、とびっくりする。
 セックスにのめりこむ、と書くとちょっと違う。いや、かなり違うなあ。セックスを発見する。自分を発見する、というのが近いと思う。相手にひかれて、同時に相手をひきつける。そのひかれていく自分も、ひきつける自分も、それまではっきりとはわからなかったアデルである。セックスすることによってアデルはアデルになっていく。それをアデルは、自分の視線で、自分の手足をながめるときのようにアップでみつめつづけている。監督が、カメラマンが、あるいは観客が見ているセックス(描写)ではなく、アデルが彼女の肉眼で見ているセックスなのである。ほんとうにほしいものを探しつづけるセックス。そこには「客観的」というものはない。ないのだけれど、それが「主観(欲望/本能)」であると主張することで、主張そのものが「客観」にかわってしまう。言い換えると「本能(欲望)」であるとはっきりわかるから、それを「主観」と批判することの意味がなくなる。主観以外の欲望や本能というものはない。欲望や本能以外のものは「嘘」である。虚偽である。主観だけが真実に触れているのだ。
 へえええ、こんな撮り方があったのかと度肝を抜かれる。大胆なセックスシーンに驚いていると、監督の主張の正確さを見落としてしまうことになる。湿布の連続の影像が抱え込む視線の主張を見落としてしまう。アップは、そのままアデルの肉体の距離、他者とアデルの肉体の距離である。アデルが他者に近づき、近づいた他者をとおして自分を見つける。他者のアップは、いわばアデルの鏡に映った姿なのである。アデルはしきりに髪を整えなおすが、そのとき実際の鏡を見ない。自分のからだは自分の手でさわるから「わかる」。「もの」として鏡をアデルは必要としていない。必要なのは、彼女を映してくれる他者という肉体なのだ。
 アデルは、自分の内側から自分をみつめている。自分にわかること、できることをしっかりとみつめ、他人が外からながめるアデルに合わせる(迎合する)ということがない。それがくっきりとあらわれているのが職業の選択である。先生になる。画家である恋人は、アデルに対して才能があるのだから文章を書いたらいいのに。好きな文章に携わる仕事をすればいいのに、と勧める。(恋人は、アデルも芸術家であってほしいのだ。)けれどもアデルは、それは自分の本能ではないと自覚していて、文章を書くことを仕事としては選ばない。ここには育ってきた家庭環境も影響しているかもしれないが、それ以上に、自分をみつめるという「癖」が彼女の本能なのだ。
 だから(と、言っていいのか……)、アデルは自分の「さびしさ」も見つけ出してしまう。恋人の関心が芸術に向かっていて、自分から遠ざかるとき、不思議なさびしさを見つけ出してしまう。いっしょに暮らしているのに何か距離感を感じる。そのさびしさをまぎらわすために、学校の同僚とデートし、セックスもしてしまう。自分を発見しつづけるからこそ、アデルはどんどん変わっていく。この激しい変化をアデル・エグザルコプロスは非常になまなましく再現している。演技しているというよりも、アデルという役をそのまま生きている感じがする。演技を見ているというよりも、現実の生活を見ている感じになる。影像(スクリーン)という間接的なものを見ているのではない。アデルが自分を発見するように、私はアデルに出合い、アデルを発見している。発見してしまうと、アデルが自分の知っている人間に、さらにそれを超えて自分に見えてくる。恋をしたときの自分の不安やわがまま、おろかさ、それやこれやのあれこれが、肉体の奥からよみがえる。
 映画は女性の同性愛を描いているのだが、「女性の同性愛」という部分がアデルのなまなましい本能によって、たったひとつの恋愛に高められているのだ。アデルの恋愛というきわめて個人的な(主観的な)ものを描くことで、逆にそれが普遍になってしまっている。それが絶対的な恋愛(純粋な恋愛)であるからこそ、アデルが自分に見えてくる。

 この映画の特徴はアップの多用のほかに、時間の説明がきわめて不親切である。アデルは最初高校生である。その後、幼稚園の先生になり、こどもの成長に合わせるように小学校一年生の先生、二年生(?)の先生というように成長していく。しかし、そのときの「時間」の経過がよくわからない。あっという間に一年がすぎている。
 これは、しかし、あえてこういう具合にしているのだろう。
 人に出会い、恋をして夢中になり、行き違いがあり、わかれる。そのあいだに人間は成長していく。様々なことを「わかる」。それは一週間のときもあれば五年のとき、あるいは五〇年のときがある。「時間」を時計(歴史?)ではかっても意味はない。気がつくべきなのは、恋愛をして人間は成長するということである。成長するとき、「時間」は肉体のなかにのみこまれ、消えてしまう。私たちは肉体のなかから「時間」を取り出すのではなく、その瞬間瞬間の、気持ちを取り出す。おぼえているのは、わかっているのは、「時間」の長さではなく、自分の気持ちである。肉体である。
 恋愛に「時間」はない。だから、人間はいつでも恋愛をする。そして変わっていく。

 恋愛以外のシーンも、すばらしい。特に食事のシーンがいい。アデルの家ではパスタを食べるのだが、その食べ方が、非常になまなましい。恋人の家でカキを食べるときの様子とはまったく違う。大きな鍋にパスタがあって、それを「おかわりある?」と聞きながら、だらしなく(?)食う。口に入るだけをフォークで丸めてというのではなく、一口で食べれないものはずるずるとすすり込んで食べる。カキを食べるとき、「生きているカキでないとだめ、ほらぷるぷる動いている」というような講釈はない。それはある意味では、美しいとはいえないシーンだが、そこに肉体がある。アデルの、口をだらしなくあけて眠る顔も、美しくはないが、そこに肉体の本能がある。
 補足になってしまうが、アデルの肉眼として動くカメラは、他者の視線をしっかりとらえてからみつきあう。これもおもしろい。アデルは、恋人の家へ行っても展覧会へ行っても、全体を見渡すということはしない。視線が動くのは、恋人に対してと、恋人の視線がどこをみつめているかを追うときだけである。
                 (t-joy 博多5番スクリーン、2014年04月06日)


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(16)

