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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

行ってみるつもりなどなかった

2014-11-18 01:28:49 | 
行ってみるつもりなどなかった

行ってみるつもりなどなかった、
あることは知っていたが行ってみるまで存在することを考えたことがなかった。

丘の上の薬のにおう病室。窓の形をして光が床に広がっている。
ベッドの色と同じ、さびしい清潔。

どうして私が行ってはいけないということがあるだろう。
--その声を聞いているうちに深い尊敬が消えた。

黙っていることができずに同じ話、同じことばで攻撃するのだ。
繰り返すことでもうひとつの病室に閉じこもっていくようだった。



*

新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)

2014-11-17 11:23:14 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(10)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アンリと貨物列車」はこの詩集の中では変わった詩である。「タマシヒ」ではなく「魂」という漢字で書かれている。谷川は、表記をつかいわけているのだろうか。表記を書き換えることで「意味」を変えているのか。

アンリの家は丘の上にある
ふもとを長い貨物列車が走っている
貨物列車には牛が乗っている
私は丘の上の家に憧れているが
アンリは好きじゃない
アンリの魂が精神とか心理とか
理性とか知性とかの殻をかぶっているから
それが事実かどうかは分からない
ただ私がそう感じるだけだ
つきあいが浅いせいかもしれない
アンリに悪気がある訳ではない

貨物列車に魂があるとは誰も思わないだろうが
私は時々アンリには感じない魂というものを
貨物列車に感じることがある

 私は「魂」というものを感じたことがない。「魂」が「ある」考えたことがない。自分自身から「魂」ということばで何かを語ったことはない。この詩集に対する感想も、谷川が「タマシヒ」(魂)ということばをつかっているので、「タマシヒ」(魂)ということばをつかわないことには何も書けないのでそうしているだけで、「魂」の存在を信じているからではない。直径一ミリの円に内接する「九千九百九十九角形」のようなもので、ことばではあらわすことができるが、それがほんとうに「九千九百九十九角形」として存在できるのかどうかわからない。現実に存在するのかどうかはわからない。考えることができる以上、存在するという言い方はあるとは思うけれど……。
 脱線した。
 「魂」というものを感じないけれど、なぜか、私は最後の三行がとても好きだ。
 この三行を読みながら、私はキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を思い出した。反乱を起こしたコンピュータ「ハル」がメモリーを一個ずつ抜かれて動けなくなっていくシーン。ハルは最初に覚えた「デイジー」の歌を必死になって歌う。だんだんメモリーが減ってきて、歌のスピードが落ちる。音が低くなる。私は、そのときハルに同情してしまう。ハル、がんばれ、負けるな、という感じで、何度見ても応援してしまう。
 このとき私はハルに「魂」を感じているのわけではないが、「人間」を感じている。「人間」の肉体を感じている。だんだん記憶が薄れて(認知症になって)、ことばがもつれる人。言いたいことが言えなくて、ことばが乱れ、自分自身に怒っている人。そういう人に触れた記憶が甦ってきて、ハルがコンピュータであることを忘れ、「肉体」を感じるのである。
 「共感」する、と言いかえることができるかもしれない。
 「人間」ではなく、「もの」に共感するというのは変だろうか。
 しかし、それがコンピュータであれ、何であれ(たとえば、この詩の「貨車」であれ)、それについて読んでいるとき(書いているとき)は、その対象の「何か」に対して「共感」している。自分とは無関係な「もの」ではなく、自分の「肉体」につながるものとして見ている。批判しているときでさえ、「肉体」のつながりを感じて批判している。その「肉体」がつながっている感じを「共感」と呼ぶなら、私は、あらゆるものと「共感」してしまう。
 私は、ただし、その「共感」を「魂」の「つながり」とは言わない。あくまで「肉体」の「つながり」。
 そこが谷川の書いていることとは違うのだけれど、私は最後の三行を読み、勝手に、私と谷川は「同類」と思ってしまう。「もの」を「人間」以上に好きになってしまう人なのだと思い、うれしくなる。--これは私の勝手な思い込みであって、谷川は「私は人間よりものが好きとは感じたことはない」と言うかもしれないけれどね。

 私と私以外をつなぐもの。それを谷川は「魂」と呼んでいるのかもしれない。私は、それを「肉体」と呼ぶ。谷川は、あらゆる存在は「魂」でつながっている、と言うかもしれない。私は、あらゆる存在は「肉体」でつながっている。あらゆる存在が「私の肉体」と感じてしまう。
 こうやって谷川の詩の感想を書いているときは、谷川の詩を「私の肉体」と感じている。あ、これは私が気がついていなかった私の肉体のどこかにあると感じたり、あ、ここのところ、こんなふうに動かしたら「肉体」がねじまがってしまって、つらい。ここは、こんなふうに動きたくない、と感じてしまう。
 で、最後の三行だけれど……。
 牛を乗せて(牛といっしょに)、どこか遠くまで延々と走りつづけるというのは楽しいかもしれないなあ、と思ったりするのである。それがたとえ場であっても、大事に育ててきた牛を最後まで届けるというのは、悲しいけれど、人間としてしなければいけないことだからね。貨物列車と牛は、何も言わないけれど、いっしょに動いていって、その動いている間中、「肉体」で対話しつづけている。ことばにならないことばを、互いに「悟りあう」。そんな感じ。
 「わかる」というのは、「分かる」と書く。それはたぶん「未分節」のものが「分節」され、世界が動きやすくなるということなんだと思う。「悟る」は、それとは違って、何かことばにできないまま、「それ」を受け入れる感じ。納得、という感じかなあ。
 谷川は、それを「感じる」と書いているけれど。
 私のことばで言いなおすと、「感じる」寸前の、「あっ」と思う瞬間が「悟る」。

