詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2014-11-05 00:46:05 | 


目を閉じて私の知らないことを考えている
目をあけて遠くの木を見ている、うっすらと色が変わった葉っぱ。
どうしてそれを見ているとわかるのだろう。
間を置いて、ときどき悲しみが入り込んでくる。

どうして悲しみということばが私のこころに浮かんできたんだろう。






*



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伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」ほか

2014-11-04 10:47:54 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」ほか(「朝日新聞」2014年11月02日朝刊)

 朝日新聞の「生活面」。そこに伊藤理佐「鼻息顔のおばさんの親切」という文章がのっていた。
 貧乏だった学生時代、大学の学生食堂を利用している。夕方4時をすぎるとおかずがセールになる。「昼は200円とか300円で売っていたおかずを100円で売り出す」。伊藤はそれを目当てに通う。ある日、おばさんが「あなた今日はいくら持ってんの?」と聞く。「200円」と答えると、なぜか4皿渡される。びっくりしながら、「取り消されないように」テーブルも運び、食べる。「チラッと見ると「ふんっ」という鼻息顔でおばさんは次の仕事に移動する」。このおばさん、昼に会っても知らん顔。無視する。しかし、夕方は……。

夕方は口をきいてくれる。質問はもう「いくら?」だけになった。「150円です」と答えると3皿出してくれる。200円だと4皿。
 そしてタヌキは太った、じゃなくて大きくなった。45歳。もしかしてわたし、今、おばさんより年上じゃないか? ……タヌキはそんなふうに人にやさしくしたい、いや冷たくしたい、と思うのだった。

 あ、いいなあ。うれしくて、文章を最初から読み直した。それだけではおさまらず、こうやってここに引用している。
 何がいいのか。私は、理屈っぽい人間なので、そして、詩の感想を書いているので、ちょっと詩と関係したことを書いておく。
 最後の「冷たくしたい」がいいのだが、それがいいのは「冷たくしたい」というだけでほかのことを言わないからだ。「冷たくしたい」のほんとうは「冷たい」とは違う。むしろ、その前の「やさしくしたい」である。
 「やさしくしたい」のだけれど、その「やさしく」はベタベタした感じではない。知らん顔。何かした後「ふんっ」と横をむいて無視するような方法。気を配るけれど、なれなれしくはしない。距離をおく。この距離感を「冷たくしたい」と言っている。
 行為は「接続」しているが、人間関係は「切断」している。個人的な関係はない。あくまで、食堂のおばさん、客という「事務的接続」。その「行為」を超えない。
 言いなおそうとすれば、いろいろに言いなおすことができる。そして、何度でも言いなおしたい気持ちになる。あの親切。そのこころ配り。きっと伊藤のことを思えばこそ、セールのさらに半額サービスはするけれど、ほかは無視する。伊藤がほかのことでも「甘える」ようになってしまっては困るからだ。それでは伊藤が「大きく」なれない、とかね。
 でも、そういうことを書かない。そういうことは読んだ人がかってに思えばいい。そして、そういう人がいるなあ、ということを思い出せばいい。
 いやあ、ほんとうにうれしくて、私はまた伊藤の文章をまた読み返しているのだが、ここからちょっと脱線する。
 2日の日記で「短い詩」について書いた。「ビーグル」25の特集に載ってる詩は行数こそ短いが、とても長い印象がある。それに比べると伊藤の文章は長い。長いけれど、とても短い印象がある。短いからすぐ読める。だからもう一度読みたいとも思う。
 で、その「短い」という印象を作り出しているのが、最後の「そんなふうにやさしくしたい、いや冷たくしたい、と思うのだった。」という文章。「やさしくしたい」と「冷たくしたい」という矛盾したことばが衝突している。「やさしく」の方は前の方にていねいに書いてあるのに、「冷たく」の方は説明がない。省略というよりも拒絶しているとさえ言える。わからなければわからないでいい、かってに考えて(感じて)という具合だ。
 この「省略(拒絶)」が文章を短くしている。
 ふと思い出したのだが、佐多稲子の「キャラメル工場」の最後、少女が便所で先生の手紙を握り締めて泣く場面も、いろいろなものが「省略」されている。そのときの少女の「思い」はまったく書いていない。説明が拒絶されている。拒絶されているのに、そこに動いているこころが手に取るようにわかる。「肉体」がかってにわかってしまう。で、その拒絶に会って、それでも「わかってしまう」何か、その「わかる」ということを確かめたくて、もう一度、この小説を読み返そうと思うのだ。そこに書かれていないことは、それまでのなかにきっと書かれている。だから読み返したいという気持ちにさせられる。
 伊藤の文章にもどると、伊藤は何度も何度も「ふんっ」というおばさんの拒絶に会っている。拒絶されるから何度でも会いたい。何度でも思い出したい。拒絶のなかに、ことばにならないもの、「肉体」でそのままつかみとるしかないもの、自分の「肉体」で返していくしかないものがある。
 省略(拒絶)が、不思議なことに「距離」を短くする。たぶん、その「距離(間/行間?)」のなかにあるものを自分でさぐりはじめる、自分のことばで考えはじめる--そういうことが「短く」ということと関係があるのだ。

