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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』(2)

2017-07-08 12:08:43 | 詩集
野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』(2)(思潮社、2017年06月30日発行)

 野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』の第7章は「西脇詩学、井筒哲学」である。
 井筒俊彦は、最近、詩人の間で大流行しているようだ。井筒俊彦はあまり読んだことがないし、むずかしくてよくわからない。野村の書いている文章を読むと、ますますわからなくなる。
 この章でわかったことは、
(1)野村は西脇を読んでいる。
(2)野村は井筒を読んでいる。
(3)野村は丸山圭三郎を読んでいる。
 ということである。ほかにもいろいろ出てくるのだが、野村はたくさん本を読んでいる。そのことはわかったが、
(1)井筒は西脇の詩をどう読んでいたか。
(2)西脇は井筒の哲学をどう読んでいたか。
 ということがわからない。
 井筒が西脇の講義を聞いたらしいことが書かれているが、二人の間には交渉があったのだろうか。互いに影響を受けあったのだろうか。一方が他方に影響を与えただけなのだろうか。
 もっと簡単に言うと、
(1)井筒が西脇の作品を取り上げて、彼自身の「哲学」を推し進める手がかりにしたのだろうか。
(2)西脇が井筒の哲学を読むことで、西脇の詩を展開するときのよりどころにしたのだろうか。
 これが、ぜんぜん、わからない。
 もし、そういうことがないのだとしたら、西脇と井筒を結びつけることは、何か意味があるのだろうか。二人の間に、そういう関係(一方的関係でもいいのだが)がないのなら、何のために二人を結びつける必要があるのか、それが私にはわからない。

 たぶん。

 野村は井筒を読み、そこで何かを吸収し、その視点から西脇を読み直した、ということなのだろう。そのことを「正直」に語ったのが、ここに書かれている文章ということになるのだろうけれど。
 うーん。
 「私は井筒を読みました」という「自慢話」のようにしか聞こえない。

 私は井筒俊彦を読んでいないので、野村が引用している井筒をもとに、野村が西脇をどう読んだかを読み取り、そのことに対する感想を書いてみたい。
 野村は、井筒の『意識と本質』を引用している。165 ページ以下に詳しく書かれているが、端折って「概略」を書くと……。
 井筒は認識のあり方を「分節(Ⅰ)=表層意識」と「分節(Ⅱ)=絶対無分節をくぐり抜けた分節」とにわけている。「絶対無分節」というのはロゴス、経験のことば(分節)がおよばない世界。いわば「カオス」。この領域を「アーラヤ識」と呼ぶのか、どうか、野村の引用ではよくわからない。(丸山や道元も引用されている。)
 井筒が重視(?)しているのは「分節(Ⅱ)」である。表層意識としてのことばではなく、カオスをくぐりぬけてきた新しい「分節(Ⅱ)」、いままで人間のことばがとらえてこなかった「世界の見方=表現方法」を指し示すことば。
 これを野村の引用から孫引きすると、井筒はこう言っている。

分節(Ⅱ)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明である。ここでは、花が花でありながら--あるいは、花として現象しながら--しかも、花であるのではなく、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「……のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切に対して自らを開いた花である。

 これを私流に「誤読」すれば。
 花でありながら、花でない。矛盾。これを「カオス」の状態と呼ぶことはできるかもしれない。ただし、その「カオス」の特徴は、互いに自己主張する「矛盾」ではなく、「透明」に交流する。融通無碍に行き交う。それは「花」ではなく「花のごとし」。いわば「花」が「行き交う場」としての「カオス」ということになる。「花」を固定しない。「そこを通り抜ければ」、そこからあらゆる「花」が開く。すべての「花」に対して、「花」になることを支える花とでも言えばいいのだろうか。
 よくわからないが「他の一切に対して自らを開いた花である」と井筒が書いている「自らを開く」という「動詞」のありようが重要な部分だと思う。「自らを開く」とは「自ら」にこだわらない。そこから「自分ではない花」が開いてきても、それを花として生きる、ということだろうと私は「誤読」する。つまり、かってに解釈を加える。「他者」になる。(ここから、きのう書いたランボーの「私とは一個の他者である」の「他者」へつながる何かを探せそうであるが……。)
 こういうときの花のあり方を「現象する」と書いたあと、「他の一切に対して自らを開いた」た状態で、花なら花に「なる」ことと言いなおしていると感じた。

 野村は、私が「誤読」した部分(野村が引用している部分)については、しかし、どう読んだかを説明せずに、次のように「飛躍」する。

 私の見立てでは、禅はこの境地を修行によって果たすが、西脇はそれを諧謔という記号実践によって果たしたのではないかということである。

 えっ、何を書いている?
 私にはさっぱりわからない。「禅」というのは井筒の文章に「道元」が出てきたから(引用されている)からだろう。
 でも、「諧謔」はどこから?
 井筒は「諧謔」について何か書いているだろうか。引用部分からはわからない。
 「現象する」が諧謔?
 説明もなく、西脇の『壌歌』の次の部分を引用する。

野原をさまよう神々のために
まずたのむ右や
左の椎の木立のダンナへ
椎の実の渋さは脳髄を
つき通すのだが
また「シュユ」の実は
あまりにもあますぎる!
ああサラセンの都に
一夜をねむり

 「諧謔」と書いたあと、この詩を引用しているのだから、この部分に野村は「諧謔」を感じたんだろうなあということは推測できる。そして、その「諧謔」をなんとか井筒哲学と結びつけたいと考えていることも推測できる。
 しかし。
 ここで野村は、野村自身で諧謔について語らず、菅野昭正「哀愁と諧謔」のことばを引用する。

「この野原がいかなる具体的な実像も結ばないということは、ここでは時間や空間も溶解しているということを意味している。古代は現在と重なり合い、遠い異国はわれわれの国とまじりあう。椎の木立がならぶ呉茱萸の実のなる野原は、一瞬にしてサラセンの紺碧の空に切りかえられる。あちらから、こちらへ、そのあいだには煩わしい境界線はいっさい設けられていない。そこではすべてが融通無礙に解け合うのである。」

 「ここでは時間や空間も溶解している」「そこではすべてが融通無礙に解け合う」というのは、井筒の「分節(Ⅰ)」と「分節(Ⅱ)」の間に横たわる領域のことを重なると思う。ただし、菅野が井筒の哲学をどう把握していたか、まったくわからないので、これは井筒とは無関係に考えたことかもしれない。(野村は、菅野と井筒の関係には触れていない。)
 それはそれで理解できないこともないけれど、でも、この文章と「諧謔」とは、どういう関係?
 菅野がどこに「諧謔」を感じたのか、野村がどこに「諧謔」を感じたのか、さっぱりわからない。野村や菅野が「諧謔」をどう定義しているのかもわからない。
 ここからわかるのは、西脇のことばのうごきを、菅野が「融通無礙」と感じ取り、その「融通無礙」に野村が反応し、そこから井筒の(あるいは道元の)「現象する」ということばとつながろうとしていることが推測できるだけである。

 私の書き方は不親切?
 そうかもしれないね。
 野村は、どのことばに「諧謔」を感じたかを書かず、また「諧謔」を定義せずに論をつづけたあと、最後の方で、こんなことを書いている。(最後まで読めばわかる、と言いたいのかもしれない。)

西脇自身の言葉を借りれば、「すぐれたポエジイは諧謔性である」(『詩学』」。しかし、いましがた得た井筒哲学の文脈に乗って諧謔を再定義するとすれば、諧謔とは、「無本質的分節」のあらわれであり、言語=世界から本質(固定制)を抜き、存在者を自由に流動させて交通させる試みである、といえるのではないだろうか。

 「無本質的分節」ということばを井筒がつかっているかどうか、私は井筒の読者ではないので知らないが、野村は「無本質的分節」ということばで「分節(Ⅱ)」をあらわしているのだろう。「自由に流動させて交通させる」というのは菅野の「融通無礙」に通じるが、よくわかからない。
 「存在者」ということばを井筒がつかっているかが、このときの「存在者」の定義が野村の引用からだけではよくわからない。野村が井筒の「存在者」ということばを借りてくるとき、人間を対象にして発しているのか、「存在」を含めてのことなのかもわからないのだが……。

