詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(125)

2019-04-23 00:00:00 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
125 酒舗や娼館を

ベイルートの酒舗や娼館を転々としている。
タミデスを失った以上
アレクサンドリアには居たくなかった。
彼はナイル川の別荘と市内の屋敷で釣られて
知事の息子のところへ行ってしまった。

 「酒舗や娼館」と「別荘と屋敷」が対比されている。タミデスが知事の息子に「釣られて」「別荘と屋敷」の方へ行ったということだが、その前には知事の息子が「酒舗や娼館」にやってきたということだろう。ベイルートではなく、アレクサンドリアでは。
 ここには「往復」がある。人の行き来がある。
 このあと、詩は、最初の一行を繰り返し、こう展開する。

ベイルートの酒舗や娼館を転々としている。
安っぽい遊蕩にふける下劣な日々。
変らぬ美のように、我が肉体に染みついた
香水のように、残る
救いはただ一つ、
世にも稀な美貌の若者タミデスが
二年の間、わたしだけのものだったということ、
屋敷もナイル川の別荘も持たないわたしなのに。

 ここでは「わたし(の肉体)」と「屋敷と別荘」が対比されているのかもしれない。かつてタミデスは「わたしの肉体」に「釣られた」のだ。
 「酒舗や娼館」と「屋敷と別荘」の間に「肉体」があり、「肉体」を通路として「酒舗や娼館」と「屋敷と別荘」はつながり、そこをタミデスは往復する。現実にもそうなのか、甘い思い出の中だけでそうなのか。いま、「わたし」は「肉体」を頼りに、アレクサンドリアとベイルートを往復している。記憶の中で。

 ベイルートに関する池澤の註釈。

アレクサンドリアから六百キロ、すなわち船でなら一、二日ほどの距離にある国産都市で、ギリシャ系の主人公にとってはカイロより行きやすい遊蕩の場だったのだろう。




カヴァフィス全詩
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池澤夏樹のカヴァフィス(124)

2019-04-22 08:09:34 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
124 セラペイオンの神官

イエス・キリスト様、わたしは常に
思いと言葉と行いにおいて
聖なる教会の戒律を守り
あなたが否むものすべてを退けてきました。
しかし今、わたしは父の死を悼み、父の死を悲しみます。
父が(申し上げるのも恐ろしいことながら)
呪われたセラペイオンの神官であったとしても。

 私には「宗教感覚」がないのかもしれない。こういう、どちらの神を大切にするかというような問題は、どうもなじめない。どちらも同じと思ってしまう。
 私が関心を持つのは、

(申し上げるのも恐ろしいことながら)

 このことばが、(括弧)のなかに入っていること。日本の書き方では、括弧内は「補足説明」のことばがはいることが多い。カヴァフィスの原文はどういう表記なのか。外国の文章では( )をつかうことがあるのかどうかも私は知らないが、なぜ池澤がこういう表記にしたのか、とても気になる。
 日本でのふつうの書き方を踏まえて言えば、しかし、ここは「補足」を装った「強調」のように感じられる。主人公の「わたし」は、言いたいのだ。「恐ろしいことながら」という気持ちよりも、父が「セラペイオンの神官であった」ということを。それは、つまり、「わたし」はキリスト教徒であり、キリスト教徒の「告白」の仕方を踏まえて語っているが、意識のどこかではキリストとは違う神を生きている、と。

 池澤は、

「われは思いと言葉と行いとをもつて、多くの罪を犯せしことを告白し奉る」はカトリックの「告白の祈り」の文言である。

 と教えてくれている。




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15 黒を分類する

2019-04-21 15:23:36 | アルメ時代
15 黒を分類する



   1
川がひらかれる
血のようにくろく流れていたもの
ビルを隈取り街の底部をつらぬいていたものが
朝の光に切り開かれる

(だがほんとうだろうか 昨日私は
夜が都市の内部を切り開くのを見た
黒いものが形の殻をとかし
内臓のそこで光っているものを
浮かびあがられる時間を歩いた)

   2
川がくろくなる
はねかえされた真昼の光が
疲労に沈む目を射抜くとき
周辺がくろくなる
光と同じ垂直な色に

    2′
日がかげる
やなぎのみどりが一瞬ふかくなる
海のように なつかしい
水のように
(橋の上から
私の上を あるいは私の下を
流れる水を見た
あるいは水が含むくろによって
なめらかになった影を
透明な形を)

   3
日が西へ動いていく
川は光にとざされる

窒息しそうになった内部は
つよく呼吸する
空にひそむ金の翳りを
熱を放射するアスファルトの気分のわるいにおいを
薔薇の花弁をながれる静脈を
一つを分類するとき周辺に集まってくるすべての黒を
美術館の肖像画を縁取る硬い線を
(存在をほどくように)

川はかえっていく
ぬれた黒
際限のないひろがり



(アルメ237 、19855年11月10日)
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吉川伸幸『脳に雨の降る』

2019-04-21 11:12:01 | 詩集
吉川伸幸『脳に雨の降る』(土曜美術社出版販売、2019年03月02日発行)

 吉川伸幸『脳に雨の降る』の「真夜中の段ボール」。

真夜中
蒸し暑い台所の段ボール箱に
キャベツがいた

いつからいたのか
まるまるとした硬いからだも
月日にはたえきれず
無残にもくずれ異臭を放っていた

 一連目の「キャベツがいた」、二連目の「異臭を放っていた」。同じ「いた」ということばがつかわれている。
 「異臭を放っていた」はふつうにつかう。しかし「キャベツがいた」とはふつうはいわない。ふつうは「キャベツがあった」。でも吉川は「キャベツがいた」と書く。そうすると、その瞬間から「キャベツ」は人間か生き物のように思えてくる。人間を擬人化したもの、キャベツを擬人化して語ろうとする「意志」が見えてくる。
 「擬人化」を受けて、二連目には「からだ」ということばつかわれる。そのあとに「放っていた」とことばがつづくとき、それは「現象」というよりも、「意志」になる。異臭が自然に生じたのではない。意図して異臭放っているのだ。「擬人化」は、「放っていた」の「いた」に引き継がれている。

キャベツの下には茄子や玉ねぎなどもいて
足首やお尻や髪の毛やらをのぞかせている
さらに下にはトレイらしきものが見てとれるだろう
鳥肉か魚かは知らぬが
黄ばんだ汁の中を線虫の類がうごめいているのはあきらか
箱をかさこそとひっかく音もする
たたくと応えるように
複数のかそかそが軽快に走りまわる

