詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

記者会見で「国会解散」?

2017-09-21 10:41:14 | 自民党憲法改正草案を読む
記者会見で「国会解散」?
            自民党憲法改正草案を読む/番外115(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月21日、西部版・14版)1面。

所信表明行わず解散/臨時国会 開会式も見送り

 という見出し。
 では、どうやって「解散」をするのか。国会議員に「解散」を伝えるのか。

 首相は25日に公明党の山口代表と会談し、(略)日程を確認、同日夕の記者会見で衆院解散の意向を表明する。

 さらに、こういう記事が見える。

 首相は衆院選で、「全世代型」社会保障制度の実現を争点に位置づける考えだ。2019年10月の消費税率10%への引き上げに合わせ、増収分の使い道を国の借金返済から子育て充実に変更することを訴える。
 25日の記者会見では、こうした方針を説明する。

 繰り返しになるが、問題点は2つある。
(1)どうやって、国会議員に「解散」を伝えるか。
   「記者会見」で表明すれば、それでいいのか。
   記者会見は「正式文書」として記録に残るのか。
(2)「全世代型」社会保障制度はどういうものか、国会で説明しなくていいのか。
   国民の代表である国会議員の質問に答えないのでは、内容が不明確である。
   国民の存在を無視している。民主主義を否定している。
   選挙運動(街頭演説)での説明は「正式文書」として記録されるのか。
 もっと、いろいろ問題点はあるだろうが、とりあえず2点を問題にしたい。

 「記者会見」は、国会解散を有効にする「手段」として認められているのか。憲法の、どの条項を適用すれば、記者会見での「解散」が有効になるのか。
 憲法の条項で「解散」が出てくるの部分はいくつかあるが、重要なのは、

第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 安倍は何を根拠に国会を解散するのか。どうやって解散を実現するのか。
 「開会式」がないということは、天皇が国会に来ないということだろう。天皇は、どうやって「衆議院を解散する」という「国事行為」を行うのか。天皇の「国事行為」を封印するというのは、「象徴」としての仕事をさせないということではないのか。
 天皇を強制生前退位させ、天皇に沈黙を強制した安倍は、天皇の存在を完全に無視している。安倍独裁を推進するために、天皇の活動を制限している。天皇を「隠蔽」し、安倍独裁を進めている。
 天皇が「解散する」と言わなくても、国会は解散できるのか。何のために憲法は「衆議院を解散すること」と明文化しているのか。

 森友学園、加計学園問題で焦点になったのは「公式文書」であった。「文書」の有無であった。
 安倍(政府)は、すべて「文書はない」、担当者の「記憶にない」という発言で質問を封じた。
 記者会見の「ことば」は、誰が聞き取り、書き取るのか。その「ことば」は「議事録」のように、「正式文書」として位置づけられるのか。
 私たちはすでに、安倍が「PTTに反対」というポスターに顔を出しておきながら「PTT反対と言ったことは一度もない」という嘘を聞いている。今後、「全世代型」社会保障制度を充実するとい言ったことは一度もないと、きっと言うに違いない。

 安倍独裁の特徴は、昨年の参院選で明らかになったが「沈黙作戦」である。何も語らない。何も説明しない。質問を受け付けない。
 安倍は「私の言いたいことは読売新聞に書いてある」と、今度も言うかもしれない。国会議員に対しては何も答えない。けれど読売新聞記者には答える、ということを繰り返すかもしれない。これでは、新聞は「安倍の宣伝広報紙」である。
 「アベノミクスを加速する」というのも「選挙公約」にするらしいが、「アベノミクス」とは「沈黙強要作戦/独裁推進作戦」のことである。
 安倍は、「公約」を語る一方、野党に対して「対案を出せ」と迫るだろう。
 「反対するだけでは何も実行(実現)できない」というのは、もっともらしく聞こえるが、こには「大きな嘘」がある。
 「安倍政権は許せない。安倍政権に反対」と訴えることは、安倍政権を倒すことができる。戦争へと暴走する安倍の野望を封じることができる。
 いま、唯一しなければならないことがあるとすれば、安倍の暴走を止めることである。「見せ掛けの美しい公約」などいらない。「安倍は、森友学園、加計学園問題を隠している」「安倍昭恵が何をしたかを隠している」「安倍の友人のために国家予算がつかわれている」とだけ訴えればいい。「安倍は辞めろ、安倍は帰れ」と叫べばいい。
 「安倍を辞めさせる」を「公約」にして野党は団結すべきである。
 国会を開催させ、天皇にきちんと国事行為をさせ、安倍に所信表明をさせ、さらに代表質問が行われる。解散があるにしても、それは、そのあとでなければならない。

 新聞は、すでに安倍の戦略を批判することをやめて、安倍の「広報」になってしまっている。


 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)ほか

2017-09-21 00:01:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)ほか(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)は短いスケッチ。

突然、大きな魚一匹が貯水池全体を一度持ち上げてから打ち下ろす時は、本当に息苦しい潜行の末、一度すべての力を水面の上に吐き出して見せるのだが、それは一瞬に大きく決意して行う決行のようなものである。

 ことばが「ごつごつ」している。「決意して行う決行」という「馬から落ちて落馬して」みたいな部分など、ふつうなら「いやだなあ」と思うのだが、うーん、不思議に強い響きだなあと思う。
 「これは何だろう」「ほんとうにこういう訳でいいのかなあ」という疑問(たとえば、慎達子「熱愛」の「最高だ」ということばに触れたときのような感じ)は浮かんでこない。ほんとうは違うのかもしれないけれど、あえて、そのねじれのようなところへ踏み込んでいく力を感じてしまう。
 なぜだろう。
 「一」ということばが何度も出てくる。「一匹」「一度」「一度」「一瞬」。「一度」は二度も繰り返されている。「一」が印象に残る。それは単に文字(ことば)の問題というよりも、「情景」そのものとなって迫ってくる。
 いくつかのことが書かれている。いくつかの「名詞」があり、いくつかの「動詞」がある。しかし、それは切り離せない。「ひとつ」になっている。そのときの「一」になって迫ってくる。
 池で魚が飛び跳ねる。エラ呼吸や、水面に口を近づけてぱくぱくと動かす呼吸では間に合わず、空気そのもののなかに飛び出して、全身で空気を吸う。そのときの様子を描いているのだが、「貯水池全体を」「持ち上げてから打ち下ろす」という動きが強い。魚が飛び跳ねるというよりも、水中と空中が瞬間的に入れ替わるような感じ。池の水全部が持ち上がって、ひっくりかえって、元にもどる。
 その「貯水池全体を」「持ち上げてから打ち下ろす」のつなぎ目に「一度」がある。「一」のなかで、水中と空中が入れ替わる。「一」だから、入れ替わるといっても、ふたつが入れ替わるのではなく「一」がそのまま入れ替わる。
 うーん、うまく言えない。
 その「一」の入れ替わりは、「すべての力」である。
 「苦しい」ということばがあるが、「苦しい」ということが、そのまま「快楽(愉悦)」であるような感じ。「苦しさ」がなければ、ここに書かれている「愉悦」もない。切り離せないものが「一」になっている。
 「一」になるために、魚と水と空気が動く。動くのは魚だけなのかもしれないが、魚にあわせて世界が入れ替わり、入れ替わることで「一」であること、その結びつきを強くするといえばいいのか。

 「水平線を引きながら」も短い詩である。

そうだ、空は常に青い廃墟で

私は空の下で下線を引きながら暮らした

まるで、誰かの貧しさだけは

空と平等であったのを祈念するかのように

 「誰かの貧しさ」と書かれているが、作者以外の「誰か」を私は想像することができない。「私の貧しさ」と読み違えてしまう。そのとき、そこには複数の人間ではなく「ひとり」の人間が現れる。
 「貧しさ」は「豊か」の反対のもの。「豊か」は「多数(多い)」に対して「貧しい」は「少ない」。その「少ない」の究極の「少なさ」、全体的な「少なさ」が「一」である。すべてのものをなくしても、人間は生きている限り、自分の「肉体(いのち)」をもっている。その「絶対的最小数」というものが「一」である。そういう存在が、このことばの運動から浮かび上がってくる。
 ここでも「一」が主題なのだ。書かれていないが、「一」が徐のキーワードである。
 「私は空の下で下線を引きながら暮らした」は「一本の」下線を引きながらだろう。それは、言い換えると「地平線」であり、空と大地の境界線である。それはいつでも「一本」である。世界のどこにでも地平線はあるが、それはいつでも「一本」である。「巨大な」というよりも、「永遠の」一本。
 それを実感している。
 そして、「そうだ」と書き出しで、それを肯定している。
 ここが、とても強い。
 「まるで」は「ように」ということばにむかって世界を「ひとつ」にする。「比喩」はふたつの存在があって成り立つものだが、「比喩」が生まれた瞬間、「ふたつ」は「ひとつ」になる。「現実」と「抽象」が硬く結びつき、ことばでしか表現できない「世界」が出現する。
 「空の下で下線だけを」の「下」の重複は、「決意して行う決行」とは少し違うが、何といえばいいのか、やはり、こなれていない「ごつごつ」した感じがあるのだが、その「ごつごつ」しか感じが、また、とてもいい。

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韓中日詩人フェスティバル(2017年09月14日-09月17日)

2017-09-20 10:19:31 | 詩(雑誌・同人誌)
韓中日詩人フェスティバル(2017年09月14日-09月17日)

 韓中日詩人フェスティバルに参加した。2017年09月14日から09月17日まで、ソウルと平昌で開かれた。「平和」「環境」「治癒」の3テーマでフォーラムがあった。私は「環境」に参加した。
 中国の詩人の基調報告は日本語翻訳がなくてよくわからなかったが、韓国の詩人の基調報告と似ているように感じた。
 二人が共通して(?)語ったことは、「環境破壊=人間破壊=ことばの破壊」という形で要約できる。少し論理的に語りなおすと、次のようになる。