 ちょっと、飛躍する。

 私は、この最後に出てきた「存在者」から、きのう触れたランボーのことを思い出す。
 「私とは一個の他者である」
 どうせなら、この「他者」と井筒の「分節(Ⅱ)」を結びつけて考えてみてはどうだろうか。
 ランボーの文の冒頭の「私」は「私」そのものであるというよりも、この場合は「テーマ」。
 詩における「私」というものは、「分節(Ⅰ)としての私」ではなく「融通無礙の混沌(カオス)」を通り抜けたあとの「分節(Ⅱ)」としての私」。つまり「分節(Ⅰ)の私」を否定して、新しく「現象する私」。
 それは「定冠詞つきの私」ではなく、「不定冠詞としての私」、つまり「意識として固定化されていない私」のことである。
 これをさらに言いなおすと、「定冠詞つきの存在」を描くのではなく、「不定冠詞付きの存在」を描くと詩になる。詩は、「定冠詞つきの存在」から「定冠詞」をはぎとり、存在を「不定冠詞つきの存在」にかえるもの。「不定冠詞つきの存在」を「現象」させることばの運動ということにならないか。
 (井筒は、どこかで「定冠詞」「不定冠詞」の違い、西洋文脈と日本語文脈の「意識」のあらわし方の違いについて、何か書いていないだろうか。井筒の読者に教えてもらいたい。)
 すぐれた詩を読み、驚きを感じるとき、その驚きは、私の場合、いつでも「定冠詞のない存在」に出会うからである。
 『壌歌』について、野村の引用している菅野は「この野原がいかなる具体的な実像も結ばない」と書いていた。野村はこれに同意しているから引用していると思うのだが。私は逆だ。
 なまなましく「具体的」な野原が見える。その野原は私の知っている野原、言い換えると意識のなかにある野原、意識としての野原ではない。
 最初、私はたとえば古里の原っぱを思い浮かべる。椎の木を思い浮かべようとする。すると、その野原を突き破って新しく椎の木がにょきにょきと生えてくる。全部、見たことがない。しかし、全部、それが「ほんもの」だと感じる。「サラセン」なんて、どこにあるのかも知らないくせに、その知らない異国の街がありありと感じられる。この「ありあり」を私は「具体的」という。そのとき思い浮かんだ街の絵を描けば、それはほんもののサラセンとは全く違っていたとしても私にとってはそれがサラセン。「間違い」はない。西脇のことばとともに、新しい「存在(いままでなかったもの、他者)」が「現象」してくる。
 この「現象する」は、私には「現成する」とも響いてくるが、十年以上も前にどこかのお坊さんが話しているのを小耳に挟んだだけなので、よくわからない。よくわからないけれど、気になるのでメモとして書き添えておく。

哲学の骨、詩の肉
野村 喜和夫
思潮社
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野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』

2017-07-07 09:49:45 | 詩集
野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』(思潮社、2017年06月30日発行)

 野村喜和夫『哲学の骨、詩の肉』の帯にハイデガー、シャール、ツェラン、ニーチェ、朔太郎と哲学者、詩人の名前が出てくる。私は朔太郎を教科書で読んだことがあるが、ほかは知らない。
 だからなのだと思うが、読んでも何が書いてあるか、わからない。わからないのだけれど、気になるところがある。

 ランボーに触れた部分である。ランボーは若いときに読んだ記憶がある。ページをめくってかっこいいことばを探し、コピーした(盗作した)ことがあると言った方がいいか。
 「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」ということばをめぐって書かれている部分で、私はつまずいた。

フランス語を解さない人のために付言しておくと、je est un autre  というのは文法的に間違いで、正しくはje suis un autreと言わなければならない。

 ほんとう? 
 野村によれば問題のことばは別人にあてた手紙に出てくるそうである。つまり二回書かれている。二回ともランボーが間違えた?
 まさか。
 「正しくは」というのは、野村の「誤読」ではないのか。
 私はフランス語を知らないので、私の方が間違っているのだろうが、間違いを承知で書いてみる。
 je est un autre とje suis un autreは、まったく別のことを指し示さないか。
 je est un autre は、だれの訳かはわからないが「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」であるのに対し、je suis un autreは「私は一個の他者です/私はひとつの他者です」という「訳」になるのではないのか。
 「私とは」か「私は」か。そこに違いがある。
 言いなおすと「私とは」とは「主語」ではなく「テーマ」である。je est un autre というときの「je」は「私」という「主語」ではなく「テーマ」(主題)である。テーマであるから、動詞は三人称単数の形で活用している。
 どこの国のことばでもそうだが、述語(動詞)を基本に文章を見ていかないと、意味を取り違えるのではないだろうか。
 「je」を「私」という「主語」ととらえてしまうと、「 est」という活用が奇妙に感じられる。でも、「je」が「私」ではなく「テーマ」を指し示しているのだとしたら「 est」という表現でいいのではないか。テーマを語るとき「 est」という形をつかわないのなら「je」はテーマにならないが……。

 どこの国のことばでも「主語」と「テーマ」の区別はむずかしい。しかし、だれが訳したか知らないが、「私とは一個の他者です」「私とはひとつの他者なのです」は、ともに「私は」ではなく「私とは」と訳されている。この「とは」が主語ではなくテーマであることを明示していると思うのだが。

 で、ここから少し話をずらすのだが。
 野村はネルヴァル(私は読んだことがない)のje suis l'autre (私は別人だ)引用している。そして、いろいろ言っているのだが、私には何のことかわからなかった。
 わからなかったが、やっぱり気になってしようがないことがある。
 私はフランス語を知らない。野村はフランス語を知っている。だから野村の書いていることが「正しい」のだろうけれど、
 「l'autre 」と「 un autre 」は違うものではないだろうか。
 訳は「別人」「他人」となっているが。
 私が注目するのは「他人/別人」の前にある冠詞。「le」は定冠詞。「un」は不定冠詞。冠詞というものが日本語にないために、どうもわかりにくいが、つかいわける国のことばは、そのことばをつかうひとは、きっと明確に意識していると思う。
 私は日本語しか話さないから「誤解」しているのだろうけれど、私の「感じる」範囲で言えば、不定冠詞は「もの/実在」を指し示すのに対し、定冠詞は「観念/概念/意識」を指し示す。定冠詞がつけられると、それにつづく「もの」は「もの」であると同時に「意識されたもの」になる。そのことばを使う人の意識が「もの」についてまわっている。「もの」だけれど「もの」そのものではなく「観念/意識」であると思う。
 ランボーがje est un autre と言ったとき、「 un autre 」はまだ「意識」になっていない。なんだかわからないもの。そこに「ある」。そこに「出現してきた」もの。
 「我思う、ゆえに我あり」のような「主体」ではない。「動詞」を従える存在ではなく、「動詞(ある)」が浮かび上がらせる「未知なる存在」なのではないか。この場合の「未知」というのは、あくまでも彼自身の「観念/意識」によってとらえられていない存在ということである。

 だから(とここで、私は飛躍する)。

 野村はまた井筒俊彦にも言及している。井筒俊彦も、私にはよくわからないが、井筒は「分節/無分節」ということを書いていたと思う。(私は「無分節」がわからなくて、「未分節」と「誤読」するのだけれど。)
 その井筒の書いている「無分節」と「分節」の違いは、私には「不定冠詞」と「定冠詞」の違いに通じるように思う。「無分節」とは「無意識」、「分節」とは「意識化」と考えると、ヨーロッパの言語の不定冠詞、定冠詞のつかい方に通じないだろうか。
 これは日本語しか知らない人間の「誤読」なのだが。
 「もの」が「分節」されずに、そこにある。そこにある「もの」が意識化されて、つまり分節化されて姿をあらわすという、その「変化」を区別する「印」が「定冠詞」だと私は感じている。
 「定冠詞」つきで語るとき、そこには「もの」があるだけではなく、その「のも」への「思い」がある。
 ネルヴァルが「je suis l'autre 」と「定冠詞」つきで語るとき、そこにはネルヴァルが知っている(意識している)ということが含まれる。つまり、私が言っているのは、ランボーが言語化した「autre 」です、と。このとき「je」はテーマではなく、あくまでも「主語」(考える人)である。ネルヴァルはネルヴァル自身をランボーの語った「他人」であると定義している。

 私は野村が取り上げている哲学者や詩人のことばを読んだことがない。読んだことがないにもかかわらず、野村が書いている文章を読むと、非常にひっかかる。
 「正しく」読むことができない。
 納得して、受け入れるということができない。



 関連して書いておくと。
 野村はフランス語の il y a (ある)という「構文(?)」を取り上げている。英語のthere is に対応する(らしい)。その「ある」がフランス語では「il」を主語にして「avoir 」(持つ)という動詞をいっしょになっている。英語の「be」動詞にあたる「etre」がつかわれないと、フランス語の独自性を強調している。そこからまた、フランス人哲学者のあれこれが書かれているが、私は、やっぱり読んだことがないのでわからないのだが。
 うーん。
 どんなことばでも独自の言い回しはあるだろうなあ。
 それはさておいて。
 私が気になるのは、野村の説明がもっぱら「il」「a (avoir )/持つ」「is(be)/ある」に集中していることである。「y 」「there 」は問題にしなくていいの?
 「y 」「there 」も日本語にはとても訳しにくいと思う。

Il y a une pomme sur la table
There is an apple on the table

 ともに「テーブルの上にリンゴがある」と訳せるが、そのとき日本語は「y 」「there 」にことばを割り当てていない。省略している。あるいは無視していると言ってもいいかもしれない。
 たぶん、フランス語、英語を話すネイティブも意識しないと思う無意識で「y 」「there 」を使うと思う。
 フランスの街角で耳をすますと「アロンジィ」とか「オニヴァ」とか聞こえてくる。「ジヴェ」という声も聞く。そのときの「y 」って、どこ? どこへ行くつもり?と聞いたら、きっとフランス人はびっくりするだろうなあ。言えないことはないだろうけれど、「無意識」。
 日本語だって「さあ、行こう(さあ、やろう)」とか「私は行く」と平気で言う。「どこへ」は言わない。「何を」とは聞かない。「無意識」が共有されている。
 この「無意識」の共有が、ことばを動かしている、ということはないだろうか。
 だから。
 ねえ、野村さん、「a (avoir )/持つ」「is(be)/ある」というような「明確に意識できる違い」ではなく、「無意識」に分け入って、そこで動いているものを説明してくださいよ、と言いたくなる。「無意識」に分け入っていかないのなら、それは文法のハウツー本になってしまわない?
哲学の骨、詩の肉
野村 喜和夫
思潮社
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ホセ・ルイス・ゲリン監督「ミューズ・アカデミー」(★★★)

