詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『デジャヴュ街道』

2017-07-19 15:06:03 | 詩集
野村喜和夫『デジャヴュ街道』(思潮社、2017年06月30日発行)

 野村喜和夫『デジャヴュ街道』について、私は何を書くことができるだろうか。
 読みやすいか、読みにくいか。私には、読みやすい。なぜか。ことばにリズムがある。ただし、これは私と野村の年齢が近いから感じることなのかもしれない。どの年代にも、その年代が育ったときのリズムというものがある。それが共通しているから読みやすいと感じるだけなのかもしれない。
 こう書くとき、私は、最近の若い世代のことばのリズムと対比している。私は若い世代のことばのリズムにまったくついていけないときがある。読んでいてつまずく。
 でも、その野村の「リズム」のなかにも、いやなものがある。いやだけれど「わかる」ものがある。そのことについて書こうと思う。
 「平滑ロード」の書き出し。

骨のカントー、
肉のカントー、
いまにも疾駆する姿勢で、
あわれ、馬でも牛でもない、
いやはての哺乳類の骸骨の、
その首から上が、
西北西へそこを出ようとしている、

 「いまにも」はまだ我慢できる。でも「あわれ」「いやはての」には、私は我慢ができない。音が上滑りになる。音が「ことば」にたどりつく前に、音のまま消えてしまう。リズムだけが残る。
 どんなことばにも「意味領域」というものがある。たとえば「あわれ」ということば。私は三好達治の詩「甃のうへ」を思い出してしまう。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ

 あとは忘れたが、こういう詩だったと思う。それは教科書に載っていた。
 「あわれ/あはれ」のほんとう(あるいは辞書に書かれている)の意味は私は知らないが、「あはれ」が「花びら」や「をみなご」と結びつく形で「意味」をつくっていることを思い出す。そしてそれは「ながれ(る)」という動詞とも結びついている。「花びら」「をみなご」「ながれる」を「同じ」と感じさせるものがある。その「同じ」を私は「意味領域」と呼んでいる。そういうものが「あわれ」ということばといっしょに動く。これは、私や野村の世代に、たぶん、共通していると思う。
 そして、それは「黙読」のことばとして知っているのではなく、「耳」で聞いたものとして知っている。
 国語の時間に「甃のうへ」を読んだ記憶がある。級友が声に出して読むのを聞いた(聞かされた)記憶がある。「あはれ」の「意味」なんかいちいち考えない。ただ「音」として聞き、それが「肉体」の奥に残っていて、「あはれ/あわれ」ということばを聞くたびに揺れ動く。「意味」にならない前に、なんとなく「こんな感じ」の「感じ」のままに動く。
 それがそのまま、野村の詩を読んでいるときにも起きる。
 「いやはての」というのは具体的には思い出せないが、「いちばん果」というときとは違った一種の「時代」の匂いがある。いまの若い人が「いやはて」というのを実際に聞いて知っているかどうか、私は知らないが、私たちの世代は、どこかで聞いている。テレビの時代劇とか。
 「意味」が特定されないまま、「音」として流れていく。
 いわば、これは「枕詞」に近い。「枕詞」にはきちんと「意味」があるだろうけれど、そのことばの「語源」もあるだろうけれど、だんだんこの「枕詞」は特定のことばを引き出すための「音」という感じになってしまう。「あしびきの」は「山」を呼び出すための「音」。言い換えると「リズム」。その「リズム」が次のことばを呼び出す。呼び出してしまえば「枕詞」は消えていく。--とは言えないかもしれないけれど。
 まあ、なんとなく、そんな感じ。

 「いまにも」は「……する」、「あわれ」は「馬/牛(家畜)」、「いやはて」は「骸骨」の、「枕詞」。そして、「枕詞」であるかぎりは、そこに「意味領域」がある。
 こう言いなおせばいいのかもしれない。

 で。
 ここから私は、とんでもなく飛躍する。逸脱するのだが。
 この私が書いた「意味領域」というのは、一種の「概念」をあらわしている。「もの」というよりも「意識」というものを代弁している。
 野村は『哲学の骨、詩の肉』でランボーの「Je est un autre 」とネルヴァルの「Je suis l'autre 」について書いていた。そこに書かれていることは、私には理解できないことがらだったが……。野村の書いていることを通して私が考えたのは「不定冠詞」と「定冠詞」の違いである。
 端折って言うと。
 「定冠詞」をつけてことばをつかうとき、そのあとに出てくる「名詞」も「もの」ではなく、むしろ「概念/観念」である、というのが私の理解である。日本語には「不定冠詞」「定冠詞」というものがないから、「もの」と「概念/観念」がごちゃごちゃになるが、きっと「定冠詞」「不定冠詞」をつかいわける国語の人は、このあたりが明確に区別されると思う。
 「定冠詞」がないかわりに、それでは日本語はどうやって「もの」をある種の「概念/観念(意味領域)」と結びつける。
 「枕詞」がそういう働きをすると思う。
 また、指示詞「その、この、あの」もそういう働きをすると思う。その指示詞を、私は

その首から上が、

 の、「その」に感じる。
 この作品(詩行)では、「その」は「馬」「牛」「哺乳類」「骸骨」のすべてをひっつかんで「その首」という形で動いている。「定冠詞+首」なのである。言い換えると、「不定冠詞+首」=「初めて見る首(何の首かわからない首)」ではない。意識が絡みついている。
 この「無意識の定冠詞」としての「その」のつかい方。
 これが、また、私たちの世代の特徴であるとも思う。「その」を「定冠詞」として巧みに活用する詩人に荒川洋治がいる。具体的に引用できないが、荒川の書くことばには「定冠詞」の意識がしみこんだ「指示詞」がふんだんに登場してくる。それが「意味」(概念/観念)を非常になめらかに動かしている。
 たぶん外国語(英語)教育が「義務教育」に定着したという、あるいは「翻訳文体」を「翻訳文体」と意識せずに教えられた世代なのだと思う。無意識に「定冠詞」をどうつかうかということを身につけた世代なのだと思う。

 あ、書いていることがどんどん脱線するが。
 この「その=定冠詞」(概念をひきつれてくることば/意味領域に書いた人の思いがからんでいることば)という点から、先に引用した三好達治の詩を振り返ってみる。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ

 ここには「その」がない。あえて補えば、

あはれ花びらながれ
をみなごに「その」花びらながれ
「その」をみなごしめやかに語らひあゆみ

 である。英訳(仏訳)がどうなるかわからないが、きっと1行目の「花びら」は不定冠詞、2行目の「をみなご」も不定冠詞。しかし2行目の「花びら」は定冠詞、3行目の「をみなご」は定冠詞つきになる。「詩」は、また違うかもしれないが、意味をとるために「散文」でかけばきっとそうなる。
 だから、もし、三好達治が「平滑ロード」を書いたとしたら、

その首から上が、

 には「その」とは書かない。そう思う。「文体」が違うのである。

 あ、また脱線してしまったか。
 最初に戻る。
 野村の詩は、私にはとても読みやすく感じる。それは「リズム」が読みやすいからであり、その「リズム」というのはきっと年齢が近いということが影響しているんだろうなあと思う。それぞれの「ことば」がもっている「意味領域」に重なる部分が多い。「意味領域」を重ね合わせるときの、無意識の「方法(文体)」が近い。「観念/概念」の動かし方に「世代の流行(?)」のようなものがある、ということかもしれない。

 と、テキトウなことを書いて、おしまい。
デジャヴュ街道
野村 喜和夫
思潮社
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『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編)

2017-07-18 00:11:42 | 詩集
『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編)(岩波書店、2017年06月16日発行)

 まど・みちおの詩は知っている。しかし、私は読んだことがなかった。
 読みながら思ったことは、他の人は、この詩集をどうよむのだろうか、ということ。
 たとえば、有名な「ぞうさん」。

ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
 そうよ
 かあさんも ながいのよ

 最初の「ぞうさん/ぞうさん」というのは誰のことばなのだろう。動物園で象を見た子どもの声なのか。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は、問いかけられた象の子どものことばだろうか。
 しかし、私は、一度もそう感じたことがない。
 私は、これを「子守歌」のように感じてしまう。
 母親の象が、子どもの象を寝かせつけながら歌を歌う。「おはながながい」のが「ぞう」の特徴なんだよ、と教えている。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は「ほら、みてごらん、かあさんの鼻も長いでしょ? あなたと同じだよ」と言い聞かせている感じ。自分を愛することを教えていると言えばいいのかなあ。

ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
 あのね
 かあさんが すきなのよ

 これは、ふつうはやはり動物園に来た子どもが問いかけているように読むのかもしれない。あるいは子どもをつれてきた母親が、子どもの象に問いかけているとも読むことができる。
 でも、私はここでも母親象が、子象に語りかけているような気がする。
 子象は、まだ話せない。だからかわりに母親が語る。「あのね/かあさんがすきなのよ」と言うとき、その母親象は「あのね/あなたのことがいちばん好きなのよ」と言っている感じ。
 どちらも重要(?)なのは、子象がまだ語ることができないということ。ことばを聞くだけということ。母親は子どもに、ことばを教えている。あるいはものの見方を教えている。そういう「気持ち」はないかもしれないけれど、まあ、本能として、教えている。それは、子どもにこんなふうに育ってほしいという「こころ」を語りかけるという感じかなあ。
 かあさんも、あなたも、同じ。同じように鼻が長い。だから「親子」。そして、同じであることが「好き」。「好き」ということは言わなくてもわかることだけれど、「好き」と言った方がうれしいよ。楽しくなるよ、と語りかけている。「好き」と言われたことがない子どもは「好き」と言うことができないかもしれない。「好き」と言われつづけた子どもは、きっと「好き」ということばを自然に語る。
 そんなことを願いながら、「子守歌」のように歌っている。
 何と言えばいいのか、よくわからないが、まどは「対象」(象)を書きながら、対象書いていない。
 「対象」になっている。
 私が「子ぞう」になってしまうから、そういうことを感じるのかもしれない。まどの詩には、私を「書かれた対象」にしてしまう不思議な力がある。



 谷川俊太郎は解説というのだろうか、あとがき風の文章「なんでもないこと」のなかで、

言葉以前の<存在>をとらえようとするまどさん     ( 347ページ)

 と書いている。「言葉以前の<存在>をとらえようとする」というのは谷川についてもあてはまるから、谷川はここでは谷川自身のことも語っていることになる。
 で、その「言葉以前」にこだわっていうと。
 「言葉以前の<存在>」というのは、「象」が「象」になる前の存在。象の親子がいる。その「親子」の感じのなかで、まどが象になって生まれてくる。そこに描かれているのは「象」であるけれど、「象」ではなく「愛」。「愛」をくぐって「象」になって生まれてくる。
 キリンでも、ゴリラでも、犬でもいい。

 ほら、まだことばを知らない(話せない)子どもの象にむかって「ぞうさん/ぞうさん」と母親が語りかけている(歌っている)と、だんだん「子ぞう」が「子ぞう」としてあらわれてくる。それって、自分が「子ぞう」になるようで、楽しくない?
 あ、自分もこうやってことばを覚えたのかもしれないなあ、とうれしくなる。
 「言葉以前の<存在>」というのは、正確にはあてはまらないのだけれど。
 「言葉以前の<愛>」と言ってしまうと、母親の方には<愛>は最初からあるから違うのかもしれないけれど。でも子ども(子象)の方には、たぶん<愛>はまだない。生きる本能、欲望があるだけだろうと思う。その本能の形を整えるのが<愛>。
 <愛>ということばをつかわず、<愛>を伝える。「言葉以前の<愛の存在>」を伝えるというと、なんだかややこしくなるんだけれど。

 あ、ちょっと書きすぎたかもしれない。

 「ぞうさん」に引き返して言うと、母親が子どもにむかって「大好き」と言い、子どもは「大好き」ということばを聞きながら人間(子ぞう)として生まれてくる。こういう生き方は誰もがしていること、「なんでもないこと」なんだけれど、とても大事。こういう「なんでもない大事なこと」が「思想」だと思う。 

まど・みちお詩集 (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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伊藤浩子「約束の途上」

2017-07-17 00:31:41 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「約束の途上」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 私は哲学書とか思想書とかいうものを読まない。だからこれから書くことは「無知」が原因の「誤読」ということになるのだろうけれど、書いておきたい。
 私には伊藤浩子の書いていることが、さっぱりわからない。
 というより、伊藤浩子の書いていることがベンヤミンやその他の哲学者(?)思想家(?)と、どういう関係にあるのかわからない。なぜベンヤミンを引用する? それがわからない。
 「現代詩手帖」には鹿島徹との対談があって、そこで伊藤はベンヤミンとの「出会い」を書いているけれど、これも何が書いてあるか、私にはわからなかった。伊藤が鹿島の訳でベンヤミンを読んだということだけしかわからなかった。

 どんなふうに、わからないか。「約束の途上」を読むことで書いてみたい。
 ベンヤミンの「歴史の概念について テーゼⅡ」(鹿島訳)から次の部分が引用されている。

過去にはひそやかな牽引(インデックス)が付され、解き放たれるようにと指示されているのである。過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。

 「歴史の概念について テーゼⅡ」全体を私は知らない。だから、この部だけから何が書いてあるのか、私なりに読むと……。

 書き出しの「過去」とは「過去の出来事」ということだろう。
 出来事にはさまざまな要素がある。「時/場所/人/もの」が絡み合っている。「出来事」には「出来事」の「意味」があるが、出来事の構成要素の「時」「場所」「人」「もの」にもそれぞれ「意味の領域」というものがある。つまり、他の「時」「場所」「人」「もの」との関係性があり、関係がつくりだす「意味」というものがある。そのすべてが「出来事」の「意味」として明確に語られることは少ない。ことばというのは常に「一部」しか語ることができない。「出来事」にはつねに語り残された「意味の領域」がある。
 出来事を構成する「時/場所/人/もの」は、絡み合っているのだけれど、同時にその絡み合い「意味づけ」された「限定」から解き放たれ、再考察されることを待っている。「意味」の問い直し、「歴史」の問い直しといってもいい。それが「時」「場所」「人」「もの」の「個別の意味領域」のあり方として「インデックス」され(印づけられ)ている。もっとも、これは最初から「インデックス」されているというよりも、「いま」から振り返ったときに「インデックス」されているように感じられるということだろう。その感じたものを手がかりに、それぞれの「意味領域」を点検し、それまでの「意味」を解体し、もういちど「意味づけ」しなおす。そうしなければならない「瞬間」がやってくる。それが「いま」ということだろう。
 で、最初に書かれていた「過去(の出来事)」は、「過去の人びとを包んでいた空気」と言いなおされている。「空気」と書かれているが、それは「過去」に存在したものすべて、つまり「時/場所/人/もの」などである。
 人は誰でも大事なことは言いなおすものである。
 「過去の人びとを包んでいた空気」を手がかりに、私は冒頭に書かれていた「過去」をそう読み直した。
 「過去の出来事」を構成する「時/場所/人/もの」の、「出来事」を語るときに省略された「意味の領域」、「時の意味の領域」「場の意味の領域」「人の意味の領域」「ものの意味の領域」にある「ひそやかな目印(気になることがら)=インデックスとしてうかびあがるもの」が、「いま」私たちにそっと触れていないだろうか。それを感じ取り、さぐってみる。そうして歴史を見直してみるということをベンヤミンは語っているように考えられる。
 このとき「インデックス」というのは、たとえば、その「過去(の出来事)」の周辺で書かれた詩、文学、音楽、芝居、さらには新聞記事などである。「過去(の出来事)」を描写するときにつかわれた具体的なことば、そのひとつひとつの「ことばの意味の領域」が、規制の「過去(の出来事)の意味」を揺さぶるのである。
 こういうことは、ベンヤミンに限らず、あらゆる人がやっている。歴史家に限らず、哲学者に限らず、日々の報道でも同じ。卑近な例で言えば、森友学園、加計学園と安倍の関係をめぐる報道などもそうだろう。決定までの背後に何が、どう動いていたか。それぞれの「資料」が語る「意味の領域」が、「いま」を揺さぶる。
 ベンヤミンが語っていることを、そんなふうに「誤読」した上で、伊藤の詩を読んでいく。

忘れさられた夢が やっと
語りはじめた今につうじている
名のない路をここに記そう
星座をひらいた夜々をおりこみ
未来さえ黙示する
出会い損ねたひととの再会を
幾多の姉たちの声を導に
未だもとめつづけている
あえかな、
(やがてこの声も
(妹たちの砧骨に触れる予兆に

 「忘れされらた夢」は「過去(の出来事)」に対応する。「名のない路」は「インデックス」である。「夢」の「意味の領域」から締め出されたさまざまな存在の「意味の領域」を結びつけるとき(語りはじめる今)、そこから別の「時間」が見える。それは「過去」であると同時に「未来」を「黙示する」。これは、「歴史の法則」である。
 「夢(出来事)」を構成するさまざまな存在を、隠されていた「意味の領域」を明るみに出しながら結びつける。これを「出会い損ねた人との再会」と言いなおしているように読むことができる。「歴史」の「脱構築/再構築」ということになる。「幾多の姉たちの声」とは「幾多の構成要素の語られなかった意味領域」と読むことができる。(誤読することができる。)
 「あえかな、」というのは「声」にひきかえして修飾することばであり、ベンヤミンの「ひそやかな」に通じることばかもしれない。
 この「あえかな、」という一行までは、ベンヤミンの哲学(?)を伊藤が言いなおしたもの(換骨奪胎したもの)と読むことができる。