 「ビーグル」の「短い詩」には、その「拒絶」がない。「距離」を説明(感情)で埋めてしまっている。そのために、とても「長い」感じがする。
 たとえば、宮内憲夫「オアシス」。

砂漠の真ん中、一握りのみどりに
まぁーるい小さな水たまり
太陽が作る、光の皮膜
水面の、そこを歩けるのは
あめんぼう、だけ
足もとを支える星のやわらかさ
どこから、来たのか?
だぁーれも、知らない

 ここで終われば「短い詩」なのに、

小さく、静まりかえった泉に
ゆっくり釣り糸を垂れて
ほっこりする
大きく、やさしい心を釣った

 「大きく、やさしい心」など、説明されたくはない。うんざり。もっと「冷たく」してよ、といいたくなる。
 峯澤典子「桃」も似た感じ。蜜をこぼす桃を描いているのだが、その2連目の

夜よりも
はるかにおもい
球体のひととき

 これが詩を「長く」している。「夜よりも/はるかにおもい(重い)」かどうかは、読者のかってに任せるといいのだと思う。
 しかし、山村由紀「煮干し」になると、何とも難しい。

タッパーのフタをいきおいよく開けたら
煮干しが床に散らばってしまった

   こ
  し し    つ つ
       へ ー
 し く し    く
    フ    レ

床で煮干しが文字になる
声はないのに声がする
白く乾いてくぼんだ目は
見えなくなった今も
とおい海をさがしている

 最後の三行はない方が「短い」。けれど、それがないと「声」がどんな声か想像するのが難しいかもしれない。
 それでも。
 私は、やっぱりない方がいいなあ、と思う。音楽的な印象が「とおい海」によって、「視覚」にもどってしまう。煮干しの形(視覚)から「文字」を引き出したのだから、山村の意識が視覚へ収斂していくのは自然なことなのだろうけれど、収斂する前の、「声」の部分が、瞬間的に世界が広がる(世界が新しくなる)のでおもしろい。ひらがな、かたかなの、「意味」になるまえの、音、音の形の音楽が楽しいのになあ、と思う。広がったまま、開かれたままの世界がいいのになあ、と思う。


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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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荒木時彦「drawing 」、時里二郎「言葉の裂(きれ)」

2014-11-02 12:28:47 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「drawing 」、時里二郎「言葉の裂(きれ)」(「ビーグル」25、2014年10月20日発行)

 「ビーグル」25が「作品特集・短い詩」を組んでいる。私は長い間詩を書くことを止めていたので、最近はリハビリリのようにして短い詩を書いている。私の場合は、短さを狙っているわけではなく、単に長い詩が書けないというだけのことなのだが。一方で、小学生や中学生のとき書いていた詩(宿題や何かで書かされた詩)は20行も書かなかったなあという思いもある。漢詩絶句も短いよなあ。短いのが詩の本来の形かなあ……。
 ほかの詩人はどんな「短い詩」を書くのかな、という興味で読みはじめたが、うーん、どれも長い。とても長い。どの詩も1ページに納まっているから、行数としては「短い」のだが、印象としては「長い」。
 どうしてだろう。
 そう考えながら読み進んで、荒木時彦「drawing 」。あ、これは「短い」。