2017-07-06 09:06:28 | 映画
監督 ホセ・ルイス・ゲリン 出演 ラファエレ・ピント、エマヌエラ・フォルゲッタ、ロサ・デロール・ムンス、ミレイア・イニエスタ、パトリシア・ヒル

 ちょっとめんどうくさい映画である。何がめんどうかというと、ことばがめんどう。「意味」がありすぎる。ダンテの「神曲」をテーマに、インスピレーションを与える存在(ミューズ、女性)とインスピレーションを受け「芸術」をつくる存在(詩人、男)について語り合うのだが、現実の存在と芸術は相互に交渉し合うので、じっさいのことろ「境界線」を設定しにくい。その「境界線」の設定しにくい部分を、男(ラファエレ・ピント)と女性の学生が綱渡りしていく。それも「思っている」ことを懸命に「ことば」にしながら。「思っていること」がすべて「ことば」になるわけではないのだが、哲学が主題なので、「ことば」だけが「思っていること」になっていく。でも、その「ことば」(思っていること)のまわりには、どんどん「ことばにならない思い」も増えてくる。「ことば」によって「世界」が明晰になっていくのか、あるいは「ことば」によって「世界」が不透明になっていくのか……。
 これが、スペイン語とイタリア語を混在したまま進んでゆく。さらにイタリアの方言まで侵入してくる。ことばが違えば、現実も違ってくる。そのことが、さらに映画の中の世界を混沌としたものにする。その混沌が、美しいという不思議な現象も起きるから、なおややこしい。
 いろいろ特徴的な映像とシーンがあるが、興味深いのは主人公(教授)と妻との対話。教授の家にいるのだが、手前に妻、奥に夫。妻の手前に、「ガラス」がある。窓? しきり? 何かわからないが、カメラは二人を直接写さない。ガラスに何かが映って反射している。それが二人の映像を、透明だけれど不鮮明にする。
 これは主人公と女性の生徒とのデート(?)でも頻繁に起きる。車のなかで対話している。それをフロントガラス越しに映し出す。フロントガラスには風景が映り込む。ときにはフロントガラスの反射のために二人の表情が見えない。
 こうしたなかで、男(教授)は、まあ、いい加減なことをいいますねえ。ミューズから刺戟を受けて、そのつどかわっていく、新しい「芸術」のなかに突き進んでゆくと言えばかっこいいけれど、簡単に言うと女を自分のものにしたくて「ことば」をかえていくと言った方がいい。新しいスタイルのナンパ。言い寄ってくる(?)女の方も、まあ、男によって「ことば」をかえるんだけれどね。
 で、こうしたことって、つまり「恋愛」って、結局「社交」というか、「都会」のものなんだなあ、と思わせておいて。
 映画は一転、別なものも描く。イタリアのナントカカントカという島。そこへ主人公は女をつれて旅行に行く。フィールドワークというとかっこいいが、まあ、手短な浮気旅行。そこで、女は羊飼いにあう。教授とはぜんぜん違う男。これに引きつけられていく。ここが、なんとも美しい。
 すべてが美しく輝いている。
 羊飼いが3人で歌うコーラスがある。羊の声のよう。実際、羊の声をまねている部分もあるのだが。ハーモニーがそのまま「世界」になる。「ことば」ではなく「ことば以前の音」が「世界」を震わせる。このコーラスによって、女の耳が覚醒する。新しい女が生まれてくる。彼女自身の「肉体」のなかから、あるいは「肉体」のなかへ、という奇妙な言い方をした方が正しいかもしれない。
 耳をすませば、まわりにはいろいろな音がある。小鳥の声だけではなく、木々の梢をわたる風の音も。男がその「音」の存在を知らせる。その、いままで聞いたことのない「音」そのものを「肉体」のなかにいれていくことで、女の「肉体」が官能に開いていく。実際にセックスが描かれるわけではないが、性交シーンよりもエロチックである。見上げる空の高みで揺れる木の葉は女の恥毛である。男の指は風になって、それを渡っていく。
 ここでは羊飼いという「自然」が、都会の女の「ミューズ」になる。男女が逆転する。「自然の男(ことばをあやつらない男)」が女の「肉体」を詩そのものにかえる。「肉体」のなかの、耳の変化が、つぎつぎに他の器官につたわってゆき、その微妙な変化が美しさとなってひろがる。
 その島の方言には「アモール(愛する)」ということばがないと男は言う。女は「ではこの島では男と女は愛し合わないのか」というよう挑発もする。このときも、男が「ミューズ」である。教授はいっしょに旅行しているのだが、いわば「寝取られ男」である。
 で。
 この男と女、詩人とミューズの「逆転」が、最後におもしろい展開を見せる。
 男(教授)の方は、あいかわらず女たらしに過ぎないのだが、女の方は男から得たインスピレーションによって詩人になっていく。「現実」を「写す鏡」なのだが、その「鏡」にはいままでと違った「世界」が映るのである。
 最後に、妻はひとりの女性学生と向き合う。妻にとって夫は、女たらしではあるけれど、けっきょく自分のところへ戻ってくるばかな男だったはずである。つまり、妻はいつまでたっても「ミューズ」であったはずなのだが。女性学生は、教授を「ミューズ」にすることで、「世界」を逆転させる。女性学生が教授を奪い去るのである。女性が「ミューズ」であった時代がおわり、男が女性の「ミューズ」になり、そのことが「ミューズ」のままでいたい古い女(妻)を叩きのめす。破壊する。

 でも、まあ、なんというか。
 これは浮気男の「弁明」映画という側面もあるなあ。
 と、あれやこれや考えると、めんどうくさい。
 こんな面倒くさい映画をとることができるのは、やっぱりラテン系ヨーロッパ人はセックスのことしか考えていないのかなあ、なんて思ったりもするのである。スケベなことしか考えないのに、それを「ことば」をつかって「哲学」にしてしまう。
 そう思ってみた方がよかったのかも。
 「哲学」とはスケベになることである、スケベであることは「哲学する」ことであると言いなおすと、ちょっと楽しいものではある。
                      (KBCシネマ2、2017年07月05日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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蚊帳の外?

2017-07-05 22:02:58 | 自民党憲法改正草案を読む
蚊帳の外?
               自民党憲法改正草案を読む/番外103 (情報の読み方)
 2017年07月05日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の一面。

北ミサイル/米、ICBMと断定/国務長官「脅威 新段階に」/安保理あす緊急会合

 という見出し。4日に北朝鮮が発射したミサイルが大陸間弾道ミサイルだったとの認識をアメリカが示したというニュース。
 このニュースで、私が注目したのは、北朝鮮の技術力でも、アメリカの対応でもない。この「事実」に対する日本政府の対応である。
 他の新聞はどう伝えているか知らないが、読売新聞は「見出し」なしで、こう書いている。

 菅官房長官は5日午前の記者会見で、北朝鮮が発射したミサイルについて「諸情報を総合的に勘案すれば、ICBMだった可能性が高い」と述べた。

 これだけである。
 05日の朝刊で、安倍がG20首脳会議や、それに合わせて行う日米韓首脳会談などを通じて、北朝鮮への圧力強化に向けた連携を呼びかける方針であると書いてはいるのだが。
 でも、もの足りないなあ。
 自衛隊に何かしろというのではないけれど。
 アメリカがICBMと発表した後、アメリカと日本との間で「協議」はあったの? なかったの?
 読売新聞は、1面で、同時に

米韓 ミサイル発射訓練

 という見出しで、こう書いている。

5日午前7時頃、韓国軍が北朝鮮を射程に収める地対地弾道ミサイル「玄武Ⅱ」、在韓米軍も同じく「ATACMS(陸軍戦術ミサイルシステム)」をそれぞれ発射し、1発目で目標に命中させることに成功した。