(1)自然環境の破壊と文明(産業)の創造・発展は表裏一体である。
   産業革命によって自然環境破壊が加速した。
(2)文明が社会をつくり、社会が人間の自然を破壊した。
   たとえば本来存在しない男女差別をつくりあげ、それが社会を固定した。
(3)社会構造の固定化は、同時にことばの破壊でもある。
   ことば本来の自然がなくなった。
(4)自然のことばをとりもどすことで、人間性と自然を回復することが求められる。
   ことばを取り戻す方法として詩がある。
   詩は、あらゆる存在との「対話」であり、「対話」を回復するのが詩である。
(5)中国には「詩教」ということばがある。
   詩を通じて、他の存在(自然を含む)との対話方法を教える。

 (5)は中国詩人が言っていることで、韓国詩人はこういうことを言っていない。
 それをわきにおいておいて、大胆に言い換えると、人間と自然(環境)との共存が、中国と韓国の詩人との思い描いている「ユートピア」である。
 ユートピアでは人間の尊厳、生命の尊厳が保障されている。
 破壊された自然と人間(の自然)を救うために対話が必要であり、その対話を推し進めるのが詩である。詩の力で、環境破壊と人間破壊を根本的に解決しよう、と提言しているように思えた。

 これはなんだか予定調和的な「結論」であり、私はかなり違和感をおぼえた。
 フォーラムの結論としてはそれでいいのだろうけれど、個人的には違うことも考えた。
 共存のユートピアとは違うものがあるのではないか。
 破壊の可能性、暴力の可能性、愉悦の解放ということが語られないまま、予定された結論にむかってことばが動いているように感じた。
 ひとはなぜ暴力にひかれるのか、破壊にひかれるのか、暴力や破壊によって回復する人間性というものもあるのではないのか。いのちの可能性というものもあるのではないのか。
 「環境フォーラム」には日本から細田傳造、天童大人も参加していた。たまたま細田がとなりに座っていたので、「暴力や破壊によって回復する人間性について、何か反論しなくていいんですか? 反論してくださいよ」とけしかけたのだが、「論理的に語れない」と拒まれてしまった。「論理的に語れない」とは、「感情的には語りたい」ということかもしれない。「声」を発することで人間の根源にふれよううとしている天童も何かいいたいはずだと思うのだが、席が離れていて、けしかけることができなかった。
 私は破壊や暴力による人間性の回復というようなことを、私自身のことばのテーマとはしていないので、自分のことばとしては語ることがなかった。違和感が非常に強い「結論」と感じた。

 私が細田や天童の「代弁」をすることはできないので、私が細田の詩について感じていることを書くことで、破壊や暴力が人間性の回復になることもある、愉悦をひきだし、いのちを輝かせることもあるということを書いておきたい。細田の詩の魅力は「予定調和」とは無縁なところにある。「予定調和」を破壊するところにある。
 フェスティバルの資料のなかに「魚永福」という詩がある。(長い作品なので、そのことばを読んだ瞬間に感じることをそのまま書くために、三つにわけて紹介する。)

生還
さかな!
ウスク沼の縁道で怒鳴った
自分のことをさかなと呼ぶな!
調教演習からの帰路引率中
一名の修練兵が反抗する
夕暮遠雷
いいから!魚の侭で走れ
帝国軍人の身分で雷にうたれて
斃れるわけにはいかない
早く!
魚本修練兵の首を縛って走った
接収兵舎の鰐淵寺(がくおんじ)を目指して走った

 「さかな」とは「魚本修練兵」のことである。長い名前なので、いつも「さかな」と呼ばれている。これは、一種の人間性の否定(なまえを正確に呼ばないのは失礼なことである)。だから魚本は「さかなと呼ぶな」と反抗もするのだが、そんな反抗にかまっているひまはない。生きることが大前提である。だから「魚の侭で走れ」と言う。「首を縛って走った」ということもする。他人の自由を奪ってでも、走る。逃げる。他人の自由、名前の尊厳などに気配りをしていてはだめなのだ。そういう瞬間もあるのだ。

近くで空が光った
雷に撃たれてあっけなく
事切れるわけにはいかない
丸腰になって走った
丸裸になって
両手をあげて
総員弐だけになって走った
ツチノコになって走った
神を捨てて走ったアミ族の男になって
走った
こっちを見てげらげら腹抱えて笑う
セメント採掘の
朝鮮人徴用工の群れの中を走った
半島人の夕餉の中を走った

 「丸裸」は人間が生まれたままの姿だが、それは一種の「恥」である。「文明」の否定である。しかし、それでいいのだ。「ツチノコ」は人間ではない。「アミ族の男」は「文明」からは遠いかもしれない。しかし、それでいいのだ。「朝鮮人徴用工」が「げらげら腹抱えて笑う」。差別してきた人間に笑われる。屈辱だ。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。生きるのだ。生きるために、走る。二人は「総員」二人になって、二人だけだけれど「総員」になって、真剣に走る。「総員」という言い方に、絶対にふたりとも生きるんだという「欲望(本能)」がぎっしりつまっている。
 走った先に、「いのち」がある。「いのち」を守るために、なにもかも捨ててしまって、ただ「走る」という動詞になる。「走る」ときに「ツチノコ」であってもかまわない。「朝鮮人徴用工」に笑われようとかまわない。その瞬間「人間」でなくてもかまわない。「人間」でなくなること、「ツチノコ」になることで、「いのち」そのものになる。そういうこともあるのだ。

落雷なんかで
人死させるわけにはいかない
赤肌のニンゲン二匹におびえて逃げまわる
野鼠の群れの中を走った
風が来た
雨が来た
青と赤の二体の鬼になって走った
鬼の兵長と魚の永福になって走った

 「人死させるわけにはいかない」、死んではいけない。そのために「人間性」を捨てる。「人間性」を捨てて「いのち」そのものになる。「ニンゲン二匹」ということばがある。「二人」ではなく「二匹」。人間ではなく、けだもの(動物)になっている。なまなましい「やせい」の「いのち」になっている。そして、「走る」という動詞そのものになる。「動詞」は「人間」と「動物」に共通する。「いのち」の運動だ。
 「いのち」そのものになること。ここには、それが「愉悦」であるとは直接書かれていない。しかし、私は感じる。ただひた走る力、そういう力があるという愉悦を生きている細田がいる。
 走って、走って、走ったから、いま、ここにこの作品が「ことば」としてある。
 で。
 ちょっともどって。
 この作品に、細田のキーワードを見た。「いいから!」である。この「いいから!」はなかなかむずかしい。「そんなことはどうでもいいから」の「どうでも」が省略されている。「いい」は肯定。「どうでもいい」は否定。これが、ごっちゃになっている。そして「否定」はことばにはならず「肯定」だけがことばになっている。
 この感じ、韓国語、中国語で、どう言うのかなあ。韓国語、中国語では、どう訳されているかなあ。
 その否定と肯定がごっちゃになっている、切り離せないものになってニンゲンを動かしているという「人間観」が、細田の思想(肉体)である。
 (この「いいから!」というのは、どこかで慎達子「熱愛」の「最高だ」につながっていると思う。慎の「最高だ(ああ、極楽)」にも否定と肯定の強固な結合がある。)

 天童を引き合いに出したので、天童のことも書いておきたい。天童のやっていることは「ことば」の回復というよりも、「声(肉体)」の回復である。言い換えると「ことば」の「意味」はどうでもいい。(と、書いてしまうと、まあ、天童は怒るかもしれないが、私にはそういう印象がある。天童の「声」を私は今回はじめて聞いたが、聞いているとき「意味」なんか追いかけていない。声が出てくるときの「肉体」の動きを自分の「肉体」で追っている。)「声」のなかにつながっている「いのちの歴史(肉体の歴史)」が大事である、という考え方だと思う。
 文明(産業社会)が環境を破壊し、人間性を破壊する。それにどう立ち向かうか。まず「声」を出す、というところから天童は出発する。ひとは生まれた瞬間から「声」を出す。空気を吸って、空気を吐きだす。その蓄積が生きるということである。その呼吸に「音」を乗せて、自分の欲望を伝える。その力を取り戻すことが大切である。
 「大声」は一種の暴力だが、そういう「暴力」を回復することも大切なのだ。

 破壊の可能性、暴力の愉悦、愉悦の解放ということを抜きにして、環境と人間の調和ということに「結論」をもっていってしまっては、何かが欠落する。たぶん「現代」というものが欠落する。私たちがいま生きていて、その生きている瞬間に肉体が反応する「反発力」のようなものが欠落する。
 「環境と詩」というのが今回のフォーラムのテーマだからしかたないのかもしれないが、詩ではなく「現代詩」という表現をつかえば、すこし違ったことばのぶつかりあいがあったかもしれない。
 「反論」がないフォーラムというのは、すこし寂しい。そんなことを感じた。




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慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)

2017-09-19 09:12:18 | 詩集
慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)(2017韓中日詩選集)

 慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)には、非常にひかれる。ただ、やはり何かしっくりこない部分もある。

手を切ってしまった
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた
よかった
何日かはこの傷と遊ぼう
使い捨ての絆創膏を貼ってはまた剥がして傷を舌で撫で
かさぶたを取ってはまた悪化させ
つまみ食いするように少しずつ傷を怒らせよう
そう、そうやって愛すれば十日は軽く過ぎるだろう
血を流す愛も何日かは順調に持ちそうだ
私の体にはそういう傷跡が多い
傷と遊ぶことで老いてしまい
慢性シウマチの指の痛みもひどく
今夜はその痛みとごろごろ転がりまわろう
恋人役をしよう
唇にぎゅっと噛みつき
私の愛の唇がぷちっと腫れて破れて
誰が見ても私、熱愛に落ちたと言うだろう
最高だ

