監督 ジム・ジャームッシュ 出演 アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ
はじまってほどないシーンに息をのんだ。アダム・ドライバーが運転するバスのフロントグラスにパターソンの街が映る。バスが進んでいくと、フロントガラスに映っていたビルが実景として登場する。実景の前に、いわば虚像があり、虚像が実景を呼び寄せるようにして風景が展開する。これはバスの進行方向にあるものがバスのフロントガラスに映ることで生じる現象なのだが、とても美しく、またこの映画そのものを象徴するもののように思えた。
アダム・ドライバーはバスの運転手をしながら詩を書いている。詩集もたくさん読んでいる。その生活を、いわば「詩的」にとらえているのだが、その「詩」とは何かを語るひとつの要素が、フロントガラスの虚像(鏡像)と実景に凝縮している。
実景ではなく、それをとらえる虚(像)がある。「虚」を「ことば」と置き換えるとどうなるだろうか。「ことば」をさらに「詩」と置き換えるとどうなるだろうか。詩が先にあって、そのあとに実景がことばにあわせるようにして登場してくる。「ことば(詩)」は現実を先取りする。詩にはそういう力がある。
これはストーリーそのものとしても展開される。アダム・ドライバーと暮らしているゴルシフテ・ファラハニは夢を見たと語る。子供がいる。ふたりだ。双子だ。子供が双子だったらどんなに楽しいだろう、と言う。そのことばにアダム・ドライバーは共感したのだろう。行く先々で「双子」を見る。最初に登場するのはベンチに腰掛けている老人。それからバーで玉突きをする兄弟。兄弟というけれど、どうみても双子にしか見えない。詩を書いている少女がいて、彼女が待っていた母と姉(妹)がやってくると、その姉はやはり双子のようだ。双子ではないけれど、バスのなかで女にもてたときの話をするふたりは、気持ちが「双子」だ。ほかにもバスのなかで話す二人が出てくるが、気持ちが「友人」をとおりこして「双子」という感じ。そして、その「双子」の感じというのは、ひとりが先にあらわれて、そのあとそっくりのもうひとりがあらわれる、という形で展開する。
この関係を「双子」にとらわれずに、向き合った「ふたり」ととらえなおすと、それはアダム・ドライバーとゴルシフテ・ファラハニの関係にもなる。映画はベッドで目覚めるふたりのシーンから始まるが、そのふたりは「向き合っている」。背中をくっつけているときもまた「向き合っている」と言える。
アダム・ドライバーは詩を書いているが、自分自身の「欲望」をことばにすることはない。一方、ゴルシフテ・ファラハニは詩を書かないが、「欲望」をことばにし、それを実行していく。その姿は、だからアダム・ドライバーをどこかで代弁している。ゴルシフテ・ファラハニはアダム・ドライバーに詩集を出すことを勧める。アダム・ドライバーはかたくなに拒んでいるが、きっとひそかに詩集を出すことを夢見ている。ゴルシフテ・ファラハニのように、「欲望」をことばにし、それを実現していくことができたらどんなにいいだろうとひそかに思っているだと思う。
映画のなかで最初に紹介される詩、マッチの詩のなかで「メガホン」のようになった文字のことが語られるが、その詩を読んでいないはずのゴルシフテ・ファラハニが、「あのメガホンのようになった文字のことも書いたの?」と問いかけるところが印象的だ。ふたりは「語りあわない」部分でつながっている。「ことば」を共有していることが暗示されている。
映画の最後では、「ことば」が現実を先取りするというのとは逆の詩の「力」も紹介されている。アダム・ドライバーがおじいさんが歌ってくれた歌を思い出す。歌には「詩」がある。そこではさまざまなことが語られているのに、アダム・ドライバーが思い出すのはある一行(ここでは書かない)。詩は必ずしも全部がひとをとりこにするわけではない。一行がなぜかいつも思い出されてしまう。思い出すのではなく、まるで向こうから語りかけてくるみたい。
そうなのだと思う。「先取り」しているように見えても、それは「先取り」ではなく、先に存在しているものが、向こうからやってくるものなのだ。あまりに突然なので、すでに存在していたものが姿をあらわしただけということに気がつかない。
最後のエピソードに永瀬正敏が登場する。なぜ、そこに永瀬正敏が? 日本人が? しかもアダム・ドライバーの好きな詩人の詩集を持って? それは突然のできごとだけれど、やはり「過去」からやってきたのである。時間をこえて、「いま」に「過去」が噴出し、それが「未来」になってゆく。
詩だけではなく、これは文学に共通することなのかもしれないけれど。
こういう刺戟的なことを、ジム・ジャームッシュは「日常」のなかにぐいと沈潜させて描いている。とても美しい。
あ、書きそびれたがゴルシフテ・ファラハニの描く「絵」がとてもおもしろい。飼ってている犬をモチーフにした絵など、思わず笑ってしまうし、カーテンの模様なども素敵だ。「情報」がもりだくさんだけれど、「情報量」をアピールするというより、その「情報」をささえる日常を静かに浮かび上がらせているが、とてもいい。
(KBCシネマ1、2017年09月05日)
*
