詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渋谷美代子「朝のお告げ」「東川下から」

2015-04-15 11:41:42 | 詩(雑誌・同人誌)
渋谷美代子「朝のお告げ」「東川下から」(「YOCOROCO」3、2015年03月15日発行)

 渋谷美代子「朝のお告げ」の感想を書きたいのだが、どう書いていいのか、困っている。

肩のあたりがさむいなあ、と思うのと
(時には半身 氷の下だったり
懐かしい背がうっすら遠のいてゆく
気配とが ほとんど同時で
そんな目覚めのあとはきまって風邪だ
いや、風邪気の方が先にあって 微熱も出ていて
悪寒がするから死者なのか

 風邪かなあと思って目覚めたときの、夢と目覚めの感じを書いている。特別に新しいことを書いているわけではないと思う。特別に新しいわけではないから、書いていることがそのまま「わかる」。あ、こういう感じ、あるなあ、と思い出す。
 それだけなのかなあ。
 違うなあ、この文体の、妙に「正確」な感じ、適正を少し超える度の強さの眼鏡をかけて世界を見たときのような「くっきり」感じ、その、わざと「くっきり」見えるために、世界が少しずれて見える感じ(複視というのか、世界が二重に見える感じ)、片目をつぶれば何でもないのだけれど、両眼で見るときに起きる、ごつごつ、くらくらした感じはどこからくるのかなあ。
 「ほとんど同時」の「同時」のせいかもしれない。「複視」の比喩をつかって言いなおすと、複視というのは左右の目に度数の違うレンズをつける(眼鏡のレンズの度数が左右で違う)と起きる。少しの違いなら起きないが、度数が「2」違うと確実に起きる。脳が左右の目の情報を処理しきれない。そういうときの「同時」を感じさせる。風邪の感じと死者の夢が「同時」にあらわれて、脳を刺戟する。度数が違うために、一方の目には「夢」の方が、他方の方には「微熱」の方が見え、それが交錯する。
 「ひとつのもの」を見ているわけではないから、この「複視」の「比喩」はおかしい。うーん、そうかもしれない。けれど「死者(他人)」と「微熱(自分の肉体)」を「同時」に見るのではなく、「死者は自分の肉体とつながっている存在(いのちがつながっている死んだ肉親)」、「微熱は自分の肉体に生じた現象」というふうにとらえ直すと、そこには「自分の肉体」というものが共通する。「自分の肉体」を度数の違うレンズ越しに見たために起きた「複視」ということもできると思う。
 そして、この「同時」の「複視」を感じたあと、脳の方は「先」をめぐって「いまおきていること」を整理しようとする。「微熱」が出ていて、その影響で「死者」を思い出したのかもしれないと考え直す。「死者」が夢に出てきたから、寒けを感じ、それから風邪を引いたというよりも、「微熱(体調の変化)」が脳に影響を及ぼし、死者の夢を招いたと考える方が「現代的(理論的?)」ではあるかもしれない。
 あ、でもどちらが「論理的」がどうかは、実は、私は関心がない。
 「同時」と言ったあと、その「同時」のなかにも「先/あと」を見極めようとする「論理指向」のことばの動きが、渋谷の詩を特徴づけているんだろうなあと感じた。そういうこおに興味がある。「同時」でやめずに、「同時」というのはありえない、どちらかが「先」。それをはっきりさせたいという欲望の強さが、また「比喩」にもどるのだが、眼鏡の「適正を超えた度数」のレンズを思わせる。そんなに明確にしなくて、すこしぼやけた方が(見えないものがある方が)、脳的には楽なんじゃないかなあ、と思うのである。それを考えてしまうのが渋谷なのだなあ。
 渋谷の詩の、なんとも脳を緊張させることばの強さは、そういうところからきてるんだろうなあ、と私の「感覚の意見」は言うのである。

 「東川下から」は台風が近づいた日に、ふだんでも風の強い「東川下のバス停」でバスを降りたときのことを書いている。

今朝、干して行った洗濯物は大丈夫かな
八棟のベランダを見上げると
三階の人影のアヤシイ動き、ん?
足を踏ん張って目をこらすと、男で
苦労してタバコに火を点けているらしい
風で吹き消されるから 次第に仕切り板にすり寄って
片腕で囲って必死、らしい

 「目をこらすと」がおかしいねえ。そんなもの(男がたばこを吸おうとしていること)なんか、目をこらしてみなくてもいい。その男が「次第に」仕切り板にすりよっていく。その動きを「次第に」なんて克明に脳に情報として与える必要はない。それよりも、洗濯物が心配なんじゃなかったのかなあ。そっちの方が「生活」にとって切実でしょ?
 でも、考える必要はないのだけれど、この、どうでもいいことのなかをことばが動いていく--そこに詩がある。「複視」の「ずれ」というか、くっきり見えすぎる世界の困惑がある。脳がこまっている感じがとてもおもしろい。「必死、らしい」なんて「必死」かどうかはどうでもいいし、それが「らしい」か「ほんとう」かなんて、もっとどうでもいいのに、そこまでことばが動いて行ってしまう(洗濯物から「ずれ」ていってしまう)ところが、とてもおもしろい。「ずれ」ながら、「ずれる」ことで、世界が「ずれ」たままくっくりしてくるところが、おかしい。
 この妙にくっきりと「ずれ」てしまったところから、渋谷の詩は山田風太郎の「戦中・戦後日記」の方へ動いていく。片方の目で「死者」を見て、他方の目で「微熱」を見たように、片方の目でベランダの男を見て、他方の目で山田風太郎の日記を見る。そのとき、その二つをつないでいるのは「たばこを吸う」という「行為/動詞/肉体」である。知らない男(たぶん)と山田風太郎を「肉体(動詞)」で「ひとつ」にしてしまうと、その「ひとつ」をうながした渋谷自身の「肉体」がそれに巻き込まれるようにして、

あっ、タバコの匂い
エーッ、こんなところまで? くん、くん、

 と動いてしまう。
 視力(ベランダの男を見る/山田風太郎の日記を読む)が、「肉体/動詞(たばこを吸う)」をとおって、「嗅覚」まで覚醒させた。「肉体」を動かすと、それまで動いていなかった「肉体」が動き出して、別の世界が広がる。世界が新しくなる。
 こういうことが「同時」と「先/あと」、「次第に」ということばによってつきうごかされる。「次第に」というのは時間の経過を表わすことばであり、それは「先」ではなく「あと」に属する。「同時」のなかには「先」と「あと(次第にを含む)」があり、その「時間」の「結合」と「分裂」を明確すぎるくらい明確に書くところに渋谷のことばの不思議なおかしさがあるんだろうなあ。

 (私はいつも「結論」を想定せずに、ただ書きはじめる。だから、途中で書きたいことが変わってしまって、てんやわんやになるちことがある。今回もそうだなあ。何が書いてあるか、わかりにくいと思う。私もはっきりとはわかっていないから、それがそのままことばの動きになって、ごちゃごちゃなのだ。
 書きはじめたときは「朝のお告げ」の方がおもしろいと思ったが、書いている途中から「東川下から」の方がおもしろいと感じはじめた。あした、「東川下から」について書き直そうかな、とふと思っている。私は一日40分、ただ一気に書くだけなので、あしたはまた気分がかわり、ほかのことを思うかもしれないが……。
 私の「日記」は無視して、ぜひ「YOCOROCO」を読んでみてください。佐藤裕子の詩もおもしろい。)

暗い五月―渋谷美代子第二詩集 (1967年)
渋谷 美代子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破棄された詩「けやき通り」のための注釈(29)

2015-04-15 01:11:37 | 
破棄された詩「けやき通り」のための注釈(29)

「並んでいる」ということばがつかわれているのは、木がそれまで見てきた木というものはかってに生えているものだったからである。強い衝撃で暗闇に突き落とされたあと、気がついたとき、木は木が並んでいるのに気づいた。

「高い木が並んでいる」と言いなおされたのは、木が並んでいるだけではなく高さがそろっていることに気づいたからである。枝はいずれもビルの三階の高さから斜めに伸びている。横に広がると切られてしまうので、斜めに伸びることを自然におぼえたのだった。

「高い」は「上の方」と書き直されると、そこではざわざわとした騒ぎが始まった。幼さが、あたりにもやのようなものを吐き出し、少しでも早く緑の色を濃くしようと競っているのがわかった。木は、その木の欲望をなつかしく感じた。

「なつかしい」とは「おぼえている」ということばといっしょに動いている。木は、ほかの木のことは忘れてしまったがその木のことをおぼえている。その木は「水が石にぶつかり、飛び越しながら流れている」と言い、そこから春が始まった。

木は、「流れる」ということばに誘われて、枝がつつみこむ道の下を走る車は何を頼みにしているのだろうと疑問に思った。「信号の指図は短調で、止まれと進めを繰り返すだけである」と書いたところで、木のことばは中断した。信号に止まる車のように。

詩の中断について私が知っているのは、木が「どうしても鳥の世話がしたいのだ」ということばを書きたくなったと思ったからだ。「止まる」ということばが鳥を空から呼び出したのだ。だが、どこにも「とまる」鳥はいない。枝は、その軽さに苦しんでいる。







*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川透『現代詩論集成1』(16)

2015-04-14 10:28:13 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(16)(思潮社、2014年09月05日発行)

詩の破壊力について 田村隆一論

 私の書いている「感想」は、北川の書いていることを正確に紹介するためのものではないし、また北川の書いていることを批判するためのものではない。北川が書いたことばを手がかりに、私は私の考えたことを書いている。一種の「ことばの暴走」である。北川の文章を読んでいると、さまざまなことを考えてしまう。それは北川の考えを踏まえているわけではない。私は、ただ「考えたい」のであって、「結論」を求めていないから、そういう書き方をするのである。
 きょう読む「詩の破壊力について 田村隆一論」の冒頭は刺戟的である。『四千の日と夜』について書かれたものである。

ぼくは詩の観念の広さよりも深さについて、圧倒的な感動におそわれたのである。詩の観念の深さとは何だろう。それは、ぼくの存在の基底を絶えず揺るがすことによって、僕らの生が視えるものよりも、はるかに深いものであるということを開示してみせることに他ならない。( 345ページ)