 ところが。
 連というのか、章というのかわからないが、次の部分では、ベンヤミンの哲学があとかたもなくなる。

 そういえば、と女の言葉はいつだって唐突だった。(略)
「母方の祖父の弟ね、些か風変りで、でも母も私も大好きだった。戦後、数年
間収容所にいて、帰国してから二度結婚して、二度離婚した。三年前に亡く
なったんだけれど、その人から、ある人に渡して欲しいと、託されたものが
あったの。彼もずっと忘れていたらしいんだけれど。今、思い出した」
「どうして、今なの?」、男の声は眠気のせいでくぐもっていた。
「分からない、あなたの青褪めた横顔を見ていたらふいに思い出したの」

 「過去(の出来事)=忘れさられた夢」は「祖父の弟の秘密(出来事)」として語られる。そこには何か新しい「意味」をもとめているものがある。「過去」から解放されて「今」を揺り動かそうとするものがある。
 そういうことを語ろうとしている。そう語ろうとしていると「誤読」するとき、ベンヤミンとも、一連目(第一章)とも重なる。
 だが。

「どうして、今なの?」、男の声は眠気のせいでくぐもっていた。

 この一行に私は完全につまずく。
 「過去」から「今」へ視点を動かし、「今」を起点にベンヤミンを継承しようとしている「意図」はわかる。わかるけれど、ここで私は思わずものを投げつけたくなる。
 問題は「過去(の出来事)」が抱え込んでいる「語られなかった意味の領域」。まず、それに目を向けるのが先だろう。
 だいたい、全く知らなかったことを「唐突」に言われて、「どうして、今なの?」と問いかける人間がいるだろうか。たとえ「今、思い出した」と相手が言ったとしても。「いま、何て言った? それ何のこと?」と思うのがふつうだろう。いきなり「どうして、今思い出したの?」などと聞く神経がわからない。
 ベンヤミンが省略した「今」ということば、伊藤が補った「今」を強調したくて、そうなったのだろうが、こういう「補足」の仕方も、私にはさっぱりわからない。
 ベンヤミンが、

過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。

 と書くとき、それは

過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、「今」わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。

 という意味である。伊藤が補わなくても、わかりきっている。ベンヤミンが「今」を省略したのは、「今」こそがベンヤミンのキーワードだからだろう。彼の「肉体(思想)」にしっかり染みついている。書いていないのは、彼いつでも「いま」何をするかということを問題にしているからではないのか。「いま」こそが彼のテーマであるとわかりきっているから、「いま」ということばを書かない。ベンヤミンは「歴史」の研究家ではなく「現在の思想家」ではないのか。

 伊藤の詩はこのあと、もう一連(一章)ある。
 それは引用しなくても想像できると思う。「過去(の出来事)」である。それが「物語」として語られる。そこに語られる「時/場所/ひと/もの」は「新しい意味の領域」のなかに解放されるのではなく、知り尽くされた(語り尽くされた)「物語(通俗的意味)」へと収斂していく。

 なぜ、伊藤はベンヤミンを引用しながら、こういう詩を書いたのか。
 私はベンヤミンを伊藤が引用しているものしか読んでいないが、これでは、ベンヤミンの思想を裏切っているではないか、と思ってしまう。
 ベンヤミンというのは、「いま」を「語り尽くされた意味の物語」でとらえる哲学者とは、私には思えない。だから、伊藤の書いていることはわからないとしか言いようがない。

未知への逸脱のために
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思潮社
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浜田優『哀歌とバラッド』

2017-07-16 12:07:29 | 詩集
浜田優『哀歌とバラッド』(思潮社、2017年07月20日発行)

 浜田優『哀歌とバラッド』の8ページ。タイトルはなく、詩がはじまっている。

冬晴れのある日
高層ビルの一角がくぎる路上の日だまりに立ってあなたは
目の前で垂直の穴がぽっかりと口を開けているのを
見たことがありますか
見たことがあるならあなたは
その穴へひとり、理由もなく
墜ちていったことがあるでしょう

 幻想というか、錯覚というか、あるいは虚構というか。呼び方はいろいろあるだろうけれど、私はその「内容」には関心がない。私が関心を持ったのは、「見たことがありますか/見たことがあるなら」という「動詞」を反復しながら動いていくことばと「あなた」が繰り返される点だ。
 詩は、こう続く。

墜ちていった穴のなかで、あなたは
冬晴れのある日
路上で起こっていたのに誰も気がつかなかった無音の惨劇を
もう一度、初めから終わりまで見たはずです

 「墜ちる」という動詞が繰り返され、「あなた」が繰り返される。その「あなた」の繰り返しは、常に「過去」へ戻ろうとする。
 「冬晴れのある日」で始まって、また「冬晴れのある日」。時間が循環する。この循環が、すべてが「あなた」の内部で起きたこと、意識のことがら(意識としての追体験/追体験の意識)であると告げる。
 幻想であるにしろ、錯覚であるにしろ、虚構であるにしろ、それは「意識」であり、「意識」は反復する(繰り返す)ことしかできない。
 ここから、浜田の詩は、意識をテーマにしていることがわかる。
 さらに、浜田の意識は、視覚を中心に動いていることもわかる。「見る」と「無音」の対比が浜田を動かす。視覚に集中する。そのとき、浜田の聴覚は閉ざされる。

 「沈む水球」を読むと、「さえずりは一瞬にして炸裂する。ルー、リリュ」というような「聴覚」を刺戟することばもあるが、そこに書かれている音は、私には「炸裂」そのもの、中心をうしなったもののように感じられる。他の感覚と融合していない。「視覚」と「聴覚」が拮抗しているというとらえ方もあると思うけれど、私には「感覚の協力/融合」というよりも「離反」の方が強く感じられる。

 これに比べると、「冬晴れのある日」の方は統一感がある。「あなた」という「人称」が世界を統一しているのかもしれない。
 「沈む水球」には「私」、あるいは「あなた」という「人称」が登場しないせいかもしれない。
 そうだとすると、「冬晴れのある日」の作品でもっとも重要なことばは「あなた」だったのかもしれない。
 「あなた」とは誰か。

 「静かな村」の一連目。

森のなか 七月の校庭に
むらさき色の夕暮れが下りてくるころ
遊び疲れた子どもたちは めいめいが
めいめいに背を向けて 四方へ散らばっていく
そこにはいつも だれかがいる
じっと動かず立っている
もう一人がいる

 「あなた」とは「だれか」であり、それは「もう一人」なのだ。「もう一人のあなた」。それは「背を向けて」離れていく「だれか」でもある。「私」のなかの「私に背を向けて」離れていく「もう一人の私」。
 これはもちろん「意識」の世界である。
 41ページに、こんな二行がある。のことば。

あなたには気づけない
それがわたしという存在の証し

 これは、他の浜田のことばと比較するとき、とても刺激的だ。
 「あなた」を「わたし(私)」は「見ている」。何度も何度も見ている。けれども、浜田は「気づけない」という。「気づけない」とは「意識」に取り込むことができないということだろう。
 「あなた」を「わたし」として言語化できない。あるいは「わたし」を「あなた」としてしか言語化できない。言い換えると「わたし」を「わたし」としてことばに定着させようとするとき、「違和感」がある。その「違和感」に対して「正直」であるとき、ことばのなかに不思議な「乖離(あなた)」のようなものが始まるということ。その「乖離」をことばで追うことが、浜田の詩という「行為」になる。
 38-39ページの二行。

わたしはわたしのなかに
ひろがっていく影を感じます

 この「影」は「影」のままにしておくのがいい。「冬晴れのある日」のようにビルから落ちる影でもいい。
 「静かな村」では、強引に「影」に輪郭を与えている。

夜の閾(いき)で 痩せた母が陣痛に耐えている
乗客のいない終列車が 鉄橋を渡っていく
だれもいない校庭 ざわめく森が息をひそめる
月光の素足が 青い桔梗の露にかがむ
明け方にちかく 森の上に現われて
昇らないまま消えていった
二つの星

 これでは古くさい「抒情詩」になってしまう。
「形」のないものを「形」のないままに書くために、反復(繰り返し)がある。「繰り返し」のなかで「動き(動詞)」が形(軌跡)になる。それは目に見えるが、目に見えない。「肉体」で追認するとき、「肉体」の内部で甦るものだ。
 一方でそういうものを「意識」しながら、「静かな村」の最終連のようなことばになってしまうのは、なんだかよくわからない。「静かな村」の最終連は浜田の「原体験」なのかもしれないが、それに頼らない方が意識の運動がなまなましくなるように思う。


哀歌とバラッド
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憲法9条について考える。

2017-07-15 13:15:50 | 自民党憲法改正草案を読む
東京新聞(中日新聞)の「考える広場」。
きょうの特集は「9条、変える?」
私も登場しています。
読んでください。
下のURLからも読めます。

