詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」(★★★★★)

2017-09-05 18:10:12 | 映画
監督 ジム・ジャームッシュ 出演 アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ

 はじまってほどないシーンに息をのんだ。アダム・ドライバーが運転するバスのフロントグラスにパターソンの街が映る。バスが進んでいくと、フロントガラスに映っていたビルが実景として登場する。実景の前に、いわば虚像があり、虚像が実景を呼び寄せるようにして風景が展開する。これはバスの進行方向にあるものがバスのフロントガラスに映ることで生じる現象なのだが、とても美しく、またこの映画そのものを象徴するもののように思えた。
 アダム・ドライバーはバスの運転手をしながら詩を書いている。詩集もたくさん読んでいる。その生活を、いわば「詩的」にとらえているのだが、その「詩」とは何かを語るひとつの要素が、フロントガラスの虚像(鏡像)と実景に凝縮している。
 実景ではなく、それをとらえる虚(像)がある。「虚」を「ことば」と置き換えるとどうなるだろうか。「ことば」をさらに「詩」と置き換えるとどうなるだろうか。詩が先にあって、そのあとに実景がことばにあわせるようにして登場してくる。「ことば(詩)」は現実を先取りする。詩にはそういう力がある。
 これはストーリーそのものとしても展開される。アダム・ドライバーと暮らしているゴルシフテ・ファラハニは夢を見たと語る。子供がいる。ふたりだ。双子だ。子供が双子だったらどんなに楽しいだろう、と言う。そのことばにアダム・ドライバーは共感したのだろう。行く先々で「双子」を見る。最初に登場するのはベンチに腰掛けている老人。それからバーで玉突きをする兄弟。兄弟というけれど、どうみても双子にしか見えない。詩を書いている少女がいて、彼女が待っていた母と姉(妹)がやってくると、その姉はやはり双子のようだ。双子ではないけれど、バスのなかで女にもてたときの話をするふたりは、気持ちが「双子」だ。ほかにもバスのなかで話す二人が出てくるが、気持ちが「友人」をとおりこして「双子」という感じ。そして、その「双子」の感じというのは、ひとりが先にあらわれて、そのあとそっくりのもうひとりがあらわれる、という形で展開する。
 この関係を「双子」にとらわれずに、向き合った「ふたり」ととらえなおすと、それはアダム・ドライバーとゴルシフテ・ファラハニの関係にもなる。映画はベッドで目覚めるふたりのシーンから始まるが、そのふたりは「向き合っている」。背中をくっつけているときもまた「向き合っている」と言える。
 アダム・ドライバーは詩を書いているが、自分自身の「欲望」をことばにすることはない。一方、ゴルシフテ・ファラハニは詩を書かないが、「欲望」をことばにし、それを実行していく。その姿は、だからアダム・ドライバーをどこかで代弁している。ゴルシフテ・ファラハニはアダム・ドライバーに詩集を出すことを勧める。アダム・ドライバーはかたくなに拒んでいるが、きっとひそかに詩集を出すことを夢見ている。ゴルシフテ・ファラハニのように、「欲望」をことばにし、それを実現していくことができたらどんなにいいだろうとひそかに思っているだと思う。
 映画のなかで最初に紹介される詩、マッチの詩のなかで「メガホン」のようになった文字のことが語られるが、その詩を読んでいないはずのゴルシフテ・ファラハニが、「あのメガホンのようになった文字のことも書いたの?」と問いかけるところが印象的だ。ふたりは「語りあわない」部分でつながっている。「ことば」を共有していることが暗示されている。
 映画の最後では、「ことば」が現実を先取りするというのとは逆の詩の「力」も紹介されている。アダム・ドライバーがおじいさんが歌ってくれた歌を思い出す。歌には「詩」がある。そこではさまざまなことが語られているのに、アダム・ドライバーが思い出すのはある一行(ここでは書かない)。詩は必ずしも全部がひとをとりこにするわけではない。一行がなぜかいつも思い出されてしまう。思い出すのではなく、まるで向こうから語りかけてくるみたい。
 そうなのだと思う。「先取り」しているように見えても、それは「先取り」ではなく、先に存在しているものが、向こうからやってくるものなのだ。あまりに突然なので、すでに存在していたものが姿をあらわしただけということに気がつかない。
 最後のエピソードに永瀬正敏が登場する。なぜ、そこに永瀬正敏が? 日本人が? しかもアダム・ドライバーの好きな詩人の詩集を持って? それは突然のできごとだけれど、やはり「過去」からやってきたのである。時間をこえて、「いま」に「過去」が噴出し、それが「未来」になってゆく。
 詩だけではなく、これは文学に共通することなのかもしれないけれど。
 こういう刺戟的なことを、ジム・ジャームッシュは「日常」のなかにぐいと沈潜させて描いている。とても美しい。
 あ、書きそびれたがゴルシフテ・ファラハニの描く「絵」がとてもおもしろい。飼ってている犬をモチーフにした絵など、思わず笑ってしまうし、カーテンの模様なども素敵だ。「情報」がもりだくさんだけれど、「情報量」をアピールするというより、その「情報」をささえる日常を静かに浮かび上がらせているが、とてもいい。