 で、わかること。
 ね、日本は(自衛隊は)、何の訓練もしなかったということ。
 ここで私が言いたいのは、自衛隊に訓練をしろということではなく、

そうか、日本は、米韓の訓練の「蚊帳の外」に置かれたのか、

 ということ。まあ、あたりまえなのだけれど。
 北朝鮮の狙いは、あくまでアメリカへの圧力。日本を攻撃するだけの技術なら、ずいぶん前に開発ずみ。それでも次々に実験をするのはアメリカを射程に収めるため。
 安倍は日本への脅威が増しているというけれど、北朝鮮のミサイルの射程が伸びても日本への脅威なんて増えない。むしろ、減ると言った方がいいかもしれない。アメリカを狙ってのミサイル開発に集中する分、近距離のミサイルは作らなくなるだろうから。
 日本は狙われるとしても、米軍基地があるとこすが中心になるだろう。
 その場合でも、北朝鮮は日本にある米軍基地を狙う前に、韓国にある米軍基地を狙うだろうなあ。近くにあるからね。だから、まず、米韓が共同で訓練をした。日本には声もかけない。声をかけている「時間(余裕)」がなかった、つまり、アメリカの「意識の外」にあった、ということだろうなあ。
 菅は、きのう言えそうなことを、きょうやっと言っている。
 5日の朝刊で、北朝鮮中央テレビが「ICBMの試験発射に成功した」と発表し、そのことが日本でも報じられているのだから。
 いまさら「諸情報を総合的に勘案すれば」という「呑気」なことしか言えないのは、アメリカの情報が日本に正確、迅速につたわっていないのではないか、という疑念を抱かせる。
 アメリカの世界戦略の、蚊帳の外に置かれたのではないか。
 アメリカは安倍政権を見限った?
 14日に開催予定だった「日米2+2」は延期された。日本側は、岸田がニューヨーク入りする17日の開催を打診しているが、

秋以降にずれ込む可能性もある。

 と、05日の朝刊2面に書いてある。
 ここからも、アメリカが日本のことを、単に米軍の基地がある国としかみていないことがわかる。
 アメリカに利用されるだけではない日本というものを目指さないといけないのだが、そんな構想は持ち合わせていなく、アメリカの行動をおろおろして見ているという安倍の姿が垣い間見える気がしたのは、私だけだろうか。

 自衛隊を「合憲化」したとしても、実際に戦争が起きれば自衛隊が独自の指揮権のもとで行動するということはないだろうなあ。米軍の指揮下に入るだけだろうなあ。つまり、米軍の代わりに北朝鮮と戦い、北朝鮮のミサイルがアメリカ本土を攻撃しないようにする。そのために日本が犠牲になってもいい、という「作戦」が展開されるだろうなあ。日本は巨大な防波堤である。この防波堤は、壊れてしまったところでアメリカには関係がないし、北朝鮮にも関係がない。北朝鮮は北朝鮮からミサイルを発射するのであって、日本から発射するわけではないからね。
 というようなことも、菅のコメントから感じてしまった。

 北朝鮮がICBMを完成させてしまったのなら、全く違った「戦術」というものを練り直さないといけないんじゃないのかねえ。日本が「武装」することで北朝鮮に対処するなんて、「古くさい」方法ではないだろうか。 



#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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ジョセフ・L ・マンキウィッツ監督「イヴの総て」(★★★)

2017-07-05 15:08:52 | 映画
監督 ジョセフ・L・マンキウィッツ 出演 ベティ・デイビス、アン・バクスター

 うーん、映画を見ているというよりも「小説」を読んでいる感じ。
 台詞回しが、妙にくっきりしている。今の時代と比較してはいけないのだろうけれど、その影響もあるかもしれない。「声」が「演技」をする。もっとも、これは映画の舞台が「舞台」だからかもしれない。舞台は「声」が勝負だからねえ。
 映画としておもしろかったのは、ベティ・デイビスの芝居のポスター。ベティ・デイビスは目と唇に特徴があるが、それを漫画化したポスターが、なんといえばいいのか「漫画」特有の「似顔絵」なのである。
 それと、最初にアン・バクスターが登場するシーンのレインコートもなかなかいい。背中を壁につけて立っていたのだろう。肩甲骨のところが黒くなっている。そこに「リアリズム」が発揮されている。
 あとは「会話(ことば)」のやりとり、騙しあいというか、見栄の張り合いみたいな感じ。
 これは「舞台」で見れば、おもしろいのかもしれない。
 ことばで自己分析したり、他人を分析したりする。そして、その「分析」のなかに溺れてしまうようなところもある。舞台だと、映画の中に出てくる台詞ではないが、ことばが炎になり、音楽になり、空間を飛び交うということになるのだが。
 映画は、「ことば」を聞かせるものではない。
 それに映画というのは、人間の顔を「拡大」してみせるもの。「拡大」された表情の細部に「感情」を読み取るもの。
 でも、こんなに「ことば」がくっきりしてしまっては、「拡大された顔(表情)」に「感情」を感じ取る前に、「意味」がことばといっしょに走り回ってしまう。
 「意味」が好きな人はいいかもしれないが、私は「意味」に興味がないので、この「複雑」に入り組んでいく「人間関係」が、どうもみていて面倒くさいものに感じてしまうのである。
            (中洲大洋、午前十時の映画祭8、2017年07月03日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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厳粛の意味は?(質問の仕方)

2017-07-05 15:03:24 | 自民党憲法改正草案を読む
厳粛の意味は?(質問の仕方)
               自民党憲法改正草案を読む/番外102 (情報の読み方)
 東京都議選の結果を受けて、稲田がインタビューに答えていた。プールのサウナでちょっと見ただけなので正確ではないかもしれないが。

厳粛に受け止める

 を繰り返していた。そのあとは、いつものとおり「職務を全うする」云々。
 「厳粛」の意味がわからない。
 たぶん、質問している記者もわからないから何度でも聞くのだと思うが。
 少し、視点をかえて質問することはできないのだろうか。

厳粛というのは、具体的にはどういうことです?
たとえば、自民党が大敗するとわかっている(わかっていた)のに、かつて辞任させた大臣を呼んで、フランス料理をいっしょに食べながら話し合うというのは、稲田大臣の「厳粛」という定義にしてはまりますか?

 さて、稲田はなんと答えるだろうなあ。

 もし、そういうことが「厳粛」な行動だとして。
 そして、そこできちんとした「反省」が語られたのだとして。
 そういうような「意味」に通じることを稲田が言ったのだとして。
 そのときは、

では、その「厳粛」なつどいに、稲田さんが呼ばれないのはどういうわけですか?

 くらいは聞き返してほしい。
 答える方もテープレコーダーみたいだが、質問する方もテープレコーダー。

* 

 加計学園問題については、12日に国会の「閉会中審査」が開かれる。疑惑の中心にいる安倍はヨーロッパ「外遊」中(読売新聞2017年07月05日朝刊、西部版ほ14版、4面の「当面の政治日程という表の中の表現)なので出席しない。
 安倍は、日本国「外」で「遊」んで、知らん顔。「加計学園で質問されるのが嫌」という声に配慮して、では、ヨーロッパで「遊んできて」ということか。
 読売新聞の「日程表」によると、衆院委員会の米国視察やら、国対委員会のヨーロッパ視察やらが切れ目なくつづいている。
 そういこともあり、「閉会中審査」は1日だけである。
 疑惑が深まったたら、どうするのか。どうしても安倍に確認しないといけないことができたら、どうするのか。
 「視察」は、別の日でもいいのではないのか。変更できるのではないのか。
 飛行機やホテルの予約が、ということもあるかもしれないが、「視察」でかかる経費維持言うの金が加計学園のまわりで動いているのではないのか。
 どっちが重要?
 「厳粛」な姿勢で向き合わないといけないのは、何?

 「閉会中審査」を開いた、前川を参考人招致として呼んだ、という「実績」だけで、疑惑追及に蓋がされてしまいかねない。
 ここで野党が、だれに、どんな質問をするのか、そのことに注目したい。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
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ことばと責任

2017-07-05 00:19:26 | 自民党憲法改正草案を読む
ことばと責任
               自民党憲法改正草案を読む/番外101 (情報の読み方)

 東京都議選の安倍の応援演説、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」めぐって、いろいろな意見が出ている。
 菅はこの発言に対して、いつものように「問題ない」と言っている。「民主主義国家なのだから選挙応援の発言は自由。縛ることなどあり得ない」とも。
 もちろん「発言は自由」。
 国民を「ばか」と呼ぼうが、「間抜け」と呼ぼうが、それは安倍の自由。
 だが、どんな発言にも「責任」が伴う。
 それを忘れてもらっては困る。
 「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言って安倍が応援した自民党の候補は落選した。自民党の議席が大幅に減った。つまり、「負けた」。このことは、だれもが知っている。
 安倍は、その責任を取るべきである。自民党総裁を辞任し、内閣総理大臣も辞めるべきである。

 「こんな人たち」とは安倍に対して「安倍帰れ、安倍やめろ」と叫んだ人たちである。この人たちを、前横浜市長の中田宏は「組織的活動家」と呼んだ。「肯定」したのではなく、「否定」する意味で、そう呼んだ。
 しかし、民主主義の運動において、「組織的活動家」は欠かせない存在である。
 権力を批判するには「組織」が必要だし、組織には組織をリードする人が必要である。
 自民党も「組織」だし、それをリードする安倍は「組織的運動家」である。そこに集う自民党員も「組織的運動家」である。「公明党=創価学会員」も同じだ。
 自民党も公明党も「組織的運動家」であって、独立した個人の運動家(政治家)ではない。国会で議案に対して投票するときは「党議決定」で行動を縛っている。
 だれもが運動には組織が必要であることを知っている。徒党を組んでいる。
 それを無視して、安倍を批判する人間だけをとらえて「組織的活動家」と呼んで、いったい何を「批判」するつもりなのだろう。