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/hiroba/list/CK2017071502000236.html


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エレノア・コッポラ監督「ボンジュール、アン」(★)

2017-07-15 09:07:11 | 映画
監督 エレノア・コッポラ 出演 ダイアン・レイン、アレック・ボールドウィン、アルノー・ビアール

 エレノア・コッポラはコッポラの妻だという。自らの体験に基づく映画だそうである。そうすると、ダイアン・レインがエレノア・コッポラで、アレック・ボールドウィンがフランシス・コッポラか。うーん、どっちも「実物」より役者の方が美女、美男だな。エレノア・コッポラは、写真も見たことがないから知らないけれど。
 で。
 何が言いたいかというと、「実物」よりも「役者」が「美形」だとしたら、この映画では「現実」が「理想化」されているということ。「理想化」が悪いわけではないが、「理想」ほど退屈なものはない。
 「理想」は裏切られるためにある。「理想」がこわれるたびに噴出してくる「現実」。これが映画に輝きを与える。役者にしたって、「美形」が一瞬「醜悪」になる。あるいは「ブス」が一瞬「美形」にかわる。そういう瞬間って、おもしろいよねえ。
 あの「キャリー」のシシー・スペイシクさえ、ダンスパーティーの「女王」に選ばれた瞬間、「私は美しい」という喜びにあふれた顔になり、「あ、美人じゃないか」と思ってしまうからねえ。
 あ、脱線した。
 スタートは、まあまあ、よかった。
 アレック・ボールドウィンが電話で誰かと話している。「調子はどうだい」みたいな声に、ダイアン・レインが「耳の調子は大丈夫」みたいに答えてしまう。その間合い、それからの展開が自然。実際にあったことなんだろうなあ。リアルだなあ。そのあとダイアン・レインがコンパクトカメラで写真を撮る。細部にこだわり、アップの写真。全体は見た人に想像させる。
 この写真が、映画のあちこちで登場する。
 おもしろいのは、はっきり言ってしまって、この「写真」だけ。細部の拡大。全体はわからない。でも奇妙に充実している。
 でもねえ。写真は、動かない。これが問題だなあ。
 映画も、まったく動かない。
 あ、カンヌからパリまで車で移動する。動いている?
 これは、間違い。映画のなかでは何も動かない。人間は、最初から最後まで「自分」の殻に閉じこもっている。殻を突き破って、新しい人間(感情)が動き始めるわけではない。だから、外部(風景)を動かすことで、ストーリーが動いているようにみせかけているだけ。
 もちろん、このロードムービーを気取った「理想化」と見れば、ほんとうは「何か」が隠されているということになる。「理想」を映画化したのであって、「現実」は、いやはや、たいへんだった。くんず、ほぐれつの、行く先々でのはめをはずしたセックスがあった。ようするに、だれもかれもが浮気し放題だった。でも、それをなかったことにして「理想」の男女の旅行を描いた。
 でもねえ。
 それを感じさせるには、ダイアン・レインは「冷たすぎる」。アルノー・ビアールも色気がなさすぎる。あふれてくるものがない。
 これに比べると、イギリス男が二人でローマを旅しながら「グルメルポ」をやる映画の方がおもしろかったなあ。男二人なのに、妙に「色気」があった。漫才みたいに「物真似ごっこ」をやるところがおもしろかったし、料理もイタリアの方がおいしそうだな。
                     (KBCシネマ1、2017年07月12日)


 *

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吉田嘉彦『華茎水盤』

2017-07-14 09:56:17 | 詩集
吉田嘉彦『華茎水盤』(思潮社、2017年06月30日発行)

 私は「意味」が嫌いである。「意味の領域」が嫌いと言いなおした方がいいかもしれない。
 たとえば吉田嘉彦『華茎水盤』の「花」。

花が何かを引き起こすことはあるのだろうかと聞かれたら
私は畏れながら「ある」と答える
ある花を見た前後では 私は違う人間になる
花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない
我々は当惑するだけだ
しかし本当にいきるということについては
「準備」は錯覚でしかない
愛にも死にも準備はできない

 「ある花を見た前後では 私は違う人間になる/花が突然行う世界の転換に対する準備ができている者はいない」という二行はとても魅力的だ。ここには吉田がことばにする前には存在しなかったものが噴出してきている。それは「意味」をもとめているというか、「意味」になろうとしている。こういう動きは、私は大好きだが。
 その直前の

私は畏れながら「ある」と答える

 この「畏れる」が嫌いだ。「意味の領域」を限定している。吉田が「畏れ/畏れる」を書きたかったのは「理解できる」。「畏れ」という感情、「畏れる」という動詞こそが吉田のキーワードであると「理解できる」。
 でも、詩は「理解する」ものではない。むしろ「理解できない」ものである。
 この「理解できない」は、吉田のことばを借りて言えば「当惑する」でもある。さらに言いなおせば「準備ができていない」ということでもある。
 「準備」あるいは「準備する」とは、どういうことか。これもまあ、よくわからないことではあるのだが、わからないからこそ、吉田は「準備」ということばをなんども言いなおそうとしている。ここに吉田の「正直」が出ていて、ここもとても惹かれる。吉田が、ことばにならないことをことばに結晶させようともがいている感じが切実で、美しい。
 こういう瞬間、何かに刺戟され、その前で自分のそれまでもっていたものをすべて捨て去り、もう一度生まれ変わろうとする動きを「畏れ」というのだと思う。
 だからこそ、それを「畏れ」はいう形で表現してしまってはいけない。「畏れ」ということばを最初に出してしまうと、それにつづくことばは「畏れ」という「意味の領域」のなかで整えられてしまう。それは「畏れ」という「意味」で世界を覆ってしまうということだ。これでは、「ある花を見た前後で」以下を書く必要がないというか、私は読む必要がないと感じてしまう。
 「畏れ」ということばがない方が、読者は「畏れ」を直接体験することができる。「畏れ」ということばがあると、「畏れ」は既存のものとして見えてしまう。体験することができない。
 「畏れ」ということばがないと、読者が「畏れ」を発見できるかどうかわからない。というのは確かにそうだが、吉田の詩を読むことで読者が発見したものが「畏れ」でなくてもいいではないか。読者が吉田を「誤読」したっていいではないか。「誤読」することで「交流」がある。
 それは再び吉田のことばを借りて言いなおせば「吉田の詩を読んだ前後で 私(読者)は違う人間になる」ということである。同時に「読者に読まれた前後で 吉田の詩は違う詩になる」ということでもある。
 「意味の領域」を吉田が限定してしまっては、こういう「交流」は起きようがない。

 「樹を前に」という作品の書き出しもとても魅力的だ。

近くの団地の中に
二階建ての家よりも大きな樹が何本もある
そういった樹との関係をうまく結べない

 この「関係をうまく結べない」も、「畏れ」に通じるものだろう。「関係を結ぶ」前に、自分自身を整えないといけない。その「困惑」のようなものがある。
 でも、そのあとに、

多分大きなカテドラルよりも難しい

 こういう行がくると、「カテドラル」が「意味の領域」を限定してしまう。吉田は「カテドラル」を「人が造ったもの」と言いなおしているが、さて、「樹(自然)」と対比するときの「人工」が「カテドラル」であるというのは、どういうことだろうと、私はつまずいてしまう。
 吉田はキリスト教徒なのだろうか。あるいは、吉田はカテドラルが「日常」として存在する街に住んでいるのだろうか。そういうことも気になる。詩の全体の中には「カテドラル」の「意味の領域」が見当たらない。私には見つけられない。それなのに、ここで「カテドラル」が「意味の領域」を要求してくることに、私は身構えてしまう。言いなおすと、吉田の詩の中へ入っていく気持ちが消えてしまう。



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自民党の情報操作(加計学園問題)

2017-07-14 08:57:23 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の情報操作(加計学園問題)
               自民党憲法改正草案を読む/番外106 (情報の読み方)
 2017年07月14日読売新聞(西部版・14版)2面。

首相出席で閉会中審査/加計問題 自民 一転応じる方針

 見出しだけ読めばわかる内容である。「首相の出席には慎重論もあったが、内閣支持率が続落する中、首相自ら説明責任を果たす必要があると判断した。」と記事には書いてあるが、前回の国会閉会中審査では野党の追及が「不発」だったため、これなら追及をかわせる。新しい「資料」が出てくる前に安倍が国会で説明したという「事実」をつくってしまえ、ということだろう。