 最終行の「最高だ」。これが、しっくりこない。「意味」は「最高だ」で間違いないのだろうけれど、この詩を書いた人が日本人だったとしたら「最高だ」と言うかどうか。私は違ったことばだろうと思う。ほかのことばの、矛盾したような、ねじまがったような文体、その一方で「ぽたぽた」「ごろごろ」「ぎゅっ」「ぷちっ」というような口語の直接的な響きと、どうも「あわない」。四行目の「よかった」と同様、もっと口語的なことばなのではないか、と思った。あるいは、もっと「文語」的なことばか。「最高」では「だ」をつけたくらいでは「口語」にはならない。「平凡」な感じがして、詩のもっている強い響きが死んでしまう。
 最初、「至高」ということばが思い浮かんだ。ふつうは口にしないことば。「文語」的なことばである。「至上の愛」ということばも思い浮かんだ。これも「文語」的だ。「極上」はどうだろうか。「文語」的ともいえるが、少し族物っぽい。そういう意味では「口語」的かもしれない。でも「極上」は、なんとなく嘘っぽいなあ。安物の宣伝みたいだなあ。
 「至上の愛」から「愛の愉悦」ということも考えた。この詩には「傷つく愛」が描かれている。それを「最上」のものととらえている。血を流す愛をほめたたえている。「極上の愛の愉悦」。そう思ったとき「極上」の「極」から「極楽」ということばがひらめいた。愛の愉悦の果に、昇天する。エクスタシーで我を失う。「天国」へのぼる。その、喜び。
 私は「極楽」ということばをつかわないが、昔は、よく聞いた。老いた人が、何かに満足して「ああ、極楽、極楽」と言う。ごく一般的な「口語」だった。あの「ああ、極楽、極楽」という感じが、最終行の「最高だ」の意味ではないだろうか。
 「よかった、よかった」は老いたひとも言う。口語だから。でも「最高だ」は、私のいなかの年寄りは言わないなあ。気取っている。「よかった、よかった」「まるで極楽だなあ」「ああ、極楽だ、極楽だ」という感じ。もちろん、そこは「極楽」ではなく「現実世界」。でも、何か、逸脱している。「最高だ」では、その「逸脱感」がでない。

 で。

 この「逸脱感」から、詩を読んでいくと、ことばが非常に濃密であることがわかる。先に私は「矛盾したような、ねじまがったような文体」と書いたのだが、その「矛盾」「ねじまがった」という感じが「逸脱」を刺戟する。
 書き出しの

手を切ってしまった
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた

 が矛盾(?)し、ねじまがっている。「我慢した」が、まずおかしい。おかしいけれど、とてもよくわかる。いきなり鮮血が飛び散るのではなく、じわりと出てくる。「出血」そのものは「我慢」しているわけではない。むしろ「我慢できずに」出てきてしまうのが血である。「我慢する」は血が流れる(血が出る)ことを直接描写しているのではなく、血の出てくる感じを描写している。この詩は最初から「気持ち(感じ)」に焦点をあてて、ことばを動かしている。「長く我慢した」の「長く」が「感じ(気持ち)」を強調している。「時間」が長いのではなく、「感じること」が「長い」のだ。
 「赤い血」(これは動脈?)から血が「青い静脈」のなかへ落ちる。うーん、これでは「出血」ではないのだが。でも、自分の「静脈」ではなく「世界の静脈」へ落ちる。自分の血が他人の血のなかへ落ちる。そして、交じりあう。激しいことばで言うと、血がセックスする。血が愛し合う。「同じ肉体」ではなく、「違う肉体」と交わる。
 ここから「愉悦」が生まれる。「よかった」「ああ、気持ちがいい」になる。そして、ここからは「私」と「相手」が渾然一体となってくる。セックスの快楽というのは、自分が感じているのか相手が感じているのかわからない部分がある。相手が感じないと、なんだか自分自身でしらけてしまう。今の快感は相手の快感なのか、自分の快感なのか、「ああ、、いい」といいながらわからなくなるのが最上のセックスだろう。それが描かれている。その「感じ」が描かれている。

何日かはこの傷と遊ぼう

 傷を「癒す(治療する)」のが一般的だが、このひとは「傷と遊ぶ」と書いている。どこか性格がねじまがっているような、奇妙な、しかし、なんとなく「わかる」喜びである。マゾ・サド感覚というとおおげさだが、人間には、こういう「死へ近づく」感覚に溺れたい欲望のようなものがある。やはり「区別」がなくなる。わけのわからないのが「愉悦」というものなのだ。

使い捨ての絆創膏を貼ってはまた剥がして傷を舌で撫で
かさぶたを取ってはまた悪化させ

 こういうことは、小さい子供の頃、やった記憶がある。だれでも経験していると思う。不思議な「愉悦」がある。「極楽」という感覚ではないが。もしかしたら「地獄」の喜びかもしれないが。
 傷と「遊び」、

つまみ食いするように少しずつ傷を怒らせよう

 と「怒る」ということばが出てくるのも、「逸脱」へと感覚を動かしていく。「遊び」はたいてい「仲良く遊ぶ」ものである。でも「遊びながら」、相手を「怒らせる」。これは、何といえばいいのか、相手の中で「怒り」が動き出す瞬間を見る喜びだなあ。おおっ、「怒る」感情があるのだ、と新しい発見をする喜び。
 いつも「仲良し」だけでは、つまらない。いつも「健康」だけではつまらない。ずーっと「健康」だけではつまらない。傷つきたい、傷ついてみたいという感覚が誰にでもあるのかもしれない。他人の包帯姿になんとなくあこがれる「子供の欲望」みたいなものかなあ。

私の体にはそういう傷跡が多い

 この一行も強いなあ。私はぞくぞくしてしまう。読みながら、その一行に傍線を引くだけでは満足できず、私はその一行を四角く囲んでいる。さらに☆マークをつけている。とても気に入ったのだ。
 傷つく愛にまみれている。こころの傷が「肉体」になって、あちこちにある。そうやって生きてきたのだ。それは「肉体の表面の傷(肌に残る傷跡)」というよりも、「肉体」の奥でうごめく「記憶」である。忘れられない「快感」の思い出である。それが「多い」と詩人は言うのだ。
 傷つかない愛がいいのかもしれないけれど、傷つく愛、傷つけあう愛も、人間の「本性」に踏み込んでいくようで、おもしろい。傷つき、痛みでわめき散らす。これは、傷つくことができる人間にだけ許された、不思議な人間の「可能性」なのだ。
 この詩は、「あんた、愛の深さをどれだけ知っているか」と問いかけてもいる。
 相手に噛みついて傷つけ、噛みつかれて傷つけられる。それでも生きている。傷が生きている実感を、いっそう強くする。

赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた

 この不思議な傷つけあい、苦悩し、同時にそこに「至福」(最高の幸せ)をみつける。それが「熱愛」である。
 これはやっぱり、いくつもの愛を生きてきた人間だけがたどりつく世界だなあ。「極楽」だなあ。

 私は韓国の詩人について何も知らずに、ただ、ことばをひたすら追いかけて読んだのだが、09月15日の「詩の流れるアリランコンサート」で慎達子本人が詩を朗読した。老人であった。私は瞬間的に、マリグリット・デュラスを思い出した。実際、この「極楽」感覚、「愉悦」感覚はデュラスではないか。
 だから、私は、それから「最高だ」の一行を、自分で「ああ、極楽」と書き換えて読んでいる。



 その後、時間があるときに、ボランティアの通訳の人(韓国人)に質問してみた。「最高だ」と訳されていることばを、ふつうのひとはどういうときに使うのか。どんなときに、そのことばを聞くか。するとひとりが、「日本の若者のつかう『やばい』という感じでつかう」と言った。
 あ、それなら、年寄りならばやっぱり「極楽」だろう。
 「やばい」は本来否定的につかわれてきた。それは困る、という感じに。いまは逆に「全体的肯定」のようにつかわれている。自分のそれまでの感覚を前面否定して、まったく新しい肯定的世界が広がるときに「やばい」と言う。
 若者の絶対肯定が「やばい」なら、老人の「絶対肯定」が「極楽」である。「極楽」は死後の世界。「現実」ではない。その現実では「ない」という否定、生きているいままでの自分を否定し、超越した世界。「否定」があるから「肯定」がいっそう強くなる。否定と肯定が衝突し、いままでとは違った何か、「逸脱」した世界に突入してしまう。
 「逸脱の愛」の境地を描いているのだと思う。「逸脱の愛」が「熱愛」なのだ。

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金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)

2017-09-18 18:02:14 | 詩集
金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)(2017韓中日詩選集)

 金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)は、一か所、非常に気になるところがあった。

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
空に道を作りながら飛んでいた鳥は
再び道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 四行目が、私の感覚では落ち着かない。つまずいてしまう。「再び道を消す」とはどういうことだろうか。その前に書かれているのは「道を作る」である。「再び道を作る」ならわかるが、「消す」では「再び」にならない。「再び」である限りは、同じ動詞でないと不自然である。
 「再び」を別なことばで言いなおすと、何だろうか。「もう一回」「また」ともいう。そして、それは「繰り返す」である。「再び」を「動詞」を中心にして考え直すと、ある「動詞」を繰り返すのが「再び」である。
 この「再び」のあとに、動詞を隠しているのではないか。作者にはわかりきっているので、書かずに省略してしまったことばがあるのではないか。
 「再び」ということばに先行する「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」という一行には、「道を作る」という動詞があるが、これは「消す」ということば(なくしてしまう、破壊する)とは対立するから、省略されているのは「道を作る」ではない。
 この行には、見えにくいが、もうひとつ「飛ぶ」という動詞がある。「飛んでいた鳥」と連体形で書かれているが「飛ぶ」という動詞がある。「繰り返されているのは「飛ぶ」という動詞である。「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」は

鳥は飛びながら道を作る

 でもある。
 そうであるなら、「再び道を消す」は、

鳥は再び飛びながら道を消す

 ということになる。「再び」は「飛ぶ」という動詞とつながっている。作者にとって、鳥は飛ぶもの。「飛ぶ」という動詞と切り離しては存在しないものだから、ついつい「飛ぶ」を省略して「再び」だけで表現してしまったのだろう。
 では、