 「詩の観念」とは詩にあらわれる(詩から読み取ることのできる)観念のことだろう。その観念には「広さ」と「深さ」がある。そして北川は「広さ」ではなく「深さ」に感動している。なぜ「深さ」に感動するかといえば、それは「存在の基底を揺るがし」、「基底」だと思っているもの(こと/「視える」基底」)をおし開き(開示し)、それよりも「深い」と教えてくれる(開示してくれる)からである。
 「視えなかった」基底が見えてくる、見せてくれる--そういう力に北川は感動している。
 これは説得力のある表現だ。見えなかったものが見えるようになると感動する。
 そう理解した上で、私は、ここに書かれている北川のことばを自分なりに点検し、自分なりに考えてみたい。
 まず「観念」とは何だろう。「視える」ということばを手がかりにすると、「見える(と、私は言い換えてみる)」ものが「現実/日常」、「見えない」ものが「観念」かもしれない。「観念」は具体的には視力に働きかけてこない。ことばの運動によって、その「動き」が「頭」につたわってくるもののことである。そのひとの「ことば」を動かしている何か基本的な「あり方」のようなものかもしれない。その「観念」が「深い」と、自分の「基底」の「浅さ」が見えるようになる(感じられるようになる)。そして、もっと「深い」ことばの動かし方があるとわかり、それに感動するということなのだろう。
 これはこれで「わかる」のだが(「わかる」と私は勘違いするのだが)、でも、それは「広い」観念に出会ったときもそうなのではないだろうか。自分が見渡せない遠くまで見渡せる「広い」観念に出会ったときは、「存在の境界線(国境のようなもの/枠/領域の限界)」を揺るがされ、その「領域」がはるかに広いものであることを開示され、やはり感動するのではないだろうか。
 なぜ、簡単に「深さ」の方に北川は感動したのかな? 北村太郎が「深さ」を書いていたからと言えばそれまでなのだが、私は、ここでちょっと疑問をもつのである。というか、あ、そうか北川は「広さ」よりも「深さ」の方に感動する思考の持ち主なのだな、と感じるのである。
 この「深さ」のこと、開示された「深い世界」を、先の引用につづく文章のなかで、北川は「異教の世界」と呼んでいる。(「異数の世界」となっているが、たぶん、誤植だろう)。さらに、「想像力」によって、「ぼくらの安定した存在感を破壊」し、「非在のなかへ、不可視の世界へ飛び立つ」と言っている。「安定した存在感を破壊し」とは「存在の基底を揺るがす」を言いなおしたものだろう。
 おもしろいのは、そうやって広がる世界を、北川が「異教の世界」ととらえていること。(私は信じているといえの宗教をもたないので、「異教」については深入りしないことにする。私にとって何が「異教」であるか、それが言えないから。)さらに、先には「基底/深さ」と呼ばれていたのに、ここでは「飛び立つ」という動詞がつかわれていることである。「基底/深さ」なら「潜る」という「動詞」で動いていくと思うのだが、北川は「飛び立つ」と書いている。
 「深さ」とは北川にとって、単に「現実」の「基底」の方向(地下の方向)を指すだけではなく、同時に「空」の方向も指していることがわかる。「垂直方向」が無意識に指向されている。「広さ」が「水平」なのに対し、「垂直方向」へ世界を開いていく「観念」というものが思い描かれ、その「垂直方向」の開示のあり方に感動しているということがわかる。(そして、この「深さ(下)」に対して「飛び立つ(上)」という意識に、北川の指向している「思想」あるいは「メタフィジカル(形而上学)」の「上」が重なってくると私は感じている。--これについては、あとで触れるかもしれない。)
 なぜ、北川がこうした運動に感動するかというと、

ぼくらの主体が詩的表現を通じて、より広い、より深い世界のなかへ向かって確かな存在を主張しはじめるということは、たえず、ぼくらが生きている状況に拘束されながら、その状況の制約そのものから自由となっていくということなのだ。

 と「自由」と結びつけて語られている。自分の監視手いる限界(枠/拘束された状況)を超えて動いていくのが「自由」。「自由」を感じるから、北川は感動し、その感動をことばにしている。なるほど、わかりやすい。
 この文章でおもしろいのは、ここでは先には「無視」された「広さ」が「より広い」という形で、「より深い」と並列されていることである。無意識に「広い/深い」を並列したのか、意識的に並列したのかはわからないが、並列しながらも重点は「深さ」に置かれているのかもしれない。しかし、「広さ」が並列されるにしろ、北川の指向は「深さ」を、あるいはその垂直方向の対極の「高み(高さ/飛び立っていく領域)を指している。
 天(飛び立っていく領域/空)はたいてい障害物もなく「開かれている」。だから、「開く」という運動が問題になる「垂直方向」はどうしても「底(基底)」になる。「深さ」を「大地」を掘るようにして開いていく。私たちの「現実」の「足元(土台)」を掘り返していく。
 そして、その「深さ」の「開示のあり方」にかかわってくるのが「想像力」というものである。ここまでは、なんとなく「わかる」。つまり、私は「こんなふうにして誤読することができる」と書くことができるのだが……。
 その「想像力」を定義している部分が、うーん、うならされる。うなってしまう。

想像力の働きとは、本来、喰うことの意味づけを否定する働きであり、あらゆる私有の様態を拒絶して、本質的な所有の意味へ突き抜けようとする働きである。( 346ページ)

 北川の書いている「文脈」を無視して私の感想を書けば、私にとって想像力とは「喰うこと(生きること)」と密接なものだと思う。どうしたら、あそこにあるものを「喰う(喰って生きる)」ことができるかと関係していると思う。ところが北川は「喰うことの意味づけを否定する働き」という。うーん、「観念的」だ。非現実的だ。何のことか、さっぱりわからない。
 人間の生活(状況)を「拘束する(制約する)」ものを「開示する」とき、その「現実」から「喰って生きる」ということが除外されていては、「生きていけない」。状況に拘束される(制約される)のは「喰って生きなければならない」からであり、「喰う」ことを除外しているなら「拘束(制約)」というものは起きないのではないかな?
 「形而上学」もいいけれど、「形而下学」を抜きにしては、人間の存在が成り立たないと思う。
 「私有/所有」ということばで書かれていることも、私には何のことかわからない。何かを自分のものにしたい、つまり「私有」の欲望と結びついて「想像力」というのは動くと思うが、北川はそうではない、と定義している。
 「現実(存在/実在/視えるもの)」と「観念(非在?/視えないもの)」と「想像力」ということばの「関係」が、どうも、私にはとらえにくい。わからない。だから、私は北川の「文脈」を読み、それを理解するというよりも、わかったつもりになるところで立ち止まりながら(わからないところで立ち止まりながら)、ごちゃごちゃと自分のことばを動かしてみとるのだが……。
 わからないまま、私は、北川は詩を、「現実」と「観念」と「想像力」のぶつかりあう「場」と考えているのだろうと推測する。見えてる「現実」を「想像力」で破壊し、「現実」の基底にある「観念」の変更をせまる。基底を支えている「観念」と思われているものを破壊し、新しい「観念」を提示する(開示する)のが詩であると考えているのだと想像する。このとき「新しい観念」とは「新しい思想」と呼びかえてもいいのかもしれない。

 北川は、こうした文章のあとで、北村太郎の「三つの声」をとりあげて、次のように書く。

日常的な生の拒絶において生み出した直截的な隠喩が、ぼくらを事実と事実の内側にこびりついた存在から、まったく自立したメタフィジカルな世界に誘うのである。( 350ページ)。

 「日常的な生の拒絶」とは「喰うことの意味づけを否定する」を言いなおしたものであろう。「直截的な隠喩」とは「想像力」のことだろう。「事実と事実の内側にこびりついた存在」とは「(ぼくらが無意識的に信じていた)存在の基底」のことだろう。「自立したメタフィジカルな世界」とは「観念(深い観念/形而上学/思想/哲学)」のことだろう。
 「日常(現実)」の「基底」を「想像力(隠喩)」によって破壊し、それまでは見えなかった意識下の存在の本質を描く。「深い」ところにある「存在の本質(メタフィジカル/思想/哲学)」をあきらかにするのが詩ということになるのだろう。そして、そうやって発見(開示)された「メタフィジカルな世界」を北川は「言葉の海」( 350ページ)と呼んでいるのだが……。
 わかりやすく(私の読み方が「正しい」と仮定しての「わかりやすい」なのだが……)、あ、そうなのか、と思わず引き込まれるのだが、一方で、私は「暗喩」と簡単に語られていることばにつまずく。
 「暗喩」あるいは「比喩」とは何だろうか。
 「比喩」が生まれてくるのは、どういう状況だろうか。「比喩」を生み出すとき(あるいは「比喩」に呼び出されてしまうとき)、私たちはどんなふうに動いているのか。
 たとえば「あなた」を「バラの花」という「比喩」にするとき、「あなたは美しい」と「バラの花は美しい」が「美しい」という用言といっしょに動いている。「あなた」という「人間の現実(基底)」がいったん破壊され(人間であることを無視され)、「美しい」という用言にまで掘り下げられ(深められ)、その「深み」で「バラの花」を掴み取り、ふたたび「あなたのいる現実」へとあらわれてきて、そのときに「あなたはバラの花」という比喩になる。「あなた」を「バラの花」として「生み出す」。
 こういうことはあらゆる「比喩」の基本的な運動だと思う。そのときの「用言」の働きをもっとことばにして描出しないと、「隠喩」を語ったことにならないのではないか、と疑問が残る。「現実のことばの世界」を破壊したときにあらわれる「基底」のさらに「深み」にある世界を「言葉の海」という「比喩」にしてしまっては、「現実の基底」を「破壊する」という運動の、「言葉の海」での動きがつかみとれない。そう思ってしまう。
 「言葉の海」という「比喩」と「基底」を「開示する」という運動との関係も考えてみなければならない。「言葉の海」は「基底」と結びつけて考えるなら、たぶん「言葉の海底(あるいは海中)」ということになるのだと思う。海面の下の「巨大な海の内部」のことを言っているだと思う。「言葉の空(宇宙)」といわずに「言葉の海」というとき、そこには「海に潜る(下へ行く)」という運動が無意識に重ねられていると思う。そして、「海底(海中)」から何かをつかみとって「浮上」する垂直の、上方向の運動が「飛び立つ」(自由)へと結びつくのだと思うが、途中に「喰うことの意味づけを否定する働き」という文章(ことば)があるために、私は、その運動が「肉体」から離れてしまっているように感じ、それを追うことができなくなる。
 北川が「状況」を語るとき、「肉体」はどこにあるのだろうか、それが、私にはわからなくなるときがある。
 これは「荒地」の詩人たちが第一次大戦後のヨーロッパの思想状況を引き継いだというような「評価」についても感じることである。そのとき詩人たちの「肉体」はどこにあるのだろうか。その「肉体」と第一次世界大戦後は、どこでつながるのか。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』

2015-04-13 10:40:12 | 詩集
友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』(ナナロク社、2015年03月01日発行)

 友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』のことばに知らないことばはない。たとえば「宇宙船」の2、3連目。

ぼくはバスに乗り損ねてここに来た
バスには停留所もなく出発時間も決まっていなかった
ただ夜、夜とだけ記されていて
ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない
バスとは宇宙船のようなものだった

