詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広田修「オフィスの死骸」、金子忠政「森の道」

2018-05-15 11:54:14 | 詩(雑誌・同人誌)
広田修「オフィスの死骸」、金子忠政「森の道」(「オオカミ」32、2018年02月発行)

 広田修「オフィスの死骸」を読みながら、考えるのは「動詞」のことである。

人のいない事務所では
書類から何から死骸のようだ
我々もみな死骸として
書類という死骸と
戯れているに過ぎない
事務所ではすべてが死んでいる

 「死骸」という名詞がある。「死」というのは「事実」だが、その「証拠」のようなものは、なかなか実感できない。「死骸」が「死」を証明する「証拠」ということになるかもしれない。
 「死」の動詞は「死ぬ」。しかし、この作品には「死ぬ」という動詞は出てこない。「死んでいる」という形で出てくる。「死」という状態になって、そこに「ある」。「死ぬ」という「動き」はない。
 言い換えると「死ぬ」という動きの「定義」がないままに、「死」だけが書かれている。「死」も「死ぬ」も、だれもが知っていると広田は思っているのかもしれないが、私はいちども「死ぬ」ということを体験していないので、「死ぬ」がわからない。
 「死」というものは、何度か見てきているが、見てきてはいるけれど、「わかっている」とは言えない。「死」を見るだけでは「死ぬ」はわからない。「死骸」を見るだけでは、「死ぬ」がわからない。
 これは逆に言うと、ここに書かれている「生きる」もわからない。「生きる」が書かれているかどうか、わからない。

どんなに事務所が明るく活気に満ちていても
やはりすべてが死んでいるのだ
この私も同僚たちも
書類もパソコンもみな
百年前から死んだままだ

 「死んでいる」は「死んだまま」にかわる。「まま」には「かわらない」という動詞がある。「つづく」という動詞も含まれるだろう。肯定としての「かわらない」「つづく」が「死」なのか。でも「死ぬ」ということは、「かわる」ことであり、「つづかない」ことだねえ。
 「死ぬ」という動詞は書かれていないなあ。
 動詞がないと、「肉体」に迫ってこないなあ。



 金子忠政「森の道」もまた「死」を書いている。

耳をあらゆるひとつにする、世界が終わったあとのようなしずけさを求めてここにきた。なのに、夜の森はすさまじい喧騒に満ちている。轢かれたうえにさらに轢かれた八月、そして三月、こちらを一瞬きっと見つめて身構え、立ち止まってしまう、真昼の猫は、ヘッドライトに振り回されて右往左往し、のろのろ逃げ惑ったあげくの、夜中の狸は、先頭にいて全速ですばやく横切ろうとする、明け方の猿は、路上でヴイブラートして反り返り硬直しかけ、しなやかで、強靱に、こうして、こわばる。ほふられるきさまらは躓かせるために道はある、という。

 森の中の道は動物の「死骸」で満ちている。車で「轢かれる」。そのとき「死ぬ」。「死ぬ」前に、「身構える」「立ち止まる」「振り回される」「右往左往する」「逃げ惑う」「横切る」というような「動詞」がある。それは「生きる」ものの「動き」だ。「生きる」を奪われることが「死ぬ」と間接的に語られる。
 「死んだあと」、では、どう「生きる」か。つまり、「いのち」は、どうつづくか。
 「反り返る」「硬直する」「こわばる」。そうすることで「躓かせる」。「轢かれた」ものたちは「受け身」のまま終わるのではない。「死んだまま」ではない。「躓かせる」ことで「死」を知らせる。
 ここでは「生きる」と「死ぬ」、「生」と「死」がからみあって動いている。切り離せないものとして「世界」をつくっている。
 書き出しの、

耳をあらゆるひとつにする、世界が終わったあとのようなしずけさ

 というのは、この「生きる」と「死ぬ」のことを指しているわけではないのだが、「予言」のように詩をひっぱっている。「耳」のかわりに「いのち」と読んでみる。「いのち」を「あらゆるひとつにする」。「いのち」とは「生きる」と「死ぬ」が切り離せないまま動くものである。「死ぬ」ことによって、それは「生きる」と固く結びついていた、「ひとつのものであった」ということがわかる。
 さて、ひとは(金子は)、どんなふうにして「躓く」か。
 ここからがハイライトである。

雄蟷螂のように頭をバリッ、と殺られ、路上を転がり振り向きざま、にたりとして、くっ、と吐いた。ゆっくり這っていって、無口な蝸牛のように激しく、虚ろな眼のまま愛し合うように、猥らにみぶるいした。

 「死ぬ」は「生きる」姿として反逆してくる。「生きる」ものの姿を「思い出す」ということが「死ぬ」を体験することである、と言えるかもしれない。「生きる」を克明に描くことが「死ぬ」という「動詞」をとらえることだと金子は考えている。
 ここには「肉体」で追認できる「動詞」がある。それは「生きる」をさらに生々しくえぐりだしている。
 もう少し詩はつづくのだが、それは「オオカミ」で読んでください。


*

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イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』

2018-05-14 10:58:16 | その他(音楽、小説etc)
イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』(関口英子訳)(国書刊行会、2018年03月23日発行)

 イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』は、初期の短編集。初期のせいなのか、訳文のせいなのかわからないが、少しぎこちない。(「血とおなじもの」の118ページ。「彼らは衝羽根樫の下に座って話しこんだ。藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法だとか、地域一帯の孤立したパルチザン兵たちを正式に再編成し、盗賊のように森をうろつくことをやめさせる必要性だとかいったことについて。」この部分の「藁の上に寝ると脚にできる皮膚炎を治す方法」がわかりにくい。「寝ると」は「寝たとき」という意味になるのだと思うが、そう理解するまでに三回読み直してしまった。「動詞」が「寝る」「できる」「治す」と多すぎる。それにつづく、「パルチザン」の部分も、「孤立する」「再編成する」「うろつく」「やめさせる」と動詞が多い。そのために文体のスピードが落ちている。)
 でも、「最後に鴉がやってくる」はおもしろい。特に最後の部分、クライマックスがすばらしい。
 少年狙撃兵から逃げる兵。目の前に草地が広がる。飛び出せば撃たれる。けれどその向こうの藪に飛び込めば確実に逃げることができる。どうしよう。
 悩んでいると、空を鳥が飛んでくる。鳥の通り道なのか、何度も飛んでくる。その鳥を少年はすべて撃ち落とす。ところが、頭上で旋回する鴉は落ちない。かわりに近くの松から松ぽっくりが落ちてくる。

 銃声がするたびに兵士は鴉を見上げた。落ちるだろうか。いいや、落ちる気配はない。その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。少年に鴉が見えていないということがあるだろうか。もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない。きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。いや、相変わらず松ぽっくりを撃っている少年に教えてやればいいだけの話だ。そこで兵士は立ち上がり、黒い鳥を指さしながら、「あそこに鴉がいるぞ!」と叫んだ。自分の国の言葉で。
 その瞬間、兵士の軍服に縫い取りされた両翼をひろげた鷲の紋章のど真ん中を、弾が撃ちぬいた。
 鴉が、ゆっくりと輪を描きながら舞いおりた。

 現実なのか、幻想なのか、わからないくらいに緊迫感がある。現実も身に迫りすぎると幻想のように明瞭になるのかもしれない。明瞭になりすぎた現実を幻覚と呼ぶのかもしれない。
 奇妙な言い方だが、いつ撃たれるんだろう、いつ死ぬんだろうと「期待」しながら読んでしまう。死ぬというのは決して「いいこと」ではないのに、わくわくしてしまう。そして、死んでしまうのに、なぜか、ああよかった、と思ってしまう。
 撃たれる兵士の気持ちだったのか、撃つ少年の気持ちだったのか。私は、いったいどちらに「感情移入」していたのか。
 「主人公」、あるいは「脇役」というような「人間関係」を忘れて、その「状況」そのものの緊迫感なのかにのみこまれてしまう。個人を超えて、「状況」そのものが「主人公」になってしまう瞬間がある。
 『真っ二つの子爵』では、「謎解き」のシーンがそれだ。悪人(?)の方の子爵が、ものを半分に切って、残していく。それを見て、「あ、これは、どこどこで待っている」という決闘の呼びかけだと「謎解き」をする。もし、その「謎解き」が解けなかったら、次はどうなる? というのは「現実」の世界のことであって、「小説」のなかでは「謎解き」は絶対に「解かれなければならない」。そういう「運命」のような「状況」の強さ。それをイタロ・カルヴィーノは軽快に、明るく書いてしまう。そのスピードに、私は私自身を忘れてしまってのみこまれる。私はいったいどっちの見方だった? それを忘れてしまうのである。
 こういう「文体」の力はどこから来ているのか。「文章のリズム(ことばのリズム)」には、個人がもっているリズムのほかに、その「国語」自身がもっているリズムがある。そして、不思議なことに「国語自身のもっているリズム」というのは、「国語」を超える力を持っている。「ことば」すべてに共通するものをもっている。「論理のリズム」だ。
 「鴉」にもどると、