鳥は再び飛びながら道を消す

 は、どういう「意味」になるのか。
 鳥は「再び」どころか、何度でも繰り返し繰り返し飛ぶ。自分がつくった同じ道を飛ぶ。そして何度でも繰り返していると、道は空というよりも、鳥の「肉体」のなかに作られる。「肉体」で道をおぼえてしまう。
 人間でも同じ道を通い続けると、「肉体」が道をおぼえてしまい、無意識に曲がり角を曲がってしまう。そのために、その日は会社へいくのではないのに、知らないうちに会社に向かって歩いている、というようなこともある。これは「肉体」のなかに(足の中に)、無意識に「道が作られてしまっている」ためである。
 こうなると、道は、おぼえた(作った)というよりも、「予め知っている」のではないかと思えるくらいになる。鳥自身の「肉体」のなかに「道を作る(覚え込む)」ことで、鳥は空に作った道を消す、ということなのだろう。

鳥は再び飛びながら道を消す

 は、自分で「作った道」に頼らなくても、自分の「肉体の中にある道」を飛んで行ける。もう「道」は必要ではない。だから、「消す」ということなのだろう。

 あるいは、空を飛んでいるとき、そこには「空の道」があるのだが、鳥が飛び去るとその「空の道」は「消え去る」、そして「再び」、「道のない空」にもどる、ということかもしれない。
 鳥が飛び去ったあと、「無傷」の空が「再び」もどってくる。「無傷の空(道のない空)」というのは、この詩では明確に書かれていないが、鳥が「飛ぶ」のが作者にとってごく自然なことであるように、「空には道がない」ということが作者にはわかりきったことである。
 そして、この「空には道がない」というのは、私たち読者にとっても自然なことである。常識である。だからこそ、「空に道を作りながら飛んでいた鳥」という行、鳥が空に道を作るという認識の仕方に驚き、そこに詩を感じる。
 だから、その「わかりきったこと(空には道がない)」という状態に、空が「再び」もどる、という具合に、「再び」に別な動詞を結びつけて読み直すこともできると思う。
 このとき、
 「鳥が空高く道を作らないのは」という一行は、

鳥が空の道を消すのは

 と読み替えたい。
 鳥が空の道を消す。そうすると、空は「再び」、「無傷の」、つまり「道」のない空にもどる。鳥の作った道が消え去ったあと、夜になると星が出てきて、星が空に道を作る。その邪魔にならないように、鳥は道を消していく。
 このとき「道を作る」という動きは「鳥」と「星」によって共有され、繰り返される。「道を作る」という動きが「再び」おこなわれる。その繰り返しによって、「鳥も星も空に道を作る」ということが読者の「認識」(新しい事実)になる。
 詩のことばを少し動かしながら読むと、「鳥が空高く道を作らないのは」は「鳥が道を消すのは」ということになる。詩のことばは少しずつ入れ替わりながら、「意味」を明確にしていくものである。
 大事なことは、繰り返しひとは書く。少しずつ形を変えながら繰り返す。

 そう読むと、書き出しの「空に道があることを/鳥たちは予め知っている」は、また

空に道があることを
星たちは予め知っている

 にもなる。一度書かれたことばが、少し形をかえて「再び/繰り返される」ことで、鳥と星が同じものになり、それをつなぐ「人間(思想)」も明確になる。

 そんなことを思いながら、「原文」は読んでいないのだが、私なら

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 という具合に訳してみたいなあ、と思ったのだった。すこし余分なことばを書き加え、散文的に説明すれば、

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
(鳥は繰り返し飛ぶことで、空の道をおぼえてしまったから、それを消すのである)
鳥が空高く道を作らないのは
(鳥が空の道を消してしまうのは)
その上に星たちの行く道があるからだ
(夜には星たちが空に道を作るからだ)

 ということになる。
 あるいは、こんなふうにも「意訳」したい。

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 「再び」のかわりに「飛ぶ」という動詞を前行から引き継いで「再び」の代用にする。「再び」と「飛ぶ」は強烈に結びついているから、どちらかひとつをつかえば意味が通じるし、「再び」では「消す(消し去る)」と直接的に結びつかないからである。「飛び去る」と「消し去る」なら、「去る」ということばの繰り返しの中に「再び」を感じさせることもできると思う
 この場合、「鳥が空高く道を作らないのは」は先に書いたように「鳥が空高く(の)道を消し去るのは」という「意味」になる。
 また「再び」は、

鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
そうすると「再び」道のない空がもどってくる

 というふうにも補うことができる。この場合、詩には書かれていない「空は無傷のものである」という「常識(無意識)」どこかで補う必要があるとも思う。

 詩を読むとは、書かれていることばを読むと同時に、書かれていないことば、隠されていることば、作者の「無意識」を掘り起こしながら読むことである。

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姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)

2017-09-18 15:32:00 | 詩集
姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 2017年09月14日から09月17日まで、ソウルとピンチャンで「韓中日詩人フェスティバル」が開かれた。それを記念して「2017韓中日詩選集」が発行された。そのなかに、とても魅力的な詩がある。
 姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)

私がそっと手に取ったこの石を
生み出したのは川の水だろう。
丸くて平たいこの石からある思いが読み取れる。
堅固な暗闇の中でばたつく
得体の知れない飛翔の力を私は感じる。
手の中で息づく卵
鳥籠からたった今取り出した血の付いた卵のように
この中で目覚める宝石のような光と張り詰めた力が
私の血管に乗って伝わってくる。
左腕を槍のように伸ばし対岸の丘に向けて
右手をしばし曲げてから
力いっぱい放れば
水面は軽く石を跳ねて、跳ねて、さらに跳ねる。
見よ、流れる水の上に稲妻が走るように
花が咲く、咲く、咲く
石に唇をつける川の水よ
冷たく短い口づけ
水晶となって咲く虚無の花房よ。
私の手から飛んでいった石の意思が
花咲かせるその美しい水の言葉が
私にはわからない。
何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。

 川原での水切り遊び。だれにでもしたことがあるだろう。水面に滑るように小石を投げ、何回水面でジャンプするか。それを競ったことはだれにでもある体験だと思う。この詩は、そのことを書いているのだが、とても美しい。ことばが次々に変化していくところが感動的だ。
 「丸く平たい小石」の「丸く」が「卵」にかわる。そこから「鳥」が孵化し、飛び立ち、対岸へ飛んで行く。そのときの水面上に飛び散るしぶきを「花」にたとえている。鳥から、花への比喩の飛躍に美しい夢がある。ここがいちばんすばらしい。

花が咲く、咲く、咲く

 この一行に、私は傍線を引き、それから行頭に☆マークをつけて、あれこれ考え始める。この詩の感想を書きたい。どう書けば私が感じたことがことばになるか。そう考えながら、詩を読み直す。どこに感動したのか、ゆっくり読み直す。
 花の比喩に、なぜ、こころが震えたのか。
 比喩の多い詩、、比喩の詩と言ってしまえばそれでおしまいになりそうな詩になぜ感動したのか。
 書き出しの一行。

私がそっと手に取ったこの石を

 ここに「手」という「肉体」が描かれ、「取る」という「動詞」が動いている。このことばを読んだときから、私の「肉体」は動き始めている。
 「石」を「手に取る」。その動きを、私は私自身の「肉体」で追体験できる。石を手に取った記憶が「肉体」のなかからよみがえってくる。書かれているのは「姜の肉体」だが、そこに「私の肉体」が重なるようにして動く。自分の「体験」として、それを追いかけることができる。
 「丸くて平たい」形の「丸く」から「卵」を「手に取った」記憶がよみがえる。「肉体」がおぼえている。「鳥籠」で姜はどんな鳥を飼ったことがあるのか知らないが、私は鳩を飼ったことがある。鳩は卵を産む。その卵を「手に取って」みたこともある。その重さは、そこに「いのち」があるという重さだ。雛がかえり、飛べるようになるとどんなにうれしいだろうと、わくわくする。
 この感覚を姜は、

私の血管に乗って伝わってくる。

 と書いている。「私の血管に乗って伝わってくる」のなら、「私の思い」も「私の血管に乗って伝わっていく」。「卵」に伝わっていくはずである。そして、ふたつの「血(いのちのみなもと)」はつながる。交じりあう。やがて生まれてくる鳥は、ただの鳥ではない。姜は鳥になって生まれ変わる。その鳥には姜の血が流れている。さまざまな思いが流れている。
 石を投げる(放る)は、鳥になって飛んで行くでもある。
 ただほんとうの鳥ではなく、その鳥は比喩で、実際は石が水の上を飛び跳ねていく。
 夢と、比喩と、現実が交錯する。そして、その夢にも、比喩にも、現実にも、姜の「肉体」が深く関係している。肉体の動き、手に取る、手で包む、手で感じる、手で放る。手というか、右の掌だけではなく、石に触れていない左の手も投げるという動作に参加している。書かれていないが、足や、腰もいっしょに動いている。肉体のぜんぶが動いて、石を「放る(投げる)」。そのとき、石はただ投げられる物体ではなく、姜の思いが石になって飛んで行く。姜の肉体そのものが飛んで行く感じになる。
 水切りのしぶきを「一回、二回、三回」と数えるとき、「思い」はそのしぶきの場所まで飛んでゆき、自分自身の肉体もその場所まで飛んで行ってしまっている。川原にいることを忘れてしまう。
 この感じを、

私の手から飛んでいった石の意思が

 と姜は書くが、飛んで行ったのは「石の意思」ではなく、「姜の意思」なのだ。「石」と「姜」は一体になっている。
 人間は「肉体」だけではなく「精神」でもできている。「意思」も含んでいる。その「意思」が跳びながら、花を咲かせる。
 だから、それは「川の水」が開いた花であると同時に、「石」に託された姜「意思」が開かせた花であり、また姜の「意思」が開いた花でもある。こういうものは「区別」はできない。
 「比喩」。何かを「比喩」で表現するというときには、そこには人間の「精神(意思)」が動いている。その動いていたものが、ここで「花」という形に生まれ変わる。
 石が卵に、卵が鳥に、そして鳥が花に。
 「比喩」の自然な変化、そこに参加していく「肉体」と「動詞」。それが一体になっている。
 二行目にもどる。