コップの水を飲む

          小鳥が

  鳴いている

  内側から外側へ
移動

頭上に見えるのは空だ

 「短い」と感じたのは、ことばがばらばら(?)に配置されているからかもしれない。(ブログでは詩の形を正確に再現できない。「ビーグル」で確認してください。)空白がことばを短く感じさせる。
 それだけではないようにも思う。
 ことばが指し示している「対象」が身近でわかりやすい。これも「短い」には重要なのかもしれない。知っていることばの方が知らないことばよりも「肉体」になじむ。「肉体」が覚えていることばがはすばやく動くので「短く」感じるのだと思う。
 さらに。
 この詩の動きの中心になるのだと思うが、「内側から外側へ」ということばが複雑である。ことばそのものは単純だが「複雑」に読むことができる。
 「内側から外側へ/移動」したのは、誰か。
 情景としては、書かれていない「私(主語/話者)」がコップの水を飲んでいて、そのとき小鳥の声が聞こえたということなのかもしれないが、そのあとに「内側から外側へ」ということばが来た瞬間、私には、小鳥がコップの縁に止まって水を飲んでいる姿が見えてしまった。小鳥がコップの縁の円周を歩きながら水を飲んでいる。囀りながら水を飲んでいる。そのときの円周の動きというのは「内側から外側へ」ではなく、円周上の移動なのだが、水がコップの内側にあるために、一瞬錯覚したのだ。コップの水はどこから飲もうと一様に減っていくのだが、小鳥はいま飲んでいる場所の水が減ったので、水の外側(円周)を移動しながら、もっと水の多い「内側」を探して移動する。それは物理的には「内側から外側へ」という移動ではないのだが、小鳥の気持ち(?)としては、こっちの「内側」はだめだから、あっちの「内側」の水を飲むために、とりあえず水の「外側」を移動していく、という感じ。
 こんなことは、書いていない。「誤読」である。
 だから、というと強引になりすぎるのだけれど、だから詩である。だからおもしろい。何か「誤読」を誘うものがある。読み終わった瞬間、さっき感じたことは「間違っている」なあ、と思う。思いながら、その「間違い」はおもしろいかも、と思う。そこに詩はないだろうか。
 作者の気持ちは気持ちとしてあるのだろうけれど、それを無視して、私(読者)の気持ちがかってに動く。かってに動いて、いままで気がつかなかったもの(こと)を、「わかった」ように感じる。そういう瞬間が、詩なのではないかなあと、私は思っている。
 そういうことが、荒木の詩、特に「内側から外側へ」ということばに出会ったときに起きた。そして、この詩が「短い」ので、その印象が、そのまま詩全体の印象になる。印象の核になる。その一行のなかに、詩の全部があるという印象になる。
 これが「短い」ということなのだろうと思った。

 あ、「頭上に見えるのは空だ」という行が残っている?
 これは、鳥になった私が水を飲み終えて、空へ帰るために空を見上げているところ。
 荒木は、部屋の内側にいて水を飲み、鳥の声を聞いて部屋から外側へ移動し(部屋から庭とか、ベランダとかに出て)鳥はどこだろう、とまわりを見まわした。鳥は見つからなかったが、高い空が見えた--ということを書いているのかもしれないけれど、私はすっかり「鳥の気持ち」になってしまった。

 と書いただけでは、実は「嘘」の感想になる。
 この詩は、実は「後半」がある。あるいは「別のもう一篇」なのかもしれないが。「*」マークをはさんで、次のことばがある。

湖面には様々なものが映っている。空や雲、水際の木々の葉や、湖上を飛び交う鳥、光の粒、自分の姿。小石や砂、水草、小さな魚が透けて見える。湖面では、映っているものと、透けているものが、すべて等しく見える。湖の底がどのようになっているのかは分からない。しかし、湖の深さというものは、その湖面そのものに宿っているようにも思える。

 うーん、とたんに詩が長くなったという感じがする。「散文詩」でことばがつまっている。ことばとことばの間に余白がないから、ことばが長々と連続していると感じるのか。ことばのそれぞれが独立した感じがないから、長いと感じるのか。
 「しかし」ということばが、とても私には「浮いて」見える。そこには「もの」ではなく「論理」が動いているからかもしれない。もの(こと)が単に描写(ドローイング)されているだけではなく、「論理」が入り込んでいるから長く見えるのかもしれない。「論理」というのは、作者(荒木)がつくり出した「論理」である。荒木は、こう思っている。それを読者も受け入れてほしい--そういう感じで「論理」が動く。「論理」というのはいつでも、話者の「論理」の押しつけになる。
 (「しかし」以前に、「すべて等しく見える」という部分から、実は「論理」は始まっているのだけれど、ちょっと面倒なので、いちばんわかりやすい「しかし」ということばを例に書いたのだけれど……。)
 で、この「論理の押しつけ」(意味の強要)という点から、コップの水と小鳥の部分にもどると……。
 その前半には「論理」のことばがない。「内側から外側へ」というのは非常に物理的で明確なことばだけれど、「内側」と「外側」の説明を荒木が省略しているために、そこに「論理」が見えない。「論理」が欠落している。その結果(?)、「論理」は、そのことばを読んだひとが自分でつくらなければならない。もし、論理を必要とするならば。
 私はとても理屈っぽい人間なので、その「論理」の欠落を補ってしまう。主語を「水を飲む私(人間/詩人)」ではなく、「水を飲む小鳥」にして「論理(意味)」をつくってしまう。
 「論理」というのは繰り返しになるが、それを言うひとが自分の都合にあわせてつくりだすものである。自分で納得し、その納得を他人に押しつけるための方便として「論理」というものがある。
 私の「誤読」は、私の「かって」なのである。そして、こういう「かって」が許され、好きな風に「意味」をでっちあげることができたときに(好きな風に自分が納得できたときに)、私は詩を感じているのだ。それを詩と読んでいるのだ。

