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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(5)

2014-11-12 10:39:48 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(5)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「今朝」は「タマシヒ」と対になっているのかもしれない。この詩も裏側が少し透けて見える紙に印刷されている。ただし、印刷の「表/裏」が違う。「タマシヒ」は活字が印刷されている表面がつるつるしている。一般的に紙の表という場合、こちらが表だと思う。「今朝」は「裏側」、手触りがざらざらしている。紙質の違う本を読んでいると、そういうことも気になってくる。そして、その触覚(肉体)の感じが、ことばを読むときの感覚にも跳ね返ってくる。
 「今朝」は「タマシイ」に比べて「ざらざら」している、と思う。でも、その「ざらざら」って何だろう。

生け垣に沿って老人が歩いてゆく
それを見ている私がいる

言葉を恃(たの)まずにこの世の質感に触れる
タマシヒというもの

老人と私を点景とする情景を見ている
もうひとりの私もいる

限りなく沈黙に近づきながら
未生の言葉を孕(はら)む静謐(せいひつ)はタマシヒのもの

 「質感に触れる」ということばが出てくるが、「ざらざら」は質感だね。「タマシイ」がざらざら? 違うだろうなあ。
 「今朝」と「タマシヒ」の詩のいちばんの違いは、そこに「私」が登場するか登場しないかである。「今朝」には「私」が書かれている。「タマシヒ」には「私」ということばは書かれていなかった。
 そのため「タマシヒ」では、「タマシヒ」と「私」の区別がつかなかった。知らず知らずに「タマシヒ」を「私の肉体の奥(深部)」という具合に置き換えて読んでしまっていた。「タマシヒ」と「私」を一体のものとして読んでいた。
 けれど、「今朝」ではそういう混同は起きない。「私」が「タマシヒ」について考えている。主語と目的語が分離している。この「分離感」が「ざらざら」の一歩(?)である。
 で、「考える」ので、そのとき、ことばもかなり変化する。「恃まず」という「意味」を説明しようとすると、すっとは出て来ないようなことばがある。「質感」「未生」「静謐」という漢字熟語もある。「タマシヒ」は読んで書き取りをやらせたら中学生なら書き取れるだろう。でも「今朝」はきっと無理。「恃まず」で躓き、「未生」でも戸惑い、「静謐」になると「読んだことはあるけれど」と怒るかもしれないなあ。
 ここには、ふつうに暮らしているときにつかわないことばがつかわれている。ふつうには話さないことばがつかわれている。その「違和感」が「ざらざら」かもしれない。
 で、そのふつうにはつかわないことばで、何かを考える。--ちょっと「精神的」だね。ふつうから離れ、孤立、孤独な感じ。この「孤」が「ざらざら」かな。
 紙の「ざらざら」も紙の分子(?)の突起が孤立している、べったりとつながっていないから「ざらざら」なんだろうな。
 この「孤立/孤独」は、何かを考えるときには必要なことなのかもしれない。人といっしょにいて考えるのではなく、ひとりになって考える。そして、その「ひとりになる」というのは、自分自身からも離れて「もうひとりの私」になることかもしれない。「私」について、「もうひとりの私」になって、考える、見つめなおす。
 「私」自身が分離して、「ざらざら」になっている。
 で、「ざらざら」になって、その「ざらざら」をさらに見つめると、「ざらざら」の隙間(私ともうひとりの私の隙間)から、何かが見えるような感じがする。「ざらざら」は「亀裂」、「亀裂」からはそれまで見えなかったものが「見える」。
 ことばにならないことば(未生のことば)が、その沈黙の、さらに向こうの静謐のなかに「ある」ような感じ。それが「タマシヒ」かもしれない。「タマシヒ」が「雑音の中から/澄んだ声が聞こえる」といった、その「澄んだ」が「静謐」なのかもしれない。

ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
静謐が聞こえてくる

 こんなふうにして、「タマシヒ」の最終連を書き換えると、「今朝」と「タマシヒ」がぴったり重なるように思える。
 ふたつの詩は、ひとつの世界の表と裏という感じがする。表裏一体。それが印刷してある紙面の「紙質」と重なって、「肉体」の感触(ざらざら)といっしょになって動く。

 表裏一体について、もう少し考えてみる。「ざらざら」から離れて考えてみる。
 「今朝」の二連目、四連目に「タマシヒ」ということばが出てくる。この「タマシヒ」はだれの「タマシヒ」だろう。
 「タマシヒ」という詩には「私」ということばがなかったけれど、私は何となく「私のタマシヒ」と思って読んでしまった。「私」と「タマシヒ」を区別しなかった。
 けれど、「今朝」に書かれている「タマシヒ」は「私」ということばがあるにもかかわらず「私のタマシヒ」という感じがしない。二連めの「タマシヒ」には「私の」ということばをつけても違和感がないが、最後の「タマシヒ」を「私のタマシヒ」と読んでしまう気持ちになれない。

限りなく沈黙に近づきながら
未生の言葉を孕む静謐は私のタマシヒのもの

 こんな具合にすると、なんといえばいいのか、谷川が、自分は他人とは違うんだぞ、と言っているような感じになる。「はい、そうですか」と思わず言い返したくなる感じなのだが、そこに「私の」がないので、すっと読める。
 固有の(私の)タマシヒではなく、「タマシヒ」というものを一般的に(抽象的に?)考えようとしている。「私の」ではなく、人が「タマシヒ」と呼んでいるものは何か、ということを「純粋に」考えようとしていると感じる。
 このとき、私も「もうひとりの私」になっているのかもしれない。私から「もうひとりの私」が分離するのを体験しているのかもしれない。
 あ、そうすると、これもやっぱり「ざらざら」か。

 この詩の紙からかすかに透けて見えるもの。白いのは川かな、山の中を流れる川の写真かな……と思ってページをめくると、不思議な滝。私の予想は半分当たって、半分外れたのかな? 山の右側は太陽のせいで(逆光のせいで)輪郭(稜線)がはっきりしないが、それはそのまま「今朝」の詩の裏側の白いページにつながっていて、あ、この白いページは逆光か。逆光では、そこに何かがあるのはわかるけれど、そのものを明確に見ることができない。「タマシヒ」と、そんなふうにして逆光のなかで感じる「存在感」のようなもの?
 写真の逆光(白い部分)には、その次の詩の文字が裏返しになって動いているのが見える。それについては、またあした(あるいは後日に)、書こう。
おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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その人は、

2014-11-12 01:11:13 | 
その人は、

その人はときどき戻ってきた。
本のページを前後させて読んでいるとき、傍線を引いたことばに出会うように。

その人はときどき戻ってきた。
私のこころに、





*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(4)

2014-11-11 10:21:58 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(4)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「タマシヒ」というタイトルの詩は不思議な紙に印刷されている。すこし透けて見える。詩は左側のページに印刷されている。裏側には何も印刷されていない。その次のページが、なんとなく透けて見える。
 で、その詩は、

タマシヒは怖くない
怖がる心より深いところに
タマシヒはいる

タマシヒは静かだ
はしゃぐ体より深いところに
タマシヒはいる

ヒトが目を通して
タマシヒで見つめると
色んなものが
ふだんとは違って見えてくる

ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
澄んだ声が聞こえてくる

 この詩も「タマシヒ」は「動かない」ものであるという印象につながる。「怖がる」というのはこころの動き。「はしゃぐ」というのは体の動き(こころの動きでもあるとおもうけれど)。けれど、タマシヒは「動かない」。そして、それは「こころ」よりも「体」よりも「深いところ」にいる。
 その「深いところ」から目や耳を通して見たり聞いたりする、「ふだんと違って」見える。「ふだんと違って」聞こえる。たとえば「雑音の中から/澄んだ音」が。ふつうは、そういうものは聞こえない。
 「タマシヒ」は自分が動かないだけではなく、ほかのものも「動かない」状態にするのかもしれない。このときの「動き」は「動揺」に近いかな? 動揺しているものを落ち着かせ、動揺をとめる。安定させる--それが「タマシヒ」。怖がったり、はしゃいだり、ざわめいたりという「動き」を静める。そうすると違ったものが見える、聞こえる。動き回る奥にある動かないものが見える、聞こえる。そういう状態に「世界」を変えるのが「タマシヒ」なのかもしれない。
 そしてたぶん、その「動かないタマシヒ」「動かないもの/音」は、それぞれ「人間の肉体の奥」「世界の現象の奥」にあるという「意味」で統一される。「奥(深部)」という意味で統一される。
 また、これは私の「誤読」の癖なのだが、