バナナは真夜中でも黄色かった
リンゴは真夜中なのに赤かった
ぼくは果物屋の前にいた
ぼくが見つけた場所はそこだった
目に見えないバスが近づいてくる

 どのことばも知っている。それなのに、ここに書かれていることが「知らない」ことのように思える。ほんとうは「知らない」ことなのに、ことばを知っているために「知っている」と勘違いしている。「知っている」と思おうとして、友部のことばが書いている世界にたどりつけない、ということかもしれない。
 「バス」も「バス停」も、街で見かけるバスやバス停ではない。「目に見えないバス」と3連目の最後に書いてある。そうなら「バス停」だって「目に見えない」。「時刻表」もないのだ。「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」と書いてあるから。そうすると、それは「比喩」なのか。
 「バスとは宇宙船のようなものだった」とは「バス」が「宇宙船」の「比喩」になっている一行だが、それだけではなくすべてが「比喩」なのだろう。
 「バナナ」も「リンゴ」も「比喩」。
 でも、何の?
 友部の「見ているもの」の「比喩」なのだ。「果物屋」で「バナナ」や「リンゴ」を見ていても、それは「ほんもの」ではなく「比喩」。
 でも、何の?
 それは、たぶん、バナナの比喩であり、リンゴの比喩である。あるいは黄色や赤の比喩、さらには真夜中の比喩なのだ。
 えっ、何を言っている? 私自身も、まあ、よくわからないのだが、バナナを見ながらそれをバナナと言いなおしたもの、という感じ。リンゴの方が説明しやすいのでリンゴを例にして言うと、目の前にリンゴがある。それを日本語でリンゴと言う。英語ではアップルと言う。そのときアップルはリンゴを英語で言いなおしたもの。言いなおしたものだから「比喩」なのだ。そして英語で言い直しながら、認識としては「リンゴ」に戻っている。そういう「感じ」の「比喩」なのだ。
 別な言い方をすると、そこに「リンゴ」がある。それは、ほんとうにリンゴなのか。アップル(英語)と呼ばれたり、マンサナ(スペイン語)と呼ばれたりする。つまり、そう呼ぶひとが世界にいる。そして、それは「ことば」の問題として言えば、単にそう呼ぶひとがいるということなのだが、あるひとがアップルと呼び、別なひとがマンサナと呼びながら、それが同じ「リンゴ」であると認識するとき、私たちはその果物だけではなく、「他人」の「肉体」をとおっている。それを食べて、味わっている「他人の肉体」をとおって「自分の肉体」と重ね、それを「リンゴ」と理解している。
 あ、リンゴでは、うまく言えない。
 阿部の詩に直接出て来ないのだけれど、「水」を例にとると説明がしやすい。ここにコップに入った「水」がある。「水」に見える。英語ではウォーター、スペイン語ではアグワ。「名前」を聞いても、それで「水」であることが保証されたわけではない。けれど誰かが目の前でそれを飲んで見せてくれれば、まねをしてそれを飲み(他人の肉体を自分の肉体で反芻し)、それを「水」と確認できる。
 「水」はあるときはアルコールかもしれない。ジュースかもしれない。それは「飲む」という「動詞」をとおって「飲み物」になり、「飲み物」から水やアルコールやジュースに分かれてくる。そのとき「水」は「飲み物」の「比喩」、「アルコール」も「飲み物」の「比喩」。--こういう言い方は「文法」ではしないのだけれど、具体的な「肉体」をとおして確認された「こと」を友部は言いなおしている。
 「ぼくたちはみんなそれぞれの場所と時刻をみつけなければならない」の「みんな/それぞれ」というのは、私が書いたことばで言いなおせば、日本語/英語/スペイン語のようなもの。バナナはバナナ。リンゴはリンゴ。水は水。なのだけれど「みんな/それぞれ」別の名前でもある。別の名前を「ひとつ」にしているのは、人間の「肉体」。別の名前で呼ばれる「比喩」は「肉体」をとおして、「ひとつ」に戻ってくる。そういう不思議な径路を経て、友部のことばは動いている。
 知っているのに知らない、知らないのに知っているというような感じが起きるのは、そのためだ。 
 この不思議な「比喩」をとおって、では友部はどこへ行こうとしているのか。「宇宙船のバス」に乗ってどこへ行くのか。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から出発して、他人の肉体をとおってまた「バナナ」「リンゴ」へ戻ってきたのだから、行くとするなら友部がとおってきた「他人の肉体」(他人そのもの)へ向かって出発するのだろう、それ以外に行き場はないだろう、と思った。あ、この「他人」というのも「比喩」のようなものかもしれないけれどね。

 どうして、この詩から(この詩を読んだだけで)、そんなことが言える?
 あ、もちろん、言えない。
 どんなふうに言えばいいかわからずに、私は突然書きはじめた。詩集を読みながら、友部の書いていることばは全部知っているのに、何か「知らない」ことばのように聞こえる。新しいことばのように聞こえる。その新しさはどこから来ているのか。新しいと感じるのはなぜだろうかと思いながら読み進み、「遠いアメリカ」という作品の、

ぼくには距離が必要だった

 という行に出会ったとき、突然、いま書いてきたようなことを感じたのだ。
 「バナナ」が「バナナ」になるまで、「リンゴ」が「リンゴ」になるまでには、友部には「距離」が必要だった。自分の知っている「バナナ」「リンゴ」から遠く離れることが必要だった。遠く離れてしまって、新しく発見したものとして「バナナ」「リンゴ」に出会うためには、「他人」という「肉体」に出会うことが必要だった。「他人」と友部から離れたところにいた。その「離れた」というのが「距離」。「離れている」けれど、いっしょにもいる、というのが「距離」。
 「水」の例に戻って言うと、目の前に「水」がある。でも、それは飲んでいいかどうかわからない。飲んでいいと了解する、そしてそれを水として受け入れるためには、「他人の肉体」それを「飲んで見せる」という径路が必要であり、その「他人の肉体」を反芻するということが必要だった。自分でありながら、いったん他人になる。他人でありながら、水を飲んで見せてくれたひとは、そのとき友部だった。断絶したものをつなぐ「肉体」の「運動」(動詞/飲む)が必要だった。
 そして、このときの「自分」と「他人」を隔てながらつないでいるも、「肉体の運動」を可能にしているのが「距離」なのだ。「距離」がつくりだす「場」なのだ。

 自分ひとりでは到達できない何か、他人と出会い、他人の肉体を潜り抜けることで共有する何か、共有された「こと」が友部のことばを鍛えている。そこには友部という「我」が動いているのではなく、他人と共有した「無我(純粋な肉体/いのち)」のようなものが動いている。「無我」が引き寄せる「比喩」が動いている。
 それが「誰もが知っていることば」となっている。「誰もが知っている」というのは無数のひとの「無我(純粋ないのち)」をとおっているということだ。
 無数のひと(無数の肉体)の「無我(純粋ないのち)」をとおるのであれば、そこには「個性」がない?
 いや、そんなふうに「無数の無我」をとおる、とおることができるということ自体が「個性」である。「我」を張る方がはるかに簡単な(?)個性の主張であり、「我を捨て」、出会ったひとと同じ「肉体」になり、ことばを動かすというのは、困難な個性のあり方だ。美しい「和音」は自己主張であると同時に他者との共同作業なのだ。
 何か、そんなことも思った。

 こんな考えも、それでは「ぼくには距離が必要だった」という行から、突然閃いたのかというとそうでもない。あと出しじゃんけんのようだが、「街の反対側の風が吹く」の、

言葉は一つの方向を向く
すると言葉では伝えられないことが起きてくる

 という二行に刺戟されて、いま書いたようなことを思ったのだ。「言葉では伝えられないこと」という表現に、「誰に/伝えられないか」ということを思ったのだ。書かれていない「誰か」が、ここにはている。「誰」を省略しているのは、「誰か(他人)がいる」ということは友部にとってはわかりきったことだからである。わかりきっているから書く必要を感じない。そのために、それが省略されてしまう。(こういう省略されてしまうことばを、私は「キーワード」と呼んでいる。これは繰り返し書いていることなので、説明を省略する。)
 「誰か」(自分ではない人間)という存在に「伝える」ということが、友部のことばの動き方の基本なのだ。「誰か」と「ことば」を共有する。そのとき、「無我」になり、他人の「肉体」をくぐる。そういうことが「起きている」。「起こそうとしている」。そのときとる方法が「バナナ」を「バナナ」という「比喩」にする、「リンゴ」を「リンゴ」という「比喩」にするという方法なのだ。自分の知っているものを捨て、他人をとおってきて、もう一度、そこにあるものを「これはバナナ、これはリンゴ」と新しいものとして発見する方法なのだ。
 友部の書いているバナナ、リンゴは「新しく発見されたバナナ」「新しく発見されたリンゴ」なのだ。「新しく発見された」が省略されている。「新しく発見された」という「性質」が、その「比喩」のなかに隠されているのだ。

 しかし、私の書いているのは「詩の感想」ではないね。私は「詩の感想」を書くふりをして、人間とことばの関係を考えていると言ってしまいたいのだが、そう言ってしまうと大風呂敷を広げることになるので、「詩の感想」を書いているというのだが、こういうことも、まあ、書く必要はないね。でも、あまりにも詩からかけ離れていることを書いたようなので、自己弁護。

 詩に戻ろう。「無我」になって「他人の肉体(純粋のいのち)」をとおり、「比喩」として「生まれる」という「実践」として、たとえば「新しい雨」がある。その書き出し。

君にとってはなつかしい街でも
ぼくにとっては新しい
ぼくは新しいこの街を歌う
歌ってこの街の雨になる
まだことばにならない声で歌う
ぼくは新しいこの街の雨になる

 友部が目指しているのは「ぼく」になることではない。「雨」になること。そして、その「雨」は「君」が生きている「この街」に降る雨だ。「君」は「無我としてのぼく」を「雨」に見るだろう。その「雨」に濡れるだろう。
 いいなあ。
バス停に立ち宇宙船を待つ
友部 正人
ナナロク社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「バードマン」(★★★★★)

2015-04-12 10:41:07 | 映画
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(★★★★★)

監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演 マイケル・キートン、ザック・ガリフィアナキス、エドワード・ノートン