 稲田の「自衛隊としてお願いする」も、あまりにも「過小評価」されている。公職選挙法に違反する程度の問題ではない。
 自衛隊は武装集団である。武装した組織である。武装組織が「お願いします」と言うとき、それは「お願いします」ではないだろう。武装した自衛隊に囲まれて、「自民党議員への投票をお願いします」と言われたら、恐怖を感じない人間がいるだろうか。これは、脅しである。国民を恐喝したのである。防衛大臣として、恐喝したのである。

 稲田が「自衛隊」をつかって国民を恐喝した。安倍が「こんな人たち」と国民を侮蔑した。
 これに対して国民(東京都民)は、素手で、ことばで立ち向かった。投票という「平和的手段」で意思を表明した。そこに「組織的活動家(リーダー)」はいたかもしれないが、「党議決定」のような「拘束力」をもった「指示」はない。国民(都民)はひとりひとりの判断で投票した。責任をもって議員を選んだ。その結果、自民が敗れた。
 国民(都民)がほんとうに勝ったのかどうかは、小池都政の行方をみないと判断できないが、現時点で自民党が負けたことは確かである。

 負けたことに対する「責任」を安倍は、しっかりと取るべきである。負けた理由を、しっかりと国民に説明すべきである。負けたときに何もいわなくていいのは、勝負の前に何も言わなかった人間だけである。言った限りは、最後まで「ことば」で、何が起きたのか説明すべきである。
 「組織的活動家」のリーダーが「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言い、「組織運動」をした。演説のときも、自民党の関係者が旗を持って活動していた。「安倍やめろ」の横断幕を必死になって隠そうとしていた。その「組織」が負けたのである。
 安倍は責任を取るべきである。
 安倍はいろいろな発言をするが、その発言を実行したことは一度もない。いまこそ、実行すべきである。発言に責任をとるべきである。



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安水稔『甦る』

2017-07-04 09:40:50 | 詩集
安水稔『甦る』(編集工房ノア、2017年07月01日発行)

 安水稔『甦る』の巻頭の作品、「水の上」。

水の上に座って
目を閉じていると。
たぷ たぷ たぷ
まわりが波立ち
膝の下を横切る影が。

 人は水の上に座る(浮かぶ)ことはできない。でも、水の上に座っている「情景」は想像できる。目を閉じている人の姿を想像できるし、自分が水の上に座っている姿を想像してみることもできる。
 「ここに いま」という作品では、こう書かれる。

木のなかに座って
外を見ていると
ものの形が横切る。
鳥の影が
人の影も 次々と。

 「水の上」と似た感じ。
 実際にはこういうことはできないのだが、想像のなかでこういうことができる。これは、どういうことなんだろう。
 「ここに いま」とタイトルは言う。
 想像するとき、その想像したことが「ここ」「いま」になる。
 それは「現実」の「ここ」でもないし、「いま」でもないのだが。
 どうして、それが「つながる」のか。
 そう思いながら読んでいく。「鳥よ」という作品に出会う。

ここはどこなのか
ここにいるのだが。
ここにいるのは
なにものなのか。
 
 この書き出し、「ここはどこなのか」という問いはむずかしい。矛盾がある。どうして、「ここ」とわかるのか。二行目の「いる」という動詞が手がかりになる。「私がいる」。「いる」ということを実感しているから「ここ」が「ここ」になる。「私のいるところ」が「ここ」なのだ。「私がいるが、どこかわからない」。「ここ」を省略して、そう言いなおすことができる。
 こういうことは、実際に「旅先」などでは誰もが経験する。
 でも、安水の書いていることは、そういうことではない。

ここにいるのは
なにものなのか。

 「私」とは実感していない。
 「ここ」だけが、わかる。「ここ」がどこかはわからず、ただ「ここ」だけがある。そのことが、わかる。
 そう書かれている「ここ」が、ふいに、「水の上」「木のなか」に思えてくる。そんな「ところ(場)」に人はいることができない。存在できない「場」。でも、「ここ」と感じ、「ここ」で感じたことを安水は書いていたのだ。
 でも、それは「だれ」だったのか。
 わからない。わからないけれど、「ここ」が「水の上」、「ここ」が「木のなか」とわかったのだ。
 これは、どういうことなのだろうか。

見上げると空
うすい空があって。
雲が流れて陽がさして
小さな影が落ちてきて。

 「見上げる」という動詞の主語は「私」。でも、そのあとの動詞は、「私」ではないものの動き。あえて「私」を補うと、「空がある」のを感じる。「空がある」とわかる。その空が「うすい」と感じる、あるいはわかる。「感じる/わかる」という「動詞」を通して、「私」が「空」になり、「雲」になり、「陽」になり、「影」にもなる。
 それって、どこのこと?
 きっと「これ」が「ここ」なのだ。
 「ある場所の位置」ではなく、そこで何かが「起きる」。そこが「ここ」。

 「水の上に」座る。「木のなかに」座る。「座る」という「動詞」が動いている。そこが「ここ」になる。それは「私」という存在の「あり方」なのだ。
 空を見上げる、うすいと感じる。雲が流れていくのを感じる、陽が指してくるのを感じる。影にも気づく。その「感受性/認識」が「私」であり、「ここ」である。「私」と「ここ」は同一のものである。
 
 ここから詩は展開する。ひろがっていく。あるいは、深くなっていく。

そうだった あれから
ここにしかいられなくなったのだ。
立って座って立って
目を見開いてここにいる。

 「ここにしかいられなくなった」は、いつでも「私」が「ここ」になるということだ。その「ここ」と「私」の一体化は、次のように言い換えられる。
 「甦る/八階西病棟 六編」のなかの「そのまま」。

折れて砕けた骨
流れて止まらない血。
そのまま。

波打って動けない体
激しく揺れて動かない心。
そのまま。

 「ここ」と「私」の「一体化」とは、「そのまま」。「水の上に」座っている。「木のなかに」座っている。「そのまま」。そのままとしかいいようのない「場」がある。私は感じ、私は認識する。そこに起きていることを「そのまま」に。
 どうすることもできない。
 いや、できることはあるかもしれない。しかし、それは季村敏夫が「日々の、すみか』で書いたように、遅れてやってくる。感じや認識が「遅れてやってくる」。だから、「そのまま」、待っているしかない。そのとき、「いる」ということが「生きる」ということなのだ。どんなふうにして「いる」のか。「そのまま」いるのである。
 これでは同義反復か。
 でも、同義反復しかできないこともある。「いま/ここ」に「いる」。「そのまま」に。「そのまま」は「変わらない」ということでもある。
 「生きつづける」という作品で、こう言いなおされている。

十年一昔と言うから、二十年なら二昔か。
十年経てばすっかり変わってしまって、二十
年だとそれはもうなにもかも。でもね。十年
一日とも言うよね。十年経っても、二十年経
っても、変わらないものは変わらない。

 変わらないものは、なくした記憶である。失ったということを、忘れない。それが「ここ」であり、「ここ」にいると失ったものが「ここ」にあらわれる。そのままの姿で。それが「ここ」なのだ。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中神英子『夢に見し木の名前を知らず』

2017-07-03 08:25:30 | 詩集
中神英子『夢に見し木の名前を知らず』(栗売屋、2017年07月01日発行)

 中神英子『夢に見し木の名前を知らず』を読み始めてすぐ不思議なことばの「手触り」を感じた。どことは言えないのだが、こんなふうには書かないなあ、と感じる。

長い時間が角砂糖の溶けるように消えた             (「野のもの」)
   
火の玉のような赤い赤い門燈を目印にして            (「交番」)

 「ように/ような」というのは「直喩」の方法。特に変わった書き方ではないのだが、ここで私は何となく不思議な気持ちになる。「暗喩」の方になれているので「ように/ような」がまだるっこしく感じるのかもしれない。ことばのスピードが落ち、もったりした感じになるといえばいいのか。「暗喩」にしてしまえば、スピードがあがるのに、と思ってしまう。
 で、詩集のタイトルになっている「夢に見し木の名前を知らず」まで読み進んで、私は「あっ」と声を上げる。