タマシヒはいる

 を私は「タマシヒ」は「いる(存在する)」という「意味」ではなく、「タマシヒ(が)入る」と感じてしまう。タマシヒが何かの奥に入ってく。そして、その奥にある何かをつかみ取る。あるいは共鳴する。(「肉体の奥(深部)」「現実の奥(深部)」に「入る」という動詞を誘う。
 「いる」という状態をあらわすことばよりも、「動詞(入る)」の方が、いろいろなものが違って見えてきたり、澄んだ音が聞こえてくるという動きにあうようにも感じる。
 あるいは「いる」は「ある」ではなくて、「生きている」という形が変化したもの(活用したのも)なのかもしれないなあ。「生きる」が動いているのかもしれないなあ。
 「いる」が「ある」ではなく「生きている」「生きる」だと、動くものしか存在しないという私の世界に対する考え方と合致して、なんだかうれしい気持ちになる。「生きる」だと「入る」という動詞ともつながる。動いていることが「生きる」、その「動き」のひとつに「入る」という動詞もある。
 タマシヒが生きて動いて、働きかけて、それで世界が違ってくる--そういうようなことを、この詩から言ってみたいなあ、とも思う。
 谷川はそういうことを書いているわけではないのかもしれないが、私はそう読みたがっている。
 いずれにしろ(?)、ことばが意味を誘い出す。とても「意味」の強い詩だと思う。

 この詩で最初に驚くのは、しかしその「意味」ではない。すでに書いたことだが、詩を印刷している紙の向こう側に、何かが見える、といことである。ことばと写真(本)が表面と奥との感じをそのまま具体化している感じなのである。
 で、ことばを印刷してある紙の向こう、ことばの向こうに見えるものが何かというと、ちょっと説明にむずかしい。そんなにくっきり見えるわけではないのだから。
 それはページをめくって直に写真を見たときも同じである。いや、写真はきちんと写っているのだが、見なれないものなので、何かなあと一瞬考えてしまう。
 水のようだな……。
 水(泥水)がどこかから落ちている。それが崖の下で水たまりをつくっている。崖の下の方をたたきながら水はたまっているようで、水の落ちているところは波立って(泡立って?)いる。その波(泡)に太陽があたり、周辺が白く光っている。激しい泡の部分は太陽を半分吸収して、半分その光を弾いている。抽象画を見る感じがする。緑の草があり、黒い岩がある。
 この奇妙な水の動きが「タマシヒ」? あるいは、その泥水の底にある透明な水? 濁った水というのは不純物を静めて上の方からだんだん透明になるのだが、もしかするとこの泥水の奥には全ての泥を受け入れる純粋で透明なほんものの水があるということ? 上からこぼれ落ちる泥水の音。その音の奥には音楽になるまえの純粋な音があるということ?
 このあと、本の方は写真がつづいていく。交差点を走る車、ケースにはいったオレンジ(みかん?)、だれもいないテラスにテーブルと椅子、だれもいない真昼の道路を山羊のようなものが二匹走っている。その切り詰められた影。何を煮ているのか、鍋のなかの料理。夜の道路の車の光の流れ。
 そういうものの「奥」にもタマシヒは「いる」のか。生きているのか。


おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社
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なんてくだらない!

2014-11-11 01:30:06 | 
なんてくだらない!

テーブルの上に、秋の光が窓の形をしたまま薄い水のように流れてきた。
はがきが、その上に筏のように浮かんでいた。

なんてくだらない!
言いたいのだが、声にはならず、

中断していたことを再びはじめる前の、
小さな寄り道のように私は窓の外を見つめた。




*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
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藤井晴美『破綻論理詩集』

2014-11-10 10:22:11 | 詩集
藤井晴美『破綻論理詩集』(七月堂、2010年12月15日発行)

 藤井晴美は、とても奇妙な文体を持っている。ことばの「出所(でどころ)」が私の感覚と違っていて、あるいはことばを統合する感覚が違っていて、そのために奇妙な文体と感じるのだが……。「ハロペリドール」という作品の書き出し。

 その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。つまりその臭い
を町のいたるところに感じるのだ。

 私は精液をしぼり出していた。母がもうすぐ帰ってくるかもしれ
ない。私は中学生だった。

 「その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。」というのは、古くさい感じのする「文体」である。その町の名前は女性生殖器の方言と同じなのか。「象徴される」だから、女性生殖器をあらわす方言がそのまま町名になっているのではないのだろうけれど、それではなぜここに「女性の生殖器を示す方言」なんてことばがあるのかなあ。「象徴する」って、どういう意味だろう。何か、もってまわった言い方であり、その「もってまわり方」が堂に入っている。落ち着いている。意味ありげである。落ち着きがつくりあげる「意味」のようなものがある。
 それが「つまりその臭いを町のいたるところに感じるのだ。」と言いなおされるのだが、これもまた何かもってまわっている。わざとわかりにくく書いている。その落ち着いたわかりにくさに、あれっ、と思う。町のいたるところに女性生殖器の臭いを感じるのなら、それをわざわざ「方言」に「象徴される」といわなくてもいいだろう。ことばに方言があるように、女性生殖器にも「臭いの方言」があって、その町には、その町独自の女性生殖器のにおいがあるということだろうか。
 よくわからないのだが、このもってままった「文体」が不思議な味になっている。がっしりと鍛えられた「文体」、明治とか大正の作家がつかいそうな「文体」、肉体感覚の出し方が、ことばを何度も繰り返して言いなおしてつかみ取ったような強さを持っている。時間を感じさせる。
 この一種の「古くさい」文体のあとに、「私は精液をしぼり出していた。」という奇妙なことばがやってくる。
 これはオナニーをしていたということだろうが、オナニーをすることを「精液をしぼり出す」とは私は言わないなあ。精液を出すことに変わりはないのだが、もっと快感に密着したことば、躍動的で、うれしいことばをつかうなあ。なんといっても精液は飛び出し、飛んで行くものだからねえ。「しぼり出す」なんて、ないものをむりやり出している感じがして、「中学生」になじまない。
 中学生なんて、国語辞書の「生殖器」ということばにさえ勃起する。そんな少年が「精液をしぼり出す」なんて、吉行淳之介じゃあるまいし、変でしょ? 母親に見られたらいやだなあ、もうすぐ帰ってくるかもしれないと心配しながら「精液をしぼり出す」なんて、とても奇妙。
 でも、その奇妙な言い回しが、それに先立つ「文体」となぜか、とてもあっているような感じがする。そうか、古くさい文体でオナニーを言うと「精液をしぼり出す」になるのか、と納得してしまう。古くさい時代にはオナニーなんてことばはなかっただろう。「自慰」はあったかもしれないが。
 それに、オナニーや自慰では「肉体」の動きがよく見えないが、「精液をしぼり出す」には「肉体」の動きがついてまわる。手の動きはもちろん、精液の動きさえ感じられる。ことばが「肉体」を迂回していく。これが、不思議な「もってまわった」の「まわった」につながる。
 前のふたつの文章も「生殖器」「臭い」とことばが「肉体」をまわっている。「生殖器」は私にとっては第一義的には「視覚」でとらえるものだが、それが「臭い」(嗅覚)を経由する。そのとき「文体」というよりも「肉体」をとおっている感じがする。「肉体」を感じ、そのために「強さ」を同時にことばに感じるのだと思う。頭ででっちあげたことばではなく、「肉体」でつかみとったことば。
 また別な視点をつけくわえると……。
 「精液をしぼり出す」というのは奇妙なんだけれど、やっていることは「わかる」。手とペニスと、さらには睾丸の動きや、ペニスの内部のじれったいような快感、それが体全体を動かしていることまでわかってしまう。これが、さらに変なのである。やっていることがわからなければ、「ことばのつかい方が変(文体が変)」という印象は起きない。えっ、何を書いてある? ちっともわからないぞ、と思うのだが、藤井の書いていることは「わかる」。「わかる」は私の「誤読」であって、藤井は違うことを書いているのかもしれないけれど、私はこれはオナニーのことを書いていると「わかる」。この「わかる」ところへ触れてくることば、実際には手とかペニスとか書いていないのに、そういう「肉体」を私の奥からひっぱり出す。「肉体」がことばの奥からひっぱり出される。というのが、言いようもなく変なのである。
 「私はオナニーをしていた。」だったら、たぶん、何も感じずに読んでしまう。いまどき、わざわざオナニーなんか書いてもおもしろくないなあ、と感じてしまうかもしれない。オナニーと書いていないから、ひきつけられるのである。
 私の言わないことばをつかって、藤井は詩を書いている。そしてそれは「精液をしぼり出していた。」が印象的なので、そこに視線がひっぱられていってしまうが、その前の文章も、古くさいというか、練り上げられたというか、そういう印象があって奇妙に迫ってくる。

