詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年01月24日(金曜日)

2020-01-24 23:16:47 | 考える日記
2020年01月24日(金曜日)

 私は「誤読」する。もちろんそれは意図的に誤読するのである。しかし、その「意図」を私は理解しているわけではない。何を目指しているのか、わからない。わかるのは「誤読」しないかぎりたどりつけないものがあるということだ。それは、どこかにすでに存在しているのではない。どこにも存在していない。あえていえば、すでに存在しているものを破壊したときに生まれるものなのだ。つまり、「誤読する」その瞬間だけに生まれ、ことばにしてしまった瞬間には消えてしまうものなのだ。


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森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」

2020-01-24 18:11:55 | 詩(雑誌・同人誌)
森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」(「水盤」20、2019年12月25日発行)

 森永かず子「いつか夢になるまで」を読んでいて、私は、ふいにとまってしまう。

短い人生のなかで
ひとはどうして
孤独や後悔や絶望を
囚人のように
いつまでも引きずって
歩くのだろう

それは笑っていても
疲れて眠るときも
やわらかな獣のように寄り添うので
つい手を伸ばして
撫でてしまうのだ
その生温かさが
わたしの生きた時間だと
気づかないまま

 一連目、「ひとは」と書かれている。主語は抽象的だ。まわりのことばも抽象的だ。こういう「意味」の強いことばは、詩になりにくい。「意味」というのはひとそれぞれのものであって、つまりあくまでも個人的なものであって、「一般化」しにくいからである。
 しかし、逆説的になるが、それでは「一般的意味」が共有されやすいかというと、そうでもない。
 「意味」は個別的でなければならない。絶対に他人と共有できない「意味」が書かれたときだけ、読者は、それを共有する。「あ、これが、私の言いたかったことだ」と気づくからだ。
 一連目には、そういう「ことば/個別的な意味」が書かれていない。
 二連目は、どうか。
 やはり「個別的な意味」は書かれていない。そして、そのかわりに「わたし」が突然出てくる。「わたしの生きた時間」という形で。
 私は、ここでつまずいた。
 もし、ここに「わたし」というこばがなければ、それはそれなりに詩になり得たと思う。「だれの時間」と特定されていないので、それを「わたし(森永)」の時間と思わず、私(谷内)自身の時間と思い込むことで、私自身が覚えていることをことばに結びつけることができたと思う。つまり「共有」が可能だったかもしれないと思う。私なりに「孤独」や「後悔」や「絶望」を思い出すことができたかもしれない。
 しかし、ふいに登場した「わたし」がそれを奪い去っていく。
 私に対して、何かを差し出すのではなく、差し出した物を、これは自分の物という具合に森永自身が奪い取っていく。
 なんだろう、これは。
 まるで、「おいしい料理ができたよ」と言われたので言ってみたら、それは私が食べるための物ではなくて、森永が自分で食べて見せるための物だった、という具合だ。

けむる雨のなか
紫陽花が咲いている
廃屋の庭で
ぼんやり灯りながら
冷めていく時間を
数えてきた
過去も未来も
今ここにない時間
みんなまぼろし

 と、ことばはつづいていく。それが「わたし(森永)の生きた時間」。
 それはそれで「意味」として完結しているが、完結しているからこそ、詩になっていない。
 もし一連目を「ひとは」ではなく「わたしは」と書き始めていたらどうなったか。あるいは二連目を「わたしの」ではなく「ひとの」と書きつづけていたらどうなったか。
 ここに考えてみなければならない問題があると思う。
 主語をどうするかは、書き手のこの身の問題なのかもしれないが、私は、この詩のように「ひとは」とはじめておいて、その「ひと」を代表するのが「わたし」であるというような「論理」には、どうもなじめない。
 「わたしは」とはじめて「ひとは」とつないでゆくことにもなじめないが。