そこで兵士は立ち上がり、

 この「そこで」が「論理のリズム」(論理を動かすことば)である。先の引用部分には「そこで」は一回しか書かれていないが、読み返すと随所に「そこで」を補うことができる。

その黒い鳥の描く輪は、彼の頭上でしだいに低くなっていく。「そこで」少年に鴉が見えていないということがあるだろうか「と、兵士は考えた」。「そこで」もしかすると、そもそも鴉なんて飛んでおらず、自分の幻影なのかもしれない「とも考えた」。

 ひとつの行動(文章)から次の文章へ動く。そのあいだには「そこで」というあいまいな「論理(理由)」が動いている。「そこで」によって人間は動いている。そういうものをつかみとり、それを省略することでことばを動かしている。
 だから、というとまた変な言い方になるのだが。
 なぜ、カルヴィーノは、ここだけ「そこで」を残したのか。
 これが、とても重要。
 ここから「世界」が変わるのだ。それまでは、兵士の「思い(考え)」が動いている。でも、「そこで」のあとは「考え」ではなく、「肉体」そのものが動いている。「立ち上がる」「指さす」「叫ぶ」。この転換、大きな転換のために「そこで」が必要だったのだ。「そこで」の力を借りる必要があったのだ。
 もちろん「そこで」はなくてもいい。消しても、全体の「意味」はかわらない。けれど、「ここがクライマックス」という強調構造が消えると、すこし弱い。
 「そこで」ということばで「違和感」を引き出して、それから「リアル」な動詞を並べる。「肉体」そのものを動かす。
 うーん、と私はうなる。
 そのあとの二行は、「現実」なのか、それとも兵士が死ぬときに見た「夢」なのか。
 「現実」と「夢」とのあいだに、「ことば」がある。


*

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最後に鴉がやってくる (短篇小説の快楽)
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田口三舩「ペンペン草が咲いた」

2018-05-13 00:00:49 | 詩(雑誌・同人誌)
田口三舩「ペンペン草が咲いた」(「SUKANPO」26、2018年05月11日発行)

 田口三舩「ペンペン草が咲いた」の一連目。

陽が凍え
闇に埋もれそうな
通い慣れた小径の
傍らに
ぺんぺん草の花が
ひとかたまり
互いを
見やることもなく
咲いた

 「互いを/見やることもなく」か。「見る」と「見やる」はどう違うか。「見やる」は「見る+やる」。ひとつ、「動詞」が多い。動きが多い。そのために「見る」よりも、「視線」の方向性を強く感じる。「見る」だけではなく、視線を動かす「意識」を感じる。これが「互い」と深くからみあう。
 「ひとかたまり」なのに、「互いを/見やることもない」。
 なぜだろう。
 「互い」を知っているから、「見やる」必要がない。
 二連目は、こう展開する。

ふところには
不幸せ色にしか見えない
幸せを忍ばせて
焦点の定まらない
天を仰いで
歌うでもなく
語るでもなく
ヒヨドリの
鳴き声に合わせて
おさな児たちの
隠れんぼよろしく
もういいかい
ペンペン草の花が
咲いた

 ここには「見えない」という否定形の動詞。
 「見えない」けれど、「見える」ものがある。「知っている」ものがある、「わかっている」ものがある、ということ。「見る」必要がない。「見えない」というよりも、「見ない」だろうなあ。
 「見やることもなく」と重なる。
 なぜ、「見ない」のか。
 理由はふたつ。
 ひとつは、「ふところ」。それは、外からは「見えない」。だから「見ない」。
 そして、もうひとつは「ふところ」というのは、自分では「わかっている」から。「わかっている」から「見ない」。「ふところ」を「見る」は「確かめる」。「確かめる」必要がないくらいに、はっきりわかっている。
 あるいは、これに三つ目の理由をつけくわえてもいい。
 「ふところ」は、外からは「見ない」と書いたが、これを踏まえて二連目の書き出しを言いなおすと、

「外からは」不幸せ色にしか見えない、けれど
ふところには
幸せ「色」を忍ばせて

 ということになる。「忍ばせる」は「隠す」であり、「見えないようにする」でもある。それは「隠す」ではなく、「見せる必要はない」と言いなおした方がいい。自分がわかっていればいい。そして、実際に、わかっている。
 「ひとかたまり」のぺんぺん草。それは互いに、自分の「幸せ」を知っている。他人にみせびらかしたりはいない。
 「隠す(忍ぶ)」は、詩の最後の方で「隠れんぼ」ということばのなかに、そっと姿をあらわしている。「隠れる/隠す(忍ぶ/忍ばせる)」は、楽しい。見つけたい人だけが見つければいい、ということだろう。
 「見つけたい」には「意思」がある。それが「見やる」ということばと通じている。



*

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詩集 能泉寺ヶ原
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榛名まほろば出版
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ユキノ進『冒険者たち』、加藤治郎『Confusion 』

2018-05-12 11:31:53 | 詩集
ユキノ進『冒険者たち』(書肆侃侃房、2018年04月16日発行)

 ユキノ進『冒険者たち』を読みながら、どうにも、わくわくしない。

飛べるのだおれよりもずっと高くまでローソンのレジの袋でさえも

いますぐに飛んで行きますとクレームの電話を切って翼を捜す

 意味はわかる。けれど、私には「音」が聞こえない。そのために「感情」が共振しない。「頭」でしか意味をつかめない。
 「袋でさえも」の「でさえも」には「論理」がある。「袋でさえもおれよりもずっと高く飛べる」。「論理」につながれて、「論理」のなかに「感情」を探す。
 「いますぐに飛んで行きますと」の「と」もいやだなあ。「と、返事をして」、それからという「時間の論理」が動いている。
 「散文」なんだなあ、と思う。「短歌」という形式ではなく、小説の中の一行として出てきたらおもしろいかもしれない。「論理」がそれまでのリズムとは違って動く。その「変化」の瞬間が「感情」になる。「散文」ならば。
 でも、「短歌」は、「散文」ではないよなあ、と私は思う。
 一首のなかに音がないとおもしろくない。リズムと旋律がないと、「意味」だけを読まされている気持ちになる。だから、わくわくしない。「意味」なんかどうでもいいというといけないのだろうけれど、私は「意味」には感動しない。「意味」はあとからつくることができる。「感情」は、あとからはつくれない。その瞬間にあふれてくるものだ。泣いてはいけないのに涙が出るとか、笑ってはいけないのに声に出して笑ってしまうとか。抑制がきかないところに「感情」の「真実」がある。

 違った言い方をしてみる。ユキノの「論理」構造を見てみる。

「派遣でもできる仕事」と会議中屈託もなく話す同僚

二十一時消灯令に「無理です」と小さく部下は応える

効率的な働き方を、ときれいごとを並べるおれに集まる視線

派遣なのにヒールが高いとそこにいない人を咎める人のさびしさ

 ここに書かれている「と」は「と、話す」という意味である。「話す」(声に出す、ことばにする)という動詞を省略している。「派遣でも……」には、離れた場所で「話す」という動詞が書かれているが。
 そして、その「話す」は「独白」ではなく、かならず「聞き手」を引き寄せる。「聞く人」がいる。「話す/聞く」という「ドラマ」がそこにある。「話す/聞く」ことで「意味」を共有する。そのとき「感情」も共有するのかもしれないけれど、それは「話し手」の感情なのか、「聞き手」の感情なのか。そうではなくて、「話し手/聞き手」のあいだにある「空気」を意味するかもしれない。「空気が読めない」というときの「空気」。
 「短歌」はそういうものを読むようになった、ととらえればいいのかもしれないが、私は、「自分」というものが「空気という意味」に剥がされていくような感じがして、どうもいやな気分になる。

ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり

かさついた声で伝える正社員登用制度という狭き門

院卒で離職歴のある履歴書に浜辺のように広がる余白

吹く風のゆくえも知らずサイゼリヤでパソコンを開く遊牧民たち(ノマドワーカー)

