山本育夫書下ろし詩集『HANAJIⅡ水馬(あめんぼう)』(3)(「博物誌」42、2019年11月01日発行)
きのう感想をアップしたら、「では、16水袋をどう読むか」と、私は山本育夫に問いかけられた。あるいは、この作品についておまえは何が言えるか、と挑発されてしまった。私は、簡単に誘い出されてしまう。それで、また書いている。
こういう詩である。
ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛み
があったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるよう
なのだ手が届かないので裸になってあなたにしぼりだして
もらうなにがでているのだ?と聞くと、うーーーんと悩ん
でいるうみのようなものだけどよく見るとことばのかたま
りみたいにも見えるあなたは毎晩そのことばのかたまりを
しぼりだしにくるのだそれをティッシュにくるんですてる
やがてうみはもうでてこないねとあなたはいいでもね、こ
このしんのことろになんかかたまりがあるのよね、これを
とらないとまた化膿するにちがいないあなたは医者のよう
に断言する、するとぼくはそんな気がしてきて、ではその
しんをとりのぞいてくれる?というと、あなたはそのこ
とばを待っていたかのように裸になって、なにか金属的な
おそろしい音のするものをとりだし、ここのね、しんのと
ころにね、これをね、こうあてて、スポッとくり抜いちゃ
うのよくり抜かれた背中の穴は小さい円柱らしくいつまで
たっても肉がのらず風がふきだまる
「吹き出もの」「うみ」は、「ことば」(ことばのかたまり)と言いなおされる。これを「詩」の比喩と読むのは簡単だ。「しんのところのかたまり」とは、詩になる前の、「未生のことばの領域」。はやりの「哲学用語」でいえば「無分節の領域(のことば)」ということになるかもしれない。(私は「無分節」ではなく、「未分節」と言うのだが、きょうはそういうことには触れないつもりなので、「無分節」と書いておく)。
でも、私は、「ことば」を「意味」に還元してしまう読み方が好きではないので、「背中(肉体から)しみでてきた膿」を詩であるという「比喩」には与しない。そう書いてしまうと、もう、あとは書くことがなくなる、ということも原因だが。つまり、「結論」にむかってことばが整列していく感じがするので、私は先の見える「論理」には従いたくないのだ。
この詩で私がこだわりたいのは、句点「。」がないことである。読点「、」はある。そして、その読点「、」は一か所、つかい方が奇妙なところがあるということだ。
句点がない、というのは、すぐにわかる。「目」でわかる。奇妙な読点というのは、「断言する、」という部分である。ここは意味的には句点「。」であるなぜ、この部分は句点のかわりに読点を「わざと」書き込んだのか。わからないが、あ、ここだけ違う、と私は「気づく」。そして、その「気づき」が、この作品には句点がないということをさらに強く感じさせる。
このとき、私は、ほんとうは何を感じているのか。
最初の方に句点を入れて、詩を「書き直す」。こうなる。
ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛み
があったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるよう
なのだ。手が届かないので裸になってあなたにしぼりだして
もらう。なにがでているのだ?と聞くと、うーーーんと悩ん
でいる。うみのようなものだけどよく見るとことばのかたま
りみたいにも見える。あなたは毎晩そのことばのかたまりを
しぼりだしにくるのだ。それをティッシュにくるんですてる。
「ぼく」と「あなた」が交渉していることがわかる。「ぼく」には見えないものが「あなた」には見える。(ここから、詩の作者と評論家の対話という「寓意」も導き出せるが、こういうことも、きょうは書かない。山本は、こういうことを聞きたくて、私に「どう読む?」と尋ねたのかもしれないが、私は、それには答えない。)
それよりも、書き出しの一文の長さが気になる。句点と読点を書き加えて、すこし変形させて、わかりやすくしてみる。
ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて、軽い痛みがあった。そのうちにそこからなにかがしみでてくるようなのだ。
でも、こうしてしまうと、なんだか味気なくなる。
ぼくの背中の真ん中あたりに吹き出ものができて軽い痛みがあったがそのうちにそこからなにかがしみでてくるようなのだ
の方が、主語(主役)が自然にすり変わる感じがして、それが「肉体」の不思議さをそのまま「実感」させる。「ぼく」が主役(テーマ)なのか、「背中」が主役なのか、「吹き出もの」が主役なのか、「痛み」が主役なのか、しみ出てくる「なにか」が主役なのか。「ぼく」はどこかにおきざりにされて、「肉体」のなかを「違和感」が動いていく。そしてそれは「肉体」からしみ出て、「肉体」ではなくなって「何か」になってしまう。まるで母親からこどもが生まれ、完全に別個の存在になるみたいに、「しみ出た」ものが「肉体」ではなくなってしまう。でも、それは「肉体」であったはずなのに。
そこに「ぼく」と「ぼく以外のもの」があって、さらにそこに「あなた」という「ぼく以外の存在」が関係してきて「なにか」をしぼりだすという運動がある。でも、そのときの関係は、「なにか」を生み出す(産婆術)とは意識されていない。ただ困っているので手伝っているということなのだが、句点で明確に「ぼく」と「ぼく以外であるあなた」の行動が区別されていないので、不思議な「ずるずる感(最初の文章の、主語がつぎつぎにかわっていくようなずるずる感)」がある。