                      (KBCシネマ1、2017年09月05日)

 *

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(24)

2017-09-05 09:49:19 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(24)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「転轍--希望の終電」は、

操車場を水田に、しないでくだ、さーい 田遊びを、中止し、まーす

 と始まる。「さーい」「まーす」は「紫式部さーん」の「さーん」と同じもの。「意味」ではなく「音」が動いている。「音」の中にこそ「意味」があるという藤井の「肉体の嗜好」をあらわしていると思う。「肉体の嗜好」は「頭の思考」よりも優先する。「嗜好」は「思考」にかわる。「脳(頭)」というのは、「頭(脳)」に都合のいいように、すべてを整える。「嗜好」にすぎないものを「思考」と言い張り、論理化する。

 で、それじゃあ、「さーい」「まーす」はどう論理化されているかというと。

あぜはぶっこわ、してよいでーす すさのーさん うまをさかはぎにし、まーす
なわしろにまきちらかした農薬のかわりに 馬からぶちのもようをはぎ取って
きれいに投げ入れてくだ、さーい 二枚の板をならべて、落書(らくしょ)に

 とか、

それでも、それでもあなたはいけにえがほしいですかあ むすめさんのうでが地面のしたから
突き出され、突き出され、ごこうしゆいあみだ、ごこうしゆいあみだ、かくすため
かいづかの貝いちまいいちまい かぞえるご詠歌、でーす お大師さまが戸板に乗せられ

 とか、なんでもかんでもがつながっていく。つなげていく。それを可能にするのが「音」である。響きである。
 途中に出てくる「ご詠歌」。私は、その実際を知らないので信者から叱られるかもしれないが、「ご詠歌」の「意味」を完全に理解し、歌っている人は少ないだろう。歌の内容よりも、歌うことによってひととつながるということの方が大事なのだろう。いっしょに歌えば、声が揃い、みんながひとつになる。ひとりで歌っているときでは、そのひとは声をとおしてそこにいないひととつながっている。ひとつになっている。そのためのものだろう。
 そういう「一体感」のためには、「音」が節とリズムをもっている方がいい。節とリズムを作るのは声であり、肉体(発声器官)である。
 「ご詠歌」を歌うひとは、声と音楽をとおして、「肉体」をひとつにする。「肉体」というのはけっしてひとつにならないもの。他人の肉体と私の肉体はいつでも別個のものだが、「声の肉体」が「ひとつ」になると、そこから錯覚が始まる。「肉体」がひとつになって、融合したという錯覚が生まれる。「同じ肉体を生きている」と錯覚する。このときの「同じ」は「肉体」を修飾しながら、同時に「生きている」という「動詞」の方へ重点を移していく。「同じように肉体をもつ人間(あるいは肉体というものを持つ同じ人間)」が「同じように生きていく」というように。
 この「同じ」をうみだすのが「さーい」「まーす」「さーん」というリズムなのだ。響きなのだ。

 でも、ほんとうに、そんなことを藤井は書いている?
 違うかもしれないね。
 「誤読だ」と怒るかもしれないなあ。
 でも、「誤読」というのは強引なもの。
 途中を端折って(すでに、ずいぶん端折っているのだが)、私はこう考えるのである。

のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し、まーす
どこへゆけばよいのだろう 繰り返す転轍に、ゆくえを知らない終電は
あぜの消失点を走りつづけているみたいですね