 かなりめんどうくさいことを書いてしまっているかもしれない。このままでは、ことばがだんだん動けなくなる。
 このことは、ここまでにして、詩の前半に戻る。

 詩の前半には「魂」と「精神」「心理」「理性」「知性」ということばが対比されている。谷川は「精神」「心理」「理性」「知性」を「殻」と呼んでいる。「魂」の外側を覆っている「殻」。「かぶっている」という動詞が、そういう状態をあらわしている。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「奥」にある。隠されている。
 そのあと、谷川は「つきあいが浅いせい」で、「魂」には触れることができず「殻」にだけ触れているように感じるのかもしれないと補足している。その「浅い」ということばを手がかりにすれば、「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」にあるともいえるかもしれない。
 「魂」は「精神」「心理」「理性」「知性」の「深いところ」(奥)にあって、そういうものには、ひとはなかなか触れられない。「つきあい」が深くならないと(親密にならないと)、触れあえない。「魂」の触れ合いは、「深いつきあい(親密なつきあい)」を通して実現する。「親密なつきあい」というのは「殻」を打ち破って「内部」をさらけだしたつきあいのことでもある。(でも、瞬間的に「深い」ものに触れるということはあるだろうから、この「深い(親密)」は「長い」とは無関係である。「長い」つきあいが「深い」つきあいとはかぎらない。)
 「深い」ところにあるものは「動かない」ように感じられる。「奥」にあるものも、それが表面的には見えないのでやはり「動かない」ように感じられる。「魂」はそういう「動かない」ように見える何かと関係している--と書けば、この詩集について書いた最初の感想に戻ってしまうが、私は、そこへ戻りたいのかもしれない。
 でも、簡単には戻れない。
 それは「魂」(動かないもの)が「貨物列車」という「動くもの」といっしょに書かれているからである。「魂」はものごとの「深いところ(奥)」にあって、動かない。動かないことで、もろもろの動きを支えるものと言えるならいいのかもしれないが、それでは「貨物列車」が「比喩」(象徴)にならない。
 と、書きながら、私は、いま書いたことは、どこかが違っているぞ、とも感じる。
 「貨物列車」は動く。でも「貨物列車」にも「動かない」部分がある。それは「何かを運ぶ」ということ。「運ぶ」という動詞、「運ぶ」という働きは、変わらない。つまり「動かない」。
 「動かない」とは「変わらない(普遍)」でもある。「変わらない(普遍)」が「魂」か。
 「精神」「心理」「理性」「知性」は動き回る。そして変わっていく。ひとは、そういう動き、変化には敏感に反応してしまう。その変化にまどわされて、深いところにある「動かない魂」が見えない。だから「私」は「アンリ」が好きじゃない……。
 うーん、こんな「説明」は、しかしおもしろくないね。

 この詩を読みながら、もうひとつ感じたことがある。「動く/動かない」に関係している。「動く」ものとして「貨物列車」がある。「貨物列車」は「走っている」。その「動く」「貨物列車」に、詩の主人公(話者)は「魂」を感じている。
 その「貨物列車」を思い浮かべるとき、私には、「貨物列車の魂」とは別に「動かないもの」が見える。
 「丘」と「アンリの家」。
 このふたつにも「魂」はあるんじゃないだろうか。
 「私は丘の上の家に憧れている」と書くとき、「私」は「丘」と「家」の「魂」に触れているのではないだろうか。その「動かない魂」が「貨物列車の深いところにある動かない魂」と「共感」しあって、「風景(世界)」をつくっているようにも感じる。

おやすみ神たち
クリエーター情報なし
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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思潮社

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須永紀子『森の明るみ』

2014-11-17 01:03:12 | 詩集
須永紀子『森の明るみ』(思潮社、2014年10月31日発行)

 須永紀子『森の明るみ』の「森」は魅力的だ。

どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠されて
踏み迷う
空を裂く
鳥の声は小さな悲鳴
枝をかきわけて
つくる小径
落下した星と虫
死骸の層に靴は沈み
凶音の泥が付着する
実を見ればかじり
青くしびれる舌

 「青くしびれる舌」が美しくて、私は何度も読み返してしまった。森の深く、生きながら死んでいった星と虫。それは死にながら生きているのかもしれない。そういうものを踏みしめ、それを靴の底に感じる。その感じと、実をかじったときの舌のしびれが通い合う。実は食べられながら死ぬのか。あるいは実は食べられることで死ぬが、その死ぬは生きると言いかえることができる「毒」のようなものか。舌が、不吉なよろこびにしびれている。「青い」という形容詞が、私にはとても美しく感じられる。
 山は私にとって、子ども時代の遊び場なので、この「しびれ」のようなもの、生と死の混じりあった苦さ(甘さ)の誘惑が「肉体」のどこかに残っていて、それが甦ってくる感じがした。
 ああ、とてもいい詩だなあ。
 でも、この8-9ページ見開きの最後にある「角。」は何? 印刷ミス?
 ちょっと気にかけながら、無視して読んでいたのだが……。
 あっ、声を出してしまった。

角。
壁。
目印。
町にあって
ここにないもの。
それなしではつかめない
方向もやりかたも

 詩はつづいていたのだった。10ページ目をめくって、初めて気がついた。そして、その「角。」からつづく詩が、私にはどうもおもしろくない。「角。」は2連目。
 3連目(最終連)は、

愚かさに見合った
わたしの小さな森で
行き暮れる 
出口は地上ではなく他にある
そこまではわかったが
急激に落下する闇に
閉ざされてしまう

 あれっ、森へは迷うために(迷うことで何かを発見するために)入っていったのではなかったのか。迷いながら「肉体」が覚えているものを甦らせる、そうやって生まれ変わるために入っていったのではなかったのか。
 --まあ、それは私のかってな「願望」であったということなのだが。
 「出口は地上ではなく他にある」というのは、もってまわったような言い方で、わざとらしい。「出口」を探すくらいなら「いきなり深い」森になど入らなければいいのに、と私は思ってしまう。「出口」から出られず「閉ざされてしまう」というのは、どうも気に食わない。
 そんなことを思いながら詩集を読んでいくと、