 いま、私は「練り上げられた」と書いたが、藤井の文体には、時間をかけて練り上げた強さがある。叩いても壊れない強さがある。それは磨き上げられた家のようなもの。白木の家が何度も何度も雑巾をかけられ黒光りをしている。その黒光りって、ほんとうに美しいのか。それとも汚れが少しずつ付着してできたものなのに、光っているというだけで「美しい」と勘違いしているのではないのか……。
 この奇妙な「美しさ」は、強引な言い方になるだろうけれど「精液をしぼり出す」というような、少し日常語から逸脱したものによって、てらりと光る。「肉体」が汚れているというつもりはないが、何か「肉体」の「体温」のように、こびりついてくる感じがつくり出した「汚れのてかり」だね。やっぱり。

 それにしても、と私は、ちょっと脱線する。あるいは飛躍する。
 藤井のこの文体の不思議さを、違った角度から言いなおしてみたい。
 藤井の文体は、その一文一文はかっちりと完結している。ことばとしてゆるみがない。それが次の文章と結びつくとき、そこに何か「ずれ」のようなものがある。「論理」でつなげようとしていない「ずれ」がある。「事実」だけを並列していく不思議さと言えばいいのだろうか。
 
 その町は女性の生殖器を示す方言に象徴される。つまりその臭い
を町のいたるところに感じるのだ。

 この二つの文章の「(女性生殖器の)方言に象徴される」と「(女性生殖器の)匂いがする」は「女性生殖器」が共通するために「ずれ」がないようにも見えるが、「女性生殖器の」という意識でふたつのことが並列されているとも言える。「方言」と「臭い」。でも、これって、よく考えると変でしょ? 「標準語」(あるいは別の町の方言)とは無関係に「女性生殖器の臭い」はあるはずであって、それが「方言」に吸収・統一されていくわけではないからねえ。

 私は精液をしぼり出していた。母がもうすぐ帰ってくるかもしれ
ない。私は中学生だった。

 この三つの文章も「私は」「私の(書かれていないけれど)」「私は」ということばで統合されているようだが、並列と考えることができる。ただ、そういう「事実」があるだけ。「私」がその三つを統合しているわけではない。「母」は「私の母」であることに間違いはないが、ほかの兄弟の母でもあり、父の妻でもある。三つの「事実」があるだけである。
 藤井の書いているのは「事実」の並列であるということは詩のつづきを読むとさらにくっきりしてくる。

「お前は一体だれなんだい?」
「そんなことしちゃだめだって言ったでしょ!」
「本当に情け無い!」
「おとうさんに聞いてみましょう、過酷な三角形ちゃん」

 これは、だれがだれに言ったことばなんだろう。オナニーを見てしまった母が私に言ったことば? そうとれないこともないけれど、よくわからない。「事実」として、そういうことばが飛び交った。あとは、それをどう読むかは読者に任せている。藤井はただ並列しているのだと思う。並列することで世界を拡大している。
 「夢はとちってつばを吐く」には、何人かの「証言」が並列されて書かれている。「事実」はわからないが、それは「事実」というものが複数の見方の「並列」でできているからかもしれない。
 並列で、それぞれが存在するというだけで、いいのだ。
 「事実」を「真実」にしなくてもいいのだ。
 藤井は、そう考えてことばを動かしているかもしれない。この「真実」放棄(?)は、うーん、手ごわい。
 また、この「事実」を「肉体」と呼び替えてみると、おもしろい。「事実」が並列してあるのではなく「肉体」が並列して存在する。「私」「父」「母」(適当に書いたのだが……)はそこに同じ権利(?)で並列的に存在する。誰かが誰かを支配しているわけではない。関係があるが、その関係とは無関係に「肉体」そのものは「孤立」して、かつ併存している。
 関係を統合するものを「真実」と考えるのではなく、そこにそれぞれの「肉体」が併存できる(併存している)という「こと」が真実なのである。
 「精液を放出した」という表現ならば、そこに既成の「オナニー」の「意味」がことばを統合しているといえる。「精液が飛び出した」でも同じだろう。精液を出すのだけれど、それは「私」を裏切って、勝手に飛び出していくものである。そこには「肉体」の統合する力が働いていない。でも「精液をしぼり出す」の場合は、あくまで「肉体」、手をつかって精液を動かしている。既成のことばの「統合」を拒絶して、そこに「肉体」の動きをぶつける。ことばが統合していたイメージを「肉体」に引き戻す、「肉体」で統合をやりなおすと言えるかもしれない。

破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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ピカソ「女の顔」(1923)について

2014-11-10 00:13:56 | 


http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/86/


ピカソ「女の顔」(1923)について

 ピカソ「女の顔」は何の批判なのだろう。西洋絵画は浮世絵のような輪郭線をもたず、色がそのまま面になり、色調の変かが立体へと変わっていくのだが伝統だが、ピカソは黒い線で輪郭をつくろうとしている。
 頬や額を塗り潰してから輪郭を描いたのか、輪郭を描いてから肌と背景を塗り潰したのか。あるところでは色が輪郭をはみ出し、別のところでは輪郭に接していない。隙間に背景の青い色が侵入してきて、部屋の空気の感じを強くしている。乱雑な仕上げだが、筆にスピードがあり、光が豊かになっている。



*



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(3)

2014-11-09 10:01:54 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(3)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 少年(「私は王様」の「王」)は「ここにいる」。そして、「ここ」ではないどこかを見つめている。「どこへでも行ける」と感じている。そのとき、少年が見つめているのは何か。
 詩は小説ではないのだけれど、私は、いま、そんな具合にこの詩集を読みはじめている。で、その三つめの作品。「向かう」。
 「向かう」は「むかう」と読む。でも、私は思わず「むこう」と読んでしまった。「タマシヒ」と谷川が「旧かな」で表記していた影響を受けている。「むこう」は「旧かな」では「むかふ」と書くと思う。「むかふ」と書いていないのだから「むこう」と読むのは間違いなのだけれど「か」の文字にひっぱられて、そう読んでしまったらしい。
 「いまここにいる私」は「むこうにはいない」という「意識」が動いている。詩のページの裏側、写真のページの裏側というときの裏側が「向こう側」という感じになっているのかもしれない。少年が家の入り口に座って、そこではない場所(むこう)を見ているという意識も動いているのだと思う。
 さらに「むこう側」と「むかう(向こう側へ行く)」が「むかふ」(旧かな)の場合は、より密接な感覚だなあということも思った。「むこうへ、むかう」が旧かなの方が「肉体」に迫ってくる。そういう無意識(?)があって、「向かう」を「むこう」と読んでしまったのかなあとも思った。