 あ、「短い詩」というテーマ(?)から、ずれてしまったかな?
 そうでもないのかな?
 「論理」を押しつけてくると感じられることばは、それがどんなに短くても「長い」と感じてしまう。あんたの論理なんか聞きたくない、という気持ちになってしまう。「聞きたい」という気持ちが強ければ、「長い」とは感じないということかもしれないけれど。

 もうひとつ、長さ、短さについて時里二郎の詩を読みながら思ったことを書いておく。「言葉の裂(きれ)」。

むへ ぬち たげ わか やよ そひ
綾にからまる消息の驟雨の向こう
きいろい空をふく かぜ
急ぎあしをたばねて
やも ひけ むせ ほき
めかくしをして 少しずつ口写しに
鳥のかたこと 鳥のことかたを
かたり たかり かりたたた かたりりりり

 わーっ、美しい、と思わず声を上げてしまう。
 「むへ ぬち たげ わか やよ そひ」というのは何のことか。わからない。次の行を読むと「綾」に関する「呼び方」なのだろうという推測はできる。「綾」には幾種類もあり、そのひとつひとつに名前をつけているのだと推測できる。(誤読できる。)その瞬間に、「暮らし」が見える。ひとが見える。ひとの動きが見える。見えるといっても、私には「綾」の区別ができないから、それがはっきりわかるわけではないのだが、ひとが「綾」を織っている姿、そのときの手の動き、糸の選び方なんかが、ぱーっと広がって見える。
 断片的なことばなのに、「情報量」が非常に多い。非常に多いのだけれど、ひとつひとつが明確な結晶になっている。ことばにぶれがない。強いことばだ。この強靱さが、詩を「短い」と感じさせる。ほんとうは膨大な「長さ」をうちに秘めているのだけれど、「暮らしのなかの作業の充実(肉体の動かし方の定型化法)」「人間の動き」がくっきり見えるので「長い」と感じない。
 「論理(綾の織り方)」が「肉体」となって、そこにある。ことばのひとつひとつが「肉体」をともなっている。そういう感じだな。
 その「肉体」を時里は「口写し」で自分の「肉体」のなかに入れている。小鳥の囀りのような、短いことば。そのことばのなかにある充実をそのまま時里の肉体にしようとしている。この「交渉」が美しい。
 どんなに短くても、世界と明確に向き合えることばがある。短いけれど、とても長いことばだ。そこにある時間はとても長い。けれど、瞬間として結晶化できることばがある。「短い詩」というのは、きっとこういうことばでできている。
 「神話のことば」(ことばの神話)と言えるかもしれないなあ。

 でも、この詩にも実は後半がある。

名井島(ないじま)の博物館に保管されている 言葉の裂(きれ)を見てまわる
とひ ひづ まん ゆふ さひ
既に詩はヒトのものではなく 言語に特化したアンドロイドの詩の時代
あの大異変(カタストロフ)を詩に記したら彼らのほとんどは廃棄された
回収された言語チップに残されていた最後の言葉の破片が凍結保存されている
ことのはに瓦礫はない ことのはに終息はない
ことのはの産毛(うぶげ)のひかり ことのはの息のもがき
みわ うれ さへ かめ              あは