わたしは再会の物語を書いていた
久しく会わない弟が鳥の姿になって現れ
離れて暮らした日々を語る                    (「夜の塔」)

あるものは弾け
芽を出すものもあり
それぞれのくぼみで
物語が始まる                          (「くぼみ」)

洞穴や廃家で明かす夜
破りとられたページは
一冊の本より雄弁に
物語のかたちをとって
世界の終わりを伝えた                       (「前夜」)

 「物語」が何度も出てくる。そうか、須永は「物語」を書いていたのか。瞬間的な時間、その時間の厚みではなく、物語が抱え込む「長さのある時間」を書きたいのか。
 「森」も森へ入っていって、迷って、出られなくなるという「時間の経過」を書いていたのか。一行一行は、たぶん、分割された「均等な時間」なのだ。一行のことばがあらわしうている世界、その世界を「時間」に換算したものが、そこに書かれているのかもしれない。
 須永の書いているものが「物語」だと思って読めば、「アザゼル」は「神話」として魅力的かもしれない。
 でも、私は「物語」にはあまり関心がない。小説を読むときでさえ「物語」がときどきめんどうくさいなあと感じてしまう。ある瞬間、それがたしかにあるな、と分かるときの昂奮が好き。「物語」になってしまうと、そこには私とは無関係な「時間の経過」があるような感じで、「共感」が薄れてしまう。
 もっとも、これは私の「個人的な感想」なので、ほかの読み方をすれば、須永の詩は楽しいのかもしれない。「物語」に何か私の気づかないものが書かれているのかもしれない。
 「物語」を完全に無視して私の感想を書くと、「丘陵」の次の2行、

影が左右に揺れ
聞いているとわかる

 これはいいなあ。ここに書かれている「わかる」は「わかる」というよりも「悟る」が近いかもしれない。私の勝手な「感覚の意見」だけれど。ことばで説明できる何かではなく、ことばをつかわずにつかみ取った「真実」という感じがする。
 「青くしびれる舌」の「青く」もそういう「真実」だ。
 「物語」を否定する。否定することで、「時間」の奥、「肉体」の奥を外へひっぱり出すような、不思議なエネルギーがそこにある。

森の明るみ
須永 紀子
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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冬のしるし

2014-11-17 00:08:00 | 
冬のしるし

日曜の朝、海まで歩いて行って冬のしるしを見つけたい。
西公園の坂を上って下りて最後の曲がり道を曲がると
せりだした木々の枝のアーチの下から海へつづく道になる。
いま、バスが交差点をすぎていく--そのバスが消えたら
黒い松林の上に海の冬の色が広がる。
寂しさをもう一度寂しさで叩いたような色。



*

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イ・ジュヒョン監督「レッド・ファミリー」(★★)

2014-11-16 18:09:13 | 映画
監督 イ・ジュヒョン 出演 キム・ユミ、チョン・ウ、ソン・ビョンホ、パク・ソヨン



 北朝鮮の工作員(四人)が偽装家族となって韓国で活動する。隣の家は、いがみ合うだらしない家族。最後の指令は、その南の家族を殺すこと--という設定にひかれて見たのだが。
 映画というよりも芝居。舞台劇ならとてもおもしろいと思うが、映画ならではの「情報」がなくて、脚本以外に見るべきところはない。安易に北に残っている工作員の家族を映像で見せないというのは、それはそれでいいのだけれど、すべてが「ことば」だけなので想像力が刺戟されない。
 舞台だと常に役者の肉体が「全身」でそこに存在するので、その肉体が抱え込むものが「情報」となってつたわるのだが、映画は「肉体」がフレームのなかでとらえられ、そこには「カメラ」の演技が入ってきていて、役者の「肉体」そのものが疎外される。うまくいけば、クローズアップはとても効果的だが、こんなに「ことば」の情報にたよっていてはカメラワークの効果がない。
 唯一おもしろいのはラスト。工作員が北の上部工作員につかまって、船上で処刑される寸前(自殺を強要される寸前)。四人が隣の家族喧嘩を再現する。罵詈雑言が飛び交う。そんなふうにして感情のままにことばを発してみたい。こんな家族でありたかった。そういう「夢」が芝居のなかで生き生きと動く。まあ、これにしても「芝居」の方がはるかにおもしろいと思う。映画だと、どうしてもカメラが観客の感情を誘導するように役者の「肉体」を切り取ってしまうので、そういうことばが飛び交う「場」の全体が見えにくい。
 実際の家族の喧嘩が庭であったとき、隣の家族の四人の「位置関係」が「情報」としてあるのに、船上の工作員四人には「位置関係」の「情報」がない。横に一列に並べられて、不自由な場(拘束されて不自由な肉体)で「ことば」で「家族」を再現することになり、やっぱり「ことば、ことば、ことば」の芝居にならざるを得ない。
 で、唯一おもしろいこのシーンでは、「映画」であることがまた邪魔にもなっている。四人の芝居がいったい何を再現しているものか、観客にはわかっても上部工作員たちはわからないのだが、そのわからない工作員の姿を映画は映し出してしまう。その瞬間、「ことば、ことば、ことば」の芝居が映像によって途切れてしまう。緊張感がなくなる。舞台なら、観客はそこに上部工作員がいても、それを無視して四人の芝居に集中できる。映画ではカメラが勝手に演技して上部工作員をとらえるので、それが邪魔になってしまう。表現媒体の選択を間違えたようだ。
                      (2014年11月16日、KBCシネマ1)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)

2014-11-16 10:28:31 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(9)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「罪」のあと、日射しの美しい木の写真(森の出口を撮った写真?)をはさんで「うたたね」という詩。