2014-04-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(16)          2014年04月07日(月曜日)

 詩とは矛盾である。矛盾したことばになってしかあらわれることができないものが詩である--とあらためて思う。
 「憧れ」は、おそらく若い男の恋人にささげられた詩。

年をとる前にみまかった美しい死体。
涙ながらに 贅を凝らした廟の壁龕に納められ、
頭の傍らにバラ、足元にジャスミン。
それはそっくり--、
満たされずに終わった憧れ、
一夜の悦びも、光まばゆい翌朝も授からなかった憧れに。

 「美しい死体」ということば自体が、すでに矛盾している。死んでしまったものにとって「美しい」は意味がない。中井久夫が「遺体」ではなく、「死体」という冷たいことばを選んで訳しているのは、そういうことを知っているからであろう。絶対的な断絶は、「遺体」というようなことばの表面の「思いやり」では埋めつくせない。
 この詩の矛盾は、その「死体」と「憧れ」の出合いにある。
 「憧れ」は名詞で書いてしまうとぼんやりしてしまうが、「憧れる」という動詞にするとわかることがある。生きているものしか憧れることができない。生きているから、憧れる。そしてその「憧れる」は「欲望する」に似ている。似ているけれど、違う。どこが違うか。「憧れる」はけっして手に入れることができないものに対してあこがれる。「欲望する」はそれを手に入れてしまう。手に入れてしまえば「憧れ」は消えてしまう。
 手に入らないからこそ、美しい。死んでしまった肉体--それは手に入れることができなかったからこそ美しい。「満たされずに終わった」は欲望が実現せずに終わったという意味だが、だからこそ永遠に美しい。
 「一夜の悦び」「光まばゆい翌朝」はふたつのことばで書かれているが「ひとつ」のことである。

 この詩では、そういう矛盾の結合とは別に、四行目の「それはそっくり--、」が絶妙な訳だと思う。副詞で終わっている。用言がない。(体言でもいいのだが、つながることばがない。)ここでは、たぶん、そっくり「である」、とても似ている、という意味なのだが……。
 この「そっくり」のあとのことばを省略して、「憧れ」の二行がやってくる。突然、やってくる。このスピード、切迫感が、カヴァフィスの「美しい死体(男)」に対する思いの強さを浮き彫りにする。「そっくりである」では間延びしてしまう。倒置法も効果的だ。「憧れにそっくり」という具合に、最後に「そっくり」を持ってくると、「そっくり」と思っている気持ちが遠くなり、あいだにはさまったことばがきざったらしく宙に浮かんでしまう。余韻がなくなる。
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井野口慧子「兆しのように」

2014-04-06 11:41:16 | 詩(雑誌・同人誌)
井野口慧子「兆しのように」(「アルケー)」6、2014年04月01日発行)

 井野口慧子「兆しのように」を読みながら感じた魅力、そのことばの静かさをどう言えばいいのだろうか。「静かなことばが胸に響いてくる」と書けば言いたいことは言い尽くしてしまったような気もするが、「静かな」がどこからやってくるのか、私は見極めたい。じっと耳を澄まし、その音が聞こえてくるところをつきとめたい。

二〇一一年二月下旬 肺炎で入院
夜の病室のテレビをつける
ニュージーランドのカンタベリー地方
クライストチャーチ地震の惨状
リビアの反政府デモへの襲撃のニュース
二日間昼夜点滴攻めだが 咳は止まらない
チャンネルを変えると 観たことのある
映画「戦場のピアニスト」
影像の中の アウシュビッツに向かう人々の眼が
今この瞬間も 瓦礫に埋まっている人
あてもなく流浪する難民の眼に
重なって見える

 固有名詞をきちんと書いている。井野口自身は肺炎で苦しんでいる。その肉体の苦しみのなかで、「相手」をきちんと見ている。その、自分自身へのきびしい態度(あまやかさない態度)が静かさの要員のひとつである。
 で、その「きびしさ」が「観たことのある」ということばに結晶しているように、私には思える。「戦場のピアニスト」を観たことがある。その映画をテレビでやっている。その事実を事実のまま書いているのだが、「観たことのある」というひとことの挿入が、ことばの全体をぐいと落ち着かせている。他人(相手)と自分を区別するように、経験と未経験をしっかりと区別する姿勢が井野口にはある。そして経験したことは経験したと言う。経験していないことを経験したようには語らない--そういう自省する力が「静かさ」を生み出している。
 映画ではあるけれど「戦場のピアニスト」を観た。そのとき、いろいろなことを感じ、考えた。そのなかで忘れられないものが「アウシュビッツへ向かう人々の眼」。それを井野口の「肉体」はおぼえている。そのおぼえているものと、別の影像、ニュージーランドの地震、リビアのデモへの襲撃が重なると、ふたつのニュースの影像にはなかった「ひとの眼」が見えてくる。何かを経験することは、それが影像体験であっても、肉体を刺戟し、見えないものを見えるようにする。井野口は、自分の肉体が、その現場で目撃したものではないけれど、とことわった上で、きちんとことばを動かしている。経験の種類を区別して、ことばを動かしている。想像を想像とことわったうえで、ことばを動かしている。
 この「抑制」は、あまりにも静かに、簡単に書かれているので見すごしてしまいそうだが、私のように、思ったことを見境もなしに書き散らしている人間には、何かはっとさせられるものがある。私自身が直接体験し、肉体でわかっていること、ことばや影像をとして間接的に知っていること(わかったつもりになっていること)を、私は厳密に区別したことがない。私は、わからなくても知っていることを、わかったふりをして書いてしまう。井野口はそういう乱暴なことはしない。

夜通し咳き込んで 息を切らしながら
娘の折り曲げた細い背中が 浮かぶ
三十年余り経って やっとあの苦しみが
私のものになる
遥かな命のうねりの途中で
幾度となく巡り逢ったとしても
誰も 誰かの身代わりにはなれない