 井上瑞貴「森林区」と比較してみる。「ひと」「わたし」の登場のさせ方が違う。

追うかぎり遠ざかる木々の葉を除去しなければなりません
小鳥たちの小さな空腹が鳴き声になって
その輪郭はひとびとの斜面をあやしくかたどり
散らない花が散る花にまじって咲いているのがみえたのです
(略)
なにひとつ終わることのできない個人の終着駅で
何度も聴いた音楽をはじめて聴きながらわたしは歌います
声を使わずに
しかも朗々と

 「ひと」といっしょにあることばが、私(谷内)の知らないことばである。「ひと」は「抽象的」だが、それといっしょにあることばは抽象的であると同時に、井上だけの肉体を通ってきたものであることがわかる。「孤独」とか「絶望」のように「辞書化」されていない。井上の肉体を通ってきているから「個人」が「ひと」から切り離された存在であることがわかる。そのうえで「わたし」という呼称を井上が選択していることがわかる。
 さらに「何度も聴いた音楽をはじめて聴きながら」「声を使わずに/しかも朗々と」という矛盾が「わたし」を個別化する。
 ここで井上が愛用している「矛盾」は辞書に載っているような意味での矛盾ではない。対立する存在ではない。つまり、力が拮抗して動けないという状態ではない。井上の「矛盾」は、既成のもの(すでにあるもの)を否定し、それをまったく違うものにしてしまうという意思の運動のことである。
 何度も聴いているとしても、それとは違う聴き方を選びとって、はじめての状態で聞くのである。初めてにするのである。声をつかって朗々と歌うということは多くのひとがする。だが、井上は声を使わないを選ぶのである。それが他のひとに「朗々と」したものとして聞こえるかどうかは問題ではない。他人がどう思おうが、井上が「朗々」にしてしまうのだ。
 井上は他人を拒絶することで抒情を完成させる。それを共有するものは、井上のように他人を拒絶しないといけない。つまり、井上のことばを拒絶しないといけない。拒絶することができたら、そのとき、そこにはじめて抒情の共有が成り立つ。





*

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アルメ時代29 春の歌

2020-01-24 14:36:30 | アルメ時代
29 春の歌



   1
欄干という音の美しさに負けて
また橋を渡っている
川の水は潮で甘くなっている
ぷっくらとふくれてけだるい
「結局はわからないんだ」

   2
「川の名前は言いたくない
音の組み合わせに
ひなびたひろがりがない」

   3
ひきずりこまれかけている

   4
猫を頼りに路地をまがる
自分に出会わなくてすむように
(何も言うな)

   5
陶器屋の前を通る
何に驚いたか
こらえきれずに陶器が落ちる
アスファルトの上で白い花になる

   6
鏡張りのビルがある
きみが通るとき教会の横顔をふいに映し出す
見えないはずのものが
視線をおしひろげる
「ここでまがれば
昔へいけるだろうか」

   7
(何も言うな)
(言ってしまえ)

   8
遠くがぼんやり光をためている
大通りとぶつかる場所だ
車が途切れ向こう側が見えることがある
「路地も幻想を見るだろうか」

   9
「意志が消える一瞬がある
魂が消える瞬間があるだろうか」

   10
ひきずりこまれかけている

   11
ふたたび角をまがる
雲の影がアスファルトの上に落ちて動いていく
ブロック塀にぶつかり垂直に立ち上がって
動いていく ふたたび

   12
私は私でありたくない
アスファルトの白でありたい
アスファルトの青でありたい
光や影や雨によってかわる濃淡でありたい

   13
ひきずりこまれかけている

   14
さらに角をまがる
煉瓦色の舗道を光がひいていく
砂浜から水がひくように
「金緑の砂の干潟よ」か

   15
ひきずりこまれるな

   16
小倉金栄堂で売れ残った本を開く
「太陽の沈んでいく速度ってかわるのかしら
冬の間はじれったいくらいに空をそめつづけていたのに
春が近づくとなんだか
すとんと落ちていく気がするわ」

   17
歩道橋から見えるのは
静かに折れている国道の角度
夕日は地平線に乗ったまま動かず
一日は終わる



(アルメ249 、1987年05月10日)

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(6)