カラダがくたびれてココロも
くたびれてきて
タマシヒを見失う

垣根の外を子どもらが笑いながら歩く
日差しがゆるやかに影を回す
死んだ誰彼に無言で声をかけられる

タマシヒは眠ることがあるのだろうか

 「カラダ」「ココロ」「タマシヒ」が出てくる。人間は、その三つでできている?
 いちばん外側がカラダ、つぎがココロ、その奥にタマシヒがある、という感じなのかな? 外側からだんだん内部へと「くたびれる」が広がってくる。
 タマシヒがくたびれて、ココロがくたびれて、カラダを見失う、ということは、ありうるのか。
 ない、と思って、谷川はこの詩を書いていると思う。
 でも、タマシヒを見失ったと思ったら、それは「外」から急にやってくる。
 「垣根の外を子どもらが笑いながら歩く」のを見ると、それがタマシヒのように感じられる。カラダもココロもくたびれていなくて、元気に笑っている。あれがタマシイの理想の姿だな、と思い出してしまう。思い出すとき、タマシヒが外から肉体(眼)を通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる感じだ。
 「日差しがゆるやかに影を回す」も同じ。その美しい光と影の揺らぎがタマシヒになって、カラダを通って、ココロを通って、失われたタマシヒの場所へ入ってくる。ココロのなかに、タマシヒが甦り、それが外にあるタマシヒとつながって、子どもたちのように笑い声(よろこびの声)をあげる。光と影をかろやかに動かす。カラダの内と外が共鳴し、音楽が鳴り響く感じ。
 そういうときは、「死んだ誰彼」が「無言で声をかけ」てくる。これは、友人と楽しく過ごした時間を思い出すという具合に私は読む。何も言わなくても、考えていることが通じ合ったようなよろこび。
 タマシヒは人間を甦らせる。いつでも人間を元気づけるために存在する。タマシヒを見失ったと思ったときにさえ、それは外からやってきて、カラダの内と外との関係をととのえてくれる。
 くたびれたら「うたたね」でもして、少し休んで、それから「外」を眺めてみればいい。子どもがいる。光がある。影がある。死んだ人のなつかしい思い出もある。
 詩の裏には、かめが光を浴びながら泳いでいる写真。鯉も泳いでいる。その左となりのページには不思議な双六。まるで曼陀羅のよう。さらに、オタマジャクシ、たてかけられた自転車と写真がつづくのだが、そうか、生きているものも、そこで動かずにただあるだけのものも、どこかとつながって、何かが共鳴している(音楽を響かせあっている)のだな、と思う。
 壁の落書きの写真がある。顔は向き合っているのか、左の男(少年?)は知らん顔をしているが、右の女(少女?)は何か呼びかけているように見える。その左となりの猫の写真がおもしろい。電子レンジの棚(?)の下にいて、電子レンジを見上げている。電子レンジのタイマーのスイッチがふたつ並んで目のように見える。猫とは関係のないところを見ている。その無関心な電子レンジの目を猫が見ている--というのは、いま見たばかりの壁の男と女の落書きの視線の関係に似ている。
 そういう無関心と関心の視線の交錯のなかにもタマシヒはあるんだろうなあ。
 何かが、私の肉体のなかに入ってきて、こうなふうにことばが動くのだから。

 最後の一行は不思議。誰のタマシヒだろう。死んだ人の? それともこの詩の主人公の? 私には「個別のタマシヒ」のようには感じられない。タマシヒはいつでも「個別」のものではなく「ひとつ」なんだろうなあ。あるときは子どもになり、あるときは笑いになり、あるときは日差しや影になり、あるときは死んだ誰彼の声になる。そうして呼吸のように「肉体」を出たり入ったりするんだろうなあ。

おやすみ神たち
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冬は

2014-11-16 01:23:47 | 
冬は

冬は走り去った雨をケヤキ通りで追い抜いた。

葉を落とした木の幹と枝の表面はまだ濡れている。
冬は、その薄い水の膜に落日の色が集めて冷たい輪郭をつくる。



*



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(8)

2014-11-15 10:13:26 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(8)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「罪」という作品は、何枚かの写真がつづいたあとに「絶坊と希坊」と同じ紙質の紙に印刷されている。詩は左側のページに印刷されているのだが、その詩よりも、右側のページの詩が向き合っている灰色と黄色の模様が気になる。灰色の部分は「土」の灰色のよう。土色が混じっている感じ。美しく響きあっている。それが一点透視の道路のように描かれている。
 しかし、これは何だろう。
 黄色はタクシーの色。黄色は電信柱に描かれた模様の色。灰色はコンクリートの色、アスファルトの色。黄色は少年のシャツの襟の部分の色。灰色は、日陰になった部分の家の壁の部分の色……。
 私は答えのようなものを探して空を飛ぶ鳥と、その裏側の青のように、何か「答え」のようなものがあるかもしれない。前のページをめくってみる。あれこれ思ってみるが、ことばにして確かめたいという強い気持ちにまではなれない。
 そして、詩を読むと

ミンナ探シテイルノダト思ウ
何ヲ探シテイルノカモ分カラズニ
ドウシテ探シテイルノカモ分カラズニ
盗ミ
犯シ
妬ミ
騙シ
戦イ
殺シ
探シカタヲ探シテ
生キテ
死ヌ

 そこに「探す」ということばが出てきている。詩に書かれている「探す」というとことばは、私が灰色と黄色の組み合わせにつながる何かを写真の中に探していたことを思い出させる。
 これは詩を書いた谷川の意図とは関係がない。
 たぶん。
 そして、無関係なのだけれど、私の何かを引きずってしまう。
 「探す」ということは「盗ミ/犯シ/妬ミ/騙シ/戦イ/殺シ」ということと同じなのか。私は写真を見ながら何かを盗み、何かを犯し、何かを妬み、何かを騙し、何かと戦い、何かを殺しているのか。--そうかもしれないと思う。川島の写した「美」を盗み、奇妙な言いがかりで犯す。そこには私の妬みが入っているかもしれない。感動しているのに、感動していないふりをしたり、ほんとうに感動している部分とは違った部分について語ることで騙したり、そうなふうに写真と戦い、写真を殺しているかもしれない。
 動詞は、たいていの場合、誰かとの接触をもつ。他人に働きかけ、自分にそのはねかえりがある。そこには何かしら他人を否定してしまうようなものがあるかもしれない。知らず知らずに罪を犯しているのかもしれない。
 こうやって詩の感想を書いていることもそうかもしれない。
 私は谷川の書いていること(書こうとしたこと)を台無しにしているかもしれない。この本をつくった人の行為をすべて壊しているかもしれない。
 しかし、どうすることもできない。私が書いていることが、谷川のことばを殺し、川島の写真を殺し、本をつくった人のすべてを殺してしまっているのだとしても、何か言いたい。言わないと、この本を読んだ気持ちになれない。