 擬人化は、茄子、玉ねぎに引き継がれていく。そして「足首」「お尻」「髪の毛」とことばにされると、もうそこには野菜は存在しなくなる。かわりに「人間」が姿をあらわしてくる。
 見すてられ、放置された人間。
 何の譬喩か。
 次に登場する「鳥肉」「魚」は「肉体」の言い換えかもしれないが、すでに「肉体」が出てきているから、ここで「鳥肉」「魚」を出すと、逆に「人間」が消えてしまう。そういうものを間にはさまずに、直接「線虫」へと結びつけた方が、「人間」のなまなましさが出ると思う。
 もう「人間」ではなくなって(もちろん、キャベツ、茄子、玉ねぎでもなくなって)、「線虫」に生まれ変わって、抗議している。放置されたことに対して文句を言っている。「かさこそかさこそ」。ことばにはならない。しかし抗議である。抗議は生きている。
 それを「軽快」と呼ぶところに、いのちへの讃歌がある。
 
複数のかそかそが軽快に走りまわる

 この一行は「いた」のように「過去形」ではない。「現在形」は「のぞかせている」にすでに登場している。その前の「玉ねぎもいて」も「現在形」ととらえることができる。「いた」が「擬人化」を経ることで、「現在形」に変わっている。
 この「暴走」あるいは「過剰」のなかに詩がある。

鳥肉か魚かは知らぬが

 は、「論理のいいわけ」のようなもので、詩を弱くしている。それが残念。もっとことばを暴走させればいいのに、と思う。

 巻頭の「かもしれない」の二連目。

きいてくれるかもしれない
こばまれるかもしれない
くりかえすしかもしれない
とめることができるかもしれない
しんじていいのかもしれない

 五行で終わるのではなく百行つづけば、私は詩を信じる。






*

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池澤夏樹のカヴァフィス(123)

2019-04-21 08:57:09 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
123 小アジアのあの町で

 アクティウムの海戦。予想しなかった結果をどう書くか。最初から改めて書き直す必要はない。

名前だけ入れ替えればいいのだ。
最後のところの「カエサルの紛い物である
オクタヴィアヌスの災厄から
ローマを解放した」を
「カエサルの紛い物である
アントーニウスの災厄から……」とすれば
きちんと帳尻が合う。

 こういうことは、あらゆる歴史に適用できるだろう。戦いの結果など、市民には関係がない。市民に関係があるのは、自分の存在、自分のアイデンティティだけである。

ゼウスが彼に与えし才能を尊び、力強きギリシャの保護者にして、
ギリシャの風習の名誉を尊重し、
ギリシャの領土全体で敬愛され、
(略)
業績をギリシャ語によって、韻文と散文の両方によって、
栄誉の正しき器であるギリシャ語を用いてこそ
永く伝えるであろう」

 繰り返される「ギリシャ」。それだけが市民の求めるアイデンティティだ。だれが統治しようが知ったことではない。ここに「市民の知恵」がある。
 カヴァフィスは「ギリシャの慣用句」を多用しているのではない、ギリシャのシェークスピアではないか、と私は勝手に推測しているが、この「市民の知恵」にもそれを感じる。「慣用句」とは「市民の知恵」の結晶である。

 l池澤は、こんなふうに書いている。

 彼らにとって戦いの帰趨はどうでもいい。ローマの勢いの前でいかにギリシャ文化を守るかだけが関心事なのだ。

 カヴァフィスは「慣用句」を多用することで、ギリシャ文化を守っている、守ろうとしているのだろう。「永く伝える」のは「オクタヴィアヌスの業績」ではなく「ギリシャ語」の強さだ。




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情報の読み方(番外篇)

2019-04-20 11:21:28 | 自民党憲法改正草案を読む
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6320921?fbclid=IwAR3tuwi_IutbSIVOc3B7uY1JHV2NZPy-XQDWcvDEE3A4bZbVKGBdnCRwJGc

経団連会長“終身雇用を続けるのは難しい”というニュースを見た。



日本の不景気は、ここまで来た。
大企業も雇用を守らない。守る余裕がなくなった。
雇用だけではなく、賃金もどんどん切り下げられるだろう。
賃金を切り下げる「道具」として外国人が雇用される。
大企業そのものの外国人雇用は進まないだろうが、中小企業や、私たちの周り(コンビニとか、居酒屋とか、その他の飲食店とか)では、どんどん働く外国人が増える。
もちろん彼らの給料は安い。
なぜ、安いか。「技能が未熟」だからではない。その安い賃金にまで日本人労働者の賃金を下げる。そのための「新しい基準」にするためだ。

賃金引き下げがはじまる。
来年から、春闘は、賃上げの戦いではなく、賃下げをどこまで押しとどめるかという交渉になる。
連合は、経営者予備軍(安倍支持予備軍)だから、労組をおさえつけにかかるだろう。
雇用を守るためには賃下げが必要だ。
賃金が下がった分は、安倍が提唱している「副業」で稼げばいい。

「副業」はどれだけやっても「残業」ではないから、「過労死」は完全に自己責任。
そういう労働システムがはじまる。

安倍批判をするなら、いましかない。
自衛隊が合憲化されれば、その軍隊をつかって、安倍は、安倍批判をする国民を弾圧する。
軍隊の力で独裁を進める。
安倍と、そのとりまきの人の利益のためにだけ、安倍は軍隊を動員する。
東京五輪後が心配と思っていたが、もっと早いかもしれない。
東京五輪前に、そういうことが起きるかもしれない。
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池澤夏樹のカヴァフィス(122) 

2019-04-20 10:59:08 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
122 クレイトーの病気

 クレイトーが病気になった。「若い俳優が/もう彼を愛さない、彼を求めないと言ったから」。しかし、詩の主眼はそこにではなく、後半にある。病気を心配した「老いた召使」がいる。彼女が彼を育てた。

彼女はこっそりとケーキとワインと蜂蜜を用意して
偶像の前に置き、昔よく覚えていた
祈りの文句をとぎれとぎれに思い出して
唱える。だが彼女は知らない、
黒い神がキリスト教徒の病が治るか否かなど
まるで気にかけていないことを。

 池澤が「黒い神」につけた註釈。

キリスト教への改心が趨勢となった時に古い偶像崇拝がどういう運命を辿ったかにカヴァフィスは強い関心を寄せている。背教者ユリアヌスに関わる詩が多いのもその現れだろう。この異教の「黒い神」は明らかに拗ねている。

