詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

2020-01-19 09:06:13 | 映画
クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ

 ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
 ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
 このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
 ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
 このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
 このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
 これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
 感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。

(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)
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ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

2020-01-18 09:37:35 | 映画
ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

監督 ジェームズ・マンゴールド 出演 マット・デイモン、クリスチャン・ベール

 私は車にはまったく関心がない。しかし予告編で見た車が走るシーンが、とても自然に感じられて見に行く気になった。「自然」と書いたのは、わざとらしさがない、スピードを強調していないということである。
 マット・デイモンだったか、クリスチャン・ベールだったか。たぶん、クリスチャン・ベールだろうなあ、車が最高速度に達すると、逆にゆっくりした感じになる、というようなことを言う。別世界に入ってしまう。ハイになって感覚が世界と融合してしまう、ということだろう。
 これをどう映像にするか。
 難しいと思う。しかし、ちゃんと映像化できていると思う。クリスチャン・ベールがレースでトップにたったあと、そのシーンがある。前に誰もいない。どこまでもどこまでも走っていってしまいそうだ。この愉悦にすーっと吸い込まれる。
 これはもう一度あらわれる。クリスチャン・ベールが、テスト走行中、その感覚に誘い込まれる。この瞬間、あ、このままクリスチャン・ベールはこの世から去っていくのだとわかる。そして、実際、そうなるのだが、それが必然に感じられる。
 自然から、必然へ。
 これを映像で体験できる。この二つの「ハイ感覚の走行映像」を見るだけで、この映画を見る価値がある。
 しかし、他の部分は、あまりおもしろくない。
 「フォードvsフェラーリ」と言うが、ほとんどはフォード内部の「権力闘争」である。その欲望のつまらない闘いが、クリスチャン・ベールの快感を純粋に見せるという効果を上げているのかもしれないけれど、そういうものがない方がより純粋になったと思う。
 それはマット・デイモンのちらりと見せる「レース駆け引き」のうさんくさい部分についても言える。ライバルのストップウオッチを奪い隠したり、ナットを落としてみたりして、相手の動揺を誘う。実際にそういうことがあるのかもしれないが、クリスチャン・ベールの快感の、必然の美しさを傷つけてしまう。
 レーサーの純粋さを追求する映画ではない、といえばそれまでだが。

(2020年01月16日、t-joy 博多スクリーン3)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(74)

2020-01-18 08:53:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
メモラビリア

眼をひらいていると見えない白昼の星が
眼をつむると深紅のまぶたのうらに遠い砂漠のようにひろがる

 「眼をひらく」「眼をつむる」、「見えない」「ひろがる(のが見える)」。「見える」という動詞は書かれていないが、「意味」はそういう対句になっている。
 「対」は対になることで、単独のときは存在しないものを出現させる。

われわれになんの関わりもないその静かな世界を
あこがれの深いまなざしで仰いでいると
誰も触れたことのない大きな空間に触れる

 「大きな空間」よりも「誰も触れたことのない」の方が重要である。「触れる」と嵯峨は書くが、それは「生み出す」のである。嵯峨のことばが。
 詩はいつでも、「誰も触れたことのない」ものを出現させる。

(このシリーズは今回でおわりです。)









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編

2020-01-17 12:30:12 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編(「博物誌」44、2020年01月15日発行)

 最近、山本育夫の書いている詩について書き続けている。書き続けているけれど、この場合の「つづけている」はかなりあやしい。私は「つづけている」というよりも、そのつど「切断」している。あるいは、そのつど「別のこと」を書いている。「つづいている」ものなどなにもない、というのが私の「実感」だからである。
 もし、私が山本の詩に、なにか「つづいているもの」を見たとしたら、それは「幻」であり、「嘘」というものだろう。また、だれかが私が書いているもののなかに「つづいているもの」を感じるとしたら、それは私のことばが不徹底だからだろう。
 私は「ことば」というのもが「つづいている」とは思えないのである。そのつど「新しい」ものとして生まれてきていると感じる。そして、その「新しく生まれる」瞬間、その動きに、ぐいと引きつけられる。