地球トイウ星ガ
哀シミニ彩ラレテイルノヲ
神モドウスルコトモ出来ナイ

 人間はどうしたって罪を生きるしかない。そうであるなら、楽しく罪を生きたい。つまり、言いたいことは全部言ってしまいたい。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

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何を言おうとしていたのか、

2014-11-15 09:23:45 | 
何を言おうとしていたのか、

何を言おうとしていたのか思い出せない、
そういう瞬間の話をしてくれないか、

丸いテーブルの、丸いコーヒーカップの向こうで、
そのひとはうつむいたまま言った。

意味はわかったがこころはわからなかった。
意味はわからなかったがこころはわかった。

昔の喫茶店だったら
ウェーターがコップの水を継ぎ足しにきてくれるような沈黙



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)

2014-11-14 10:27:49 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(7)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」の裏側に透けて見えていた円と放射状のものは観覧車だった。皇帝ダリアの花びらのような尖端に観覧車の箱がついている。次のページには紙の皿(プラスチックの皿?)にのった花びら。さらに汚れた窓から見える風景、葉っぱに止まっている蝶(名前は知らない)、猫の肉球、母親に抱かれた不機嫌そうな赤ん坊とつづき、そのあと「空白」をはさんで「絶坊と希坊」。
 これは「絶望」と「希望」を人格化(?)して描いた詩?

絶坊というこの青臭いやつも
嗄(しゃが)れた声で歌うのだ
仔犬に鼻先で馬鹿にされながら
俺だって死にたくないと歌うのだ

林の日だまりに居心地悪く座り込んで
希坊は絶坊の嘲笑に耐えながら
ひそかに思っている
僕と君とは一卵性のふたごなのに

老いた名無しの女王は仏頂面だ
立派な名前の餓鬼どもだが
私は産んだ覚えはないよ
鰐(わに)の卵からでも孵(かえ)ったんだろ

 これを読みながら、私は、この夏に池井昌樹、秋亜綺羅と現代詩手帖で鼎談したときのことを思い出した。谷川俊太郎の『こころ』のなかにある「悲しみについて」。その三連目に「悲しげに犬が遠吠えをするとき/犬は決して悲しんでいない」という行があり、池井昌樹はこの「犬は詩のことだ」と言った。さらに朔太郎の「月に吠える」まで出してきた。秋亜綺羅も「そう思う」と言ったので、私は、思わず「ほんとうにそう思った?」と秋亜綺羅に問い返したりもした。
 私は、どうもそういう「読み方」ができない。
 詩に書かれていることは、「現実」ではなく、ほんとうは何か別のこと、という「読み方」がどうも苦手である。「絶坊」「希坊」は人間のことではなく「絶望/希望」という精神を象徴的(比喩的?)に書いている。そこに書かれている「表面的」なことばをそのままつかまえるのではなく、ことばの奥に動いている「精神」をつかみとり、明らかにする--というのが批評なのかもしれないけれど。批評とは、一般的にそこに書かれていることばから、まだことばになっていない「意味」を引き出すもの、鋭い分析で作者の思想(意味)を引き出すのが優れた批評であると言われているように思うのだが……。
 しかし、私は、そんなふうに読みたくない。「意味」を読み取りたくない。そこに書いてあるのは「意味」ではなく、「ほんとう」だと思いたい。
 「絶坊と希坊」に戻って言えば、そこには二人の子どもが書かれている。それは「絶望」や「希望」と似ているかもしれないけれど、そういう抽象的なもの、精神的なもの、感情的なもの、「意味」ではなく、ただの子ども。そう読みたい。子どもが、わかっているか、わからないのか、好き勝手なことを言っている。きっと「聞きかじった」ことばを真似して、こんなことも言えるんだぞ、と自慢している。互いに、自分の言っていることを心底信じているわけではない。反発しながら、それでも「ふたご」なので、いっしょにいてしまう。「ふたご」なので、違ったことをしていても、その「違い」がどこかでいっしょになっている。その、どこかでいっしょになる、一つになってしまう、ということが知らないことを言っているうちに知らず知らずにその「意味」を肉体で覚えることにつながる。「意味」が「肉体」のなかで生まれてくる感じ。
 そういう「ふたご」のふたりが「見える」ところが、私は好きだ。「意味」なんかつけくわえず、ただ「ふたご」を見ている感じが好き。谷川が「犬」と書いたら「犬」が見える。「ふたご」と書けば「ふたご」が見える。その感じのままで、私はなんだかうれしくなる。
 その「ふたご」に対して女王(母親)は「私は産んだ覚えはないよ/鰐の卵からでも孵ったんだろ」と突き放しているのもいいなあ。こういう乱暴なことはほんとうの母親でないと言えない。愛している実感の方が強いから、ことばでは適当な暴力もふるってしまう。大好きだからこそ「餓鬼ども」と呼んでも平気なのだ。
 「意味」を超えて、感情が生きている。
 「意味」を超えて、「生きている」という、その「生きる」が動いている。「いのち」が動いている。生きるよろこびがそこにある。「希望」とか「絶望」なんて「意味」はどうでもいい。「絶望」と「希望」の「関係」なんて、どうでもいい。「ふたご」が見える、その声が聞こえる、それを見ている母親が見える--三人がいっしょに生きているは、とてもうれしい。それだけだ。
 最後に、唐突に「鰐」が出てくるのもいいなあ。このふたご、そして母親の女王は鰐のいる世界にいるんだ。狂暴な自然。その狂暴さと向き合う肉体。「絶坊」「希坊」の「坊」は、やんちゃな感じがする。それと鰐が似合っていると思う。「希望」「絶望」だったら、まったく違うものになる。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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フェリックス・ハーングレン監督「100 歳の華麗なる冒険」(★★★)