拾い上げた影を畳んで持つように日盛りの街でスーツの上着を

 「で」が乱用されている。「で」はなんにでもくっつく便利なことばだが、そこに「論理」の省略がある。簡単に言うと「手抜き」である。「論理」を書きながら、その「論理」の運動のなかで「手抜き」をしてしまう。
 これもリズムを無視した、「頭」の働きである。
 ユキノはきっととても「頭のいい」歌人なんだろうと思う。「おまえ、頭が悪いぞ」というような指摘を受けたことのない人だと思う。学校ではね、あるいは職場ではね。
 「で」を「動詞」として言いなおすとき、そこに「肉体」があらわれてくる。「肉体」があらわれてくると、そこに「感情」も生まれてくる。
 いちばん簡単な説明をすると、「かさついた声で伝える」ではなく、「伝える声がかさつく」と言いなおすと、声を出すときの、声のかさつきがそのまま「肉体」に反映してくる。「伝える」よりも「声がかさつく」の方に「感情」がある。

 比較してはいけないのかもしれないが。
 先日読んだ加藤治郎の歌集『Confusion 』に、こういう歌がある。

爾(なんじ)、とだれか言ったかまさか校庭に運動靴の九十九足

 「なんじ」というルビは、原典では本文活字(?)よりも大きい。(65ページ参照)
 この歌でも「と」はつかわれている。しかし、そこには「話す/言う」という動詞は省略されずにきちんと書かれている。そのために「言う」「聞く」が直接的になり、「頭」で考える必要がない。さらに「聞く」方の感情は「なんじ」という大きなルビによって強調されている。「なんじ、って何だ」である。(こういう視覚化は、私は、押しつけのようで嫌い。爾という漢字だけで、たいていのひとは違和感を感じるだろう。それで十分だ。)そして、その「感情(あるいは、意味でもいいが)」をたたきこわすかのように「まさか」以下のことばがつづく。
 「まさか校庭に運動靴の九十九足」の意味は?
 意味はあるかもしれない。
 けれど、意味なんかはぶっとばして、「校庭」と「運動靴」と「九十九足」が見えてきる。いや、「九十九足」が見えるというのは、嘘なんだけれどね。「九十八足」か「百足」か、それを識別するのは「頭」なんだけれどね。
 「頭」なんだけれど。
 「うんどうぐつの/きゅうじゅうきゅうそく」の「音」そのものが、ぐいと「肉体」を動かしてしまう。「声」に出すと(私は音読はしないのだけれど、無意識に発声器官が動くのだと思う)、そこに「快感」がある。「耳」も気持ちがいい。「音」のなかにある緩急のリズム、詰まった音とのばす音。さらに「うんどうぐつ」の「つ」の音と最後の「そく」の「く」の音。この音は、アナウンサーなんかは「TU」「KU」と明確に「母音」を声にするかもしれないが、いまの若者早口言葉では「T」「K」と母音抜きでも発音されるかもしれない。で、こういうことは「脚韻」というには変なのだけれど、「脚韻」のない日本語の場合は、母音省略というあたらしい「音韻」のようにも聞こえる。

どちらの言葉も、醜いことがたまらない牛肉石鹸 美しい歌をだれかうたってくれないか

 この破調の短歌(?)も、音が響くから楽しい。

 で。
 ユキノの短歌にもどって、「音」が響いてくる作品がないのか、というとそうでもない。ある。

船乗りになりたかったな。コピー機が灯台のようにひかりを送る

残業の一万行のエクセルよ、雪原とおく行く犬橇よ

 この二首に特徴的なことは、句読点があること。「切断」がある。「切断」があるのだけれど、読む方はそれを「切断」ではなく「飛躍」と感じる。「切断」を乗り越えて、勝手に「接続」する。これが、音に変化を与えている。
 「と」とか「で」で「接続」を強調すると、「飛躍」がなくなり、音が「論理」に固められてしまうことになるのかもしれない。




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冒険者たち (新鋭短歌シリーズ38)
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山下修子「花は何処」

2018-05-11 12:05:32 | 詩(雑誌・同人誌)
山下修子「花は何処」(「飛脚」20、2018年04月25日発行)

 山下修子「花は何処」は、国有留保地をめぐる詩。「戦時をになう医療施設と兵站基地」をつくろうとしている。山下は、それに反対している。
 その中ほど(後半だが)。

計画に並行して実施された 植生調査では
貴重な品種があって 移植されたという
オハイオの森を擬した 二次林ながら
アカショウビンが飛来し
オオタカの餌場にもなっていた
レッドデータブックの絶滅危惧種が
自生していても 不思議ではなかろう

「おまえら--」と発する人も
「戦争なんかやめろ」と 意思表示する私たちも
保留地にあった植物の 名前すら知らない

 こんなところに感心していたら、山下から「主旨が違う」と言われるかもしれないが、私はこの部分が好きだなあ。
 「名前すら知らない」。ここに感動した。感動というか、はっと気づかされた。「知らない」という「動詞」をきちんとつかっている。
 「知らない」は直接的には、「植物の名前」を知らないということだが、ほかにも「知らない」ことはたくさんある。
 「おまえら」と山下らに罵声を浴びせるひとは、「山下の名前」を知らない。罵声にめげずに意思表示する山下らは、「罵声を浴びせるひとの名前」を知らない。さらには、そこに医療施設が完成したとき、その「施設に入るひとの名前」も知らない。そこで「死んでいくひと名前」も知らない。
 「名前を知らない」は「存在を知らない」に通じる。
 そして、その「知らない」の向こう側には、「戦場で起きていることも知らない」がつながっている。「戦争が起きたらどうなるか知らない」もつながっている。
 「知らない」ことばかりが、世界にあふれている。「知らない」ことを、どうやって「実感」に変えていくか。「知っている」に変えていくか。これは、むずかしい。
 むしろ逆に考えるのがいいのかもしれない。
 「知らない」ということのすばらしさを共有する方がいい。「戦争で何が起きているか知らない」「医療施設にだれが運ばれてきたのか知らない」。その「知らない」にはふたつの、あり方がある。「起きているのに知らない」と、「起こさないことによって、それを知り得ない」という方法。これは、「知らない」ではなく、そういうことが起きないようにするということでもある。
 「知らない」というのは、「ない」があるために、否定的な意味になりがちだが、肯定に変えることもできるはずだ。
 そういうことを、山下は訴えているのだと思う。

水ぬるむ季節をまえに
移植され 保護された植物はどこかで
小さな花でも 咲かせているだろうか

 できるなら、移植されず、保護されず、ただあるがままの「知らない」がいいなあ。雑草を、だれにも見向きもされない花という呼び方があるが、いいじゃないだろうか。だれに知られる必要があるだろうか。「知られない」ままでいい。生きているのがいちばんいい。「知らない人間(無名)」になるために、山下はプラカードをかかげているのだと思う。「御霊」になって、知られるなんて、いやだよ、という声が聞こえる。「御霊」になる前に、「プラカードをかかげていた山下」という具合に、「名前」が「登録される(知られる)」というのも、いやだね。しかし、そういう状況へ、一歩一歩近づいているね。こわいのは、そうやって「知られてしまう(登録されてしまう)」と、何と言えばいいのか、逆に「存在」は抹殺される。「名前がある」から尊重されるではなく、「名前」ごと消され、永久に知られなくなるということが起きるんだけれどね。

 「知る/知られる」という動詞を動かすだけで、いろいろなことが、みえてくる。動詞は必ず動かしてみないといけない。動詞と一緒に、自分の肉体を動かして確かめないといけない。



 


*

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だれに報告?

2018-05-11 09:27:23 | 自民党憲法改正草案を読む
だれに報告?
             自民党憲法改正草案を読む/番外213(情報の読み方)

 2018年05月11日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

柳瀬氏「加計と3回面会」/参考人招致 「首相案件」は否定/14日集中審議

 という見出し。
 10日の国会審議のことが書かれている。記事のなかに非常に気になる部分がある。

柳瀬氏は面会を通じて計画を把握したと説明したが、「加計学園の件で総理に報告したことも指示を受けたことも一切ない」と強調した。

 これに対して、野党はどう追及したのか。私はテレビを見ていないので知らないが、共産党の志井でさえ、こんなことしか言っていない。

首相の指示は一切なかった、報告もしなかったと言い続けているが、およそ考えられない。(記者会見で)(読売新聞・4面)