2020-01-24 08:58:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
人名

 「ふとそのひとの名をおもいだした」と書いたあと、嵯峨は、こう書いている。

ぼくはいま
誰かの記憶のなかを通つているのかもしれない

 思い出すというのは、「記憶」をいまに蘇らせることである。「記憶」のなかにいる誰かを思い出すというのは、「記憶」のなかで誰かが動くということだろう。つまり、誰かが嵯峨の記憶のなかを通っている、と考えるのが普通だと思うが、嵯峨は逆に考えている。
 刺戟的だ。荘子の蝶の夢のように。
 誰かが嵯峨の記憶のなかで動いたのか、誰かの記憶のなかで嵯峨が動いたのか。それは確かに、区別がつかない。







*

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アルメ時代28 冬の水たまり

2020-01-23 21:53:17 | アルメ時代
28 冬の水たまり



 冬の水たまりをのぞきこんだとき「沈滞した空虚」ということばが脳を切り裂いた。衰弱の発作がまたやってきたのだ。ビルの背後にある傾斜した空を映す水の薄い膜、水のたわみを隠している不確かな存在に叙情的懐疑を投げ込み、ことばは何を引き出すつもりなのか。美しい形に整えたい主題などもちあわせていないのに。
 「あるいは欲望の放棄」と執拗にことばにしてみる。放射冷却で白くなったアスファルトよりも繊細に浮かぶ断片の密度が薄れていく。網膜には空の青さに侵入してきた雲がすみつき、不可解な形で動いている。意識も不定形に揺れはじめる。虚構を構造化しなければ、水たまりを覗いたときの、水とことばの密着度は維持できなくなった。
 あのとき、最初の光が網膜の深部をつらぬき、ことばの内部にひそむ本能を照らしたときこそ否定の計画を実行するときだった。幼年期の無邪気さで踏み砕いてしまえばよかった。「明晰さを希求するものは判断停止という罠に飛びこまなければならない」という箴言に従うべきだった。そうすれば沈黙と和解できたのだ。古くさい象徴を探して、視界が脳髄の色に染まるのを見ている必要もなかった。水は静かな平面を失い、雲の形を乱反射する光のなかに吸収していたはずだ。そしてことばは、その乱反射の暗さ、光のなかの鋭角的な闇に封印されたはずなのだ。
 郷愁の冷たさ、発芽の脅迫--それは確かに存在した。ことばはいま、思い出すことができるのだから--を、ことばはなぜ誤読したのか。氷の割れる音、足裏にこめる力を逆にたどって脳へのぼりつめる音を利用すべきだった。それが、救済不能の精神から、感覚を生成する器官の豊饒な闇へと避難する唯一の方法だと認識しながら、なぜ普遍という不毛性の誘惑に負けたのか。
 一定の強度という口実、重力のように存在と運動に解体されていくものが、後悔や啓示のようにことばの不徹底を照らす。「錯覚が帰属する相対的逆説」ということばが実体を求めて浮遊する。氷をみつめ、筋肉を動かすときに体内を走る電流という幻を盲目的に反芻すれば、平衡が消失する。模造の困惑が器官を放任する。感覚の形状的説得力。誤謬の不確実的限界。未消化の装飾節に拘束されて、ことばは動けなくなる。水たまりのなかで雲が形を変えるのをみつめたまま。


(アルメ248 、1987年03月25日)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(5)

2020-01-23 09:34:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

待つ

窓から
雨のあがつている街道が見える

 もしひとを待っているのだとしたら、そのひとはその「街道」を来るのだろうか。たぶん、そうだろう。「雨」はあがった。それは一般的に考えて、吉兆である。その道を通って、二人はどこかへ行くこともできる。でも、いまは、そういうことは考えていないだろう。
 その道を、そのひとがやってくるまで、嵯峨はそのひとの方向へむかって動いている。「待つ」とは、「肉体」は動かさないが、こころを動かしつづけることである。こころが動くから、道をみつめる。雨があがったことを知る。