2014-11-14 10:25:19 | 映画
監督 フェリックス・ハーングレン ロバート・グスタフソン、イバル・ビクランデル、ダビド・ビバーグ

 スウェーデン版「フォレスト・ガンプ」と書いてしまうと、もうそれでおしまいのような気がするが。
 ミソは主人公が波瀾万丈の人生を生きるというよりも、 100歳になって、こんな気ままな生き方ができるのは波瀾万丈の人生を生きてきたから、波瀾万丈のなかで何が起きても生きて行けるという「実感」をつかみ取ったから、ということかな。
 いろいろおかしいシーンがあるのだが、私が最初に大笑いしたのは主人公がバスの切符を買うシーン。北欧だからシニア割引がある。(けっこうルーズで、私はノルウェー・ベルゲンのケーブルカーに乗ったとき65歳と言ったら半額で乗れた。)で、係員が「65歳以上?」と聞くのだ。 100歳なのだから、どう見たって65歳以上。もちろん答えをきかずに、「そうだよね」というようなことを自問自答して切符を売る。
 私は自分の経験もあって、大声を出して笑ったのだが、まわりが誰一人笑わない。
 あ、こうなると映画がおもしろくなくなる。かつて大阪のロフトで「フランキー・フランク」を見たとき、私が笑うたびに間を置いてふたつ席を離れたおじさんが笑う。ほかは誰も笑わない。私が笑う、おじさんが笑う。掛け合い漫才のように、少しずれて。私とおじさんの間の女性は映画を見るというよりもひっきりなしにノートに何ごとかを書いている。うーん、だんだん笑いにくくなる。大阪人って、変。
 同じように福岡の人も変かも。
 コメディーなのに12歳未満は見られない制限つきの映画。笑いには皮肉(人間批評)がいっぱいだし、映像もかなりえげつない(ただし血は思いの外飛び散らない)。こういう映画って、声を出して笑わないと、体の中に変なものが溜まってしまう。
 私は最初の私の笑い声があまりにも響いたので(ほかに誰も笑わなかったからね)、あとは抑え気味に笑うようにしたのだが。
 次に笑いをこらえることができなかったのが、やっぱりバスの切符売り場の男が出てくるシーン。男はお爺さんを見張っていなかった(?)という理由で、お爺さんに大金が入った鞄をあずけた若者に暴行される。それで警察に被害届を出しにゆく。そのときの「供述」がまだるっこしい。それで、ついてきた妻がかわりに話のポイントを整理して警官に言う。この間合いが、あ、夫婦だねえ、こういう夫婦いるねえ……と笑わせる。
  100歳の主人公と、たまたま出会った老人が、鞄を追いかけてきた若者を冷凍死させてしまったあとのエピソードもおかしい。死体を捨てにいく途中、サッカーを教えている男(高齢者)に目撃される。その目撃したことを警官に聞かれ、説明するとき、「いっしょにいた若者はあいさつもしない」と苦言をつけくわえる。死んでいるからあいさつなんかできないのだけれど、そうか、老人は若者があいさつをしないことに不満を持っているのか、ということがわかる。そこに若者に対する批判もあれば、老人の人生観へのめくばりもある。
 どのシーンも、こういう感じ。
 いかげんな感じのストーリーなのだけれど(映画だからいいかげんでいいのだけれど)、その細部がいいかげんではない。きちんと人間を見ている。瞬間瞬間にあらわれる、そこに生きている人間の「本質」のようなものがちらりちらりとのぞく。そのちらりちらりがいい。
 波瀾万丈なのだけれど、そこに「こういう人いるなあ」と感じさせるものがある。こんなことでよく生きてこれたなあ。こんな感じだから生きて行けるんだろうなあ、とも言える。で、見終わったあと、こんな感じで生きていきたいなあ、と思う。人間なんて、いずれは死ぬのだから、好き勝手をした方が勝ちなのだ。
 あ、もっと大声で笑いつづければよかった。そうしたらもっと楽しくなれた。もっと笑えば、誰かがつられて笑い出したかも。観客が笑ったからといって映画そのものが変わるわけではないが、いっしょに笑うとみんなで見ている、これが映画だって気持ちになれるからね。
                       (2014年11月12日、KBCシネマ1)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/



窓から逃げた100歳老人
クリエーター情報なし
西村書店
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映画館のロビーでチラシを見ていると

2014-11-14 00:06:53 | 
映画館のロビーでチラシを見ていると

映画館のロビーでチラシを見ていると、そのひとは近づいてきて、
「新しいチラシを見るとたちまち
これから見る映画よりもチラシの映画を先に見たくなる」
とはしゃいだ声で私に言うのである。

このことを詩に書くには四行目を別なことばにしないといけないのだが、
「どうして先に見ることができないんだろう、
時間は、未来だけどうして律儀にしかやってこれないのだろう」
私はそのひとに答えてしまって、答えながら
自分の声がそのひとを無視しているような響きに悲しくなった。
過去は、そのひとと最初にあった書店も、
そのひとと別れることにした公園も順序を入れ換えながら何度もやって来るのに。





*



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北川透『現代詩論集成1』(13)

2014-11-13 12:26:02 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(13)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十二 放棄の構造 鮎川信夫覚書