誰も立ち止まらなかった
路傍の野花を振り向きもせず
子どもらの泣き声に耳をかさず
歩き慣れない道に躓きながら
タマシヒを置き去りにして
ひとりも立ち止まらずに
果たすべき約束もなく
nowhere に向かっていた
潮騒のように行進曲が聞こえてくる

 詩は、進軍する兵士を書いているのかもしれない。「誰も」と始まるので、集団を思い浮かべてしまった。いままで見てきた少年とは違った人間が描かれているのだと思った。純粋に遠くを見つめる少年と兵士ではイメージの落差が大きすぎてとまどうけれど、少年の見つめている遠く(向こう側)ではなく、少年の背後の遠く(逆の向こう側)には兵士の進軍した時代があったということか。--と、考えると、少しめんどうになるかも。
 この詩で、私が、はっとしたのは、

タマシヒを置き去りにして

 という1行。「タマシヒ」は置き去りにできるものか。「タマシヒ」を動かないものかもしれないと私は考えはじめているが、その「動かない」は徹底しているのかもしれない。人間が動いても、「タマシヒ」は最初のすみかから動かない。最初の場所を離れない、ということか。
 これは「こころを残してくる」と、どう違うだろう。出征する兵士、知らない土地を進む兵士は、歩きながら我が家のことを思う。それは「こころを残してきた」からなのだろう。
 「タマシヒ」も、そんなふうに「残る」のだろうか。
 「残る」と「置き去り」はどう違うだろう。「残る」は自動的。主語が、こころ、あるいは「タマシヒ」。「置き去り」は「置き去りにされる」。主語は「私」。こころや「タマシヒ」を「置き去りにする」。
 そうであるなら、「タマシヒ」は動かないというよりも、人間が「タマシヒ」を動かないものにしているとも言える。動かさないことで「タマシヒ」に何かの意味や価値をつけくわえているようにも思える。
 少なくとも、この詩では、谷川は「置き去りにする」ことで「タマシヒ」を人間がどう取り扱っているかに触れていると思う。
 こんなことを考えると詩の全体を無視したことになってしまうのか。谷川の書こうとしていることを無視したことになってしまうのか。そうかもしれないが、私はこの1行が気になって、こんなふうに書いてしまうのだ。

 さて、この詩の主人公は「タマシヒ」をどこに置き去りにしてきたのか。本に、写真にもどろうか。
 家の入り口で遠くを見つめる少年、その座っている場所だろうか。そこから「タマシヒ」は何を見つめているのだろう。舗道(道)か、壁か、いや、そこに見えるものを見ているのは歩いている人間が見るものであって、「タマシヒ」はまったく違ったもの、私が想像できないものを見ているかもしれない。
 たとえば、「向かう」の詩の裏側にあるピンクのバケツやザル。(詩の「向こう側/裏側」ということは、少年が見ている壁(道?)の「向こう側/反対側」、少年のこころの奥底にあるものかもしれない。)バケツやザルは、少年の家の一部かもしれない。あるいは緑のなかを流れる灰色の、泥に汚れた川。その川にかかる橋。少年の家の近くの風景かもしれない。
 で、その裏側。緑と橋の裏側には。
 緑とピンク。1ページが対角線で切られ、右上が緑、左下がピンク。これは何? 写真? それともデザインされた印刷?
 ことばと写真に「裏側(向こう側?)」があるという感じで見てきたつづきで書くと、これはピンクのバケツと山の緑の純粋な姿。詩の裏の空白の白、鳥が飛んでいる空の無の青のように、何か少年の暮らしの「本質」のようなものかもしれない。形を超えて、光といっしょにある色。形になる前のただの色。
 「タマシヒ」のひとつのとらえ方。それを詩と写真以外のものでも表現しようとしているのかもしれない。そんなことを思って、奥付をみると……。

ブックデザイン 寄藤文平+鈴木千佳子(文平銀座)
プリンティングディレクター 谷口倍夫(サンエムカラー)

 という文字が「著者 谷川俊太郎 川島小鳥」と並んで印刷してある。
 あ、これは詩と写真の本を超えたものだね。詩と写真だけを見て、何かを語ってもそれでは半分しかこの本に触れていないことになる。
 わああ、たいへんだ。
 私はことばには関心があるけれど、本にはあまり関心がない。写真にも関心がないし、装丁にも関心がない。本と向き合いつづけられるかなあ。
 このまま読んでいくと「誤読」というよりも、とんでもない「逸脱」ということになるかも。



おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社
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ナボコフの密会--小倉金栄堂の迷子

2014-11-09 00:03:02 | 
ナボコフの密会--小倉金栄堂の迷子

 明かりをつけた瞬間、闇が影の形になった。さっと集まってきて、ぱっと放射状に散った。ひっぱった紐の反動で光が揺れるので、テーブルの向かいの男の顔では、頬の輪郭から骨の形がはみ出し、鼻の脇では影が耳の近くまで流れた。醜い顔がいっそう醜くなったが、そう思ったことを気づかれたのだろうか。鏡のように反射する眼鏡の奥で、目が黒く光った。
 その日広げられたのは箱入りの本で、背表紙の横幅が五センチを超すものだった。男が開いたページからは古い煙草が匂った。縁が黄ばんだ斑点のようなものがあるのは、煙草で汚れた指でページをめくったからだと思うと、目を近づけて活字を読むのが苦しい感じがした。
 「ケースの角が擦り切れてけばだっていますね。私はこんなふうになじんでしまった本に触れると、悲しんでいいのか、喜んでいいのか、わからなくなります。複雑ということばの定義を問われたとき、そう答えたらフランス語の教諭が笑いました。私のフランス語が奇妙で意図しない意味になったからかもしれませんが……。」
 初めて参加してきた女が許可される前に口を開いた。やわらかさを装った声が電球の表面にぶつかり、細い直線になって飛んできた。嫌悪が足の裏から上ってくるのがわかった。きょうは何も言わずに帰ろう。きょう聞いたことばのすべては忘れてしまおう。見えない手で耳をふさいで立っていた。



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(2)

2014-11-08 10:16:36 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(2)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はしつこい性格かもしれない。詩の感想を書くときも、その一篇だけを読んでというよりも、前に読んだ作品と結びつけて読んでしまう。「私は王様」

いまここにいる私
はほかのどこにもいない私
がいまここにいる
ここがどこかも知らずに
雲の帽子をかぶって
泥のスリッパをはいて

 読んだ瞬間に、きのう「タマシヒ」について感じたことを思い出す。私は魂は存在しないと考えているけれど、「無(ない)」という形で存在するなら、それは存在するのかもしれないと感じた。これは私の「直観の意見」なので、論理的には説明できないのだけれど。で、そのときの「無(ない)」と「ある」の関係が、ここでは「いる」「いない」ということばで語られている、と読んでしまう。
 「ある」「ない」、「いる」「いない」と「タマシヒ」は関係があるのかもしれない、と考えを引きずりながら読んでしまう。

