詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江口節『果樹園まで』

2015-04-22 15:23:45 | 詩集
江口節『果樹園まで』(コールサック社、2015年04月21日発行)

 江口節『果樹園まで』には「苺」「枇杷」「無花果」と果実の名前のタイトルが並ぶ。果実のことを書いている、ように見えるが、読み進むと「ことば」の「ある状態」を「果実」という「比喩」にしているように思えてくる。
 「柿」という作品は、「ことば」を「舌」と言い換えている。

硬い柿は籠に入れて
しばらく 眼に食べさせる
弾力が出るまで

舌はわがままで 偏狭で
十分に達した味わいしか
認めない

柿、と言うて
詩、と言うて

 この作品は「意味」が強すぎて、それこそ「十分に達した味わい」かどうか評価が分かれるところだろうけれど、江口の今回の詩集のテーマを端的に語っている。
 ことばが「十分に達した味わい」をもつとき、それは詩。
 その十分な味に達したことばを味わうのは、舌ならぬことば自身でもある。
 詩人の書いた「十分に達した(ことばの)味わい」を、読者が自分の「舌」の上で動かして(詩人のことばを肉体で反芻して)、「肉体」のなかに取り入れる。読者は自分の好みにあったものしか認めない「偏狭」な人間だが、そのことばの「味」をうまいと感じ、それを食べるとき、そのとき読者の「肉体」のなかで、それまで読者が育ててきたことばが変化する。そういう瞬間が詩なのだ。
 詩人にしても、「舌」で自分の書いたことばの味を確かめながら「十分に達した味わい」を感じたときにだけ、それを詩として提出するのだが。

 そういうテーマのもとに、「ことば」を江口は、さまざまに言い換えている。「無花果」では「口の開き方」という表現になっている。

口の開き方
というものが あるらしい
どんなにか しゃべりたくても
いさんでも もの申したくとも

じゅんじゅんと
土の下から
樹液はのぼってくる

 「土の下」を「肉体のなかから」と、「樹液」を「感情」と読み替えれば、それはそのまま人間のことばが発せられる瞬間(ことばが口から出てくる瞬間/口の開き方)のことを書いたものであるとわかる。
 江口自身、次のように書き換えている。

内側で
熟れていくおもみに耐えかねて
口は
おのずから開きはじめる

 感情を抑えきれなくなって、ことばが動く。しかし、感情を爆発させるのではなく、抑えきれなくなったものを、ゆっくりと、なんとか押し殺そうとして、それでも滲み出てしまう感情--そういうときの「十分に達した味わい」のことは、次のように書かれる。

おずおずと
ついに 十字のかたちで
完熟の
みずみずしく あまく

 「完熟」の「みずみずしく あまく」、内部からにじんでくるもの。それは「果実」であって、「果実」ではない。だからこそ、次の連で「一語」、さらには「ことば」と言い換えられる。

ひりひりと血の色の
あふれでる一語一語を
ゆびさきにはりつく薄皮で
ようやく つないで

そのとき
もう ことばではないのかもしれない
とろとろ
口の中で 果肉がくずれて

 ひとの「肉体」のなかで熟成して、あふれてくる「感情」のことば。それは、もう「ことば」でもない。「一語一語」明確に「意味」をたどれるとしても、ひとは「意味」など味わっていない。あふれ出てくる感情を、そのくずれるような豊かさを、それこそ「口の中」、「舌」、つまり「肉体」そのもので味わう。

 「枇杷」という作品では「果肉/こころ(傷つきやすいこころ)」と「果汁/声」が交錯して、その交錯の中に「果実」と「人間の肉体」が入れ代わる。

そっと
指の腹でふれると、わかるだろうか
かすかなうぶ毛だ
尖端にさわった
と、みるみる傷つき
しなびる、こころがあって

むぞうさに
枝からもぎとれば
軸につながる皮がやぶれ
果肉は
しだいに、くろずんでいく

いずれ
皮の剥かれる時は来る
ひりひり
あ、と声も出るだろう
ぽたぽた
てのひらも果汁で濡れるだろう
             (谷内注・「もぎとる」の「もぐ」は原文では漢字。)

 「果実」と「人間の肉体」の入れ代わりは、それを食べるもうひとりの人間(「枇杷」である私の対話者/恋人/読者)の「てのひら」も濡らす。詩は、読者の「肉体」そのものにも影響してくる。そうであるなら、「声/ことば」も同じように他者に影響する。

 「水蜜桃」は、そういう「ことば/詩」を新鮮にたもつことの難しさを書いている。「ことば/詩」はつねに解釈され(誤読され)、汚れていく。私の感想も江口のことば(詩)を切り刻み、傷つけ、汚してしまう類のものだが、どんなに「誤読」されようと生き残る力のあるものが詩である。私はそう思っているので、「誤読」といっしょに詩を紹介することにしている。
 どんなに「誤読」されても生き残ることばのことを、江口は「やっかいな」という「否定語」をつかうことで、逆に「肯定」している。
 あとは、もう私の「注釈」はなし。全行を引用する。

あらかじめ剥いておくのは
むずかしい
みるみる褐色にやつれてくる
クリーム色の実
剥いて 切り分け すみやかに
食べる

したたり
などと生やさしいものではない
日がな ぬれそぼつ
雨の果実
水、多き心臓のかたち
押せば
たちどころに指の痕

すいみつとう
ひとつ
あばらやの奥に隠し持つ
やっかいな種族

気まぐれに
ミューズに呼び出され
うつそみの
言の葉繁く陽の下に
みるみる褐色にやつれていく

詩集 草蔭 (21世紀詩人叢書)
江口 節
土曜美術社出版販売
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嵯峨信之を読む(47)

2015-04-22 10:24:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(47)

85 蛇・蛭--その他

 観念が観念のまま「論理」を語るのではなく、観念がイメージになって動いていく。

その歌はまちがつている
魂の中から蛇を追いださずに
夏の小さな死を追いだした
消えてしまつた女よ
その向うにお前の姿をかくした大きな扉がへばりついて
二匹の蛇が錠前のように固く絡み合つている

 「歌」がある。その「歌」は「まちがつている」。なぜなら、「魂のなかから蛇を追いださずに/夏の小さな死を追いだした」というのだが、「蛇」と「死」は具象(生き物)と観念(思考)であり、代替できるものではない。そのために、これだけでは「意味」が追いきれない。
 「歌」があり、「魂」がある。その「魂」のなかには「蛇」がいて「死」は存在しない。
 そのあとに出てくる「女」は「消えてしまつた」のだから、「死」なのか。「魂」から追い出した「小さな死」、それが「女」なのか。
 「蛇」と「女」というと、どうしてもエデンの園を思い出すが、「魂」が「蛇」を追い出さなかったというのは、「欲望」を追い出さなかったということだろうか。「生きる力」を追い出さずに、「欲望の死」を追い出したのか。「欲望の楽しさ」をささやく「歌」は「まちがつている」のに、「まちがい」に気づかずに、「欲望の死/純潔/無垢」を追い出してしまった。最初の「まちがつたいる」は女に対して言っていることばになる。
 そうだとしたら「消えてしまつた女」とは、「欲望を刺戟する女/生きる力を刺戟する女」ではなく、蛇にそそのかされる前の女、「欲望を知らない女」ということになるかもしれない。「純潔の女/無垢な女」と言いなおしてもいいかもしれない。
 「無垢な女」は扉の向うに消えてしまい、その扉には蛇が錠前のように絡み合っている。「無垢な女」を追い出したというよりも、扉のこちら側に入ってこれないように、内側からカギをかけている。
 「固く絡み合つている」「二匹の蛇」とは男と女だろう。「無垢/純潔」の女は消えた。追い出された。魂は「無垢/純潔」の女を拒絶し、欲望の女を受け入れた。二匹の蛇は欲望を生きている。エロチックな幻が欲望を刺戟してくる。「消えてしまつた女」を恋しく思い出しているのではなく、「消えてしまつた女」を、拒絶し、官能を楽しんでいるように読むことができる。欲望を選んだ二人を書いているように思える。
 こう読んでくると、問題が二つ残る。
 一つは、欲望を生きることは間違っているのか(「その歌」はほんとうに間違っているのか)。蛇にそそのかされるままになっている、「その歌」を実行しているなら、「その歌」は「欲望」にとっては「正しい」歌になる。
 もう一つは、なぜ「純潔/無垢」を「死」と呼んだのか。「純潔/無垢」は肯定的な意味で語られることが多い。「死」は逆に否定的な意味で語られることが多い。
 「肯定」と「否定」が、それこそ二匹の蛇のように固く絡み合って、「真実」を閉ざすカギになっている。