 「拗ねている」はなんとも人間臭い表現だが、たしかにギリシャの神の方がキリスト教よりは人間臭いだろう。嫉妬もする。
 私の印象では、ギリシャの神はみんなわがままだ。自分のことしか考えない。
 そのことをカヴァフィスは、どう考えていたか。
 私は、自己中心的なギリシャの神をカヴァフィスは肯定していると感じる。人間なんか、どうだっていい。どうせ死んでいく。人間の病気なんか、気にかけるはずがない。もし気にかけるものがあるとするならば、「ドラマ」そのものを気にしただろうなあ、と思う。だれが、だれに対して何をするか。その結果、世界(人間関係)がどうかわるか。これは、見飽きることがない。ギリシャの神は、それを「娯楽」のようにながめている。
 というところからこの詩を見つめなおすと。

思うに彼は既に
心疲れていた。友人が、若い俳優が
もう彼を愛さない、彼を求めないと言ったから。

 この二連目の方がカヴァフィスの詩にとっては、やはり重要なのだ。どうして病気になったか。もし単なる熱病ならカヴァフィスは詩にはしなかっただろう。ギリシャの神を登場させなかっただろう。「主眼」をわざとずらしている。そういうおもしろさが隠されている。



カヴァフィス全詩
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石井辰彦「(美を見失ふ)」

2019-04-19 19:19:35 | 詩(雑誌・同人誌)


石井辰彦「(美を見失ふ)」(「現代短歌」2019年05月号)

 石井辰彦「(美を見失ふ)」は短歌の連作。「現代短歌」に発表されているのだから、あたりまえのことなのかもしれないが。
 でも、私のような素人には「短歌」とはすぐにわからない。
 銀と白の縞模様の中に活字がぎっしり並んでいる。天地がそろっている。一瞬、小説か何かかと思う。
 その一行目。

詩神に見棄てられしか? 美について歌はむとして美を見失ふ

 あ、散文ではない。それなら「散文詩」か。いや、そうでもない。もしかしたら、短歌?
 二行目。

冬薔薇朽ちしも黙示。泯びゆく(種としての)人類を書けとの

 うーむ。どうやら「短歌」らしい。でも「散文詩」でもかまわないか、と思いながら読む。
 読みながら、ものすごい「抵抗」に出会う。
 まず活字。「旧字体(正字体)」だ。私のワープロソフトは旧字体を持っていないので、ふつうに使われている字体で代用している。
 さらにはルビが多用されている。「詩神」には「ムーサイ」。「冬薔薇」は「ふゆソウビ」。ひらがなとカタカナが混在している。「黙示」は「モクシ」。「泯」に「ほろ」。「種」に「シュ」。「人類」に「ジンルイ」。「和語」と「漢語(でいいのかな?)」でつかいわけている。
 これは何を書きたいのかなあ。
 何らかの「意味」、「イメージ」をことばにしたいのか。それとも「ことば」を「文字」と「音」に分解して、万華鏡のように乱反射させたいのか。
 そのとき「短歌」の「57577」というリズムはどうなるのか。私は石井の作品が「57577」になっているかどうか調べたわけではないが、ぱっと黙読した印象では、それに近い感じがする。これはしかし、あくまで「近い」であって、私の肉体の中にある「57577」とは違う。
 だから、よけいに「短歌」かなあ、それとも「散文詩」かなあ、と思ったりもする。
 で。
 そこから再び、私は「短歌」というものに返っていく。「短歌」について、私が知っていることは少ない。いちばん簡単な「定義」は「57577」のリズムでできている、ということ。
 石井の「短歌」は「57577」か。
 よくわからない。そして、この「わからない」という感覚を自己点検してみると、石井の多用している「漢語」と「ルビ」が影響している。それは「和語」のリズムを破壊する。「和語」のうねり、流れを変えてしまう。ふつうに考える「流動性」とは違う「音楽」を生み出している。破裂とか亀裂という感じが前面に出てくる。「流れ」の比喩をつかって言うと、「流れ」というよりも障害物にぶつかって飛び散る飛沫と、その飛び散るときに出る強い音。
 そして、それはまた「絵画的印象」にも影響する。和歌の「うねる流れ」が表面で光を反射するのに対し、石井の「破裂/飛沫」は内部にあった光を解放する、隠れていた光を発射するという感じだ。
 「和歌」のうねりのなかにも「内部」の強さを感じさせるものがあるが(急には例が思いつかないけれど)、そういう「黒い輝き」とは違うものがある。「和歌」の場合、強さは「粘土」なのだが、石井の場合、それは硬質なものだ。硬質だから、破裂するのだろう。断面の輝きを見せるというか……。

 こういう「感覚の印象」を書きつらねることは、意味がないかもしれない。でも、いまの私には、そういうことしかできない。石井の連作は数が多くて、私には抱え込めない。思いついたことを書いておくしかない。書かずにすませるのがいいのかもしれないけれど、この「ことばの冒険」を読むと、それが何かわからないけれど「いいぞ、がんばれ」といいたくなる。石井は「がむしゃら」ではないのかもしれないが、私は「がむしゃら」を感じ、なんだかわくわくする。
 全体の印象が分かるかもしれないと思い、写真をアップしておく。




*

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池澤夏樹のカヴァフィス(121)

2019-04-19 10:49:32 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
121 ロードス島におけるティアナのアポロニオス

 ティアナのアポロニオスが若者相手に教育と教養を説いた。

「私が寺院に入る時は」と彼は最後に言った、
「たとえ建物は小さくとも
黄金と象牙の像をそこに見たい。
大きな建物にただの粘土の像をではなく」

「ただの粘土」とはよく蔑んだもの。
しかし(しかるべき訓育を得ない)人々は
偽物にこそ感服するのだ。ただの粘土に。

 この前後の関係がよくわからない。アポロニオスのことばに反して、若者は大きな寺院と粘土の像をつくったということだろうか。ことばを聞くだけ聞いたが、自分のものにしなかった。教育がないので、大きな寺院、粘土であっても大きな像がいいと思って。

「ただの粘土」とはよく蔑んだもの。

 わからない原因(?)は、この一行の「口調」にある。
 これは、だれが言ったのだろうか。若者だろうか。アポロニオスに対して「あなたはそう言うが、教育のない人間は巨大な寺院、巨大な像に感服する。それが偽物であっても」と反論する前に、「『「ただの粘土』とはよく蔑んだもの」と言ったのか。
 それならそれで、私はこの若者は「豪快」だと思う。彼は彼なりの判断基準を持っている。アポロニオが何と言おうが関係ない。普通の人々(訓育を得ない人々)のこころをちゃんとつかんでいる。普通の人々のこころをつかむことができない人間だけが、教育だとか「本物」だとかにこだわる。

 池澤の註釈。

 この若者は自分の家の建築と装飾にすでに十二タラントを費やし、さらに同じ金額を投じるつもりだが自分の教育には一銭も遣わないと言った、と『ティアナのアポロニオス』の第五巻第二二章に書いてある。

 つまり、一連目はアポロニオスが主人公で、二連目は若者が主人公。対話が書かれているということなのだが、二連目の「主語」がだれなのかわかるような翻訳は不可能だったのだろうか。こういう若者はカヴァフィスの主役にはなり得ないようにも感じるが……。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
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谷川俊太郎の世界(3)

2019-04-18 22:51:02 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(3)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年04月15日)

 谷川俊太郎の「とまらない」をまねて詩を書いてみた。今風に言うと、パクって見た。「なきだしたら ぼくとまらない」という一行目の「なきだしたら」をほかのことばに変えて、その気持ちを書いてみる。登場人物は「ぼく」(架空の人間)でも、自分自身でもかまわない。それが条件。
 名前を伏せてランダムに作品を読んで行き、感想を言う。そういうことをやってみた。自分の作品でも、「ここがいいね」「ここが気に食わない」というように、他人のふりをして感想を言ってみよう、ということで始めたのだが、これはなかなかむずかしくて、自分の作品について語るとき、どうしても「種明かし」をしてしまう。そのため、いつもやっている「この作品の主人公は何歳? 男? 女?」という質問を交えて、ことばの運動そのものを追いかけてみるということはできなかったが、みんなで語り合うというのは、ひとりで読んでいるときは見えないものが見えてきて楽しい。
 参加者は、香月ハルカ、井本美彩子、青栁俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。池田清子は欠席(作品のみ)。櫻井洋司の作品はブログ読者からの投稿。
 作品と、感想を紹介する。

とまらない 井本美彩子

ありのぎょうれつ おいかけたら
もう とまらない

はみだして
さまよって
つぶやいて
こえをひろう

まっくろのてんてん
えんえんとつづきながら
いつのまにやら きえる

めんどくさいわたしのことを
しばし わすれる

「一番最後が本音かな」
「蟻を見ていて自分がいなくなる感じがする」
「最後の二行が作者の表現したいことかな、と思った。二連目の、こえをひろうがどういう気持ちで書いたのかなあ」
--私は、二連目がすごいなあ、と思った。谷川俊太郎に読ませたいと思った。
「ありのぎょうれつ おいかけたら、もう とまらないから、最終蓮へいたままでの過程がおもしろいですねえ。こういうふうに歌えるのはすごいなあ」

 蟻の行列を追いかけるというのは、おとなはしない。無意味だからだ。でも、こどものときには、そういうことをしたかもしれない。じっと見つめるのも「追いかける」という動きの一つだと思う。
 二連目がとても印象的だ。「はみだして/さまよって/つぶやいて/こえをひろう」というのは、こどもの感覚ではない。「はみだして/さまよって」は蟻の動きに見えるが、見ている人のこころのようにも感じられる。複数の意味になっている。そして、それが「つぶやいて」へと変わる。さらに「こえをひろう」へと変化する。蟻を見ながら、ことばにならないことばをこころのなかで動かす。知らないうちにこころがもらす声。客観的なことばにはならないけれど、自分ではわかる声。そしてそれを聞いてしまう自分。「こえをひろう」が美しくて、悲しい。
 でも、それを美しいとか悲しいとか、「詩的」なことばでくくってしまうと、逆に底が浅くなる。
 最後の「めんどうくさい」が、それを救っている。
 蟻の行列を見て、あれこれ考えるというのは、ちょっと「めんどうくさい」性格である。特におとなになって、そういうことをしているというのは、かなり「めんどうくさい」。そういうことを「客観化」している。つきはなして、蟻の行列を見る、見ながらおもわずことばをつぶやいてしまうということを、ナンセンスにしている。軽く、軽快にしている。
 二連目に戻って言うと、「はみだして/さまよって/つぶやいて」の三行の、「……て」という繰り返しと変化のなかに音楽があり、その響きが「めんどうくさい」を突き破る力になっている。




うた 香月ハルカ

うたいだすとあたたかくなる
めにはみえないのにいろんなけしきがみえてくる
ねえさんとみたゆうやけのそら
システィーナせいどうのてんじょうが

うたはこころのふるさと
どこにでもとおいむかしへとんでいける
うたえなかったかあさんとのわかれのミサ
フィナーレでなみだしたコンサート

うたはかみさまのおくりもの
こころのおくからあいしてひかりをともしたい
うたがいつでもそばにあるように
あたたかくくらしたい

「ねえさんが出てくるところと、最後の方の、こころのおくからあいして、というところがいいなあ。心の奥から愛することができる物があるのはすごいなあ」
「みえないのにいろんなけしきがみえてくるや、どこにでもとおいむかしへとんでいけるに時間を超えるものを感じた。とても詩的な印象が強い」
「私も歌が好きだけれど、この詩の中の歌は私が日頃聞いている歌とは少し違ったイメージがある。歌の素敵なところ、見えないものが見えたり、遠いところへ飛んで行ける、歌が人生を豊かにしている部分をほんとうの愛していることが伝わってくる」
「私の詩なので……。私は歌を人生としている。姉が歌を大事にしている。なつかしい気持ちがある。カトリックの家庭なので生まれたときから歌になじみがある。かあさんとのわかれのミサというのも、ほんとうは賛美歌を歌いたかったのだけれど。数年前にバチカンへ行ったときに、ほんとうはシスティーナの中では歌えないのだけれど、特別な配慮で歌うことができた。大切な思い出として残っている。詩は初めて書いた。真ん中の部分は自分が思うような声が出ないときのこととかを書いてみようと思ったけれど、詩のことばで短く書くのがむずかしくて、思いのなかに迫っていく表現に変えていきました」
「作者が香月さんというのはわかりました。音楽の深さが伝わってくる。わかれのミサの部分について聞いてみようかなと思っていたけれど」
「日本の葬儀ではふつうは歌わないですね。クリスチャンは歌います。それでミサにした方がわかりやすいかなと思いました。わかれの日、とかいろいろ表現に悩みました」
「歌を通して人生を語っている。詩的でここちよい」
「詩の背景を聞いて、かみさまのおくりものとか、ひかりをともすの意味が明確になった」
「その人を知ることでわかることばの深みってありますね」

 一連目のことばの動きが自然だ。「めにはみえないのにいろんなけしきがみえてくる」というのは、一種の矛盾である。「現実には目には見えない、けれどこころの目には見えてくる」とことばを補うと矛盾ではなくなる。もちろん、こういうめんどうなことをしなくても、そういうことは誰もが経験していることなので、自然に伝わる。
 それを引き継いで「ねえさんとみたゆうやけのそら」とつづけたところが、この詩をより親しみやすいもの(自然なもの)にしている。「ねえさん」と見たことはなくても、兄、あるいは妹、弟、母や父、祖父母、さらには友人と夕焼けを見たことは誰にでも経験があると思う。だれかといっしょに夕焼けを見るという経験が思い出され、ああ、そういうことがあったなあ、と作者の肉体に自分の肉体が近づいていく。親近感をもってと、作者と「一体」になることができる。だから「システィーナせいどうのてんじょうが」というのも納得できる。
 三行目と四行目が逆の場合「システィーナせいどうのてんじょうが」が先に来た場合は、かなり印象が違うと思う。いきなり「遠い世界」をことばにされてしまっては、それがほんとうのことであっても読者はとまどうと思う。意地悪く言うと「私はシスティーナの絵なんか知らない」と反発を買うかもしれない。
 でも「ねえさんとみたゆうやけ」から始まるから、自然に感じる。
 この「近く」からはじまり「遠く」へ動く視線は、二連目に引き継がれている。「ふるさと」が最初にあり、次に「遠い」むかしへと動く。
 「遠い」がかあさんとの別れ、ミサ、フィナーレとつながる。「フィナーレでなみだしたコンサー」はコンサートのフィナーレで涙ぐんだということであり、母の死とは関係ないかもしれないが、「母のフィナーレ」と読み直すこともできる。そうすると「ミサ」はそのまま「わかれのコンサート」になる。こういう読み方は「誤読」かもしれないが、「誤読」が詩を支えると思う。
 作者は「姉と夕焼けを見た」と書いているが、それを兄と見た、弟と見た、おばあちゃんと見た、友達と見たと「読み違える」のも「誤読」。でも、「誤読」するから作者と体験を共有できる。ことばを共有できる。



窓辺で 櫻井洋司

お父ちゃんは
話だしたら、とまらない

いつとまるのかな
とまらないかもね
おんなじ話を何度も

きっと心に言葉がひっかかり
とれないんだろうなあ
何を話していたんだっけ
とってあげたいけれど

届いていない心
いつか気がつくのかな
言葉の山に背をむけていた

黙り出したら、とまらない
いつまでも何も言わない
母と父

「お父ちゃんは話だしたら、とまらないというのはわかるし、きっと心に言葉がひっかかりとれないんだろうなあ、とってあげたいというのも印象に残る」
「私も、そこが気になる」
「わかる感じがあるんだけれど」
「微笑ましい夫婦、家族の情景がとてもよく出ている」
「四連目が自分のことを書いている気がするに、だれかのことを書いているのかなと気になった。状況の設定が、自分の中で広がっていく感じがする」
--いま、設定ということばが出たけれど、お父ちゃんというのは何歳ぐらい、どういう人だと思います?
「高齢おじいさん。同じ話を何度も、とか」「私も同じですね」「高齢だと思う」「老人ホームに入っている人とか、コミュニケーションがむずかしくなっているかな」
--私も認知症の人かなあ、と思う。同じ話を何度もするのがとまらない、と読みました。こどもはもう聞き飽きているけれど、父親は何かがこころに引っかかっていて、繰り返すんだろうなあ、と思って読んだ。
 で、最後の連の「黙りだしたら、とまらない」はどういうことだと思います?
「夫婦がことばが出なくなって黙りこくってしまう。この詩に、窓辺でというタイトルがついているのがおもしろいですね。家族の一情景だと思う」
「話しだしたらとまらないと似ているかな。私の母は家族がそろっている夕食のときは話すけれど、昼にふたりでいると黙ったままでコミュニケーションが成り立たない。そういう状況かな」
「コミュニケーションがむずかしいおじいちゃんで、自分のことばが相手に届いているか認知できない。だから、人がいたらしゃべるけれど、自分からの発信だけなのかな」
「私は祖母のことを思い出した。施設の人には気をつかって話すけれど、息子に対しては話さない。そこから類推だけれど、父は母に心を許していて、しゃべらなくてもいいと思っているのかも」
「いっしょにいるだけでいい、という感じ」
--うーん、私はみなさんとは違うことを考えた。人が死んだら、もう喋れないですよね。黙ってしまう。黙ったまま、それがつづいている、ということを「黙り出したら、とまらない」と読みました。死んだということを書いているのかな、と。前半は、生きていた父の思い出、と。
「うーん」

 「話だしたら、とまらない」と「黙り出したら、とまらない」の対比(対句構成)がとてもいい。詩(ことばの運動)を完璧にしている。
 「話だしたら、とまらない」というのは認知症の状態かもしれない。ただ止まらないのではなく、何度も何度も、こわれたレコードのように繰り返す。繰り返してしまうのは、「記憶」に何かがひっかかっているのかもしれない。もし、そのひっかかりを取ってあげることができれば、父のことばは正常なレコードのように曲の最初から最後までを奏でることができるかもしれない。そのことばは美しい音楽を聴いたときのように感動を引き起こすかもしれない。「とってあげたいけれど」ということばのなかに作者のやさしさ、愛情が溢れている。 
 何度も何度も聞いた話なので、何を話したか覚えているはずなのに、覚えているのは同じことを繰り返し話したということだけ。同じ話なので、またかと思い、聞きそびれている。聞いたにもかかわらず、聞いたということ以外を覚えていない。「言葉の山に背をむけていた」には作者の後悔が含まれている。悲しい反省が込められている。
 その父は死んだ。沈黙した。この沈黙は「止まらない」。「母と父」と最終行にあるから、両親ともに死んでしまった。悲しい記憶だが、記憶の中で両親は生きる。語りかけてきたことば、語りかけてくる行為がいつまでも生きる。



とまらない 青栁俊哉

うたいだすとわたし とまらない
鉄わんアトムのうたも せいじゃの行進も 
アイネクライネナハトムジークも
いろんなメロディを
こころのなかでくちずさんで
うたいやみたいとおもっているのに
とまらない

そんなとき わたしはノートをひらいて
まだ形にならない詩のことばをよむ
するとうたは きゅうにだまりこむ
まじめななにかにふれて
そこからいなくなるように
うたもわたしも
なりやむ

「なぜ、うたいやみたいと思うのかなあ。鉄腕アトムも聖者の行進も、こころのなかでくちずさんでいていいのになあ。それを止める詩のことば、なぜ、止める力があるのかな、思った」
「二連目の展開がとてもおもしろい。そこからいなくなるよう、の部分がとても深いものをもっていると感じる」
「まじめななにか、がひどく気になった。最後の、なりやむということばが音楽的ですてきだなあと思った」
「私が書いたのだけれど。これまで谷川のようなわかりやすいような詩は書いたことがないので、苦労しました。書きたかったのは、日頃私たちの頭のなかを飛び交っていることばというのは、音楽もそうなのだけれど、脈絡のない感じがする。そこに対する嫌悪感のようなものがあって、それを止めるために自分の書いているノートを読む。そうすると止まってくれる。そういうことを書いてみようと思った」
「現実にいろんなことばが飛び交っていることに対する嫌悪感?」
「いや、自分の頭のなか。だれかと対話している感じ。それを止めたい」
「私はこの詩のノートのようてものをもっていなけれど、それを読むと止まるというのはよくわかりました」
「詩のことばと戦うような感じは?」
「そういうのは、ないですね。ふだんは自我と自分がのやりとりをしている感じだけれど、詩と向き合って没頭しているときは自分がなくなる感じ。そういうとき、非常に精神的に楽だなあ」
「むずかしい。うたもわたしもなりやむ、というのは、そういうことですか?」
「私の意識がないんです」
「鉄腕アトムがいいですよね。こどもの時代の圧倒的ヒーロー」
「歌詞もいいですよね」
「だから、アトムが消えなくてもいいんじゃない、と思った」

 ことばを読み返してしまう不思議な作品。「鉄わんアトムのうたも せいじゃの行進も/アイネクライネナハトムジークも」という展開の仕方には、読者への配慮を感じる。曲名の順序を変えると印象が違ってしまう。いまの展開がいちばんなじみやすいと思う。
 私が最初につまずいたのは「うたいやみたい」ということば。私は、こういう使い方をしない。聞いたことがあるかないか、思い出せない。聞いたとしても忘れてしまっている。自分で勝手に「うたうのをやめたい」と言いなおして理解していたのだろう。
 この「やむ」が最終行で「なりやむ」に変化する。このことばは自然に響く。「なりやむ」と対応させるために「うたいやむ(やみたい)」ということばがつかわれているのだと思う。
 「うたいやむ」から「なりやむ」までの間に、作者の精神、心理の動きが凝縮している。もっと書きたいことがあるのだと思うけれど「15行以内」という条件の詩なので、ことばに無理な圧力がかかっている。しかし、この圧力は、「無理」は「無理」なのだけれど、効果的だったかもしれない。省略されたものを読者に想像させるからだ。
 「形にならない詩のことばをよむ」と「うた」が「なにかにふれて/そこからいなくなる」というのは、歌が沈黙の音楽になり、その沈黙と詩人が一体になる感じか。



     萩尾ひとみ

愚痴がはじまると 母はとまらない
深い穴の中に
どんどん
ずんずん
おちていく
動かない手足を嘆き
役に立たない自分を責め
遠い昔の夫を恨み
世界で一番不幸な女になる

それでも外は春
桜満開
庭のチューリップ
赤、白、ピンク
「おまえもがんばっとるのぉ」
小首をかしげる老犬
母さん、コーヒーでもいれましょうか

「とてもなれた感じ。いろいろな表現がはいっていて素敵な詩。愚痴が始まるとまらないというのは心情的によくわかります」
「一連目は深刻だけれど、二連目はおまえもがんばっとるのぉとか老犬とか、ユーモアがあるなあ。最後の一行、母さん、コーヒーでもいれましょうかが、愛情があって好きだなあと思いました」
「二連目が自分を解放していく心情がいい」
「谷川の穴という作品を読んだ。このおばあちゃんも自分の掘った穴にいる。こどもは穴から空をみると蝶々が飛んでいたりする。このおばあちゃんは上に青空があることに気がつかない。青空が外は春なんだってことなんだけれど」
--遠い昔の夫、というのは、もう亡くなっていないということかな?
「私が書いたんだけれど、あんたが世界で一番不幸な女かよ、というノリ」
「詩は初めてですか? すごい」

 母は老いた母だろう。繰り返し繰り返し同じ「愚痴」を語る。「世界で一番不幸な女になる」は悲しいことだけれど、「世界で一番」という部分に「愉悦」がある。陶酔がある。「どんどん/ずんずん」には「一番」に向かっていく「勢い」のようなものがある。「世界で一番」を楽しんでいる。
 作者も、それを受け入れている。ただの不幸はつらいが、「世界で一番」なら、なんとなく、不幸にも「価値(意味)」が生まれる。
 その「価値」を引き継いで、二連目が転調し、明るくなる。「桜満開/庭のチューリップ/赤、白、ピンク」は誰もが知っている春だ。「定型」の安心感がある。
 「おまえもがんばっとるのぉ」は誰のことばだろうか。詩人が老犬に語りかけたことばかもしれないし、老いた母が老犬に語りかけたことばかもしれない。あるいは、老いた母が詩人に語りかけたことばかもしれない。自分の不幸を嘆きながら、娘の不幸についてもわかっているよ、と語りかけているかもしれない。
 こういうことは作者に対して、どっち?と質問してはいけない。詩人の答えを待っていてはいけない。読者が自分で「誤読」する。「誤読」することで、作者を自分の方へひっぱってくる。
 「読む」というのは読者が自分を作者の方へ近づけていくことだが、近づいて作者に自分を重ねて「わかる、わかる」と言うだけではなく、そこでつかみとった「こころ」を自分のものとして生きなおすとおもしろい。
 そこから「母さん、コーヒーでもいれましょうか」と自分の声で言ってみる。いつもの自分の声とは違う響きがそこに入ってきているのに気がつく。詩人の「人柄」を自分のものにして、自分自身が生まれ変わる。そういうことを楽しむことができる。



止められない 池田清子

私は甘いものが止められない
血糖値、コレステロール、糖尿病
認知症、歯周病、皮膚病、
食べなければ、何の心配もいらないのに
止められない
甘い物中毒
麻薬を止められない人の気持が少しわかる
甘い物は麻薬だ
シュークリーム、じょうよ万十、ラムレーズンチョコ
太鼓焼、ヨックモック、おはぎ、バームクーヘン
だめだこりゃ

痛さやつらさが大きくなると
甘い物が止められないなど
何と甘っちょろい悩みかと思う
でも大事なことなんだよなあ

「切実な思いが具体的に伝わってくる」
「リアルだなあ。おもしろいと思ったのは病気の名前が具体的に書いてあるところと、甘い物が同じように具体的に書いてあるところ」
「食べ物が具体的に書いてあって、わかりやすい」
「麻薬を止められない人の気持が少しわかる、というのが私の気持ちにぴったり。甘いものが好きだから」
「じょうよ万十は、上用(じょうよう)じゃないかしら」
「ヨックモックというのは?」
「薄いクッキーにチョコレートが挟んである。有名なお菓子です」
「甘い物と、甘っちょろいをかけているのかな」
「食べ物の誘惑は大きいですね。人間、動物だから」
「コレステロールと甘い物って関係あるんですかね」
「太るから。まわりまわって……」
「皮膚病は、バランスがわるくなるからかなあ」
「認知症は、甘いものがまわりまわって」
「うーん、病気の話になってしまったね」
「最後の、でも大事なことなんだよなあ、がとても印象的だった」
「これ、何が大事なことなんですか?」
「やめないきゃいけないことじゃないですか」
「一か月食べるな、と言われたら我慢できません」
「チョコレートの説明書きなんかを読むのも好きです」
「食後にシメみたいな感じで食べたいね」
「食後は食べたくないなあ」

 最後の二行が楽しい。「甘っちょろい悩み」というのは、学校文法では「甘い物が止められない」ということを指すのだと思うが、「意味」に要約してしまうと味気ない。
 「甘い物」ということばになる前に、それは「シュークリーム、じょうよ万十、ラムレーズンチョコ/太鼓焼、ヨックモック、おはぎ、バームクーヘン」と書かれていた。ほんとうはもっともっとあるのだと思う。その「要約以前(無数のことば)」が「甘っちょろい」の「正体」という感じがする。だから、詩人はもっともっと甘い物を具体的に書いた方がよかったと思う。
 作者が書いている「甘い物」では、私は「じょうよ万十」と「ヨックモック」を知らなかったが、知らないことばがたくさんある方が楽しいと思う。作者が見えてくる。「他人」というのは、わからないことがあるから「他人」。それが「甘い物」と言ってしまえば誰でもわかるが、誰も知らない「甘い物」まで並べると、きっと驚きになる。あ、このひとは、こんなに甘い物を知っているという驚きが、「親近感」にかわる。そういうことがあってもよかったかな、と思う。



赤いお星さま 谷内修三

赤いものさがし ぼくとまらない
赤いトマト赤いニンジン赤いピーマン たべられるよ
ママの好きな赤いセーターきて
赤いキリン赤いライオン赤いカバかいた

みんなはちがうと笑うけど
ころんだときママがおしえてくれた
おひざが赤いなみだ ながしてる
ないてる人いたら 手つないでまもってあげよう

だいじょうぶ ぼく 赤いものあつめる
どっくんどっくん 赤いしんぞうがつながるよ

でも 赤いお星さまはどこ?
ぼくの手なめるネロ ぬれた赤いした

「リズムがあって、詩をよく書いた人の作品かな」
「赤い、赤いがつづくので、逃げ出したくなった」
「赤をテーマにしたバリエーションの詩。詩は、けっこうバリエーションをつかい、物語を作っていく。そういう詩」
「赤いキリン赤いライオン赤いカバといところにひっかかった。でも小さな子がいろんな絵を描くか。頭が混乱した。最後のネロはネコだと思った」

 最終行の「ネロ」は谷川俊太郎が飼っていた犬の名前(だと思う)。谷川の詩の中に出てくる。ママは死んだ。泣きたいのをこらえて、転んで血を流したときママが言ってくれたことばを思い出している、という「内容」。
 要約してしまうと、それでおしまい、というのはつまらない詩だねえ。(笑い)






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 詳しいことは朝日カルチャーセンター(福岡)まで問い合わせてください。
 講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
 5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
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池澤夏樹のカヴァフィス(120)

2019-04-18 08:24:49 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
120 退屈な村で

 詩は前半、後半の二部に分かれている。

彼は退屈な村で働いている。
ある会社の事務員で、とても若い。
二、三か月先の日を彼は待っている。
二、三か月すれば仕事が減る。
都会へ出て行って、あそこの活気、
あそこの娯楽に頭から飛び込める。
退屈な村で彼は時が過ぎるのを待っている。

 ここまでが前半。後半は、彼の性の夢である。後半にカヴァフィスの特徴が出ているのだが、前半もおもしろい。
 男色は「都会」と結びついているが、「退屈な村(田舎)」にも男色家、。若くて美しい男はいる。あたりまえのことなのだが、忘れられがちである。人の少ないところでは男色の機会が少ない。そのために田舎を舞台に男色が書かれることが少ないのだろう。
 田舎では、若い美しい男色家はどうしているか。
 ひたすら都会へ行ける日を待っている。「二、三か月」が繰り返される。「待っている」が繰り返される。そして「待っている」の「目的語」が「二、三か月」「仕事が減る」「時が過ぎる」とことばをかえながら動いている。
 繰り返しても「意味」は変わらない。言い換えても「意味」は変わらない。
 とは、言えない。
 そこが散文と詩の違いだ。散文では、こういう繰り返しは「むだ」である。整理すればもっと簡潔になる。けれど、詩は簡潔を好むと同時に、繰り返しの音楽を好む。

美しい若さ全体が肉体の情熱に燃え上がる。
美しい若さは美しい脅迫に場所を譲る。

 後半には、こういう繰り返しもある。

 池澤は、註釈で若者の仕事を推測している。

 おそらくこの会社は木綿の仲買業者なのだろう。収穫の季節が終ると仕事はぐんと減る。またこの当時、エジプトの木綿を売買していたのはもっぱらギリシャ人だったから、この若者もギリシャ系と考えられる。

 そうなのだろうが、若者をギリシャ系に限定してしまうのはつまらない。
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14 夏の絵画

2019-04-17 11:12:46 | アルメ時代
14 夏の絵画



抽象(的な論理)が
草むらからほどけていく
加筆可能な物語に
発光する蛇は登場しすぎた
未熟な舌は
日焼けしていない女の足の
不思議な色に触れる
「女は自分を決定せずに
生きていける」
古い言いぐさにほどかれて
くずれる色の内部に
新しい下描きが浮いてくる
抽象(的な姦淫)
女の曲線に巣をつくれば
脱出可能な(はずの)物語に
どんな罠が似つかわしいか
発汗する幼い蛇
何が起きるのかを待って
一点をながめつづける目から
再びあらわれ舌を動かす
まなざしの背後で夜は
深い呼吸をしている
抽象(的な構成)が
ぬるい風をたわめている



(アルメ236 、19855年09月25日)
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池澤夏樹のカヴァフィス(119)

2019-04-17 10:56:48 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
119 イタリアの岸辺で

キモス、父はメネドロス。若いギリシャ系イタリア人。
彼の人生は、ひたすら享楽の中にある。
大ギリシャ圏のこの一角の若者たちと同じように
贅沢の中で育ってきた。

 書き出しだけを読むと、カヴァフィスの一連の「官能」を描いた作品群を連想する。しかし、この詩の展開は違う。港に戦利品が降ろされる。それを見て動揺する。

ギリシャからの戦利品、コリントから略奪された品々。
どう考えても、今日は遊ぶ日ではない。
この若いギリシャ系イタリア人が
愉快に過ごすことは今日はできない。

 ギリシャ人の血が騒ぐ、ということなのだろう。「意味」はわかるが、私は、この詩のリズムの方に驚く。
 「ギリシャからの戦利品、コリントから略奪された品々。」は抽象的で、具体的な品物が何かわからない。
 そういうことは一行ですませてしまって、主人公の「動揺」に焦点を当てるのだが、その当て方が尋常ではない。「今日は遊ぶ日ではない。」と「愉快に過ごすことは今日はできない。」はほとんど「意味」としては同じだ。繰り返さなくても「意味」は通じる。しかし、カヴァフィスは繰り返す。カヴァフィスの短い詩は、こういう繰り返しが多い。繰り返すことで「意味」を「音楽」にしている。カヴァフィスが書きたいのは「音楽」なのだ。
 同じことばを繰り返すしかないこころ、そのこころのなかで繰り返しうねる苦悩の音楽。そこに「陶酔」というか「愉悦」がある。苦悩さえも愉悦にかわってしまうという不思議がある。
 「若いギリシャ系イタリア人」というのも繰り返しである。繰り返すことで、カヴァフィスは起きていることを「事実」に結晶させる。「音楽の愉悦」のなかで結晶させる。魔術師である。

 池澤の註釈は史実を要約している。

 紀元前一四六年、アカイア同盟を撃破したローマ提督ムンミウスはコリントの死骸を攻略、男をすべて殺し、女と子供を奴隷に売り、家を破壊した。そこからの荷を積んだ舟がこの港に入った。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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池澤夏樹のカヴァフィス(118)

2019-04-16 08:27:25 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
118 その人生の二十五年目に

 偶然会った男のことが忘れられずに、「彼は足肢しげく」男に会った場所へ「三週間」通い続ける。しかし、誰も男のことを知らない。

願望で心はほとんど病気のよう。
あの口づけがまだ唇の上に残っている。
何よりも、彼の肉体は無限の欲望に苦しめられた。

 自分自身のことを「彼」と呼び、客観化して書こうとしている。しかし、それが三連目に来て崩れる。

自分の思いを外に漏らそうとは思わない。
しかし時にはもうどうでもいいという気になる。
自分がどういうことになっているのかはわかっている。
それは受け入れるしかない。ことが知れたら
この醜聞は身の破滅を招くとしても。

 ギリシャ語の原典はどうなっているかわからないが、ここには「彼」はいない。「主語」は「自分」に変わっている。この変化がとてもおもしろい。切実だ。「しかし時にはもうどうでもいいという気になる」という思いは、主人公の思いとは逆に、「自分の外に」にもう漏れてしまっている。

 この詩に対して、池澤は、とても興味深い註釈を書いている。

短編小説ならば帰結まで書かねばならないが、詩ではこの男の煩悶だけで一つの情景として完成する。

 「短編小説」には「帰結」が必要なのか。そして、この詩の姿(三連目)は「帰結」ではないのか。
 「醜聞」がばれて主人公が破滅すること、あるいは醜聞はばれず主人公が男と再会するというハッピーエンドが「帰結」なのか。何が起きようと、人生に「帰結」などないだろう。死んだって、終わらない。「短編小説」ではないが、鴎外の「渋江抽斎」は、鴎外が追いかけていた抽斎が途中で死んでしまったあとも、ことばの運動はその後も延々とつづいていく。抽斎が死んでも、ことばのなかで生きている。
 「ことば」に「完結」などない。あるいは逆に、「ことば」はいつでも「完結」する。「情景」は情景として、「煩悶」は煩悶として「完結」し、その世界へ読者を引き込む、。


カヴァフィス全詩
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13 アジサイ前線

2019-04-15 16:03:44 | アルメ時代
13 アジサイ前線



ビルを囲ったシートの緑が
風に膨らみ風にしなう雨の午後
私の考えは逃げていく激しく
叩かれて色を失う山の向こう
ここではないどこかへ
逃げていこうとする
「幻は卑近距離に引きずられる感情の形
アジサイの色は土壌の
水素イオンによってかわる
見えないところで動くものが現象
として私たちにやってくる」
咲き始めた花に頼ったことばを
かすめて生ぐさい白につまずいて
隠せると思ったこころが浮いてくる
(ここではないどこか)
土とコンクリートブロックの
ぬれることでひきだされた黒の
差異について考えれば
(ここではないどこか
私を支えていたものが遠くなる)
時間をなくした男になって
アジサイに割り込まれる
「説明はいつも誘惑的です
だからこころは離れていくのです」
ふいに向きを変える女の足首に
照らしかえされている



(アルメ235 、19855年08月10日)
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