ほんとうに「なにか」がしみでているのか。しぼりだすから「なにか」がうまれてしまうのか。ここのところの関係が、最初の文章の主語がかわりながらつづいていく「ずるずる感」にさらに重なる。その「ずるずる感」は、そしていったんは、「それをティッシュにくるんですてる」というところで完結するのだけれど。
「ぼく」としては、そこで完結したはずなのだけれど。
ここから「主語(主役)」が大転換する。「ぼく」でも「うみ(仮にそう呼んでおく)」でもなく、「あなた」がしゃしゃり出てくる。完全に「主役」になる。(書かないといったけれど、これを「詩/詩人」と「批評」に置き換えると、詩から評論が「主役」を奪ってしまって、評論が「物語/意味」を動かしていくのだ。)
そこに読点「、」が多数書き込まれる。「ことば」を分断し、「ぼく」を「別人」にしてしまう。
後半を、カギ括弧をつかって、さらに句点も補って、「散文」にすると、こうなる。
やがて「うみはもうでてこないね」とあなたはいい「でもね、こ
このしんのことろになんかかたまりがあるのよね、これを
とらないとまた化膿するにちがいない」(と)あなたは医者のよう
に断言する、するとぼくはそんな気がしてきて、「ではその
しんをとりのぞいてくれる?」というと、あなたはそのこ
とばを待っていたかのように裸になって、なにか金属的な
おそろしい音のするものをとりだし、「ここのね、しんのと
ころにね、これをね、こうあてて、スポッとくり抜いちゃ
うのよ」。くり抜かれた背中の穴は小さい円柱らしくいつまで
たっても肉がのらず風がふきだまる
「断言する」のあとは学校文法的には句点であるが、あえて読点のままにしておいた。なぜ句点にして完全に切断しないかというと、切断してしまうと、「ずるずる感」がなくなるからだ。「主語」がすりかわる、そのすり変わりをおさえることができないという感じがなくなるからである。
「そんな気がしてきて」と山本は書いているが、書き出しにあった「なにかがしみでてくのようなのだ」は「なにかがしみでてくるような気がして」なのであり、この「気がする」ということが「ずるずる感」にとって大切なのだ。あくまで「気」。事実ではない。個別の「分断されたなにか」ではなく、「気」でつながっている。「しんのことろにあるかたまり」をとらないとまた化膿するというのは「あなた」の見解だが、そのことばを聞いた瞬間から「ぼく」の考えにすりかわってしまう。
そういう視点から見ると。
断言する、
この読点は、この詩のポイント(キーワード)なのである。
学校文法の句読点のつかい方では絶対に句点「。」である。しかし、句点にしてしまっては、山本の意識(肉体)にとって、詩ではなくなってしまう。この作品のなかで動かしていることばの動きが別物になる。「ずるずる感(主語/主役がなにかわからなくなる感じ)」の「文体」が狂ってしまう。句点「。」なのに読点「、」にすることで、切断を否定し、接続(ずるずる)へひきもどしているのである。「文(ことば)の肉体」を強引に統一する。
そして、それは最後の一文の前の句点「。」の省略(排除)へとつながっていく。「でもね、」「あのるよね、」「ここのね、」「ところにね、」と「口語の念押し(感情の押しつけ)」の「(よ)ね」のあとには必ず読点があったのに、「抜いちゃうのよ」という「あなた」の口語のあとには読点はない。句点もなく、「くり抜かれた」という動詞がつづき、そこから主語(主役)は「あなた」ではなく「ぼく」にすり変わり、「背中の穴」という具体を通って「風がふきだまる」という「寂しさ(感情)」の比喩へと動いていく。「抒情」へと動いていく。主役が「抒情」になってしまう。
これは「詩(抒情)は批評なんかに負けない」という宣言であるかもしれないし、そういう大げさなものではなく、詩の最後におかれた「余韻」のようなものかもしれない。
あ、脱線した。
句読点以外に、もうひとつ、この詩には「ずるずる感」を引き起こすことばがある。
「裸になって」
最初に出てきたときの「裸になって」は「ぼくが裸になって」、後半の「裸になって」は「あなたが裸になって」と主語が違うのだが、ふたりが「裸になる」と「裸」が共有されてしまって、区別がなくなる。最初の「裸になって」は「あなたは裸になって」と読むことができるし、後半は「ぼくは裸になって(背中をさらけだし)」とも読むことができる。セックスと同じように、「裸」は単なる「共通条件」になって、その「中心(?)」は「行為」になる。その「行為」は、前半は「しぼりだす」という手(肉体)、あるいは指(肉体)が、後半は「肉体」ではないもの、「金属的」なものに変わり、ここでも「詩(肉体的なもの、本能的なもの)」と「批評(人工的で、非肉体的なもの、非人間的なもの)」との拮抗(戦い)があり、客観的には「金属的なもの(非人間的なもの)」が患部をえぐりだし勝った(?)ようにみえながら、それを「肉体の寂しさ」の主張で閉じるという、ええい、何が言いたいんだ、と叫びたくなるような「ずるずる感」が目の前に残される。
で、この詩の感想の「結論」は?
そんなものは、私は書かない。「結論」を書かないのが、私の感想の書き方だ。
批評によって詩にぽっかり穴があき、そこに詩人のさみしさがたまろうがどうしようが、私には関係がない。思い切って穴を深くし、トンネル(ふきぬけ)にしようか。風通しがよくなるよ、ということも「批評」はやってしまうものなのである。
でも、そんなことをしても始まらない。
私は、詩のタイトルが「水袋」であること、そして「水袋」が「01水馬(あめんぼう)」の詩の最後にでてきたことだけを指摘しておく。
とうとう通りかかった
銀色の水袋にシュッと穴をあける
アメに似た甘い臭気が
しばらく周囲にただよう
「うみ」もまた「甘い臭気」をもっている、と私の「肉体(嗅覚)」はおぼえている。
*
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