 「考えられない」というだけでは、批判にならない。追及にならない。
 では、「だれに報告したのか」となぜ問いをつづけないのか。
 3回も加計学園関係者に会っているのに、もし、柳瀬がだれにも報告しなかったのだとしたら、理由は何だろうか。どうなるだろうか。
 理由として考えられるのは、「面会」が無意味なものである、ということ。しかし、もし「無意味」なら、なぜ3回も会う必要があるか。3回も会って伝えなければならないことがあった、と考えるしかない。
 だいたい3回も会わないと「計画を把握」したことにならないのだとしたら、その計画は何だったのだ。3回会って、あれこれ指示を与え、やっと「まともな計画」にしかならないようなものだったということになる。「まともな計画にする」ために3回も会うということは、加計学園のことしか考えていなということだろう。
 そして、これからがもっと重要だが。
 3回も会っているのに、それをだれにも報告しないというのであれば、「加計学園問題」は「柳瀬案件」にならないか。柳瀬の「意向」を周囲が忖度し、それによって政治が動くということにならないか。
 「首相案件」以上に問題にすべきことである。「権力」は柳瀬が握っていることになる。ふつうの国民がすぐに名前も言えない人が「権力」を動かしていることになる。(いま、首相秘書官を努めているのはだれ? という問いに何人が正確に答えられるだろうか。)これが「民主主義国家」の姿なのか。

 柳瀬は、これまで愛媛県、今治市関係者には会った記憶がないと言っているが、加計学園関係者に会ったことはないとは言っていないという論理を展開している(問われていないから答えなかったという論理を展開している)が、この「論理」を問題の発言に重ね合わせると、どうなるか。

 安倍から指示はあったか、安倍に報告したか、と問われたから「ない」と答えた。しかし、菅からは指示を受けた。報告した。あるいは、他の関係者から指示を受けた。報告した、ということはありうる。問われていなから、答えないだけで嘘はついていないという論理を許すことにならないか。

 もう一度、書こう。
 もし柳瀬が、安倍の指示を受けていない、安倍には報告していなというのなら、柳瀬はどんな「権限」で加計学園関係者に会ったのか。愛媛県、今治市の関係者に会ったのか。そして、そのとき何を言ったのか。何のために、言ったのか。柳瀬の「独断」で「加計学園問題」を処理していいのか。
 そうなのだとしたら、あらゆる「案件」は首相秘書官の意向のままということにならないか。首相も知らない、まわりのだれも知らない。首相秘書官だけが、政策がどう実現していくかを知っているということになってしまう。

 「だれに報告したのか」さえ、問うことができないというのは野党の怠慢である。質問能力が著しく低下している。
 マスコミも同じだろう。
 他紙はまだ読んでいないが、マスコミのどれかが、「では、柳瀬はだれに報告したのか、だれにも報告しないのはなぜか」という論理で批判を書いているだろうか。それができないとしたら、マスコミも失格である。権力の暴走をチェックしていることにはならない。


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ルカ・グァダニーノ監督「君の名前で僕を呼んで」(★★★)

2018-05-10 01:07:27 | 映画
監督ルカ・グァダニーノ 出演 アーミー・ハマー、ティモシー・シャラメ

 北イタリアが舞台。青年と少年の恋愛を描いているのだが、北イタリアというのが、微妙だなあ。ギリシャ時代の彫刻が出てくる。そのギリシャ彫刻の魅力について「腹に贅肉がついていない」というようなことを語らせたりしているから、同性愛の遠因(?)をギリシャに求めているのだと思う。でも、舞台は、ギリシャから遠い北イタリア。
 ここに不思議な「距離感」がある。直接つながっていない、強い交渉があるわけではない、という感じがしない。でも、つながりがないわけではない。イタリアでも南部の方、シチリアあたりだとまた違った感じになるのだろうなあ。
 映画の見どころは、少年(ティモシー・シャラメ)の描き方。音楽や文学に造詣が深く、感性が非常に繊細。趣味で「編曲」をしたりしている。その少年がギリシャ彫刻そのままの青年(アーミー・ハマー)に惹かれていく。どう感情を伝えていいのかわからないのだけれど、「わからない」ことを武器に青年に迫っていく。
 「ぼくには秘密がある」「秘密はそのままにしておいた方がいい」「言わなくても、何が秘密かわかるだろう」という具合に。
 このときの「婉曲的」というか、不思議な「距離感」がおもしろい。少年は「編曲」でみがいた感覚を、「ことば」にも応用しているのかもしれない。「編曲(アレンジ)」のなかに「本質」をしのびこませる、あるいは隠す。
 青年は、こういうことが苦手だ。というか、「直接的」(編曲されていないもの)の方が好きである。少年がギターで演奏した曲が好き。でも、バッハをあれこれ「編曲」したものは好きではない、という具合に。
 「編曲」というのは、やっぱり「距離感」というものを含んでいるしれない。「音楽」だけでなく、「ことば」においても。
 そして、これは、やっぱり北イタリアとギリシャの距離感とどこか重なる。青年がアメリカ人、少年がイタリア人という「距離感」もある。青年と少年という「距離感」もある。
 「距離感」と同時にというか、「距離感」があるからこそなのか、その「距離」を少年は「衝動」で渡り切ろうとする。「ぼくには秘密がある」と言ってしまうのも「衝動」である。青年の方は「衝動」を抑えられるが、少年は抑えられない。「衝動」を生きているがゆえに、少年は青年に恋しながら、少女ともセックスをする。「距離」をそのままにしない、「距離」を乗り越えるという力がある。そこにバッハの原曲のような、ストレートな強さがある。
 ストレートな伸びやかさと、編曲の技巧。ふたつが交錯する。編曲の技巧を捨て去って、ストレートな欲望(よろこび)を発見していく過程を少年は具体化しているとも言えるかなあ。
 うーん。でも、どうも映画にのめりこめない。
 私が青年でも少年でもない、もう年をとった人間だからだろうか。
 私が映画を見た日は水曜日(レディースデイ)だったせいか、ほとんどが女性客だった。女性は、この映画の「だれ」に感情移入してみているのだろうか。想像するに、「少年」を「少女」としてみつめ、「少女」になって感情移入しているのではないのか。ふと出会ったひとに恋をして、身悶えする。その苦悩。純粋な苦悩へのあこがれを、いつまでも抱いていられるのが女性なのかもしれないとも思った。
 自分の中に「純粋」がまだある、と信じるのは、私なんかは、もう「めんどうくさい」と感じてしまうのだけれど。だから、ラストシーンで少年が暖炉の火をみつめる長い長いシーンは、「あ、こんなに集中して演技ができるなんて、ものすごいなあ。天才だなあ」と思ってしまう。ストーリーよりも、「演技力」の方に見とれてしまって、それがいちばんの印象になってしまう。
         (2018年05月09日、KBCシネマ2)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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加藤治郎『Confusion 』

2018-05-09 14:57:19 | 詩集
加藤治郎『Confusion 』(現代歌人シリーズ21)(書肆侃侃房、2018年05月12日発行)

 加藤治郎『Confusion 』は「いぬのせなか座」がレイアウト(装幀)をしている。私は、このレイアウトが嫌い。
 「ことば」をどうとらえるか。私にとっては「ことば」は音。「耳」で聞いた「肉声」しかおぼえられない。まわりにいる誰かが「声」に出す。(しゃべる。)それを聞いて、はじめて私の「肉体」のなかに入ってくる。「目」で見ても、よくわからない。私は小学校にはいるまで「文字」を知らなかった。入学する前の日、「名前くらいかけないといかん」というので、名前の書き方を教えてもらった。それまでは「音」しかなかった。こういう体験があって、そこから抜けきれない。
 『Confusion 』の文字のならべ方(書き方)はさまざま。説明するより、実際に見てもらうしかないのだが、そういうレイアウトにすることで、ことばは、どう変わるのか。もし変わるのだとして、それを「変えた」のは加藤なのか、「いぬのせなか座」なのか。「変える」ときに、加藤はどう関わったのか。「変えた」あと、加藤はさらにそれを「変えようとした」のか。「共同作業」がおこなわれたのか。
 ぜんぜん、わからない。というよりも、そういう「めんどう」なことを、私は考えることができない。だから、私は、「レイアウト」を無視して、もう一度「ことば」をならべなおす。
 こんな具合に。