生み出したのは川の水だろう。

 ここに「生み出す」という「動詞」がある。
 この「生み出す」という「動詞」を引き継いで、姜は石から卵を、卵から鳥を「生み出した」。その姜に応えるように、川の水は、こんどは「花」を「生み出した」。それは、ある意味では、姜への「返礼」である。
 日本のことばいえば、ここでは「相聞歌」が交わされている。川の水と姜が「石」を媒介にして、互いの心(意思)を打ち明けあっている。そういう風に読むこともできる。「相聞歌」であるからこそ、そこには「唇をつける」(キスをする)という「動詞」も加わってくる。「相聞歌」は、もう、この瞬間からセックスそのものでもある。
 セックスはエクスターにつながる。エクスタシーの瞬間に発することばをひとはおぼえてはない。何といっているのか「分からない」。分からないけれど、それをひとは記憶している。「記憶(する)」ということばを姜はつかっている。
 「記憶」は「意識(頭脳)」の「記憶」を指すことが多いが、「肉体の記憶」というものもある。「肉体がおぼえている」。たとえば、「泳ぐ」「自転車を漕ぐ」。こういうことは長い間やっていなくても「肉体」が勝手に反応して、溺れない、倒れずに走るということができる。
 石を投げる「水切り遊び」もまた「肉体の記憶」になる。投げるときの腕の動かし方、腰のひねり方。石を選ぶときの、掌の感覚。これはまた「石に対する記憶」でもある。どんな石を選んだか、という「記憶」。すべては渾然一体となっている。「渾然一体」は、ことばにはできない。
 ことばにできないから「分からない」というが、分からなくても「おぼえている」ということがある。
 素手で何ももっていない。でも、その素手には(掌には)記憶がある。

何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。

 私が「おぼえている」ということばであらわそうとしたものを、姜は「留まる」という動詞であらわしているように思う。「記憶」が「留まる」ことを「記憶する、おぼえている」という。

 多くのことを私は語りすぎたかもしれないが、まだまだ語り足りない。
 この詩には、ことばの「呼応」というものがたくさんある。
 「生み出す」と「卵」、「ばたつく」と「飛翔」、「飛翔」と「放る(放つ)」、「飛翔の力」と「張り詰めた力」、「血の付いた卵」と「目覚める宝石(のようにな光)」、「目覚める」と「血管に乗って心臓に伝わる(心臓を刺戟し、鼓動を激しくする)」、「暗闇」と「光」、「思いが読み取れる」と「記憶する」、「左手」と「右手」、「伸ばす」と「曲げる」。類義語の呼応、反対語の呼応が交錯する。この交錯が「音楽」となって響いてくる。この「音楽」は「音」そのものの響きあい、和音ではなく、肉体と意識の交錯する「無音の音楽」である。肉体と意識を動かすことで感じ取ることのできる音楽である。
 その「無音の交響楽」の豪華さとスピードに、私は酔いしれてしまった。



 この詩は、09月16日、38度線近くの会場で朗読された。
 そこに行くまで、この詩の「対岸」ということばは、もっぱら「川の向こう」という「意味」であった。私の知っている「川岸」(私のふるさとにもある川岸)であった。だからこそ、私はこの詩に私自身の「肉体の記憶」を重ねてしまったのだが。
 そうか、姜にとっては「対岸」は北朝鮮のことだったのか。
 うすうすとは感じていたのだが、北朝鮮のすぐそばまで来て朗読を聞くと、それがはっきりと実感できるものに変わる。「花=意思」がくっきりとみえてくる。
 いつでも「対岸」を姜は意識している。「水切りの石」のように、「ことば」を「対岸」にまで届けたい。水切りの石が跳びはねながら、ふたつをわけるもの(境界線、川、水)の上に「花」を咲かせながらつながるといい。
 そういうことを夢見ているのだとも思った。
 ほかにもたくさんのすばらしい詩があるが、この一篇の詩に出会えたのは、ほんとうに幸運だった。うれしかった。

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内閣支持率/民進党の問題点

2017-09-12 10:42:23 | 自民党憲法改正草案を読む
内閣支持率/民進党の問題点
            自民党憲法改正草案を読む/番外114(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月12日、西部版・14版)1面に内閣の支持率が「5割回復」という記事が載っている(世論調査)。4面(政治面)の解説では「北(朝鮮)対応で評価」という文字がおどっている。
 一方、民進党については、「前原氏に期待せず」60%という。
 私は内閣支持率がアップした理由は、北朝鮮の核問題より、民進党問題の方が大きいのではないかと思っている。
 つまずきの最初は「蓮舫の二重国籍問題」である。なぜ、「二重国籍」であることが問題なのか。日本の法律に従い、立候補をし、日本の選挙で国会議員に選ばれているのだから、「二重国籍」であることは、何の問題もないはずだ。
 「二重国籍」だと、何かのときに日本を裏切り、もうひとつの国籍の利益になる行動をするのではないか、ということが心配されているようだが、日本の国籍をもっていても日本を裏切るひとはいるだろう。
 もし蓮舫が台湾の国籍(日本は、台湾を「国」と認めていないから、国籍といえるかどうか、よくわからないが)ではなく、アメリカとの二重国籍だったら、同じことがおきたのか。
 逆に、「同盟国」アメリカとの「強いパイプ」ということで歓迎されたのではないのか。アメリカに「人脈」がある、と。
 そして「人脈」ということを中心にして考えれば、いろいろな国との人脈が多いほど、何かのときに「役立つ」ということがある。台湾との人脈、さらにそこからつながる中国との人脈というものが「役立つ」ということも絶対にあるはずだ。
 「二重国籍」だから人間として信じられないという「論理」は、どこかおかしい。
 「二重国籍」だから、その「パイプ」は有効だという「論理」と、「論理的」には同じであるはずだ。
 同じであるはずの「論理」が一方だけ強調されるのは、そこには「二重国籍」以外の論理が働いているということだろう。
 アジアへの蔑視、女性への蔑視が、どこかに隠れている。
 これを民進党は受け入れてしまった。
 「戸籍の開示」という個人情報への踏み込みまで侵してしまった。


 この個人情報への不当な関与、プライバシーの侵害を容認したことは、つづく山尾の不倫スキャンダルを受け入れることにつながった。
 山尾が不倫していたかどうか、そんなことが民進党とどういう関係にあるのか。当事者は山尾のつれあいであって、党は第三者である。関係がない。慰謝料とか、財産分与とか、親権とか、どの問題にも関わりようがない。
 どこから「情報」が流れたのかわからないが、「盗撮」とか「密告」があったということだろう。そういう行為を認め、さらにはそうした「情報」で人格攻撃をするということを民進党は受け入れた。「共謀罪」を成立させるための「要素」を受け入れた。「密告」と「監視」が、これからどんどん増えるだろう。それを民進とは「先取り」する形で受け入れた。
 こんなことをしていたら、国民の支持は離れる。

 民進党は、二人の女性議員を、いわば「失脚」させたのである。
 守り抜く方法はいろいろあるのに、なんの抵抗もしなかった。むしろ、進んで女性を追い落した。民進党内部に、女性蔑視の力がうごめいているのかもしれない。
 そう感じる人がいても不思議はないだろう。

 女性問題については、もうひとつ、大きなことがある。民進党とは直接関係がない。ある女性が強姦された。男には逮捕状まで出た。しかし、寸前になって執行されなかった。男が安倍の「知人」であることが「理由」であると言われている。
 この問題と、民進党は、どう向き合うか。女性の人権を守るために何をするか。
 そういうことが、これから問われるだろう。
 女性の人権問題は、北朝鮮の核問題に比較すると、重大視されていないが、人間の半分は女性である。人権問題は「日常」の問題である。これをおろそかにすると、社会は破綻する。
 核は一瞬にして世界を破壊する。「日常にひそむ差別」は、一瞬では世界を破壊しない。しかし、土台から世界をゆっくりと崩し始める。それは徐々にだから、気づきにくいが、そして気づいたときには取りかえしがつかないことになるのだが。

 いま起きている多くのことは、「差別」と関係している。
 安倍の支持者たちは、「差別される側」になりたくない。何とかして「差別する側」にまわりこみたいと願って行動しているようにみえる。非正規労働者をさげすみ、低所得者を「自己責任」とののしり、ののしることで「差別されない自分」というものを必死で維持している。経済至上主義(アベノミクス)にすがりついている。何の効果も上がっていないのに、安倍を支持すれば効果が自分に波及してくると夢見ている。
 このひずみの中へ入り込み、「差別される側」の怒りを組織化する方法を確立されることが野党にもとめられているのに、民進党は「差別される人」(苦しんでいる被害者)を切り捨てた。
 この影響は大きい。もう、立ち直れないだろう。だれも民進党には期待しないだろう。経営者予備軍の連合幹部が前原を応援するだけだろう。





 
#安倍を許さない 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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ポエムピース
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しばらく休みます。

2017-09-11 23:18:31 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。
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クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」(★★)

2017-09-10 20:33:32 | 映画
監督 クリストファー・ノーラン 出演 フィオン・ホワイトヘッド、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン

 よくも悪くもイギリスの映画というか、まあ、イギリス人が撮ると戦争映画もこうなるという見本のようなものだなあ。
 何がイギリスかといって、最後のチャーチルの「ことば」。新聞に書かれている「声明(たぶん演説を書き起こしたもの)」がイギリス。イギリスはシェークスピアの国だけあって、「ことば」だけが「事実」。チャーチルの演説がそれを端的にあらわしているが、もっとわかりやすいのが遊覧船での逸話。
 海で助けたイギリス兵と少年が船内でぶつかる。少年は大怪我をし、やがて死ぬ。イギリス兵は「少年は大丈夫か」と二度聞く。一度目、イギリス兵に怒っている青年が「大丈夫じゃない」と答える。二度目、多くのイギリス兵を救助する。船内がイギリス兵であふれかえる。少年は船室で死んでしまっている。このとき、青年は「大丈夫だ」と答える。嘘をつく。いま、少年と衝突したイギリス兵を動揺させても何にもならない。まだ生きている、大丈夫だと信じ込ませて、多くのイギリス兵を救助することの方が大切だから、そうする。このときの「嘘」は、青年にとっての「事実」よりも、イギリス兵にとっての「事実」を重視するということである。イギリス人だから「大丈夫だ」ということばを聞けば、それが「事実」になる。
 チャーチルの演説は、この延長にある。「撤退」を認める。ダンケルクの戦いは「敗北」だったと認める。だが、「敗北」を「事実」にはしない。「事実」のとらえ方はいろいろある。イギリス軍はドイツ軍に敗北した。だが、その敗北のさなかにあって、兵士だけではなく一般市民(遊覧船の船長ら)がイギリス兵の救出に全力を尽くした。そして33万人をダンケルクから救い出した。これは大きな成果(勝利)であるととらえなおす。33万人が死なずにすんだのである。戦争において勝利とは「生き残る」ことである。「生き残る」、そして何度でも戦いなおす。そういうことを、実に、力強く言いなおす。「生き残った、再び戦い、ヒトラーを倒す」ということを「ことば」で先取りし、「事実」にしてしまう。
 一種の「煽動」と言えるかもしれないけれど、さすがにシェークスピアの国だなあ、と感心してしまう。
 また、いま書いたような「劇的なことば」以外でも、いたるところで「ことば」が活躍する。引き潮で浜に座礁しているオランダ船。イギリス人が逃げ込む。満潮になって船が浮かぶのを待っている。その船が銃撃練習の「標的」になって、船隊に穴が空く。だれが穴を塞ぐか。そういう「議論」がちゃんと「ことば」でかわされる。ひとりまぎれ込んだフランス兵を問い詰めていくのも「ことば」である。イギリス人にとっては「ことば」が「事実」であり、「すべて」である。そういうことを感じさせてくれる。
 飛行機でも非常におもしろいシーンがある。「ことば」とは意識されにくいかもしれないが、ここがもしかするといちばんイギリスっぽいといえるかもしれない。ドイツ機からの攻撃を受け、燃料計器が故障する。そのとき、パイロットはどうするか。別の機体の操縦士に、どれだけ残っているか、聞く。聞くことで、燃料の残りを確認する。これは「合理的」といえば「合理的」だが、まだるっこしい。いっしょに飛んできて、いっしょに戦っている。そうであるなら、同僚に燃料がどれだけ残っているかを報告してもらわなくても、ただいっしょに行動すればいいだけである。同僚が「燃料がなくなった、引き返そう」と言えば、その指示に従えばいい。そういうことをしないで、何時何分、何パーセントの燃料が残っていると「ことば(数字)」で把握し続ける。これが、とてもとてもイギリス的。
 そして計器の故障していない飛行機のパイロットが「引き返すための燃料を残しておこう」と言っていたにもかかわらず、燃料が切れてしまうまで戦い続け、浜辺に不時着するというのも、とてもおもしろい。ここでは「ことば」が動いていない。「ことば」を無視して、人間が行動している。
 これは、だから、私がいままで書いてきたことを、完全に覆す行動でもある。覆すものとして、とらえなおすことを迫ってくる。
 イギリス人にとって「ことば」が「事実」だが、イギリス人は「事実」である「ことば」に従うわけではない。「ことばの予測」にとらわれずに行動する。行動したあとで、おきたことを「ことば」によって「事実」にしていく、ということをしている。
 と、書くと。
 あ、チャーチルの演説にもどるのかなあ。
 常に行動が先にある。行動したあとで、行動を「ことば」でとらえなおして、共有できる「事実」をつくる。それが政治家(リーダー)の仕事というわけか。
 (日本の政治の現場で動いている「ことば」と比較すると、その違いに唖然とする。)

 戦闘シーンが迫力がある、という評判だったが、私は「ことば」の動きの方にとてもひかれた。
 ユナイテッドシネマ・キャナルシティのIMAX劇場(12スクリーン)で見たのだが、映像には特に迫力を感じなかった。画面が大きいだけである。また音が非常に大きくて、私には耐えられなかった。たまたまイヤホンをもっていたので、イヤホンを耳栓がわりにしたが効果はなかった。映画館を出ると、頭痛がしてしまった。
                          (2017年09月10日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』

2017-09-09 07:19:25 | 詩集
横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』(モノクローム・プロジェクト、2017年07月13日発行、らんか社発売)

 横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』の「Fairy-Tail -おとぎ話と妖精の粉-』に、こういう行がある。

素肌のままシーツに身体を横たえて、蓄積された自分の匂いを嗅ぐ。

 私は、こういう一行がとても好きだ。「蓄積された」に説得力がある。自分の匂いに気づくひとは少ない。いつも嗅いでいるので気がつかない。匂いの記憶が肉体に蓄積されているためである。
 これを逆手にとって(?)、自分の肉体以外のもの(シーツ)に「蓄積された」ととらえるとき、まるで自分の肉体がシーツになったような、シーツと自分の肉体が見分けがつかなくなったような錯覚に陥る。
 どう書いていいのかわからないが、「肉体」が更新された、という感じになる。
 この行は、

常に剥がれ続けるかつての自分であったものたちが雪に凍る。

 と引き継がれる。「匂い」は「剥がれ続ける」ということばで言いなおされる。
 「匂い」というのは私にとっては「肉体」の内部からあふれてくるものだが、横山は「剥がれる」という動詞でとらえなおす。「内部」というよりも「外部」が「剥がれる」。「内部が剥がれる」という言い方がないわけではないが、「内部」が「剥がれる」では、「シーツ」と接触点がなく、「シーツ」に匂いが「蓄積する」ということもないだろう。
 もっとも、新しいシーツに身を横たえたとき、その新鮮な感触のために、「肉体の内部に蓄積されたもの、内部に剥がれ続けたもの、剥がれ続け蓄積したもの」が匂う、ということはあるかもしれないが。
 いずれにしろ、ここまでは、ことばの運動として納得ができる。つまり、私の肉体は横山のことばを「肉体」で追いかけることができる。ことばを読むとき、私の「肉体」は動く。そして横山の「ことばの肉体」と交わる。私はこれを「ことばのセックス」と呼んでいるのだが……。
 このあと、しかし、私はついていけなくなる。

その様子はとても幻想的でありまた幻想であり、だから敢えて暗闇に火を灯そうとする。手探り。古びた燐寸。甘い香りの中にも妖精は住んでいる。この妖精は妖精であるがゆえに出会うことはない。

 「幻想的」「幻想」は「事実」ではない、ということ。「錯覚」と言いなおせば「意識に起きた事実」ということになる。そこには「肉体」がまだ存在する。「火を灯す」には「灯す」という「動詞」がある。「手探り」には「探る」という「動詞」がある。
 しかし、「妖精」はどうだろうか。「住んでいる」という「動詞」が「肉体」を刺戟するが、どうも私には納得できない。「妖精」というものを見たことがないから、「住んでいる」と「動詞」を押しつけられても納得できない。
 「出会うことはない」と「肉体」と完全に分離されても、ねえ。
 その「出会うことはない」の直前の「……であるがゆえに」という「論理」のことばが、また、とてもうさんくさい。
 ここに「論理」というものの「でたらめさ」が隠れている。「論理」というのは、自分の頭脳の都合のいいように「事実」をねじ曲げる力のことである。「妖精」は現実には存在しない。それを「……であるがゆえに」という論理を持ち込むことで「頭」のなかに引き込み、「出会うことはない」という「事実」で「現実」にしてしまう。(出会わないから、存在していなくても存在していると言い張ることができる。不在の証明ができないことをいいことに、存在を主張できる。)「現実」として動いているのは「……であるがゆえに」という「論理」だけであり、「肉体」は無関係になる。
 これが横山のことばの運動の特徴と言えば言えるのかもしれないが、私はこういう運動を好まない。

隙間なく敷き詰められたコンクリート。踏みしめれば硬い反発が身体を浮かせる。

 こういう「肉体」でもう一度確かめなおしたい美しい行もあるのだが、「肉体」が最後まで「肉体」として動いていかない。「肉体」が途切れる。

 まあ、「途切れる」をキーワードにして、横山のことばをとらえなおせば、また違ったことを語ることができるとは思うけれど。
 たとえば「蓄積された自分の匂いを嗅ぐ」の「蓄積された(蓄積する)」という「動詞」も、それは「肉体」自身の動きではなく、対象を「頭」で整えなおすときに明確になる「動詞」であると言いなおすことができる。横山は最初から「肉体」と「頭」の衝突を描いている。「肉体」と「頭」の衝突によって始まる新しいことばの運動がここにある、ということもできる。
 というようなことを書きながら、「論理」は、いつでもいいかげんなものであるなあ、と私再びは思ったりする。
 で。
 思ったりはするのだけれど、ついでに「補足」したくもなる。「肉体」と「頭」の衝突というか、そういうものから始まる新しい運動というとき、私が何を指しているのか、具体的に書いておきたいとも思う。
 「序詩」の最初の部分。

あらたなゆきが
ふきんこうな はかりのうえを まう
ひらかれたもじのように
そらをそらんじて
ふいにあしをいれて
みじろぎもせずに

 二行目「ふきんこうな はかり」はとても魅力的である。「はかり」は「均衡」を中心にして動いている。この動きに「肉体」を重ねることができる。私たちは両手に別々のものを乗せ、バランスをとるようにして右の方が重い、いや左が重いと判断することができる。自分の「肉体」を「はかり」にしているわけである。「均衡」は「肉体」のなかに存在する。「均衡」自体が「肉体」である。
 でも、そこに「不均衡」という「頭(判断)」をいきなりぶつけてくる。そうすると、私の「肉体」のなかにある「はかり(均衡感覚)」は、どきりとする。驚く。この衝撃から、たしかに詩は始まると思う。
 こういうところを横山のことばが狙っているということがわかる。
 でも、これが

はらはらと まう
げんしのはならびらを
ふきあげる

 「げんし」は「原子」か「原始」か。どちらともあてはめることができるのは「げんし」が他のことばと綿密に結ばれていない(関係を持っていない)、つまりことばとことばがまじわって、その結果として生まれてきたことばではないからである。
 こういう「肉体」だけではとらえられないもの、「頭」がかってに引き寄せてしまうことば(論理がかってに捏造する世界)へと変化していくと、私はおもしろいとは感じなくなる。
 私がおもしろいと感じるのは、いつでも「肉体」が動いている部分である。
 好きな行もたくさんあるが、いやだなあと感じる行もたくさんある。そういう詩集である。