 何が間違いで、何が正しいか。それは、わからないのだ。自分をどこに置くかによって、世界の見え方が瞬間的に入れかわってしまう。わからないまま、ことばが動いている。「わからない」ということが、詩なのだ。「わかる」では、論理になってしまう。
 「わからない」けれど、刺戟がある。いろいろなことを考えてしまう。感じてしまう。それが詩なのだ。
 女をそそのかしたエデンの園の蛇も「わからない」存在である。いや、部分的には「わかる」が、それがどういう「結果」をもたらすか、「わからない」。どういう「結果」になるから「わからない」けれど、欲望が刺戟されたことは「わかる」。ひとは、どうしても「遠い先にある結果/わからない何か」ではなく、目の前の「わかる」ことにしたがって動いてしまうのものなのだ。

 このことは、何も聖書の物語のことだけを指しているのではない。
 詩を書くというのは、その「わかる/わからない」の交錯に似ている。インスピレーション。これは、それを受けた人間には「わかる」。そのインスピレーションにしたがってことばを動かしていけば、その結果どういう詩ができるかは、わからない。けれども、いま、急に襲ってきたインスピレーションが「決定的」であることは「わかる」。だから、その「わかる」を手がかりに「わからない」方向へ向かって動きはじめる。
 そういうものが詩なのだから、これを「論理」的に「わかる」ものにかえてみても、それは「わかる」ことにはならない。
 「わからない」まま、一瞬一瞬を「わかる」。その「間違い」を繰り返すしかない。

死によつてしか生きることができないといつた女が
さいご
ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた
そして濡れた唇のまま闇のなかへ消えさつた

 「死よって」「生きる」。これは矛盾。でも、「論理的」には矛盾であっても、「感情的」には、こういう表現は「定型」となっている。自分のなかの何かを「生かす」ためには「肉体」としては死ぬしかない。ソクラテスの死は、その典型である。ソクラテスは「感情的」というよりは「論理的」なのだが……。ソクラテスではないふつうのひとは、それを実践できない。また「論理的」にそう感じるというよりも「感情」として、そういうことばに思いを託す。「論理的」に考えると矛盾しているので「わからない」が、その矛盾をことばにしてしまう「激情」、その「激しさ」は「わかる」。わかったからといって、どうすることもできないのだけれど。
 こういう、どうにもならないことを、私は「間違い」と呼ぶ。嵯峨の「まちがつている」ということばに刺戟されて、「間違い」と呼びたい気持ちになっている。
 そういうことを考えながら、そのめんどうくさいあれこれを瞬間的に忘れて、

ほのぬくい野いちごの赤い実を食べた

 この「ほのぬくい」が肉感的でいいなあと思う。はっきりしない、ぬくみ。ほのぬくい裸を連想する。「野いちごの赤い実」は蛇いちご。毒いちご。ほんとうに死ぬかどうか、私は食べて試したことがないので知らないが、毒のぴりぴりした刺戟を思い、何か恍惚としてしまう。次の行に出てくる「濡れた唇」も肉感的だ。
 「死ぬことによつてしか生きることができない」という激しい激情(激しすぎて「精神」と勘違いしそう)と肉感的な表現がからみあっている。
 激しい精神と感情、論理と肉体が、激しさを利用して、互いの領分を越境して融合する感じだ。「対」を構成するものが、越境し、融合し、化学反応し、別の「対」を生み出し、さらに越境するといえばいいのかもしれない。

 そういう激しい運動を見てきたあと(激しいことばの運動を読んできたあと)、

人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい

 こういう一行に出会うと、
 うーん、
 とうなってしまう。
 その前の行は、

まちがつてぼくのなかにとどまる者の顔をたしかめるように
ぼくは死者の手から灯りを奪つてくる
照らされた顔を見てぼくは驚く
遠いところでぼくを裏切るものが他ならぬこのぼくだつたのだ
人間の中で時はわけもなく育つが時の中で人間が育つことは難しい

 書き出しの六行とつないでいいのかどうかわからないけれど、私はつないでしまう。「消えてしまつた」のは「無垢な女/死のように純潔な女」ではない、とどまっているのは「欲望の女」ではない。「ぼく」こそが「ぼく」を裏切ってとどまっている。すべては「ぼく」のせいなのに、ひとはだれでもそれを「他人」のせいにするということか。
 この一行を書くために、嵯峨は、どれだけの「時」を必要としたか。どれだけの「行(ことば)」を必要としたか。
                           2015年04月21日(火曜日)
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩「ポルトについて」のための注釈(33)

2015-04-22 01:33:51 | 
破棄されたの詩「ポルトについて」のための注釈(33)

「折り畳み椅子」にも故郷はあっただろうか。川に向かって石段を下りていったとき、曲がり角の土産物屋の前で老人が座っていた。通りすぎるときに目が合って「おまえの故郷はどこか」と聞いてきた。立ち止まると「この折り畳み椅子にも故郷はある。おまえにもあるだろう」とつづけた。ポルトガル語はわからないが、なまったスペイン語くらいの気持ちで聞き返した。「そうすると、この折り畳み椅子には兄弟や姉か妹もいたのかい。」「ああ、だれかが産んだことには間違いがない。産んでくれなければ、この世には存在しない。」

聴き間違いがなければ、老人はそう言った。耳の穴の周りに毛がいっぱい生えていたので、私のことばはとどいたかどうかわからない。老人は私を椅子に座らせ、それからコップにポルトワインを注いでくれた。その味がきのうの夜「たばこを吸う犬」というレストランで飲んだワインに似ていると言おうとした。すると「おまえの折り畳み椅子は犬を飼っていたことがあるのかい。」と問いかけてきた。「あ、いつも折り畳み椅子を広げるのを待って、その下にもぐりこんで寝ている。」知らない国のことばなので間違っているかもしれないが、そんな会話をした。家で留守番をしている犬を思い出して、なつかしくなった。

旅から旅へ動いていくとき、「故郷のように安心して休める場所はどこにあるか。自分の折り畳み椅子をもっていると、とてもいいものだ。」ホテルにかえって、ゆっくり辞書を引きながら会話を思い出すと、そういうことを言ったようだ。あのあと、老人はもう一杯ワインを注ぐと店の奥へ引っ込んでしまった。細い階段を太陽の光が白く照らしている。どこかで水道の水を流し、ふたたび止める音がする。階段を下りてきた犬が、「おまえはだれだ、いつもと違う人間がいる」という目で見つめていたなあ。



*

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嵯峨信之を読む(46)

2015-04-21 10:56:52 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(46)