   沼
夜になると輝き始める
小さな沼があった
月光に照らされた白い花を
無数に咲かせた木が映っている

   のはら
雨のようなものが降り注ぐのはらで
あのひとに出会った
うっすらと紡げば白いレースになるようなもの
さわさわと降り注ぐ

 「沼」の部分には「ような」がない。そのために、全体が「象徴詩」のように暗示的に見える。
 「のはら」では一転して「ような」がつづけざまに登場する。そして「ような」ということばのために、詩が「象徴詩」にならずにすんでいる。
 この印象は間違いかもしれないが、私は、そう「誤読」する。
 そして、この「象徴詩」の拒否というか、何か「意味」になることを拒否するために「ように/ような」がつかわれていると気づく。
 「ような/ように」は直喩。「比喩」なのだが、何かの「比喩」というよりも、比喩にならずに、「もの」そのものをことばのなかに取り込んでいる。詩にぶっつけている、という感じなのだ。
 「比喩」を通して何かを言いたいのではなく、「比喩」として書いているものそのものを書きたいのだ。
 「角砂糖の(が)溶ける」「火の玉」そのものを書きたい。「雨」そのものを見えるようにしたい。「白いレース」そのものを描きたい。
 「比喩」だから、もちろん、こういうとらえ方は間違っている。「誤読」である。しかし、私にはそう感じられる。
 「何か」が書きたくて「比喩」を書いているのではなく、「比喩」が生まれてくる瞬間、その「比喩」が指し示すものがあらわれ、同時にそのものを否定し、なおかつそのものに戻って現実と向き合うという感じ。
 うーん、うまく言えないが。
 交番の赤い門灯。それは「火の玉」ではない。しかし「火の玉」として目の前にあらわれ、「火の玉」であることを否定して「門灯」になるのだが、門灯の「比喩」になった瞬間、もう一度「火の玉」として現実にあらわれてくる。
 そういう奇妙な交錯を感じる。
 「暗喩」では重なってしまうものが、重なりながら、重なることを拒んで、ずれるというか、自己主張してしまう。

 うーん。
 唸りながら、読む。そして「花」という詩の、次の部分。

それは花なの?
確かに花だけれど
(そうではない)と言い張る自分がいて
それは正しいと思えるのだ
「誰かにもらったの?」
子供はやっとかすかに頷いた
「それは何?」
「言っちゃいけないっていわれたの」

 「比喩」は何かを指し示す。それは何か「そのものではない」。「そうではない」がその「そのものではない」と重なる。それでは

「それは何?」
「言っちゃいけないっていわれたの」

 この「何」と「言っちゃいけない」という組み合わせ。
 ここに中神の書いている「ように/ような」という「比喩」の「秘密」がある。
 「何か」なのだけれど「言ってはいけない」。そのために「比喩」がある。だから「比喩」は「何か」を否定し続ける。「何か」を指し示しながら「何か」を否定し、違うものになりつづける。

 これは、とてもおもしろい問題だ。

 簡単に答えは出せないのだが、この「ような/ように」の「比喩」を考えるとき、次のことばが参考になる。「象」のなかに出てくる。

「この風景はどこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」

 これは「直喩」ではなく、一行全体が「暗喩」である。
 そして、この行にであった瞬間、私は、これを次のように読み替えたい衝動にとらわれる。

「のように、のようなという直喩は、どこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」

 もう存在していない。けれど、その存在していないものが「生まれ変わって」、いまここにある。それが中神の「直喩」なのだ、と私は「誤読」する。
 それは「生まれ変わる」ことによってはじまる「対話」なのだ。

 そう思った瞬間、また別の何かが私を突き動かす。何かが私を襲ってくる。

 この詩集には丸山瓢(ひさご)の短歌が引用されている。
 「夢に見し木の名前を知らず」の「沼」はその短歌ではないのだが、あの「沼」のように何か他のことばと向き合い、向き合うことで刺激を与えるような形で引用されている。(具体的に説明するには全体を引用しないといけないので省略する。)
 さっき書いた「言い換え」を利用すると、

「引用される短歌は、どこか遠くで壊れてしまったものの生まれ変わりなのです」

 ということになる。
 その短歌は中神の死んだ父の作品ということなので、それを踏まえると、

「中神の詩は、どこか遠くで壊れてしまったものの(死んでしまった父、彼が残した短歌の)生まれ変わりなのです」

 ということになるかもしれない。
 かなり乱暴な、端折りすぎた言い方なのだが、そんなことも考えた。
 そして、とてもおもしろいと感じた。
 ことばがことばと対話して、対話することでことばが「もの」に還っていくような、不思議な「手触り」がある。

 これは、すごい詩集だなあ。
 あれやこれやの「哲学用語」などはどこにも出て来ないのだが、真剣に哲学している。その真剣があふれている。
 栗売社の詩集は小ぶり。この詩集も手から少しはみ出るくらいの大きさで、それもなんといえばいいのか、自分の「肉体」だけで支える「哲学」という感じがして、とても好ましい。とてもうれしい。
 こんなふうに、うれしくなる詩集というのは、傑作ということだと思う。

群青のうた
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自民党大敗(2)

2017-07-03 08:24:11 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党大敗(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外100 (情報の読み方)
 東京都議選について、選挙前議席と比較して、民進党が2議席減らし、その分が共産党に廻ったと書いたところ、フェイスブックで、本田孝義さんから、次の指摘をいただいた。ありがとうございます。

 違うと思います。民進党から11人も都民ファーストに移っていますから、実際は民進党は13議席も減らしています。ですから、民進党惨敗が正しいと思います。

 この民進党の「惨敗」から思うこと。
 これはむしろ民進党にとってよかった。「野党」に徹することができる。
 民進党は一度政権を取ったために「野党」に徹しきれていない。安倍から「反対をするだけでなく代案を出せ」と言われると、おたおたとして「代案」をまとめようとする。
 「代案」は「反対」という意見の中に、すでにある。「反対」のなかにふくまれるものをくみ取って「修正案」をつくるのが「与党」の仕事。
 だいたい「代案」を要求するくせに、安倍自民党は「案」をつくるのに必要な資料を公開しない。各省庁から公開される「情報」はすべて「黒塗り」である。情報・資料は安倍自民党にしか提供されていない。
 だれだったか、情報公開にあたっては、まず与党自民党の了解を得られないとできないと言っていた。各省庁と安倍自民党が政策決定に必要な資料、情報を独占している。
 これでは「野党」に「代案」が作れるはずがない。
 もし作ったとしても、「これこれの部分は、これこれの資料、情報と照らし合わせると実現不可能である。民進党の案は現実を無視している」と否定されるだけである。
 だから、「与党案」のどこに問題があるか、それを指摘し続けることが「野党」の仕事なのである。
 安倍自民党の「案」がどのような問題を含んでいるかを指摘し続ける。そして、安倍自民答案がどのような「資料・情報」をもとに成り立っているか、その「情報公開」を迫り続ける。「案」制作過程に「不正」がおこなわれていないかをチェックする。それが求められている。
 加計学園問題、森友学園問題が顕著な例である。
 なぜ安倍の友人が優遇され、税金がつぎ込まれるのか。その判断の過程で、どういうことがおこなわれたのか。それを追及し続ける。
 こういうとき、「手段」は問わないのだ。問われないのだ。
 「不正」が明確になれば、「不正」をあばく過程(手段)は問題がない。少なくとも、国民は「不正」と「不正を暴く手段」とを比較し、「不正」を暴いた方を正しいと判断する。自分たちの払った税金が無駄につかわれずにすむのだから。
 内閣の人事、あるいは官僚の人事も同じである。
 ほんとうに「適正」な人事なのか。そのことをひたすら追及すればいい。人事の問題点を追及し続ければいい。「代案」など必要がない。「不正」にその地位についている人間をひきずり下ろせばいい。代わりの人事任命権は「野党」にはないのだから。

 民進党には、開き直って、徹底的に安倍自民党を追及してもらいたい。追及の過程で、国民の声を吸収してほしい。国民の声を吸い上げながら、安倍自民党を批判してもらいたい。
 「気取った声」ではなく、町中にあふれている声を拾い上げることが必要だ。
 現行憲法の「戦争放棄」の文言を支えているのは、幣原喜重郎が電車のなかで聞いた男の声である。

「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」
 初めはどなっていたのが、最後にはオイオイ泣きだした。そうすると、乗っていた群衆がそれに呼応して「そうだ! そうだ!」とわいわい騒ぐ。(略)
 (略)この人が、戦後組閣したとき考えたこと、また憲法草案について相談を受けたときに考えたことは、バンヤンでも、ミルトンでもなく、カント、ルソーでもなく、電車の中で聞いたこの男の声だという。
 そして、あの光景を思い出して「これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく、努めなくてはならぬ、と堅く決心したのだった。それで憲法のなかに未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならぬということは、ほかの人は知らぬが、私だけに関するかぎり前に述べた信念からであった」といっている。

 これは鶴見俊輔の「敗北力」に書かれていることだが、こういう「声」を拾い上げ、組織化するということが民進党に限らず、野党に求められている。
 「代案」を要求する安倍自民党の手口にだまされるな。
 安倍が「こんな人に負けるわけにはいかない」と罵った、「こんな人」、国民の声に身を傾け、そこからことばを組織化してほしいと思う。


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自民党大敗

2017-07-03 00:44:04 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党大敗
               自民党憲法改正草案を読む/番外99(情報の読み方)

 東京都議選は自民党が30議席を割る大敗という結果になった。0時過ぎのNHKの速報(確定)では自民党は23議席、公明党と同じである。
 この結果に対し、都民ファーストは結局のところ自民党と同じという声が一部にある。しかし、私はそうは考えない。