 「いる」と「いない」が交錯している。「いまここにいる私」が「ほかのどこにもいない私」というのは論理的にはまったく正しい。正しいのだけれど、そういうことを考えながら「いまここにいる」と再確認するとき、何か奇妙な感じがある。
 なぜ、谷川はこんなことを考えたのか。そして、私たちはなぜこんなことを考えることができるのか。こういう「考え(ことばの運動)」を支えているのは何だろう。何が、ことばをこんな具合に動かしているのだろう。
 だいたい「ない(いない)」が「ある」と考えるのはなぜなんだろう。私がここにいる(ある)とき、別の場所に私はいない(ない)。そのことばをつないでいるのは何なのだろう。
 2行目の行頭の「は」、3行目の行頭の「が」。こういうことばで行が始まるのは、詩ではよく見かけるけれど、ふつうはこういう書き方をしない。助詞はことばとことばをつなぐので、先行することばにくっついている。次にことばをくっつけますよ、という合図のようなものである。それが先頭にあると、いままでのことばは宙ぶらりんになる。つながってきたものの方が印象が強くなる。ことばの「下克上」のように、あとからでてきたものが先にあるものをひっくりかえす感じ。
 これが2回つづく。「再下克上」というのか、もとにもどったというのか……。
 「いる」「いない」よりも「循環」する運動の方に意識がいってしまう。
 また、その「下克上」の「運動」に、きのうページをめくって、またもどってという具合に本を読んだことも重なる。「は」「が」の行頭の驚きは、鳥が飛んでいる空の写真を見て、次にその裏側が「青」一色であるのを知って、「あ、空の裏側」と思ったときの感覚に似ている。「いまここにいる私」を裏側から見ると「ほかにどこにもいない私」になる。「いない」を見ている。鳥の写ってる空よりもはるかに広い青一色、ここにいる私よりもはるかに広い(?)私が、表と裏の間でショートして光っている感じ。その光が、「あっ」という驚き。
 さらに、その驚きのあとに「ここがどこかも知らずに/雲の帽子をかぶって/泥のスリッパをはいて」ということばがつづくとき、その「帽子」が、ふいに、最初のページの少年のポートレートを思い出させる。少年はピンクの飾りを頭にのせている。あれは、帽子? それとも少年が「王様」である印の王冠?
 少年の顔には左側から光があたり、右半分(私から見て)の顔はぼんやりした影の中にある。光と影が顔の中央で出会って、分かれている。これも「いる」「いない」、「ある」「ない」とつながっている?
 あの少年は「いまここにいる私/はほかのどこにもいない私/がいまここにいる」と考えているのだろうか。違うことを考えているのかもしれないが、谷川の詩を読むと、私はそう感じたくなる。それまで「感じたい」と思ってもいなかったことが、かってに動いてきて、「感じたい」と言っている。

 詩の2連目。

いまここにいる私
の隣にいるあなた
はここよりあそこがいい
と言うけれど
あそこにはここにあるものが
ないではないか

 ここでも「ある」と「ない」が交錯する。「ここ」にあって「あそこ」に絶対に「ない」もの、「もの」というよりも、「ここ」という「場」なのだけれど、……そういうことを谷川は書いているわけではないのだが、単に「もの」以上のことが書かれていると私は感じてしまう。感じたがっている。
 「あなた」は「私」とは別人の「あなた」ではなく、「私」のもうひとつの呼称かもしれない。「私の矛盾」が「あなた」かもしれない。「私のなかにある矛盾」。「矛盾のない私」と「私のなかの矛盾」が出会って、会話している。
 それは、「こころ」の会話? 「頭」の会話? 「タマシヒ」の会話? 「肉体」の会話だろうか?

 3連目。

いまここにいる私
を誰も動かせない
いまここにいることで
私は王様
行こうと思えば
ここからどこへでも行ける

 「いる(いない)」「ある(ない)」の問題が、ここでは「動く」という動詞に関係づけて語られている。「動かせない(動かない)」存在は、ここに「ある(有)」。そして「動く」存在は、動いてしまうとここには「ない」。しかし、「動く」という動詞といっしょに、その存在は「ある」。
 「ある」には二つの種類が「ある」。「不動」の「ある」と「運動」の「ある」。そうであるなら「ない」にも二つの種類があるかもしれない。「不動」の「ない」(私はそこにはいない)と、「運動」の「ない」(動かずに、私はここにいる)。
 でも、「私は王様/行こうと思えば/ここからどこへでも行ける」。このとき、「不動」と「運動」をつないでいるものはなんだろう。何が「私は王様」という根拠になるのだろう。「不動」から「運動」にかわるとき、何かが「持続」されていないといけない。
 その「持続」が「タマシヒ」かもしれない。
 私は「持続」の根拠を「肉体」においているけれど、谷川は「肉体」とはいわずに「タマシヒ」というのだと思う。「タマシヒ」をかかえて(「タマシヒ」といっしょに)、どこへでも行く。行ける。「タマシヒ」がいっしょだから、「私は王様」と。

 というのは、きょうの便宜上の「答え」。
 あしたはあしたで、違ったことを言うかもしれないが、「いる」「いない」「ある」「ない」「動かない」「動く」という「矛盾」したことばのつながりのなかに何か大事なものがあるぞ、と感じたとういことは変わらない。

 この詩の裏側は「空白」。そして、その左のページには最初のページの少年(だろうと思う)が家の入り口に座っている。洗濯物が干してあり、開いた入り口から見える家の中は雑然としている。暮らしがそこにある。このとき少年は何をみているのかな? 「私は王様」ということばを裏側から見て、「空白(無)」を見ているのかな?
 そのとき「無」とは何かな?
 少年の「裏側」はどうなっているのかな?
 そう思って、少年の「裏側」(裏ページ)を見ると……。
 舗道? それとも壁? 光と影が揺れている。星のように鋭く光る小さな光の粒も散らばっている。
                     (つづきは、あした書く、つもり……)
おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
ナナロク社

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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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何一つ書くことがなかったので、

2014-11-08 00:36:09 | 
何一つ書くことがなかったので、

何一つ書くことがなかったので、
新しいノートに「日記」を書いた。
きょうの、ではなく、あしたの。

               橋の上から見ていると、
       空気を求めて川面に跳ね上がる魚がいた。
     影は一瞬濡れて、流れないまま沈んで行った。

あした橋の上に立って、欄干にもたれて
向こう橋を貨車が渡るのを見た
と、書き直すために。

書き直し、書き直し、さらに書き直さないと、
ことばはふわふわと浮いてしまい、
何一つ書くことがなくなるので。



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』

2014-11-07 10:34:38 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』はいろんな仕掛け(?)のようなものがあり、そういうものに出会うたびに、私のことばは驚いてぱっと動くのだが、同時にことばが散らばってしまう感じにもなる。さっき思ったことと、今思ったことは関係があるのか、ないのか……。それを整えようとすると、私の肉体のなかにある何かが嫌がる。
 これは、きっと整えてしまってはいけないのだ。ことばが動いたまま、それを書いていくしかないのだ、と思った。

 私が最初に思ったのは、写真の数が詩の数より多いということ。次に本の紙質が統一されていないこと。つるつるとざらざら、さらには裏側が透けて見えるものもある。手触りが違う。眼で見ているのに、写真の手触りが違うと感じてしまう。手で実際に触ってもいるのだけれど、そのときの感触が視覚を不統一にする。
 なぜ、こんな仕掛け(?)になっているのかな。
 わからないまま、本の中を進んで行くのだが、その仕掛けのなかで私がいちばん驚いたのは、表紙のカバーをとると詩があらわれたこと。えっ、ここにも詩が(ことばが)隠されていたのか。そして、その詩は灰色の紙の上に銀色で印刷されている。灰色と銀色って、同じ色じゃない? 読みづらい。読むのを拒絶しているような、意地悪な印刷だなあ。ほんとうに読みたい人だけ読めばいい、と言っているみたい。
 そうか、詩も写真も、ほんとうにそれに触れたい人が触れればそれでいいのかもしれない。--でも、そんなふうに考えるのはさびしい。ことばはもっと読まれたいと思っているかもしれない。写真ももっと見られたいと思っているかもしれない。作者の思いとは関係なく。
 ことばから聞こえたもの、写真から見えたもの、本からつたわってきたものを書いてみる。表紙にある詩は最後になって、そこに詩があるとわかったので、読んだ順序にしたがって感想を書いていく。
 「空」という作品。