*

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細野豊「地の上へ散るだけの」

2020-01-23 09:22:30 | 詩(雑誌・同人誌)
細野豊「地の上へ散るだけの」(朝日新聞夕刊、2020年01月22日=西部版)

 細野豊「地の上へ散るだけの」は「意味」が強い。嵯峨信之の詩に「自由画というものがあつた」(『小詩無辺』)に「言葉は/言葉以外の意味にあふれている」という二行があるが、細野の詩の場合、どうだろうか。

地の上へ散るだけの
花よりも
落ちてふたたび枝に帰る
蝶が愛しい

たとえ偽の花と
揶揄されようと
自由に飛べるから
詩が生まれる

木も枝も花も
自力では動けないから
詩は書けない

夏 木は時を惜しむ蝉の叫びに揺すられ
秋 肌に染みついた悲しみは風に運ばれ
冬 詩を抱きつつ厳しい寒さに裸を曝す

春 蛹からかろうじて抜け出し
じわじわ身を広げる蝶は

甘い匂いに誘われて蜜を吸い
花粉を浴びたら いつの間にか
翅が華やかに色づいて

 花(あるいは木)と蝶が対比される。蝶は「自由に飛べる」。これに対して花や木は「自力で動けない」。このことと「詩」が結びつけられる。詩は、自由に飛べる(動ける)ものが生み出すものだ。それが細野の「意味」の基本だ。そして、自由に跳ぶ(動く)ということは、自己以外のものと自由に接触することだ。「誘われ」「味わい(蜜を吸う)」「影響を受ける(花粉を浴びる)」。その結果として蝶は「より美しくなる(華やかに色づく)」。
 とても整然としている。
 この整然さは、たぶん、細野が翻訳をやっていることと関係があると思う。翻訳がつたえるのは「論理」である。論理的に整然としているものは、「意味」をつたえやすい。
 でも「意味(論理)」だけでは詩にならない。
 細野の場合、「意味/論理」以外のものとはなんだろうか。リズムだと思う。私は、リズムを感じる。
 一連目は一種の対句だが、対句にはリズムがある。応答のリズムである。それは二連目に引き継がれ、三連目は二連目と別の「対」をつくる。向き合う。
 四連目で、転調する。五連目へ引き継がれる。「自由に飛べる」「自力では動けない」という「意味」を「四季」の並列で展開し、補足する。
 そして、結論。
 ことばの展開の仕方そのものに「起承転結」を踏まえた論理のリズムがある。
 これが、細野のことばを詩にしている。

 一方、こういうことも言える。

 「論理」というものは、いつでも「反論」を対の形で用意することができる。

落ちてふたたび枝に帰る
蝶よりも
地の上へ散るだけの
花が愛しい

たとえ偽りの蝶と
揶揄されようと
運命を生きるから
詩が生まれる

蝶も鳥も人間も
自由に生きていると思っているから
詩を書かない

 ここからあとは、そのまま細野のことばを借用する形で書くのは難しいが、自己のあり方をそのまま受け入れ、変化していく世界のありようを「真実」として受け止めるという展開も可能である。春夏秋冬、すべては変化する。「真実=詩」は、変化するという動詞の中にこそある。自分の変化は「見かけ」にすぎない。自己を超える「変化する/流動する/何かを生み出しつづける」という運動の中にこそ、世界の秘密(存在の秘密)があるということも可能である。自分で動ける、自分が動いているという意識では、「自在=自由」ないのちの誕生に出会うことはできない。
 もちろん細野は、こういう反論があることを承知して書いているだろう。
 だからこそ、最終蓮の「華やかな色」を自分で選びとったというよりも、花から与えられたもの(運命)として書くのだろう。
 「色づいた」ではなく「色づいて」と、それにつづくことばを読者にまかせている。方向は与える、しかし決定はしない。この最後のことば、「決定しない」ことば、ことば以外というよりも、ことばの「先」へ、読者は自分で進んで行かないといけない。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(4)

2020-01-22 08:28:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月22日(水曜日)
自由画というものがあつた