 これまでは自民党が1強だったのではない。「安倍1強」ということばがあるが、あくまで安倍の独裁だった。それが崩れた。森友学園で火がつき、加計学園で燃え上がり、さらに共謀罪の強行採決、稲田の選挙違反(自衛隊をつかった脅し)、下村の献金疑惑とつづき、選挙最終日の安倍の「こんな人たちに負けるわけにいかない」という国民を侮辱する暴言があった。もう「安倍1強」というわけにはいかないだろう。
 自民党から小池が距離をおいた。同じことが今後起きる。自民党の内部で「安倍独裁」が崩れるきっかけになる。
 安倍が最後に応援演説をした選挙区で、自民の中村彩が破れた。安倍が応援に駆けつけると「安倍辞めろ」コールが起きる。安倍に来てもらっては困るという状況が今後も起きるだろう。
 中村彩は「(自民党は)人を罵倒したり、お金の問題、恋愛問題、国民の信頼を失い恥ずかしい、情けない」と敗戦について語っている。そういう思いをする自民党議員が増えるだろう。そういう人が、安倍から距離を置き始めるだろう。

 民進党が議席を増やしたわけではない。2議席減らし、その2議席が共産党に廻った形だ。野党が「勝った」とは言えない。
 けれど、「安倍自民党」は大敗したのである。
 このことはとても重要だと思う。
 最終日の安倍応援演説に対する市民の声を報道しなかったマスコミもあるが、マスコミが報道しなくてもニュースはつたわるようになった。
 これも大きな変化だと思う。
 昨年夏の参院選は、NHKを初めとする「選挙報道をしない」という作戦が自民大勝を支えた。報道しないために、自民党以外の主張が国民につたわらなかった。少数意見が抹殺された。
 しかし今回は、マスコミとは違う形でニュースがつたわる部分が多かったように感じた。


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アンジェイ・ワイダ監督「残像」(★★★)

2017-07-02 19:00:24 | 映画
監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ボグスワフ・リンダ

 前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を描いている。私はブワディスワフ・ストゥシェミンスキの絵を見たことがない。あるかもしれないが、名前と絵が一致しない。そのせいもあって、どうもピンとこない。
 映像として美しいなあと感じたのは、予告編にもあった室内が赤く染まるシーン。窓の外にスターリンの肖像を描いた巨大な垂れ幕が掲げられる。垂れ幕の赤い色を通して光が入ってくるので部屋が赤くなる。
 このときの赤い光というか、ものを覆っていく、ものを染めていくときの感じが、実在の色というよりも、嘘を含んでいる「弱さ」のようなものがあって、とてもおもしろい。その色を拒絶するように、主人公は垂れ幕を破る。自然の光が赤い垂れ幕越しに、さーっと部屋の中に入ってくる。このときの印象も美しい。
 もうひとつ。主人公が妻の墓に青い花を捧げるシーン。白い雪と、青い花の色の対比が美しい。まるでモノクロ映画のなかで花の青だけ着色したようだ、と予告編を見たときに思っていた。
 そうしたら。
 あの青い花は、実際に着色した花だった。直前に白い花を青いインク(?)に浸し青くするシーンがある。あっ、これが墓に飾られるのだな、とそのときわかるのだが、この青の色が絶妙。下地が白。そこに重ねられた青。このため、雪の白に非常によくなじむのである。
 いやあ、美しい。
 そして、悲しい。
 主人公には、「青」が「残像」として残っている。妻の瞳の色。それは主人公の瞳の色でもあるのだが、主人公には自分の瞳の色は見えない。(娘から、お父さんも青いと言われるシーンがある。)あの青い花は、だから妻の瞳の色であり、主人公の妻を見つめる瞳の色でもある。
 それが「人工」のなかで出会っている。この「人工」を芸術と言ってもいいのかもしれない。芸術とは「現実」を切り開き、整える「視点」のことである。
 予告編になかったシーンでは、妻(娘の母)の葬儀のとき、娘が「赤いコート」を着ている。この赤はスターリンの垂れ幕の赤とは違って、もっと深くて強い。そのコートを見て、墓地に来ていた人が「母親の葬儀に赤いコートなんて」と言う。娘は「これしかないのよ」と反論した後、コートを裏返しにする。裏地が黒い。
 このシーンは、私たちがみている「色」というのは何なのかを考えさせてくれる。
 映画の最初に、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの「認識論」というか「芸術論」が語られている。「認識したものしか人は見ない」。「赤いコート」の「赤」の「認識」は、ただそのコートが「赤い」ということではない。葬儀のときは「黒い」服を着るという「認識」があるから、娘の着ているコートが「赤く」見える。葬儀のときは「黒い」服を着るものである、という「認識」がなければ、娘の着ている「赤」は認識されなかったはずである。だから、娘がコートをぱっと裏返し、「赤」を「黒」に変えるのは、一種の「認識」のぶつかりあいなのである。裏地はほんとうは「黒」でないかもしれない。焦げ茶だったかもしれないし、黒に近い紺だったかもしれない。「赤」をひっくり返して(裏返して)隠したときに、そこに「黒」が認識される。
 このシーンが、この映画のなかでは、一番のポイントである。
 「黒く」見える。しかし、それはほんとうに「黒」なのか、「赤」が否定されたために「黒」に見えたのか。
 ここから「政治(体制)」と「芸術」の問題もとらえなおすことができる。
 ある作品が政治的に利用されたり、批判されたりする。それはなぜなのか。「芸術」その自体が持っている「色(認識)」は何なのか。鑑賞者は、それをどう「認識」するか。
 ここから先のことを考えようとすると。
 私はつまずく。
 象徴的なシーンは、予告編にもあった壁画(レリーフ)をこわすシーンである。壁画は主人公の意図としては「搾取への抗議」である。しかし、権力はそうは認識しない。ブワディスワフ・ストゥシェミンスキは体制を批判している(体制に与しない)という「認識」で、作品そのものをも否定する。
 さてさて、むずかしい問題である。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキを知らない。
 ということもあって、★3個。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキに詳しい人の感想を聞きたい。

 欲を言うと。
 先に書いたことと関係があるのだが、「色」の変化が「赤」と「青」を通して描かれるのだが、もう少し他の「色」の変化も視覚化してほしかった。
 たえば、主人公に思いを寄せる女子学生の「視覚」のなかで「色」はどうかわったか。彼女は、どう「色」を変えることを知っていたか。あるいは主人公の友人の詩人の「視覚」のなかで「色」はどう変わったか。そういうものを描いてほしかった。
 タイトルには「黄色」が有効につかわれていたが、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキにとって「黄色」は重要な色なのか。それは何を「認識」したものなか。そういうことも気になった。
                     (KBCシネマ1、2017年07月02日)

 *

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東京都民のみなさまへ

2017-07-02 00:40:17 | 自民党憲法改正草案を読む
 2017年07月01日、東京都議選の街頭演説で、安倍は「こういう人たちに負けるわけにはいかない」と有権者を指さして叫んだ。
 有権者とは、「議員を選ぶ人」である。「選ばれた人」が「選ぶ人」を「こんな人」と侮辱した。
 訴える政策が正しければ、批判をやめ、その人に投票するかもしれない。そういう「余地のある人」、言い換えると安倍のことば次第では態度をかえる可能性のある人を「こんな人」と呼んだ。
 侮辱した。
 このことを、私たちは忘れてはならない。

 「こういう人たち」とは、安倍の演説に対して「安倍帰れ」「安倍辞めろ」と叫んでいる人である。
 なぜ、人は「安倍帰れ」「安倍辞めろ」と叫ぶか。
 ほんとうは、もっと他のことを語りたい。なぜ、加計学園は優遇されたのか。なぜ、森友学園が買った土地は値引きされたのか。なぜ、共謀罪は審議を打ち切り強行採決されたのか。そのことを問いたいし、自分の意見も言いたい。
 だれにも言いたいことが山ほどある。
 だが、安倍は、そういう声に耳を傾けたことがあるか。ないではないか。

 安倍は国会での説明を拒んでいる。臨時国会の開催要求は、憲法に従って野党から提出されている。それに安倍は答えていない。「加計学園問題を追及されるがいやだから」と言うのが安倍の理由である。
 国民の代表である国会議員の質問には答えず、記者会見で自分の意見を言うだけである。
 だから叫ぶのだ。
 国民の質問に答えない安倍は帰れ。
 国民の質問に答えない安倍は辞めろ。

 これは正しい叫びだ。
 「安倍は帰れ」「安倍辞めろ」と叫んだ人は正しい。
 「演壇の上から」国民を見下ろして、「言うことを聞け」と言っている安倍に対しては、「帰れ」「辞めろ」と叫ぶしかない。
 この日、秋葉原に集まって「安倍は帰れ」「安倍辞めろ」と叫んだ人たちは、そこに集まれなかった国民を代表している。
 国民の怒りを代表している。

 だから、もっともっと怒ってほしい。
 国民は政治家を批判する権利がある。
 しかし、国民によって選ばれた議員には国民を批判する権利はない。侮辱する権利は、もちろん、ない。
 批判されたくないのなら、批判されない政策を実施すればいい。
 国民が望む政策を実施できない、国民を説得できない政治家が、国民に対して「こんな人」と呼んだ。
 このことに対してもっと怒り、投票に反映させてほしい。