 北川は鮎川の詩がリアリティを失わないのは、鮎川の詩が「独特の放棄の構造」を持っているからだと言う。これを補足して、

彼の放棄は東洋的な無への方向をもたない。日本的な美意識に癒着しない。自然回帰の気配を見せない。生活的な実感主義や心情告白に行かない。      ( 261ページ)

 と書き、さらに、

「詩法」に《生活とか歌にちぢこまってしまわぬ/純粋で新鮮な嘘となれ》という詩句があるが、彼の自己放棄は、この《純粋で新鮮な嘘》に対する感性を、決して崩そうとしないのである。むろん、放棄とはそれでたい後退的な心性だが、鮎川の場合、それが同時に世界に対する悪意であり、拒否であり、そして自由でもあるような場所に成立するのは、自己放棄が自己救済でもある回路を断ち切っているからであろう。  ( 261ページ)

 と説明しなおしている。
 このとき「放棄」と「自己放棄」という二種類のことばがつかわれている。これが、私にはよくわからない。
 この「放棄(自己放棄)」を北川が分類している「三つのモティーフ」と関係づけるとさらにややこしい。北川はその三つを、以下のように分類する。
(一)文明批評と戦争体験を踏まえたもの
(二)私性の闇
(三)老年の心境
 (一)は、個人的体験を超えた体験と言えるかもしれないので「自己」中心的なことばではないかもしれない。しかし、どんな体験であっても「自己」の体験である。戦友をなくしたという体験を踏まえて鮎川はことばを動かしているように思える。そこから「自己」を抜き取ってしまうのは、あまりにも乱暴な気がする。(二)は「私」性というくらいだから「自己」が不可欠である。(三)も鮎川の心境だから「自己」が必然的に含まれる。私には、どうにもよくわからない。
 で、最初に引用した文章から推測で書くのだが、北川がここで問題にしている「放棄(自己放棄)」というのは、「表現」に限定されることがら、「修辞」の問題なのではないのか。鮎川は、日本人が知らず知らずに指向してしまう「無」への共感、日本の伝統的な美意識、自然への共感、生活の実感にたよらない表現をめざすということに限定されているのではないのか。「無意識の自己放棄(無意識的自己の放棄)」と、そこに「無意識」を補って読む必要があるのかもしれない。
 そうだとすると「修辞」は「無意識の修辞」、無意識のことばの運動ということになると思うが……。
 「死について」という作品に言及した文章。

この自己批評的な軽みこそは、わたしが先に消去法で述べた東洋やら日本やら、自然やら生活やらに固執することから、みずからを解放しているにちがいない。それがこの詩人の成熟した近代意識というものであろう。              ( 269ページ)

 そうすると「修辞」というのは、単なる表現上の問題ではなく、「修辞」こそが「意識(思想)」ということになる。
 そうであるなら、これまで北川が書いてきた「理念」というのは、どうなるのだろうか。「理念」は「意識的修辞」と同じにならないか。「意識的修辞」に「理念」がやどることにならないか。
 鮎川は、それまでの日本の詩が無意識に採用してきた「無」「日本的美意識」「自然感覚」と連動している「無意識的修辞」を拒絶し、違う方法で「意識的に修辞」する。その「修辞における意識」の確立を目指しているということにならないか。

 --これでは、私の「感覚の意見」を書いているだけであって、北川の論に対する感想にならないかもしれない。
 私の個人的な体験を書けば、「荒地」は、かっこいい「修辞」のかたまりであった。わたしにとっては詩はもともと「修辞」の形であった。そこに表現されている「理念」に共感しているのではなく、かっこいい「修辞」にひかれて読んでいるだけであった。あ、これを真似してみたい。そして、実際に何度も「コピー」というか「盗作」をしながら、「意味」を考えるのではなく「修辞」の方法を手に入れようとした。
 私が「剽窃」しつづけた修辞の中にある意識が重要であり、それが「荒地」を特徴づけていると北側は言いたいのだろうか。

 詩にとって「理念」とは何なのだろう。「修辞」とは何だろう


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)

2014-11-13 09:59:33 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(6)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「おやすみ神たち」も裏側が透けて見える紙に印刷されている。「今朝」と同じように「ざらざら」の面にことばが印刷されている。詩の裏側は写真で、その写真がかなりくっきり見える。
 詩は見開きの長い作品。その右側のページには、「今朝」を読んだときに透けて見えた滝を裏側からもう一度透かしてみる感じで見える。滝のある世界の裏側、あるいは奥から滝を見ている感じ。空を飛んでいる鳥の写真を見たあとの、裏側から真っ青な「空」そのものを見た感じと共通するといえばいいのか。空(鳥)の写真の場合、そこには青しかなかったが、今度はことばが書かれている。世界の内側で、ことばが動いている。そして、その動きは「今朝」の側からは見えない。「今朝」から見える世界(現象)の裏側(深奥)からだけ見える。しかも、それは「ことば」として見える……。
 詩の半分(後半)の裏側には何やら幾何学模様。円と放射線が組み合わさった抽象的な図柄が透けて見える。滝の裏側に入って見つめなおした世界を抽象化して図形にすると、世界はそういう見取り図になる? そういうことを考えてみたい衝動にかられる。
 ことばを読みながら、そのことばが何か違ったものになりたがっているのが、ことばの裏の写真(それは現実の裏側?の写真、撮った写真ではなく、撮ることで必然的に抱え込んだ裏側なんだけれど……)から見えるような気がする。裏側から見てしまった(?)わたしが、かってにことばの欲望を感じているだけなのかもしれない。私の欲望をことばの欲望と言いかえているだけなのかもしれない。
 --こういうこと(いま書いたこと)は、妄想の類の、想像力の暴走に過ぎないのだけれど、本を読むというのは、そういう暴走を抱えながら、そこにとどまり、書かれたことばと向き合うことなんだろうなあ。自分の中に生まれてくる暴走を、そこに書かれていることばで整理するということもしれないなあ。
 あ、何を書いているか、わからなくなりそう。