 「娘の折り曲げた細い背中」は井野口が肉眼で直接見た、井野口だけの「影像」である。(それまでに出てくるテレビの影像との関係を明確にするために、あえて影像と書いておく。)娘さんは、亡くなったのだろうか。具体的には書いていないが、そんなふうに私には思える。井野口が肺炎で苦しんでいるのと同じ姿勢で、苦しんだ。いま、井野口が苦しんでいる肉体のなかへ、娘の肉体がやってくる。
 重なる。
 重なった瞬間に、「わかる」。
 それは「戦場のピアニスト」の「アウシュビッツへ向かう人々の眼」が、ニュージーランド地震の犠牲者、リビアのデモの襲撃された人々の眼と重なることで、何かが「わかる」のに似ている。
 こういう「わかる」は「共感」とも呼ぶことができるのだが、井野口はそこから感情の「共有」というところへと入っていかない。入ってゆくのが「感情」というものなのだが、感情が入っていったからといって「肉体」の問題が解決するわけではないと「わかっている」から入っていかない。
 重なりながら、踏み止まり、

誰も 誰かの身代わりにはなれない

 ときっぱりと言い放つ。
 これは冷たいことばだろうか。
 しかし「事実」に冷たいかどうかは無関係である。「事実」から冷たいかどうかという感情論を取り除いたとき、その「事実」は「真実」になる。誰の肉体も誰かのかわりにはならない。なれない。肉体は、それぞれに「ひとつ」なのである。そのことをしっかりとみつめている。それは井野口の肉体が「ひとつ」であるということを再確認するということである。娘の身代わりにはなれなかった。その不可能性が肉体である。

 「観たことのある」「重なって見える」。「観る/見る」と文字は違うのだけれど、井野口は眼によって認識し、考える詩人である。肉眼で、あれはなんだろう、と考える。自分と他者を区別しながら、そこに自分を(あるいはわかっていることを)重ね合わせながら、同時に重ならない部分をしっかりとみつめ、自分へ引き返し、そこからことばを動かしている。
 そういう静かな、不思議な「決意(生き方への思い/思想)」があるから、ことばの全体が非常に落ち着く。
 これから引用する詩の後半は、書きようによっては非常に甘く、センチメンタルになるものだが、井野口は、しっかりと眼を見開いてことばを動かしている。だから、とても美しい。私が何か言い出すと、その美しさを壊してしまう。ただ引用しよう。

一人の午後の ただ一つの望みにしては
小さすぎる窓から 灰青色の空
突然 白い鳥の群れが視野に入る
右に左に 斜めに数百羽はいるだろう
天上の海に 三角波を描きながら
羽の輝きが ゆっくり移動していく
光の帯になって 近くなり遠くなり
エールを送ってくる
どこからか ショパンのノクターン
<遺作>が 聴こえてくる
いつのまにか起き上がって
窓辺に 立っている
来てくれたんだね
大丈夫 私はまだこちらにいる

詩集 火の文字
井野口 慧子
コールサック社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(15)

2014-04-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(15)
          
 中井久夫は複数の声を詩のなかに持ち込む。「意味」以上に、様々な人間の声を聞くことができるひとである。カヴァフィス自身もそういうタイプの人間だったのだろう。「声」という作品。

死者の声。理想化された いとしい声。
死者のでも 死者同然に近寄れない
私を去ったひとの声でも。

 死んでしまった恋人の声か、あるいは生きているけれど「私を去った」ので会うこともかなわず、「死者同然」となってしまったひとの声か。「理想化された」という修飾節がせつない。去ってしまった恋人を、詩人は憎むことができない。捨てられてなお、その男を「理想化」してしまう。

 その「理想化」した声というのは、ある意味で詩人がつくりだした声なのだが、それが夢の中で詩人に話しかけてくることがある。そうすると、

ああ その音調。刹那 音調が戻ってくる。
わが人生の最初の詩から帰ってくる。
深夜、つかの間にきえゆく遠い音楽。

 「声」は「ことば」をもっている。つまり、ことばを話し、話すときは「意味」を話している。けれども聞くのは「意味」ではない。カヴァフィスは「音調」と書いている。音と調べがカヴァフィスをとらえている。そして、それを「音楽」と呼んでいる。
 「意味」は「ことば」にはない。「意味」は「声」を聞く詩人のこころにある。「意味」に「音楽」はない。でも「音楽」には「ことば」では語れない「意味」がある。「声」には「ことば」では語れない「意味」、「音」を超える「音楽」がある。「意味」のように「頭」を経由するのではなく、直接耳にはいり込んで、肉体の奥を刺戟する力がある。

 この詩では、私は「刹那」という表現にこころを動かされた。「刹那」は「瞬間」「究めて短い時間」という意味だが、私は、「裏切り」で中井がつかった「すなわち」を思い出した。夢のなかで恋人が話しかけてくる。その声を聞くと「即座に」音調が戻ってくる。恋人の話してる「意味」をつかみ取る前に「音調」が詩人をとらえてしまう。「声」すなわち「恋人」、「声」すなわち「肉体」である。
 カヴァフィスは「音楽」と呼んでいるが、「声即肉体」「肉体即声」というように言いなおしてみたい。ことばを排除して肉体が出合う。そのとき、カヴァフィスは「音楽」になる。聞くのではなく、「音楽」として恋人に出会うのだ。

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新保啓「秋の日の道」

2014-04-05 10:59:25 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「秋の日の道」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 同じひとの詩の感想をつづけて書いても……と思い、きのう田中勲の詩の感想を書いたのだが、どうも気持ちよくなれない。批判というのは、書いているとなぜこんなことを書かなければいけないのかという気持ちがわいてきて、いやになる。で、03日にまで、もう一度戻ろう。
 新保啓「秋の日の道」は、小学生の「日記」みたいな感じでことばが動いていく。朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて、学校へ行きました……という類の。

病院へお見舞に行ってきた
一人は食事をせずに点滴のみ
もう一人は外泊で不在だった
すこし肩の荷が降りたような気がして
サツマ芋掘りに向かった
今は稲刈りのまっ盛りである
陣中見舞のビールを届け
若い娘が一人手伝っているのを
見届けて帰ってきた
とう菜もそろそろ植えなければならない
人さし指で穴をあけ
根を入れて土を押さえる
冬は雪の下になり
折れたり凍ったりしたあと
やがてとうが伸びてくる