空という言葉を忘れて
空を見られますか?
生まれたての赤ん坊のように

初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった

とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔

空が欲しい
言葉の空じゃなく
写真の空でもなく
本物の空を自分の心に

 知らないことば、意味のわからないことばはない。だから、すっと読むことができる。すっと読みながら、同時にそのすっと読んでしまって、そのことにとまどってしまう。書いてあることは、考えはじめると、何とも不思議なことばかり。
 最初の2行の質問に私は答えられない。谷川は、しかし、答えを必要としていないのかもしれない。すぐに3行目で「生まれたての赤ん坊のように」ということばで、生まれたての赤ん坊ならことばを知らないので空ということばをつかわずに空をみることができるよ、と谷川自身で「答え」のようなものを出してしまう。
 その「答え」は、またまたわからないことへとつづいていくのだが、谷川のことばに触れている瞬間は、何か「答え」に触れている気持ちになる。「言葉を忘れて」と「空という言葉を知らずに」に違うのだけれど、生まれたての赤ん坊は「空」ということばをつかわずに、たしかに空を見るのだろう。
 でも、それは空? 私たちにとっては空だけれど、赤ん坊にとっても空? それはわからない。
 だいたい、私は初めて空を見たのがいつか思い出せない。それが空と呼ばれるものだと知ったのがいつかも思い出せない。
 谷川だって、そんなことを覚えているはずがないと私は思う。覚えていないけれど、まるで覚えているかのように谷川は書いている。自分の体験ではなくて、赤ん坊に初めて空を見せたときの反応を書いていると言えるかもしれないけれど、その「初めて」もあいまいだ。病院の窓から知らずに知らずに空を見ていたかもしれない。いつが「初めて」かなんて、わからない。
 わからなのに、そうだなあ、と思う。谷川の書いていることばどおりだなあ、と何かが納得してしまう。「頭」ではない。「頭」は、いま、私が書いたように、あれこれと難癖をつけるのだが、「頭」が難癖をつけるまえに何かが納得してしまう。
 3連目。そうなのか、思う。赤ん坊が「真剣」かどうかなんて、わからないのに、「真剣」ということばを受け入れてしまう。それだけではなく、あ、ここに「真実」というか「永遠」が書かれていると思ってしまう。ことばが自分で動いていって、必然的にたどりつく「真実」が書かれていると感じる。
 ことばの運動、ことばにすることで初めてつかみとれる「真実」が、ここに書かれていると感じ、あ、谷川はすごいと思う。初めて空を見る赤ん坊の顔を、もう一度見てみたいと思う。赤ん坊が空を初めて見たときの顔を見たことがないのに、それを見たような気持ちになり、さらにもう一度見てみたいという気持ちになる。
 とても不思議だ。
 その不思議を不思議のままおいておいて、4連目。
 突然、生まれて初めて空を見た赤ん坊になった気持ちになる。初めて空を見た赤ん坊になって、「いま」空を見たい。「おとな」でありながら、「赤ん坊」の体験がしたい。赤ん坊は「自分の心に」空が欲しいなんて思わないだろう。「自分の心」というものを知るのは、空が空であると知るよりももっとあとだろう。

 ここには「頭」で考えると、矛盾というか、わかりにくいことがぎっしりつまっているのだけれど、「頭」で反論せずに、谷川のことばをただ聞いているときは、そのことばが触れているものに直に触れている感じがする。そして、そのいままでことばにならなかったものに直に触れている感じが気持ちよくて、あ、詩だなあ、と思う。
 そうだよなあ、生まれて初めて空を見るときの赤ん坊のこころを自分のこころに持ちたいよなあ……。あ、でも赤ん坊のこころではなく、谷川が書いているのは「本物の空」。うーん、でも、その「本物の空」というのは「赤ん坊の見た空」、そしてその「心」。それを見たときの「真剣」な何か。
 ことばが交錯する。「本物の空」と「赤ん坊の見た空」「心」が重なり合い、ずれている。ひとつのことばでは言えない何かになっている。
 それが「タマシヒ」?

 わからない。
 私は「魂」ということばを自分からつかったことがない。「魂」の存在を信じていない。「魂」が自分にあると考えたことも感じたこともない。
 「こころ(感情)」はどうか。あるいは「精神(理性)」はどうか。これは、ある、と感じている。何かを見て、どきどきしたり、はらはらしたりする。そのとき実際に心臓の動悸がはやくなったりする。怒りながら、何かほかのこと(たとえば数字の計算)をしようとすると、うまくいかない。いつもと違った「動き」が体のなかで起きる。その違った動きの中に「こころ」とか「精神」があると、私は考えている。自分で制御できない「反応」が自分のなかで起きる--その反応を動かしているのものが「こころ」「精神」と考えている。
 でも、「魂」は、私の肉体のなかで何かの動きをしているとは感じられない。それが肉体の動きになってあらわれているとは感じられない。だから、「存在していない」と私は考えているのだが、もちろん「動かない何か」(動きを静める何か)を「魂」と考えれば、それはあることになる。

 谷川は、どう考えているのだろうか。「タマシヒ」とわざわざ旧かな、しかもカタカナで書いている。そこに谷川の何か特別な思いがあるのだろうか。
 詩を読み返すと、

初めて空を見たとき
赤ん坊は泣かなかった
笑いもしなかった

 この3行が、かなり(?)不思議。
 赤ん坊は何をした?
 何もしていない。動かない。
 で、この「動かない」が、私が「魂」は何かを考えたとき感じることとどこか通じる。「こころ」のように騒がない。泣いたり、笑ったりしないで、「動かない」をつくりだすもの。
 そうか、ここから考えていけばいいのかもしれないなあ。
 この「動かない」を谷川は、

とても真剣だった
宇宙と顔つき合わせて
それがタマシヒの顔

 と言いなおしている。「真剣」なとき、たしかにひとはときどき「動かない」。真剣に何かを聞いているとき、体は動かない。真剣に何かをしているとき、「こころ」は動かない。無心、ということが起きる。
 「魂」は「動詞」とは反対(?)のところにあるのか。「動かない」もの、「無(ない)」という何かを感じさせるのが「魂」なのか。
 そして、そのとき「魂」は近くにあるものと向き合っているのではなく、はるか遠くにあるもの、手のとどかないところにあるものと、ただ向き合っている。手のとどかないものと接している。接続している。つながっている。
 その「つながった記憶」(宇宙とつながった記憶)を、

空が欲しい

 と谷川はもう一度、言いなおしている。「本物の空」というのは、赤ん坊の無心の(動かないこころ)がつながった「宇宙」。それが「自分の心」にほしい。それは、そこにあるだけで「動かない空」(動かない宇宙)と言えないだろうか。
 もし、「魂」が「動かないもの(無)」であるなら、それがあってもいいかなあ、と私は、この詩を読み返しながら考えた。
 「魂なんてない」という私の基本的な考え方と、「動かない(無)」は通じるからだ。--でも、これは私の「誤読」であって(勝手な読み方であって)、谷川が「タマシヒ」をどういうものと感じているのか、あるいは「定義」しているのか、この詩だけではわからないね。

 それからページをめくって、最初の写真。空を無数の、ではないが、たくさんの、数えるのが面倒なくらいの鳥が飛んでいる。翼がかなり大きいが、なんという鳥かわからない。影だけになって、横につながっている。
 ふーん、この空の向こう側に「宇宙」があるのかなあ、と私は詩のつづき、詩の印象をかかえたまま、思った。写真のことは、私はよくわからないので、そんなにじっくりとも見つめないのだが……。
 そして、さらにページをめくって。
 私は「あっ」と声を上げた。左のページに「私は王様」という谷川の詩があるのだが、右のページ、鳥と空の写真の裏側は、青一色。これって、地上からではなく、鳥の裏側、鳥のさらに上空(宇宙)から見た空の色? 私たちが空を見上げているときに見る空の裏側の色?
 雲も何もなく、ただ一色。青があるけれど、無。
 赤ん坊が見ていたのは、この青?
 真剣になって宇宙と向きあって、宇宙の視線で空を見る。見下ろす、かな? そうすると、そこには青だけ。赤ん坊は、見えない。いるはずなのに、見えない。
 見えているものの裏側(向こう側)に見えない無がある。無だから見えないのだけれど……。
 あわてて、前のページにもどる。
 空と鳥の写真が左側、右側は空白。詩の裏側のページは、白。空白。無。