 この部分を読むと、私が「綾」と思ったのは、実は「方言」のことだとわかるのだが、まあ、それは置いておいて……。
 とたんに詩が長くなったという印象に変わってしまう。ことばが独立していない。ことばが何かを「論理的に語る」ための要素になっている。
 豊かな方言が破壊され、いまは、断片として収集・保管されている。そのことばは「口語」として「肉体」から出てくることはなくなってしまった。しかし、どのことばも「瓦礫」ではない、ことばのなかにある「息」をひきつぐ必要がある。「ことば」はどれも美しい--そういうことが書かれている、とわかる。
 時里のいいたいこと(主張)はとてもよくわかる。
 でも、「主張」がわからなかった前半の方が、私にはとても美しいと思える。美しさは「論理」とは無関係に存在する。この「無関係」が充実すると、詩は「短い」ものになる。「裂(きれ)」、つまり「織物(ストーリー)」から切り離された断片のことば(方言)、文脈から独立した(文脈から無関係になった)ことば--そこに詩の根源があるように思う。根源を直接つかめば、それは「短い詩」になるのだろうなあ。

memories
荒木 時彦
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石目
時里 二郎
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走り去った雨が

2014-11-02 00:57:56 | 
走り去った雨が

走り去った雨が夜また警固の四つ角にもどってきた。
ビルの窓のなかへ引き返した明かりも再び雨のなかへ広がってくる。

北へ向かう大正通りのアスファルトに両側の光が集まってくるのは
雨粒が風に舞って乱れるからなのか、

ビルの間を落ちてくる空の暗さに押さえつけられてなのか、
長い長い逆さまの、輪郭のうるんだ町が生まれる。

バス停の立ち話は肩がぬれた透明な影になり、
「あしたは澄んだ晴れの真昼と、美しい夕焼けになるだろう




*



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暁方ミセイ『ブルーサンダー』

2014-11-01 10:32:33 | 詩集
暁方ミセイ『ブルーサンダー』(思潮社、2014年10月25日発行)

 私は宮沢賢治の愛読者ではないから表面的な印象なのだが、暁方ミセイ『ブルーサンダー』を読むと宮沢賢治を思い出してしまう。
 「クラッシュド・アイス陽気」の2連目。

こんなに滅多な光の渦なのだから
こちらは分離作用の澱のほうで
よく澄んだ藍色のこの上空に
さらに清澄な上澄みの液があるだろう

 「こんなに」という副詞のつかい方、「こちらは……のほう」という言い回し。「この上空」の「この」という指示詞のつかい方。指示詞をつかうことで対象を引き寄せる感覚。そのリズム。さらに「分離作用」という硬いことばと「清澄」を初めとする透明感のあることばの出会い。その奥に「澱」という不透明なことば。硬質で非流動的なことばが、輪郭をしっかりたもったまま動いていく。透明な光に満ちている。

岩場の青色に、濃いアサガオが自生していた。
光ががしゃがしゃと乱雑な、音を立てながら、)

 という部分の「青色」という色彩、さらに「がしゃがしゃ」という音と「乱雑」ということば(音)と衝突具合も、なんとなく賢治を思い出させる。

硬質な空や大気が
割れて、割れて、
ワールド・ビジョンに新しい
報告をもたらしてくれる。

 この最後の部分は、ことばの運びというよりも「意味/内容」が賢治を連想させる。硬質なものが割れて、そこから新しい世界が噴出する。鉱石を割って、その中心から結晶を取り出す感じ--そういうものをめざすことばの運動(思想)のあり方が賢治を連想させる。
 「薄明とケープ」の

むこうで怒りを食んでいた牛が、腹をすかすかに透き通らせて、区界の枯れ野を駆けていった。

 の「牛が、腹をすかすかに透き通らせて」というのは、牛という生き物さえも鉱物のように把握していて、あ、すごいなあ、と思う。賢治を連想させるけれど、賢治を超えている(かもしれない)。私は賢治をそんなに読んだことがないので、印象なのだけれど。
 で、こんな具合に、誰かを連想させることばというのは、私は嫌いではない。むしろ、好きである。賢治をとおして、暁方自身のことばを鍛えている。迷ったときは賢治にもどって考え直す--そういう「正直」にふれる感じがするから。そして、その正直が、いま引用した「牛が、腹をすかすかに透き通らせて」というような斬新なことばとなって動く。こういうことば(誰かを連想させるけれど、その誰かを突き破ってオリジナルに達したという感じのことば)は、誰かのことばを心底愛したあとでないと出て来ないと思う。

夜がひらく。
それは目で轟音をきく。耳には届かないで、空が裂けていく。
橙と濃い青が互いに捕食しあい、             (「ヒヤシンスの夜」)

体温に近い夜が淀んで、
ゆっくり掻き混ざっている。
オレンジ色の花がたくさん落ちている橋の上を行き、
信号のように発されるにおいは、
ふいに核心にとどく。                   (「瀬音と君の町」)