 どこまでもどこまでも、ただ引用したい感じになる。ここのところをちょっと書きたいのだけれど、もう少し先の部分の方がおもしろく書けそうかな……という感じでなかなか区切りがつかない。
 で、この区切りつかない感じ。
 これが小学生の日記(仕方なく書かされている日記)のリズムに似ている。こどもではなく、おとななのだから区切りがないといっても、なんとなく小学生以上のものがはいってくる。自然に「気持ち」を書いてしまう。
 「もう一人は外泊で不在だった/すこし肩の荷が降りたような気がして」の「すこし肩の荷が降りたような気がして」というのは子供には書けないね。少し、ふっと、思った気持ち--これが書けない。言えない。お腹がすいた、ごはん、ごはんと言うことはできても、少しすいているというようなことは自分からはなかなか言えない。おとなになるというのは、こういう微妙なことを自分のことばで言えるようになることだ。というようなことはどうでもいいのだが。「少し……気がして」が静かでいいなあ。そうか、病気は外泊できるくらいには回復したのだな、と自分に言い聞かせる感じ。
 明確な区切りはないのだけれど、自分で区切りをつけている。ただ、なんとなく、の区切りだけれど。そして、その区切りというのは、あくまで気持ち。
 だから。
 「今は稲刈りのまっ盛りである」というのも、単なる「事実」ではなく「気持ち」なのだ。「まっ盛りである」と自分に言い聞かせている。言い聞かせながら、自分は何をしなければならないかというところへ肉体を動かしていく。
 「若い娘が一人手伝っているのを/見届けて帰ってきた」も気持ち。「見届ける」必要なんかない。「若い娘」に気づく必要なんかもない。誰が手伝っていてもいいのに「若い娘」を「見届け」てしまうのが、気持ち。「少し」気持ちになっている。真剣じゃないよ。若い娘を好きになったというような真剣さはなくて、若い娘だったなあという、うらやしいような何か。
 「とう菜もそろそろ植えなければならない」も気持ち。自分を動かしている。
 で、そのあとが傑作だなあ。

人さし指で穴をあけ
根を入れて土を押さえる

 具体的に肉体の動きを描写している。誰のために? その仕事は新保にはわかりきったことだから、これは詩を読んでいるひとのために「わざと」書かれたことばなのだ。ただし、「わざと」と言っても、きのう読んだ田中の「わざと」とはまったく違う。ここに書かれているのは新保の「肉体」そのもの。いつもは「無意識」でやっていることを、ふとことばにしてみただけなのだ。思い出しているのだ。いつでも思い出せる、肉体にしみついている運動、--これは思想なのだ。思想というようなものは、ふつうはひとは語らない。だまって実行する。それを「気持ち」を書いてきたので、ついつい書いてしまう。ついついなのだけれど「わざと」。
 そのあとの、

冬は雪の下になり
折れたり凍ったりしたあと
やがてとうが伸びてくる

 これもいいなあ。この「わざと」も自然で、とてもあたたかい。新保の「肉体」が知っていることがことばになっている。とう菜がどんなふうにして育ってくるかというようなことは、とう菜の勝手(?)なのだが、その動きを新保は自分の肉体の動きのように「わかっている」。知っているではなく「わかっている」。
 「わかっている」ことのいちばんの不思議さは、そういうことばに出会うと、単に野菜のことが「わかる」のではなく、それを育てている人、新保そのものが「わかる」という感じになること。いや、野菜を通り越して、新保の肉体が見えるように感じること。「わかる」というのは、話された「内容」ではなく、話している人がどういう人なのか「わかる」ということなのだ。
 その人がどういう人か、というのは「思想」と同義である。私は、ここで新保の思想、新保という思想にであっている。
 知っていることは知識にすぎないが、わかっていることは思想なのである。

 新保は朝起きて、顔を洗って……というようなこどもの「日記」のスタイルを借りながら、こどもには書けない思想、繰り返し繰り返し、肉体を動かして肉体でおぼえて、わかったことを、きちんとことばにしている。
 この「きちんと」が「わざと」と私が呼んだもの。
 なぜ「きちんと」が「わざと」かというと、ふつうは、そういうことは「きちんと」言わない。言う必要がない。言わなくても肉体がおぼえているから、肉体は無意識にそれをしてしまう。だから「きちんと」書かなくてもいい。新保が書かなくても、とう菜は「やがて」伸びてくる。でも、それを「書ける」というのが新保の思想の具体的な形なのである。
 詩はこのあとも、だらだらだらっとつづいていく。一日がつづいていくようにつづいていく。そして、そのだらだらのあいだに、やはり「気持ち」が切断しながら接続していく。区切りがないまま、いや、区切りをのみこみながらつづいていく。「肉体」に区切りがないから、区切りをのみこんでしまう。
丸ちゃん
新保啓
詩学社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(14)

2014-04-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(14)          2014年04月05日(土曜日)

 「野蛮人を待つ」には古代ローマ人の、一種の矛盾が書かれている。腐敗する政治。野蛮人に侵入されるのはいやだが、野蛮人なら腐敗した政治家を一掃してくれるのではないか。そういう思いがある。こういう矛盾が、詩に対話形式をとらせている。

「なぜ両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 見事な金銀細工の杖を握っているのか?」

   「今日 野蛮人が来るからだ。
    連中はそういう品に目がくらむんだ」

 長い質問、状態のこまかい描写と、短い回答の対比が、全体を緊迫させる。「そんなこともわからないのか」という回答者のいらいらを浮かび上がらせる。そして、その回答者の口調のなかに「口語」がまじり込むことが中井久夫の訳の、声の的確さをあらわしている。「連中」と呼び捨てにし、「目がくらむんだ」と軽蔑した調子が、多くの市民によって共有されている(常識になっている)という感じを与える。

