詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

5 (太陽が真上にくると)(嵯峨信之を読む)

2018-06-05 10:50:32 | 嵯峨信之/動詞
5 (太陽が真上にくると)

太陽が真上にくると
木の影が消えてしまう

 これは「真実」ではない。木には枝のひろがりがあるから、影は消えるのではなく小さくなる。
 しかし、この「消える」を「事実」だと錯覚する。
 太陽が傾いているときの影の大きさを知っているから、錯覚する。錯覚は、知っていることがあるからこそ起きる。
 だから、ここから静かな悲しみを感じてしまう。「消える」ということばが、悲しみを誘うのかもしれない。

話はそこですべて終わる

 二行を引き継いで、ことばは、こう動いている。「消える」から「終わる」へと動詞が変化する。
 光があふれる真昼なのに、冷たい悲しみがある。

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4 (火から火を渡るような生涯だつた)(嵯峨信之を読む)

2018-06-04 10:49:45 | 嵯峨信之/動詞
4 (火から火を渡るような生涯だつた)

火から火を渡るような生涯だつた
かれはついに気が狂つた

 もし彼が気が狂わなかったら、どうなっていただろうか。彼を見ている「私」の方が狂ったかもしれない。
 悲惨と同時に安堵を感じてしまう。
 
 「火から火を渡る」とは、どういう状況だろうか。「火」から過激なものを連想するが、具体的な状況がわからない。「火」自体が「現実」ではなく「イメージ」だからだろう。
 そして、この「イメージ」を生きるということが「狂う」ことの引き金なのかもしない。「現実」を超えるもの、「現実」を逸脱するものが「イメージ」ということになる。

鳥籠の中に
かれは一羽の文鳥を残した
小さなとまり木をいそがしく行きかいながら文鳥は今日も生きている

 文鳥にとって「とまり木」は現実か、とまり木を行き交いながら、文鳥は「森」を思っているか。
 こう連想するのは、私であって、文鳥ではない。
 このとき、文鳥そのものが「現実」ではなく「イメージ」である。
 閉じこめられ、狭い世界を森と勘違いして生きている鳥。イメージの中心(意味)は、そして、鳥ではなく「鳥籠」になる。

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3 自然の総目録(嵯峨信之を読む)

2018-06-03 10:46:07 | 嵯峨信之/動詞
3 自然の総目録

しかしあれは誰の詩語だつたのだろう
《男=この永遠の遺失物……》
自然の総目録からいつ人間はぬけ落ちたのか
ぼくはどこでピリオドを打たれたのか

 「ぬけ落ちた」は「中間」が抜け落ちる。「両端」は落ちても「ぬけ」落ちることはない。「落ちる」よりも「ぬける」という動詞に重きがある。
 「ぬけ落ちる」は「両断する」を思い起こさせる。
 両断したとき、両端が落ちたのではなく、「中間」が「ぬけ落ちた」。それが「男」であり「人間」である。
 このとき「永遠」は、残された「両端」の方にある。

 「ぬけ落ちる」はまた「ピリオドを打つ」と言いなおされている。「つながり」を絶たれることを、「終わり」と言っていることになる。
 何と、どことつながるか。それは書かれていない。「つながり」の「総目録」が「自然」ということになる。





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2 雨(嵯峨信之を読む)

2018-06-02 10:45:11 | 嵯峨信之/動詞
2 雨

ぼく自身を両断すると
針は時刻のどこを指しているか

 「両断する」がむずかしい。「切断する」ではない。「両方を切る」。
 次の行の「時刻」を手がかりに、「時間」を「両断する」と読んでみる。「過去」と「未来」を切り捨てる。「いま」は、どこを指している。
 「いま」は「いま」しか指していないのか。
 現実の暮らしを見つめなおすと、「いま」の真ん中で、私たちは「未来」を向いているか、「過去」を向いている。どちらかであると言えるかもしれない。
 嵯峨は自問している。自分自身はどちらを指向しているか。「指す」は「指向する」なのだ。
 「どこ」は「場所」をあらわすことばだが、嵯峨は「時」と「場」を同じようにとらえている。(これは『誤読』で指摘した。)

そとは呪いの土砂降りでぼくはついに目ざめない

 「そと」とは「いま」以外のところ。「未来」「過去」とも「土砂降り」。どこにも出て行くことができずに「いま」、「ここ」にいる。この閉ざされた状態を「目ざめない」という動詞で語っている。
 詩集のタイトルに従えば、「いま」は「閉ざされる日」ということになる。ここから「開かれる日」へ向けて、ことばは動き出すのか。

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1(永遠はなにも言わない)

2018-06-01 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
嵯峨信之『開かれる日、閉ざされる日』(1980)を読む。



1(永遠はなにも言わない)

 エピローグの二行。

永遠はなにも言わない
ただ時の鐘をつるしているだけだ

 「永遠」と「時」が対比される。「鐘」は時を知らせる。
 永遠が何も言わないなら、「時(瞬間)」から何かを聞きとるしかない。「時」は何を語っているか。
 聞きとったものを「いま」に限定するのか、「永遠」へとつなげていくのか。
 このとき「言う」という動詞は、「時(いま)」から詩人に手渡される。
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