 えっ。

 またページを逆戻り。
 そこには頭にピンクの飾り(これ、何?)を載せた少年がいる。じっと前を見ている。視線が動かない。写真だから動かないのはあたりまえなのだが、動かないということがわかる。何を見ているかわからないけれど、動か「ない」ということがわかる。そこにも「無」がある。
 その写真と空と鳥の写真の間に谷川の「空」がある。少年(写真)と空(写真)の間に「空(詩)」がある。そして、それは「無」でつながって、そこに「ある」。

 何か、私の知らないことが、ここから始まる。
 そういう感じが、うわーっと動いてくる。押し寄せてくる。


おやすみ神たち
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ケヤキ通りを

2014-11-07 01:13:10 | 
ケヤキ通りを

ケヤキ通りをバスに乗って帰るとき、ふと気になってしまった。
窓の下を走っている車はどこへ行くつもりなのだろう。
行き先はどこにも書いていない。
爪を噛んでいるこどもは知っているだろうか。
夕焼けになれなかった空の下では小鳥が黒い影になって、
群れたり離れたりするのを。



*



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西田征史監督「小野寺の弟・小野寺の姉」(★★★★)

2014-11-06 11:02:55 | 映画
監督 西田征史 出演 片桐はいり、向井理

 この映画の主役は、もちろん片桐はいり、向井理なのだが。
 私は、同時に彼らが住んでいる家にみとれてしまった。古い。でも、大事に暮らしている、家を大切につかいこんでいるという風情がある。古くたって、充分つかえる。これで充分、という感じ。つかいこまれた平凡と言ってもいいかなあ。平凡だけがもちうる奇妙な強さがある、とも言える。
 映画のストーリーは、なんとも不器用な姉と弟の「恋愛」。いまごろ、こんなに内気を絵に描いたような恋愛、平凡な恋愛があるんだろうかと不思議に思うが、その平凡を支える「家」だなあ、と思う。新しくない。そこには、ただ「つづいてきたもの」があるだけだ。
 と、書いて気づくのだが。
 「つづける」ということが、この映画のテーマだね。不器用な「恋愛」というよりも。「つづける」は「守る」ということでもある。
 片桐はいりは、客の来ない眼鏡店で働いている。その店は商店街のなかでずーっと店をつづけてきた。夫婦で切り盛りしている。どこかで見たことのある平凡な暮らしだ。まわりの商店も同じ。そこには、古くさい商店街の飾りが飾りつづけられている。そうやって、暮らしをつづけているのだ。
 向井理の友人に、芝居をつづけている男がいる。家業の理髪店をつがず、俳優になることを夢みて、一人芝居をつづけている。客はほとんどいない。それでも、つづける。二人がいっしょに行く小さな居酒屋。そこも、まあ、つづけているとしかいいようのないこぶりの、平凡な店。新しい客なんかはこない。そういうことも、あてにはしていない。きてくれるひとのためにつづけている。互いが互いを助け合っているのかもしれない。いや、互いが互いを受け入れ合っていると言えばいいのかもしれない。
 互いが互いを受け入れる--というのは、ことばでいうのは簡単だが、意外とむずかしいのではないだろうか。助け合う、というのよりもむずかしい。助けたりは、できない。そういうことも考えた。
 主役のふたりも、助け合って生きているというよりも、相手を受け入れて生きている。助けたい気持ちはあるが、特に、姉の片桐はいりには弟・向井理の恋愛をなんとか手助けしたいという気持ちはあるのだが、恋愛なんて本人がすることだから他人の助けというの邪魔にしかならない。
 家は、そういう意味ではとても不思議だ。家、建物は人間をただ受け入れる。そこで人間が何をしていようが、受け入れる。喧嘩していようが、泣いていようが、笑っていようが、ただ受け入れて、人間をまもっている。そういうことをつづけている。何もしないことで、そこに生きている人間をととのえてしまう力が家にはあるかもしれない。
 だから、ある意味では、家に入っていくのはむずかしいとも言える。向井理の恋人は、姉といっしょに暮らす向井理の家にはけっきょく入りきれない。出て行く。家に入ることができずに二人の恋愛は破綻するのだが、このシーンはこの映画を象徴しているかもしれない。その家に入り、その家のなかでととのえられていくことを恋人は拒んだのだ。
 恋愛とは、それまでの自分を捨てて、自分ではなくなってもいいという覚悟をすること。いままでの家を捨てて、自分で家をつくることとも言える。そういう見方からすると、この映画の主人公たちは、永遠に恋愛を成就できない。恋愛の不可能は、二人の宿命(運命)のようなものだ。そして、観客というのは、そういう不可能と向き合う人間の滑稽さを見るのが好きだ。笑いながら、自分の抱え込んでいる「不可能」にそっと触れているのかもしれない。そして、その記憶をかかえて、家へ帰るんだろうなあ。
                       (2014年11月05日、t-joy 博多7)

小野寺の弟・小野寺の姉 -お茶と映画- [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
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頭の中から

2014-11-06 01:27:23 | 
頭の中から

銀行とドラッグストアの間の舗道を通ったとき
頭の中からアカシアの木が消えていた
と、私はノートに書く。

春、花房のかたまった形をノートに写し、
アカシアと書いたノートに。
「ここの花はピンクだけれど、テレビ局の前のは白いよ」
地図を書いて、そのことも覚えた。
それから何度も書き直し、ことばの順序も変えてみた。
通りの名前を架空のものにしたり、
花の色と光のやわらかさを入れ換えたりした。

信号が変わるまで、
頭の中で、春に書いたことばを繰り返した。
やりなおしたかった。



*



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です。
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杉本真維子『裾花』

2014-11-05 11:40:39 | 詩集
杉本真維子『裾花』(思潮社、2014年10月25日発行)

 杉本真維子『裾花』の詩篇には読点「、」が多い。その読点を書き込んでいる間、杉本が何を読んでいるのか、私にはよくわからない。ただ、ことばが次の瞬間に飛躍するので、そこには杉本にしか読むことのできない「何か」があるということはわかる。「何か」が何であるかわからないけれど、そのことばにならない「何か」を読むことで、杉本が先へ進んで行くという呼吸だけはわかる。また、その呼吸が、スムーズな息継ぎというよりは切羽詰まったものであるように感じられる。なぜ切羽詰まっていると感じるかというと、私はそういう「呼吸」をしないからである。そういう「呼吸」をしないから、あ、杉本は何か私の知らないものを見て、一瞬息を止め、吸って、もう一度ことばを動かしていると感じる。
 この「呼吸(読点のリズム)」についていくのは、私にはなかなか苦しいのだが、「青木町書店」で少し私自身の息が楽になった。書き出しが読みやすかった。

(どぶの臭いのする本屋の
奥で、汁のようなものが煮えている
いつも息をとめて彷徨い
「国語辞書はありますか」
と問う声が具材のようにまぜられていった
(たべろ、たべろ
母や父や、あたたかい友人の腕が
給仕する
食べこぼしの染みに怒り
飲み残しのテーブルをなぐり
いまはしんと静かな
文字のない、一冊の本のためにわたしは生きたい)

 状況と「呼吸」があう、「肉体」がその場(状況)のなかに入って行ける、そして同居する--そういう感じになれる。
 どぶの臭いがする本屋。においは不思議なもので、なれてしまうことができる。近くにあるどぶ。その臭いに本屋の人は気がつかない。無意識に除外してしまう。けれど、たまにそこへ行く人には気になる。そういう本屋の奥から、別のにおいがする。「奥で、」の読点「、」はどぶとは違うにおいを感じ、そのにおいをことばにするために肉体が動いている「間」である。そのにおいは「汁」のよう。味噌汁か何かだろう。それは「汁(食べ物)」なのだから基本的には「いいにおい」なのかもしれないが、どぶの臭いを肉体が覚えているので、どうしても「息を止め」る形になってしまう。息をするのは、ことばを発するときだ。「国語辞書はありますか」。杉本は辞書を買いに行ったことがあるのかもしれない。5行目の「具材」は、私には味噌汁の「具」のように思える。そこにも「におい」がある。「汁」のにおいから何かを嗅ぎ取っている「肉体」、その「呼吸」の仕方が感じられる。
 このあとに、読点「、」が増えてくる。
 「たべろ、たべろ」の読点は、どうしてそこにあるのか。ひらがながつづくので、読みやすさのために書かれた読点だと思うが、次の行の読点は、杉本独自の「息継ぎ」のように私には感じられる。