ごごごごとまたしちしちと鳴くゆえに旅行鞄の中の歯ブラシ

 単純に、一行にしてしまう。
 鞄のなかで歯ブラシが音を立てる。列車(?)の振動が鞄に伝わり、そのなかの歯ブラシがケースにぶつかり音を立てる。それが「ごごごご」「しちしち」と聞こえるのは、加藤が歌人であり、「五・七」という意識があるからだろう。いま感じていることを短歌にしたい、五七五七七ということばにしたいという思いが、聞こえてくる音を「ご」と「しち」に変えるのだ。
 「五」だけではなく「七」という意識のぶつかりあい。そこに「また」ということばが入り込む。この「また」がこの一首のなかでは、「ことば」としていちばん強烈に迫ってくる。「正直」がある、と私は感じる。
 「また」とはなにか。「五」とは別に「七」、「五」のほかに「七」。違うものを結びつける。しかもそれは対等の関係である。別個のものを対等にする、という動きが「また」のなかに含まれている。「また」を「動詞」としてつかみなおすと、この歌の場合は、「ご(五)」と「しち(七)」という別の音、別の意味を対立するものではなく、同等のものとしてむすびつけるということになる。
 この別個のものを「対等」として「結びつける」は、ここには「主語」としては書かれていないが、「私」という存在と、「旅行鞄」「歯ブラシ」をも対等なものとして結びつけるということへつながっていく。
 「私」は書かれていないが、「私」はいる。その「私」を代弁するのが、「旅行鞄」か「歯ブラシ」か。それは読む人によって違うだろうが、ここに書かれていない「私」がいることについては、読者のだれもが疑わないだろう。
 さらに、私は、こんなことも考える。
 この歌のなかに使われている「動詞」は「鳴く」。「鳴く」の主語は何か。「歯ブラシ」だろう。「歯ブラシが鳴く」。もちろん歯ブラシは鳴かない。「鳴く」は「比喩」である。このとき、では主語は何なのか。「鳴く」が比喩なら、主語の「歯ブラシ」も「比喩」になるだろう。「歯ブラシ」は何の比喩なのか。
 「鳴く」を「声を出す」という動詞としてつかみなおす。「声を出す」ものは、この歌に書かれているか。書かれていない。しかし、先に読んだように、ここには書かれていない「私」がいる。そうすると、「鳴く」のほんとうの主語は、その書かれていない「私」であると考えられないか。
 「歯ブラシ」になって、「旅」の振動のなかで、揺れている。「肉体」が何かにぶつかる。「ことば」が動き出しそうだ。歌人の習性として、そのことばを「五七調」にととのえたい。そんな無意識が「ごごごご」「しちしち」という「音」になって動き始める。
 私は、そんなふうに読む。

蜂蜜のような匂いにつつまれてあしたの雨のまんなかにいる

 この歌では、表記のおもしろさ、表記の中にも「音」があると感じた。後半のひらがなつづきのなかに「雨」という漢字が一個はさまれている。それこそ「まんなか」に「雨」という文字がある。そうすると、そこだけ「ひらがな」とは違った「漢字の音」が聞こえる。
 「まんなかにいる」は前半の「つつまれて」を言いなおしたもの。「つつまれる」は「まんなか」になること。
 「あした」は「朝」という漢字(意味)かもしれない。けれど、私は「明日」と読む。「蜂蜜」の明るさが「明日」の明るさに通じる。「明日の雨の真ん中にいる」という言い方は、学校文法では許されないが、「蜂蜜のような匂い」の「ような」をこの歌の基本と考えれば、一首全体が「比喩」になる。だから「明日の雨の真ん中にいる」と「現在形」で言い切っても問題はない。「いるだろう」と未来形にしなくても、「比喩」の「現在」として、ことば動く。

 いろいろ感想を書きたい歌がある。けれど、やめる。
 こういうレイアウトの主張につきあえるほど、私の視力はよくない。
 
 


*

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エルマンノ・オルミ監督が死んだ。でも、ミネクは生きている。

2018-05-08 19:38:08 | 詩集
エルマンノ・オルミ監督が死んだ。
「木靴の樹」は、わたしのいちばん好きな作品。
ミネクの一家が農園を追われて去っていくシーンで、私は「ミネク、幸せになれよ」と祈ってしまう。
映画なのに。
思い出しただけでも、祈ってしまう。

初めて見たのは40年ほど前。
そのまま成長していれば、ミネクも中年。50歳前くらい。
幸せな家庭をもっているだろうか。
何をして働いてるだろうか。
そんなふうに想像してしまう。

「私は幸せに生きている」というミネクの声が聞けたら、どんなにいいだろう。
幸せに生きているミネクにあって、「ああ、よかったね」と声をかけたい。
幸せなミネクに会えるなら、そのためにならイタリアのあちこちを訪ね歩きたい。

映画なのにね、時代が違うのにね。
そんなふうに思ってしまう。

ミネク「水のなかには生き物がいっぱいいるんだ」
父「知ってるよ、魚だろう」
ミネク「もっとちっちゃいんだ」
父「見えないよ」
という会話とか、
両親がノートに書き込まれた文字を見て、
「これはエルだな」といったり、
初めて学校へ行く前の夜、ミネクがお風呂にはいる。
それを見た弟が「ぼくもお風呂はいりたい」と言ったりとか。
神父「ミネクを学校にやりなさい」
両親「学校は遠くて通えない」
神父「子どもは、そういうことは平気だ」とか。
学校へ行くとき、ひとり中庭を横切るときの光とか。
学校から飛び出すとき、石を踏んで木靴が割れるシーン。
割れた木靴を靴下でしばって歩くシーン。
書き出すときりがない。
次々に思い出してしまう。

「ミネク、絶対、幸せで生きていてください」と、やっぱり祈る。
監督の冥福を祈るというよりも。



下のurlはリバイバルを見たときの感想。


https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/e720a83f24bfe1357b67ea431eb3d8b8

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北川浩二『わたしの胸は反響する』

2018-05-08 12:00:46 | 詩集

北川浩二『わたしの胸は反響する』(私家版、2018年05月04日発行)

 北川浩二『わたしの胸は反響する』。「悲しみ」という作品で立ち止まった。

悲しみをみせられて
あなたの悲しみは
それですかと
この世でふたりきりになってきく
あなたの悲しみはそれですか
それから
朝となく 夜となく
あなたと一問一答をして
だれにも気づかれないあいだに
長い長い時間を夢のように過ごした

 悲しみをみせられて、「あなたの悲しみはそれですか」と聞くというのは、何だか奇妙だが、その奇妙さに惹きつけられる。単に聞くのではなく「この世でふたりきりになって」聞く。その「ふたりきりになる」という「動き」が「聞く」と強く関係している。
 「ふたりきりになってきく」というのは、「ふたりきりになったから」聞く(他人を排除して、秘密として聞く)ということなのか。そうではなく、「聞く」という動詞が動いて、「ふたりきりにした」のかもしれない。「聞く」ことで「ふたりきりになった」。「ふたりきり」が先にあるのではなく、「聞く」という動詞が「ふたりきり」を生み出した。
 「あなたの悲しみはそれですか」は、疑問ではなく、瞬間的な理解、理解できることへの驚きが生み出したことばだろう。「それを知っている」ことに驚いた。それが「わたし(書かれていない主語)」のものであるかのように「知っている」。他人のものに思えない。そのために、思わず声に出してしまった。
 「あなた」と「わたし」が「ひとり」になった。だから「わたし」は書かれることはない。「ふたりきり」ということばのなかに、「わたし」はいるようで、いない。「独立」しては存在していない。
 そういうことは「だれも気づかない」。それが「悲しみ」であり、またひそかな「夢」である。「喜び」である。
 「一問一答」ということばが出てくるが、問うことも答えることもないかもしれない。問うとしたら「あなたの悲しみはそれですか」という問いだけだろう。

 詩集のタイトルになっていることばは「名前」という作品の中にある。

名前を呼ばれて
返事をするときのあの胸騒ぎ
とても不思議だった
これがわたしの名前
と知っているだけでは足りない
知って
なおかつ何か思ってくれていなければいけない
きいてみたい
どうして思ってくれたの?

わたしは呼ばれて
返事をする
返事をするたびに
わたしの胸は反響する
どうして思ってくれたの?
一体
どうして思ってくれたの?

 この詩は「悲しみ」と「対」になっている。
 この詩には「あなた」という主語は書かれずに、「わたし」のみが書かれる。そして、この詩では「聞く」という動詞は「あなた」に向かっては動かない。「わたしの胸」に向かって発せられる。「一問一答」ではなく、「自問自答」。でも「自問自答」するとき、「わたしの胸」に浮かんでくるのは「わたし」ではなく「あなた」である。
 この詩でも、「あなた」と「わたし」は「ふたりきり」であり、同時に「ひとり」になっている。
 「一体」ということばを、北川は「副詞」としてつかっているが、「一体である」という具合に、「名詞」が隠れている。

 どの作品も、ある種の「反復」があり、それがなんとなく私には「短歌(和歌)」のように聞こえる。
 静かに、そこにある、という感じの詩集だ。


*

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パイロットボートの深夜行
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』

2018-05-07 09:37:27 | その他(音楽、小説etc)
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』(井上たか子訳)(人文書院、2018年03月25日発行)

 ボーヴォワールは、私の考えでは、二十世紀最大の思想家である。理由は簡単である。彼女のことばだけが「現実」になった。マルクスも毛沢東も世界に影響を与えたが、「現実」にはならなかった。ボーヴォワールの「男女は平等である」という主張は、世界で「現実」として動いている。もっとも、日本は例外かもしれない。安倍政権に近い人物は、強姦をしようが、セクハラをしようが、政権が擁護し、それが堂々とまかりとおっている。日本だけは「男尊女卑」を頑なに守り、さらにそれを強化しようとしている。