 正月、私はいつも「古典」を読み直すことからはじめる。「古典」というよりも、すでに読んだ本と言い直した方が正確かもしれない。私自身の「無軌道」を少し修正したいからである。どんなことばも、そのつど「新しい」が、それを「新しい」と感じるためには「古い」ものが必要なのだ。
 今年は、和辻哲郎の『古寺巡礼』(ワイド版岩波文庫)を読んだ。法隆寺の五重の塔について書いた部分の、最後の数行。(丸数字は私がつけた。)

 ①ことにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒下を歩いた時であった。各層の速度が実に著しく違う。あたかも塔が舞踏しつつ回転するように見える。②その時にわたくしは思わずつぶやいた、このような動的な美しさは軒の出の少ない西洋建築にはみられないであろう。

 ①は和辻のいきいきとした感性をあらわしている。「塔が舞踏しつつ回転する」という文章には、ああ、かっこいい、ああ、すごい、と思う。私はこの文書を思い出しながら法隆寺の五重の塔をめぐってみたことが二度あるが、二度とも和辻の体験を味わうことができなかった。もっとゆっくりと和辻の足跡を探せばよかったのかもしれないが、他人の感性をそのままたどるのは難しい。
 そのときの悔しさや、何度読んでもかっこいいという気持ちとは別に、今年は②の部分に思わず傍線を引いた。
 とくにかっこいいことばが書かれているわけではない。まねして書いてみたいことば(剽窃したいことば)があるわけではない。しかし、①から②にかけて、不思議な飛躍がある。①では、和辻の「肉体」と「感性」が書かれている。②は、その感性(肉体)を振り切って、「理」(美の論理)が動き始めている。「理」がつかんだものが動いている。
 和辻の文章には、ときどき、こういうことが起きる。
 中将姫伝説について書いた次のような文章にも、それを感じる。

 ①蓮糸で織ったということは嘘なのである。しかし蓮糸で布が織れるものではないということは、昔のひとにも明らかなことであったろう。②蓮糸でなくてはならないのは幻想の要求である。③蓮糸で織ったことが嘘であってもこの幻想の力は失せない。

 ①で事実を書く。②は事実に対する批判である。しかし、③はその批判を批判して、①のなかに動いている「理」でしかつかみとることのできないものをつかみだしている。「幻想の力」を「理の力」と呼んでいるに等しい。
 この、切断力と飛躍力、新しいものを「生み出す」とことばの動きに私はひきつけられる。あらゆることは、ことばといっしょに生まれてくる。

 長い長い前置きになったが、今回の書下し詩集を読んで感じたのは、和辻の切断力、飛躍力に重なるものを感じたからである。
 でも、すぐにそう感じたわけではない。

01しはしは

しはしをあわせもって
しとしととふる

かろうじて
帰郷したしは
しのやまをこえ
しをこえ
したにしたに
ともぐりこんでいく
しになりたがっていることばは
清潔な朝食の
木のテーブルに
浮かび上がってくる
てぎわいい
中国人の手で
さばかれて

それをこつこつと
食べる

 「しはしは」は「詩は詩は」なのだろうが、「しばしば」かもしれない。奇妙な語呂合わせのようなものがあって、そのあと「中国人」が出てくる。なぜ? わからない。わからないけれど、この部分には、なにかを引きずるような「粘着力」を感じる。
 ところが三連目でトーンがかわる。「こつこつ」ということばには、それまでのことばの「つながり」を感じるが「食べる」には音のつながりはない。「朝食」「中国人の手で/さばかれて」には「意味」のつながりはあるが、それは同時に「詩」(ことば)とのつながりを切断している。
 変な飛躍が起きている。
 これはいったい、何?
 最初に読んだとき、そう思った。