首相が「自分で国会に説明する意思がある」と受け入れるよう指示した。

 という文章も見える。追及をかわせるという「自信」を持ったということだろう。

 この記事で私が注目したのは、次の部分。

 竹下氏(自民党国会対策委員長)は野党に手厚く配分される質問時間の割り振りを与野党で均等にすることが開催の前提条件になると主張する方針だ。

 これは「情報操作」のひとつである。与野党の時間を均等にというのは、「平等」のようだが、あるいは「偏っていない」ようだが、疑惑追及の場合、見かけの「算数」基準にしてはいけない。
 加計学園の獣医学部新設に安倍がどう関与しているか、関与していないか。疑問解明のための審議なのに、疑問を追及する側の時間が少ないのは、逆に「不公平」である。疑問を「肯定意見」で覆い隠すためのショーになってしまう。
 安倍がよく口にする「ていねいに説明する」というのは、理解してもらえるまで、時間をかけて説明するということだろう。時間を限るということは、「ていねいに説明する」に反する。
 民主主義というのは少数の意見に耳を傾ける。意見の多様性を認めるということが基本にある。一人でも疑問に思うに人間がいるなら、その一人の疑問にもていねいに答える責任が安倍にはある。
 「12人の怒れる男」を思い起こしてみよう。一人の男の疑問が、「事実」を明るみにだし、「結論」をひっくり返すのだ。少数の疑問に、どこまでていねいに答えるか。
 だいたい、疑問をもっている人間はすでに「少数」ではない。世論調査でも多くの国民が安倍の姿勢に疑問をもっている。与野党均等という時間配分の根拠は存在しない。「12人の怒れる男」を例に言えば、すでに「疑問派」が過半数を超えている。与党の時間を少なくしても国民は反発しないだろう。野党の質問時間が制限されることに対して反発するだろう。

 4面には、こういう文章も見える。

首相周辺は「正々堂々と規制改革の意義を説明すればいい」と話している。

 ここにすでに「集中審議」での安倍の説明内容(作戦)が書かれている。「規制改革の意義」をひたすら繰り返し語るというのである。問題点をすりかえ、ただひたすら「説明した」という事実づくりのために「集中審査」を開こうとしている。
 問題は、野党が追及しているのは「規制改革の意義」ではない。「規制改革」を進めるときに、どのような手続きが取られたか。実際の審議の前の「根回し」のとき、どんな圧力が動いたか、ということである。
 与党は「新資料」は出て来ないと安心しきっている。
 しかし、安倍から提出された「ビッグ資料」がひとつある。「獣医学部を、全国に、二つでも三つでもつくればいい」という発言である。この発言からは、獣医師の需要と供給、獣医師の地域偏在をどう解決するかという視点が欠けている。言い換えると、前川が問題提起した「4条件」への考察が完全に欠如している。ここから逆に、加計学園の獣医学部新設が「4条件」を無視することで進められていることが「証明」できる。
 安倍の発言そのものが「新資料」なのである。前回は安倍が出席していなかったから、安倍を追及できなかった。野党は、安倍の発言をもとに、疑惑の突破口を開いてもらいたい。

 

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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鏡順子『耳を寄せるときこえる音』

2017-07-13 01:26:33 | 詩集
鏡順子『耳を寄せるときこえる音』(栗売社、2017年07月09日発行)

 鏡順子『耳を寄せるときこえる音』の巻頭の作品「洗濯屋」を読み始めてすぐ、ことばのスピードが独自であることに気づく。どこが独自かはすぐにはわからないが、あ、このスピード感、何かが違うと「肉体」が反応してしまう。

洗濯屋と
ペンキで書いてあった
それだけが のこっている

 どこが「独自」なのか。まず「洗濯屋」ということばだろうなあ。いまは「洗濯屋」なんて見ない。読んで「意味」はわかるけれど、読んだものが私の肉体には見えてこない。いまは「クリーニング屋」かなあ。「クリーニング屋」も、もう古いかもしれない。「肉体」が覚えているものを思い出さないといけない。「ペンキで書いてあった」も同じ感覚。そんなもの、最近は見ない。
 そういうことと「それだけが のこっている」ということばの、不思議な連絡がある。何かが、「いま」とは違う。
 これは詩が書かれた年代と関係があるかもしれないけれど、私にはそれだけではないような気がする。

川に沿って歩きながら
石けんのあわが
ときおり廃水にまざって流れてくるのを
見ている
向こうの川べりでは
太った女が 身を屈めて
なにかしている
そののろく感じられる動作は
野菜の皮をむいているのだとわかる

 ここには反芻がある。最初に登場する「見ている」は川を見ている。石鹸の泡とか、何かが流れてくる。その「見ている」はそのまま女の姿を「見る」にかわる。そして「なにかしている」と気づく。そのあと「野菜の皮をむいているのだとわかる」とことばが動く。「見ている」から「わかる」への変化が、不思議な反芻の形で書かれている。
 この「見ている」から「わかる」への変化、それを反芻の形で書くときのことばのスピードが独自なのだと思う。「見ている」を「わかる」へと言いなおす、その反芻のあり方がたぶん独自なのだ。
 読み進むと「妊婦」という作品に出会う。その三連目。

階上の部屋から
脱水機の
低く
うなる音が
きこえてくる
きいていると
いつまでも続く

 ここでは「きこえてくる」を「きいていると」という形で反芻している。「きいていると」がなくても、「意味」はわかる。脱水機の音がいつまでも聞こえる。ずっと脱水機をつかっているのだ。
 何がことばのスピードを落しているかというと、「きこえてくる」を「きいている」と言いなおすからだ。そんな音なんか「きかなくていい」。実際、聞きたくないだろう。うるさいのだろう。それなのに「きいている」。
 脱水機が回りつづけているだけではない。鏡が聞きつづけている。鏡を脱水機の音の方に身を寄せているのだ。
 「洗濯屋」でも同じだ。鏡はただ川を「見ている」だけではない。女を「見ている」だけではない。女の「のろく感じられる動作」に身を寄せている。鏡の肉体の記憶を重ね合わせている。そうして「皮をむいている」のだと「わかる」。
 「妊婦」で言いなおしてみると、脱水機の音が聞こえてくる。その音に身をよせて聞いていると、それが「いつまでも続く」ということが「わかる」。
 女が皮をむいていることも、脱水機が回りつづけていることも、「わからなくてもいい」ことがらである。けれど、鏡は「わかる」。「わからなくてもいい」ことを「わかる」ために、そこでことばが「不経済」につかわれ、そのために遅くなっている。
 それが「独自」なのだ。
 「わからなくてもいい」ことなんか「わからない」ままにして、もっと効率よく生きればいいじゃないか、というのが「現代」の人間の生き方である。
 この感じは詩集のタイトルとなっていることばが出てくる「弟」を読むと、いっそうはっきりする。水たまりにオタマジャクシがいる。

 大きな食用蛙のおたまじゃくしだ。
 少し大きくなったのが、そばにいる小さいのを食べて
いる。耳を寄せると、その音がきこえる。

 そのとおりなのだろうが、思わず、そんな音なんか聞かなくたっていいだろう、と思ってしまう。こんなことを書くと、詩が詩でなくなるかもしれないが、変でしょ? 鏡が水たまりに耳を寄せて、なにか音が聞こえる。あ、この音はオタマジャクシがオタマジャクシを食べている音だと「わかる」というのは。
 だいたい、それって「正確」な「事実」?
 いやあ、「正確な事実」であるかどうかはわからない。けれど、あ、鏡が「音を聞いた」ということ、そしてそれを「オタマジャクシがオタマジャクシを食べている音」だと「わかった」ということが「事実」としてあらわれてくる。
 「事実」になる。
 ここが、すごい。
 「事実」というのは「客観的」であるかどうかは関係がない。「事実」ははじめからそこにあるのではなく、「事実」になる、「事実」として生まれてくることなのだ。
 「事実」を生み出すために、鏡は「身を寄せる」。
 「弟」では「耳を寄せる」と書いているが、鏡が何かに寄せるのは「耳」だけではない。「洗濯屋」では「見る」という動詞が動いていた。そこでは「目」が寄せられている。目が女の動作に「寄せられ」、そこでは鏡の「肉体」全体が女の動作を反芻し、皮をむくという「肉体」そのものをつかみ取る。

 詩集のタイトルはたいていの場合、詩集に収められている作品のタイトルを流用するが、この詩集では詩の中の部分を取り出している。だれが決めたタイトルかわからないが、これはこの詩集の場合、ぴったりとおさまっている。とてもいいタイトルだと思う。鏡のことばの運動そのものの「キー(思想)」を取り出している。

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柿沼徹「犬」「雲」

2017-07-12 09:10:09 | 詩(雑誌・同人誌)
柿沼徹「犬」「雲」(「生き事」12、2017年夏発行)

 柿沼徹「犬」を読みながら、あっ、ここが「現代詩」の欠点だなあ、と思うところにぶつかった。私もついつい書いてしまうのだけれど。

部屋の隅で
ねそべっている犬の
眠そうな目が
こちらを見ている

そうか、おまえは犬、
犬だったよな

ようやくネクタイをしめていると
雨が降っている
庭の枯草
壁面の一部が濡れ始めている

 一連、二連目いいなあ。ワープロ以前のような一行の短さと呼吸もいいし、「犬、/犬だったよな」の「犬」の繰り返しもいい。繰り返した瞬間、「犬」を見ている柿沼の「肉体」が見える。
 でも、そのあとの