 「のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し」のことばの動き、「音」がうつくしいなあ。「か」の音の響きがおもしろいし、「あやめ池」は「菖蒲池」であると同時に「殺め池」でもあるんだろうなあ。
 「転轍」ということばを手がかりにすれば、「音」のなかで「意味」が切り替わる。方向転換する。同じことばを、だれかが「誤読」する。
 「誤読」こそが「他人」と「私」を「同じ人間」であるという「思想」を育てる。そして、「誤読」というのは「読む」という字をつかっているが、ことばの「発生」を考えると「誤聴(聞)」の方が基本なのだ。ことばは「文字」になるまえに「音」である。「音」が人を呼び寄せ、人をつなぎ、同時に「誤読」を育てる。
 「さーい」「まーす」と語調をそろえると、そのとき「誤読の音楽」がハーモニーになる。藤井のことばはいつでも「うた」なのだ。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(23)

2017-09-04 10:31:47 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「散水(さんすい)象」では高橋和巳(藤井はタカハシ・カズーミと書いている)の『邪宗門』を読んでいる。「八終局」という「思想」に触れて、こう書いている。

最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の旋風と、
そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の散水象って、何だろうなあ。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません。

 簡単に言うと、『邪宗門』のなかにわからないことばがあった。「散水象」って、何なの? わからないから「象が鼻で水を撒いた」って想像するのだけれど。
 私が注目したのは。
 「わかるんです」「わかります」「しれません」のことばの変化。動詞の変化。
 「わかる」とはどういうことか。「最後の飲酒」は最後に酒を飲むこと。「肉体」が参加している。酒を「飲む」。「肉体」が「動詞」になる。「最後の歌唱」は「歌う」。「最後の舞踏」は「おどる」。ここまでは「わかる」とは「肉体」で反芻できること。藤井は高橋の「肉体」と藤井の「肉体」を重ね、追体験できる。
 「最後の誘惑」はちょっととまどう。誰かを「誘惑する」。「飲酒」が「誘惑」かもしれない。そういう場合は「誘惑される」。「能動」と「受動」が混在する。それまでが「能動」なので「誘惑する」と読めばいいのかもしれない。
 「最後の旋風」は? 「旋風」は「肉体」では引き起こせない。「旋風」を見るということかなあ。「比喩」かもしれない。ここでは藤井の「肉体/動詞」で高橋の「肉体/動詞」を追認するということはむずかしい。「わかる」の性質が変わっている。「旋風」という「ことば」がわかる。「旋風」の意味するものがわかる。「頭」でわかる、に変わっている。
 「散水象」は、ちょっとわきに置いておいて。
 「石弾戦」は「石をぶつけ合って戦う」ということかなあ。これは「肉体」を動かすこともできる。「石を投げる(ぶつける)」。でも、実際に石を投げるという「肉体」を反芻するというよりも、「頭」で想像する部分の方が大きいだろうなあ。
 ここには「肉体でわかる」ことと、「頭でわかる」ことが混在している。「肉体でわかる」ことは「わかる」と明確に書いている。
 「散水象」は「わかる」とも「わからない」とも書いていない。かわりに「何だろうなあ」と書いている。この「何だろうなあ」を「動詞」にするとどうなるのだろうか。「考える」になると思う。「考える」は「肉体で考える」ということもあるにはあるが、一般的に「頭で考える」というだろうなあ。
 で、「頭」で考えたあと「しれません」ということばが出てくる。「わかりません」ではなく「しれません」。漢字をまじえていいのかどうかわからないが「知れません」と書き直してみる。
 「わかる」「知る」というふたつの動詞が出てきたことになる。そして「知る」には「考える」という動詞が関係している。
 (「象が鼻で水を撒いたのかもしれません」ではなく、「象が鼻で水を撒いたのかもわかりません」という言い方ができないわけではないだろうけれど、「しれません」の方が私には落ち着くように感じられる。「想像する」「空想する」、その結果は「頭」のなかに動いている。「知」に属する、と私は無意識に考えているのだろう。)
 「何だろうな」と「考える」。
 この「考える」という「動詞」は、どういうことをしているのだろうか。
 藤井の書いていることに則していうと、まず藤井は高橋の「考え(思想)」を取り戻そうとしている。高橋は死んでしまっていない。『邪宗門』は書かれてしまったあとである。その『邪宗門』のなかに書かれた「過去」を「いま」に呼び戻す。それが「考える」の最初にすること。
 そして「考える」とは、実は何が「可能か」(できるか)を「考える」ということである。何かを「可能にする」。
 前に逆戻りするが「最後の飲酒」は「飲酒を可能にする」ということであり、その「可能にする」を「肉体」で実践すると「酒を飲む」ということになる。だから、そこにも「頭」(思考)は動いているのだが、「肉体の動き」の方が「面倒くさくない」ので、私は「肉体で反芻する」と省略してしまう。私は安直へ流れる人間である。この「可能にする」は「欲望する」と言い換えると、もっと「肉体」に近づく。「飲むことを考え、それを可能にする」ではなく、簡単に「飲むことを欲望する」、つまり「飲みたい」という「欲望」のままに「肉体」を動かす。ほら、また「知」を遠ざけ、欲望に身を任せてしまうだらしない人間になってしまった。