05井戸

よじのぼっていくと
落ちる
爪を剥ぎながら落ちる
落ちる

ことばが
落ちて落ち着いて
たまる
たまっている
血の層になって
(少し怖いがさわってみる

見上げるとはるかかなたに
丸い空ということばが
浮かんでいる

 三連目は、完全に飛躍している。この飛躍をどう呼んでいいのかわからないが、丸い空は丸いだけではなく、なにか「完璧」という印象をもたらす。その「完璧」は、「理」なのだ。
 「理」が世界を支えている。貫いている。『古寺巡礼』に一回だけ出てくることばで言えば「道」になる。世界を新しく「生み出す」力がそこにある。丸い空という「ことば」が丸い空を生み出し、同時にそれは「ことば」であると宣言している。
 「浮かんでいる」は奇妙な言い方になるが、山本を超越して、そこにあるということ。山本のことばなのに、山本のことばではない。あえて言えば「理=真理」のことばになっている。

 で。
 読み進むと、だんだん「理」が強すぎていやだなあ、みんな「意味」になってしまいそうだなあという気がしてくるのだが。

11あげた

ペデストリアンデッキを歩いていると
向こうに見える藤村記念館の
欄干にだらりと
ことばがたれているのが見える
見上げると城址の上を
ひらひらと流れていることばも
見える見える見えることばが見える

ピックアップして
そのかたまりを
手提げの中に放り込む
のぞき込んだ女子高生が
(このことばをもらえる?
というから
いいよととりだしてあげた

 突然登場する「女子高生」には「理」というものは存在しないが、存在しないからこそ究極の「理」がある。言い直すと、「世界(現実)」というものは、そのつど生まれつづけている(新しくなりつづけている)のだから、何があらわれようと、それまでの世界とは矛盾していない。無意味であればあるほど(つまり「意味」を否定する力がそこにあればあるほど)、それは正しいと言える。
 和辻は、そういう「無意味」を書いていないが、それは和辻の世界が「倫理/哲学」だからである。
 詩人は「意味」を完全に否定する瞬間を提示できるから詩人なのである。
 「意味」は読んだひとがかってにつくりだせばいい。どうせ「意味」は個人を離れては存在しないものだ。
 そしてこの、突然の「理不尽」に向き合ったとき、「ことば」と山本の向き合い方が、また突然大転換する。それまでは「見る(見つめる)」「ピックアップする」「放り込む」という、いわば「収集」だったのが、「あげる」にかわる。「あげる」のまえに「とりだす」がある。さらに、それを「いいよ」と肯定する変化がある。

 強引に。

 ほんとうに強引に和辻の世界と山本の世界を結びつけることで、一種のビッグバンを描くならば。
 和辻は古寺をめぐり古仏をみながら天平時代の人の「構想力」というものと和辻を重ねることで、「構想力」という「道」そのもののなかへ突き進んだが、山本は女子高生の「構想力」に彼が集めたことばをまかせたということになる。
 「構想力」だけが世界に存在するのだ。

17欲を書く

いけそうなので
いけるところまでいってみますか
ことばのカミサマ
意味にまで届かないことばに伴走しながら
次々に意味に落ちることばを


ふり捨て
フリして
なんかその先に思いもがけない
新しい感性なんかが不意に
現れたりしないかと
欲を書く

 まあ、そうだね。世界は一瞬一瞬生まれ変わっている(生み出されつづけている)から、小さなことが突然大きなことになることもあるだろう。それは書いてみる(ことばを動かしてみる)以外に、どうなるか、わからない。

18締めは静かに

それでいいのだよ
山本くん
おしっこをはじいて
ズボンを濡らさないように
水道で手を洗いなさい

ことばの道は遠いので
あせることはない
口に含んで
ふっと吹き出すことばのタネの
その放物線のように
詩を書く

 あ、「道」が出てきた。
 見落としていたのか、無意識のうちにこの「道」に導かれて、私は和辻のことを書いたのか。わからない。けれど「道」はどこにでもある。そこからあらゆるものが生まれてくるということだけは、確信できた。「それでいいのだよ/山本くん」と私もいってみる。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(73)

2020-01-17 09:28:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (とどまりたい 心の上に)