ようやくネクタイをしめていると

 これが、なんともいえず「現代詩」。ここに出てくる「ネクタイ」というのは、いまはやりのことばで言えば「換喩」。サラリーマンとか、管理される労働者(そして、そういう人間の悲哀)を言い換えたもの。
 で。
 こんなことが「わかってしまう」ことばが、「現代詩」をつまらなくさせている。
 「ネクタイ」にはさまざまな「意味」がある。でも、「現代詩」のなかでは「管理される労働者」という「意味」の比喩になり、それは「しめる」という人間を窮屈にさせる動詞といっしょになって動くという「定型」ができあがってしまっている。(「ネクタイをゆるめる」はまた別の「意味」になるが、これも「定型」である。)
 これが「快晴」ではなく「雨」ということばと結びついて「憂鬱」を「意味」にする。さらに「枯草」という名詞と結びつき「疲労」とか「盛りのすぎた」という「意味」を引き寄せる。「濡れ始める」という動詞も、まあ、それに通じるし、「壁面」の「壁」さえ「乗り越えられない障礙」という「意味」になりたがる。意味が「領域」としてひろがって世界になる。
 あとは、もう読まなくてもいい。
 詩のほんとうの仕事は、こういう「意味(の領域)」から「もの」そのものを奪い返すこと、「ことば」を「無意味」にすることなんだけれど、「現代詩」の「意味の連絡網」はなかなかしつこくて、詩人を自由にはしてくれない。

 「雲」は「犬」とは違う。一連目は、こうである。

この古いビルの階段を
のぼりつめて扉を開けると
高い曇りの一日が射してくる
今日までの身体
ここに来たことがあるという記憶の
そのなかの出来事のようにぼんやり立つと
雲がまぶしい

 「古い」ビル、「今日までの身体」、「記憶」は「犬」に通じる「管理される人間」の「憂鬱/悲哀」の「意味」を呼び寄せるが、

高い曇りの一日が射してくる

 この「一日」がちょっと違う。はっとする。「日」ではなく「一日」。うーん。「量」が「どすん」と響いてくる。

ここに来たことがあるという記憶の
そのなかの出来事のようにぼんやり立つと

 という、わかるけれどわかりにくい、あるいはわかりにくいけれどわかる感じの、ことばのぎごちない感じが「肉体」を刺戟する。もっとわかりやすい、自然な言い方があるのかもしれないが、それがみつからない。でも、このことは言いたいという「欲望」のようなものを感じる。(「立つ」という動詞が、私の「肉体」を内部から動かす。)
 「意味」ではなく、この「言いたい」という「肉体」と結びついた欲望が詩なんだろうなあ。
 そして、そのあと

雲がまぶしい

 これがいいなあ。
 「雲」は「太陽」と違って、ふつうは「まぶしくない」。
 でも、柿沼は「太陽はまぶしい」「太陽をさえぎる雲はまぶしくない(むしろ暗い)」という「意味」を引き剥がして、「雲」を「まぶしい」という形容詞で生まれ変わらせる。
 あ、詩というのは、こういうことだったんだなあと気づく。
 「雲」がいままでの「意味」とは違ってきた。「雲」が新しい世界の「扉を開けた」。だから、二連目からは、少し違った世界が展開する。

朝昼晩の裏側
清掃会社に勤めていたSさんが
ざまあみろ、おまえたち、ざまあみろ、
仕事をしながら呻いている
屋上の貯水タンクの中に何があるか、
ネズミ、蛾、蠅、ゴキブリ、
おまえたち水道の水を飲んでいるんだろ

 見方によっては、この「怒り」の発散も「現代詩の定型」のひとつではあるけれど、「雲がまぶしい」ということばが「定型」を洗い流している。「怒りがまぶしい」という感じを誘い出している。
 「まぶしい」という形容詞も、何か新しいものになっている感じがする。

もんしろちょうの道順
クリエーター情報なし
思潮社
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自民党の二枚舌(加計学園問題)

2017-07-11 09:41:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の二枚舌(加計学園問題)
               自民党憲法改正草案を読む/番外105 (情報の読み方)
 2017年07月11日読売新聞(西部版・14版)に「加計学園問題をめぐる国会閉会中審査」の詳報が載っている。詳報といっても1ページだから、大半は省略されていると思う。
 まず前川が、加計学園に決まるような仕組みがつくられて、意思決定がされたと主張している。それに対して、原英史・国家戦略特区ワーキンググループ委員が「岩盤規制改革実現のために真剣に取り組んできた。利益誘導に加担したかのようなことを言われているのは残念でならない」と答えている。
 私は「国家戦略特区ワーキンググループ」がどのようなものであるか知らないが、前川が問題提起したことは国家戦略特区ワーキンググループとは無関係ではないだろうか。前川は国家戦略特区ワーキンググループを批判しているのだろうか。国家戦略特区ワーキンググループでの審議以前のことを問題にしているのではないのか。
 国家戦略特区ワーキンググループで、獣医学部の新設を認めるかどうか、認めるとしたらどこを認めるか、という以前の過程を問題にしている。具体的に言えば、国家戦略特区ワーキンググループに提出されたであろう「資料」、獣医学部の新設を認めるとしたら、「広域的に」獣医学部がない地域、「1校に限り」という条件が、だれによって、どのようなかたちで追加されたのか。それはなぜなのかを問題にしている。その「資料」にもとづいて審議すれば、必然的に(つまり正しく)、国家戦略特区ワーキンググループの結論は加計学園を選定するという結論にたどり着いてしまう。もし、「広域的に」「1校限り」という条件がないのに国家戦略特区ワーキンググループが加計学園を選んだのだとしたら、そのときこそ議論過程が問われる。どのような「基準」にもとづいて「結論」が導き出されたのかが問われる。今回は、そうではないのだ。設定された条件のなかで「正しく」、つまり条件に従って結論を出した国家戦略特区ワーキンググループには、何の非もない。その国家戦略特区ワーキンググループの代表(?)が出てきて、自分たちは間違っていないと主張したって、何の意味もない。無意味な「正しさ」の主張である。こういう「無意味な正しさ」を最初に打ち出してくることろに自民党(安倍)の「二枚舌」の特徴がある。
 松野文科相は念押しするように「プロセスにおいてはオープンな場で議論があり、議事録も提出され」云々と言っているが、これも無意味だ。繰り返すが、前川が問題にしているのは国家戦略特区ワーキンググループの「議論/議事録」ではない。その「背後」の「記録」である。国家戦略特区ワーキンググループにおいて、「広域的に」「1校に限り」という条件を追加しようという提案があり、それが「議事録」に残っているのか。違うだろう。国家戦略特区ワーキンググループでの審議の「資料」になった文章に「広域的に」「1校に限り」という文言を追加したのはだれなのか、なぜなのか、それが問題になっている。その「資料」がつくられるまでの間に、だれが、だれに、どのような交渉をしたのか。
 この問題を置き去りにして、国家戦略特区ワーキンググループでの審議が正しいから、前川の指摘はあたらない、というのは新手の「二枚舌」のつかい方である。国家戦略特区ワーキンググループの議事録はきちんと残っている。その議事録に問題はない。だから、その審議以前に何があったかは問題ないと自民党(政府)は言うが、問題は国家戦略特区ワーキンググループの審議(議事録)ではなく、その背後にある「交渉」とその「交渉のメモ(交渉過程の記録)」である。
 こうした「背後」の記録(文書)について、政府、文科相は「ない」と主張していた。「怪文書」と断定していた。「文書がない」は「交渉はなかった」ということである。そういうふうに政府(安倍)は主張していた。しかし、それはあった。「文書があった」は「交渉があった」という「証拠」である。「文書があった」は国家戦略特区ワーキンググループでの実際の審議の前に、背後で審議の結論を導くための準備がされたという「証拠」でもある。
 文科相から出てきた「文書」に書かれていることについては、萩生田など当事者はみな「記憶にない」とぼかしている。文科相が、文書は「確認されなかった」と言ったのと同じである。「確認されなかった」は「存在しない」と違うように、「記憶にない」は「言っていない」という否定とは違う。新たに「証拠」が出てきたとき、「ない」「言っていない」とは言わなかった逃れるための「方便」である。