 この映画は「舞台」(芝居)を題材に映画にしているのだが、うーん、おもしろい。「芝居」(舞台)になっているのが刺戟的だ。
 ふつうは映画が「芝居」になってしまったら見ていられない。松尾スズキ監督「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(★)もその一つだった。台詞で描いておもしろい部分を「映像紙芝居」にしているから興ざめする。芝居を映せば映画になる、芝居ではことばでしか描けなかったところを映像で補えば映画になる、というものではないのだ。それでは映画を「芝居」におとしめている。
 この映画は逆。映画の文法を守りながら、「芝居」に昇華し、映画を超えて「芝居」になっている。
 「お、芝居だ、舞台だ」と思わせるのは、二つの要素。映像と音(音楽)。あ、映画も映像と音が勝負なのだけれど、その映像と音の処理が「芝居」そのもの。「芝居」の文法を駆使している。
 映像からいうと、「長回し」を思わせる切れ目のない映像がこの映画のいのち。どうやって撮影し、編集したのかわからないが、カメラが延々と移動し、映像にとぎれるところがない。まるで舞台の上の役者の演技を見ているよう。舞台では「幕」が降りるまで観客は役者の動きを見つづける。主役から脇役へ、さらに主役へと見ながら視線は動くが、観客の「視界」と中断されない。連続している。その登場人物を視線で追いかけながら「事件」の現場に立ち会っている感じ、視線の「連続」感が延々とつづく。楽屋、舞台、舞台裏、さらに劇場の外まで、カメラはひとつながりで動いていく。「さすらいの二人」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督、ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー主演/★★★★★)のラストシーンのようにカメラが格子(狭い鉄の窓飾り)をくぐりぬけたりもする。この「持続感(連続感)」がたまらない。息がぬけない。これが「芝居」の醍醐味。いいなあ。
 本物の「芝居(舞台)」よりもおもしろいのは、その「映像」の視点が「観客席」に固定されないこと。芝居小屋だと、あ、この席ではなくあの席ならもっと役者の顔が見えたのに、悔しいなあ、と思うことがあるのだが、映画だからカメラが自在に動き回って見たい顔を存分に見せてくれる。見たい動きを、間近に見ることができる。「臨場感」がカメラの動きによって強まる。映画の特権を生かしながら、「芝居」の感じを増幅させている。舞台も集中すると、ひとは周囲を見ない。誰かがテーブルの下に隠れるとする。そうすると視線はそのテーブルの下という限られた空間のなかの人物の動きだけを見てしまう。そういう「視線」の動き、観客の意識の動きを、映画ではカメラの演技で再現する。
 この映画のカメラ(長回し風の連続感)、アップやロングへの視界の変化というカメラの演技は、芝居小屋で芝居を見ている観客の「視線」の再現なのである。
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は鬼才である。この緩急自在の連続した映像見ただけで、もう★5個。この「連続感」に、楽屋のごたごたした「情報」も、舞台小屋(芝居小屋)の通路だの、舞台裏の「情報」も盛り込んで、「連続感」を消そうと工夫しているのもおもしろい。「長回し」なんて思うなよ、と観客を「牽制」している。「技術」なんかを見るなよ、観客の目をそらそうとしている。そのために、映像が、なんともいえず緊張している。雑多で「ごちゃごちゃ」、あるいは「だらだら」しているはずの「映像」なのに、きちんと「絵」になっている。力業である。
 音も「芝居」している。いろいろな音がつかわれているが、ドラムが特に効果的である。ストリートミュージシャンが実際に演奏するシーンも出てくるが、その音が聞こえないはずのところでもドラムが聞こえる。メロディーを排除した、そのリズムだけで映像を刺戟する方法が、とても「芝居」的である。映画のバックミュージックというのは、映像に負けまいとしてか(あるいは映像の不足している情感を補おうとするためか)、「音楽情報」が多すぎる。オーケストラの音楽などメロディーだけではなく音の種類まで多彩だ。これでもか、これでもか、と感覚を刺戟してくる。この映画では逆に「音」の情報を少なくすることで、ほかの音を観客に想像させる。舞台の書き割りが「現実」そのものではないことによって観客に「現実」を想像させるように、不完全(?)な音によって、逆に想像力をあおるのである。観客の音の感覚を研ぎすまさせるといえばいいのか。ドラムの音が主人公の感情(激情)の疾走、そのときの心臓の鼓動のように聞こえる。妙な「悲しみ」や「センチメンタル」をあおらず、感情が爆発しそうという感じだけを刺戟し、そのときの感情の「強さ/激しさ」の先にあるものへと観客をつきうごかす。
 映画なのに、芝居小屋の特等席にいて、最高品質の芝居を見ている感じになる。
 この映像と音に、「芝居」を演じるという「演劇」そのものが加わってくる。「芝居」というのはもともと嘘。嘘と現実が舞台のうえで交錯するのが「芝居」の醍醐味だが、この映画では、登場人物の嘘と現実(虚構と現実/妄想と現実)が交錯するので、さらに「芝居」を見ている感じになる。演じている役者(役どころ)が「バットマン」の主役をやったマイケル・キートンなので、見てる観客の方も、そこに出てくる「バードマン」は「バットマン」と「妄想」しながら、「リチャード」という役ではなく「マイケル・キートン」という役者を見てしまう。そして、これは「マイケル・キートン」の「自伝(?)/自画像」なのだと勘違いする。この嘘をほんとうと言いくるめ、ほんとうを嘘だと言い張る感じが、「見世物芝居」そのものであるのがおもしろい。実在の映画俳優の名前をつかって、「バードマン」という「嘘」を補強(?)するところなど、「見世物芝居(舞台裏芝居)」でもある。ところどころで大笑いしてしまう。「芝居」が、そのときそのときでアドリブで観客を刺戟するのに似ていて、それも楽しい。(私のが見た天神東宝1では、観客はあまり笑わなかったが……。もっと笑うと「芝居小屋」で芝居を見ている感じがもと強くなる。)
 観客はいつでも「嘘(芝居)」を見ながら、そこに「役者の本物(地)」を見るものなのである。「悪女だけれど美人だなあ(悪人だけれど美男子だなあ)」とストーリーとは無関係に「役者の存在」を楽しむ。そんな欲望まで、くすぐってくる映画なのである。
 あ、書き忘れた。
 この映画ではマイケル・キートンは空を飛ぶ。「芝居小屋」では空を飛ぶシーンは「宙づり」で表現される。目の前で役者の肉体が浮かぶのは、それが宙づりとわかっていても、というか、わかっているからこそ興奮する。ここまでやって見せてくれる、という感動である。この「ここまでやってみせてくれる」という感動を、空を飛ぶシーンで再現するのはとてもむずかしい。「宙づり」と「特撮」の違いだね。「宙づり」には「肉体」の危険がともなっているから興奮するが、「特撮」には「肉体」の危険がないから、ぜんぜん興奮しない。この醒めきった映画館の観客をどうやって興奮させるか。これがこの映画のいちばんむずかしいところなのだけれど、とても自然で、「興ざめ」させないところがいいなあ。空高くだけではなく、道路の下(?)というか、トンネルのような低空の飛行をまじえることでマイケル・キートンの「現実」の視線(タクシーに乗って移動しながら、空を飛んでいると妄想している、その視線)をおりこんでいるからだね。細かい部分も、ていねいなのだ。人間の「視線」というものの「欲望」と「現実」を、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは熟知している。そういうことを感じさせる映画である。
                        (2015年03月11日、天神東宝1)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陶山エリ「白湯と春」

2015-04-11 12:09:51 | 現代詩講座
陶山エリ「白湯と春」(現代詩講座@リードカフェ、2015年04月01日)

白湯と春   陶山エリ

二日酔いはよく知らないけれど
白湯を白湯を
やたらとうぜんのように求めてくる

ぬるい\温い(形)液体の温度が冷めたり暖まったりして、適温から外れている

冷水から白湯になったひと
熱湯から白湯になったひと
体温になりたいひと
めんどくさいような怠惰のような思わせぶりのような
有り難がられている
さゆさゆ、さゆをどうぞどうか

約束が破られたあとに言葉も破られると語っていたこともおぼえていないだろうけれど
二日酔いはよく知らないから
もれなく写経できてしまうくらいにおぼえているけれど
うやうやしく飲み干すそののどぼとけは山門に佇むひとのよう
よりいっそう無味が曝される罪深いぬるさに気づくことなく

視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら
吐ききる 無を みていたい

もう戻れないんだね春は
扉をうっかり開いてしまったようで

風になりすまし白湯が
白湯の頬を撫でていくとき
この薄い感情をできるだけ深く突き刺したい

 この詩にも、いろんな感想がでた。
 「おもしろい詩。リズムがある。「冷水から白湯になったひと/熱湯から白湯になったひと」はわからないけれど、おもしろい」
 「有機的な感じ。「のどぼとけ」ということばが印象的。何かをおぼえているが、もどれない。それを思い出している。何か自立している印象がある」
 「批判的な詩。「もう戻れないんだね春は/扉をうっかり開いてしまったようで」の2行がいい。幻惑的な感じもする」
 「騙されている気がする。書いている以上のことを想像する。わかりたいという気持ちになる」
 「いらいらしている詩かもしれない」
 「白湯と春は反対のことばのように思える。悲しい感じがするが、意味がつかめない」
 「白湯と春というタイトルの組み合わせが独特。白湯と春のぬるい感じを組み合わせている「冷水から白湯になったひと/熱湯から白湯になったひと」「視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら/吐ききる 無を みていたい」の2行がおもしろい」
 「いままでとは違った感じを書こうとしているようだ。「うやうやしく飲み干すのどぼとけ」の一行はあやしげ」
 「最後の一行に考えさせられた」
 受講生の何人かが、それぞれ印象的な行をあげているが、思わず「この行が好き」といいたくなる魅力にあふれている。
 それと関係していると思うが、その発言のなかの、

書いている以上のことを想像する。わかりたいという気持ちになる

 ということばが、詩以上に印象的に残った。
 詩を読むというのは、書いていることを「正確に」理解するということとは違うような気がする。作者が書いている以上のこと(以外のこと?)を読み取ってしまう。私はこれを「誤読」というのだが、書かれていることばに誘われて、作者の「肉体」がおぼえていることを無視して、読んでいるひとの「肉体」がおぼえていることが動き出す。自分の「肉体」にひきつけて読んでしまう。そのとき、ひとは詩を感じている、詩を生きているのだと思う。
 この詩は、作者によれば「春がきちゃったんだなあ、もどれないんだなあ」ということを書いた、ということだが……。
 私が思い浮かべるのは、二日酔いの男が「白湯が飲みたい」と言っているのを、女が醒めた感覚でみている状況である。「さゆを、どうぞ」「さゆを、どうか」と男は二日酔いで苦しみながら言っている。ちょっと、うるさい。めんどうくさい。男は白湯を求め、女はその男がめんどうくさい。二人のあいだに、ちょっとした「ずれ」のようなものがある。
 この「ずれ」を「白湯」の定義(辞書から引用したのだろう、(形)という部分までそのまま引かれている)を借りて「適温から外れている」と言っている。
 「適温」の「適」は「適切」の「適」。「適切な状態」から「外れている」。その「外れた」状態を、作者はなんとなくいやな感じでみている。感じている。作者が求めている「適切」とは違う状況にいるのだ。

冷水から白湯になったひと
熱湯から白湯になったひと
体温になりたいひと

 この三行は男の変化と重ね合わせられているのだろう。「体温になったひと」というのは、二日酔いとは違うね。酔いの残っていない(あるいは酔っていない)、ふつうの、いつもの状態。男は「体温」にもどりたいと思っている。それで白湯を求めている。
 三連目は、受講生のひとりが言っているように、とても批判的な視線が生きた連である。「批判的」ということばがぱっとでてきたのは、そのひとに、あ、こんなふうに男を見たことがあるのだなということを思い起こさせる。陶山の書いてることを引き受けて、それを味わうというよりも、そのことばのなかに自分の体験(肉体)を投げ入れて、自分自身のそのときの気持ちを思い出しているのだ。
 四連目は、三連目を言いなおしたものだ。もっと批判をこめている。怒りをこめている。それが「罪深い」ということばになっている。その「罪」に「無味」や「破る」ということばが交錯する。「無味」の「味」は「意味」の「味」であり、「約束が破られたあとに言葉も破られる」というような「意味」を感じさせることばも、いまは「無(意)味」である。なぜなら、男はそう語ったことを忘れている。
 ところが作者(女)はそれをはっきりとおぼえている。とても強い(熱い)「意味」だったはずのものが「ぬるく」なっている。意味が無意味になるときの「なまぬるい」感触のようなものが、ここでは語られていることになる。
 そういうことが「写経」「仏(のどぼとけ)」「山門」「罪」という、仏教と罪を関連づけたようなことばのなかで動いている。

 後半は、男に対する「批判」というよりも、女(作者)の気持ちをもう一度いいなおしたものだろう。男を批判的に見つめながら、何を感じていたか。肉体はそのときどう動いたか。

視線からそっと体温を消すときは息を吐きながら
吐ききる 無を みていたい

 これは、なかなか怖い行である。男を見つめる視線から「感情」を消す。温かい思いを消す。愛情が冷める。それを「体温を消す」と表現している。興奮しているとき、落ち着くために、ゆっくりと「息を吐く」。深呼吸する。そのときのように、男を見ながら、自分のなかの感情(熱い気持ち)を沈める。そして「感情」を「無」にする。息を吐ききってしまえば「無」になる。それを「みてみたい」。「みてみたい」といってしまうのは、まあ、未練のようなものかもしれない。
 で、

もう戻れないんだね春は
扉をうっかり開いてしまったようで

 これは男に言っているいうよりも、自分自身に言い聞かせている。もう、二日酔いの醜い男を見たあとでは、昔のように熱い気持ちで男に接することはできない。「意味」のあることばを言ったことを忘れている男とはいっしょにいられない。「春がきちゃったなあ」と作者は書いたときの気持ちを言ったが、「きちゃった」(してしまった)という「完了」の思いが「開いてしまった」の「しまった」のなかにある。

 最後の三行は、むずかしい。「終わってしまった」(完了)を感じながら、「終わらせたくない」という気持ちがあるのかもしれない。「終わってしまった」とことばにすること自体、「終わってしまっていない」ということかもしれない。ほんとうに終わってしまっていたら、ことばになどしない。