 この詩も、ことばが次々にかわっていく。「とどまりたい」という思いを裏切るように動いていく。そして、その最後。

しかし雨のなかを長い橋を渡つていくとき
そのためにはわたしはすつかり別人にならねばならぬように思う

 「別人になる」とは「心」が「別の心になる」ことである。長い橋を「渡る」のは「別人」ではなく同じ「肉体」。「渡る」という動詞の前に、「心(感情、あるいは認識かもしれない)」は変わってしまっていなければならない。そう思っている。
 このとき「心」には「上」も「下」もない。 
 「心」のあり方そのものが、一行目とは「別」のものになってしまっている。
 ことばを動かし、書くということは、こころを変えてしまうものなのだ。







*

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青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」

2020-01-16 10:26:50 | 現代詩講座
青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」(朝日カルチャー講座、2020年01月06日)

 朝日カルチャー講座の作品。

未来の朝             青柳俊哉

雨まじり 雹(ひょう)ふる朝の 雹まじり 
雪ふる朝の 人かげのすくない 未来の街に 
路面も 建物も 樹々も すけるように凍りつき
神聖なしずけさにつつまれている
そのうすあかりの空から 
金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが 
たくさんとびだしてきて 
舟の形をしたちいさな氷の靴をはいて
路面や 建物や 樹々のうえを
すべったり ころんだり 空中をとびまわって
あそんでいる 
雨や 雹や 雪つぶの中からとびだしてきて
ひかりながらかすかな音をたてて
あそんでいる

 冬の朝の描写。「雹ふる朝の」「雪ふる朝の」という「……朝の」というリズムをひきついで、「すけるよう」「しずけさ」「うすあかり」ということばが透明感を強調している。
 そのあとで、

金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが 

 と転調する。「未生の子」「死んだ子」ということばにどきりとする。そして、この衝撃的なことばが、詩の読み直しを求めてくる。
 冬の朝の描写と簡単に書いてしまったが、ほんとうにそうなのか。
 タイトルに「未来の朝」とある。二行目にも「未来の街」ということばがある。「いま(現実)」ではなく「未来(まだ存在しない)」朝のことなのだ。
 「未来」なので、そこにいる子どもは「まだ生まれていない=未生」であり、またすでに年をとって死んでしまっているかもしれない。死んでしまったけれど、記憶(意識)が残っている。子ども自身の意識か、子どもに対する親の意識かは判断が難しい。どちらも可能だろう。もちろん子どもが幼いときに死んだのではなくて年をとって死んでしまったのなら、その親も死んでいるだろうけれど、どんなときでも子どもを思う親の気持ちというのは変わらないので、こういうことは「時間」を無視していい感覚である。「時間」を無視することで「永遠」になると言い換えてもいい。
 「未生の子」「死んだ子」が飛び出してくるというのは現実にはあり得ない。存在しないもの(不在のもの)が動くというのはあり得ないのだけれど、このあり得ないという感覚が逆に「リアル」になる。
 現実の冬の朝の街に、現実の、いま生きている子どもたちが飛び出してきたら、「静かな透明感」とは違ったものになってしまうだろう。
 「未来の朝(街)」という不在をリアルに変えるためには、不在の存在(想像力がつかみ取った存在)が必要なのだ。不在と不在とがぶつかると、数学の世界でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、世界が逆転して、リアルを生み出すのだ。
 この二行を境にして、世界はにぎやかになる。「しずけさ」が消え、ざわめきが広がる。しかし、書き出しの透明感は維持される。持続する。いや、透明感を通り越して、「光」そのものになる、という感じか。「金色」「銀色」「氷の靴」ということばが、「反射」を感じさせる。
 最後の部分に、それらは「ひかりながら」ということばになって動く。名詞ではなく、動詞として動く。その動きが「音」、「音楽」を呼び出す。音楽に合わせて動くとき「あそんでいる」は「踊っている」に自然にかわっていく。青柳は「踊る」ということばを避けて「遊ぶ」を繰りかえしているが、その反復が自然で、楽しい。



何罪         池田清子

テレビの中にいる人に
好意をもっただけで
それは姦淫だと
父が言った
姦通罪?
何度牢に入ったろう

テレビの中でない人に
秘めて、告げず、ひそやかに
だったら
これは秘匿罪?