 都議選がはじまってから、稲田の地位を利用した公職選挙法違反があり(しかも「自衛隊」という武力を持った組織の存在を前面に押し出した脅迫を含んだ違反だ。私には自民党に投票しないなら、自衛隊を派遣するぞ、という脅しに聞こえた)、下村の違法献金問題があり、二階の暴言があった。
 その最後に、安倍の有権者に対する「この人」呼ばわり、侮辱があった。
 自民党に投票するということは、安倍、稲田、下村、二階のやっていることを「肯定」することである。
 安倍、稲田、下村、二階に対する怒りを、「批判する力」として結集させてほしい。
 都議選に対する投票権のない私は、そう願っている。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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池井昌樹「種子」

2017-07-01 11:51:54 | オフィーリア2016
池井昌樹「種子」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 池井昌樹「種子」は「連載詩・未知」の最終回の四篇のなかの一篇。

死はめをさまし
死はふたばして
死はえだになり
死はみきになり
死はおいしげり
死はちりしかれ
死はめぐりゆき
死はめぐりきて
めぐりのはての
つぶらなひとみ
死はめをとじて
死はみちたりて
やすらかにいま
はなひらくとき

 読み始めてすぐに「死」が「木」に見えてくる。「ふたばして」「えだになり」「みきになり」ということばが「木」につながる。
 でも、なぜ「死」なのだろう。「生/いのち」の方が読みやすくないか。「木」にすっきりと重ならないか。
 「ちりしかれ」は「木」というよりも「枯れ葉」を連想させる。「枯れ葉」は「死」なのかもしれないが、それまでは「生きている」。
 生きているものを「死」ということばで象徴するのは、なぜなのだろう。

 「死は」とはじまる行が、突然「死」を放棄して、「めぐりのはての/つぶらなひとみ」という二行になる。
 「めぐり」は「死」と言い換えられるか。
 微妙だが、言い換えられないことはない。
 そして、言い換えようとするとき、「死」ではなく「生」と言い換えることもできると思う。「生」を「いのち」と読ませれば、「めぐる」のは「死」ではなく「いのち」という気がしてくる。
 「木」、成長する木は「いのち(生)」の象徴である。それを「死」と呼んで、池井は詩を書き始めているのだが、「死はめぐる」と書いたとたんに、「生(いのち)はめぐる」ととすりかわってしまう。
 「めぐる」という「動詞」が入れ替わりをうながすのだろう。「円環」になる。最初と最後が重なる。「ひとつ」になる。
 「死」は、めぐり、「生(いのち)」に重なる。生まれ変わる。
 「死はめをとじて」は「生はめをとじて(死ぬ)」であり、「死はみちたりて」は「「生はみちたりて(満足して)」であると同時に、死の瞬間、その「死のなかに新しい生(いのち)が満ちてきて」でもある。
 「はなひらく」のは「死の生涯が記憶として花になる」というよりも、「新しいいのちの花がひらく」という感じがする。

 最初の一行に戻るのだ。

 「死はめをとじて/死はみちたりて」、その瞬間に、「死は、いのちとしてめをさまし」ということだろう。
 死と生は、あるいは生と死は区別がつかない。いや、区別できない、区別してはならないものなのだ。死と生、生と死は「結晶」している。その結晶が「種子」ということ。「種子」のなかには「死と生」が同居している。
 しかし。
 こんなふうに要約してはいけないんだろう。
 「種子」ということばを捨て去り(忘れ去り)、ただ「めぐりのはての/つぶらなひとみ」になってしまうことが大事なのだ。
 だから、というのはかなり変な「論理」の展開になるが、タイトルは「種子」というのは、ちょっとまずい。
 何もない方がいい。
 この「めぐり」のはてに、読者が何をつかむか、それは「種子」ということばで限定されるのはつまらないと思う。「種子」に限定されると、「象徴詩」になってしまう。

 もう少し書きたい。
 「めぐりのはての/つぶらなつぼみ」の「つぼみ」は「ひとみ」であるかのように、私は「誤読」する。「つぶらな」ということばが「ひとみ」を呼び寄せるのだが、それだけではない。池井の、時間を超えて(生と死の限界を超えて)永遠を見つめる「視線」が「ひとみ」を呼び寄せる。
 「種子/つぼみ」が「ひらく」というより「め(目/ひとみ)」が開かれて、その開かれたひとみのなかで、ことばのなかで、「世界」があたらしく生まれ変わる。詩になる。



池井昌樹詩集 (ハルキ文庫)
池井昌樹
角川春樹事務所
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誤解を招きかねない?

2017-07-01 01:03:32 | 自民党憲法改正草案を読む
誤解を招きかねない?
               自民党憲法改正草案を読む/番外98(情報の読み方)

 2017年06月30日、稲田が防衛省で記者会見した。東京都議選の応援演説で「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」といったことに対する「釈明」会見である。私は朝日新聞のネット中継を見たのだが、途中からなので正確ではないかもしれないが。(夕刊には、詳報が掲載されていない。)
 そのなかで、稲田は、こう語っていた。

「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いするという意図は全くなく、誤解を招きかねない発言であり、撤回をした」
「真意は自民党としてお願いしたい、ということ」

 つまり、稲田によれば「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いした」というのは「誤解」ということになる。だが「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしたい」と明確に言っている。そのあいだに、というか、その最後に「自民党」ということばが挟まっているだけである。
 稲田の発言が、もし稲田の言う「自民党として」という意味だとすると。そのまえに並列されていることばは、すべて「自民党」ということになる。
 つまり、

防衛省=自民党
自衛隊=自民党
防衛大臣=自民党

 ということになる。
 この関係が成り立つときのみ、稲田のことばは「自民党として」と言い換えることができる。
 防衛省には複数の職員がいる。彼らはみんな自民党か。自民党の支持者でないと、防衛省には入省できないということか。あるいは、いったん防衛省に入ったら、全ての人間は自民党支持者にならないといけないということか。防衛省職員には、思想の自由はないということか。自民党以外には投票してはいけないのか。稲田は、職員にそう命令したのか。
 自衛隊にも複数の人間がいる。彼らはみんな自民党か。自民党支持者以外でないと、自衛隊に入れないということか。あるいは、いったん自衛隊に入ったら、全ての人間は自民党支持者にならないといけないということか。自衛隊員には、思想の自由はないということか。他の党に投票しては行けないということか。稲田は、そう命令したのか。
 防衛大臣は、いまは稲田が務めており、稲田は自民党員だが、自民党員以外は防衛大臣にはならないのか。民主党が政権をとっていた時代、防衛大臣は民主党の議員が務めていたはずだ。それとも彼も自民党員だったのか。

 あるいは、防衛省、自衛隊の職員すべてが自民党支持者であってほしいという思いを込めて、そう語ったのか。

 もし、稲田の言う通り、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてお願いしたい」ということが、「自民党としてお願いする」という意味ならば、そして自衛隊が「自民党」という意味ならば、これは、とても怖いぞ。
 自民党を批判すると、自衛隊が出動するということが起きるぞ。
 自衛隊は日本国民を守るのではなく、自民党員を守るために動くということになるぞ。
 これが、きっと本音。
 稲田に対して国民が批判する。マスコミが批判する。はやく自衛隊が出動してきて、国民とマスコミを制圧してくれないか。稲田は、きっとそう思っていたのだ。
 自民党以外の党を支持する人間は、弾圧し、自民党の独裁を実現する。そのために自衛隊を出動させる。稲田の究極の願いは、それだ。

 選挙になれば、自衛隊が投票所を取り囲む。自民党以外に投票する人間はいないか、銃を構えて監視するのだ。
 そうなるまで、稲田は「しっかりと職務をまっとうする」と言ったのだ。

 それにしても。

 なぜ、記者会見なのか。なぜ、国会の場で、国民の代表である国会議員の質問に答えないのか。
 記者会見で質問しているのは、「企業」の代表である。「国民」の代表ではない。
 言いたいことがあるなら、「国会の場で、きちんと発言したいから国会を開いてくれ」と自民党と安倍に要求すべきである。国会の場で追及されたくないから、記者会見でごまかしている。
 安倍も国会が終わった後、国会の外で、国会の答弁とは違うことを平気で言っている。
 記者会見で、ある記者が、なぜ国会を開催し、国会で答弁しないのかと質問していた。稲田は、国会を開くか開かないかは国会が決めること、と言っていた。稲田は国会議員だろう。国会で説明する意思があるなら、国会を開いてほしいと言えるはずだ。国会が決めることと、「ひとごと」のように言ってしまうのはなぜか。
 安倍は国会を開くと加計学園問題を追及される。それがいやだから国会を開かないと言っている。
 稲田も同じだ。国会を開くと「自衛隊発言」を追及される。それがいやだから国会を開かないと言っている。国会を開くようには働きかけることをしないと言っている。
 マスコミは、記者会見で安倍や稲田の発言を聞くことができる、それ活字にする、あるいは放送すれば金になるから、記者会見でいいと思うのかもしれないが、それでいいのか。
 「国会を開いて、なぜ、国会で答弁しないのか」と質問した記者がだれかはわからないが、マスコミはもっとこの点を追及すべきである。「記者」としてではなく、「国民」として。




#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
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