風になりすまし白湯が
白湯の頬を撫でていくとき
この薄い感情をできるだけ深く突き刺したい

 「白湯」(何もふくまない湯)、「無味」のものは、「薄い感情」と言い換えられている。「終わってしまった」のにまだ「薄い」ものが残っている。その「薄い」と「深く」が拮抗して、詩を印象づける。「薄い」なら「深く」突き刺さなくても、「浅く」突き刺すだけで充分なのだが、「薄い」からこそ「深く」突き刺したい。「深く」突き刺すことで、その「薄い」を「厚い」にかえて、とどめを刺したい、という激しい気持ちが「薄い感情」とは違うところにある。

 私のいま書いたことは、陶山が「書いている以上(以外)」のことかもしれない。「書いている以上(以外)」のことを勝手に「捏造」し、私は陶山をわかったつもりになる。陶山はこう感じている、と勝手に思っている。
 こういうことは、面と向かってことばにすると、作者の反応が見えてしまうので、その場で言うことはなかなかむずかしい。私は勝手気ままに、ただ自分の読みたいように読むのが好きなので、ここに書いた感想のほとんどは講座では言わなかったことである。
 詩を好きなひとといっしょに誰かの詩を読む。そのとき、思いもかけないことばが誰かから出てくる。それを手がかりにして、読み方をさらにすすめていく、というのは楽しい。感じていること、言いたことが、瞬間瞬間にかわっていく。私の感想も変わるが、参加しているひとの感想も変わる。そのとき、そこに、「書かれた詩」とは別の「詩」がある。それがおもしろい。



 次回は5月13日(水曜日)午後4時から。福岡市中央区、地下鉄南薬院駅近くの「リードカフェ」で。参加申し込みは書肆侃侃房(←検索)の田島さんに電話、あるいは私宛のメール(panchan@mars.dti.ne.jp)まで。

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉本洋子「春になれば」

2015-04-10 10:24:22 | 現代詩講座
吉本洋子「春になれば」(現代詩講座@リードカフェ、2015年04月01日)

春になれば 吉本洋子

故あってなのれぬが
と言ってぼろんじさんが訪ねてきた
私の育った父の郷にはやたらと
ぼろんじさんが歩いていて
はいはい父からのお使いですね
と簡単に納得してしまえる
しまえる私に
なのれぬと言っておるだろう
と聞き憶えのある地声になって
帰ってしまった
と と しまった
手ぐらい握ればよかった
と思っていると
喜捨された握り飯を抱えて戻ってきた
故あってなのれぬが元気でいるように
と素っ気無く言ってまた帰ってしまった
相変わらず面倒くさい性分だわ

なんだかこの頃
やたら故あってなのれぬ
となのる輩があらわれる
故あって故あってと煩い
私だって故あってときえいりたい
とごねていると
嗅ぎ憶えの匂いにゆさぶられた
振り向くと
掛け軸の前で透けるようにうな垂れている
使い古されたシーンだけど嬉しい
恥ずかしがりは変わらないのだわ
見えているよとも言えなくて
さりげなく つつつ
と近づいて触れてみた
この辺りだと思ったのにね
は は 笑ってしまう
笑っているうちに何も無くなってしまうんだね

 受講生の感想をならべてみると……。

 「「と と しまった」がおもしろい。「やたら故あってなのれぬ/となのる輩があらわれる」の「なのれぬ/なのる」のことば遊びのような行が楽しい。夢があってメルヘンのよう」
 「ことばのテンポがおもしろい。「嗅ぎ覚えの匂いにゆさぶられた」という行が好き」
 「ぼろんじさん、というのは何かわからないけれど、そのひとが「聞き憶え、嗅ぎ憶え」というような、記憶をたどるようにして浮かび上がってくるところがおもしろい」
 (吉本から、「ぼろんじさん」というのは有髪のお坊さん、半俗のお坊さん、との説明があった。「梵論指」と漢字で書く、とか。)
 「情景が浮かぶ。こういう人がいる。頭がよすぎて精神を病む。春になるとあらわれる」
 「最後がよかった。前半、おこぼさん(弘法大師)やお遍路さんが歩いている情景を思い出した。「と と しまった」や「さりげなく つつつ」という行の、音の繰り返しの遊びが楽しい」
 「タイトルの「春になれば」の季節感がいい」
 「ぼろんじさんという音がかわいい。ぼん、ぼろ、という響きがおもしろい」

 というような感想のなかで、

 「ぼろんじさんが、父とか母ということばだったら印象が違ってくる。父、母ではなくぼろんじさんだから他人につながる」

 という声があった。これは、とてもおもしろい指摘だ。
 吉本によれば、前半は父、後半は母を描いているという。「と と(父)」「は は(母)」と種明かしをした。
 それがたとえ吉本の父、母であっても、それを超えて読んだ人の父、母になる。その変化をうながす(吉本の父母なのに自分の父母を思い出す)というきっかけに「ぼろんじさん」ということばがある。
 「ぼろんじさん」はそのとき、「名詞」ではない。私の好きな言い方をすると「ぼろんじさん」は「動詞」である。吉本は「半俗のお坊さん」と説明したが、ふつうのひとではなく、「半俗のお坊さんになった人」の「なる」という「動詞(変化)」がそこにある。
 春という季節に誘われて精神に変調を来した人という読み方をした人がいたが、そこにも人間の「変化」がある。「変わる」。同じ人なのだけれど、別な人に「なる」。
 その「なる」という変化(動詞)が、吉本父母という限定を超えて、人間に共通する「動詞(なる)」のように感じられる。「他人につながる」というのは、そういうことだと思う。
 詩に限らないが、何かを読むということは、そこに書かれている「事実」を突き破って自分と作者をつなげてしまうことだ。吉本は吉本の父母を書いた。しかし読者はそれを吉本の父母であるとわかっていても、自分の父母とつなげてしまう。自分の父も「……と言っておるだろうに」と自己主張を譲らない男だった。その一方、「元気でいるように」というような心遣いをそっとする男だった。「手ぐらい握って」親密にしようとすると、さっと身をかわす男だった……という具合に。
 「他人につながる」という指摘は、すべての人間につながる可能性ということだろう。
 この父親に対する吉本の姿勢が、また、おもしろい。「はいはい父からのお使いですね」の「はいはい」の繰り返しには「わかりました、わかっていますよ(うるさいなあ)」という気持ちがあらわれている。その口調に対して父はきっと怒っただろうけれど、その対話の呼吸が、「はいはい」にあらわれている。
 こういう「呼吸」は誰もが「肉体」でおぼえていることである。だから吉本が吉本の父を書いても、それが読んだ人の父に重なる。父との会話に重なる。
 一連目の最後の「相変わらず面倒くさい性分だわ」という口調にも、それと同じものがある。「面倒くさい」という否定的な意味合いが、逆に吉本と父との濃密な「時間」を浮かび上がらせる。こんな否定的なことばを言ってもかまわないのは、それが「肉親」だからである。「相変わらず」がそれを強調する。

 二連目は、吉本が「母」と説明するまでは、私は「父」だと思って読んでいた。一連目の繰り返しだと思っていた。大事なことは、人は何度も繰り返す。言い足りないことが浮かび上がってきて書かずにいられない、のが人間である。
 「母」と言われて、そうか、吉本には「両親」で「ひとり」なのだと感じた。
 そういうこととは別に、私は一連目よりも二連目の方がはるかに好きである。一連目は「なのれぬと言っておるだろうに」「元気でいるように/と素っ気無く言って」という行が象徴的だが「言う(ことば)」が吉本と父をつないでいる。「手ぐらい握ればよかった」は手を握らなかった、手の接触がなかった、ということを語り、吉本と父との関係が「ことば」のやりとりに終わっている。「肉体」が欠けている。実際にそうだったのかもしれない。
 ところが二連目では、そこにあらわれる人間が「肉体」をもっている。
 「嗅ぎ覚えの匂いにゆさぶられた」という行が複数の受講生のことばを揺さぶったが、私もその行が好きだ。その行から始まることばの展開がとても好きだ。
 吉本は母を匂いとしておぼえている。母の匂いをおぼえている。嗅覚は人間にとっていちばん原始的な感覚で、最後(死ぬ寸前)まで生きているらしい。その嗅覚がふと母の匂いを嗅ぎ取る。そうするとそこに母があらわれる。「掛け軸の前で透けるようにうな垂れている」。何かあると、掛け軸の前でうなだれるのが母だったのだろう。「使い古されたシーン」というのは、何度も何度もその母の姿を見てきたということだ。それが「透けるように」というのは、目にははっきり見えないからである。半分、透明である。実在の母ではなく、思い出の母だからである。
 嗅覚から始まり、視覚へと動き、そのあと吉本の感覚は触覚へと広がっていく。

さりげなく つつつ
と近づいて触れてみた
この辺りだと思ったのにね

 この3行が、とても美しい。母の座る位置はきまっている。肩の位置も当然きまっている。それに触れようとする。手は(触覚は)、それをおぼえているのに、触れてくるものがない。跳ね返してくるものがない。嗅覚(嗅ぎ覚えのあるにおい)、視覚(うなだれている母の姿)は「実在」するのに、触覚だけは「実在」を手に入れることができない。その瞬間に、悲しみが、あふれてくる。そして、その悲しみを「は は」と笑うとき、吉本は「母」そのものになって生きている。
 「何も無くなってしまう」というのは、吉本の「外」の世界。吉本の「肉体」のなかでは、何もなくならず、吉本が「母」になるということが起きている。一連目も、吉本は「父」になっている。父になっているからこそ「元気でいるように」と言いに戻ったのである。
 こういう「肉体」の変化が詩のなかに書かれていると、詩がとても強くなる。受講生のことばを借りて言いなおせば「他人につながる」ものになる。

詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨が止むと、

2015-04-10 01:05:31 | 
雨が止むと、

雨が止むと、闇が街角から這い出してきた。あるものは輪郭のあるものをつつみながら高さを目指した。街路樹の濡れた肌は、内部の色を吐き出し、根本の土を驚かせている。あるものはアスファルトと雨の残した水分のあいだに忍び込み、いくつもの鏡をつくり出した。信号が変わると、家へ帰る車のブレーキランプの色が、踏み割られたガラスのなかに赤く輝いた。ビルの窓に、その赤が映るのを見ている人がいた。

黒いまま光っているのは、ビルのあいだの川である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川透『現代詩論集成1』(15)

2015-04-09 11:49:00 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(15)(思潮社、2014年09月05日発行)

 12月に「14」を書いて以来なので、かなり長い中断になる。なぜ中断したかというと、私に「歴史感覚」というものがないからである。北川は「荒地」の詩人たち、そのことばを「時代」と関連させながら書いている。これはことばについて書くときの「必然的」方法なのだと思うが、私は、これが「苦手」である。
 「苦手」を「苦手」にしておいたままで感想を書くことは、北川の書いていることをねじまげることになってしまう。そう思って中断したのだが、いま再開するのは、いっそう思いっきりねじまげてしまおうと思うからである。
 思い切って「誤読」を押し進めようと思う。
 きょう読むのは、

 Ⅱ「荒地」の詩的世界 鮎川信夫とその周辺
 「荒地」の詩的世界

 そこに、こんなことばがある。

 初期「荒地」の詩人たちが、敗戦を迎えたのは二十代の半ばであったが、彼等の戦後感覚は、単に第二次大戦に根ざすものではなく、第一次大戦後のヨーロッパの現代意識にもとづくものであるといわれている。このことが彼等の詩的世界に基本的な性格を与えている。鮎川信夫も「僕たちが戦前に於いてすでに戦後的であったということは、第一次大戦後のヨーロッパ文学の影響によるものである」(「幻滅について」)と述べている。( 318ページ)