 「テレビの中にいる人」「テレビの中でない人」が「対」になっている。「対」は同一ではないことによって「対」になる。この詩の場合は、同一ではないは「反対」である。テレビの中(虚構)、テレビの外(現実)という矛盾するものが「対」になっている。
 しかし、「対」は対立を明確にするだけではない。ほんとうは、違った存在なのに共通のものを持っている、その共通をあかるみにだすためにこそ存在する。
 好意、ひとに思いを寄せることが「共有」されている。
 その「共有」は「理」によって浮かび上がらせられるものである。「理」は「論理」の「理」である。この詩は「論理的」である。
 二連目に「だったら」ということばがあるが、これは論理のことばである。一連目に「だったら」を補うと、「対構造」がもっと明確になる。

それは姦淫だと
父が言った
だったら(それは)
姦通罪?

 二連目の最後に一連目の最後の行をつけくわえと、「対」はさらにわかりやすくなる。

だったら
これは秘匿罪?
何度牢に入ったろう

 「それ(テレビの中)」と「これ(テレビの外)」。そのどちらにも動いているひとを好きになる瞬間。「何罪」と問うことで、池田は、それは罪ではないと言う。



 詩の対構造をもう少し考えるために、谷川俊太郎の「あなたの私」(『私の胸はちいさすぎる』集英社文庫、2019年06月30日発行)を読んだ。

あなたが傍にいるとき
暖かい指に目隠しされて
私にはあなたが見えなかった
あなたの息を耳たぶに感じるだけで

あなたが体を離したとき
かすかな風がふたりを隔てて
私からコトバが生まれた
生まれたての生きもののような

あなたが出て行ったあと
どこにいるの何しているの
私はもう問いかけずにいられない
あなたの幻に向かって

あなたの裸を想うとき
歓びに飢え 幸せに渇き
恋にひそむ愛に怯えて
あなたの私を私は抱きしめる

 「あなたが傍にいるとき」と「あなたが体を離したとき」が対である。傍にいる(密着している)、傍にいない(密着していない)という反対のものが向き合っている。そして、反対のものが向き合うことで、その「間」に共有されるものを明確にする。
 あなたを思う気持ちだ。
 あなたが傍にいるときは、それを感じる必要はなかった。自分の気持ちを感じるのではなく、あなたそのものを(暖かい指、息)を肉体で感じていた。あなたが傍にいなくなって、あなたの肉体を感じられなくなったときに、「コトバ」が生まれた。ことばとは気持ちである。
 二連目の四行のなかにも対があるといえる。あなたが消えた、そのかわりにコトバが生まれた。消えたものと生まれたもの。ことばは私からあふれてくるが、私から離れては行かない。
 三連目は、起承転結でいえば「転」である。同時にそれは二連目の言い直しである。「コトバ」と抽象的にしか表現されていなかったものが、具体的に語られる。「どこにいるの何してるの」。一連目と二連目の対構造で明確になった「あなたを思う気持ち」が具体的に言い直されていることになる。ひとを愛するとは「どこにいるの何しているの」と問うことであり、愛されるということは、その答えが返ってくることだ。
 「結」の四連目は、かなり難しい。抽象的だ。
 「あなたの私を私は抱きしめる」という「私」の二重構造も詩を難しくさせているが、「恋にひそむ愛に怯えて」の「恋」と「愛」の対比(あるいは、ここでも「対」と呼ぶべきか)をどうとらえるかが難しい。
 なぜ「恋」と「愛」という別のことばがあるのか。「恋」と「愛」はどう違うのか。漠然とした感じだが、愛の中に恋が含まれる、愛の方が恋より大きい(広い)という印象がある。
 で、こんなことが言えるかもしれない。
 あなたを愛しているのなら、あなたのために私は私の恋をあきらめないといけないのかもしれない。でも、あなたに愛された私(恋された私?)を私は忘れることができない。あなたが愛してくれた私を、私は私の愛で抱きしめる。なぐさめる。
 どこかで聞いたような「歌謡曲」になってしまうかもしれないなあ。