84 言(こと)の葉(は)のまにまに--外六篇

 この詩にも「対」が登場する。書き出しの四行は、その「対」が複雑に交錯し、美しい「和音」になっている。

ぼくから絶えまなく去つていくものに
いつはてるともなく夜はつづく
ただひとり行きつかなかつた永い旅路とは何であろう
地に低くあるものは闇のように求めあう

 「絶えまなく」と「いつはてるともなく」は「同じ」意味である。「去つていく」は「離れていく」であり、「分離」を意味する。それは「つづく」という意味の対極にある。「絶えまなく」と「いつはてるともなく」は「同じ」意味が「対」になり、「去ていく」と「つづく」は「反対」の意味が「対」になっている。
 さらに「去つていく」は「行きつかなかつた」とも「対」になっている。「去ってはいく」がそれは「行きつかない」のだから完全に「去った(分離した)」とは言えない。完全な「去る/分離する」は去って行ったものが「ぼく」以外の何かと結びつくときだろう。それまでは「去る」は完結しない。「ぼく」と「何か」のあいだに、どっちつかずの状態で漂っている。
 そして「去つていく」は「求めあう」とも「対」になっている。この「対」は「同じ」意味の「対」ではない。反対のものが向き合って、「ぼく」と「何か」のあいだにある、どっちつかずの状態に緊張感を与えている何かを「求める」だけではなく、求め「あう」。そこには二人(二つ存在)がいて、「ひとつ」をつくっている。。この緊張感が詩である、とも言うことができる。
 この緊張感のなかで「夜」と「闇」が、また交錯している。「夜」は「去つていく」ということばのある行に属するわけではないが、行の「領域」を超えて、交錯する。「つづく」と「永い」も同じである。
 ことばは交錯しながら「ひとつ」の何かを言おうとしている。「ひとつ」の何かを言おうとしているのに、そのことばは「ひとつ」になれずに散らばって出てくる。そのばらばらは完全なばらばらではなく、みな「ひとつ」の「場」をとおることで何か共通したものをあらわしている。
 はっきりとは名づけられない、その「場」を嵯峨がとおるとき、ことばが「対」になりながら生まれてくる。詩になって生まれてくる。
 同じような「対」は、

死はひとびとから何を奪い
何を充たそうとするのか

おまえの姿はいつも舞いあがる砂塵の最後に消え
また砂塵の先頭に現われる

どんなに長く生きようとしても
一瞬しか生きられない

 という行にも見られる。(注・引用は、それぞれ別の「断章」からの引用である。連続した行ではない。)「奪う」と「充たす」、「最後」と「先頭」、「永く」と「一瞬」。
 さらには、

そしてかれらは生きるために死ぬのだとおもう

 のように「生きる」と「死ぬ」が一行のなかで「対」になっているものもある。
 これらのことばは、すべて「入れ換え」可能である。

死はひとびとの何を充たし
何を奪おうとするのか

おまえの姿はいつも舞いあがる砂塵の先頭に消え
また砂塵の最後に現われる

どんなに一瞬を生きようとしても
永くしか生きられない

 最初に引用した二行も、

ぼくからいつはてるともなく去つていくものに
絶えまなく夜はつづく

 と言い換えることもできる。
 言い換えることもできるが、そういうことばを選んでいないのは、一種の「音楽」の感覚である。「意味」だけではことばは動かない。
 こういう不思議をそのまま体験する(味わう)のが詩を読むということなのだろう。
小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社
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川越文子『ときが風に乗って』

2015-04-20 10:49:02 | 詩集
川越文子『ときが風に乗って』(思潮社、2015年04月20日発行)

 川越文子『ときが風に乗って』は三つの章に分かれている。私は「Ⅱ」の作品が好きだ。特に具体的な地名、人名が出てくる作品がいい。
 「木次線から」を読む。

初冬
山陰本線宍道駅から木次線に乗った
川沿いの坂道や山裾の小笹を払うようにして走る電車
亀嵩駅では懐かしい気がした
本のなかで訪ねただけの駅なのに

電車は出雲横田駅を出ると本格的な山越えだ
登り勾配がつづく
やがて出雲坂根駅に着き即
全国でも屈指の美しさという三段スイッチバック式の登り
行きつ、戻りつ
鉄道ジオラマのように浮世ばなれして見える駅を見おろす
--人生もこんなふうだった、急な坂道で見てきたものは

 「亀嵩駅」というのは松本清張の『砂の器』に出てくる。私は映画で知っているだけだが、川越は小説で知っている。その小説で知っているだけの駅には、川越の知らないひとの人生が深く関係している。そのひとを実際に知っているというわけではなく、本で知っている。それは「ほんとう」の人生ではないかもしれないけれど、そしてそれは他人の人生なのだけれど、何か実際の人生のように懐かしく感じてしまう。本のなかで動いたこころが、現実の駅にきて、ふたたび動いている。
 知っていること(知識)が、現実に触れて、動きはじめる。そのとき、「知識」が「知っている」から「わかる」に変化する。『砂の器』の主人公、あるいは駐在所員の人生が「わかる」というとおおげさすぎるが、あ、ここに生きていたひとがいたのだということが「知識」ではなく、現実として実感できる。「ここが亀嵩駅なんだ」ということを全身で味わう。
 このことを、二連目の「三段スイッチバック」で言いなおしてみる。「出雲坂根駅」から始まるその鉄道(線路)のことを川越は、やはり「本のなか」で知ったのだろう。特に「全国屈指の美しさ」というのは川越自身が他のスイッチバック式鉄道と比較して感じたことではなく、「本」のなかの「主張」だろう。それは「本のなかの知識」だ。それを実際に体験する。電車に乗り、風景を見る。そして、それが確かに「全国屈指の美しさ」であることが「わかる」。実感する。
 まずことばがあって、そのことばを自分の「肉体」で追いかける。そうすると「知っている」が「わかる」にかわる。この変化を川越は「懐かしい」と呼んでいる。これが、とてもいい。「懐かしい」は「亀嵩駅」についてのことばなのだが、「三段スイッチバック」でも川越は「懐かしい」という気持ちになっていると思う。その「懐かしい」という気持ちが

--人生もこんなふうだった、急な坂道で見てきたものは

 という一行になる。平凡な感慨かもしれない。この一行がなくても詩は成り立つし、もしかするとない方が詩の「完成度」が高まるかもしれない。しかし、詩の完成度なんて、どうでもいい。「知っている」が「わかる」に変わったその瞬間に、川越自身が、その変化に驚いて、つい、そういうことばが出てきたのだ。その自然な感じが、それこそ「懐かしい」感じで響いてくる。

終点備後落合は乗り換えの駅だというのに
人の気配がしない
山に囲まれたちいさな空と
深い緑だけの無人駅
ここまでの乗客は 誰もはしゃぐことなく
向かいの線路で待つ芸備線新見行きに乗り換える

 他の乗客もまた川越のように、「知っている」ものを振り返り、実際の風景として見つめなおし、それを「懐かしい」と感じているのだろう。具体的な「地名」を「地名」のまま受け入れて、それを受け入れるだけではなく大切なものとしてことばにするとき、川越が大切にしてきた何かが「懐かしい」ものとして現われてくる。

 「雨の高松城跡」は、「秀吉の水攻めで墜ちた城」を書いている。自刃した城主清水宗治の人生と、歴史が書かれたあと、

平成の高松城跡は
青田より約一メートル高いだけの公園
数本の松に囲まれて宗治の首塚が座る
そしてこの地より東へ歩いて二、三十分の山裾には
使者の末裔たちが建てた一基の墓

七十代後半の父と
この地を歩いたことがある
そのとき父は
--もしお墓を拭いてきれいにするという仕事があるならやってみたい。ボ
  ランティアでもいい。
--自分の係累の墓じゃなくて?
--ああ、どこの誰の墓でもかまわん。
--気味がわるいと言われるよ、やめといて。
私は私の身を守りたかったのだろう、そう答えた

 父はなぜ、そんなことを言ったのか。たぶん清水宗治の人生を思って、そう言ったのだろう。自分を犠牲にした清水宗治の人生を「懐かしい」気持ちで追体験しているのだろう。そのときは川越にはその父の「懐かしい気持ち」がわからなかったが、いまはわかる。あのとき聞いて「知った」父のことばが、いま「懐かしい」ものとして思い出されている。「肉体」がおぼえていたものが、いま「肉体」に甦ってきている。だから書かずにいられない。父のことばが「懐かしい」だけではなく、父そのものが「懐かしい」。