母や父や、あたたかい友人の腕が

 「たべろ、たべろ」と母か父かが子供に言っている。店にきた客なんか気にせずに、おまえはしっかりご飯を食べろ、というような口調が響いてくる。杉本は読点を書いているが、そのリズムはむしろ読点がないのが一般的だと思う。三音節の「たべろ、たべろ」のあとその三音節にあわせて「母や父や」ということばが動き、次に一瞬「空白」がある。「間」がある。「たべろ、たべろ」ということばはあたたかい。「汁」もあたたかい。「あたたかい」家庭がそこにある。手(腕)を動かして給仕している、そのあたたかい手の動きが見える。そこに「あたたかい」ということばがつづくのは、とても自然な感じがするのだが、その「あたたかい」のことばの次に、変なことばが出てくる。「あたたかい」腕(手/家庭)なのに、「友人」ということばが闖入してくる。この闖入の「予感」のようなものが、「父や母や」のあとの読点「、」にある。
 「あたたかい家庭/腕(手)」(日常の光景)の、もう一歩、奥へ入っていく「予感」。
 杉本は、そのとき何を見たのだろう。感じたのだろう。つかんだのだろう。どぶの臭いのする本屋。店の奥には家族が食事をする部屋がある。汁のにおい、具のにおいが店にまで流れてくる。当然、そこで食べている「家族」の動き、腕の動きも感じられる。見えるかもしれない。その「家族(腕/手)」に杉本は、別の「家族(腕/手)」を重ねている。杉本が知っている「友人」の家族かもしれない。友達の家へ行ったとき、友達はたまたま食事中だった。すぐに遊びに行こうとする子供を母か父かが「たべろたべろ」(食べてから遊べ)と叱っている。さらに怒って動く手、テーブルの汚れが見える。そういう光景が一瞬かさなるのかもしれない。あるいは「友人」は書店の子供かもしれない。子供と杉本が友人ということなもしれない。いずれにしろ、あ、この光景は見たことがある--そういう瞬間的な「記憶」の乱入、それによってことばがちょっとゆらぐ。そのときの揺らぎ混乱が読点「、」になっている。その揺らぎ(読点、呼吸)が「母や父や」と「友人」をつなぐ。読点に「あたたかい」という橋をかけて「母や父や」と「友人」を結ぶ。
 そのあとの光景は、書店の家の風景なのか、「友人」の家の風景なのか、わからない。杉本自身の家庭の風景もまじっているかもしれない。いずれにしろ、それはいまではなく、「過去」の光景だ。杉本の「肉体」が覚えている、言いかえると杉本が「呼吸」の動きのなかにある光景だ。
 いまは、そういう雑然とした「あたたかい」家庭は、本屋のさらに「奥に」消えている。「いまはしんと静かだ」。においも、本のにおいしかしないかもしれない。
 いまは存在していない様々なにおい、においといっしょにある光景を、杉本は「文字」がないと言いかえている。
 そして、そういう「光景/においの混合」はないのだけれど、その「ない光景」を「一冊の本」のように感じる。
 --そんな具合に、私はこの詩を「誤読」する。
 「一冊の本のためにわたしは生きたい」は、青木書店の記憶をこういう具合に書き留めることで、その記憶といっしょに「生きたい」という祈りを書いているのかもしれない。「文字のない」のあとの読点「、」は比喩(比喩がつくりだす論理)を飛躍させるための踏み切り台のようにも見える。

 青木町書店は、もしかすると古書店かもしれない。2連目を読むと、そう思う。「国語辞書はありますか」という状況とは違うのだが。辞書を古書店で買う場合は、ふつうの辞書ではないだろうから。……。
 2連目の読点「、」はさらに断絶(飛躍)が多い。

支払いの、硬貨で、喋った
数える店員の手のむこうで
女たちの古い、裸体が破れている
たくさんの阿鼻、まだ、血は巡っているから
本を思い通りに触ることの
激しさにおののく
布ずれのような
吐息のような、それは、だんだん、にんげんの形になって
もっとも朽ちない、歯のつやは、うっすら
背表紙に残した、ここの
本屋はあまりにもにおう

 このときの「本屋のにおい」は何だろう。もう「どぶ」は感じていないだろう。味噌汁も忘れてしまっている。「本」自体が呼吸してきた人のにおいがみちている。女の裸体の写真が見える本には、その本を利用した人(思い通りに触る人の)の「吐息」がしみこんでいるかもしれない。そこに1連目ででてきたあたたかい腕(手)、怒る手という肉体が甦ってくる。「古い」けれど「朽ちない」。「にんげんの形」にことばを補って、私は「にんげんの欲望(本能)の形」と誤読してしまう。
 書かれている読点「、」の呼吸が、知らず知らずに他人の(本を愛した人間の)呼吸に変わり、その呼気と肉体が発するにおいをびっしりと並んだ本に感じている杉本が見える。

 私は「誤読」が趣味だから、そこに書かれていることばを書いた人の「ストーリー」とは無関係に、書いた人の意図したストーリーから解放して、自分の欲望にあわせて読む。そのとき、私は書いた人の「意図(頭)」ではなく、呼吸に自分の呼吸をあわせてみる。こういう呼吸の仕方をするのはどういうときかな? どういうときにこういう呼吸をしてきたかな、と「肉体」の奥をまさぐってみる。
 「鏡の人」は、牛をする人(あるいは、その光景を写真に撮る人)が登場しているように思える。牛をしたときの大量の血--それが流れて、

(裾花川のまわりが
 ながれこむ鮮血で黒かった、
 モノクロの航空写真を、日の射した図書館で
 めくっていく)

 血が黒く写っている。モノクロ写真。しかし、モノクロ写真なら、それが「鮮血」であるかどうかは正確にはわからない。血の色ではない。--というのは、嘘。というか……。鮮血がモノクロ写真では黒く映ることを私たちは知っている。杉本も知っている。だから、黒い色を鮮血と思う。その黒は、そして光を反射している。黒光り。それが日の射した図書館で見ると、反射が増幅して、さらに光る。まるで現場で血が反射する太陽の光を見るように、太陽の光が反射して白と黒だけになって見えるように。
 と、書いているのかどうかわからないが、杉本の書いている読点「、」の乱れがそんなことを感じさせる。

釘、のこぎり、ナイフ、
その人の道具は、隅々までひかって
数千の叫びを招くように
夥しい弾を両手に
盛ってもらう
「何頭分ですか」
ふいに、やわらかな声がたずね、
応えようとするその人の
瞳だけが白く、反射して、入ることができない

 牛の。その処理に、のこぎり、ナイフをつかう人。するために銃(弾)をつかう人。仕事なので、ごく自然に、やわらかな(つまり、悲壮感のない)声で「何頭分ですか」とたずねる人。応えようとして、すぐには応えられない人。
 最後の1行、

瞳だけが白く、反射して、入ることができない

 この読点(呼吸)の乱れ、飛躍がリアルだ。「瞳が白く」とことばが動き、いや違った、それは「光を反射しているために、白く見えるだけだ」と思い、その反射はしかし反射というよりもその人の内部からの発光のようにも感じられる。光の内部をの像こうとしても見えないように、その人が何を感じているのか瞳をのぞいても、そのこころのなかには「入ることができない」と感じる。
 この反射は、夥しく流れた牛の血の色にも似ている。太陽の光を反射して、反射の反動で黒くなっている血。その写真の「白」に似ている。
 される牛と、する人は違うのだけれど、その白い反射(黒い色)の中で不思議に交錯して一体になっている。杉本の呼吸の乱れ(読点の不思議なつかい方)がそれに拍車をかけている。
袖口の動物 (新しい詩人)
杉本 真維子
思潮社

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