 印刷の「見かけ」ではなく、谷川のことばを読んでみる。

神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから

 これは何かなあ。どの行にも、知らないことばはない。けれど、わかったようでわからない。「名づけると神も人間そっくりになって/すぐ互いに争いを始める」というのは、そのわかったようでわからないことのチャンピオンのようなものだ。人間はたしかにひっきりなしに争い(喧嘩/自己主張)をするからなあ。でも、それと「神」との関係は?
 うーん。
 次の連で、谷川は一連目を言いかえている。(と、思う)

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから

 一連目を言いかえているというより、「人間と神との関係」を別の角度からとらえなおしているといった方がいいのかもしれない。人間が、ことばにしろ、なんにしろ、あまりにも何かをつくりすぎる。(こうやって、私も、ことばを書きつづけているが。)でも、神はそのつくったもののなかにはいない。神がつくったのではないのだから。いるとしたら「コトバとコトバの隙間」、あるいは「創造物と創造物の隙間」にいて、それらをそっとつなぎあわせているのかもしれない。つなぎあわせということで、「コトバ」や「創造物」を支えているのかもしれない。--と谷川は書いているわけではないが、私は勝手に考えた。
 でも、それは神がしたいことなのかな? 神がしなければならないことと感じてやっているだけのことなのかな? しなければならない、そうやって人間を支えなければならないと神は責任感を感じているのだろうか。そういう生き方が神の「必然」なのだろうか。私のことばはどんどん暴走してしまうなあ。「論理」にならない。

おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが

いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--

私は神たちに子守唄でも歌ってやろう

 神たちに呼びかけながら、人間の行為を反省している。
 「意味」が非常に強い。言いかえると、谷川が言いたいと思っていることが、ここには非常にたくさんつまっている。どの詩も同じようなことを言っているのかもしれないが「非常にたくさん」という印象がする。それは、この詩が「論理的」だからである。「論理」を感じさせるからである。二連目の「彼ないし彼女ら」という言い回しが象徴的である。「神」が「彼」であるか「彼女」であるか、単数であるか複数であるかは、どうでもいいことである。だから三連目でも「たったの一人でも八百万でも」と言いなおされているのだが、こういう「言い直し」は批判への自己防禦のようなものである。神には「彼」だけではなく「女神」もいるというようなことを誰かが言い出すと、それに対してもう一度答えなければならない。そういう「めんどう」をあらかじめ「彼ないし彼女ら」ということばで封じておく。それは「論理」ではなく「論法のひとつ」という見方もあるかもしれないが、文体のなかに「論法」(他人の批判を想定し、準備をする)があるということが「論理」を優先しているという証拠である。誤解されてもかまわない。ほうりだしてしまえ、というのが詩であるとすれば、ここに書かれているのは「論理」である。正確にことばをたどり、「意味」をつかみ取ることを求める文体である。「論理」をたどりやすくするためにことば飛躍を抑える、そしてことばとことばの「隙間」をさらにことばで埋めていっているというような感じが「長い」という印象を与えるのだと思う。
 で、この本でおもしろいなあ、と思うのは……。
 そんなふうに谷川が一生懸命「論理」を動かして、自分の言いたいことを書いているのに、その詩の印刷の仕方が、これまで読んできた詩のなかでいちばん読みにくいということである。論理をたどろうとする意識を印刷が邪魔する。白い紙に黒いインクでくっきりと印刷するのではなく、写真を印刷した紙の裏側に印刷している。しかも、その紙を通して写真の「裏側」が見える。真白な紙、裏の透けない紙に印刷された文字を読むようには読めない。
 ことばと写真を向き合わせるというのなら、もっとほかの方法があるはずである。わざわざ、裏側が透けて見える紙に印刷する必要はない。
 でも、これは「わざと」しているのだと思う。
 わざと「読みにくく」している。読みにくいと、どうしても立ち止まる。読者を立ち止まらせようとしている。立ち止まって何をするか、何を考えるか--それは、別問題。そんなことまでは谷川も写真を撮った川島も、本をつくったデザイナーも「強制」はしない。ただ、ちょっと読むスピード、感じるスピード、それから何かを思うスピードにブレーキをかけたがっているように感じる。
 谷川自身もそう思っているかもしれない。
 ストレートに論理(意味)を追わずに、立ち止まって、脱線して、よそ見して、と歳目かけているように感じる。--だから、私は脱線したと書くと、「誤読」の「自己弁護」になるのだが。

 それはそれとして。
 私は、こういう長い詩(論理的に「意味」を語る詩)よりも、ことばをぱっぱっとまきちらした感じの「隙間」の多い詩の方が好きなので、
 そうか、この詩が詩集のタイトルになっているのか、これがいちばん谷川の言いたいことだったのかなあ、これが谷川のこの詩集のなかではいちばん好きな詩なのかなあ、ほんとうかなあ、とちょっと考えた。
 そして、唐突に、また別なことを思った。
 谷川はこの本のなかでは繰り返し「タマシヒ」のことを書いている。繰り返すことで、何かが「生み出されている」。いや、何かが「生まれている」。谷川が詩を作っているのではなく、どこかで、詩の方が「生まれてきている」と言えばいいのだろうか。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し、書く。そうすると、「同じ」であるはずのものが、少しずつ違った形で、ことば自身の力で「生まれてくる」という感じ。ひとつの詩では書き切れなかったものが、「生まれたがっている」。そして、「生まれてくる」。
 そんなふうにして動いていくことばがある、と思う。

おやすみ神たち
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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水の上を雲が

2014-11-13 00:31:10 | 
水の上を雲が

水の上を雲が過ぎ去っていくのを見ていると、
ケヤキ通りで見かけた人のことを思い出した。

その人は物思いに沈んでいて私に気がつかなかった。
一度は近づき、それから離れてしまった人。

つづきを読もうとして間違った本を開いてしまって、
傍線を引いたことばに出会ったみたい。

幻の波。幻の風。
水の上には雲が去った後の十一月の空の青。






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