ときが風に乗って
川越文子
思潮社
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嵯峨信之を読む(45)

2015-04-20 09:17:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(45)

83 犬二題

 詩はかけ離れた存在の出会い、結びつき、融合である。嵯峨の詩は特にそういう特徴が強い。
 「犬二題」には二匹の犬が登場する。その二匹が対になっている。

精神はどんな顔をもっているのですか
その重さは何で量るのですか
ぼくは子犬を地に叩きつけて殺した
夕闇のなかで ぼくの周りをいつまでも駈けまわつていた子犬を

なぜぼくは愛され
なぜぼくは憎まれたのか
いま毒におかされて骨ばかりになつたぼくの足を
夜になると痩せ衰えた老犬が舌を垂れて舐めまわしにやつてくる

 これは詩の全行ではなく、二連のそれぞれ一部を引用したものだが、一連目では殺された子犬が、二連目では老いているが生きている犬が登場する。
 犬を殺した記憶が、犬になってぼくのところへ戻ってくる。
 このとき、同時に、ほかのことばも対になって動いている。「なぜぼくは愛され/なぜぼくは憎まれたのか」には「愛」と「憎しみ」が結びついている。犬が「ぼく」についてまわるのは、「ぼく」が愛されているからである。また憎まれているからでもある。なんと言っても、「ぼく」は子犬を殺したのだから。だが、その愛と憎しみの絡み合った形は、はっきりとは分離できない。ここまでが愛、これから先が憎しみという具合には区分けができない。
 もうひとつ、「対」が隠されている。「精神」と「肉体」という「対」がある。一連目には「精神」ということばがある。二連目の「足(毒におかされて骨ばかりになつた足)」は「肉体」である。
 そのことに目を向けるならば、一連目の「殺した子犬」とは「精神」の象徴である。何らかの「精神」を「ぼく」は殺した(放棄した/否定した)。
 二連目は、その放棄した(否定した)「精神」に「肉体」が反逆されているということになるのか。毒におかされ、骨になった(つまり、死んでしまった/あるいは機能しなくなった)「肉体」を「精神の犬」が舐めにくる。
 そのとき「老いた犬」こそが「肉体」であり、「骨になつた足」は「精神」かもしれない。
 「対」になって動く存在は、いつでも入れ代わる。「対」であることが確かなのであって、それぞれの「存在(意味)」は固定されていない。「意味(存在)」を自在に入れ換えて、それまで存在しなかった「世界」を浮かび上がらせるのが詩である。

嵯峨信之詩集 (芸林21世紀文庫)
嵯峨 信之
芸林書房
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嵯峨信之を読む(44)

2015-04-19 11:16:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(44)

82 広大な国--その他

 五つの断章から成り立っている。「広大な国--その他」というタイトルだが、一篇の詩のように思える。「夜も昼もない広大な国」「ぼくが生涯歩きつづけてもついに横断することのできない広大な国」とは「死の国」かもしれない。生きているから「死の国」を横断することはできない。しかし、生きているから、想像力で「死の国」を歩くのである。

村々の上の大きな立雲
地平線をかぎるように遠く延びている大森林
村びとたちは水泡のようにつぎつぎに暗い森の中へ呑みこまれていつた
ぼくはそれを眺めながらただひとり別の路をとつた
そしていつのまにか夜も昼もない広大な国を歩いていた
ぼくが生涯歩きつづけてもついに横断することのできない広大な国を

約束をしたわけではない
大きな暗星の上で
ふたりは偶然出会つたのだ
もはや声の輝かしい葉を失つていても
ふたりはくる日くる日を大切にした
夜は血のながれの源へ沈めた錨を探しにいつた
そして幻の大きな船が広大な海の上を漂流しているのを見た

 この詩でいちばんわかりにくいのは「ふたり」だろう。「ひとり」は「ぼく」だが、出会った「もうひとり」は誰なのか。「死の国」の「死」だろうか。「死」を人格化しているのだろうか。
 私は「路」と思って読んだ。
 「ぼく」と「路」は偶然出会った。その路は「広大な国」のなかにある路である。「死」へつづく路であり、「死の国」の路である。死へつづくから、すでにその路は死の国にある。死の国の領土であると言えるのかもしれない。明確な区分けはない。
 ことばは一つの意味やイメージだけを背負っているのではなく、ことばのなかに定義できない形で何かが混じりあっている。そして、その混じりあったものを嵯峨は混じりあったまま見ている。見方によって「死の国」になったり、「路」になったりする。
 「路」と「ぼく」は「一体化」している。「ひとり」ということもできるし、「ふたり」と言うこともできる「あり方(存在の仕方)」であると思う。

夜は血のながれの源へ沈めた錨を探しにいつた

 この一行は「ふたり」は探しに行った、と読めるが、ことばのとおりに「夜」を主語にして、夜は探しに行ったと読むこともできるだろう。ぼくと路が一体になった、その路をとおって、錨を探しに行った。このとき、ぼく、路、夜が一体になっていると考えればいいのかもしれない。「ふたり」ではなく「三人」になっている。そして、「夜(三人)」が漂流している船を見た。
 「源(源流/水源)」はたいていは山奥なのだが、この詩は逆に「海」にたどりついている。「錨」が呼び寄せたのか。あるいは「ぼく」と「路」、さらに「夜」が「一体(ひとつ)」になったように、源と海は「一体(ひとつ)」になっているのかもしれない。路を歩く、路が歩く、夜が歩くという、その「歩く」が生み出した存在なのだ。
 そのとき「船」は船であって、船ではない。それは「夜」が生み出した船なのだ。夜だから見ることができた船、つまり夜の別の姿であるとも言える。「ぼく/路/夜/船」は、別々のことばで語られている(名づけられている)が、ほんとうは「ひとつ」である。ほんとうは「ひとつ」なのだが、ある瞬間ある瞬間、別の「形」になって生み出されている何かなのだ。
 詩はいつでも遠い存在(生と死/源と海)を結びつけたもの。あらゆる存在を結びつける「場」があって、その場が刺戟を受けると、そこに何かが生み出される。反対のものがぴったりとくっつく形で生み出される。生み出されるは、そして、たとえば「生」と「死」、「源」と「海」というようなかけ離れた「存在」だけではなく、「生」と「死」という「結びつき(関係)」こそが生み出されるのだ。「生と死」というときの「と」が生み出される言ってもいい。

 「ふたつ」の存在を結びつける。「ふたつ」を出会わせる。そう読み直せば、「ふたりは偶然出会つたのである」という一行の書こうとしていることに近づけるかもしれない。「ふたり」が出会って「ひとり」になる。「ひとりとひとり」の「と」になる。

生まれることも
死ぬことも
人間への何かの復讐かもしれない

 「誕生」と「死」、その対極のものが「人間」という存在のなかで結びついている。それは分離できない。人間は、生まれ、死んでゆく。矛盾している。なぜ死ぬために生まれなければならないのか。なぜ生まれたのに死ななければならないのか。この「矛盾」が抱え込む疑問は確かに人間への「復讐」かもしれない。

この問いは世々うけつがれて
かつて一度も答えられたことがない

 人間に答えられないから、「復讐」。でも、ひとは答えたい。詩人は、嵯峨は、答えたい。だから詩を書く。「論文」ではなく、矛盾を矛盾のまま受け入れてくれる詩を書くのだろう。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩のための注釈(32)

2015-04-19 01:26:01 | 
破棄されたの詩のための注釈(32)

「コップの灰色」ということばが、「絵」を呼び出した。テーブルの上のコップは、そうやって「過去」へ入っていく。「過去」とは人間の内部のことである。という比喩をとおるので、絵の中のコップの内部に入った水がつくりだす屈折は青くなる。一方、テーブルの上に投影されたコップの内側の輪郭と、コップの左側の白い光は塗り残した紙の色である。