 この小説の主人公は、老いを迎えた夫婦(といっても、いまから見ると老いの入り口に近づいたという感じだが)。彼らはモスクワへ旅行する。そこで小さな行き違いが起きる。けれどもなんとか「若い」する。これがストーリーである。
 でも、ストーリーは、私の場合、結局忘れてしまう。
 いちばん印象に残っているのは、次のことば。

言葉は、いつも自分と一緒についてくる。

 これは月を見て、さらに月によりそう星を見て主人公(女)が思うことでである。月夜に歩くと、月はいつでもついてくるが、それと同じようにことばもついてくる。ことばは、いつでも「人間」から離れない。
 もっとも、これは「自分のことば」ではなく、かつて読んだことばのことを書いているのだが、私は、主人公自身のことばと思って読む。
 全体は、こうなっている。(44ページ)

空には月が、そしていつも忠実に寄り添っている小さな星とともに輝いていた。ニコルは『オーカッサンとニコレット』のなかの美しい詩句を口ずさんだ。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」これこそ、文学の美点だわと彼女は思った。言葉は、いつも自分と一緒についてくる。イメージは色あせ、形を変え、消えていく。でも言葉は、昔それが書かれた時のままに、彼女の喉元に甦ってくる。それらの言葉は、星がまさしく今夜と同じように輝いていた何世紀も昔へと彼女を結びつけた。そして、この再生、この恒久性は、彼女に永遠の印象を与えた。

 ことばは「喉元に甦ってくる」。考え(頭)を刺戟するだけではなく、「肉体」そのものを刺戟する。「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女を結びつけた」は「言葉が(略)何世紀も昔へと彼女の肉体を結びつけた」である。それは「彼女の肉体が何世紀も昔へと彼女を結びついた」である。いま、ここにある「肉体」が、遠く離れたものと結びつき、それを自覚した瞬間に「再生」がはじまる。「再生」とは「永遠」のことである。
 これは『オーカッサンとニコレット』に書かれていることばではなく、そこに書かれていたことばの刺戟によって動いた「ニコルのことば」である。「ニコルのことば」がニコルを動かしていく。ことばが動くとき、ニコルの肉体(思想)そのものが動く。
 「言葉は、いつも自分と一緒についてくる。」は、そんな具合にして、「肉体化」されている。言い換えると、ボーヴォワールは、いつでも思想(肉体)をことばにしているということである。「肉体(思想)」は、ことばとなって、彼女を突き動かす。ことばは、いつでも彼女の「肉体」を突き破って、「思想」そのものになる。
 「老い」とは何か。こう書かれている。

活発で、陽気で、機転がきくこと、それが若いということだ。つまり老年の宿命は、惰性、不機嫌、耄碌ということになる。(略)マーシャは「あなたは若い」といったけれど、ニコルの腕を取ったではないか。実際のところ、モスクワに来て以来、ニコルがこんなに強く自分の歳を感じるのは、マーシャのせいだった。ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていたことに気づかされた。(63ページ)

 「イメージ」とはあいまいなことばである。「ニコルは自分自身のイメージを四十歳で止めていた」とは「肉体」を「四十歳」と判断していたということである。その「肉体」をマーシャに重ねようとすると重ならない。反撃される。違うものが見えてくる。「自分自身」だけに重ねているときは気づかないのだ。
 この契機が、「ニコルの腕を取った」ということ。「腕を取られた(肉体を支えられた)」という実際の「肉体の動き」(動詞)そのものが、二つの「肉体」(マーシャとニコルの肉体)を分けてしまう。「腕を取る」とき、その「肉体」はつながるのだが、つながりながら(つながるということによって)、いっそう深い断絶(切断)が生まれる。
 ことばが生まれる瞬間、それが動いていく瞬間をボーヴォワールは、確実にことばにする。「言葉は、いつも自分と一緒についてくる」のである。この「瞬間」を確実にとらえ、それを拡大していく。ボーヴォワールのことばには、そういう力がある。
 「思想」には見えないかもしれないが、次の部分にも、私は思わず傍線を引いてしまった。

ニコルはほんとうは少しへとへとだった。けれども、通りすぎていく景色が疲れを忘れさせてくれた。工大で、穏やかな田園が、ゆっくり沈んでいく夕陽の光でやわらかな色合いに染まっていた。(40ページ)

 「ゆっくり沈んでいく」の「ゆっくり」が「思想」である。「夕陽が沈んでいく」そのスピードを「ゆっくり」とことばにする。するとニコルの「肉体」も「ゆっくり」動く。「愛しい星よ、われは見る/月もそなたを引き寄する」とことば言ってみるとき、ニコルの「肉体」は「月」と「星」の関係(そこで起きている運動)に引き寄せられるだけではなく、「月」になって「星」を引き寄せ、「星」になって「月」に引き寄せられる。ことばのなかで、月と星とニコルが見分けがつかなくなるように、いま「ニコルの肉体」は「夕陽」と見分けがつかない。
 こういう「融合」が美しい。
 この小説の「ニコル」がボーヴォワールなら、もうひとりの主人公「アンドレ」はサルトルだろう。彼の思想(ボーヴォワールから見た思想/肉体)も書かれている。端的なのが34ページのことば。

その日は来なかったし、来ないだろう。

 「過去」と「未来」が強く結びついて、「現在」を否定する。
 ボーヴォワールが「いま」を肯定し、そこから「肉体(思想/ことば)」を動かすのに対し、サルトルは「現在」を否定するために「過去」と「未来」を発見する。それはともに「現在」に潜んでいるのだが、それを「発見」し、「現在」を否定するために動かすという「矛盾(不機嫌)」を生きるのがサルトルである。ボーヴォワールの「再生」とはまったく違う。



 いま、自分の本棚を見渡して残念なのは、ボーヴォワール全集がないことだ。買いそびれた。本は、あとからは手に入らない。古本で全集(一揃い)をもっている書店をご存じの方は、教えてください。

モスクワの誤解
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ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

2018-05-06 20:40:47 | 映画
ジョージ・クルーニー監督「サバービコン」(★★★★★)