 ちょっと態勢を立て直して。
 「考える」ことが「可能にする」ということなら。
 「散水象」ということばから何が可能か。「象」は藤井の「肉体」ではないが、そこにある。その象に何をさせることができるか。「散水」。水を撒く。どうやって? 象なら鼻をつかってか。
 なんだか、よくわからない。
 藤井も「何だろうな」と考え始めたが、わからないまま、

カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、

 と書き続けられる。括弧があるから、「最後の愛による……」からは「引用」なのかもしれない。それが最後までつづいている。途中を省略して、最後の二行。

それが報道されずには、知られぬまま終るならば、ここから消されるならば、
天上は最後の散水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。

 ここに「知られぬまま」「知れ」と「知る」という動詞が出てくる。「わかる」ではなく「知る」。
 藤井は「わかる」から出発して「知る」という動詞へ向かっている。その変化がこの詩の中に書かれていることになるのだが……。
 「知る」という動詞について、この二行からどんなことを言えるだろうか。少し考えてみる。
 「終るならば」「消されるならば」。「……ならば」というのは「仮定」であり、そこでは「可能性」が考えられている。「考える」というのは「可能性」を考えることと、ここでも言いなおすことができる。「終えることだろう」の「だろう」は、やはり「仮定」であり、それは「可能性」のひとつである。
 「考える」ということは「可能性を知る」ということなのかもしれない。

 と、書いた瞬間、私の思考は、突然、飛躍する。

 「考える」と「可能性を知る」とのあいだには、何があるのか。「ことば」がある。「ことば」で「考える」のだと気づく。
 詩にもどると、「飲酒」「歌唱」というのも「ことば」。「散水象」というのも「ことば」。「ことば」をどう動かせるか。それを「知る」には「過去」にことばがどう動いているか、それを「知る」必要がある。高橋は、ことばをどう動かしていたか。藤井は、それを探っているのである。
 藤井は、シェークスピアではないが「ことば、ことば、ことば」の人である。
 「ことば」に触れて、ことばの「可能性」を探る。どこまでも過去(文献)を耕し、過去にあったものを呼び戻し、育てる。「遠い過去」だけではなく、高橋というような、わりと「近い過去」をも懸命に耕す。
 「わかる」ものだけを引っぱりだすのではなく、わからないもの、「何だろうな」としか言えないものをこそ、引っ張りだし、考える。ことばでつなぎ、動かそうとする。「知ろう」とする。そういう欲望で動いているように見える。

 この詩に何が書いてあるのか。私にはわからない。けれど、藤井はいつでも「ことば」といっしょに動いていると言えると思う。



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藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)

2017-09-03 08:08:04 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「この世への施肥」には宮沢賢治が描かれている。宮沢賢治を読んだときの藤井が書かれている、といった方がいいのか。

「師父よ もしもそのことが
口耳の学をわずかに修め
鳥のごとくに軽跳な
わたくしに関することでありますならば」……(野の師父)
と、宮沢賢治はここまで書いて、
「軽跳」という語でよかったか、
誤字のような気がするし、と
でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。