 うーん、どうして鮎川たちは第一次大戦後の「日本文学」ではなく「ヨーロッパ文学」の影響を受けたのか。第一次大戦から第二次大戦へ向かっていくときの「日本文学」に対して「批判的」だった、その動きに与したくなかった、ということなのか。その一方、その動きを批判すること(ことばにすること)は日本の状況においては「危険」だったから、それができなかったということなのか。
 そうだとしても、それではなぜ、「第二次大戦後」の動きよりも、「第一次大戦後のヨーロッパの現代意識」の方に動かされたのか。「第二次大戦後」の動きの方が新しいだろうになあ。
 これについては、

初期「荒地」の詩にとって、破滅的な感情や、死のイメージは、けっして彼等の個人的な傾向とか、プチブル的焦燥で説明されるものではない。戦前から戦後にかけての時代が厖大な死の影を宿していたがために、彼等の内面は鋭くそれを反映したのであり、(略)破滅することを主題にすること以外に、自由を内的に確保することのできなかった過酷な時代にどうしようもなく、それを内面化せざるをえなかった「荒地」の詩人たちは、そこにすぐれた想像力の方法を示しているわけである。( 351ページ)

 と、北川は「説明」してはいるのだけれど……。

 文章の随所に「思想」ということばが出てくる。この「思想」ということばとそのまわりに書かれることばの関係にも、私は少し引っ掛かってしまう。

「荒地」の詩人たちは(略)イギリス現代詩に対する深い造詣を基礎にして二つの課題をもったと思われる。その一つは、厖大な犠牲を払って手に入れた戦争体験を、一つの思想的原質にまで主体化することによって、戦後の現実状況と対応する内部の混沌とした世界に、想像力の方向と意味を与えようとすることである。     ( 321ページ)

 「思想的原質」と「内部の混沌」の関係が私にはわかりにくい。戦争体験が鮎川たちに影響した。鮎川たちの「内部(思想?)」は戦争体験によって「混沌」としている。これは、わかる気がする。だれでも異常な体験をすると「内部(思想/精神)」は混乱する。混沌としてしまう。「思想」がゆらぐ。その「混沌とした内部(思想になりきれていない思想/思想以前の思想)」を、どうやって建て直すか。
 「思想的原質」と北川は書いているが、思想に「原質」というものがあるのか。
 「戦後の現実状況」を何を手がかりに見ていくか、その見方が「意味」であり「想像力」であり、そういう「見方(見る方法)」をとおして「思想」がつくられていくのではないのだろうか。「思想」というものは、現実をどうやって「見る」か、「想像する」か、という「動詞」(生き方)のなかから少しずつ形になってくるのであって、「原質」なんて、ないのではないだろうか、と私は思ってしまう。「原質」というべきものがあるとしたら、それは「内部の混沌とした世界」そのものではないのだろうか。

 以下は、読みながら「傍線」を引いた部分と、傍線を引きながら考えたこと。ただ、並列させて書いていく。

 北村太郎の「墓地の人」について触れた部分。

「この詩人における「詩」は現実の世界で数えられるものでなくなる。「死者の棲む大いなる境」は、生が惨めさと卑小さをもった存在である時、そうした人生を超えるような永遠な、超時間的な、形而上学的な世界である。( 323ページ)

 「形而上学」と「思想」とは区別されているのだろうか。同じものだろうか。同じものだとすると、ここでは「人生」と「形而上学(思想)」を対比し、「思想」を「人生を超える」ものと定義していることになる。この「思想」優位の考え方に、私は、つまずく。「思想」って何?と思ってしまう。
 北村への評価の一方、北川は木原孝一の「詩の弱さ」を指摘して、「幻影の時代Ⅱ」を引きながら次のように書く。

木原の詩には、戦争の体験が重層化されたいメージになることによって、体験を超えた一つの思想の意味を背負うといった充実した時間が感じられないのである。( 328ページ)

 「体験を超えた思想」ということばは「思想」が「体験」より上位(?)にあるという印象を呼び起こす。そうなのだろうか。また「イメージ」という表現も、私には、不思議に聞こえる。戦争体験をイメージにするということが、よくわからない。
 木原の詩には、

硫黄島の「死」はあるけれど、この詩人の内部の「死」のイメージはないのである。( 328ページ)

 とも書かれている。
 北川は「体験」よりも、「イメージ」と「思想」を上位に置いている。「イメージ」が「思想」を明確にするということか。
 そうであるなら、(と、端折って書くと)、「ヨーロッパの文学(イメージ)」を引き継ぎながら、「荒地」の詩人たちは日本の現実と向き合うための「思想」を作り上げた、ということになるのだろうか。
 「イメージ」と「肉体」の関係がよくわからない。「戦争体験」と「肉体」の関係がよくわからない。「死」はしきりに語られるが、それは自分の肉体で体験したものではなく、他人の死であり、肉体で追認できない「イメージ」だ。それよりも「肉体」そのものがくぐりぬけ、いまもつづいている「生」そのものの「動詞」とどうなっているのか。
 「動詞」がつかみにくい。「動詞」はどこにあるのだろうか、と思ってしまう。
 
 次の文章にも「思想」と「形而上学」ということばが関連して出てくる。鮎川信夫の「詩論の基本的性格」は……、と北川は書く。

彼の詩論の基本的性格は、政治的効用生、教育的啓蒙性から「詩」を解放し、さらに、ことばの芸術性だけに価値をもとめるのでもなく、「現代に於いてもなお魂の問題の所在を明きらかにし、精神の救いにつながる形而上学的な価値の担い手としての詩を考えたいのである」(「何故詩を書くか」)ということを明確にした点にあるだろう。従って鮎川詩論における詩の思想性というのは、詩の外部から思想性を賦与するといったものではなく、徹底的に内的な自由の問題として、あるいは悩める魂の問題につながる形而上学的な価値の問題として考えられているのである。

 「内的な自由の問題」「悩める魂の問題」と「形而上学」「思想」は緊密につながっている。そして、それはまた「破滅」「敗北」という形で詩になっているのが「荒地」の詩なのだということだろう。「破滅」「敗北」「反逆」のイメージのなかに「戦争体験」(内的危機感)を共有するということなのか。「内的危機感」が「思想」なのか、「内的危機感」が掴み取るイメージが「思想」なのか。「内的危機感」と「イメージ」が交錯する「場」が「形而上学」の「場」なのか。「思想」という「できごと」なのか。
 よくわからないが、田村隆一の「四千の日と夜」に触れて、北川は、次のように書く。

この詩人が一篇の詩を生むためには、世界に対する愛着を断ち切り、既成の価値観を破壊しなければならない。そうすることで、この世界では死者となっている存在や見えない関係性を明きらかにし、現実とは別な新しい価値観や関係を甦らせようとするのである。( 337ページ)

 「新しい価値観」というのは「思想」のことだろうなあ。

 こうやって読んできて、思ったことを脈絡もなく書いてきて、気になるのは「思想/形而上学/イメージ」ということば。「破滅/敗北/反逆」ということば(名詞)。それから「第一次大戦後のヨーロッパ文学」という「存在」。それは、私には何か「肉体」とはかけ離れた(日本とヨーロッパが離れている)もの(こと)に感じられる。
 「イメージする(想像する/想像力を働かせる)」「破滅する/敗北する/反逆する」という動詞にして、読み直せば違ってくるかもしれない。「荒地」の詩のなかに出てくるさまざまな「名詞」を「動詞」に変換しながら読み直せば、「思想」が違った形でみえてくるかもしれないなあ。「荒地」が「歴史」ではなく、「いま/ここ」とつながるものになるかもしれないなあと、ぼんやり感じた。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明らかなこと

2015-04-09 00:06:20 | 
らかなこと

明らかなことは、この椅子から数歩離れた窓に西日が来ていること。
いまはガラスに触れて自分の色を探している。
あるものはガラスの厚みのなかにとどまり、あるものは横にすべり、
あるものはガラスをくぐりぬけて部屋の隅まで椅子の影を伸ばす。

明らかなことは、ベランダの花が色を主張することをやめるということ。
静かな影のなかに花びらの影を重ねて、色をしまいこむ。
明らかなことは、そのときの変化が美しく見える。
明らかなことは、その変化を教えてくれたことばは
きのうという時間にになって窓の外に来ているということ、
去っていく西日みたいに。



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白井知子「カスピ海の風」

2015-04-08 11:15:04 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「カスピ海の風」(「幻竜」21、2015年03月20日発行)

 白井知子「カスピ海の風」は恋愛そのものを描いた作品ではないのだが、私は、書き出しに出てくる恋愛の部分がとても好きだ。

エスミーラ きみの髪は長いから すこし いらいらしてしまう
ならば 切ってしまって ダビド
いいや やっぱり ぼくは この時間が気に入っている
髪の一筋ずつに油を塗り込む
あせらないようにしよう
首から肩 硬さののこる胸から腰へ 油を エスミーラ
きみの心拍を聴きとっているのだよ
ぼくのこの指と耳とがさ
今夜の風は泣いているみたい
あなたが好き ダビド

 男が女の髪の手入れをしてやっている。長くてめんどうなので、少しいらいらする。そんなことを言えるのは、ふたりが親密で自分の思っていることをそのまま言っても大丈夫だとわかっているからなのだが、そのあと「切ってしまって」「いいや」というやりとりがとてもいい。特に「ぼくは この時間が気に入っている」がいい。
 「この時間」とは「どの時間」のことか、どういう時間のことか。
 単純に考えると、女の髪の手入れをしている時間、女に触っている時間ということになる。女に触っているという感じは、そのあと「首から肩 硬さののこる胸から腰へ」という描写でいっそう強まるのだが、私は、ちょっと違うことを思った。
 「すこし いらいらしてしまう」という、その「いらいら時間」。それが気に入っている。「いらいら」というのは快感とは違う感覚なのだけれど、自分の中にある「いらいら(自分を傷つけてくる感覚?)」を抑えながら、女に触っているという一種の「矛盾」。その「矛盾」が気に入っている、と私は読んでしまう。「矛盾」を端的に表わしているのが「いいや」ということば。それは女に対する返答であると同時に、自分自身の「いらいら」に対する返答でもある。
 なぜ「いらいら」が気に入るのか。自分の「いらいら」が気に入るのか。それはきっと「自分のもの」でしかないからだ。快感と同じように一種の不快(いらいら)も自分のものでしかない。自分だけのものという気持ちは、その「いらいら」からあふれて、女につながっていく。その向こう側に、塞き止められている快感。それを思いながら、女の髪の一筋ずつに油を塗り込んでゆく。そうすると、「いらいら(快感以前)」と「快感」はどこかでまじりあう。「快感」になるまえの「未生の快感」をとおして、女と一体になっている感じだ。まるで、その髪の一筋ずつが「自分のもの」になるみたい。この「感じ」もまた男だけのも、自分だけのもの。
 同じように、「首から肩 硬さののこる胸から腰へ 油を」塗り込んでゆくとき、その「肉体」のすべてが「自分のもの」になる。そしてこの「自分のもの」というのは「所有物」ということではない。「自分そのもの」のことである。