言葉は
言葉以外の意味にあふれている

 詩を語るとき、思い出してしまう二行だ。
 たぶん私は書かれていることばを、辞書に書かれている意味とは違った意味に受け取っている。余分なものをつけくわえ、その余分を楽しんでいる。
 では、この二行については、どうか。
 「意味」を主張することばには警戒しなければならない。
 「意味」は「意味」を完結させる。「意味」をどうやって破壊して、「ことば」を読むか。
 そのことを考えなければならない。







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山下修子『空席の片隅で』

2020-01-21 09:52:57 | 詩集
山下修子『空席の片隅で』(東夷書房、2018年、06月10日発行)

 山下修子『空席の片隅で』は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故のことを書いている。
 どうしても戻ってきて何度も読む行がある。「蝶の浴衣」の中に出てくる。

家はやがて朽ち果て、あたり一帯は荒れ野ではなく、原野と化す。
弘ちゃんの見通しは的確だ。
地図からも、やがては消える。
私は、どんな言葉をかけたらいいのか。それがわからない。
ただただ聞き続け、弘ちゃんの話すその内容を、肯定するだけだ。

 「肯定する」。
 このことばの前で、私は立ち止まる。
 「家はやがて朽ち果て、あたり一体は荒れ野ではなく、原野と化す。」この悲劇を肯定していいはずがない。でも、それでは、どうすればいいのか。
 「わからない」。
 「わからない」から「肯定する」。このときの「肯定する」は「被害者を肯定する」という意味である。生きているその人を「肯定する」、という意味である。
 それ以外の意味を持ちようがない。
 つまり、それ以外にできることはない。

「会いたいなあ、近くに来たら、寄ってね!」

 それはいつのことばだろうか。震災前に聞いた声か、震災後に聞いた声か。答えはあって、答えはない。 
 そして、なかには「肯定できない」こともある。「花は何処」。

交差点の歩道に立って
プラカードを掲げる 午後
悪意の悪罵が 目の前を過ぎて行く
「おまえらは 〇〇かあ--」
〇〇は □□の場合もあれば
△△のこともある
週に一度の立ちんぼは 一時間

 罵声を浴びせていくひと。その「批判(声)」を「肯定する」ことなどできない。でも、山下は反論を書いていない。書かなくても、この詩を読むひとに反論がわかるからか。そうなのかもしれない。しかし、私は少し違うことを考える。
 山下は、浴びせられた声を「批判」はしない。いや、批判はするが、そこに生きている人間を「否定しない」。生きている、ということを「肯定する」。それが、たとえ自分の思いと違っていても。
 「蝶の浴衣」に戻ってみる。

家はやがて朽ち果て、あたり一体は荒れ野ではなく、原野と化す。

 こういう状況を「肯定する」ことはできない。しかし、それを否定し、次に進むためには、いま、こういうことが起きているということを「肯定する」ということろから出発するしかない。
 事実がある。
 事実を見ないことには、どこにもゆけない。
 山下のいう「肯定する」は「事実の存在を認める」ということである。「存在」を認識するということである。

 私たちは、どこまで「事実の存在」と向き合うことができるか。
 「蝶の浴衣」には、こういう部分もある。「弘ちゃん」を訊ねてゆく。だが、返答がない。

「もう一度、呼び鈴をおしてみたら?」

 しかし、その部屋は静まり返っている。何の音もしない。このところ具合が悪く、塞ぎ込んでいると言っていた。人に会ったり出かけたりも面倒。気持ちに張りを持てないとも。だから、予感はあった。多分、訪ねても無理だろうと・・・・。実は、私にもそういう時期があった。在宅でも居留守はあり、なのだ。

 「肯定する」は「受け入れる」ということである。
 もちろん「受け入れる」ことのできないものもある。あるけれど、それを「否定する」だけでは何かがこぼれおちていく。
 複雑な気持ち、の複雑さがこぼれ落ちていく。
 山下は、そのこぼれ落ちそうなものの、傍に寄り添っている。「肯定する」は、「寄り添う」ということでもあるのだ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(3)

2020-01-21 08:49:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月21日(火曜日)