   「今日 野蛮人が来るからだ。
    奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

 この「お嫌いなんだ」という言い方も一種の侮蔑がある。「お嫌い」と丁寧な表現を装いながら、主語は「奴等」と切り捨てている。「連中」よりももっと距離感のあることばである。
 中井久夫は「意味」ではなく、声の調子、肉声がもっている感情、感情のあらわれることばを詩のなかで動かす。そうすることで、そこに人間のドラマを再現する。野蛮人がやってくるのを待つ、という「こと」だけではなく、その「こと」といっしょに動いているこころをも再現する。

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」  

 落胆は「わしら」という口語で語られる。このつかいわけも中井の訳語のおもしろいところだ。



カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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田中勲「紙の砦」

2014-04-04 11:13:36 | 詩(雑誌・同人誌)
田中勲「紙の砦」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 私は、実は田中勲を10代のころから知っている。私が10代という意味であって、田中が10代であったかどうかわからない。たぶん20代だろうと想像している。会ったことは、ない。その遠い遠い昔、タイトルは忘れてしまったが田中は緑色のインクで印刷された詩集を出したと記憶している。私は、田中勲の詩が好きではなかったのだが、この詩集で「好きではない」から「嫌い」になってしまった。思い込みの付加価値(?)、ことばの演出にぞっとしてしまった。
 現代詩はたしかに「わざと」書かれたことばの運動だけれど、それはあくまでことば内部からの運動であって、外からの演出は「みかけ」にすぎない。詩ではない。緑色のインクというのは田中の運動であって、ことばの運動ではない。
 田中は詩を書いているのではなく、詩人になろうとしている。詩人になって、それから書いたものを詩であると呼ぼうとしている。
 これは私の「感覚の意見」であって、きちんと説明できることではないのだけれど。私の先入観・偏見のようなものかもしれないけれど。

なかば凍えた足の指先から
遠ざかる昭和の階段をふりむくのは
僕の敬意とか経緯とは関係ない
無意識の歩みといえど

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

他人まかせの、風雪もくぐったが
世間と自省の流れにそって、しばしば尋ね直す
此処までの途中、
牛や馬の切ない鳴き声が耳をねじ曲げるから

(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら)
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

 私は、この書き出しのどの部分にも「肉体」を感じることができない。「ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら」ということばさえ、歯根の痛みとは無関係に思えてしまう。歯根の「暗い痛みに耐える」というのは、あまりにも「頭脳的」なことがらである。「歯根の痛み」を「暗い」ということばであらわしたとき、もうすでにそのことばの書き手は「痛みに耐えている」。痛い、痛いと呻いて暴れる替わりに「暗い」と呼んでいるのだから。そういうことばを動かしているのだから。それをさらに「耐えている」と書くとき、「暗い」は用言ではなくなる。「暗い」は形容詞だから「痛み」を修飾するだけ--というのは「学校文法」の世界の決まりであって、「肉体」の感覚からはかけ離れてしまっている。
 誰でもが知っている歯根の痛みについて書くときでさえも、田中は「肉体」を「頭のことば」で整理しなおし、その「頭の中の世界」を見せる。
 こういう行為を形而上学的ととらえれば、まあ、そうなんだろうねえ。でも、それは形而上学であって、詩ではなくなる。

 私は自分の頭の悪さを棚に上げていうのだが(感想、批評というのは、たいていが自分を棚に上げていうものだが)、こういう「頭のよさ」を自慢するような作品が、どうも好きになれない。
 「敬意」と「経緯」という同じ音でありながら意味の違ったことば。意味が違うのに、どこか似ているところがない? 通じているものがない? 「私は感じる、だから、それを書く。この複雑な違いが、あなたにはわかるかな?」とでも言っている感じ。
 敬意というのは、たしかにそのひとの経緯(生きてきたこれまでのこと)と関係するだろうけれど、自分から経緯をひっぱりだしてきて、それに敬意を結びつけるなんて。いやだね。そんなことばで、田中を「ふりむいて」みつめるなんて、いやだね。
 ふつうは、こういうとき、それに気がつかなかったふりをして通りすぎるのが「おとな」の態度なのかもしれないけれど、私は、いったん動いたことばは動かしてしまわないと落ち着かないので書くのだ。

 この詩の気持ち悪さは、ほかにもある。「牛や馬のせつない鳴き声」というような「敬意とか経緯とは関係ない」感情へ訴えてくることばをはさみながら、

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに耐えながら
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
 パン屑の夢を漁っていたのか、ぼくは暗い歯根の痛みに絶えながら)

(風の中の無声を聞き分けていた日々よ
 PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り)

(PCのスクリーンの上を、朝から見えない水鳥の群れが走り
 風の中の無声を聞き分けていた日々よ)

 と中途半端な抒情を括弧に入れて前後を入れ換えながら撒き散らす。(括弧と括弧のあいだには、1連目のようなことばが4行ずつはさまってるだが、省略した。)文章を断片にし、断片性を強調すること、連続する現実から逸脱する個人的な断片を強調することで、そういう断片こそが詩なのだと言おうとする態度--その態度が、私には気に食わない。
 緑色のインクである。
 気取った態度や活字の色という演出が詩とは、私は思わない。
迷宮を小脇に
田中 勲
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(13) 

2014-04-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(13)          

 「裏切り」は「中断」の続編のような詩である。不死であるはずのアキレスだが、

だが ある日 長老連が参内、
「アキレス トロヤに殺さる」と言上。
テティス すなわち紫の衣を脱ぎ捨て、
引き裂き、指輪 腕輪を抜きとって
床の上に投げつけた。

 「すなわち」について中井久夫は「即座に」の意味であると注釈に書いているが、この訳はとても中井らしい。中井の訳には様々な文体が交錯する。「すなわち」は漢文体。「即ち」である。「漢語林」(大修館書店)に「会即帯剣擁盾入軍門」がある。前後の区別がないくらいに、すぐその場で。だから、中井の訳も「テティスはその場で紫の衣を脱ぎ捨て」であっても同じ「意味」になるのだが、中井は「すなわち」を選びとっている。なぜだろう。私が想像するに、ことばのスピードが違う。「その場で」は何か間延びがする。中井が注釈している「即座に」でも間延びがする。そして、その「間延び」の原因(?)は「場」「座」ということばが象徴的だが、そこに空間を引き寄せてしまう。まわりが見えてしまう。「すなわち」には「場(空間)」を感じさせる要素がない。「すなわち」はさんでいることばが直に接続する感じがする。「色即是空」の「即」に近い。ふたつがひとしい。「ひきつづいて」という感じではなく「同時」。
 これは、こう言った方がいいのかもしれない。
 「すなわち」からあと、中井はテティスの行動を、そういう順序で行動したかのように書いているが(ことばなので、そう書くしかないのだが)、これはほんとうは、