さらに注釈をつけると、塗り残しについて聞かれたとき、セザンヌは「ルーブルでふさわしい色が見つかったら、それを剽窃して塗る」と答えた、という「注」をつけたくて、一連目を書いたのである。それはしたがって「事実」の描写ではない。捏造である。(一説に、セザンヌのことばは「ふさわしい色が見つかるまで塗り残しておくだけだ」。)

さらに注釈をくわえるなら、「絵」にしておもしろいのは「コップの灰色」ではない。つかいこまれた手袋や革靴の皺。鉛筆だけで何度も線を重ねながら黒い面にしてゆく。ひたすらリアリズムを追求するとき、皺は「内部」に起きたことを「外部」として刻む、一種の「罰」にかわる。顔のように、意識的に装うことができない。そういう苦悩が絵にでてしまう。

だからこそ「コップの灰色」にこだわるだとも言える、と書けば、これはもう「注釈」を逸脱することになる。無機質なものであっても、選びとられた瞬間から、そこに指紋のようなものが付着する。「内部/外部」は最初から最後まで一貫して存在するわけではない。そのつど「内部/外部」として世界にあらわれてくる、という注釈を書くためには四連目はどうあるべきだったのか。




*

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デイミアン・チャゼル監督「セッション」(★★★★)

2015-04-18 20:22:09 | 映画
監督 デイミアン・チャゼル 出演 マイルズ・テラー、J・K・シモンズ

 あ、まいってしまったなあ。予告編のときも感じていたのだが、わからない。私は音痴。リズム感もない。で、J ・K ・シモンズが「1、2、3、4」バシーン、とマイルズ・テラー平手打ち。また「1、2、3、4」バシーン。「おれのテンポ(平手打ちするタイミング)が速いか遅いか、言え」。うーん、わからない。
 一分間に八部音符が388個(?)、400個(?)。その違いは? わからない。「388」と「400」は数字(デジタル)でなら「わかる」が、音そのもの(アナログ)では区別がつかない。「わからない」。どれが「間違い」で、どれが「正しい」か、さっぱりわからない。
 「わからない」けれど、引き込まれていくなあ。J・K・シモンズの黒いTシャツ、黒いズボン。それで「1、2、3、4」バシーン。「おれのテンポが遅いか、速いか」「1、2、3、4」バシーン。気持ちいいだろうなあ。やってみたいなあ。人格を否定し、ひたすら「正確」を要求する。人間的じゃないね。その人間的じゃないところが、とても人間的。たぶん人間だけが、人間に対して残酷(冷酷)になれる。自分を絶対化して他人を排除できる、他人に暴力を振るっても平気なんだろうなあ。--という意味での「人間的」。あまりにも「人間的」。
 それにつられてマイルズ・テラーも「人間的」になっていく。旧友を平気で見下す。ガールフレンドに音楽(ジャズ)の邪魔と平気で言ってしまう。そして「人間的」になればなるほど「絶対」に近づいていく。それを「正しい」と思い込む。
 うーん。
 ここには「音を楽しむ」という意味での「音楽」はない。ただ「絶対的音楽」、いや「全体的プレーヤー(有名人)」を欲望する「人間」の強欲のようなものだけがある。これが「音楽」映画だとしたら、これは怖いぞ。
 そして、実際に怖くて、冷酷でもあるのだが……。
 最後がすごいなあ。
 大学教授を首になったJ・K・シモンズは、いっしょに演奏しようとマイルズ・テラーに誘いかける。しかし、それはほんとうの誘いではなく、マイルズ・テラーを二度と音楽ができないようにするための「わな」である。彼を首にしたのはマイルズ・テーラーの密告である。それを許せない。だから、スカウトの大勢いる大会で演奏を失敗させる。一度失敗すれば、誰もマイルズ・テラーを誘わなくなる。間接的な音楽会からの追放である。なじみの曲を演奏すると誘いかけ、実際は新曲を演奏する。当然、マイルズ・テラーはうまくプレイできない。失態を演じる。マイルズ・テラーは負けたのだ。
 しかし二曲目、マイルズ・テラーはJ・K・シモンズの曲紹介をまたずに自分がなじんでいる「キャラバン」を演奏しはじめる。他のプレイヤーを巻き込む。主導権を握る。曲がおわる、はずのところで、突然「ソロ」を始める。
 それはマイルズ・テラーの、J・K・シモンズへの反逆(挑戦)なのだが、その演奏の熱さ(そして正確さ)にJ・K・シモンズの「音楽」が反応する。「これが、おれの求めていたものだ」という喜びがわいてくる。二人の激しい憎悪が、一瞬「音楽(音の喜び)」に変わる。あ、すごいなあ。
 あ、このすごいなあ、というのは、私が「音楽(ジャズ)」がわかって言っていることではない。音楽はわからないが、「映像(映画)」なら、わかる。マイルズ・テラーのドラムに合わせてJ・K・シモンズの手が反応する。指揮するように手が動く。顔が動く。目がいきいきと輝く。その表情が、いま、絶対的な(理想の)音楽がここにある、ということを教えてくれる。
 わあ、いいなあ。「1、2、3、4」バシーンもいいが、この恍惚の表情の指揮もいいなあ。これ、やってみたい。憎しみを忘れて、「そう、それなんだ、少しずつゆっくり、ゆっくり、今度は徐々に速く、もっと速く、さらに速く……」と酔ってしまう。「これが、おれの音楽だ」と恍惚とする。
 マイルズ・テラーの「成功」よりも、このJ・K・シモンズの「敗北」の美しさ。マイルズ・テラーを音楽界会ら追放できなかった、マイルズ・テラーを音楽界に認めさせてしまった、その「敗北」のなかで「音楽」が勝利する。それは「人間的」ではない。「音楽的」だ。そして「音楽的」であることによって、「人間」そのものに到達する一瞬でもあるなあ。

 完璧な耳をもっているひとには、この映画の「アラ」が見えるかもしれない。聞こえるかもしれない。けれど、音痴の私には、その「アラ」がまったく見えないので、最後はとても興奮した。
 ★4個なのは、もし私の耳がもっと敏感なら★5個になったかもという「期待」をこめた評価。一種の保留。耳のいいひとの感想を聴きたい。最後の演奏は超一流のプレー? それとも映像の魔術? 感動しただけに、気になってしまう。音痴の私は。
 それにしてもなあ、やってみたい。ジャズドラムをではなく、J・K・シモンズを「音楽狂人」の愉悦を、どこかでまねしてみたい。そういう欲望がむらむらとわいてくる。アカデミー賞にふさわしい名演だ。
                        (天神東宝3、2015年04月18日)






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嵯峨信之を読む(43)

2015-04-18 10:35:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(43)

 『魂の中の死』(1966)を読む。テキストは『嵯峨信之全詩集』(思潮社、2012年4月18日発行)。

81 上総舞子の唄

 最初の章は「広大な国」。巻頭の詩は、「上総舞子の唄」。書き出しは「女はゆくところがなかつた」。しかし、すぐに「ぼく」がでてきて「女」は出て来ない。

ぼくは大声でだれかの名を呼んだ
さだかならぬその名
その余韻はまことにむなしい
それは声になるはずもなく
ただぼくに帰つてくるばかりだ

 「女」は死んでしまったのかもしれない。その女の名を呼んでも返事はかえってこない。そう書いたあとの、次の連が興味深い。

ぼくを試すものがあるなら
一個の燭台をその方へ近づけるだろう
灯りが死者の傍らでみたものを告げるように
年齢(とし)とともにぼくから遠ざかったのはどこの川だ
弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに
死はたびたび生れかわる
そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる

 「ぼくを試す」とは「ぼく」の「何」を試すのか。女への愛を試す、ということかもしれない。二行目の「その方」とは死んだ女の方ということだろう。そこに「近づける」という動詞がある。さらにその先に「遠ざかった(遠ざかる)」という動詞がある。この「対比」(対句?)が興味深い。女の方へ近づく。(いまは死んでいるが、生きているときは、まさに「近づく」だろう。)近づけば近づくだけ、ふるさとの川は遠ざかる。女といればいるだけ、ふるさとから遠くなる。そういうことが象徴的に書かれている。
 そして、その「近づく」と「遠ざかる」の「対句」の響きを受けたまま、

死はたびたび生れかわる

 という一行がある。「死」と「生(れる)」の対比がある。女は死ぬ。しかし、その思い出は消えることがない。生きたままぼくに近づいてく。女は遠ざかったが、思い出は近づいてくる。
 「そしてぼくは灯りを消して深く瞼をとじる」という行の「深く」もとても印象が強い。「深くとじる」とはどういうことか。瞼をとじると「闇」が「深くなる」。その深い闇のなかに女はやってくる。
 途中の「弱くなった手あしがそれでもぼくを隠しているあいだに」という一行は複雑で意味が取りにくい。私は、女は死んでいるがぼくは生きている。生きているということが、ぼくを女から引き離している。「ぼくを(女から)隠している」という風に読んだ。死は女からぼくを隠す。ぼくの方は女を幾度も思い出すことができる。そのたびに女は生まれ変わって思い出のなかに生きる。

 この詩の最終連。

ぼくの散り散りになつた魂しいを
拾いあつめようと騒いでいる鴎たち
消えるぼくを最後まで見とどけようとする凍結した港
海霧(ガス)の階段をのぼつてくるのは
死よりもなお青白い太陽
そして鴎たちはその白い墓の方へ吹かれるように舞いのぼつていく

 「たましい」はふつうは「魂」と書く。詩集のタイトルも「魂」をつかっている。ところが、嵯峨はここでは「魂しい」と書いている。(晩年の詩集に出てくるのも「魂しい」である。)「漢字」だけではないもの、「表意文字」からはみだしている何かを書こう問うているのかもしれない。「魂」は結晶のような塊ではなく、しっぽのような何かがついていて、それで動いているということかもしれない。
 この連では、その「魂しい」と最後の「舞いのぼつていく」ということばが印象的だ。「上総舞子の唄」の「舞子」の「舞」が動詞となって、最後に書かれている。この「舞」は「魂しい」の「しい」にあたるものかもしれない。嵯峨からはみだしている(嵯峨の手のとどかない人間になってしまった)女の思い出。それが、嵯峨の魂をいまも動かしている。
 切ない恋の歌だ。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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破棄されたの詩のための注釈(31)

2015-04-18 01:24:07 | 
破棄されたの詩のための注釈(31)

テーブルの片隅に集められたのは「ぬれている」ということばと「水面の青」。「水面は正午の光で青くぬれている」ということばと、「ボートからはみだした影が水面で黒く輝く」ということばが、砕けながら入り乱れた。四月の正午、風は南から吹いた。

水に触れる手は、何を考えて模倣するのか。砕けるものを集める「感覚」ということばは「私は私を見て(あなたはあなたを見ないで)」という中途半端なことばを半ば所有し、半ば放棄している。想像力は、網膜のなかで完成する安直を拒否する。

そのように段落は変更された。

新しい単語はつづかず、スターバックスの外のテーブルの上に雨が降り、「ぬれている」ということばは水面から「青」をはがしていく。灰色の粗い粒子が現像しそこねた写真のように、水のなかから浮いてくる。「ボートの横」では、水に映った杭の色という問題が残される。







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佐藤裕子「-射手座生まれ-」

2015-04-17 11:54:34 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「-射手座生まれ-」(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)

 佐藤裕子「-射手座生まれ-」は、出産(誕生?)とその後を書いているのか。あるいは誕生のなかに含まれる死を書いているか。喜び(祝福)だけではない「異質」がひそんでいる。誕生(死)の瞬間を見ようとして、そのまわりに集まってくる親族(あるいは医者たち)の欲望がなまなましく感じられる。

満月は口蓋を開き朔の月は唇を結び
いついずこからともなく集まった者たち
身を乗り出すたびに円陣は狭まり
机上のことばを押し退ける始まりと変わらぬ呼び声

 出産(誕生/あるいは死)ということを思ったのは「満月」と「朔の月」からの連想である。出産(誕生)も死も、潮の満ち引きと関係があると言われる。月の形の変化は、そのまま潮の満ち引きとつながる。宇宙の呼吸に合わせて、潮が動き、いのちが動いている。
 それは「俗説」かもしれないが、この詩には(詩のことばには)、そういう「俗説」というか「世間」の無意識をたどってきた(ひとの「肉体」をとおってきた)ことばが、何か不思議な手触りで動いている。
 「満月」に対して「朔の月」(始まりの月、最初の月)という対比。私は「朔の月」という表現をつかったことがない(聞いたこともない)ので、「朔の月」が「新月」を指しているかどうかはっきりとはわからないのだけれど、まあ「新月」に近いものだろうと想像している。「朔の月」というのは古い言い方なのだろうと思い、そこに「世間」の「肉体」というものを感じるのだが……。
 で、そのことばが何ともなまなましく感じられるのだが、そして「生」と「死」という矛盾したものを同時に感じてしまうのはなぜかというと。
 「満月」と「朔の月」の描写が異質だからである。口を開く。丸い口の形。それが「満月」というのなら「満月」だが、佐藤は単純に描写していない。「口蓋を開き」というのは口のなかの暗闇が見えるということである。「満月」なのに明るくない。暗い。そして「口蓋を開き」だから満たされているわけではない。そこには「無」がある。他方「朔の月」(新月)の方は唇を閉ざしているので「口蓋の奥(闇)」は見えない。唇を閉ざして、その「月」の形が細いとき(一文字のとき)の方が、闇(空虚)は存在しない。一行目からして、何か矛盾を秘めた形でことばが動いている。
 これが魅力的であり、また、こわい。
 いよいよ出産(誕生)/死というときに、集まってきたひとたちは「事件」を取り囲んで、狭まる。「身を乗り出す」と自然にその「円陣」は狭まる。「事件」の瞬間を見ようとする。その「視線」を破るようにして「声」が誕生する。赤ん坊が生まれたときの泣き声(いのちの始まりの声)か、それとも死んでいくときの最後の息の音か。
 誕生と死を結びつけるのは不吉でよくないことなのかもしれないが、なぜか、私は死を感じる。死は、実際の死(たとえば老人の死)ではなく、生まれてくる赤ん坊自身の死かもしれない。「羊水時代の終焉」という意味での、比喩としての「死」かもしれないが。赤ん坊の元気な泣き声は、生まれた喜びなのか、羊水を去らなければならなかった悲しみなのか。区別はつかない。その区別のなさが「始まりと変わらぬ」ということばのなかにある。

古の海水をはきながら固く拳で握りながら
長い道は回転していくことを知っている

 これは胎児が羊水の海を、産道を回転しながらとおってくる様子を書いたものだろう。拳で固く握っているのはなんだろう。「羊水時代の死」か、それとも「新しく始まるいのち」か。「古の海水」の「古」ということばが、逆に「新しい」何かを想像させる。「古」は、「満月」と「朔の月」、「口蓋の開いた」闇(空虚)と「閉ざした唇」の充実の対比のように、「古」の対極にある何かを想像させる。
 ことばは常に両極端を結びつけながら運動している。
 だから「固く拳で握り」というのも、一方で握っていたものを手放したということを含んでいる。「羊水のなかでのいのち」(生き方)を赤ん坊は手放してもいるのだ。