 加計学園の獣医学部新設を認めるという「結論」が問題になったあと、安倍が加計学園だけが問題なら「2校でも3校でもつくればいい」と言った。このことに対し民進党の緒方議員が「どういうデータに基づいて判断するのか」と質問している。安倍は審査会には出席していないので山本地方相が答えている。
 「ライフサイエンス分野など(略)新たな需要はある。ただ、何人必要かは、だれもはっきりしない」
 これは獣医学部を新設するかどうかという審議以前からの問題であったはずだ。獣医師会、獣医学部のある大学は、それがはっきりしないから、新設に反対していた。その反対に封をしたまま強引に審議を進め、加計学園に獣医学部を新設することにしてしまった。審議過程がおかしいと前川は主張している。新設には「4条件」を満たすことが必要なのに、「4条件」を満たすことができるかどうか、きちんと審議もされていないというのが前川の主張である。
 獣医学部がほんとうに必要なのかどうか。第三者ではなく、獣医師会、獣医学部のある大学の意見など、それを国会で確認するところからはじめないといけないのではないのか。獣医師会、獣医学部のある大学も、獣医が足りない。すぐにでも獣医学部を新設し、獣医師を育てる必要がある。四国に獣医師が不足しているから四国に大学が必要であるという「認識」を獣医師会や大学がもっているなら、そしてそれを裏付ける「数字」を山本地方相が示せるなら、前川の主張は根底から崩れる。
 安倍や自民党が前川の主張を覆そうとするなら、そいういういちばん簡単なところを攻めるべきなのに、そうしない。この問題を、そこまでさかのぼって調べなおすとますます安倍のやっていることがおかしいということがわかる。だから、そういうことには蓋をする。これも「二枚舌」のひとつである。
 野党は、安倍や和泉首相補佐官の「出席」を求めているが、同時に獣医師会や獣医学部のある大学関係者の証人喚問を要求すべきである。「4条件」を満たしていると、獣医師会や獣医学部が「証言」するのかどうか。獣医学部が必要と言っているのはどこなのか。その根拠はどこにあるのか。そういうことを「証言」できるひとも呼ぶべきである。「新たな需要はある。ただ、何人必要かは、だれもはっきりしない」というような山本の「意見」では、獣医学部を新設する「根拠」にはならない。
 獣医学部を新設する「根拠」が示されないから、加計学園に獣医学部が新設されるのは、学園の経営者が安倍の「お友だち」だからだ、という「結論」になる。「お友だち」のために税金をつかっている。安倍は行政を私物化していると言うのである。

 

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 

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秋山基夫『月光浮遊抄』

2017-07-11 00:50:37 | 詩集
秋山基夫『月光浮遊抄』(思潮社、2017年07月01日発行)

 秋山基夫『月光浮遊抄』は古典と行き来している。ということはわかるが、私は古典を知らない。感想を書こうとしても、どうにも書きようがないというのが正直なところ。

 とはいっても、おもしろいと感じることがあるので、古典は無視して感想を書こう。
 方法論としては「消尽の記」という作品がいちばんおもしろいというか、この詩集の特徴をあらわしている。6の断章(?)からなりたっている。そして、それぞれに番号がふられている。ただし、順序が違う。「3、4、1、2、5、0」と並んでいる。ページ順に読んでもいいし、番号順に読み直してもいいということだろう。
 ということは。
 「時間」というものが「過去-現在-未来」という具合に直線上を動いていっていないということになる。順序をかえても「いま」はある。というよりも、「時間」には「いま」しかない。どんな「過去」も思い浮かべて瞬間に「いま」としてあらわれてくる。一時間前のことも、一年前のことも、千年前のことも、「思い浮かぶる」という「動詞」のなかでは「いま」そのものとして動く。
 「過去」はないし、「未来」もない。「いま」のなかにすべてが融合する。「時間」を自由に動き回り、「いま」をさまざまにとらえなおす。
 でも、こういう方法論というか、理屈に対する感想を書いてもしようがない気がする。とても巧みにできている、と言ってしまえばおしまいだし、こういうことは詩を具体的に読まなくても書くことができるからである。
 で、読まなくても書ける感想というもの、少し書いてみれば、こういうことになる。

 あることばがある。それは「過去」の文脈のなかで「ひとつの意味」をもっている。それを「過去」から引き剥がし、別の「時間」にもってくる。「いま」にもってくる。「いま」のことばに「過去」のことばが結びつけられると、そこには新しい「意味」が動き始める。その「新しい動き」は反作用のようにして、「いま」ある他のことばにも影響し、その「意味」を少しずつかえていく。つまり「意味」の領域が動き始める。
 とはいうものの、どのようなことばも単独で存在しているわけではない。それぞれのことばがいくつものことばと結びついて、一定の「文化」のようなものをつくっている。
 だから「意味の領域」が動くということは、「文化(世界)」のあり方が動くというとこでもあるのだが、このときの「世界」の交渉には、単独のことばだけを見ることではとらえきれないものがある。無意識の「連続性」というものがあり、それがどうしても「世界」を限定してしまうという側面がある。
 これを破るのがほんとうの詩だが、限界を(領域を)破ろうとして、逆に「敗れてしまう」ときもあって、それはそれで詩という形をとってしまう。破ったのか、敗れたのかは問題ではなく、交渉し、そこで何かが動いたということが詩なのだと言いなおしてしまうと、もう何を言っているのかわからなくなる。
 こういうことが「論理」というか「批評」の一番の問題点である、と別なことを書いて、読まずに書く「感想」をいったん閉じておこう。
 「消尽の記」については、これ以上書かないことにする。



 美しい詩だなあと感じたのは「河童池の昼と夜」。ほんとうに美しいのか、会社の近くの堀にはハスの花が咲いていて、月の出ていた日にそれを見たために美しいと感じたのかよくわからない。どんな「ことば/詩」も「現実」とどこかで交渉してしまうところがあるからなあ、と思う。
 あ、余計なことを書いたか。
 全行引用する。

日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます
日が西に傾くとまた眠りにはいる
かすかな風が池の面を吹いて行き
浮かんだ葉っぱもいくぶん揺れる

月が昇ると暗い池の水が光りだす
睡蓮の花は闇を内部に抱きしめる
蛙らは葉っぱに乗っかり眠りこみ
白い皿のような月が水中で揺れる

 「対」の構造がとてもおもしろい。
 「日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます/日が西に傾くとまた眠りにはいる」には「朝日」と「夕日」の「対」があり、それが「目を覚ます」「眠る」と「対」を強調する。このとき「眠る」を「眠りにはいる」と書いているのがとても刺激的だ。「眠る」という動詞をつかわず「眠り」という名詞にしたあと、「入る」という新しい動詞で動かす。
 そのとき「入る」の「主語」は何?
 文法的(?)には「睡蓮の花」ということになるが、妙に「肉体」が刺激されて、私の場合は、私が「はいる」という感じに受けとめてしまう。そして、その瞬間、私は「睡蓮の花」になって動いているように思えるのだ。
 「眠る」「眠り込む」という動詞だったら、「睡蓮」の客観的(?)描写に見えただろうと思う。でも、そこに「予想外」の「はいる」という動詞があったために、私は不思議な感じで詩に取り込まれたのである。
 この一連目の「日」は二連目の「月」と「対」になっている。
 「日」も「月」も「明るい」のだが、月は「暗さ」といっしょにある「明るさ」である。だから、「月」は「暗い」ということばと結びつきながら「光(光りだす)」ということばを揺り動かし、目覚めさせる。「月」と「暗い」が「対」になり、「月」のある「天」と地上の「水」がまた「対」を生み出す。
 この「暗い」は「闇」となって二行目を動かすのだが。
 このとき「闇を内部に抱き締める」ということばの「つながり」--これがねえ、なんともいえず「文化的」なのだ。そこに「文化の領域」(伝統の領域)というものを私は感じるなあ。
 闇を内部に抱きしめることで、睡蓮の花の表面(外側)が逆に光を発するような錯覚を抱く。月が昇ると水が光るように、睡蓮は闇を抱くと光る。美しい色になる、というような錯覚に誘われる。「対」が生み出す幻が開くのだ。
 そのあと「葉っぱ」が出てきて、これは一連目の「葉っぱ」と「対」なのだが、睡蓮の花の夢(内部に闇を抱きしめ、その外側が光る)、睡蓮の眠り込んだ姿を浮かび上がらせながら、もう一度「月」に戻る。
 「月」は昇ったはずなのに、いま「水中」で揺れる。「天」と「地(水)」が「対」になっているだけではなく、「月」は「水」に浮かぶことを超えて、「水中」で揺れる。この「水中」ということばには、ほら、「眠りにはいる」の「はいる」が動いていない? 「月」は水のなかに「はいる」。
 睡蓮が「闇を内部に抱きしめる」とき、水は「月を(ひかりを)内部に抱きしめる」、あるいは「水の中に抱かれて月は光る」。このどこまでもどこまでも「対」を誘うように動くようなことば--これがとても美しい。

月光浮遊抄
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自民党の二枚舌

2017-07-10 09:41:01 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の二枚舌
               自民党憲法改正草案を読む/番外104 (情報の読み方)
 きょう2017年07月10日に加計学園問題をめぐり、国会の閉会中審査が開かれる。野党が臨時国会の開催を求めているのに対し、自民党が拒否し、かわりに開かれる。この審査会には安倍は出席しない。G20のあと、ヨーロッパを「外遊」中のためである。ただし、九州豪雨に対応するため、1日切り上げてあす帰国するそうである。10日の審査会はどうしても避けたかったようである。