 「誤字のような気もするし」と宮沢賢治が実際に思ったわけではない。藤井が「軽佻」の誤字なのではないかと思った。でも、「軽跳」でもいいか、と思いなおしたということなのだろう。このとき、宮沢賢治と藤井が重なる。その重なりへ、私も重なって行く。
 「軽跳」を「誤字」と思うことが「誤読」なのか、「軽跳」が「誤字」ではないと思うことが「誤読」なのか、とてもむずかしい。いいかえると、宮沢賢治は「軽佻」ということばを知っているけれどあえて「軽跳」と書き、そうすることで何らかの意味を込めたのかもしれない。もし、そうだとすると、それはどういう意味か。それを藤井(読者)に考えろと迫っているのか。
 なんだか、ごちゃごちゃしてくる。
 それがおもしろいと同時に、「軽跳」の直前にある「口耳の学」ということばに私の肉体はざわめく。聞きかじりの、知ったかぶり。聞いたことを、よくわからないまま口にすることをいうのだと思うけれど。
 で、これが「軽佻(軽跳)」とも重なる。「軽佻」は「口耳の学」の言い直し。いや「口耳の学」を言いなおしたものが「軽佻」なのだが。
 「意味」よりも、私は「口耳の学」ということば(表現)に私の「口」「耳」が興奮する。「口」は「ことば(声)」を発する器官。「耳」は「ことば(声)」を聞く器官。「けいちょう」という「ことば(音)」を「耳」で聞き、「口」で発する。このとき「軽佻」と「軽跳」の区別はない。区別がないから、それが混同して「軽佻」が「軽跳」になってしまう。「目」をつかって、「けいちょう」を「文字」としてつかみとっていれば、間違えることはないのだが。
 もちろん逆もある。人間は、いろいろな間違え方をする。安倍は「云々」を「でんでん」と読んだ。「目」でつかみとっていることと「耳/口」でつかみとっていることが違っている。
 どちらがどうとも言えないのだけれど。
 でも、言いたい。
 宮沢賢治は「ことば」をまず「耳」でつかみとる人間なのだ。そして、「声」にする人間なのだ。藤井もそうだと思う。「目」でことばと「意味」をつかみとる人間ならば「軽跳」とは書かないだろう。「目」で「軽佻」を読んだことがあるだろうけれど、「目」で確認しながらも「けいちょう」という音の方が「肉体」にしみついている。「ことば」は「音」なのだ。
 何度か書いてきたことだが、藤井の「ことば」も、まず「音」が出発点だ。「音」に反応して「ことば」を動かしている。
 「音」で「ことば」に反応する肉体(思想)が、「軽跳」ということばに触れて、思わず反応してしまったのだと思う。そのときの肉体の動きを感じてしまう。

 詩は、こうつづいている。

でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。 振り返りながら、
「そのこと」とはなんでしょう、賢治さん、
作物への影響 二千の施肥の設計、
そうね、施肥。 「風のことば」をのどにつぶやく。

どこへゆくの、賢治。

 「意味」、あるいは「文意」といえばいいのか、そういうものを探っている。
 賢治がしていることは、作物にほどこす肥やし、施肥のように、「この世への」施肥なのである。賢治の文学は人間を育てる肥やしである。世間への肥やしになろうとしている、と賢治の生き方をとらえ、藤井は肯定している。
 でも、こんなふうに読むと「道徳」になってしまう。
 書きながら「嘘」をでっちあげている気になってしまう。
 あ、賢治の生き方や文学を否定するつもりはないのだけれど。
 私がこの部分でおもしろいと思ったのは、いま書いたような「意味」の部分ではない。

「風のことば」をのどにつぶやく。

 ここに「のど」ということばが出てくる。「肉体」が出てくる。「のど」は「口」と同じようにことば(声)を発する器官。「口」よりも「肉体」の「奥」に属するね。ことばを、「のど」でとらえ直している、というところに藤井を感じる。
 こういう部分が、私は好きなのだ。

 さらに。
 最終行。「どこへゆくの、賢治。」は、「閉館」の最終行「きみとどこにいるのか、いま。」を思い起こさせる。とても似ている。一行空きのあと、ぽつんと置かれた一行一連。
 「きみ」を私は藤井少年と読んだ。しかし「この世の施肥」では「賢治」と書かれているから、同じ調子ならば「きみ」は「中城ふみ子」かもしれない。あるいは逆に「賢治」は「これからの藤井(少年ではない藤井)」かもしれない。
 「結論」を出さずに、どっちなんだろうなあ、と思うのが楽しい。

「きみ」は藤井少年でよかったのか、
誤読のような気がするし(中城ふみ子のような気がするし)、と
でも「藤井少年」でゆきましょうや はは と
ふりむいて(振り返って)私はわらう。

 という気分。だからこの詩の最終行は、私の「誤読」では、

どこへゆくの、貞和。

 になる。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)