視線の集中を産出した医師が分娩台の抽斗から
蒙古斑のない嬰児を取り出すような手際良さ

 ここには「分娩台」がじかに出てくる。それが「直」であるだけに、逆に「比喩(暗喩)」のようにも感じてしまう。出産の瞬間を集まってきた人たちが見ているのではない、と感じさせてしまう。「嬰児」なら蒙古斑がある(とは限らないが)。けれど死んでゆく人間なら、もう蒙古斑は消えている。「蒙古斑のない嬰児」は、「嬰児」ということばとは逆に「死者」を連想させる。

無言に込める張り詰めた間
渡す息をただ渡すためだけに渡された息を受け取る

 この「無言」の緊張は、私には臨終の緊張なのだけれど。「息を渡す」「渡された息を受け取る」というのは、死者のかわりに生きていくという感じなのだけれど、赤ん坊がはじめて空気を吸い込み、吐き出すときは、どんな「息」の受け渡しをしているのか。

琺瑯質で光る臍帯は薄緑を帯び
外科用鋏の握りに添えた何本もの手が
対の鋭角を触れ合わせる
上陸の試みを記録するディスプレイのイルカ

 この一連目の最後の四行は、臍の緒が切られ、赤ん坊が誕生した、羊水の海から「上陸」したということを語っているのだろうが、「外科用鋏」などとわざわざ書いているところが、やはり不気味である。「上陸」もただ「上陸」というのではなく「上陸の試み」と「試み」がついているところが、奇妙な手触りとなって残る。

 私のような読み方は「誤読」なのだろうけれど、(佐藤の意図にそぐわないかもしれないが)、こういう「誤読」を引き寄せる力のあることばが詩なのだと思う。どんな「誤読」もまねかないことば、一種類の「正解」しか許さないことばというのは詩ではないのだと思う。
 あ、これでは詩の紹介というより、私の「誤読」の自己弁護になってしまうか。

 詩はこのあと五ページつづく。緊張と矛盾は休むことがない。あとは「YOCOROCO」で読んでください。

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破棄されたの詩のための注釈(30)

2015-04-17 01:28:08 | 
破棄されたの詩のための注釈(30)

「反映」ということばがあった。ハナミズキの並木の坂道があり、そこで失われたものがある。けれど「視線」は残っていて、それがやわらかな花びらから「反射」してくる。その感じを「反映している」という動詞で言い換えたいと思った。その日のことばは。

「非在」とか「空虚」ということばをゆっくりと退けながら、坂がおわるところを見ていると「失われた」が「失われる」という現在形の動詞になって、坂をのぼっていく。こんな奇妙な「愛する」という方法(沈黙)を見つける必要があったとは……。
 
「空」という文字を傍線で消すと、青い空気が青いまま降ってきて、歩いていくひとの影になる午後。空を見上げれば飛行機雲の、まっすぐな道。そのさびしい色のハナミズキが揺れて、私のこころを「主張する」。


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渋谷美代子「東川下から」(つづき)

2015-04-16 09:51:47 | 詩(雑誌・同人誌)
渋谷美代子「東川下から」(つづき)(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)

 渋谷美代子「東川下から」のつづきの感想(というよりも、新しい感想)を書いてみる。きのう書いたこととまったく同じになるか、まったく違ったものになるか。書いてしまったら私は書いたことを忘れてしまうので、見当がつかないが……。
 台風が今夜にも北海道に上陸するというその日。「東川下のバス停」でバスを降りると台風の前触れの風が吹いてくる。

ちょっと気取って歩いていると
ぶぁっは(コノタワケガ!
後ろから風の棍棒
(ハイ、ハイ、

 いくつかの「声」がまじっている。突風にあおられる。その突風は「コノタワケガ!」と言っている。引用では省略した部分で、「わたし(渋谷)」は「気取った」ことを考えていた。気取って、油断していた。それで突風のためによろめいた。そういうとき、父親か誰かが「コノタワケガ!」という風に注意する(父親から注意される)ことが何度もあったのだろう。そういうことを思い出し「ハイ、ハイ、」と返事している。
 書かれていないが、そこには渋谷ではないひとがいる。渋谷ではないが、もう渋谷の「肉体」にしみ込んでしまった他人(父親、と仮定しておく。母親かもしれない)がいる。渋谷の「肉体」は渋谷以外の誰かとしっかり結びついている。
 そういう渋谷自身の「肉体」のあり方が書かれたあと、

今朝、干して行った洗濯物は大丈夫かな
八棟のベランダを見上げると
三階の人影のアヤシイ動き、ん?
足を踏ん張って目をこらすと、男で
苦労してタバコに火を点けているらしい
風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って
片腕で囲って必死、らしい

 ふと見るともなしに見た風景が描かれている。風の強さによろけ、洗濯物の心配をしたのは一瞬だけで、すぐにそのことは忘れベランダにいる男に視線が奪われてしまう。「アヤシイ動き」をしている。その「アヤシイ」を「目をこら」して見つめると、男の様子がわかってくる。たばこを吸おうとしているらしい。風が強いのでなかなか火が点けられない。
 それだけなのに、なぜか、おかしい。
 そんな男など「足を踏ん張って目をこら」して見なくてもいいでしょ? でも、見てしまう。ただ見るだけではなく「足を踏ん張って」。だって、風が強いのだから、と渋谷は言うかもしれないが、風が強いなら自分のことを考えるのが優先順位として上だと思うが、そこは「足を踏ん張る」ということで乗り切って、男を見てしまう。
 そうすると、渋谷が「足を踏ん張って」がんばっているように、男も何やら「苦労して」いるらしい。「足を踏ん張る」という「肉体」の動きがなかったら、男の「苦労」は見えてこなかったかもしれないなあ、と思う。「足を踏ん張っ」たとき、渋谷はしらずしらずに「男の肉体」の何かと共感している。「肉体」でつながって、男になってしまっている。「コノタワケガ!」と言った父親のことばを思い出すとき、渋谷は単にことば(声)だけではなく、そこにいる父親の「肉体」も思い出し、「肉体」そのものを感じている。つながっている。そういう感じで、ベランダの男を「身近に」実感している。この「身近」を指して、私は「男になる」と言っているのだが……。「身近/実感」は「わかる」ということでもある。
 ただ見るのでなく、男になっているので、男がたばこに火を点けるために、「風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って」いくのが「わかる」。ほんとうは違うことをしているかもしれないが、「足を踏ん張って」見ると、男も「足を踏ん張って」何かをしているように見えてしまう。見えていることが「肉体」そのものの「動き」として「わかる」。わかってしまう。「次第に仕切り板にすり寄って」の「次第に」まで、「わかる」。いやあ、おもしろいなあ。「次第に」なんて、見ている渋谷には「どうでもいい時間」の経過である。「次第に」といったって、それは「他人の時間」。渋谷にとって「次第に」なんて関係がない。けれど「次第に」と渋谷は書いてしまう。男のなかで「時間」がどんなふうに動いているか、時間をどんなふうにつかっているかが「わかる」のだ。
 この「他人の理解の仕方」がとてもおもしろい。「次第に」のなかで渋谷と男が重なる。渋谷は「次第に」男になっていく。
 「火を点けているらしい」「必死、らしい」と「らしい」が繰り返されているから、これは「想像」。でも、ほとんど確信、事実。「必死、らしい」読点「、」は断定したあと、わざと「らしい」をつけくわえるために挿入されたものだが、この「呼吸」も、とてもおもしろい。
 すっかり「男」になってしまって、男のことがわかっているのに、「、」をはさみ「らしい」をつづけ、「男の肉体」から渋谷は少し離れる。男になってしまって、それが、ほらやっぱり、なってしまったままではいやだから、ちょっと離れる。それが「、らしい」。その呼吸、そのことば。
 そしてベランダしかたばこを吸えない男を「ベランダ族」と呼び、そういう風潮を批判したあと、

今よりはまだ視力があった頃
山田風太郎の戦中・戦後の日記(二冊)を読んだことがあるが
月に一回か二回のタバコの配給券を貰うのに
朝、暗いうちから並んだ、とか
のぞみ80本巻く/○○では紅茶を巻いて吸っている由/煙草屋に
数千の人行列す/などなど

生活必需品並の御苦労(なんてたって夢の紫煙だもんね
お国の方も 昭和二十一年一月にはもう
「PEACE」(第二次、らしい)を発売する、という
ウルトラサービスで呆っ気にとられたが

あの頃は あの頃
ベランダの人 と同じで
あれがふつーだったんだろな
遠くから見るとちょっとコッケイナなだけで

 「山田風太郎」という別の男が出てくる。「ベランダの男」から少し離れて(離れるために)、別な人間のことをひっぱり出してくる。しかも「時代」の違う男。時代も男も違うのだが「たばこを吸う」ということが共通している。
 あ、これはしかし、逆に言うべきなのだなあ。
 「たばこを吸う」という「行為(動詞)」が、いまは「ベランダの男」になってあらわれているが、昔は「山田風太郎の日記」となってあらわれている。いや、違った。その「山田風太郎」が「いま」渋谷といっしょになって、ベランダの男を見ている。ベランダの男の「苦労」を見ている。
 渋谷自身は「いま/ここ」で「たばこを吸う」わけではないのだが、「たばこを吸う」という「動詞(行為)」のなかで、ベランダの男と山田風太郎と渋谷が、重なり、また離れている。「ひとり」になりながら、渋谷が「ベランダの男の苦労」を生み出し、「山田風太郎の苦労」を生み出していると言えばいいのか。
 言い換えると。
 渋谷が「いま/ここ」にいなければ、渋谷がことばを動かさなければ、「ベランダの男(の苦労)」も「山田風太郎(の苦労)」も存在しない。その存在しないものが、渋谷によって生み出されている。台風の前の強風によって、肉体をあおられた拍子に、視線が動き、そういうものを生み出した。
 この「生み出した」ものが、大それた発明品ではないので、「生み出した」という感じはあまりしないかもしれないけれど、私には「生み出した」という感じで見えてくる。
 何といえばいいのか……。
 ベランダの男にしろ、山田風太郎にしろ、まるで自分の産んだ子供を見るような愛着というが「肉体のつながり」がそこに漂っているからである。渋谷のことばに、奇妙な愛情がある。無関係なはずの人間なのに、「コノタワケガ!」と父親が渋谷に言うように、何か「愛情」をこめて、二人を軽蔑している。「遠くから見るとちょっとコッケイ」というような具合に。
 「愛情の手触り」のようなものが、ベランダの男も山田風太郎も渋谷が「生み出したもの(男)」のように感じさせるのかもしれない。常識的な「時系列」では山田風太郎が渋谷を「生み出す(比喩ですよ)」ことはあっても、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということはないのかもしれないが、それは「二元論的な見方」であって、「二元論」を捨ててしまえば、「時間」に「前(先)」も「後ろ」もない。「いま」だけがあり、「いま」のなかに「過去」も「未来」も溶け込んでいる。「いま」から「過去」や「未来」が「生み出される」だけなのだから、渋谷が山田風太郎を「生み出す」ということがあってもかまわないのだ。

 で、渋谷が「生み出す」ものは「ベランダの男」や「山田風太郎」という「人間」だけではない。「たばこを吸う」という「動詞」も「生み出している」のだ。「たばこ」が渋谷の「肉体」のすぐそばまでやってきて、渋谷の肉体に働きかける。

あっ、タバコの匂い
エーッ、こんなことまで? くん、くん、

 ベランダからバス停までたばこの匂いがほんとうに流れてきたのか。そうではなく、たばこを吸う男の苦労(ベランダの男/山田風太郎の苦労)を「肉体」で引き受ける(そういう「苦労」を生み出す--産んだ子供の行為を母親が引き受けるようなもの)ので、「肉体」のなかで、それまで眠っていた感覚(嗅覚)が目覚め、それが「匂い」を生み出すのだ。

 最初、書こうと思っていたことからどんどん違った方向にことばが進んでしまった感じがするが……。「傑作」とだけ書けばよかったのかもしれないが、誰も読まない「だらだら」とした感想がどうしても書きたかった。わけのわからない感想がどうしても書きたかった。渋谷の「肉体」が他人の「肉体」とぶつかりあいながら、結びつき、一つになって「世界」を新しくしていく。その感じがいきいきしていて、とてもおもしろい。

暗い五月―渋谷美代子第二詩集 (1967年)
渋谷 美代子
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*

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ウッディ・アレン監督「マジック・イン・ムーンライト」(★★)

2015-04-15 23:37:41 | 映画
ウッディ・アレン監督「マジック・イン・ムーンライト」(★★)

監督 ウッディ・アレン 出演 アイリーン・アトキンス、コリン・ファース、エマ・ストーン

 台詞の多い映画は苦手だなあ。この映画は特に最後の最後が叔母(アイリーン・アトキンス)がコリン・ファースを説得する会話ではなく、コリン・ファースが自分で答えを出すように方向性を与えるだけという「芸術的」なことばなので、あ、これを映画でやるのか……と驚きながら、困ったなあ、と感じるのである。演技も説得するのではなく、「無関心」風を装い、判断するのはコリン・ファースという具合に、仕向ける。そして、この台詞を、アイリーン・アトキンスが「見せる」。その演技も、とてもすばらしい。すばらしいのだが、私は困惑する。困ってしまう。英語がすらすらわかるわけじゃないからなあ。
 また、こんなに台詞がおもしろい作品なら「芝居」の方に向いているかもしれないとも思う。「映画」で「見る」には台詞が多すぎる。
 でも、不思議と「芝居」を見ている気持ちにはならない。「映画」を見ているという気持ちは消えない。なぜかな?
 象徴的な「台詞」がある。エマ・ストーンが「私をきれいだと感じたことはないのか」とコリン・ファースに聞く。これに対して、コリン・ファースは「夕日の光のなかで、きれいに見える」とこたえる。強い光ではなく、陰った光。
 そして、このことばどおり、エマ・ストーンは「翳り」のなかにいることが多い。屋外のシーンでも、顔に光が正面からあたるシーンは少なく、木立の影(翳り)のなかや逆光のような感じでいることが多かったように思える。
 きっとウッディ・アレンは、この翳りのなかで動くエマ・ストーンの表情(目の力)にインスピレーションを受けて、この映画をつくったんだろうなあ。そのために「霊媒師」というようなあやしげな役を与え、さらに、その「翳り」よりももっと陰湿な哲学狂い(文学狂い?)のコリン・ファースの役どころを考えたんだろうなあ(痩せて、陰気臭さが増したように見えたが、減量したのかな?)。コリン・ファースの陰気臭さの前ではエマ・ストーンの「翳りのなかの美」は「光のなかの美」のように錯覚するからねえ。
 この「翳りのなかの美」、さらにそれを引き立てる陰気臭さというのは「舞台」ではなむりかもしれない。芝居(舞台)の光はどうしても人工的になる。自然な「翳り」、空気の質感と、そこにいる人間の表情の微妙な変化を描き出すのは「舞台」ではむりだね。
 そして、この「翳り」を北欧(たとえば映画の最初に出てくるベルリン)ではなく、南仏を舞台にして撮るところがウッディ・アレンらしい。あくまで「明るい光の翳り」にこだわっている。
 で、そういう意味では「映画」でしかないのだけれど、これではまるでプライベートフィルムという印象がしないでもない。ウッディ・アレンがエマ・ストーンに求婚するためにつくった映画という感じがしないでもない。
 プライベートな感じを楽しみたいひと、台詞のおもしろさを味わいたい、英語が堪能なひと向けの作品かな。
                      (KBCシネマ1、2015年04月15日)
                      



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