きみの心拍を聴きとっているのだよ
ぼくのこの指と耳とがさ

 「指と耳」と「心拍」が「ひとつ」になっている。「指」が感じ取るのは心拍のリズム。触覚が振動を受け止める。そのとき「指」が「耳」になっている。「耳」を胸に押しつけて心拍を聴きとるように「指」そのものが「音」を聴いている。感覚が融合し、ふたたび「肉体」の「部位(指/耳)」に分かれていく。そのときの男の「肉体」の変化と同じことが、男と女のあいだに起きている。
 男が女に触る。触りながら男は、指が耳になってしまったように、女になってしまう。女になったあと、また男に戻ってきて、女の声を聞く。そういう「往復」の、何か分離できない感じ、融合してしまっている感じが「いらいら(快感以前/未生の快感)」のなかにもある。「快感以前/未生の快感」の「以前」あるいは「未生」、まだ形が定まっていない感覚(感覚が個別の名前で呼ばれる前の感覚)がすべてを融合させ、またその融合からすべてのものを生み出していく。(感覚以前/未生の感覚をとおって、「快感」とか「不快」とかが生まれてゆく。)
 「定まった感覚以前/名前のない感覚」のなかには、女の髪に触りたい、触る喜びと、ていねいに取り扱わないといけないという苦しみ(めんどうくささ?)が溶け合っている。分離できない状態にある。この分離できない感じが、すべての「動き」のいちばん底にある。「分離できない時間(場)」をとおって、すべての存在が「いま/ここ」にあらわれてきている。その「あらわれ」は自然発生的な「あらわれ」ではなく、男が女に触るという「肉体」が「生み出した」もの、いや、生み出した「こと」なのだと思う。

 男の「耳」ということばに誘われて、女は

今夜の風は泣いているみたい

 と言うのだが、そのとき「風」は家の外を吹いている風のことだろうか。それとも男の「いらいら」した感情、「いらいら」しながら「この時間が気に入っている」というときの矛盾した気持ちだろうか。
 泣いているのは、「いらいら/この時間が気に入っている」という分離できない気持ちを抱えている男の「肉体/定まった感覚以前の感覚を抱え込んでいる肉体」かもしれない。「定まっていない」から何でにもなれる。「泣いている」でも「笑っている」にでもなることができる。しかし女は「肉体が泣いている」と聞きとったのだ。(「泣いている」を生み出したのだ、と書きたいのだが、ちょっとややこしくなるので、とりあえず「聞きとった」と書いておく。)
 耳で?
 違うだろうなあ。肌で、いや「心拍」で聞きとったのだ。こんなに心臓が激しく鼓動を打つのは、泣いている男の「肉体」と自分(女)の「肉体」が、もうひとつになってしまっているからだ。男と女に分離する以前の肉体(いのち)として「一つ」になっている。
 女は男に髪や肌の手入れをしてもらう時間が気に入っている。気に入っているのだが、それだけで終わってしまうと思うと「いらいら」する。この「いらいら」をいっしょに乗り越えるために、お何は「あなたが好き」と言う。誘いかける。「ひとつ」になって、
「いのち」になる「場」をとおることによって、ふたたび男と女に生まれ変わろうと誘いかける。

 この恋愛からはじめて、白井は、アゼルバイジャンが「世界最大の石油産出国だった」こと、その資源が略奪された歴史を語るのだが、恋愛の「肉体」がくっきりと描かれているので、そのあとに書かれる世界史が人間の行為そのものとして見えてくる。「抽象的な事実/事件」ではなく、人間の動き、暴力として見えてくる。それが、とてもおもしろい。
地に宿る
白井 知子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破棄された詩のための注釈(27)

2015-04-08 01:11:33 | 
破棄された詩のための注釈(27)

「川」があった。捨てた物語のなかで、男が窓を開けたときだった。夜が入ってきた。雨上がりの新しいにおいと、沈黙をこえてやってくる音が。男はこころのなかで「川」を見ていた。満潮でこえふとってくる河口の、塩であまくなり、つやめいてくる水。

「川」があった。捨てた物語が、チーズを切る女のこころのなかに入ってきた。ニンニクを塗ったパンと赤ワイン。きまりきった日常の断片の中に、そのまま紛れ込むみたいに、男が「遠くから川のにおいがする」と言った。

知らない川の上を、やすらぎという時間が流れている。



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」

2015-04-07 10:42:38 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」(「ココア共和国」17、2015年04月01日発行)

 きのう広田修『ZERO』を読みながら「論理」というものについて考えたが、きょうは秋亜綺羅「部屋のカーテンを開けて」を読みながら「論理」について考える。
 なかほどに、次の2連。

時間は時計に話してる
イエスはノーに対する反論でしょ?

時計だって負けてはいない
反論なんて
正論を認めてしまったことばじゃないか

 ここに書かれているのは「論理」? 「イエス」と「ノー」、「反論」と「正論」は「反対」の「概念」。「反対」というものがあるという考え方がことばを動かしている。考えに基づいてことばが動いているから「論理」なのか。
 私は、かなり悩むなあ。
 私は以前、秋亜綺羅の詩について、秋亜綺羅の詩は「逆説」でできているが、それは既存の考え方を前提にしている、既成の概念を裏返しているにすぎない、というようなことを書いたことがあるが、
 うーん、
 「逆説」(秋亜綺羅は「反論」と書いている)は「論理」になりうるのか。
 一般には「論理」と呼ばれているかもしれないが、私は「論理」とは呼びたくない。「逆説」というのは「論理」とは無縁のものである、と私の「感覚の意見(直観)」は言っているのである。

 何のことか、わからないね。私も実はわからない。ただ、秋亜綺羅の書いているのは「論理」ではない、と私は感じる。

 詩を最初から読み直してみる。

部屋のカーテンを開けて
殺人と自殺のイメージトレーニングは朝の日課

 書き出しの2行。その2行目の「殺人」と「自殺」。「殺人」は他人を殺すこと。「自殺」は自分を殺すこと。他人と自分は別人、ある意味で「反対」の存在。だから、これは最初に引用した「イエスとノー」「反論と正論」のようなもの。
 こういう「反対のもの」を結びつけて秋亜綺羅は読者に刺戟を与える。
 そのときの「反対のもの」という考え方の中に「論理」はあるのか。「考え方」をことばにすれば「論」。そのなかにある「理」が「論理」。そういうものが「殺人」「自殺」のなかにあるのか。
 視点を変える。
 私の考えでは「論理」というのは「動いて」はじめて「論理」になる。「論」のなかを動く「理(真実)」が「論理」。「殺人」「自殺」というふたつのことばは動いているか。「動詞」にして動かすとどうなるか。
 「殺人」。他人を殺す。誰かを殺す。そのとき、たいへんな準備がいる。凶器を何にするか。どこで手に入れるか。いつ殺すか。殺したあと、死体をどうするか。どうやって逃げるか(逃げないか)。逃げるための資金は? 外国へ逃げるならパスポートは? うまくいくのか。
 「イメージトレーニング」と秋亜綺羅は簡単に書いているが、考えはじめるときりがない。とても「殺人」と「自殺」を短時間に考えてみるという具合にはできそうにない。
 で、気づくのである。
 秋亜綺羅は「殺人」も「自殺」も「名詞」のままの状態で並列させているだけである。「反対のもの」として世間に認知されているものを並列して、これとこれは反対。その両方を知っている。そう言っているだけである。
 「名詞」のことを秋亜綺羅は「イメージ」と読んでいる。「流動するイメージ(運動するイメージ)」というものもあるだろうが、秋亜綺羅が「イメージ」と呼ぶとき、それは「固定」されている。
 この「固定」に、私はいちばん疑問を感じる。
 「論理」というのは「固定」とは逆のものだ。「結論」とは無縁のものである。「結論」がないのが「論理」、ただ動いていくだけのことばが「論理」である。「結論」に到達したように見えても、その結論はおかしいと疑いつづけるのが「論理」である。
 私が最初に「論理」というものを知ったプラトンの対話篇。だから、その対話篇を思い出しながら書いているのだが、どの「対話」も終わりはするが「結論」はない。「ソクラテスの弁明」も「クリトン」も、ほんとうにそれが正しいのかどうか、わからない。言い換えると、自分がソクラテスなら同じことができるかどうか、わからない。きっと、できない。できないのに、それを「正しい」と言っていいのかどうか。「肉体」で実践できないことを「正しい」と考えるのは、どこかが間違っている。そこに書かれている「結論」は「方便」であって、それを「生きる」とすれば、どうすればいいのか、何度も何度も「結論」を疑わなければならない。そういうものが「論理」だと私は思っている。
 で、なぜ、秋亜綺羅の書いている「殺人」「自殺」は「固定」されているのか。簡単に「反対の行為」という具合に整理されて、「偽装の論理」になってしまうのか。
 半分繰り返しになるが、「殺人」も「自殺」も「動詞」として「論」を動かしていないからである。秋亜綺羅がここで書いている「殺人」「自殺」は「動詞」とは無縁のものである。

殺人と自殺のイメージトレーニングは朝の日課

 この一行の中にある「動詞」は「イメージ」である。「トレーニング」よりも「イメージ」の方が秋亜綺羅の肉体にとっては「動詞」である。「イメージする」(想像する)という動詞が「殺人」と「自殺」を「反対のもの」として結びつける。(トレーニングは付録だ。)
 秋亜綺羅にとって「イメージする(想像する)」という「動詞」以外の「動詞」はないのである。

想像力があれば
いまきみの性器はきっと
ちょっと開いている

宇宙を見なさい
そして宇宙から見なさい
無限を考えなさい
そして無限から開きなさい

 「そしてそして無限から開きなさい」は「性器を開きなさい」なのだが、実際に「肉体」の「性器」を開くのではない。それを「想像する」のだ。「肉体」は動かさない。あくまで想像する。「想像力」ということばを秋亜綺羅はつかっているが、秋亜綺羅にとって「力」とは「想像する」という運動と一体のものである。力(エネルギー)は動詞をとおって(運動をとおして)何事かを生み出す(形にする)のだが、想像力は私の考えでは何も生み出さない。想像力はすでにあるものを「組み合わせる」だけである。その組み合わせ方が、秋亜綺羅の場合、新鮮である。(想像力は「組み合わせ」を生み出す、「仕掛け」を生み出す、「新鮮」を生み出すと秋亜綺羅は言うかもしれないが……。)
 こういう「組み合わせ」を想像することを、私には「論理の運動」とは考えられないのでである。「肉体」を置き去りにして「想像する」ということも、「想像する」ということばにふさわしいことかどうか、私には疑問が残る。

宇宙を見なさい
そして宇宙から見なさい

 「宇宙を見なさい」は「肉眼で」見なさい、という具合に読むこともできるが、きっと「宇宙」は肉眼では見えない。空や雲や星がようやく見えるだけで、あとは「想像力」で見ないといけない。「宇宙から見なさい」は宇宙飛行士にでもならないと「肉眼で」見ることができないし、宇宙飛行士が見るのもせいぜい地球くらいである。宇宙を見るには、宇宙へ行っても想像力で見るしかない。いつでも、どこでも、想像力だけが秋亜綺羅の「肉体」なのである。
 この「想像力」は「動詞」を必要としない。「想像する」という「動詞」以外は、「名詞」があればいい。無数の「名詞」、しかも「反対」の「名詞」を要求しつづける。

止まった時計だけが
きざむことのできる時刻があるから

 このしゃれたことばも「想像力」のために存在するものであって、「肉体」には無縁のものである。「肉体」には無縁だから、そこには「論理」というものがない。プラトンの書いているソクラテスを「肉体」で実践しようとすると、私の肉体は困ってしまうが、秋亜綺羅の書いていることばは「肉体」の実践を要求してこないので、ぜんぜん、困らない。肉体を困らせないものは「論理」ではない、と私は考える。