皺一つない告白

 「泉」は港の比喩か。
 「告白」を「皺一つない」と修飾する。このとき「告白」ということばが微妙に動く。そうか、「告白」というのは何かしらの「皺」を持っているのが普通なのか。「皺」は何かを隠したためにできる「乱れ」のようなものだろう。
 そこに書かれているのが「皺一つない」なのに、想像力に迫ってくるのは「皺」の「意味」である。「皺」が比喩になっている。
 ここには比喩がもう一度比喩になるという不思議な運動がある。「港」というタイトルを忘れてしまいそうだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)

2020-01-20 10:05:54 | 詩集


西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)(思潮社、2019年02月20日発行)

 西川詩選に収録されている『深浅』の「近景と遠景」は、十八篇の作品で構成されている。「1 鳥」は、こう始まる。

鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ。

 言われてみれば、そうかもしれない、と思う。「反論」が見つからない。
 「2 火」の書き出しは、こうである。

火は火そのものを照らすことはできず、火に照らし出されるものは火ではない。

 そうかもしれない。しかし、私は「火」であったことがないので、「火に照らしだされるものは火ではない」が「ほんとう」かどうか、納得できない。
 私の感想は、変だろうか。
 「1 鳥」を読んだときは、それほど違和感がなかったのだが、「2 火」を読んで、西川のことばの特徴(詩の特徴)のようなものが、この書き出しに隠れていると思った。しかし特徴は「2」ではなく「1」に隠れているのかもしれない。「1」と「2」の間に隠れている、と言い直せるかもしれない。
 どこに違いがあるのか。

肉眼によって眺めることのできる

 このことばが「1」にあって、「2」にはない。
 「2」は「肉眼によって眺めること」で確認したのか。肉眼によって確認できるのは「火」がそこにある。「火」が燃えているということだけである。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」は「火」を見つめることから出発しているかもしれないが、「肉眼」で確認していることではない。
 ここから「1」にもどってみる。「肉眼によって眺めることのできる」と書かれているが、「一番高いところにいる生物だ」という断定は「肉眼」がおこなっているのではなく、「意識」がおこなっていることだ。
 「1」と「2」は違っているのではなく、同じことばの動きだ。どちらも「意識」が主体となってことばを動かしている。「意識」の運動としてのことばだ。それなのに「1」では「肉眼」ということばがつかわれ、「眺める」という動詞がつかわれている。
 「2」を読んで、私は「違和感」を覚えたが、それは読み直してみると「2」に原因(?)があるのではなく、「1」にこそ原因がある。

肉眼によって眺めることのできる

 ことなど、西川は書いてはいないのだ。それなのに「肉眼によって眺めることのできる」という具合に詩を始めている。読者を「裏切る」、あるいは「罠にかける」かたちでことばを動かしている。
 「1」のつづき。

時に歌い、時に呪い、時に沈黙する。鳥の上方の空について、僕たちは何も知らない。そこは理性のおよばぬ王国。広大無辺の虚無が広がる。鳥は宇宙秩序の支点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ。

 「意識」ではなく、西川は「理性」と書いている。「理」をもった「意識」。「理」こそが西川の詩なのである。「肉眼」は関係がない。むしろ「理性の眼」によって世界(宇宙)を眺める、というのが西川のやっていることだろう。
 このとき「鳥」はもう「鳥」ではない。単なる「比喩」である。そしてそれは「理性」を意味している。「鳥は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」は「理性は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」である。つまり、「理性」のおよぶかぎりが「宇宙」だということである。
 「理(性)」がすべてを生み出すのだ。生み出す力を「理」、生み出され確立したものを「理性」と区別した方がいいかもしれない。
 西川は「理」で世界を整えなおし、それをことばとして提出している。彼は「肉眼」で世界をみつめるのではなく、「理」でみつめる。それはいつでも「肉眼によってながめたもの」を逸脱している。あるいは超越している。
 「5 牡丹」の書き出し。