2017-09-02 11:19:21 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「閉館」では藤井少年(!)は中城ふみ子歌集『乳房喪失』を読んでいる。少年は「乳房」だけでも勃起する。「喪失」には中城の思いがこめられているだろうが、孤独な少年は「誤読」の方を好む。歌人が書いていることよりも、自分が読みたいものを読み取る。

あたりの書架がまぶしかったから、少年は、
中城ふみ子歌集を盗み出した。
乳房を喪失する少年の図書館。
ぼくらは自由の女神にさよならする。 「ノミ、
すら、ダニ、さへ、ばかり、づつ、ながら」。
ああ、文法とも定型詩とも「さよなら」しよう。

 中城は乳房と「さよなら」したのだろう。藤井は中城の感情とも「さよなら」し、自分の世界へ突っ走る。

黒雲が覆う自由の女神、
かえらないだろう、ふたたびは、
ぼくらの図書館に。 ノミ、
カエル、ヘビ、ダニが、
詩行から詩行へ跳躍する、
ぴょいぴょいの歌。

 最初に引用した「ノミ」「ダニ」は昆虫ではなく、「助詞」である。歌の中にでてきたことば。「すら」「さへ」「ながら」と少年でもつかうが「……だに」というような言い方はしないだろうなあ。歌集のなかで見つけたのだ。「だに」だけなら違ったことも思うだろうけれど「のみ」も出てくるので、知っている昆虫の「ノミ、ダニ」へ脱線していく。「誤読」していく。つまり「文法」と「さよなら」をする。短歌(定型詩)とも「さよなら」し、勝手なことを思う。
 それが暴走し、「かえらない(乳房)」ということばに出会って「かえる→カエル」という具合に逸脱していく。「帰る、返る」ということばは知っているが「ノミ、ダニ」の影響で「カエル」を連想する。それがさらに、たぶん、歌集には書かれてもいない「ヘビ」をも呼び寄せる。
 こういうことは短歌の「鑑賞(批評)」とは、まったく関係がない。むしろ、そういう「読み方」をすれば「学校文法(教育)」では拒否される。
 でも、少年は、そういうことをしてしまう。
 これはなぜだろう。
 こんなことは考えても仕方かないことかもしれない。考えても文学の鑑賞、批評には無関係なことかもしれない。
 でも、そこに何か「まぶしい」ものがないだろうか。いきいきとしたものがないだろうか。

 助詞の「のみ」「だに」を、昆虫の「ノミ、ダニ」と読む。それは、ことばの「意味」からの解放である。「哲学」からの解放と呼ぶこともできるだろう。
 「文法」には「哲学」がある。ことばの動かし方を「整える」力がある。文法に従うと、ことばが正確に「つたわりやすい」。「哲学」というよりも「経済学」かもしれない。
 「意味」からの解放は、別のことばで言えば「むだ」。「のみ、だに」を昆虫と読む(理解する)というのは、何の役にも立たない。「むだ」は「経済学」に反する。
 この「むだ」を拒絶する「経済/資本主義」も、ひろく言えば「哲学」。「人間の行動の規範」が「哲学」なのだから、「文法」はことばの「経済学(哲学)」と言える。
 「文法」とは「哲学」である。
 「文法」とはことばの動かし方を支配する力、「動詞」であると定義することもできる。「文法」というのは「名詞」だが、実際には動き回るもの。そこにあるものではなく、ことばのなかを動きまわり、ことばを整えるのが「文法」である。
 そして「文法」によって整えられたものが「意味」ということになる。
 その「文法」に支配されていることばを別な視点で見つめなおす、「文法支配」を拒絶する。それは、まったく「むだ」なことなのなだが、でも、この「むだ」が、なぜか、おもしろい。
 なぜだろうか。
 「ことば」を「ことば」以前に引き戻す力が、そのとききらめくのだと思う。「まぶしく」光るのだと思う。
 「ことば」は「意味」である前に「音」であった。そのことを思い出させてくれる。言いたいことがあるのに「ことば」にならない。それでも、大声を出す。そのときの「肉体」の解放感。「むだ」な解放感かもしれないけれど、「声」の衝動が、ある。