テティスすなわち紫の衣を脱ぎ捨て、
「すなわち」引き裂き、「すなわち」指輪 腕輪を抜きとって
「すなわち」床の上に投げつけた。

 である。一続きの行動ではなく、全部が「ひとつ」に凝縮する形で「ひとつ」。行動の、肉体の動きがテティトスによって「ひとつ」に凝縮する。分離できない。衣を脱ぎ捨てることはすなわち引き裂くことであり、それはすなわち指輪、腕輪を投げすてること。指輪、腕輪も、すなわち権力の「衣装」である、と補足すれば「すなわち」と訳した中井の意図に近づくだろうか。
 口語、俗語の文体としては、テティトスの次の台詞。俗人のような口調が生々しい。

あのうたげで弁舌さわやか べらべらしゃべったあの神が?

 この詩でもカヴァフィスは史実(神話的事実)より人間の「こと」を書いている。
           (注・漢語林の引用、「会」は正しくは「口」へんに「会」)

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ヤン・オーレ・ゲルスター監督「コーヒーをめぐる冒険」(★★★)

2014-04-03 23:53:36 | 映画
監督 ヤン・オーレ・ゲルスター 出演 トム・シリング、マルク・ホーゼマン、フリーデリッケ・ケンプター、ミヒャエル・グビスデク

 モノクロ映画、コーヒー、たばこ、日常のあれこれ……。こう並べるとジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」みたいだが。私の印象では、それにウディ・アレンが加わった感じ。人間観察がときどき辛辣。温かいのだけれど、辛辣。
 おもしろいシーンはいろいろあるが、たとえば主人公が昔の同級生と出会ったときのエピソード。昔はデブで「デブリカ」と呼ばれていた。いまはダイエットに成功し、舞台で役者をやっている。芝居がおわって、劇場の前で不良にからまれる。それに反論し、止めに入った主人公が不良に殴られる。そのあと、楽屋でセックス……。女の方がかなりむりな注文をつける。「デブの女が好き、太った女が好きと言って」と言うのだ。昔のコンプレックスが残っているのだ。で、主人公は気を削がれてセックスが中断する。そのあと、男が「なぜ、チンピラにからかわれたくらいで反論した。無視すればよかったのに」と言う。女は「私が中学生で太っていたときに、あなたたちのからかいを無視したみたいに? あのとき私が傷ついていなかったわけではない。傷ついていた。知らないでしょう。いまは、だから反論するのだ、言い返すのだ」と答える。これ、いいなあ。きちんと自分の時間を生きている。
 主人公は一種のモラトリアム人間で、父親のすねをかじって生きている。大学を中退したのに、まだ通ってると嘘もついている。そのモラトリアム人間が、どんな形であれ、真剣に生きている人間と出会い、出会うたびに人間が映画のなかで動きはじめるというオムニバス映画なのだ。
 最後に入ったバーで、突然、主人公に語りかける老人のエピソードもいいなあ。
 表の通りで自転車に乗る特訓をした。父親が手を離すので倒れて顔が傷だらけになった。やっと乗れるようになって通りを走り回っていると、みんなが笑う。父は「笑いものになるな」と叱った。でも、自分はみんなが笑っているとは思わなかった。喜んでいると思った。戦争の末期、みんなが商店の窓に石をぶつけてガラスを割った。とても悲しかった。道がガラスだらけで自転車で走れないと思って悲しかった。
 酔いつぶれて、主人公にからみながら言うんだけれど、老人の語る彼自身のよろこびと悲しみが他人からかけはなれている感じが、台詞だけではなく、肉体全体からつたわってくる。感情というのはまったく個人的なものなのだとわかる。「そんなこと、おれとは関係がない」と主人公が思っていることでとてもよくわかる。そして、そんなことおれとは関係ないと思っているのに、「みんなが喜んでくれていると思った」「ガラスだらけで自転車に乗れないと思った」という感情の断片が主人公にぐいと刺さってくる。共感(?)する必要はないのに、あ、この人はこんな具合に生きていたのか、とわかってしまう。
 最初に書いた同級生のエピソードも同じ。突然、彼女はこんな感情を生きてきたのか、とわかる。わかってしまう。まるで、道に倒れて呻いている人を見たとき、自分の肉体ではないのに、この人は腹が痛いのだとわかるように、他人のものなのに他人の感情がわかってしまう。
 「共感」というとちょっと違う印象があるが、これもまた共感なのだと思う。
 映画の最初に出てくるアパートの上の階の住人(男)が、妻が乳ガンになって手術をしたあとセックスがない。妻は料理だけに熱中している。自分は地下室でサッカーを見ている--というようなことを愚痴る。ある日、その男が地下室でサッカーゲーム(人形でボールを蹴飛ばしてゴールを狙う)をひとりでしているのを見てしまう。誰も男を相手にしないのだ。そのとき見てしまう孤独と、孤独のいらだち(人形をやたらと力を込めて動かしている)をわかってしまう。
 主人公は、いわば自分自身の感情をはっきりつかみきれていないために何をしていいかわからないのだけれど、世界には感情がうごめいているということをわかってしまう。他人の感情というものに主人公が気づきはじめる--そういうことをテーマにした映画だね。
 他人の感情というものが台詞で語られ、主人公は無口のままという対比が、ちょっとつらい。他人の感情が台詞ではなく、肉体の動きそのもので明確になるともっとおもしろくなると思う。(上の階の男のサッカーゲームのように。)あるいは逆に、運転免許証を受け取りに行った先の係員とのやりとり、地下鉄で無賃乗車を取り締まる2人組とのやりとりのように、台詞をもっと多くしてしまうのも、それはそれでおもいしろいかもしれない。少し中途半端。だから(ジム・ジャームッシュ+ウディ・エレン)÷2、という印象を持ってしまうのかなあ。
                      (KBCシネマ2、2014年04月02日)




詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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新保啓「約束」

2014-04-03 10:22:17 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「約束」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 新保啓「約束」は「時間」のことをぼんやり考えている。昔だれかが、時間のことはだれもが知っているけれど、語ろうとすると語れないというようなことを言った。逆に言えば、どんなふうに語っても「時間」の哲学から外れない、どんな語り方でも時間を語れるということかもしれない。
 新保は、こんな具合。

つまみを押しても引いても
びくともしないので
今もトイレの時計の三分遅れが
続いている
ドアを開けて出る
三分前に戻る

 そんなことはないのだけれど……そうであったらおもしろいね。何か失敗するたびにトイレに駆け込み、飛び出し、失敗をやりなおす。現実には不可能なのだけれど、トイレでぼんやり座って時間を過ごしている。トイレから出てきたら、トイレにいたこととは無関係に時間がある。この不思議な「ずれ」がおもしろい。「ずれ」があるんだと気づいている新保がおもしろい。
 だからね、「算数」でいうと、ほんとうはこの「三分遅れ」は間違っている、なんていっても始まらない。トイレの時計が三分遅れているなら、トイレから出てきたら外の時計は三分先へ進んでいる。三分、新保はトイレで落としてきたことになる。新保の「肉体」はトイレにいた「三分遅れ」の時間を身につけいてるので「三分前に戻る」と錯覚するのだが、外の時間から言わせれば間違っている。
 でも、こういう「間違い」が人間のおもしろいところだからね。間違いをとおしてしかつかみとれないものがある。詩なんて、そもそもが間違いなのだから、こういうことはどうでもよくて--じゃなくて、こういう間違いをどんどん突き進んでいけばいいのである。
 間違いに気づかないまま、新保はつづけている。

親戚のおじいさんが
先日 午前一時七分に亡くなった
静かな時間だ
犬も猫もみんな寝ている
風が少し吹いて
木々の葉を揺らす程度に

 この「一時七分」というのは「トイレの時計」、それとも「正常(?)な時計」の時間? トイレの時計なら、ほんとうは一時十分だね。その三分のずれを、新保は「静かな時間だ」と呼んでいるような気もする。人が死んで、それがつたわるまでの間の、空白の時間というようなことも考えるなあ。犬も猫も寝ている、風が少し吹いている、か。

一日の時間が伸びるなら
伸びた分をどうしよう

 さあ、どうしよう。一日三分ずつ伸びたとしたら、伸びたことに気がつくかな?

きょうは病院へ予約に来た
予約は三十分刻み
診察はいつも一時間近く遅れる
だから窓の向こうの山ばかり見ている
この窓枠に取り込まれた稜線の手前を
泳ぐように
白衣の人が通り過ぎる

鳥の時間には空を飛び
無視の時間には葉裏で休み
雨が降ったら
傘を差して外出し
晴れたら海へ
決まった時間に港から
船が出る

 「決まった時間」(たとえば「予約の時間」)がある一方、そういう時間の一点を指すのではない広がりのある時間がある。「診察する時間」「山を見ている時間」。これは「現在進行形」の時間だね。動くことでつながっている時間。山を見ているというのは動かないようであって、そのあいだに思いが動いているからね。動きは時間を生み出している。広げている。(動くことで時間を消費している、といえば「経済学」になってしまうけれど。)
 この動くことでつくりだす時間、生み出す時間というのは「人間」だけのことではない。
 鳥は空を飛ぶ、虫は葉裏で休む。そのときも、そこに「時間」がひろがっている。人間はそういう時間を無視するけれど、それは逆に言えば見落としているということかもしれない。そこには人間の知らない充実した時間があるかもしれない。時間の充実があるかもしれない。
 時間というのは秒針が刻むものと人間の肉体(感情)が刻むものがある。
 秒針が刻むもの、時計の時間はみんなに共有されているけれど、肉体の時間は個人個人のもの。人間の充実は個人のもの。--であるはずなんだけれど、ときどき、他人の充実に共感し、自分のものでもないのに「共有」してしまうことがある。一種の誤読なんだけれど。他方、秒針の時間を「共有」できず、遅刻するなんてこともあるが、ほっておこう。
 詩を読んでいると、そして、その詩についてあれこれ思っていると、いまなら新保の思っていることを「共有」しているなあ、と感じる。「共有」の仕方が間違っているかもしれないけれど、そこに新保がいると感じる。触れている感じ。これが楽しい。
 そうか、新保はぼんやり風景を見ながら鳥になったり虫になったりしているのか。あるいは港から出て行く船を想像したりするのか。「何分遅れ」とは言えないけれど、「いま/ここ」から逸脱して、ひとりだけの時間を生み出している瞬間だね。それを「共有」するのはほんとうに楽しい。



詩集 あちらの部屋
新保 啓
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(12)

2014-04-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(12)          

 「テルモピュライ」とは古代ギリシャの戦場のよう。中井久夫は注釈を書いているが、私はギリシャのことを知らないので、よくのみこめない。斥候エフィアルテスの裏切りによって、スパルタ兵は「テルモピュライ」で全員戦死したという。

いっそうたたえられよ、見通しつつも踏み留まる者。
ついにはエフィアルテスのたぐいが出て
結局ペルシャ兵が戦線を突破すると
見通しつつ持ち場をすてぬ者がけっこういる。

 負ける、とわかっていても逃げない者がいる、ということ。「踏み留まる」「持ち場をすてぬ」とことばをかえてあらわれる兵。その兵を「けっこういる」と言う。この「けっこう」が、なつかしいような、うれしい気持ちにさせる。
 「相当」という意味だと思う。
 しかし、どこか「申しぶんない」という感じではないのだが、何かしらの「満足」がどこかに隠れているなあ、と思う。「あ、おれもその手の口だよ」という感じだ。「おれも」の「も」が「けっこう」なのだと感じる。「連帯」が生み出す安心感といえるかもしれない。
 詩の引用が前後するのが、