そして彼女はいった―風が邪魔した。 (ブックレット詩集2)
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らんか社
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岡田哲也『花もやい』

2017-09-08 11:06:46 | 詩集
 岡田哲也『花もやい』を、あれについて書こうか、これについて書こうか考えながら読み進んで、「おるすばん」まできて、私の気持ちががらりとかわった。

げんかんの とを あけたら
ただいま
と いってごらん

でんきは きえているけど
おかえり
と へんじがするよ

おかしいな だれかいるのかな
どきり
と したら
もいちど いってごらん

ただいま

すると くらやみが ゆらめいて
おつかれさま
と こたえるよ

おるすばん が いるんだよ
だから
さむいとき や
くらいときほど
おおきなこえ だすんだよ

 「ひらがな」がなつかしくて、あたたかい。あ、この詩について何か書きたいと思った。説明も何もいらない詩だと「わかる」。けれど、この「わかる」を別のことばで言えたらどんなにうれしい気持ちになれるだろう。
 また読み進むと「いろりばた」という作品がある。これも「ひらがな」で書かれている。この詩も、なつかしくて、あたたかい。

いろりばたで わたしと ひとりのおんなと うらわかい
おんなのこが ひをかこんでいる ときおり おんなのこ
は わらいころげ それをおんなはたしなめたり たしな
めるくせに みずからもわらったり わたしも それをな
がめては かおを ほころばせている

まるで さんぼんのまきが いっぽんになってもえている
あるいは おたがいの なつかしい ぜんせのひととであ
ってる そんなかんじで こおったきゃべつのような わ
たしのむねのあたりも みょうにあたたかい

 少し説明っぽい。一行目の「うらわかい」という修飾語にはつまずくが、「わらいころげ」から始まる描写が、あ、こういう情景をおぼえている、となつかしくなる。
 二連目の「さんぼんのまきが いっぽんになってもえている」はとても美しい。言われてみて、はじめて思い出すことができる光景だ。明るい炎のなかで三本が一本になって燃える、その統一感。「一本になる」という動詞で語られている。
 でも、「統一感」ということばは、少し固苦しい。「一本になる」というのも、すこし「理」が強すぎるかなあ。
 もっと違うことばがあるはずだ。岡田の「キーワード」がどこかにあるはずだ。
 「雨糸」という作品。

天と地を
糸でつないで 雨が降る

窓ガラスごし 雨を見てると
この世が水槽か
わたしが魚か わからなくなる

水族館のイルカが 膚で感じるのは
人の視線だろうか
塩の薄さだろうか それとも
消毒くさい海の匂いだろうか

地と天を
人がつないで 雨が降る

 書き出しは「理」が強いかなあ。
 でも三連目はいいなあ。「理」が動いてはいるのだが、岡田が「イルカ」になっている感じがする。二連目の言い直しというか、二連目を「深めた」のが三連目なのだが、うーん、水族館へイルカを見に行きたい、イルカが何を感じているのか自分でも確かめたいという欲望に襲われる。
 で、この「イルカ」と「わたし(岡田)」の「一体感」はどこからきているのか。
 二連目には「わからなくなる」ということばがある。イルカと岡田の区別がわからなくなる。これが「一体感」。
 「いろりばた」では「わたし」と「おんな」と「おんなのこ」が、やはり「一体感」として描かれていた。「さんぼんのまきが いっぽんになって」と象徴的に書かれていた。その言い方を借りると、「イルカとわたしが一匹になって」になるのか。いや、おかしいね。「岡田がイルカになって」がいちばん近いのだけれど、それは「別々のもの」が「ひとつになる」という感じとは違うなあ。
 どう言いなおせばいいのだろう。
 そう思って読み直すと、一連目、四連目に「つないで」ということばがあるのに気づく。微妙に、その周囲のことばが違う。

天と地を
糸でつないで 雨が降る

地と天を
人がつないで 雨が降る

 「天と地」が「地と天」と言いなおされ、「糸」が「人」と言いなおされている。一連目は完全に「比喩」だが、四連目は「比喩」を超える。「人がつないで」の「人」は岡田と置き換えることができる。人が何かと何かをつなぐ。両手でふたつのものをつかめば、人はふたつのものを「つなぐ」ことができる。「ひとつ」にすることができる。
 「さんぼんのまきが いっぽんになって」ではなく、「さんぼんのまきを いっぽんにして」ということを、人間はすることができる。人の行為、自分の「動詞」として「肉体」を動かすことができる。
 岡田のキーワードは、この「つなぐ」だな、と私は思った。
 かけはなれたものを、つなぐ。イルカと自分をつなぐ。「気持ち」をつなぐ。「気持ち」をつないで、「気持ち」がイルカになると、「肉体」もイルカになる。それは、自分自身をイルカに「する」ということでもある。

 で。
 最初の「おるすばん」にもどる。
 「ただいま」という「声」は、たとえばお母さんと子供を「つなぐ」。家の中にお母さんがいなくても、「(お母さん)ただいま」と言えば、「気持ち」がつながる。母はどこかで、その子供の声を聞く。いま、家に帰って「ただいま」と言った。その声が聞こえる。
 ことばが、声が、その時間を呼び寄せ、それを「事実」にする。


詩集 花もやい
岡田 哲也
花乱社
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佐川亜紀『さんざめく種』

2017-09-07 11:32:00 | 詩集
佐川亜紀『さんざめく種』(土曜美術出版販売、2017年08月15日発行)

 時代、現実とどう向き合うか。どうことばにするか。むずかしい問題である。時代、現実の方がことばより先に動くからである。それをただ追いかけるのではなく、突き破るようにしてことばを動かし、見落としている「時代」「現実」を「いま」「ここ」として提出する。見落としているものは、すでにあるも、つまり「過去」でもある。「過去」を引っ張りだし、「未来」として噴出させる、露呈させる。そういうことができたとき、時代、現実をとらえることができたといえるかもしれない。
 「ルージュ」にその「手がかり」のようなものを見た。

津波に襲われた町で 黒い泥の中から 黒い箱
思いがけなく なまなましくきらめくものが
たくさん出て来た
ローズピンク オレンジアミューズ
レッドセダクション クリスタルベージュ
まだ生きている肉片みたいに

 津波の被災地で、だれかがつかっていた口紅の箱が出てきた。そこに書かれている「色」を私は具体的には知らない。だからこそ、そこに「肉体」を感じる。私の知らない「色」を知っていて、その「色」に願いをかけていたひとがいる。
 それは「まだ生きている」。
 この口紅、この色で、きょうはこういう生き方をする。生き方をしたい。欲望が生きている。津波以前、つまり「過去」にその女性は、そういう風に生きていた。(私の想像は「誤読」だが、つまり間違いを多く含んでいるだろうけれど。)ひとは生きる欲望をもっている。そして、それを自分にできる形で実現する。口紅にも、そういうものが含まれている。
 それを奪ったのが津波。それにともなうさまざまなことがら。
 それは「過去」であるだけではない。これからも起きるかもしれないこと、つまり「未来」でもある。
 だから佐川は書くのだ。
 「未来」をふたたび津波や原発事故で奪わさせてはいけない。ひとのいのち、生きる欲望を奪わさせてはいけない。
 その叫びを、

ローズピンク オレンジアミューズ
レッドセダクション クリスタルベージュ

 と、具体的に書く、その口紅の色に感じた。佐川はそれを識別できる。つまり、それをつかっているひとの欲望を「共有」している。
 こういうことばが、私は好きだ。
 
 「聖なる泥/聖なる火」には、こういう行がある。

死者たちの川があふれる
ヒロシマの元安川の腕が流れてきて
釜石の足が流れてきて
南相馬の腹が流れてきて
仙台の胸が流れてきて
水に書く 消えても 何度も泥水に書く

 「川」は「流れる」という動詞になって「世界」を結びつける。「東京電力福島第一原発」が広島と福島を結びつけるだけではなく、「川(水)」が「流れる」という動詞が、水といっしょに「流す」ものを結びつけ、さらに離れたいくつもの「土地」を結びつける。
 この「結びつき」は「書く」という動詞で強くなる。「現実」になる。
 この「現実」を「水」は消そうとする。「泥水」も覆い隠そうとする。けれども、何度でも「書く」のである。「消えても」「書く」のである。
 「消えても」は「消されても」でもある。
 「消そうとする/水」は、「泥水」よりも、もっと暴力的かもしれない。「泥水」には奪われた「過去」がびっしりとつまっている。「消そうとする/水」は「未来」を奪っていく。
 この畳みかけるようなリズムも、私は好きである。
 一方、同じ詩の中の、次の部分。

泥の中に
骨が 箸が 乳が
泥の中の子宮 生まれる時
死ぬ時の 泥になる時の官能
そうしたものもすでにクラウド化されていて

 ここに出てくる「クラウド化(される/する)」ということばは、どうつかみ取るべきなのか。私は困惑する。
 それまでのことば、たとえば「死ぬ時の 泥になる時の官能」というのは、強烈な矛盾であり、個人によって(肉体によって)つかみとられる「事実」である。さまざまな口紅の色や、破壊された肉体の、腕、足、腹に通じるものである。
 「クラウド化(される/する)」は、どうか。
 個人というよりも、個人を否定する力によって動いている。私たちがそういう力によって支配されているということは理解できるが、理解できるからこそ、そういう力と向き合う別のことばがほしいと私は思う。
 詩の中にふいにまぎれこむ「意味」。それも「個人」を否定する力が押しつけてくる「意味」というものを、ときどき感じてしまう.「現実」を描くにしろ、そういう「意味」をたたき壊しながら書かないと、せっかくの「肉体」が奪われしまう、と私は感じる。

 「青い馬」と「魚をみごもった日」は、いのちを引き継ぐものの「力」を感じさせてくれる。いのちを引き継ぐのは力がいることなのだと教えてくれる。


さんざめく種
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土曜美術社出版販売
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(26)