*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(72)

2020-01-16 08:37:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (小さな時を)

むかいあつて持ち合う

 と静かに「意味」をつないで動くことばは、転調し、思いがけないことばを呼び寄せる。

皿の上に匂う林檎は
そのときの水の中の遠い酔いを感じさせる

 「遠い」ということばが象徴的だが、このことばにたどりつくまでは「遠い」もの(そのとき=過去)が書かれている。しかし、皿の上の林檎は現実だ。事実だ。そして、それを強烈に印象づけるのが「匂う」という動詞だ。
 「匂い」が動いている。「匂い」が嵯峨の体のなかに入ってくる。「匂い」と嵯峨が一体になっている。
 「事実」とは対象と自己が一体化して生まれる。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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アルメ時代26 海の光

2020-01-15 22:44:48 | アルメ時代
26 海の光



遠い海の光
岸を打つこともなく
ぐるぐる回りつづける潮のかなしみ
それに似たものがある

わたしたちはことばを知っているが
動かすほんとうの方法は知らない
何か言おうとすれば
どうしてもそれてしまう

遠い海を迷いつづける青い色
「強い情熱をあらわす
動詞が思いつかない」
垂直に打ち寄せる波に

こころを託している女
風は沖から吹いてくる
音い光はわずかにふくらみ
水平に去ってゆく




(アルメ247 、1987年02月10日)
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エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

2020-01-15 20:21:19 | 映画
エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

監督 エドワード・ノートン 出演 エドワード・ノートン、ブルース・ウィリス、ググ・バサ=ロー、アレック・ボールドウィン、ウィレム・デフォー

 エドワード・ノートンを初めて見たのは「真実の行方」。吃音の二重人格(殺人者)を演じているのだが、最後の最後の一瞬、どもらない。つまり、全部芝居だった、とわかる。この吃音から、普通のしゃべり方に変わる瞬間が、実にうまい。「はっ」とさせる。しかし、「はっ」としながらも、「あれっ、せりふのしゃべり方を間違えたのかな?(演技ミスかな?)」と思った次の瞬間にどんでん返しが始まる。
 よく似たどんでん返しでは「ユージュアル・サスペクツ」がある。ケヴィン・スペイシーが、「犯人」なのに、おしゃべり障害者の演技で刑事の追及をかわしていく。最後に足を引きずっていたのに普通の歩き方に変わるのだが、それは「おまけ」で、「おしゃべり」(嘘)の自然な感じが、とてもいい。
 私は英語は「字幕」が頼りだが、字幕を頼りにしながらも「声の調子」で引っ張られる役者がいる。エドワード・ノートンもケヴィン・スペイシーも、演技のなかで、もう一度演技するという二重構造のときに、とても生き生きとした味が出る。
 で、今度の映画だが……。
 そこには二重構造どころか、何重にも二重構造が入り子細工のようになっている。それが複雑すぎて、エドワード・ノートン自身の強靱な記憶力と、頭に浮かんだことばをおさえきれないという「言語」に関する二重構造が邪魔になっている。エドワード・ノートンの奇妙な病気が他人を警戒させるわけでも、また他人を同情させるわけでもない。つまり飾りになっている。こんな演技ができます、という「宣伝」になっている。
 これは監督もできます、脚本も書けます、という「宣伝」にまで拡大し、ちょっと「味」が雑になっている。これは、演技に遊び(裏切り)がなくなっているという感じで、「人間」そのものの魅力が感じられない。
 映画を見るのは(あるいは芝居を見るのは)、演技を見るだけじゃなくて、「地」も見たいからだね。どの役者もそうだが、「地」の出し方が乏しい。その分、映画としてはすっきりしているというか、簡潔な感じになっているが、つまらなくもある。
 エドワード・ノートンもアレック・ボールドウィンも、妙に「甘い」ところがあり、それが「悪」をつつむところに「許せる」感じがあっておもしろいのに、「甘さ」を殺してしまうと「凡人」になってしまう。
 ウィレム・デフォーは逆に「醜さ」のなかに純粋さを感じさせるところが魅力なのに、なんといえばいいのか、最初から純粋なんだというような主張をしてしまうので、これも「凡人」になってしまう。
 難しいものだなあ、と思う。
 この映画を支えているのは、1950年代という「風景」だろうなあ。私は1950年代のブルックリン(ニューヨーク)を知っているわけではないが、いまとは違う人間臭さがいいなあ、と思う。車が走っても、いまの映画のようにカーチェイスにならないし、地下鉄もなんとなくのんびりしている。これにジャズがマッチしている。大都会だけれど、つめたくない。人間臭い。これが、ストーリーにぴったりあっている。
 エドワード・ノートンが「多芸」であることは、今回の映画でよくわかった。でも、次は役者に専念してほしい。