 この対応をめぐって、現行憲法と自民党の憲法改正草案を比較してみる。

現行憲法 第五十三条
内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。
いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

改正草案 第五十三条
内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。
いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない。

現行憲法 第六十三条
内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。
又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。

改正草案 第六十三条
内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため両議院に出席することができる。

内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 自民党が臨時国会を拒否した理由は、現行憲法には「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」という規定はあるが、何日以内に開かなければならないという規定はない。だから今すぐに開かなくてもいいと主張している。
 現行憲法を、「尊重」している。
 一方、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、(略)答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない」という規定に対しては、それを無視している。そして、「出席しなければならない」という部分に対しては、改正草案の「ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない」を適用しようとしている。G20への参加、その他のヨーロッパ諸国「外遊」を「職務に必要」と判断したということだろう。改正草案を先取り実施している。
 この改正草案の「先取り実施」を第五十三条にあてはめるとどうだろうか。改正案では、「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と書いてある。つまり自民党の理想は「要求があった日から二十日以内」の開催である。しかし、現行憲法に規定がないからという理由で拒否している。
 一方で現行憲法を優先し、他方で改正草案の規定を優先する。こういうことをダブルスタンダードという。そのとき、そのときにあわせて、基準をかえている。自民党のつごうにあわせている。

 加計学園問題を、「核心」の安倍への質疑抜きで、自民党はどう説明するつもりかわからないが、安倍抜きでは多くの人は納得できないだろう。森友学園問題も、国民の多くは「解決した」とは思っていないだろう。
 臨時国会、内閣総理大臣、閣僚の出席問題への「ダブルスタンダード」と同じことが、加計学園、森友学園に対して行われていると、私は見ている。安倍に親しい人がいるか、いないかによって対応をわけている。親しい人がいるなら優遇する。いないなら優遇しない。
 これは、ある意味では、強烈な「統一基準」であるとも言える。
 「安倍優先」という基準。
 
 国会運営も同じ。
 安倍が国会で追及されないようにするという「統一基準」で国会を動かそうとしている。そのために、さまざまな「規定」をそれにあわせて運用している。
 このことを忘れないで、きょうの「審査会」の質疑を見守らないといけない。どこで、どういう「基準」を出してくるか。それを、どう運用するか。
 「二枚舌」をチェックするところから「審査会」を見る必要があると思う。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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マーレン・アーデ監督「ありがとう、トニ・エルドマン」(★★★)

2017-07-10 08:51:47 | 映画
監督 マーレン・アーデ 出演 ペーター・シモニスチェク、サンドラ・フラー

 悪ふざけが好きな父親、生真面目な娘。父親が娘の生き方を心配し、見守り、ちょっかいを出すという映画。
 細部がていねいで、とてもいい。
 特にいいのが、二人がドイツ大使と秘書を名乗って、イースターの準備をしている夫人の家をたずねるところ。娘は「童心」というものをすっかりなくしているからイースターの卵(模様づけ)には関心がない。いやいや作業をしている。その最後に、父親が、「お礼に私がピアノを弾き、娘が歌う」という。娘は仕方なしに歌を歌う。これが投げやり。投げやりだけれど、どこかにほんとうの気持ちが表れてしまう。「自分を信じて、自分に自信を持って」というような歌詞が出てくるが、あ、そういう時代があったと思い出すのである。いまでも仕事をこなし、やり手と思われてはいるが、それは自信ではなく、ある種の「虚勢」かもしれない。自分のしていることが、目一杯とわかっているから、娘はどことなくギスギスしてしまう。
 その直前の、視察先の石油(?)掘削現場近くで、父親が近くの家でトイレを借りるシーンもいいなあ。近くの家の人がリンゴまでくれたりする。まあ、そこには「首にしないで」というような思いもあるんだろうけれど、なんといえばいいのか、人に頼る人の弱さの美しさというものが静かに描かれている。頼っている人を、簡単に見捨てていいのか。娘の仕事はリストラを進める、リストラの方法を企業に教える、いわばコンサルタントなのだが。
 これがあって、イースターの卵づくりへとつづいていく。イースターの卵をつくったからといって誰かがほんとうに幸せになるわけではない。けれど、そういうことをする、みんなで何かを「願う」というところに「しあわせ」というものがあるんじゃないだろうか。人は人を頼りにしている。
 「女子会(?)」で、自分のつまらなかった週末の出来事を自慢し合う、そうやって慰め合うというのも、まあ、それに通じるかもしれない。どこかで自分の弱さをさらけだす。つらかったことをさらけだす。それができることの「しあわせ」。「不幸」なんだけれど、なんとなく「不幸」から吹っ切れる瞬間。
 でも。
 うーん、盛りだくさんすぎる。エピソードが多すぎて、なおかつそのすべてが「ていねい」に描かれていて、映画なのに映画と思えなくなる。それがこの映画の見どころではあるのだけれど、これはつらいなあ。
 ぜんぜんハッピーな感じにはなれないのである。
 娘の誕生パーティー(ヌードパーティー)に、父親が全身毛だらけの着ぐるみであらわれる。公園まで娘が追いかけ、「パパ」と抱きつく。なかなか感動的なのだが、そのあと、着ぐるみが脱げなくなって、父親が近くの事務所(?)に飛び込み、受け付けの女性に着ぐるみを脱がせてくれ、というところなど、そういうことが「事実」であるにしろ、「現実的」すぎて……。

 ペーター・シモニスチェクはすばらしいし、ジャック・ニコルソンがぜひやりたいと言って、リメイクされるみたいだが。つまり、役者にとっては、とってもやりがいのある役どころなのだが、これを3時間も見せられるとちょっとつらい。アメリカ版は、もっともっと整理されて短くなるだろうけれど、でも、そうすると今度は完全に違ったものなるだろうなあといういやな感じもあるし。
 意外と、現実がつらくてつらくてしようがないという人、サンドラ・フラーと同じ立場にいる人には、ぐいっと迫る映画かもしれない。我慢して我慢してエリートであることを維持している人が見ると泣いてしまうかもしれない。でも、そういうひとはこの映画を見ないだろうなあ。見ている時間はないだろうなあ。
                     (KBCシネマ2、2017年07月09日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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暁方ミセイ「春の港」

2017-07-09 15:05:17 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「春の港」(同人誌名不詳。2017年03月12日発行)

 暁方ミセイ「春の港」は、暁方、そらしといろ、疋田龍乃介、吉田友佳の4人ではじめた「同人誌(紙?)」。本体(?)に名前が書いていない(見つけられない)。封筒に書いてあったのかもしれないが、すぐに処分するので、わからなくなってしまった。
 その全行。

アマリリス、アマポーラ、流れていった
川の中には緑の水草
(考えなしの春がきている、わたしは浴して不愉快に明るくなっている)
そうだここに、北の花畑の思い出を持ち込み
冷たく清めて冬虫の魂を
呼び出したらどうだ
(ばかげた均衡、わたしは浴して不愉快に明るくなっている)
不愉快に明るくなる
空がうす緑で水は甘い茶色
ジギタリス、ルビナス
毒を回せ
そうだそれで、均衡だ この世の春の
ランドスケープだビオトーブだ

 三行目が魅力的だ。「不愉快に明るくなる」。このことばの衝突が楽しい。この衝突は「均衡」として言いなおされている。
 そして、それが均衡として言いなおされているなら、衝突も均衡も「考え」であり、「考えなし」は「ばかげた」均衡になり、さらに「毒を回せ」の「毒」になっていく。「毒」として結晶する。これは「矛盾」なのか「止揚」なのか、わからない。
 詩なのだから、まあ、わからなくていい。
 「不愉快に明るくなる」のなかに「毒」がある。「毒」だけれど「均衡」があるから、人間は死ぬわけではない。何かを覚醒させる力として働く。「覚醒剤」のようなもの。
 だから「不愉快に明るくなる」と「毒」は、エリオット「荒れ地」の「春の雨」と「根っこ」の関係に通じるかなあ、とも思う。「矛盾」というか、予期しなかった「事実」がそこにあり、それが「常識」を壊していく。人間を生まれ変わらせる。

 ことばのリズムも、とてもいい。「ア」マリリス、「ア」マポーラ、「み」どりの「み」ずくさ、ジギタリ「ス」、ルピナ「ス」とか、ランドスケー「プ」。ビオトー「プ」とか。ふゆむ「し」、たま「し」いというところにも、私は反応してしまう。「冬虫」は読み方を間違えているかもしれないけれど、そんなふうに間違えて読んでしまうくらい、そのリズムと音楽に引き込まれている私がいる。



ウイルスちゃん
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