きみの舌のうえで転がる
ぼくの人差し指の湿った時刻

 こうしたセックスについての2行さえ、私には「肉体」を書いているとは思えない。実際にきみの舌のうえで人差し指が転がっているとき、「時刻」なんて、存在しない。転がって、湿るという「運動」があるだけだ。そういう運動を「時刻」という「名詞」のなかに秋亜綺羅は閉じ込めてしまう。

 もしそれでも秋亜綺羅に「論理」というものがあるのだとしたら、すべての存在を「名詞」として「固定」し、その「固定」されたものを想像力のなかで、他人とは違った形で併存させるという運動である。秋亜綺羅は「肉体」を動かさず、「想像力」を動かすのである。想像力を動かす装置として詩を組み立てるのである。
                  
季刊 ココア共和国vol.17
秋 亜綺羅,清水 哲男,金澤 一志,黒崎 立体,嶋田 さくらこ,井伏 銀太郎,小原 範雄
あきは書館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破棄された詩のための注釈(26)

2015-04-07 00:03:10 | 
破棄された詩のための注釈(26)

「灰色」。あの「灰色」はなくてもよかった。あの風景はなくてもよかった。斜張橋のいちばん高いところがかすかに見え、その向こうに広がる海か、空か判然としない「灰色」。その「色」がなければ、いっしょに見ることもなかった。また、その午後の光を背後に隠して、「感情のことを話そう」と言うこともなかった。

「わかりにくかった」。なぜ許そうとするか、わからなかった。その「わからなかった」を「わかりにくかった」と書き直したときに始まる詩を書きたいと思った。「わかりにくい」ときさえ、「わかりにくくさせている」ということがわかってしまう感情がある。

ほんとうは「感情」ということばの尻に*をつけて、詩の最後に小さな活字で「どんな断言も感情から発せられたのなら真実になる」という注釈をつけることを考えていた。


*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広田修『ZERO』

2015-04-06 09:35:30 | 詩集
広田修『ZERO』(思潮社、2015年03月25日発行)

 広田修『ZERO』を読みながら「論理」というものについて考えた。私は「論理」というものを信じていない。「正しい」とは思っていない、と言い換えた方がいいのか。あるいは「疑っている」と言い換えた方がいいのか。「論理」の運動は信じているが、「論理の結論」を信じていないと言い換えた方がいいのか……。
 そんな私が広田修の詩を読むと、ことばはどんな反応を起こし、どんなふうに動いていくか。
 「窓」という作品。

(1)建物に窓があることによって、①内側と外側は窓の面に和声を張ることができる。②外の光は死に場所を見つけることができる。③建物は不要な密度を排泄することができる。④植物の有機的な欲情は建物の無機的な怒りに威嚇される。

 ここでは①②③④という「箇条書き」が、あたかも「建物」について何事かが分析されているように「偽装」される。ひとつひとつが「正しい」かどうかは問題ではない。四つ並列されることで、それぞれが「正しい」何かであると「偽装」される。
 これは「論理」そのものの運動なのか。あるいは、何かを「分析(分類)」すると、それは複数の存在(視点、論理)になるという「数学」があるだけなのか。一個の饅頭を半分にすると二つ、さらに二つにすると四つになる。それぞれは個別の側面から眺めることができる。「分析」なのか「分類」なのか、よくわからないが、ようするに「分ける」のである。
 「分ける」と「分かれる」。「分ける/分かれる」という「日常」が、ここでは、「日常」ではつかわない表現でおこなわれている。そして、その「非日常」は説明されずに「断言」される。

①内側と外側は窓の面に和声を張ることができる。

 窓によって「内側」と「外側」が生まれる。生み出される。(「分節される」というとかっこよくなるのだが、私は「分節する」ということばを、これからはつかわずに書いてみようと思うので、「生み出される」というのである。--これは、この「日記」を読んでくれている人のための補足。私自身の、戒めの補足。)「内側/外側」という「分け方」は「日常」には頻繁におこなわれる。そのために、その「分け方」を「肉体(ふつうは、肉体といわずに「頭」というかもしれない)」は無意識に受け入れ「正しい」と思う。その「正しい」という思い込みを利用して、広田は「和声を張ることができる」と唐突に「断言する」。「内側/外側」という「前提」が正しければ、その後の「結論」は当然「正しい」というわけである。この「前提が正しければ結論は正しい」というのは「論理の暴力」なのだが、この「論理の暴力/断言の暴力」を詩と呼ぶと、広田の書いていることは、とてもわかりやすくなる。「論理の暴力/断言の暴力」とは「非論理」ということでもある。「論理」ではないものが詩であると、広田は「論理」を利用しながら語るのである。「論理」を「偽装」しながら、その「論理」を否定することで詩を生み出す。
 ②は、外の光は死に場所「内側に」を見つけることができる。
 ③は、建物は不要な密度を「外側に」排泄することができる。
 と①でつかわれた「内側」「外側」を補えば、①の「論理の偽装」の上塗り(?)、あるいは繰り返しであることがわかる。
 ④は「有機的」と「無機的」が「内側/外側」の「分析(分類)」に呼応している。
 この「分析/分類」を繰り返すという運動を利用して、「論理」を偽装し、そこに「和声」「死」「密度」「欲情/怒り」を組み合わせ、「偽装論理」を隠し、「断言」を浮かび上がらせる。ことばの「反復」は「論理」を偽装生産する装置(方法)である。

 私は最初に書いたように、「論理(論理が導き出す結論)」というものを疑う人間である。多くの人々も疑っていると思う。疑っているが、言うと「頭が悪い、こんなこともわからないのか(現代詩がわからないのか)」という反応が返ってくるので、こわくて言えない。私は「頭が悪い」ということを自覚しているので、「頭が悪い」と言われても気にならない。平気である。だから、広田の作品は「論理を偽装して、断言を詩である」と言っているだけ、と、とりあえず書く。
 こういう批判は、広田はすでに承知しているのだろう。(1)を反復して、補足して、拡張する形で詩を展開する。反復、拡張のなかで、より複雑な詩を展開してみせる。長くなるので(私は目が悪く、長く書いていると文字が散らばって見えてくるので、簡単に書くために)、最初の部分だけを引用する。

(1)①私は窓を開け、外へと手を通すことで、内側と外側との和声にリズムを添える。私の手の皺のリズムは光の呼吸に均しい。そのリズムに合わせて、窓には無数の空間が集まってきては面になる。

 最初の「論理/分析(分類)」に「私」を参加させることで、それを「現実」にする。最初に書かれたものが「素粒子論」のような「論理物理学」だとすれば、いま書かれたのは「実証物理学」(実験)のようなものである。「論理(架空)」が「人間」によって「現実」になる。「論理」を「私(人間)」が反復することで、それを「事実」であると主張する。もちろん、これも「ことば」のうえでのことなので、一種の「偽装」である。
 「論理」はどこまでも「偽装」が好きなのである。
 「偽装論理」は反復によって「偽装」を隠す。
 これは「反復」が「論理」を「正しい」ものと偽装するということである。
 広田は①だけではなく、引用はしないが②③④についても、「反復」している。「反復」しながら、それを「拡張」している。「拡張」できるのは、その「論理」が「正しい」からである。「間違っている」論理は「拡張」できない。「間違った論理は破綻する」。破綻せずに「拡張」できているのだから、ここに書かれている「論理」は「正しい」。さらに、その「論理の結論」である「和声」も「正しい」。
 その「断言」が「論理」ではない、「論理」を逸脱しているということによって、詩であると主張するのが広田の作品(ことばの運動)なのだが、その「論理の運動」自体が「非論理」であることの方が、「結論」よりも詩的である。--と書いたら、何やら循環構造のはまり込みそうだが。

 もうひとつ、わかりにくい(?)作品で広田のことばの運動の特徴を見てみる。「音楽の道」。その冒頭。

)鳥が叫んでいた、音楽の道。(僕はその先に小屋があって、小屋はビルの一階になっていることを知っている。沙漠の拡大は羞恥心により妨げられている。ビルの屋上から沙漠は始まった。音楽が細く放射していく、僕の眼球。小屋の中、椅子の上にはもう一つの椅子があり、鳥の叫び声を保存している。モンシロ鳥。僕は道の脇の木々に、幹の曲がり具合について尋ねる。幹がどれだけ社会へと曲がっているか。鳥の色を記憶しようと力んでみたら、鳥の記憶が色になって細く放射していく、僕の眼球。

 このことばの運動も「反復」によって、そこに「論理」があるかのように装っている。反復し、拡大しを、反復しながら外部へ拡大(拡張)していくことで、内部を濃密にする、と広田は言うかもしれない。内部を外部へ反復しながら拡大(拡張)すると内部は空疎になるか。そうではなく、それは次々に何かを生み出すというエネルギーが反復構造によって保証されるのである。--などと書いても、私は、それを「信じて」書いているわけではない。ことばは、正反対のことを平気で書くことができる。だから、「外部へ拡張していく」と読むか「内部を充実させて行く」と読むかは、ベクトルの向きの違いにすぎなくて、そこには「論理は偽装できる」という「論理の問題点」があるだけなのだ。
 こういう詩を、どう読むか。私は、「動詞」に注目しながら読む。

 「叫んでいた」「知っている」「妨げられている」「始まった」「放射していく」「保存している」「尋ねる」「曲がっている」「記憶しよう」「力んでみる」、もう一度「放射している」

 「放射している」(放射する)ということばが反復されているが、他の「動詞」も、それぞれがそれぞれと接続することで、それぞれを「反復」しているのである。「僕」という「肉体」が「動詞」を「反復」することで、そこにある「世界」を「外側」にあるものではなく「内側」にあるものにする/「内側」から「底側」に出て行きながら「世界」を拡張するという構造を生み出すのである。
 「僕」は何かが(名詞が書かれているが、あえて「何かが」と名詞を除外してみる)「叫んでいた」のを「知っている」。その「叫び」は何かを「妨げられている」ことに対する抗議、怒り、悲しみ(感情の爆発)である。何か、いままで違ったことが「始まった」。始まったものは、その「内側」から「外側」へと何かを「放射していく」。「放射される」何かは「内側(内部)」に「保存」されていたものであるし、「放射された」何かは「外側(内側とは違う場/外部/他者)」に「保存される」。「放射」される前(保存されているとき)は何であり、放射されたあと(保存されたあと)、それは何になるか、「尋ねる」。放射される前と放射されたあと、それはどんなふうに違ったか(曲がったか/曲げられたか)。そういう「事実(世界のあり方)」を「記憶しようと力んでみたら」、僕から何かが「放射していく」。
 「外側」から何かが「僕」の「内側」に入ってきて、入ってきたことを自覚すると何かが「僕」の「内側」から「外側」に「放射していく」。「ひとつながりの運動」が見える。運動する「肉体」が見える。(「頭」が見える、というひともいるかもしれないが、私は「肉体」を見る)。その「運動」の瞬間瞬間、その「運動」が生み出すのものは「鳥」だったり「小屋」だったり「ビル」だったり「椅子」だったりする。そういう「もの(存在)」の断片を集めて、そこから「世界」がどういうものであるか判断することもできるが、動いていく「肉体」に焦点を絞った方が、広田のことばは「論理運動/運動する論理」ととらえる方が、私にはなじみやすい。つまり「誤読」しやすい。
 こんなふうに、私はどんな詩も「動詞」を中心にして「誤読」するのである。広田は「眼球」と「視力」を自己の中心にすえているので、私の読み方は「誤読」なのはわかっているが、あえてそう読むのである。

 もう一篇「詩」という作品についても書いてみたいと思ったが、時間がなくなった。あした書くかもしれない。やめてしまうかもしれない。

zero
広田 修
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする