詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(27)

2019-11-25 08:43:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは空しいものを集めて)

長い橋をつくつた
いつたいその橋はどこへ架かつているのだろう

 この橋をつくる、橋を架けるとき、嵯峨は「対岸」がどのような場所か知らない。橋はここ(此岸)ではないどこか(彼岸)へとつながる。
 だから、詩は、必然的に、こう展開する。

その橋は女の方へむかつて架かつているだろう
すでにその女が死んでいたら
それでもぼくはその橋を渡つていくだろう

 橋を架けるは、橋を渡るという「動詞」を動かすために、絶対に必要なものだ。この絶対的な必要性を、切実さと呼ぶ。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(26)

2019-11-24 20:01:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこにぼくの星々はあるか)

自由な会話がはじまるといつかあなたの心に星はのぼり

 と詩はつづく。この比喩は美しいが、あまりにも比喩的でありすぎる。
 二連目で、ことばは調子を変える。

村々ではどこもかしこも小庭で火をたいていて
穏やかな追憶の日がもう暮れかける

 その空に星は姿を現わす、ということだろう。
 「村々」を直接目で見るのは難しい。だから、この行自体が「追憶」である。想像である。「自由な会話」の一行も、その「追憶」のひとつである。
 「星はのぼり」の「のぼる」という動詞が興味深い。星から見た村々ということなのだろう。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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2019年11月24日(日曜日)

2019-11-24 19:26:27 | 考える日記
2019年11月24日(日曜日)

 生きるとは自由であること。
 自由とは、自由に語ること。自由に思考すること。生きるとは、思考を存在させること。
 「名詞」としての「思想」ではなく、「動詞」としての「思想」を確立すること。「思想」を「動詞」の形で存在させること、つまり「動かす」こと。

 ふつうに日々つかっていることばでは、いろいろなことを明確にするのはむずかしい。「定義」が揺れる。流動的で、あいまいに見える。何も「知らない」ように見える。
 しかし、「何も知らない」まま、ひとは生きられないだろう。「知っている」ことを信じて生きているはずだ。
 だれもが「思想」をもって、「思想」を生きている。
 それを「動詞」として書くことはできないか。ことばにできないか。


 逆のことを考える。

 明確に定義されたことばがある。たとえば外国の、現代思想のことば。そういうことばはすでに固定された意味をもっている。固定されているので「事実」のように見える。そういうことばをつかうと、何かを「知っている」とみなされる。

 「知っている」(知識)は重要だが、知識よりも「考える」ということの方が重要だろう。
 間違っていてもいいから、考える。
 「知っている」ことではなく、考えたことを書く。
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徴用工問題、振り出しに戻る

2019-11-24 13:52:40 | 自民党憲法改正草案を読む
徴用工問題、振り出しに戻る
             自民党憲法改正草案を読む/番外305(情報の読み方)

 きのう、2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面に「GSOMIA失効回避/韓国が方針転換/日本 輸出管理 対話再開」という大きな見出し。
 そして、きょう2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面には

日韓 来月首脳会談へ調整/外相一致 「徴用工」意思疎通図る

 その記事には、こう書いてある。

 日韓首脳の正式な会談は昨年9月が最後で、韓国人元徴用工への賠償を日本企業に命じた昨年10月の韓国大法院(最高裁)判決以来開かれていない。

 1年間、あれこれやってきたが、「出発点」へ戻っただけだ。いや、もっと悪いかもしれない。この1年間で、GSOMIAと貿易を、いつでも「交渉の武器」としてつかえることが明確になったのだから。そして、そのGSOMIAも貿易も、なんといえばいいのか、互いが互いを必要としている。GSOMIAでは日韓が米を含めて情報を共有する。貿易は相互に輸出入する。互いに「利点」がある。
 徴用工問題は、かなり条件が違う。
 韓国の元徴用工が賠償を受け取る。日本の企業(日本政府ではない)は賠償を支払う。相互に「利点」があるわけではない。徴用工は金を受け取る。企業は金を払う。一方通行である。
 GSOMIAと貿易は、情報の共有、品物の相互購入(輸出入)がなければ、お互いが困る。困り方の度合いは違うかもしれないけれど、あくまで双方が「利点」を受け取れる。
 もし、徴用工問題で、双方が「利点」を受け取るためにはどうすればいいか。言い換えると、日本の企業(日本政府ではない)が徴用工に賠償金を支払わずに、納得するためには、日本政府(日本企業ではない)がどう対処すればいいか。
 これを考えないといけない。
 方法はある。とても簡単である。日本政府が徴用工問題で、ちゃんと謝罪すればいいのである。徴用工を働かせたのは日本の企業だが、そういう政策をとったのは日本政府である。この歴史を認め、日本政府が謝罪する。一度謝罪したから終わりというのではなく、求められれば何度でも謝罪する。それで解決するはずである。きちんとした謝罪がないから、謝罪する気持ちがないなら金を払え(賠償しろ)という要求が起きるのだ。
 安倍は、「徴用工には、ぼくちゃんかかわっていない。ぼくちゃんの生まれる前のことだし、ぼくちゃんには責任はない」という理由で、謝罪を拒んでいる。「悪いのはぼくちゃんではなく、ほかの人」という論理をここでも展開していることになる。それに「ここで韓国人徴用工に賠償金を払ったら、お友達の麻生が困る。だって、麻生は炭鉱で朝鮮人を酷使して金もうけをした。賠償訴訟が起きたから、負ける。麻生が金を払わなければならない。なんとかしろよ、と麻生から責められる」。安倍は、「ぼくちゃん」と「お友達」以外のことは考えないのだ。
 安倍が、日本の歴史をちゃんと認め、韓国に謝罪しないかぎり、この問題は解決しない。1年間かけて、それがわかったはずだと思うが、安倍は謝罪しないなあ。つまり、永遠にこの問題はつづく。

 二面に「識者の声」が載っている。米ヘリテージ財団上級研究員ブルース・クリングナーの意見が、こういうことを正確につたえている。(日本、韓国の立場ではなく、中立、客観的な事実を解説している。)(番号は私がつけた。)

①文氏は日韓関係を悪化させ続ける危機から抜け出す重要な最初の一歩を踏み出した。
②ただ、決断は条件付きで一時的なものになる可能性がある。
③次は安倍首相が同じように対応し、対韓輸出管理厳格化措置を撤回することを期待したい。
④厳格化は、韓国の歴史問題にからむ行動に対する反応であることは明確だからだ。

 ②については、きのうの「情報の読み方」ですでに私も書いた。韓国はGSOMIA破棄を「停止」しただけであって、「撤回」したわけではない。これに先立って、トランプが「撤回」させようと圧力をかけたと書いてあるが、そこに「撤回」ということばはつかわれているが、最終的には「継続」ということばと、その決断が「一時的」であるということを明確にしている。「停止にすぎない」を、そう言い直しているわけである。
 ③では、明確に「撤回」ということばをつかっている。クリングナーはトランプではないが、間接的に「撤回せよ」と読売新聞をつかって、安倍につたえようとしている。あるいは、トランプは安倍にそうつたえたということを間接的に「公表」している。
 ④は、安倍の「対韓輸出管理厳格化措置」が「歴史問題(徴用工問題)」とリンクしていると認めている。(安倍は、否定しているが。)クリングナーはトランプではないが、やはり、ここでアメリカの基本的態度を安倍に通告していることになる。安倍の「歴史修正主義」を批判している。「人権問題」を放置していては、結局同じことが繰り返される。
 二面には、クリングナーのほかに日韓の「識者」が意見を書いているが、どちらも安倍ベッタリという感じの視点である。そのなかにあって、クリングナーは、アメリカの立ち位置を語っていておもしろい。読売新聞は、よくこんな「客観的」な声を載せたなあ(公表したなあ)、と私は思った。
 2016年年末の日露首脳会談(山口で開催)の直前に、ラブロフが「経済協力は日本が持ちかけてきたもの。ロシアが要請したものではない」という「本番交渉」前の裏話を語ったという記事も読売新聞だけに載っていた。ラブロフは、そう語ることで「だから日本が経済協力をするからといって、ロシアが北方四島を日本に見返りとして引き渡すというようなことは絶対にない」と間接的に告げたのだ。きっと事前交渉した岸田が「日本が金を出すのだから」というような、安倍の金ばらまき意図を口走ったために、ラブロフが怒って内幕をばらしたのだと、私は、そのとき読んだ。そして、日露会談は、大失敗。安倍は日露会談の成果(北方四島の返還)を掲げて年末総選挙する予定だったのだが、それができなかった。読売新聞には、よく読むと、こういう「裏情報」(クリングナー見解、ラブロフ会見)のようなものが載っている。

 いままた年末(年始?)総選挙が噂になっているが、桜を見る会の大スキャンダル、徴用工問題の振り出しへの逆戻り。(安倍はGSOMIA失効回避を「手柄」として強調するだろうけれど。)
 どうなるかわからないけれど。
 この「徴用工」と「桜を見る会」の「根っこ」は同じ。どちらも、「あったことをなかったことにする」(私は関与していない、知らない)と言い張るところに問題がある。
 日本(の企業)は、戦時中、朝鮮人を強制的に働かせ、搾取した。
 安倍は招待者を恣意的に選んで、優遇した(税金をつかって接待した)。
 「桜を見る会」は「資料」がいろんなところに、いろんな形(参加者の声)として存在しているのに、必死になって「名簿」を隠して、恣意的招待がなかったとこにしようとしている。
 徴用工問題と違って、いま、日本で起きていることなので、「歴史修正主義」のように「修正」しようにもごまかせない。目撃者が多すぎる。関係者がいまもみんな生きている、という難問(安倍にとって)がある。
 と、こんなことを追加して書いたのは、「徴用工」と「桜を見る会」には、もうひとつ「共通項」があるからだ。「選挙対策」である。「徴用工」を利用して安倍は嫌韓ムードをあおった。嫌韓ムードをあおって統一選、参院選で勝利を収めた。(参院選は、敗北を免れたといった方がいいのかもしれないが。)「桜を見る会」では地元有権者を800人も招待した。安倍は、選挙に勝てばいいだけなのである。選挙に勝つためなら何でも利用する。独裁者になること以外は考えていない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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斎藤芳生『花の渦』

2019-11-24 10:15:53 | 詩集
斎藤芳生『花の渦』(現代短歌社、2019年11月16日発行)

 斎藤芳生『花の渦』は歌集。

林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く

 「透ける」と「すはだか」。「す」の音の繰り返される。「素裸」ではなく「透裸」という文字が浮かぶ。無防備よりも、さらにさらけだされた感じ。「さらして(さらす)」という動詞が、非常にいたいたしい。「泣く」が切ない。「泣く」ことで「こころ」をつなぎ合っている。それが「肉体(肌)」に遮られることなく、透明に見える。
 「すはだか」の「す」の効果だろう。ひらがなの「力」だろう。
 私は短歌を読む機会が少ないので、短歌をつくっているひとの読み方とは違うだろうと思うけれど、

林檎の花「の」透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く

 と「の」を追加すると、どうなるのだろう。「の」の繰り返しが、他の音の繰り返しを呼び覚まさないだろうか。「さらして」とい音が孤立して悲しくなりすぎるだろうか。
 私は、また「こころ」にも少し「保留」したい気持ちがある。「意味」が強くなりすぎる感じがする。「泣く」という感情の具体的な行動があるのだから。

ひらきはじめのはなびらにしわあることの羞(とも)しさに木蓮は沈思す

 この歌の「沈思す」ということばも「意味」が強すぎると感じてしまう。「羞しさ」ということば、私は初めて知ったが、「羞恥」のことだと推測して書くのだが、はずかしさを自覚したとき、ひとは「おしゃべり」にはならない。たいてい「沈黙する」「沈黙したまま思う」。「羞しさ」を「しわ」のように静かにみせればそれで充分だと思う。「意味」にととのえてしまわない方が魅力的ではないだろうか。
 この歌でも、私は「ひらきはじめのはなびらに」ではなく、「ひらきはじめのはなびらの」と「の」の方が、私の耳にはなじみやすい。「に」は、なんというか、やっぱり「意味」が強すぎるように感じる。

堪えかねて西日に光りはじめたり川はみちのくの生活(かつき)を濯ぐ

 「堪えかねて」と「光りはじめたり」の呼応が強くていいなあ、と思う。「光る」というのは肯定的なイメージが強い。「堪えかねて」ということばの、苦しさをはねかえす、内側から破るような感じがいい。新しい「いのち」の誕生を感じる。
 でも、この歌でも「生活(かつき)」ということばが「意味」を強調しすぎているように、私には感じられる。「濯ぐ」がさらに追い打ちをかける。
 「意味」は読者がひとりひとりもっているものだから、作者は「意味」を隠した方が世界が広がるのでは、と思う。

未練のような熟柿残れる枝の先さらして冬の枝の撓みは

 「未練のような」は「熟柿」を修飾する。「未練のように」だと「残れる」に結びつく。「未練のような」だと「熟柿」が目に残ってしまい、主役の「枝」が弱くなるのではないだろうか。「枝」が繰り返されているにもかかわらず、「熟柿」の赤が「枝の撓み」という繊細な感じを壊してしまうような気がする。

 「線香花火」というタイトルでまとめられていた歌は、とてもすっきりしている。

集落の遠き冷夏を記憶して群青の朝顔は濡れたり

 「集落」「冷夏」「記憶」「群青」という感じ熟語の響きが印象に残る。

 いろいろ書いたが、イメージや意図はつたわってくる。(私の「誤読」を含めて、なのだが。)ただ、斎藤の「音」には、私がなじめないものがある。「音」の感触は人によって違うだろうから、斎藤の音が好きという人もいるだろう。短歌のような短い文学では、この音の好き嫌いは、影響が大きいと思う。
 すごくいいのに(いいはずなのに)、この音が、このことばが嫌だなあという歌と、とくに鮮烈なイメージや意識が書かれているわけではないのに音がいいなあ、と感じる歌。その二つからどちらを選ぶかというと、私は後者を選ぶ。「音の魔力」には勝てないものがある。
 「林檎の花」の「透けるひかりにすはだかの」の「す」の交錯、「みちのくは泣く」の「く」の切実な近さ。そこに響く「和音」の不思議な美しさ。
 一首選ぶなら、やはり巻頭の「林檎の花」だろうなあ。




*

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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

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GSOMIA失効回避

2019-11-23 15:33:25 | 自民党憲法改正草案を読む
GSOMIA失効回避
             自民党憲法改正草案を読む/番外304(情報の読み方)

 2019年11月23日の読売新聞(西部版・14版)の一面、

GSOMIA失効回避/韓国が方針転換/日本 輸出管理 対話再開

 という見出し。たぶん、どの新聞でも同じようなトーンだと思う。
 私には、このニュースがさっぱりわからない。
 見出しだけ読むと、韓国が方針転換をしたために、それを評価して日本側が輸出管理問題での対話再開に応じることにした、と読める。韓国側が「折れた(譲歩した)」から、日本がそれを評価して態度を緩めた、と。
 しかし、どうなんだろう。
 「外交」は、そんな簡単に、一方が勝利し、他方が負けたというような「簡単明瞭」な「合意」などしないだろう。読み方しだいでは「逆」にも読めるというのが「外交」の基本ではないだろうか。つまり、玉虫色。それぞれの「国民」が納得できるような「合意(文書)」にするというのが基本であると思う。
 読売新聞の記事の「前文」には、こう書いてある。(番号は、私がつけた。)

 ①韓国政府は22日、破棄を決定していた日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA=ジーソミア)について、23日午前0時の期限を目前に、失効を回避することを決めた。②輸出管理を巡る日韓政府の対話の引き換えに方針転換した。

 たしかに、新聞の見出しのように①GSOMIA失効回避した②その結果、日韓の輸出管理問題の対話が再開される、と読むことができる。

 でも。
 ①の「韓国がGSOMIA失効を回避することを決めた」というのは、日本語として奇妙な表現ではないだろうか。
 私は「回避(する)」ということばは、こんなふうにはつかわない。
 私が「回避(する)」ということばをつかうならば、日本がGSOMIAが失効してしまうのではないかと心配していたが、その不安は回避された、と書く。「回避する」ではなく「回避された」。つまり、受け身。
 ①の見出しと記事がつたえているのは、日本は安心した(日本にとって好都合だ)ということであって、韓国を主語にすると、違う「文章」になるのではないか。
 一面の「韓国大統領の発表ポイント」という箇条書きの部分を読むと、こう書いてある。

③韓国は、日韓のGSOMIAの破棄通告の効力を停止
④韓国はGSOMIAをいつでも終了可能

 「失効回避」という表現は見当たらない。韓国は「失効」を「回避」したのではなく、単に「破棄通告を停止」したのであって、いつでもGSOMIAを終了できる(破棄できる)ということにすぎない。これでは、単なる「保留」である。たぶん、文は、韓国民にそう説明するだろう。
 では、なぜ「保留(停止)」したのか。②が理由である。日本が輸出管理についての対話を再開すると「譲歩」したから、その譲歩と引き換えに「方針転換した」。②は①の結果ではなく、②が初めにあって、その結果として①がある。読売新聞の前文にも「引き換え」という表現がかつわれていた。「引き換え」の主語は、韓国である。(韓国がGSOMIA破棄を停止したから日韓の対話が再開するのではない。日本が対話再開へ譲歩したから、それと引き換えにGSOMIA破棄を停止した。)
 文の方から言わせれば、

日韓輸出管理の対話再開/日本が方針転換/GSOMIA破棄通告を停止

 という見出しになるだろう。つまり、文は、韓国国民向けには、そう説明するだろう。それは文が発表した「ポイント」からも、そう理解できる。

⑤韓国政府は、日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間、WTOへの提訴手続きを停止

 ここにもGSOMIAと同じ「停止(する)」という主体的な動詞がつかわれている。そして、そこには「日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間」という条件がきちんと書かれている。この条件は③にもそのまま流用できる。つまり、③は、

日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続いている間、韓国は、日韓のGSOMIAの破棄通告の効力を停止(する)

 であり、④は

日韓の輸出管理を巡る協議が正常に続かないならば(協議が中断するならば)、韓国はGSOMIAをいつでも終了可能(一方的に、終了することができる、韓国はGSOMIA破棄を再通告する)

 である。
 「真相」はわからないが、私のような「外交」のシロウトでも、そう読み直すことができる「合意内容」になっている。

 「外交」というのは、いわば、どういう「国内向けの発表」ができるか、ということがいちばんの問題点なのである。
 安倍は、安倍の都合のいいように「日本向け」の「ことば(論理)」を発表したにすぎない。
 日米貿易交渉などを見ていると、安倍の「発表」をそのまま信じていいかどうか、わからない。疑ってかかる必要があるだろう。

 いちばん興味深いのは、日本政府発表の「ポイント」の最後に、こういう文章があることだ。

⑥茂木外相が韓国人元徴用工訴訟問題について、韓国に「国際法違反」の是正を強く要請

 これが興味深いのは、「徴用工問題」がやはり最後まで残るということ。言い換えると、今回の問題は徴用工訴訟が原因だったということだろう。徴用工訴訟が引き金になって、日韓関係がこじれた。これが解決しないかぎり、日韓正常化はありえない。
 さらに。
 この⑥だけ、主語が「茂木外相」と個人名であることに、私は、思わず笑いだしてしまった。
 それまでは「韓国」「韓国政府」「日本」「日本政府」と表記していたのが、ここでは「茂木外相」になっている。つまり、「日本」「日本政府」とは発表できなかったのだ。
 水面下の交渉は、私にはわからないが、私はわからないからこそ「妄想」する。
 アメリカが日本に圧力をかけた。それで日本がしかたなく応じた。でも、徴用工問題がまた障碍になる。なんとかしたい。なんとか日本の主張を入れたい。でも「日本(政府)」としてしまうと、アメリカになにか言われそう。「茂木外相」にしてしまえ。
 ほら、いつもの安倍の行動パターンがここにみてとれる。
 「悪いのは私ではない。私は何もしていない。徴用工問題を主張しているのは茂木だ」と、いざとなったら言い逃れるための「口実」を、早くも準備しているのだ。

 だいたい

GSOMIA失効回避

 という「見出し」そのものがあいまいなのだ。だれが失効させるのか。執行されたら困るのはだれなのか。GSOMIAそのものに、人間のように「失効する(させる)」「回避する(させる)」という「主体的」能力はない。
 きちんとした「意味」にするためには、「主体(主語)」がひつようなのに、それがない。見出しそのものが安倍の意向を受けて「玉虫色」になっているのだ。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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閻連科『愉楽』

2019-11-23 09:55:53 | その他(音楽、小説etc)
愉楽
谷川 毅
河出書房新社


閻連科『愉楽』(河出書房新社、2015年03月30日3刷発行)

 村上春樹がノーベル賞を逃した日、私は「閻連科が、いまいちばんおもしろい」というような話を知人とした。何冊かの本の感想はすでに書いているので、まだ書いていない『愉楽』の感想を書いておく。(すでにいろんな人がいろんな批評を書いていると思うけれど。)
 帯にこんな紹介文がある。

真夏に大雪が降った年、障害者ばかりの僻村・受活村では、レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にするという計画が始動する。

 これだけで、もう「デタラメ」(荒唐無稽)なことがわかる。いわゆる「現実」を描いていないということが、わかる。でも、「小説」だから人間が出てくる。人間は「肉体」をもっている。人間が動けば、どうしたって読者の「肉体」も動く。「動き」が共有される。その「共有」されるということは「デタラメ」ではない。
 もちろん、ふつうの人間にはできない「動き」というのは、ある。しかし、それを「ことば」でできるかのように書くことができる。ことばは「肉体」の限界を知らない。書かれている「肉体」の動きに刺戟され、読者の「肉体」も自然に動いてしまい、それがなんとも楽しい。
 究極の「リアリズム」がそこにある。
 「ことば」で考えることができる。それは、「肉体」でできることでもある。少なくとも、「肉体」は、それをしたい「欲望」をもつ。そして、欲望が生まれた瞬間、「肉体」は無意識に動くのである。そこに人間の避けて通れない「リアル」がある。裸の女を見て勃起するようなものである。勃起を引き起こすのは裸の男であるかもしれないし、死にそうな老婆かもしれない。動物、ということもあるだろう。えっ、そんなことが、と誰かが思ったとしても、それは単にそのひとの「欲望」が貧弱だっただけ。人間は、どんなことでも「欲望」できる。「欲望できる」ということが、「本能(生きる力)」なのだ。
 「レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にする」というのも、「頭」のなかの「空想」ではない。どうしたって、「肉体」が動く。遺体を購入するには金を稼ぐというところから始めないといけない。「肉体」を動かして働かないかぎりは何も始まらない。
 で、つぎつぎに、私が(そして、たぶん多くの読者が)想像したことのない「肉体」の動きが展開される。そんなことができるはずがない、というのは簡単だが、動かせる「肉体」があるのだから、そういうことができたってかまわない。そうしたいかどうかだけである。セックスと同じ。自分のしたいことがあれば、そうするだけだ。

 ということは、これ以上書いてもしようがない。すでに「奇想天外」については多くの人が書いているに違いないと思う。
 たとえば、谷川俊太郎は「帯」に、こう書いている。

読んでいるとどんどん面白くなってくる、だんだん怖くなってくる、その奥深い魅力。アタマでは分からない中国を、カラダが知った。

 谷川は「カラダ」と書いている。私は「肉体」というこばをつかう。つかっていることばは違うが、たぶん、同じことを指している。
 だから、もうこのことは書かないで、別なことを書く。

 この小説を読み始めて、途中で、あれっ、と思う。
 「第一巻(第一章、第三章、第五章)」「第三巻(第一章、第三章、第五章……)」。 「第二巻(第二章)」というような「偶数」のくくりがないのだ。ストーリーがめちゃくちゃなので、最初は気がつかない。ふと、「あれ、さっき読んだのは第一章じゃなかった? 今第三章だけれど、第二章は? 乱丁本?」と気がつき、目次で確かめると、偶数がないのだ。最初から「奇数」だけで構成されている。
 わざとしている、といえば、それだけなのだが。
 私は、非常に、非常に、非常に、つまずいた。私の「アタマ」のなかにある「中国人」とはまったく違う「思想(肉体)」の人間が動いている。
 私にとって中国とは「対(二つ、偶数)」の国である。なんでも「対」でなっている。対というのは「一つ」と「一つ」であり、「対」とはその「一つ」と「一つ」がいっしょになって「別の一つ(完成された一つ)」になる。「陰陽」思想というもの、それをあらわしていると思う。
 中国には「二つ」以上の数はない。「三つ」からは「無限」である。つまり数えられない。
 そして、この「数えられない」(無限)こそが、閻連科の「思想(肉体)」なのである。もし「対」が生まれてしまったら、それを破壊して「奇数」にしてしまう。「奇数」にすることで、世界を破ってしまう。開いてしまう。言い直すと、完結させない。
 その「証拠(?)」のようなものを小説のなかから探してみると。
 中心的な人物のおばあさんには四つ子の姉妹がいる。ひとりが対をみつけて双子になる。双子が対をみつけて四つ子になる。ここまでは「偶数」の中国思想。でも、その四つ子のなかにひとり、とても小さい女の子がいる。「蛾」のように小さい。(もともと四人とも小さいのだが。)四つ子(偶数、対)だけれど、どこか「破綻」している。このなかから、ひとりが男とセックスをすることで、ふつうの女にかわっていく。身長ものびるし、美人になっていく。またまた、それまでの世界が破られていく。
 それよりもっと明確な「証拠」は、金稼ぎの見世物興行が成功し始めると、急いでもうひとつ見世物興行集団をつくる。「一つ」ではなく「二つ」になることで、金がますます入ってくる。つまり「対」が世界をよりよくする……はずなのだが、それは「円満解決(ハッピーエンド)」にはつながらない。大もうけしたはずが、とんでもない事件が起きる。破綻する。「一つ(孤)」にもどってしまう。「一つ(孤)」といっても「集団」ではあるのだけれど。
 閻練科は、その「孤」を肯定している。「対」による「完成」ではなく、「対」を破る運動を、「孤」に託している。
 私は、そう読むのである。「孤」こそが、想像力を解放し、あらゆる「リアル」を可能にする。「対」は「リアル」を抑制する。「対」はニセモノの「リアリズム」である。そう宣言している。つまり、「中国の古典(漢詩の世界など)」は「理想」が描かれているかもしれないが、それは「リアル」ではない。閻連科は、「文学」に対して異議を唱えている。
 だから、読みにくい。だから、楽しい。新しいから。
 ノーベル賞は、こういう冒険(開拓)にこそ与えられるべきものだと思う。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(25)

2019-11-23 08:31:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あれから幾日たつたろう)

 「あれから」とは何を指すか。「答え」は詩のなかに書いてあるが、直接的でおもしろくはない。おもしろいのは、その「直接性」をどうやって言い直すかである。詩はいつでも、言い直し(余剰)のなかにある。

ぼくは白い雄鶏がひろげる陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしくも逞しい六月鶏を

 「ぼく(嵯峨)」鶏をみつめながら、鶏になる。鶏は「ぼく」の比喩なのだ。「陽にかがやいている羽根」、それを「ひろげる」動作。「みずみずしく」「逞しい」。
 「答え」はつまり、その対極にある。







*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(24)

2019-11-22 08:59:17 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (すぐそこの低い空に)

青い林檎のような一つの星が明るくおもく垂れさがつている
ぼくはかがんで湧き水を飲んだ

 「低い空」「おもく垂れ下がる」「かがむ」と視線(動作)が自然に上から下へと動く。そういう「動きのベクトル」のなかに、「青い林檎」と「星」が比喩と現実の交錯となって存在する。
 この行を読むとき、私が見ているのは「青い林檎」か「星」か。
 「青い林檎」は「未熟な、小さい林檎」。しかし、それは「重く垂れ下がる」。未完成が持つ明るさによって。
 「明るく」と「重く垂れ下がる」は一見矛盾しているが、その矛盾の中に、予兆のような真実がある。
 嵯峨は、それを「湧き水」のように「飲む」という比喩を、私は連想する。つまり、そういうふうに「誤読」する。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(23)

2019-11-21 20:47:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (静けさについて語ろう)

汐のみちている河口の方を考えよう
そこはすでに一つの静けさだ

 「河口」ではなく「河口の方」と嵯峨は書いている。「方」ということばは、その存在までへの「距離」を感じさせる。「ここ」と「ここではない遠く」が結ばれる。それはしっかりした結び目ではなく、あいまいさを含んだつながりだ。
 「すでに」ということばも、とてもおもしろい。嵯峨が「静けさ」と呼ばなくても「静けさ」として存在している。そういうことを語る「すでに」である。




*

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山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(3)

2019-11-21 07:55:19 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(3)(「博物誌」42、2019年11月01日発行)

 きのう感想をアップしたら、「では、16水袋をどう読むか」と、私は山本育夫に問いかけられた。あるいは、この作品についておまえは何が言えるか、と挑発されてしまった。私は、簡単に誘い出されてしまう。それで、また書いている。

 こういう詩である。

ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛み
があったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるよう
なのだ手が届かないので裸になってあなたにしぼりだして
もらうなにがでているのだ?と聞くと、うーーーんと悩ん
でいるうみのようなものだけどよく見るとことばのかたま
りみたいにも見えるあなたは毎晩そのことばのかたまりを
しぼりだしにくるのだそれをティッシュにくるんですてる
やがてうみはもうでてこないねとあなたはいいでもね、こ
このしんのことろになんかかたまりがあるのよね、これを
とらないとまた化膿するにちがいないあなたは医者のよう
に断言する、するとぼくはそんな気がしてきて、ではその
しんをとりのぞいてくれる?というと、あなたはそのこ
とばを待っていたかのように裸になって、なにか金属的な
おそろしい音のするものをとりだし、ここのね、しんのと
ころにね、これをね、こうあてて、スポッとくり抜いちゃ
うのよくり抜かれた背中の穴は小さい円柱らしくいつまで
たっても肉がのらず風がふきだまる

 「吹き出もの」「うみ」は、「ことば」(ことばのかたまり)と言いなおされる。これを「詩」の比喩と読むのは簡単だ。「しんのところのかたまり」とは、詩になる前の、「未生のことばの領域」。はやりの「哲学用語」でいえば「無分節の領域(のことば)」ということになるかもしれない。(私は「無分節」ではなく、「未分節」と言うのだが、きょうはそういうことには触れないつもりなので、「無分節」と書いておく)。
 でも、私は、「ことば」を「意味」に還元してしまう読み方が好きではないので、「背中(肉体から)しみでてきた膿」を詩であるという「比喩」には与しない。そう書いてしまうと、もう、あとは書くことがなくなる、ということも原因だが。つまり、「結論」にむかってことばが整列していく感じがするので、私は先の見える「論理」には従いたくないのだ。
 この詩で私がこだわりたいのは、句点「。」がないことである。読点「、」はある。そして、その読点「、」は一か所、つかい方が奇妙なところがあるということだ。
 句点がない、というのは、すぐにわかる。「目」でわかる。奇妙な読点というのは、「断言する、」という部分である。ここは意味的には句点「。」であるなぜ、この部分は句点のかわりに読点を「わざと」書き込んだのか。わからないが、あ、ここだけ違う、と私は「気づく」。そして、その「気づき」が、この作品には句点がないということをさらに強く感じさせる。
 このとき、私は、ほんとうは何を感じているのか。
 最初の方に句点を入れて、詩を「書き直す」。こうなる。

ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛み
があったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるよう
なのだ。手が届かないので裸になってあなたにしぼりだして
もらう。なにがでているのだ?と聞くと、うーーーんと悩ん
でいる。うみのようなものだけどよく見るとことばのかたま
りみたいにも見える。あなたは毎晩そのことばのかたまりを
しぼりだしにくるのだ。それをティッシュにくるんですてる。

 「ぼく」と「あなた」が交渉していることがわかる。「ぼく」には見えないものが「あなた」には見える。(ここから、詩の作者と評論家の対話という「寓意」も導き出せるが、こういうことも、きょうは書かない。山本は、こういうことを聞きたくて、私に「どう読む?」と尋ねたのかもしれないが、私は、それには答えない。)
 それよりも、書き出しの一文の長さが気になる。句点と読点を書き加えて、すこし変形させて、わかりやすくしてみる。

ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて、軽い痛みがあった。そのうちにそこからなにかがしみでてくるようなのだ。

 でも、こうしてしまうと、なんだか味気なくなる。

ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛みがあったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるようなのだ

 の方が、主語(主役)が自然にすり変わる感じがして、それが「肉体」の不思議さをそのまま「実感」させる。「ぼく」が主役(テーマ)なのか、「背中」が主役なのか、「吹き出もの」が主役なのか、「痛み」が主役なのか、しみ出てくる「なにか」が主役なのか。「ぼく」はどこかにおきざりにされて、「肉体」のなかを「違和感」が動いていく。そしてそれは「肉体」からしみ出て、「肉体」ではなくなって「何か」になってしまう。まるで母親からこどもが生まれ、完全に別個の存在になるみたいに、「しみ出た」ものが「肉体」ではなくなってしまう。でも、それは「肉体」であったはずなのに。
 そこに「ぼく」と「ぼく以外のもの」があって、さらにそこに「あなた」という「ぼく以外の存在」が関係してきて「なにか」をしぼりだすという運動がある。でも、そのときの関係は、「なにか」を生み出す(産婆術)とは意識されていない。ただ困っているので手伝っているということなのだが、句点で明確に「ぼく」と「ぼく以外であるあなた」の行動が区別されていないので、不思議な「ずるずる感(最初の文章の、主語がつぎつぎにかわっていくようなずるずる感)」がある。
 ほんとうに「なにか」がしみでているのか。しぼりだすから「なにか」がうまれてしまうのか。ここのところの関係が、最初の文章の主語がかわりながらつづいていく「ずるずる感」にさらに重なる。その「ずるずる感」は、そしていったんは、「それをティッシュにくるんですてる」というところで完結するのだけれど。
 「ぼく」としては、そこで完結したはずなのだけれど。
 ここから「主語(主役)」が大転換する。「ぼく」でも「うみ(仮にそう呼んでおく)」でもなく、「あなた」がしゃしゃり出てくる。完全に「主役」になる。(書かないといったけれど、これを「詩/詩人」と「批評」に置き換えると、詩から評論が「主役」を奪ってしまって、評論が「物語/意味」を動かしていくのだ。)
 そこに読点「、」が多数書き込まれる。「ことば」を分断し、「ぼく」を「別人」にしてしまう。
 後半を、カギ括弧をつかって、さらに句点も補って、「散文」にすると、こうなる。

やがて「うみはもうでてこないね」とあなたはいい「でもね、こ
このしんのことろになんかかたまりがあるのよね、これを
とらないとまた化膿するにちがいない」(と)あなたは医者のよう
に断言する、するとぼくはそんな気がしてきて、「ではその
しんをとりのぞいてくれる?」というと、あなたはそのこ
とばを待っていたかのように裸になって、なにか金属的な
おそろしい音のするものをとりだし、「ここのね、しんのと
ころにね、これをね、こうあてて、スポッとくり抜いちゃ
うのよ」。くり抜かれた背中の穴は小さい円柱らしくいつまで
たっても肉がのらず風がふきだまる

 「断言する」のあとは学校文法的には句点であるが、あえて読点のままにしておいた。なぜ句点にして完全に切断しないかというと、切断してしまうと、「ずるずる感」がなくなるからだ。「主語」がすりかわる、そのすり変わりをおさえることができないという感じがなくなるからである。
 「そんな気がしてきて」と山本は書いているが、書き出しにあった「なにかがしみでてくのようなのだ」は「なにかがしみでてくるような気がして」なのであり、この「気がする」ということが「ずるずる感」にとって大切なのだ。あくまで「気」。事実ではない。個別の「分断されたなにか」ではなく、「気」でつながっている。「しんのことろにあるかたまり」をとらないとまた化膿するというのは「あなた」の見解だが、そのことばを聞いた瞬間から「ぼく」の考えにすりかわってしまう。
 そういう視点から見ると。

断言する、

 この読点は、この詩のポイント(キーワード)なのである。
 学校文法の句読点のつかい方では絶対に句点「。」である。しかし、句点にしてしまっては、山本の意識(肉体)にとって、詩ではなくなってしまう。この作品のなかで動かしていることばの動きが別物になる。「ずるずる感(主語/主役がなにかわからなくなる感じ)」の「文体」が狂ってしまう。句点「。」なのに読点「、」にすることで、切断を否定し、接続(ずるずる)へひきもどしているのである。「文(ことば)の肉体」を強引に統一する。
 そして、それは最後の一文の前の句点「。」の省略(排除)へとつながっていく。「でもね、」「あのるよね、」「ここのね、」「ところにね、」と「口語の念押し(感情の押しつけ)」の「(よ)ね」のあとには必ず読点があったのに、「抜いちゃうのよ」という「あなた」の口語のあとには読点はない。句点もなく、「くり抜かれた」という動詞がつづき、そこから主語(主役)は「あなた」ではなく「ぼく」にすり変わり、「背中の穴」という具体を通って「風がふきだまる」という「寂しさ(感情)」の比喩へと動いていく。「抒情」へと動いていく。主役が「抒情」になってしまう。
 これは「詩(抒情)は批評なんかに負けない」という宣言であるかもしれないし、そういう大げさなものではなく、詩の最後におかれた「余韻」のようなものかもしれない。
 あ、脱線した。
 句読点以外に、もうひとつ、この詩には「ずるずる感」を引き起こすことばがある。
 「裸になって」
 最初に出てきたときの「裸になって」は「ぼくが裸になって」、後半の「裸になって」は「あなたが裸になって」と主語が違うのだが、ふたりが「裸になる」と「裸」が共有されてしまって、区別がなくなる。最初の「裸になって」は「あなたは裸になって」と読むことができるし、後半は「ぼくは裸になって(背中をさらけだし)」とも読むことができる。セックスと同じように、「裸」は単なる「共通条件」になって、その「中心(?)」は「行為」になる。その「行為」は、前半は「しぼりだす」という手(肉体)、あるいは指(肉体)が、後半は「肉体」ではないもの、「金属的」なものに変わり、ここでも「詩(肉体的なもの、本能的なもの)」と「批評(人工的で、非肉体的なもの、非人間的なもの)」との拮抗(戦い)があり、客観的には「金属的なもの(非人間的なもの)」が患部をえぐりだし勝った(?)ようにみえながら、それを「肉体の寂しさ」の主張で閉じるという、ええい、何が言いたいんだ、と叫びたくなるような「ずるずる感」が目の前に残される。

 で、この詩の感想の「結論」は?

 そんなものは、私は書かない。「結論」を書かないのが、私の感想の書き方だ。
 批評によって詩にぽっかり穴があき、そこに詩人のさみしさがたまろうがどうしようが、私には関係がない。思い切って穴を深くし、トンネル(ふきぬけ)にしようか。風通しがよくなるよ、ということも「批評」はやってしまうものなのである。
 でも、そんなことをしても始まらない。
 私は、詩のタイトルが「水袋」であること、そして「水袋」が「01水馬(あめんぼう)」の詩の最後にでてきたことだけを指摘しておく。

とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける
アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう

 「うみ」もまた「甘い臭気」をもっている、と私の「肉体(嗅覚)」はおぼえている。










*

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山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(2)

2019-11-20 11:36:14 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(2)(「博物誌」42、2019年11月01日発行)

 ことばは肉体を共有する--きのう、そう書いた。そのつづきを、次の作品で書いてみる。

02水糸

はりめぐらされた
透明な水糸の上に
きれいに洗われたことばが
ならんでいる
この世の水平は
ゆるぎない

みずしましが
語りはじめる
そのものがたりを聴きながら
すっかり整列された
こころにね
「生かさず殺さず幸福幻想」
を植えつける
それが彼らの仕事だ

 一連目と二連目(もしかすると空白の行はなくてひとかたまりの詩かもしれないが)で「共有」されることばに「ならんでいる」「整列された(整列する)」がある。「ならぶ」を「整列する」と言いなおしている。ここでは「肉体」が同じ動きをしている。言いなおし、繰り返されることばに出会うと、「肉体」はその動きを意識する。あるいは、その動きが「肉体」にしっかり根付く。つまり、「おぼえる」。
 さて、その「ならんだ肉体」「整列された(整列を強制された?)肉体」とは何のことだろう。山本の「肉体」ではない。「みずすまし」のことである。
 一連目は、「ことばが/ならんでいる」と書いているが、「ことば」は「みずすまし」の比喩である。比喩であるから、二連目で「ことば」は「みずすまし」にもどって、「ものがたり」を語る。「ものがたり」とは「ことば」が「ならんだもの」「整列したもの」である。
 だが、一連目の「ことば」はみずすましの比喩か。簡単には言いきれない。「ことば」がならんでいる「光景(霊感/インスピレーション/厳格)」が見えたのだが、それはそのままことばにすると「リアル」ではなくなるので「みずすまし」と言い換え、その上で、「みずすまし」を「ことば」という比喩にしたということも考えられる。「比喩」のなかでは「リアルとしての対象」と「比喩」が簡単に入れ替わり、区別することはできない。つまり、そこでは「実態」は問題ではなく、「運動」が問題になる。「ことば」も「みずすまし」もならぶ。整列する。「ならぶ」「整列する」という動詞ので、ふたつは「統一される」。ひとつになる。「ことばの肉体」がならぶ、「みずすましの肉体」がならぶ。ならんで、「列」にととのえられるとき、「みずすましの肉体」は「ことばの肉体」としし「整列する」。「ことば」が並ぶ(整列する)と、それは文章になる。文章が並ぶと「ものがたり」になる。
 山本はみずすましをみながら、ことばが並んでいる。並んだ「ことば(ものがたり)」をみずすましの姿から連想している。「みずすまし」と「ことば」、「並んだ(整列した)ことば」と「ものがたり」は交錯する。
 どこで?
 「こころ」ということばを山本はつかっている。
 「こころ」のなかで「みずすまし」と「ことば」の「肉体」、「(単独の)ことば」と「ものがたり(つながったことば)」の「肉体」が交錯する。違うものが同じものになるためには、新しい「視点」が必要だ。「みずすまし」が「ことば」の「比喩」なのか、「ことば」が「みずすまし」の比喩なのかわからないが、「比喩」という概念を持ち込めば、断絶している(孤立している)はずの「肉体」がつながり、かさなる。「概念」が離れたものを結びつける。この定義は、孤立している「ことば」を「ひとつの概念」でつなげば「ものがたり」が生まれるという具合に流用できる。「概念」を「意味」と言い換えてもいい。
 この詩では、その概念、あるいは意味は、

「生かさず殺さず幸福幻想」

 という行で説明される。(言いなおされている。)
 「意味」を「こころ」に植えつける--それが「ことばの仕事」と言いなおされている。「ことばの肉体」は何事かを反芻する。そうすると、その半数を支える動きが「意味」になって「こころ」に「記憶される」(こころが、それをおぼえてしまう)。「こころ」とは無意識に記憶された「肉体」のなかの何かである。「何か」も特定できないし、「肉体のどこ」ということも特定できない。「こころ」がどこにあるか、私たちが「特定」できないのは、そのためである。こころは「手」にあるのかもしれないし、「並ぶ」ときの「足」にあるのかもしれなし、「並んだ」ことを確認する「目」にあるのかもしれない。だから「こころがおぼえる」は「肉体がおぼえる」でもあるのだ。
 山本は、今回の一連の詩で、「ことば」の「肉体性」へと近づいていっている。「ことばが肉体である」ということを明確にするために、「引用(他者のことば)」が鏡のようにつかわれている。人の振り見て我が振り直せ、ではないが、他者からの反映が「ことばの肉体」を刺戟する。並んだことばを「意味」に結晶させる。
 ことばはことばとして「肉体」をもち、「ことばの肉体」そのものが動いていくことがある。これをインスピレーションとか霊感と呼ぶこともできる。山本は「みずすまし」に誘われて、「ことばの肉体」が動くのを感じた。そして、それを追いかけた、というのが今回の「書き下ろし詩集」ということになる。
 このインスピレーションは、一篇の詩、あるいは「ものがたり」へと動いていくものだが、インスピレーション自体は「整列」していない。「孤」のままである。こうした「孤」、つまり「つなぎとめられていない状態」を「03水陰草」では、こう書いている。

あちこちでいくつもの
ことばの決壊が
はじまっているらしい
それがこのちいさな
水場までも
届いている

 「決壊」。ほどかれてしまった存在。「水の流れ」は「ことばの流れ」。そこからあふれてしまった過剰なことば。それを詩と呼ぶ。詩は、みずすましとなって、水場にありながら、遠い水の流れ、その決壊を象徴する。

 「ことばの肉体」は詩を選ぶか、散文を選ぶか。ことばを生きるそれぞれの人の個性によって違うだろう。詩を選んだとしても散文は響いてくるし、散文を選んだとしても詩が残る。その交渉のなかで「ことばの肉体」が成長していくのか、あるいは「肉体のことば」がその交渉に制限を与えるのか。これは簡単には断定できないが、そういう交渉がこの詩集のなかで展開されている。



 この詩集の「14水分補給」に、突然、私の名前が出てくる。もちろん架空の名前で私とは無関係な存在として読むことができる。もしかしたら「谷川(俊太郎)」の書き間違いかもしれないが、私の名前と思って読んでみる。

行をかえると
先にすすむような気がする
散文のままだとさまようばかりで
その先へとすすめない
そんな気がするのだ、思い切って、
刻んで、ゴロゴロにして
谷内さんならここをどう読むんだろう

な、と思いつき、笑う
お、笑えるんだぼくは、そうだ、ぼく、
と自分のことを呼べるんだ
ぼくは、そして読点じゃなくて、句点。

ことばを転がしているうちに
肉体に出会う
そこがはじまりなのだ
(ね谷内さん

 「どう読む」と問われれば、「ゴロゴロにして」ということばは、私の肉体からは出てこないというのが、最初印象としてある。行を変えるのは、私にとっては「重し」を捨てること。私は「刻む」という面倒くさいことはしない。切って捨てる。「ゴロゴロにして」「転がす」ということはしない。「重し」を捨てると、すこし身軽になる、というのは錯覚かもしれない。しかし、私はその錯覚に身をまかせる。見えたかもしれないもの、間違いかもしれないもの、それを「掴む」ために、書いてきたことばを捨てる。
 「肉体はおぼえたことを忘れない」というようなことを私は書くが、実は、私は「おぼえる」ということが大嫌いだし、苦手だ。だから反省を込めて、そう書くのかもしれない。一方、山本は私とは逆に、「切る」だけでは満足せず、「刻んで」、そのうえ「ゴロゴロにして」(たぶん肉体になじむまで、手でこねて、まるめて)、さらに「転がす」のだ。そうやって書かれたのが、山本の詩だ。「捨てた」はずのものが、うしろに整列している。その整列の仕方は「ばらばら」に見えるかもしれないが、捨て方に「手でこねて、まるめて、ゴロゴロにして」という「手間」が見える。「手間」というのは「肉体」のことでもある。「肉体」が過ごしてきた「時間」。だからね、笑えるんですよ。こんな無駄な時間のつかい方をして、と。
 たとえていえば、ごみ捨て場に、捨てにきたはずの不用品が丁寧に並べられているようなもの。捨てるんだけれど、愛着があって、それを並べてしまう。整列させてしまう。それを見ると、あ、これは捨ててあるんじゃなくて、私はこの不用品をこんなに愛していると告げたくて、ここに置いてあるんだな、と思う。「ごみ」という比喩は、乱暴すぎたかもしれないけれど、そういう「ことば」の整列を見ると、ほら、

アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう

 という感じがしない?
 「アメ」に似ているかどうかは、読者しだいで受け止め方は違うだろうけれど、何かそこにはないけれど自分の「記憶」のなかにあるものが、山本のことばによってひっぱりだされてきて、そこに漂っている。それは、だから、山本が愛したものを「共有」するというよりも、自分の肉体の中にあるもの、山本の肉体の中にあるものを「共有」する。「肉体」そのものを共有する、という感じになる。
 セックス、ことばの肉体のセックスだね。そこを、もっと。ここは、ど? あ、そこ、違う。こっちは? ダメだって、もう、ほんとうに。なんて、声が思わず漏れてしまうと、きっと、その「批評」は成功したことになる。ことばが性交した、ということになる。したいことと、されたいことは、みんなひとりひとり違うからむずかしいんだけどね。
 こういう具合だから、気取った女性から私は嫌われる。おばさんからは突き飛ばされる。おじさんは、どうかなあ。「博物誌」の表紙には、いつも「×(バッテン)」が印刷されているんだけれど。










*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(22)

2019-11-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (少しの時雨を吸取紙のように)

黒い松林が吸いこんでいる
その色は
もう真冬の色をおもわせるような秋の色をなしている

 「もう真冬の」の一行は、奇妙なことばの運動である。ことばと意味が矛盾している。しかし、その矛盾の中に「事実」がある。
 「秋」のなかに「冬」がある。「秋」は「冬」の準備をしている。「秋」のなかに「冬」が始まっている。だからこそ、「秋」なのだ。
 「時間の先取り」は予感か,インスピレーションか。
 詩である。
 嵯峨の詩のなかで、私がもっとも好きな一行である。

 住吉海岸という注がある。嵯峨が見た「事実の色」なのだ。






*

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山本育夫「HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)」

2019-11-19 13:23:55 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫「HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)」(「博物誌」42、2019年11月01日発行)

 山本育夫書き下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』は「博物誌」に収録されている。その巻頭の作品。

01水馬(あめんぼう)

水馬とテーブルに水文字で書いて
あめんぼうと発音する
ぼくは終日こども公園前の
小さな喫茶店で詩を書く
あるいは読書する
寝ている
コーヒーを飲む
待っている

「ひとは皮膚におおわれた
水袋だ」
というセリフを思い出す
そして水馬のように世界の水面を
すべりぬけ
とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける
アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう

 何が書いてあるか、わからない。でも、最後の三行は、妙に「肉体」に迫ってくる。水のはいった袋に穴をあける。そうすると「水」がこぼれてくると思うのだが、山本はそのことは書かずに「甘い臭気」について書いている。水が「甘い臭気」をもっていて、それが袋の中から水がこぼれたとき、いっしょにあふれだす。水袋から水がこぼれるのはあたりまえだけれど、その水が「甘い臭気」をもっていたために、意識が臭気の方にひっぱられてしまう。「意外なもの」(知らなかったもの、でも理解できるもの)がとつぜんあらわれると、見慣れたもの(たとえば水)が意識から消えてしまう。こういうことは、たしかにあるなあ、と思う。山本が書いている水袋に穴をあけるとどうなるか、その現実をみているわけではないが、私の「肉体」はそれに似たこと(重なり合うこと)をかってに思い出す。そのため、実際に起きていることがどういうことかわからないのに、何かわかった気持ちになる。ぐい、と肉体がそっちの方向へひきずられていくのを感じるのだ。
 で、そう思った瞬間、書き出しについても、あ、そうか、と思うのだ。
 筆記具がない。でも、コップに水が入っている。指を突っ込み、濡らす。それからテーブルの上に「水」をつかって「文字」を書く。「水馬」。それから「これ、読める?」といっしょにいるひとに聞く。「あ、どこかで見たことがある。なんだったかなあ」「あめんぼうだよ」。それは、たぶんどうでもいい話、その場限りの思いつきの話なのだが、「水馬」かどうかは別にして、こういうことをしたことがあるなあ、と「肉体」が覚えているために、ここに書いてあることを「わかる」。私のわかったことが、山本の体験したこととぴったり重なるわけではないが、やっていることが「肉体」の行為(運動)として、「わかる」。
 「意味」ではなく、「肉体」の動き、その「肉体」の動きが「共有」するものがわかる。ことは別な角度から言いなおせば、「肉体」を共有してしまうことかもしれない。
 「ことば」は意味(意識/主張/思想)をつたえるためにある。ふつうは、そう考えられていると思う。ことばは、「意識/思想」を共有するために、ある。
 私は、そのことに対して「異論」があるわけではない。でも、つけくわえたくなるのだ。
 「ことば」は「肉体」を共有するためにある。
 「肉体」はひとりひとり別なものである。産んでくれた母からさえも完全に独立している。母親が死んでも生きているし、逆にこどもが死んでも母親が生きていることがある、というのは「肉体」というものが決して共有されないものであるという証かもしれない。しかし、その共有されないものが、なぜか、ことばを介すると共有されてしまう。
 「肉体」は、よほどのことがないかぎり、だれでも同じように動かせるからだ。あるいは、まったく違った動かし方をできないからだ。「他人」をみても、どうしても「自分と同じ肉体」と思ってしまう。だから、道端でだれかが腹を抱えてうずくまっていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。他人のことなのに、肉体が別個なのに、そう思ってしまう。
 そして、それは「肉体」を見なくても、起きてしまう現象なのだ。
 水をつかって、指で(あるいは筆で、ということもあるだろう)文字を書く。その文字を「発音する」。そういうことを、私たちは「できる」。「肉体」を共有するというのは、「できる」を共有するということでもあるのだが、きょうはそこまでは考えずに、詩にもどる。
 ことばは肉体を共有する。
 だから、「詩を書く」「読書する」「寝ている」「コーヒーを飲む」「待っている」ということがどういうことなのか「わかる」。どんな詩を書いたか、だれの本を読んだか、寝ている間にどんな夢を見たか、コーヒーに砂糖を入れたか、などということはわからないのに、わかった気持ちになる。「待っている」にいたっては何を(だれを)待っているのか、あまりにも漠然としているが、それでも「待っている」をわかってしまう。自分の「肉体」が覚えている「時間」をひっぱりだしてきて、わかったつもりになる。
 ことばをとおして肉体を共有するというのは、ことばをとおして肉体の中にある「時間」を共有するということなのだとわかる。

 と、書いて。
 あるいは、これから先、ことばをどうつづけていけばいいのだろうか、と一瞬立ち止まるのだが。私は、ここで、突然、何を書きたかったのか、気づく。ふいに、

というセリフを思い出す

 の「思い出す」という文字が、目にくっきりと見えてくる。
 「肉体の中にある時間を共有する」とは、言いなおせば「思い出す」である。あるいは「覚えている」である。
 テーブルに水文字を書いたこと、これ何と読むか知っていると聞いたこと、自慢げに「あめんぼう」と教えてやったこと、詩を書いたこと、来ないひとを待っていたこと(来ないとわかっているのに待っていたこと)などを「思い出す」のだ。「肉体」は、それを覚えている。
 と、書いて、私はまた立ち止まる。
 きょうは書かないと書いたことについて書きたくなる。
 「肉体」が思い出すのは、「肉体」が覚えていることであり、「肉体」がおぼえていること、「できる」ことなのだ。自転車に乗ることを肉体がおぼえると、長い間自転車に乗っていなくても、自転車に乗れる。泳ぐことを肉体がおぼえていると、長い間泳いでいなくても泳げる。「肉体」には、そういう力がある。
 だから、ことば(詩)を読んで「肉体」が刺戟されたときは、そこに書かれている「肉体」と同じことを自分の「肉体」でもできるということなのだ。そう感じたとき、私は、山本の詩を読んでいない。自分の「肉体」を読んでいる。自分の「肉体」でできることを思い描いている。
 テーブルに水文字を書く、詩を書く、待っているのは、山本ではない。私は私の「肉体」として、そこに書かれていることばを実行する。

そして水馬のように世界の水面を
すべりぬけ
とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける

 ということは、私は「した」ことがない。しかし、それを「してしまう」。そして「甘い臭気」を嗅いでしまうのだ。「おぼえている」こととして。
 ひとができるのは「おぼえていること(知っていること)」だけなのである。

 そういうことを考え始めると、急に「けち」をつけたい部分も見えてくる。

「ひとは皮膚におおわれた
水袋だ」
というセリフを思い出す

 この三行では、私の「肉体」は動かない。「思い出す」は「おぼえている」にかわりながら私の「肉体」を刺戟するけれど、「ひとは皮膚におおわれた/水袋だ」というセリフ(ことば)を思い出すとは重ならない。きっと「セリフ(ことば)」は「頭」でおぼえるものだからだろう。「水馬をあめんぼうと読む」のも「頭」でおぼえることかもしれないが、「水文字で書く」「発音する」という「肉体」の動きがあったから、「頭」という印象は少ない。「セリフ」になってしまうと「頭」(記憶力)になってしまう。
 この三行は、目立つが、目立つがゆえに、何か違和感がある。
 この三行がなくても、この詩は成立するとも思う。
 そして、このことから、私は、この詩のキーワードは「思い出す」である、と考える。山本は「思い出す」ということばを書かないことには、ことばを動かせなかったのだ。それは「思い出す」ということばをここでつかうと意識したということではない。逆だ。意識していない。無意識に書いてしまう。山本の「必然」がそこにあるだけで、読者には無関係だ。「思い出す」ということばは、この詩のなかでは山本の「肉体」になってしまっていて、山本はそれに気づいていないのだ。
 山本は「思い出した」ことを、「思い出した」とも意識せずに、書いている。無意識が「思い出す」に噴出してきている。
 そして、もうひとつ「無意識に噴出してきた思い出(おぼえていること)」が「アメに似た甘い臭気」である。
 「思い出す」も「甘い臭気」も、山本には絶対に書き換えることのできないものである。それは「無意識の必然」であり、山本の「正直」(本能)がからみついてことばなのだ。
 ほかのことばでは、私の「肉体」は山本の「肉体」を共有する。(もちろん、これは私が勝手に共有する、ということである。つまり「誤読」するのである。)ところが、「思い出す」と「甘い臭気」では、私の「肉体」は山本の「肉体」にならない。言い換えると、そのことばに「山本の肉体」だけを感じる。私の別の「肉体」を感じる。あ、ここに「山本」が「固有名詞」として存在する、と。
 でも、これは「けち」をつけたことにならないかも。
 考えてみれば、「嫌い」というのは、それは私とは違うということを言っているだけだからね。どんな場合でも。

 追加(1)。
 「アメに似た甘い臭気」の「アメ」というのはなんだろうか。「飴」なのかもしれないが、私は「雨」と瞬間的に思った。文字変換キーを押していると「天」もまた「アメ」と読むことがわかったが、これは無視する。

 追加(2)。
 「けちをつけたい」以後、少しと品が変わっているが、ここで私は少し休憩したからだ。私は目が悪くて45分以上パソコンに向き合っていられない。休憩をはさんで嘉吉具と、前に書いたこととは違うことばが動き始めてしまう。首尾一貫するようにととのえればいいのかもしれないが、私はととのえたくない。
 追加(3)。
 私の書いていること「感想」でも「批評」でもないかもしれない。いや、私は、実は感想や批評を書いているつもりはない。ただ「考えたこと」を書きたいだけである。考えたいだけである。
 だから、「結論」は、いつでもない。もし「結論」みたいなものにたどりついたとしたら、それを壊すためにべつのことを書きたい。そう思っている。山本の詩を手がかりに、どれだけ違うことを考え続けられるか。どうしても、どこかで「同じ」ものがあらわれる。それが、私の考えの限界ということになるが。まあ、仕方がない。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(21)

2019-11-19 08:31:59 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あのひとから少し離れて立つていた)

 末尾に「--音丸という妓あり」と書かれている。「あのひと」というのは「音丸」のことだろう。

ぼくはふと手くびに重みを感じる
あのひとの心からなにか去つていく静けさが
いまぼくの手につたわつてくるのだろう

 この三行は不思議だ。「手くびに重みを感じる」のは、「音丸」が嵯峨の手首を握ったからか。
 その手の接触によって、音丸の心にあるものが、嵯峨の手につたわってくる。この動きを「あのひとの心からなにか去つていく」ととらえているところが非常におもしろい。
 もし、つたわってきた何かが「愛」ならば、いったいどうなるのだろう。
 「愛」はつたわってきて、嵯峨のものになった。それを女の側からとらえなおすと「去る」という動詞になるのなら、そのあと、音丸の心のなかには何が残っているのか。「愛」は残っていないことになる。
 おそらく「かなしみ」が残るのだ。
 嵯峨は音丸と別れたのだろう。あるいは、音丸は嵯峨と別れたと言った方がいいのかもしれない。








*

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