監督ジョージ・クルーニー 出演 マット・デイモン、ジュリアン・ムーア、オスカー・アイザック

 この映画のポイントは。
 ジュリアン・ムーアが双子を演じること。演じるといっても、最初の部分だけで、あとは「ひとり」の役。
 で、「双子」っ何だろう。
 よほどのことがないかぎり、見分けがつかない。
 私の姪に「双子」がいる。一卵性なので、見分けがつかない。私は、その子守をしたくらい「長い」付き合いだが(おしめを変えてやったこともある)、ぜんぜん区別ができなくて、二人がいっしょのときにだけ呼ぶ。どちらかが返事をする。こうすると間違えずにすむからね。
 何が言いたいかって……。
 「ひと」はなかなか「ひと」を見分けることができない。「外観」で「本人」をつかみとることができない。この「哲学」がおもしろい形で映画になっている。
 「サバービコン」は郊外の振興住宅地。そこには「金持ち」だけが集まってくる。似たもの同士(双子同士)。そこへ「アフリカ系」の家族が引っ越してくる。「アフリカ系」と言っても、ひとりひとり違うのだけれど、「同じ白人の金持ち集団」から見ると、ひとくくりにして「アフリカ系」。「個人」が見えない。つまり、「ひと」として「見分ける」ということがおろそかになる。「白人の金持ち」はひとりひとり見分けられる。「双子同士」だから。「個人」として認められるが、「アフリカ系」は「個人」としては認められていない。「双子」ではないから、「個人(対等な人間)」として認めなくないのだ。
 その新興住宅には「アフリカ系」は「一家」しかいないのだが、その「一家」に「アフリカ系」の全部を押しつけてみている。そして、「アフリカ系」のすべてを、そこから引き出し、「出て行け」と騒ぎ始める。「個人」ではなく「双子」、いや「双子」をかってに想像のなかでふくらませて「集団」として見ているといえばいいのかな。
 ほんとうは「人間」として違いがないのに、皮膚の色で「違い」を単純化する。「アフリカ系」は犯罪とつながっている、とかってに決めつける。だから「出て行け」という。その「出て行け」運動の方が「犯罪」になるとは、すこしも考えていない。
 こういう動きがある一方。
 「白人」の方にも「違い」があるはずなのに、その「違い」を見ようとはしない。つまり、「白人」は全員善良である。「金持ちの新興住宅」には「悪人」はいない。いても、見つからない。これを利用(?)して、この映画のメインストーリーは展開する。
 でもね。
 ひとは「見かけ」ではわからない。ここからが、「テーマ」だね。
 ジュリアン・ムーアは髪の色で違いを出していたが、髪の色を変えてしまえば、もう、わからない。「双子」のどっちが好きなのか。マット・デイモンにも、わからない。妹(姉?)の方が魅力的? そう感じるのは、なぜ? たぶん、「悪人」の方が魅力的なのだ。「悪」の匂いというは、ひとを昂奮させる。「悪」にひとは惹きつけられていく。
 白人集団が「アフリカ系は出て行け」と暴走するのは、一種の「悪」への陶酔だ。平和を愛するというよりも、「悪」を行うことの方が、何か解放感があるからだろう。
 おもしろいのが(?)、マット・デイモンとジュリアン・ムーアのセックス。地下室で(たぶん、地下室をマット・デイモンの寝室にしたのはこのためなのだが)、マット・デイモンがジュリアン・ムーアの尻をぶっている。セックスというのは、当人同士の問題だから何をしてもいいのはいいのだけれど、ここでは「暴力」が快感になっている。「悪」の喜びだね。それを子どもに見られる。子どものほうが正常で、灯を消して見えなくする。「双子の姉」が殺されたのは、「悪」の要素が少なかったからだ。
 最初の方のシーン。殺されるジュリアン・ムーアは、子どもに対して、「引っ越してきた家には子どもがいる。いっしょに野球をしたら」と促す。彼女には「人種差別」の意識がない。いわゆる「善人」である。だから、殺されたのだ。
 「善」と「悪」は双子で、それは「区別」がつかない。
 この「哲学」から、この映画は見直すとおもしろい。もう一度見る、というのではなく、意識の中で反芻するという形で、見直す。
 いちばん象徴的なのが、クライマックスのサンドイッチとミルク。それはおなかがすいては眠れない子のための食事だったはずだ。子ども思いの母親がつくる料理だ。けれど、そのサンドイッチとミルクには睡眠薬(?)が大量に含まれている。食べた人間を殺すためにジュリアン・ムーアがつくったものだ。けれど、それを子どもは食べない。帰ってきたマット・デイモンが何も知らずにぱくぱく食べる。「善」だと思って食べる。しかし「悪(毒)」だった。
 これは保険調査員(ジョージ・クルーニーの「双子」と勘違いしそうな風貌で、オスカー・アイザックが演じているのが興味深い)に出された洗剤入りコーヒーも同じだけれどね。ジュリアン・ムーアは一貫して、「親切」を装って「悪」を働いている。「親切」か「悪」か、「外見」ではわからない。それは「双子」なのだ。
 マット・デイモンが、「悪人」であるとわかるにしたがって、どんどん太っていく。「ひとり」なのに「双子」のうちの「ひとり」のように膨らんでくるのがなんともいえずおもしろい。

 ラストシーンも、「意味深」である。
 残された少年が、アフリカ系の少年と野球(キャッチボール)をする。ふたりはどうみても「双子」ではない。似ていない。けれど、二人のあいだをポールが往き来する。交流がある。もし、ほんとうに「善」があるとすれば、そういう異質なもののあいだで成り立つ交流のことだろう。ここにコーエン兄弟の「夢」、アメリカの「夢」が描かれているともいえる。
 でもね、良く見ると、二人のあいだには「垣根」がある。「垣根」を挟まないと交流(善)が実現しないというのが、いまのアメリカの姿である、と告発しているようにも見える。

(2018年05月06日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン9)


 *

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ファティ・アキン監督「女は二度決断する」(★★★)

2018-05-05 09:35:32 | 映画
監督 ファティ・アキン 出演 ダイアン・クルーガー

 見ていて楽しい映画ではない。特に裁判のシーンが厳しい。裁判というのは、「事件」を「ことば」で点検しなおす作業である。
 爆弾テロによって、夫と子どもが犠牲になった。それだけでも残された妻(主人公)にとってはつらい。「ことば」はそれだけで十分である。しかし、裁判では、そうはいかない。子どもがどんな状態で死んだか。細部が描写される。肉眼は一瞬で全体をつかみとる。ことばは細部を積み重ねながら全体を完成させる。そこには「持続」というものがある。「時間」が、ある。「時間」が「一瞬」ではなく、何度も往復する。最初に聞いたことばが、次に聞くことばのなかでよみがえり、それが増殖する。
 何と言えばいいのだろう。イギリスはシェークスピアの国、ことばの国である。しかしまたドイツもことばの国である。ただし、そのことばは「劇(シェークスピア)」のように何人もの違いを描き出すためにあるのではなく、一人の「人格」を確固とするためにある。「ドイツ哲学」ということばがあるが、これだな。「人格」を構築するのである。「人格」が「哲学」そのものとして動く。
 ダイアン・クルーガーは、夫と子どもを奪われた犠牲者であると単純化されない。ドラッグ依存症であるかどうかはわからないが、ドラッグをつかっている。そのことも裁判で問われる。ダイアン・クルーガーの「ことば(目撃証言)」は信頼できるのか。これは「人格」が信頼できるか、「ことばの運動」が「哲学」として信頼に耐えうるかということである。
 「ことばの運動」は、どこまでも「整合性」が問われる。爆弾をつくったと思われる現場には、「犯人」と指摘された人間以外の指紋があった。その、だれかわからない人間が「犯人」である可能性もある。「ことば」はそれを否定できない。「論理」はそれを否定できない。だから、「犯人」と思われる人間は「無罪」になる。
 さて。
 この、「不条理」としか言いようのない「現実」を、主人公はどう乗り越えることができるのか。
 ダイアン・クルーガーは、裁判で証言した男の「ことば」が事実かどうか、それを確かめにギリシャまで行く。そして「ことば」が嘘であったとつきとめる。だが、それをもう一度「ことば」として証明しなければならない。控訴して、もう一度、「裁判」の場で、「ことば」を動かさなければならない。
 だが、「ことば」はいつでも「真実」に寄り添うわけではない。
 それに、ダイアン・クルーガーは「裁判のことば」を求めているのではない。「他人のことば」を求めているのではない。そういうものは、もう、聞きたくない。自分自身のことば、「自分の哲学」を完成させたいだけである。
 で、というか、しかし、というか。
 このとき最後の「決断」を促すのは、やっぱり「ことば」なのだ。
 ある日の海辺。親子で楽しく過ごしている。ダイアン・クルーガーは日焼けオイル(日焼け止めオイル?)を塗ったばかりである。(これは、ダイアン・クルーガーの「タトゥー」と遠い伏線になっている。「外面/内面」という問題を提起している。)でも、子どもが「こっちへきて」と海の中から呼んでいる。夫も、そこにいる。「こっちへきて」。それは「遠い声」であり、同時に「非常に近い声」でもある。ダイアン・クルーガーの「肉体」のなかから聞こえる「声/ことば」である。
 ダイアン・クルーガーは、その「ことば」に身を任せる。

 こういうことが、ドイツではじまり、ギリシャで終わる。雨のドイツ。太陽の光の降りそそぐギリシャ。
 ギリシャはまた「哲学」の国である。ことばの国である。
 ソクラテスは自分のことばにこだわったが、最後は他人の「ことば(判決)」に従った。「ことば」が「ことば」であることを守り通した。
 ダイアン・クルーガーは「他人のことば」ではなく、「自分のことば(肉親のことば)」を「生きる」。
 ソクラテスの生き方も、ダイアン・クルーガーの生き方も、ふつうのひとにはできない。「ことば」と自分のいのちを完全に向き合わせることはできない。
 いろいろ考えさせられる。
 ダイアン・クルーガーは「ことば」(小説)でしかできないようなことを、「肉体」で具現化している。まさに「体当たり」の演技である。それは壮絶だが、壮絶だからこそ、何とも気が重くなる。分厚い「ドイツ哲学(書)」をつきつけられている感じだ。ドイツではじまり、ギリシャへ帰り、そこで「結論」を出すという、ドイツ人の「哲学史」そのものを見ている感じだなあ。



 補足。
 「ことば」の問題、「だれのことばか」は冒頭から問われている。車にはねられそうになったダイアン・クルーガーは、車に罵声を浴びせる。同じように子どもも悪態をつく。ダイアン・クルーガーは、「それはだれのことば?(だれから習った?」と問いかけている。
 家宅捜索でドラッグが見つかったとき、ダイアン・クルーガーは「自分でつかった」と答える。母親は「なぜ、夫のものだと言わなかったのか」とあとで問い詰めている。
 「ことば」なしに人間は考えられない。「ことば」で何を考えるか。「ことば」を発するとき、そこに何が「生まれている」のか。
 「ことば」が「生んでいる」ものが「自分」であるかどうか、「自分」が「自分」であるためには、何が必要なのか。
 そこから見直すことが求められる映画かもしれない。
(2018年05月03日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン5)