牡丹は享楽主義の花だ。薔薇が肉体と精神のふたつを備えているのと違って、肉体だけを持つ。菊には精神しかないのと同じだ。

 ここに書かれていることが「正しい」(理性的に合理的)かどうかは知らない。しかし、そうなのかもしれないとも感じさせる。「納得」するわけではないが、「納得」へむけて動くものが、確かに私の肉体の中に動いている。それは、たぶん、そういうようなことばを聞いた記憶がかすかにあるからだ。西川は特別ふうがわりなことを書いているわけではない。私たちの「理性」として聞かされてきたことを整えなおしている。
 「1」も「2」も、すっとことばが「肉体」のなかに入ってくるのは、そのせいである。共有される「理性」というものが、人間にはある。その共有される理性に、国境はないのかもしれない。
 しかし、もし西川が「共有される理性」だけを書いているのだとしたら、それは「詩」とは呼べないだろう。「数学の公式」のような「定型」で終わってしまう。なぜ、「肉眼」ではなく「理」で整えなおしたものが、「詩」という「個性的な存在」としてあらわれるのか。
 「理」と「理性」が違うものだからである。
 言い直すと、「答え」ではなく、「問い」として提出されるからである。あるいは「異議」として運動することばだからである。問い、異議を申し立てるのは確立した「理性」ではなく、「理性を生み出す理」(理性にはなっていない理)だからである。
 「15 幽霊」にこんなことばがある。

僕が比喩のやり方で議論するのは、幽霊についてではない。僕が議論するのは、古くからの観念だ。

 これは西川の詩(世界)に対する向き合い方を語っている。「比喩」と呼ばれているのもは、たとえば「鳥」であり、「火」であり、「牡丹」である。それは「実在」して見えるが(肉眼によって眺めることができるが)、すでに存在する「名前」で呼ぶかぎり、そこにはすでに「観念/理性」が定着している。「鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ」ということさえ、「定着した観念」である。だからこそ、私たちは、それをつまずかずに読むことができる。疑わずに読んでしまう。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」も同じである。その疑いようもないところから出発し、それに対して異議をぶつける。問いをぶつける。「理」からことばを生み出す。つまり、その後を、西川自身のことばで、再構築する。
 「16 廃墟」につかわれていることばを利用して言い直せば、そうすることに「創造の本質、人類精神の本質」があるからだ。西川は、定着した観念を問い直すこと、異議を申し立てることを「創造」と呼ぶのだ。そしてそれを「本質」と定義しているのだ。
 こういうことを「17 荒野」では、こう言い直している。

荒野は人間を否定し、忘却を引き受ける。それは河のない場所だ。どんな区域にも決して属することなく、自身を世界の中心とする。そこは、いかなる精神も決して持たない。だが精神は荒野を持っていなければならない。

 ここでは、ことばが一瞬一瞬生み出しなおされている。書かれていることばを簡単に「ひとつの意味」で固定してはいけない。
 最初の「荒野」は「観念(意味の定着したことば)」である。それは人間の創造を否定する。人間に創造を忘れさせる。「荒野」は「理性の世界」である。一方、「河」は「水」であり、「水」は「流動」である。(先につかったことばで言い直せば、「理」である。)そして「流動」は変化であり、創造であるだろう。
 いわゆる「荒野」は、普通に考えれば価値を持たない。だからこそ、それを自分の中心に据え、そこから自分のことばを生み出していかなければならない。
 「そこは、いかなる精神も決して持たない」は、「荒野(固定した意味、観念)」は「精神」と呼ぶに値する「自由」な「創造力/想像力」を持たない。だが、「自由な精神」は常にその「固定した意味/観念/荒野」を破壊する形で動かなければならない。創造力に富んだ「自由な精神(理)」を働かせる「場」として、西川は、「固定した意味/観念/荒野」を選ぶのだ。そこにこそ「理」が必要とされているのだ。
 世界は「「固定した意味/観念」であると自覚するとき、はじめて「詩」が必要になる。
 「18 蜃気楼」の最後は、とても強く、美しいことばで締めくくられる。