 「目で轟音をきく」の視覚と聴覚の融合、「信号のように発されるにおい」の視覚(信号)と嗅覚の融合、あるいは感覚器官の越境といえばいいのか。この融合/越境が、硬質なことば、透明な色のことばの化学反応(?)によって起きている。

 断片ばかり引用していては、なんだか申し訳ないので……。
 「長野幻視」を全行引用する

冷たい太陽がいっそう弱く暗くなって、
やわやわと煙る影が流れるのをみていた。
山の上で稀薄な気象の発生が絶えず続けられ、
雪原は黄色く陰ったり、
また薄い呼気のように陽光が洩らされたりした。
雪はいちめん、
青く凍って、
溶けない樹氷がいっこの種族のように立っていた。
林。その枝々には赤や青のオーナメントがかかっている。
それらは微弱な陽をうけて、きらきらと忙しなく光り、
かつての冬の思い出のように光り、
瞑想を続けて歩く僧侶が
みずいろの影のなかに
いましがた
ずっしりずっしり重なり消えていくところです

 前半の風景描写、「雪原は黄色く陰ったり、/また薄い呼気のように陽光が洩らされたりした。」という2行が、とても美しい。「黄色く陰」るということばのなかに明るさと暗さ(影)の透明な衝突があり、「陽光(視覚、だろうなあ……)」が「呼気」のように「洩らされる」とき「感覚器官」ではない「肉体(呼吸器官、肺や喉、あるいは鼻腔もあるかも)」のなかへ動いていく。「すかすかに透き通」る「牛の腹」ではないが、「肉体(全身)」が透明になって、世界と一体になる感じがいいなあ。
 自分自身の「肉体」が広々とした雪原になる。そのとき、その向うでは樹氷が人間(種族)になる--人間と自然のいれかわり、区別のない融合。
 そこから「瞑想を続けて歩く僧侶」が、暁方の「精神」の象徴として動きはじめるのだが、「精神」そのものを強く主張するのではなく、「きらきらと忙しなく光り」(忙しなく、が賢治っぽいリズム)、「みずいろの影」という視覚の運動としてあるところが、気持ちがいい。「いましがた……ところです」という賢治っぽい言い回しが、なんといえばいいのか、帰るところがある安心感となっているのもいいなあ。

 他方、これは賢治にはないのではないか、と思い、引きつけられたのが「二〇一号室とラストダンス」。長いので1連目だけを引用する。(原文1字下げ)

数ヶ月ぶりに見つけた玉葱は
ラックの中で薄緑色のゴムベラに似た芽を、
真上へうねりあげていた。
この部屋を出たら
寒冷な空気に当てられて
すぐだめになってしまうのに
冬にだって命は伸びる
悪臭を抑えるため、セロファンの袋へ封入した後、
最後の数日を
隠されていたラックの上で過ごし
玉葱は、
濃い緑に変じた芽を
まだ自分には一握の未来があり、
そこへ捻じ込もうというように
出口へと伸ばし続けた。

 鉱物ではなく「植物」のなかにある「いのち」。暁方はまだそれをたたき割ってはいない。いや、それはたたき割れない。鉱物のようにたたき割ることのできないもの、たたき割ることで結晶を取り出すことのできないものと向き合っている。
 ここに出てくる鉱物っぽいものは「ゴムベラ」「セロファン」である。どちらも、感触がやわらかい。ゴムベラは不透明、セロファンは透明といえるかもしれないが、この詩のセロファンは透明な感じが弱い。
 ここから暁方はどこへ進むのか、どんな新しい世界を展開するのか、見つづけたいという気持ちを刺戟される。

ブルーサンダー
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車のライトが

2014-11-01 00:45:45 | 
車のライトが

薄暮の街で車のライトがひっきりなしに衝突する、
だれがどこへ走っていくか気にしない。
一本の車線を守り抜くより次々に変えた方がスピードが出る。
知っていることは、それだけだ。

ときどき前の車のバックミラーから跳ね返ってくる輝きがある。
死んでしまったライトの破片だ。
正面衝突した光は反動でビルの壁にぶつかり、信号の柱にぶつかる。
衝撃音は、周波数が違いすぎて聞いたものはいないが、
どんなまぼろしよりも網膜に焼きつく。

ここだ、昔、
信号を無視してカーブしたライトが空を飛び、
横転しながら灯台の光のように一回りした。
そのとき反対側のビルの三階では
宝石を盗んでいた男の影が壁まではねとばされた。
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