 *

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橋本シオン「今日は晴れているから」

2018-05-04 11:09:39 | 詩(雑誌・同人誌)
橋本シオン「今日は晴れているから」(「現代詩手帳」2018年05月号)

 橋本シオン「今日は晴れているから」は、こうはじまる。

わたしはセックスをする。長屋の二階の、冷
たい板の間の上で、少しだけ知っている男と
セックスをする。十月の空気が冷たくて、裸
のままでは寒すぎる。わたしの性器は濡れそ
ぼる。

 「冷たい」ということばが二回出てくる。「セックスをする」ということばも二回出てくる。それは対になっている。そして「冷たい」が繰り返されると、それは「寒い(寒すぎる)」に変わる。
 ここには明確な形で「動詞」が書かれているわけではないが、「冷たい」から「寒い」への変化には「動詞」がある。
 なぜ「冷たい」が「寒い」に変わるのか。
 「わたし」が「肉体」でつかみとろうとしているものが、「ことば」になろうとしている。あるいは「肉体」でつかみとって、「ことば」を生み出そうとしている。その動きが影響していると思う。
 ここには、また「知っている」という動詞がある。「少しだけ」という限定がついている。「知らない」ということでもある。「知っている」と「知らない」も、変化である。「知らない」が「知っている」に変わるのか、「知っている」が「知らない」に変わるのか。それは「セックスする」という「動詞」のなかで、これから起きることである。
 だが、「起きる」ことが何なのか、わからない。
 「わたし」にわかるのは「性器」が「濡れそぼる」という「動詞」だけである。(この「濡れそぼる」というのは、正しい言い方なのかどうか、私はわからない。)

母曰く、淫乱で売女なわたし、そのからだが
孕む熱をどうか、そのペニスで沈めてくれま
せんか。多くは望まないので、ただここに、
いれてくれるだけで構わないのです。

 「冷たい」「寒い」のかわりに「熱」が書かれる。「からだが孕む熱」(からだの内部にある熱)のせいで、「裸」(空気に晒されている外縁/内部の対極)が「冷たい」「寒い」と感じられる。
 このとき思い出している(つまり、肉体の内部にある)母のことば、「淫乱で売女」は「熱い」のか「冷たい」のか。「冷たい」ことばだから、それが「熱」を意識させるのか。やはり、何かが動いている。
 熱を「下げる」ではなく「沈める」という動詞で橋本はことばをつないでいる。「沈める」は、たとえば「怒りを沈める」という動かし方がある。母のことばに対する「怒り」が「からだ」を熱くしているとは思えないが、「沈める」という動詞は何かしら母のことばとつながっている。この脈絡は、複雑で、興味深い。
 そういうこととは別に、「ペニス」ということばの一方で、「ここ」ということばがつかわれていることが、とてもおもしろい。
 なぜ「ここ」なのか。

インターネットの太い河から、幾多にわかれ
た細い水の流れを、わたしはなぞって、そう
して知り合った男たちは皆、なぜかペニスが
ついていた。わたしには濡れそぼった性器が
ついていて、その性器の名を、わたしは知ら
ない。

淫乱で売女だと教えてくれた母も、正しい名
前を教えてくれない。なんでみんな、教えて
くれないのだろう。あなたにもついて、いな
いのだろうか。濡れそぼるこの性器の、正し
い名前を。

 「性器」であることは知っている。けれど「名前」は知らない。だから「ここ」と呼んだのだ。でも男の「性器」が「ペニス」であると知っているのはどうしてなのか。
 簡単に言えば、「ペニス」で考えないからである。「ペニス」といっしょにことばが動かないからだ。「わたし」の「性器」は「濡れそぼつ」。「わたしには濡れそぼった性器がついていて」と書くとき、「性器」が主語で「ついている」が「述語(動詞)」なのだが、その「性器」の内部(?)で「濡れそぼつ」という「動詞」が動いている。「濡れそぼつ」という動詞が性器を動かしている。しかも「濡れそぼつ」というのは「意思」でどうこうできる問題ではない。(と、私は思っている。女性性器をもっていないので、これは私の空想なのだが。)
 「知らない」と言うしかない理由は、たぶん、ここにある。
 自分の「意思」で動かせないものがある。だから「これ」と呼ぶしかない。ことばになるまえのもの、「未生のことば」としての「これ」。
 「熱」はここから生まれてくる。そして、それに「名前」がついていていない(客観化できない)ために、うごめき、それがさらに「熱」になる。このうごめく「熱」が、外部を冷たい、寒いということばとして浮かび上がらせる。
 「冷たい」「セックスする」が繰り返され「寒い」になるとき、内部では「名前のないもの」が動いている。
 それは「教えられない」。それは自分でつかみとるしかない。
 「教えられた」としても、「淫乱」「売女」のように、「知っていることば」とになるだろうか。「流通言語」として、他人に共有されるものになるだろうか。ならないだろう。それは「わたし(橋本)」だけのものだから。他人には共有できないものだから。
 このあと、詩は、クライマックスというのが、もうひとつの「強いことば」を生み出す。

東京の空を、十月の薄い雲が覆い隠して、こ
ぼれた日差しが長屋を埃っぽく映し出す。男
の裸は肉がたくさんついて、ナイフで切り取
り炙ってやりたい。わたしの上で腰をふって、
苦しそうな顔が、板塀に吸い込まれる。これ
が真実なら、きっとあれも真実だ。

 「これ」とは男が「わたしの上で腰をふって、苦しそうな顔」をしてるということだ。「あれ」とは「わたしの性器(ここ)」の内部で動いていることばにできないこと、まだ名づけられていないこと、である。
 「ここ」も「あれ」も「わたし(橋本)」には何のことかわかる。それは自分の「肉体」そのものだからだ。だが、それは「正しい名前(他人と共有できることば)」にはならない。共有できる「正しい名前」にしてしまえば、きっと「肉体」が「それは違う」というだろう。「ここ」「あれ」と呼ぶしかない。
 「あれ」と「遠く」をさすことばがつかわれているのは、それが「いま」はじめてあらわれてきたもの、まだ完全に自分のものとしてはつかみきれていない「恐れ」のようなものが、そう呼ばせるのだろう。うまれたばかりのことばなのだ。

 ことばにならないからこそ、そこに「正直」が動いている。



*

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これがわたしのふつうです
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きのう書き漏らしたこと

2018-05-04 00:37:25 | 自民党憲法改正草案を読む
きのう書き漏らしたこと
             自民党憲法改正草案を読む/番外212(情報の読み方)

 自民党の改憲案でいちばん注目をあつめているのが「憲法9条」と「自衛隊」の問題。安倍は「自衛隊を憲法に書き加える」と主張している。そのときの「根拠」は、「災害救助にがんばっている自衛隊が、違憲であるといわれるのはかわいそう。自衛隊の子どもたちがかわいそう」というものである。
 このことは、よくよく考えてみる必要がある。
 もし、自衛隊が憲法に書き加えられたとしたら、その後「自衛隊は違憲である」という意見はなくなるのか。
 きっとなくならない。
 安倍がむりやり憲法に書き加えたものである。この改憲は許せないという意見が出るはずである。
 安倍が、現在の憲法がアメリカ(連合軍)の押し付けである、と主張するのと同じように、安倍によって押しつけられた改憲である、という主張が起きるはずである。
 そのとき、安倍はどうするか。
 「憲法に自衛隊が書かれているのに、違憲であるという主張をすることは許されない」と言うに違いない。
 憲法が、違憲弾圧に使われるのである。

 憲法は、思想、表現の自由を保障している。
 しかし、「自衛隊は違憲である。憲法改正は安倍が強引に仕組んだ犯罪である」というような主張は、きっと弾圧される。
 弾圧に利用するための、憲法改正である。
 安倍が自衛隊の最高指揮者として、あらゆる機会に自衛隊を出動させる。選挙の監視にも動員されるだろう。選挙妨害がおきては秩序が保てない、というように理由はいくらでもつくりあげることができる。
 選挙公約に「自衛隊を憲法から外す、9条をもとのかたちにもどす」というようなことをかかげれば、即座に「憲法違反の主張だ。犯罪者だ」とレッテルがはられるだろう。

 ほんとうに危険なのは、自衛隊を憲法に書き加えることではなく、改憲後の憲法は絶対である。それに反対することは許されない、という主張が大手を揮うことである。
 思想、信条の自由、言論の自由は、改憲と同時に加速する。
 独裁、全体主義が加速する。それを軍隊(自衛隊)が監視する。
 

 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ポエムピース
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