見たことがなくても、虹から想像することができる。

 「見たことがなくても」とは「1」にあることばを借りて言えば「肉眼で見たことがなくても」である。そしてそれは「存在しなくても」であり、「事実でなくても」でもある。存在するとか、しないとか、そういうことは関係がない。「想像することができる」かどうか、それが「創造することができる」かどうかにつながり、「想像する/創造する」ということが「人間の本質」なのだ。「理」の働きなのだ。
 既成の世界(理性)を揺さぶり、もう一度「理」そのものにもどってことばを生み出しなおす。そういう世界への向き合い方を明確に主張する詩人だ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(2)

2020-01-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


窓の近くに
大きな黄金色のザボンの実が重く垂れさがつている

 これは詩の三連目の二行である。ひとつの情景の描写である。描写そのものには謎はない、ように見える。しかし、実は謎だらけである。
 なぜ、嵯峨はザボンを「現実」の中から選び出したのか。さらに「大きな」「黄金色の」「重く」「垂れさがつている」と描写を重ねるのか。それは「ザボンが実っている」という描写と、どこが違うのか。
 どのことばにも「意味」がこめられている。そして「意味」が重なることで「謎」になるのだ。








*

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アルメ時代27 秋の女

2020-01-19 14:42:56 | アルメ時代
27 秋の女



夕暮れになると
「こころのかわりをしてくれそうなものが
静かにやってくる」
影が長くのびて
テーブルの上に胸の形が休み
頭は床の上に落ちる
「川を渡ってくる光の角度
ビルに隠れる風のしめり」
私は小学校の
チャイムの音の行方をながめる
女はサッシの窓をすべらせ
カーテンを引いてゆく
「でも頼りすぎてはいけない」
床に散った夕日の色が
粉のように集められ
隙間から吸い出されてゆく
「でも頼りすぎてはいけない
ある日突然気づいた
ガラスの中に半透明の私がいて
私を見つめ返していた」
逆光に透けていたシャツが消え
女はくらい顔になってふりかえる




(アルメ247 、1987年02月10日)
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竹内健二郎『四角いまま』

2020-01-19 14:30:36 | 詩集
竹内健二郎『四角いまま』(ミッドナイト・プレス、2019年12月25日発行)

 竹内健二郎『四角いまま』の「あくび」。

プラットホームで
男は
鼻からけむりを
大きく吐き出し

くび をはじめた

 「あくび」とひとことにするのではなく「あ/くび」。その一呼吸のずれが、男を見ている感じを端的にあらわしている。あくびをするときも「あ」と肉体の中からおさえきれないものが漏れ、それにかたち(あるいは意味)を与えるようにして、残りの息が追いかけてくる。
 これを竹内はさらに言い直している。

閉じられていく まぶた
開かれていく くちびる
開きながら閉じていく ひとの身の

どこかに
男は

吸い込まれてしまったようなのだが

 さて、吸い込まれたのは「男」か、「男」を見ている竹内か。あるいは、この詩を読んでいる私か。
 見ること(読むこと)は自分の肉体をつかって、「事実」を反芻することである。くりかえすことによって「肉体」のなかで「事実」が「真実」になる。
 そこには「あ/くび」のように、ちょっとことばにしにくい「間」のようなものがある。「間」を「意味」にしないで、「間」のままにしておくと、それは「魔」に変身するだろうと思う。
 どうやって「意味にしない」か。
 これは難しい。





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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(1)

2020-01-19 09:29:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


井戸端に咲きみだれている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もつと見事な黄金の大きな嘘のように

 二行目の「太陽が火を放つ」を、私は「太陽に火を放つ」と読み替える。太陽が山吹に火を放つのではなく、山吹が太陽に火を放つ、と。
 山吹は、大地から生まれた太陽であり、それは天にある太陽の輝きには負けない。
 それはもちろん「真実」ではない。「間違い」というよりも、「嘘」である。しかし、嘘を承知で、そう書くのだ。そう読むのだ。
 ことば(詩)は客観的な「事実」ではなく、錯乱が生み出す「真実」である。










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