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はじまってほどないシーンに息をのんだ。アダム・ドライバーが運転するバスのフロントグラスにパターソンの街が映る。バスが進んでいくと、フロントガラスに映っていたビルが実景として登場する。実景の前に、いわば虚像があり、虚像が実景を呼び寄せるようにして風景が展開する。これはバスの進行方向にあるものがバスのフロントガラスに映ることで生じる現象なのだが、とても美しく、またこの映画そのものを象徴するもののように思えた。
アダム・ドライバーはバスの運転手をしながら詩を書いている。詩集もたくさん読んでいる。その生活を、いわば「詩的」にとらえているのだが、その「詩」とは何かを語るひとつの要素が、フロントガラスの虚像(鏡像)と実景に凝縮している。
実景ではなく、それをとらえる虚(像)がある。「虚」を「ことば」と置き換えるとどうなるだろうか。「ことば」をさらに「詩」と置き換えるとどうなるだろうか。詩が先にあって、そのあとに実景がことばにあわせるようにして登場してくる。「ことば(詩)」は現実を先取りする。詩にはそういう力がある。
これはストーリーそのものとしても展開される。アダム・ドライバーと暮らしているゴルシフテ・ファラハニは夢を見たと語る。子供がいる。ふたりだ。双子だ。子供が双子だったらどんなに楽しいだろう、と言う。そのことばにアダム・ドライバーは共感したのだろう。行く先々で「双子」を見る。最初に登場するのはベンチに腰掛けている老人。それからバーで玉突きをする兄弟。兄弟というけれど、どうみても双子にしか見えない。詩を書いている少女がいて、彼女が待っていた母と姉(妹)がやってくると、その姉はやはり双子のようだ。双子ではないけれど、バスのなかで女にもてたときの話をするふたりは、気持ちが「双子」だ。ほかにもバスのなかで話す二人が出てくるが、気持ちが「友人」をとおりこして「双子」という感じ。そして、その「双子」の感じというのは、ひとりが先にあらわれて、そのあとそっくりのもうひとりがあらわれる、という形で展開する。
この関係を「双子」にとらわれずに、向き合った「ふたり」ととらえなおすと、それはアダム・ドライバーとゴルシフテ・ファラハニの関係にもなる。映画はベッドで目覚めるふたりのシーンから始まるが、そのふたりは「向き合っている」。背中をくっつけているときもまた「向き合っている」と言える。
アダム・ドライバーは詩を書いているが、自分自身の「欲望」をことばにすることはない。一方、ゴルシフテ・ファラハニは詩を書かないが、「欲望」をことばにし、それを実行していく。その姿は、だからアダム・ドライバーをどこかで代弁している。ゴルシフテ・ファラハニはアダム・ドライバーに詩集を出すことを勧める。アダム・ドライバーはかたくなに拒んでいるが、きっとひそかに詩集を出すことを夢見ている。ゴルシフテ・ファラハニのように、「欲望」をことばにし、それを実現していくことができたらどんなにいいだろうとひそかに思っているだと思う。
映画のなかで最初に紹介される詩、マッチの詩のなかで「メガホン」のようになった文字のことが語られるが、その詩を読んでいないはずのゴルシフテ・ファラハニが、「あのメガホンのようになった文字のことも書いたの?」と問いかけるところが印象的だ。ふたりは「語りあわない」部分でつながっている。「ことば」を共有していることが暗示されている。
映画の最後では、「ことば」が現実を先取りするというのとは逆の詩の「力」も紹介されている。アダム・ドライバーがおじいさんが歌ってくれた歌を思い出す。歌には「詩」がある。そこではさまざまなことが語られているのに、アダム・ドライバーが思い出すのはある一行(ここでは書かない)。詩は必ずしも全部がひとをとりこにするわけではない。一行がなぜかいつも思い出されてしまう。思い出すのではなく、まるで向こうから語りかけてくるみたい。
そうなのだと思う。「先取り」しているように見えても、それは「先取り」ではなく、先に存在しているものが、向こうからやってくるものなのだ。あまりに突然なので、すでに存在していたものが姿をあらわしただけということに気がつかない。
最後のエピソードに永瀬正敏が登場する。なぜ、そこに永瀬正敏が? 日本人が? しかもアダム・ドライバーの好きな詩人の詩集を持って? それは突然のできごとだけれど、やはり「過去」からやってきたのである。時間をこえて、「いま」に「過去」が噴出し、それが「未来」になってゆく。
詩だけではなく、これは文学に共通することなのかもしれないけれど。
こういう刺戟的なことを、ジム・ジャームッシュは「日常」のなかにぐいと沈潜させて描いている。とても美しい。
あ、書きそびれたがゴルシフテ・ファラハニの描く「絵」がとてもおもしろい。飼ってている犬をモチーフにした絵など、思わず笑ってしまうし、カーテンの模様なども素敵だ。「情報」がもりだくさんだけれど、「情報量」をアピールするというより、その「情報」をささえる日常を静かに浮かび上がらせているが、とてもいい。
(KBCシネマ1、2017年09月05日)
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