 あ、また余分なことを書きすぎたなあ。

 藤井の詩には、「声」がある。「音」の喜びがある。「文字」(整えられた意味)になる前の「声(音)」の自然がある。
 人間はたぶん「文法(ことばの哲学)」を生き続けるうちに、この自然から遠ざかり、人工的に(経済的に)なっていくのだと思うけれど、それから逸脱する力を藤井の「音」から私は感じ取る。
 聞いていて「楽しい」と感じさせるものがある。「音」にかえろうとする欲望がある。
 藤井の「声」を聞いたこともないし、詩を読むときも私は音読はしない。黙読はしないのだけれど、なぜか「音(音楽)」を感じる。
 助詞の「のみ、だに」を昆虫の「ノミ、ダニ」と言い換えているだけの(?)詩なのだけれど。

閉館の時刻。 光がとどかない館内に、
短詩をまた送って。

きみはどこにいるのか、いま。

 この最後の「きみ」は「藤井少年」だろう。
 「意味(哲学/文法)」を蹴散らかして「音」に遊んだあのときの喜び。その喜びは、しかし、消えてはいない。「どこにいるのか」と問うとき、藤井にはその「存在」をおぼえている。つまり「存在」がわかっている。
 詩をとおして、「少年」と交流している。それが「声」の「音楽」となって聞こえてくる。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)

2017-09-01 09:44:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「揺籃」は四つの部分(章?)から成り立っている。どれも「現代語」というわけではない。「文語」らしいもの、「文語文体」が含まれている。含まれている、とういよりも文語文なのかもしれない。

  (Ⅲ)山を出でて
謂はば芸術とは、山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、その樵夫にして、暗き道にぞ、而(しか)も山のことを語れば、たどりこし、何かと面白く語れることにて、いまひとたびの「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが、逢ふことにより、謂はば生活である。(和泉式部さん、中也さん)

 この詩の「要約」は、

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 になる。
「要約」のあいだ(?)にあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。言い直しである。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれない。
 ここで私が注目したのは読点「、」である。「謂はば芸術とは、……謂はば生活である。」のあいだに、いくつもの「、」がある。息継ぎである。この「、」が「比喩(経路)」の分岐点といえばいいのか、一息継ぎながら次のことばへ進む。地図で言えば「一区画」ごとに確認しながら進む感じ。「一区画」のそれぞれは「直線」であり、まっすぐ見とおせる。つまり、「一区画」そのものは迷いようがない。分岐点へきて、曲がるか、真っ直ぐに進むかを考えながら歩く感じ。
 ことばに則していうと。
 「謂はば芸術とは」はテーマの提示。何が書いてあるか、わかる。
 「「山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、」には、「芸術とは」を受ける「述語」が登場しない。だから「横道」に曲がった感じがする。「道」をかえたのだ。変えたのだけれど、そこに書いてあること自体はわかる。「山を出れば、樵夫は山を見ない」か、あるいは樵夫というものは木を見るけれど山というものは見ないということかあいまいだが(どっちともとれるが)、そこには樵夫と山とのことが書かれていることがわかる。
 「その樵夫にして、」は、視点が山から樵夫に動いたことを明らかにしている。これからは樵夫のことが書かれるのだと、わかる。
 「暗き道にぞ、」で、また、横道に曲がった。樵夫が山の中で歩く日の差さない暗い道かもしれない。よくわからないが、道が暗い、暗い道そのものは、わかる。
 「而(しか)も山のことを語れば、」は、あ、ここからは樵夫が山のことを語るのだなあ、とわかる。分岐点を通過したことがわかる。継ぎに何が始まるか予測ができる。
 という具合に、進んでいく。
 このときの「、」の区切りが、とても読みやすい。
 藤井が何を書こうとしているのか私には即断できないが、藤井はわかって書いているという「安心感」をよびおこす読点「、」である。
 古文(昔の書き方)には読点「、」も句点「。」もない。だから、どこで区切ってよんでいいのかわからないが、藤井の文には句読点があるので、一区切り一区切りがわかる。藤井が「一区切り」ずつ確認してことばを動かしていることがわかり、私は安心して(?)ついていくことができる。
 このときの「わかり方」というのは、「子供のときのことばの体験」に似ている。「全体の論理」はわからないが、瞬間瞬間はわかる。
 あ、少し、ずれてしまったか。
 この藤井の読点「、」の区切りが「わかりやすい」というのは、読みやすいということ。「ことばのかたまり」がつかみやすい。
 ことばには「意味単位」と「リズム単位」がある。それが藤井の場合、一致している。別の「意味単位」に動いていくとき、その「分岐点」に読点「、」を必ず入れる。息継ぎをする。
 そこに「肉体」を感じる。
 で、私は安心する。
 子供が親のあとについて歩くとき、まわりを見ていない。道を見ていない。親の「肉体」だけを見ている。そうやってついていくときの、どこへ行くのかわからないけれど、一緒にいると感じるときの「安心」に似ているかなあ。
 最近の若い人の「文体」には、この「安心感」がない。「リズム」と「意味」の「単位」が一致する感じ、この人は「道」を知っている(文体が確立されている)という感じがないときが多い。