2017-09-07 10:17:55 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(26)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「メモへメモから--友人たちへ」は、友人たちの詩に触れている。あるいは「詩にならない詩」(6行目)について書いている。詩なのだが、詩になりきれていない。だからこそ、詩であるという部分に。
 「悲し(律詩)」に触れたとき、「出来事は遅れてあらわれる/ことばは遅れてあらわれるということについて書いたが、それは多くの人の「実感」なのだと思う。
 ということを書けば繰り返しになる。何度でも繰り返して書かなければならないのこともあるのだけれど、違うことを書いておきたい。

秋の虫たちは涸れて、編集後記のなかで、
鳴いています。 鈴虫……

 あれは、何という「同人雑誌」だったろうか。私も「編集後記」のなかで秋の虫が鳴いているという文章にであったことがある。最近だったと思う。その編集後記を書いた「友人」のことを藤井は思っているのかもしれないが。
 ただそれだけではなく、たぶん藤井は「編集後記」ということばを詩の中に書きたかったのだ。
 「確信」はないが、私の「直感」はそう言っている。
 ふつうは詩の中に入ってこないことば。「編集後記」なのだから、編集したあと、「奥付」の近くに置かれることばだ。しかも、「編集後記」というのは「内容」のことではなく、その「入れ物」のことである。
 うーん、「編集後記」か。美しいことばだなあ。音楽があるなあ、と私は思う。「意味」をとおりこして、「音楽」を感じてしまう。
 似たようなことばに、「物語」がある。藤井の詩には「物語」ということばがしばしば出てくる。

鳴く声ぞ する」。 すると物語から、
立ち上がる兵部卿宮。 私の魂、
私の魂。 草むらがどんなに悲しい
物語に濡れても、と思いながら

 ここでも「物語」は「意味/内容」というよりも「入れ物」である。「物語」のなかで別のことばが動いている。「編集後記」のなかで別のことばが動いているように。
 藤井は、こういう「ことば」同士の関係に強く動かされる性質を持っていると思う。
 こういう例もある。

「ぼくの地方では
せんそうのような有様で
じつにしずかに放射能がはびこっている
そしてその放射能さえ上書き更新されて
いつも新しい」と高坂さん。

 ここに出てくる「上書き更新」。高坂の書いている「内容」にももちろん反応しているが(それを問題にしているが)、藤井がこの数行を引用しているのは「内容」よりも、そこに「上書き更新」ということばがあるからだ、と私は感じる。「編集後記」と同じように「上書き更新」ということばを書きたかったのだ。

 これは、いったい、どういうことだろう。
 「編集後記」「物語」「上書き更新」。ここには、いったい何が隠れているのか。
 「名詞」ではなく、「動詞」に書き直してみると、わかることがある。
 「編集後記」は「編集を終わったあとで書き記す」、「物語」は「もの(ひと)が動いたあとで、その動き(こと)を語る」、「上書き更新する」とは「あることが書かれたあとで、さらに書く」。
 どのことばで、「あとで書く/語る」という動詞が隠れている。「あとで、ことばにする」という行為が隠れている。「あとで、書く(ことばにする)」ということのなかに、藤井は人間の「思想」をつかみとっているのだと思う。「あとで、書く(ことばにする)」という行為のなかにある人間性に直感的に触れて、そのことを書きたいと思っているのだろう。
 タイトルの「メモへメモから」というときの「メモ」は作品として整えられる前の「ことば」。そはれ「あとで、書く(ことばにする)」ということを含んでいる。
 あることが「ことば」になり、それがさらに語りなおされる。書き加えられる。それは「引き継がれる(語り継がれる)」ということでもある。
 そういう「動詞」を、藤井は読み取っているのかもしれない。

 詩は、こう閉じられる。

「無味無臭無色で降ってくる怒り」、五十嵐さん。
五月のブルガリアでは、タクシーの運転手が、
降りようとする私どもに小さな声で、
心配そうにひと言、「フ、ク、シ、マ」。

 語り継ぎ方はいろいろある。「小さな声」「心配そうなひと言」。それは「作品」にならずに消えていく「声」かもしれない。その「声」を引き継ぐ。
 あの運転手の声も、何かを引き継いでいる。

 この作品のあとに、藤井はいわゆる「あとがき」を書いているが、この詩そのものが「あとがき(編集後記)」のようにも読むことができる。



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藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)

2017-09-06 09:15:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「悲し(律詩)」に、

十九人を喪うわれら、何を愛(かなし)と言おう。

 という行がある。相模原障害者施設殺傷事件のことを書いているのだと思う。「十九人」という数字が事件を連想させる。
 書き出しは、

人のさがはここに行きつくのか、家族の心痛を知らず。
ことばよ、空しく駆け去って応えはどこにもない。

 とある。
 
 こういう大事件に、詩は(詩のことばは)どう向き合うことができるのか。
 八行という「律詩」の形式を借りて動いたことばのあとに、こう書かれている。

(反辞)
われらとは、現代に律詩とは。 立ち向かうとは。

 「現代に律詩とは」がつらい。現代詩があるのに「律詩」を借りてこなければならないのはなぜか。
 ことばは、いまここにあるものと、簡単には「立ち向かう」ことができない。いまここできていること、しかもそれがいままで体験したことのないことの場合は、ことばは動いてくれない。
 私は阪神大震災を描いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。読み方はいろいろできるだろうが、私は、ある出来事がほんとうの姿をみせるまでには時間がかかる。それがことばになって、ほんとうの姿をみせるのは、「出来事」に遅れるしかない、と読んだ。「ことばは遅れてあらわれる」と読んだ。ひとは、「いま/ここ」で起きたことを「過去」のことばのなかに探し出す。確実に生きていたことばに頼って、「いま/ここ」をとらえなおすしかない。すでにあったことばが「いま/ここ」に遅れてあらわれる。そのとき、はじめて、ひとは何が起きたのかわかる。何が起きたのか「わかる」ためには、「過去」をていねいに探るしかない。
 そう藤井が書いているわけではないが、私はそんなふうに感じた。

 何をしていいかわからなくなったとき、ことばがわからなくなったとき、ことばがこれまでどんなふうに動いてきたのか、それを探るしかないのである。「いま」を語ることばがみつからなくても、ことばは「過去」の中になかにしかない。
 古典から現代まで、文学のことばを往復する藤井の、ことばにかける祈りを感じる。
 この詩には、ことばへの「祈り」のようなものがある。

美しい小弓を持って
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是枝裕和監督「三度目の殺人」(★★★★)

2017-09-06 08:04:42 | 映画
監督 是枝裕和 出演 福山雅治、役所広司、広瀬すず

 私は、こういう「謎解き」映画は好きではない。是枝の作品では「歩いても歩いても」のような、日常を描いたものが好きなのだが。
 あ、でもこれは問題提起として大傑作。
 真実とは何かを「裁判」をテーマに描ききっている。
 いちばんの見どころは、福山雅治と役所広司の、刑務所での面会シーン。ガラス(プラスチック?)の仕切りを挟んで二人が向き合い、対話する。ガラスなので、そこに顔が映る。その映った顔と、もうひとりの顔が重なる。ひとりの実像と、もうひとりの虚像(?)が重なる。これが、非常にスリリングである。
 「ひとつの殺人事件」をめぐって、「犯人」と「弁護士」が重なってしまう。
 重なり方には「ふたつ」ある。
 最初は、映画の中ほどから後半にかけてか。福山雅治が右側にいる。その福山雅治の顔を覗き込むように役所広司が顔をガラスに近づけていく。役所広司の目の中の光(マンガで言う星)が福山雅治の目に重なるようにして揺れる。福山雅治が役所広司の「気迫」に乗っ取られるという感じ。
 これをとおして、実際、福山雅治は役所広司に「人間」として乗っ取られる。そのきっかけになる。それまで役所広司は殺人を自白している。福山雅治は、いかに量刑を軽くするかという「法廷戦術」を展開しようとしていた。しかし、この重なり合いのあと、役所広司は「殺人はしていない。無実だ」と訴える。「自白すれば死刑にならずにすむ」といわれたので、そういったまでだと主張を転換する。
 これに、隠されていたいろいろな事実(人間関係)が加わるのだが、それはまあ、見てのお楽しみ。劇的な展開のあと、裁判があり、役所広司は結局「死刑判決」を受ける。決着がつく。
 このあとに、福山雅治は役所広司に最後の面会にゆく。そこでもガラス越しに二人の顔が重なる。こんどは福山雅治は左側。つまり、右を向いている。この顔に、同じく右を向いた役所広司の顔が重なる。ふたりは「同じ方向」を向いている。しかし、微妙にずれる。非常に近づいたかと思うと、すーっと離れていく。離れていくけれど、重なっている。
 ここにこの映画の主張(哲学)が凝縮している。
 ふたりは同じように「事件」を見ている。同じ側から見ている。そこにもうひとりの主人公の広瀬すずがからんでいる。
 何のために、役所広司は「無罪」を主張したのか。その「解釈」が、福山雅治と役所広司では違う。その「違い」を役所広司が受けれ入れたような印象を与える形で描かれている。(これは、受け取り方次第。)
 書くことは、いろいろあるし、いろいろにも書けるが、省略する。ぜひ、見てほしい。ひとは、何をどう考えるか。何のために、そう考えるのか。そのとき、そのひとは、どういう存在なのか。
 複雑である。そこが、非常におもしろい。
 このおもしろさは役所広司の演技に負うところが非常に大きい。主張が二転三転するのだが、どの主張も「不透明な手触り」として迫ってくる。他人を見る目も、自分自身を見る目も変化する。その七変化がなまなましい。
 それにしてもガラス越しのシーンの演技はたいへんだろうなあ。演じているふたりには相手は見えても、ガラス越しにどう映っているかは見えない。その見えない部分を重ね合わせるのだから、すごいとしかいいようがない。
 ガラス越しのふたりの演技を見るだけで、この映画に満足できる。この映像だけで全編が描ききれたら★10個。
 ベルリン(ベネチア?)映画祭の審査結果が楽しみである。
              (2017年09月05日、ソラリアシネマ1、TNC試写会)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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