金持ちならば 気前よく
そうでなくてもそれなりに気前よく、
できるだけ人だすけをして

 といういうときの「それなりに」の不思議なつながり。むりをしないで、けれどもちょっと背伸びをして、なのかもしれない。あるいは、ちょっと「いいかっこう」をして、ということにもなるかな?
 そして、ここに「人だすけ」という日本語。その「人」は意味としては「他人」だけれど、むしろ、「自分」に近い。情けはひとのためならず、の「ひと」。自分に帰ってくる「ひと」。「人だすけ」というのは「他人」を助けているのではなく「自分」を助けている。「人」のなかに「自分」がいる。
 負けるとわかっていても逃げない「人」のなかに自分がいる。その「人」と踏み止まる。それは「自分」を発見すること、でもあるのかな? ようやく「自分」をみつけたから、その自分から逃げるわけには行かず、踏み止まるのだ。連帯をみつけ、連帯にとどまる。「戦友」ということばをふいに思い出した。
 カヴァフィスの詩は史実を書いても、その事件を歴史のなかで位置づけるというよりも、その事件を生きた人間の肉体と感情に還元して、人間そのものを動かす。中井の訳は、その人間の思った「こと」を、その場で生きている「肉声」で再現している。


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川田果弧「新月」

2014-04-02 11:44:44 | 詩(雑誌・同人誌)
川田果弧「新月」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 川田果弧「新月」は新人作品。福間健二が入選作に選んでいる。1連目のことば、その最初の部分が丁寧だ。

よく熟れた月をうすく剥ぎとり皿に並べる
満ち欠けの連続写真みたいに
きみはむじゃきにテーブルに駆けより
うす切りの月を端から口へと運ぶ
あかくしなやかな舌の上で
透ける月が溶けいくのを見ていると

 「うすく」ということばが少しずつ変容していく。「うすく」は「うすい」という形容詞の連用形になるのだろう。連用形、つまり用言につくことばなので、その働きは「形容詞」というよりも「副詞」に近い感じがする。(私は文法はよくわからなので、適当に書いておく。)この「うすく」は4行目で「うす切り」という形でもう一度出てくる。「うす切り」は「うすく切り」という「形容詞+動詞」が「名詞」に変化したものであり、それは「名詞」でありながら「動詞」を含んでいる。「用言」の要素を含んでいる。動詞派生の名詞、と簡単に言ってしまえばいいのかもしれないけれど、くだくだと書いているのは……。
 この6行で私が感じているのは「動詞」の繊細な動きだからである。動詞について書きたいと思っているからだ。しかも、それが「うすく」という形容詞の連用形とつながって、動詞を繊細にさせていると感じるからだ。形容詞のつかい方に気を配っていて、その気配りがことばを統一していると感じるからだ。
 「うすく剥ぎとる」は「うすい+剥ぐ+とる」ということばから成り立っているが、その行為を繊細に見せているのは「うすい(うすく)」ということばである。「うすい」が繊細なのである。「うすい」という状態が繊細であると同時に「うすい」ということばをつかってしまったために、ほかのことばも繊細になってしまう。
 この「うすい」の対極にあるのが「熟れた」ということばかもしれない。「熟れる」という状態は「うすく」はない。濃厚。濃い--つまり薄いの反対。でも、反対なのだけれど、たとえばよく熟れた桃の皮は非常にうすいという具合に、どこかで密着している。反対にあるものが、同時に、その反対のものを同居させる。そういうことがあるから(そういうことを肉体がおぼえているから)、ここに書かれていることを、繊細、と強く感じるのかもしれない。
 「うすく(うすい)」はさらに、「しなやか」「透ける」ということばへと変化していく。「しなやか」は少し異質なのだけれど(この「異質」については、あとでまた書く)、この「うすく」から「透ける」までの動きというのは、「見る」という動詞のなかでひとつになる。「うすく剥ぎとる」とき、その「うすい(うすさ)」を目で「見る」。「見る」という動詞の力が「写真」を呼び出し、その「うすい月」をたべるきみを「見る」とき、目は自然に「あかい」「舌」を「見る」し、それが「透け」ながら「溶ける」のも「見る」。
 「うすい」ものが「透けて」「溶ける」。
 それを「見てしまう」とどうなるか。

 川田の詩は、複雑で、「うすく(うすい)」を「見る」ことと「食べる」という動詞がぶつかりあう。川田は「食べる」を書きながら「見る」ということばを出合わせている。きみが「食べる」のを私は「見る」。
 どっちに「動詞」の主体というか、重心があるのかな?

みにくいねがいが鎖骨のおくで渦を巻く
のみこまれたらもどれないよ
渦巻くものに?きみの喉に?
どちらでも同じこと

 ここから、すこし面倒くさいことになる。「しなやか」ということばが少し前に出てくるが、動詞の方は「しなやかさ」を失ってしまう。丁寧さが少しずつ置き去りにされ、「物語」の方へとことばの動きが狭められていく。
 いやそうではなくて、「どちらも同じこと」を理由に、「食べる」「見る」の主語が「ひとつ」に収斂するという形で、詩を物語にしてしまうと言えばいいのかな?
 端折って書いてしまうと……。

あらしの晩に拾った雛鳥をポケットに隠した
きみに見つかればきっとひとのみにされる

 「私」は「隠す」、「きみ」は「見えない」、「きみ」が「見れば(見つければ)」、「きみ」が「食べる」。まあ、その「食べる」をさらに「私」が「見る」ということかもしれないし、「私」が鳥を隠すのだから、「私」はそっうやって「食べられない」「きみ」を「見る」ということかもしれないけれど。
 うーん、あの「うすい」「うすく」という形容詞か連用形を取ることでつなぎとめていた緊張のようなもの、丁寧さはどこへ消えたのか。どうなってしまったのか。

 こういうことは、まあ、突きつめてみたってしようがない。
 1連目、書き出しの6行の丁寧さが、それ以後消えてしまうのがとても残念、と書いて終わりにしよう。


現代詩手帖 2014年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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