 また、ずれてしまったか。
 それとも、ずれずに書いているか、わからなくなるなあ。

 最初にもどって、別なことを書こう。

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 これがこの「文(句点「。」で区切られた単位)」の「要約」になる。そのあいだにあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれないけれど、私は「比喩」というこことばの方を好む。「比喩」の方が「意味領域」が広く、いろいろのことを持ち込めるからである。
 藤井は「芸術は」と言い始めて、それを説明するのに「樵夫」を持ち出してくる。これは「論理」をすでに「比喩化」している。「芸術」と「樵夫」は同じものではない。「芸術」を「絵画」とか「音楽」「文学」と言いなおしたときは、「芸術」の範疇を限定し、論理の動きを整えようとしている感じがつたわるが、「芸術」を語るのに「樵夫」を出してきては、視線が拡散される。「論理」がはぐらかされる。
 もちろん「樵夫」を出してくるのは、「絵画/音楽/文学」を引き合いに出すことでは語れないものがあるからそうするのだが、「芸術」と認められてすでに存在するもの(いま、そこにある絵画や文学など)を利用せず、「芸術」には含まれないものを借りてきて「芸術」を語ろうとするから、それを「比喩」という。(比喩は、どんなときでも、対象そのものではないものを借りてきて、対象を代弁することである。)
 で、「樵夫」の何を、藤井は「比喩」にするのか。「語る」という動詞がある。「語る」こと、そのことばの動きに「芸術」を見ている。
 そのキーポイントが、

「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふ

 部分。
 ここには『山』(名辞)という「註釈」がついている。
 ここが、わっと叫び声をあげたいくらいに面白い。
 一方に「山」という概念がある。でも樵夫は「概念」を語らない。「あの山」「この山」という具体的なものを語る。
 これを、藤井の書いている「一文」ぜんたいにあてはめると、

あれが「芸術(あるいは詩)」(名辞)で、あの語り口(文章)はこの語り口(文章)より、どのうこうの、

 ということになるかもしれない。
 「概念」なんか問題にしても何も語ったことにならない。具体的な「山(作品)」があるだけである。
 そして、その「具体的」なことのなかには、

たどりこし、

 が反映されている。そのひとが生きてきたことが反映されている。そこが面白いのである。
 こういう「具体的な語り」に触れることを、

逢ふ

 という動詞で言いなおしている。単に「語り」を聴くのではなく、それを語る人に「逢う」。会って、そのひとの暮らしをしっかりとわかる。共感する。
 そういうことが起きたなら、それは「芸術」を味わったことになる。「芸術」とは「生活(暮らし)」の具体的な「細部」を知ることだ、生活の具体的な部分に「芸術」がある、ということだ。

 こんなふうに、「比喩(経路)」を別なことばで言いなおすことができるかもしれない。
 でも、これは余分なことだね。
 「意味」なんて、本(他人のことば)を読む動機にならない。
 私は、いま書いた「意味(ストーリー)」よりも、藤井の「息継ぎ」を信じている。ことばといっしょに動いている「肉体」を信じている。「息継ぎ」を信じているから、それにあわて、「誤読」を拡大することができる。これが楽しい。
 「息継ぎ」が合わないと、ついていくことができない。私のついていき方が「正しい」か「間違っている」かは、この際、問題ではない。
 私の「肉体」がついていけるかどうか、それが私にとっての問題である。
 「間違っている」としても、それは私の問題であって、だれに迷惑をかけるわけでもいない。
 「芸術(文学)」の読み方なんか、間違っていようがどうしようが、他人には関係ない。作者にも関係ない。私はそう思って読んでいるし、感想も書いている。

美しい小弓を持って
クリエーター情報なし
思潮社
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