(2020年01月15日、t-joy 博多スクリーン10)   
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朽木祐『鴉と戦争』

2020-01-15 12:37:03 | 詩集


朽木祐『鴉と戦争』(ユニヴール12)(書肆侃侃房、2019年12月26日発行)

 朽木祐『鴉と戦争』は歌集。

いつまでも兄がスマホを弄るのがひかりでわかる わかる寂しい

 「わかる」が二度繰り返されている。なぜ「わかる」のだろうか。なぜわかってしまうのだろうか。
 「寂しい」が朽木の答えである。そのとき「寂しい」はだれの寂しさか。兄のものか、私のものか。それは区別ができない。兄と私が「寂しい」ということばのなかで区別をなくしていく。つまり「わからなくなる」、それが「わかる」ということ。
 ここにはあることがらへの向き方(思想)がある。
 私たちの世界は、それぞれ「区別(孤立性)」を持っている。それが「個別性」をなくす瞬間がある。区別がなくなって、溶け合ってしまう。それをことばでもう一度「個別性」へと生みなおしていく。
 しかし、ふつうは「わかる」とは言わないし、「わかる」を繰り返すこともない。たとえば、

手のひらに自ら傷を彫るひとの沈黙のその淵は深くて

 という具合に「わかる」を隠す。
 「沈黙」が「わかる」。そして「沈黙の淵の深さ」が「わかる」。もっと厳密に言えば「淵」があることが「わかる」がその間にある。
 「わかる」はいつでも、どこでも補うことができる。
 いわば、「わかる」は朽木のキーワードなのである。
 あるいは、

ゆう闇のチャイコフスキーのボリュウムを下げた手を取る 温かい

 「温かい」が「わかる」。その「わかる」をとおって、感情を共有する。人間と人間が結ばれる。
 これは、ふつうの「短歌」、伝統的な「短歌技法」かもしれないし、テーマかもしれない。
 一方、こんな一首がある。

ああ鴉、いつまでそこに)流血がその沈黙に値を付ける

 これは、朽木にだけ「わかる」ことである。つまり発見だ。それをことばにすることで、「わかる」を共有してほしいと読者に呼びかける。もちろんそれは孤独な叫びである。だれかを対象に声を発しているが、そのだれかがそばにいるわけではない。いってみれば、抽象的な人間に語りかける抽象のことばであとも言える。
 朽木は、この二種類の歌を交錯させている。まだ、どちらを選んでいいのか考え中なのかもしれない。
 たぶん、後者の方が朽木の目指しているものだと思う。
 そして、もしそうなら。

はなびらはあとからあとへとみづに来て沈む力を蓄へて死ぬ

 こういう「伝統的」なリズムをどう処理するべきか、そこに問題が出てくると思う。感覚の定型をどこまで利用するか。感覚の定型の継承と拒絶。両方を融合させ、それが新しい音楽として自在に動きには、もう少し時間がかかるかもしれない。
 帯に掲げられた、

戦争がけふの未明に始まつた。ふはと鴉の羽にふりかかる

 ここにはそうした融合の試みがあるが、私はこの「ふはと」を何か「汚い」と感じてしまう人間である。つまり、私の「語感」にあわない。美しさの偽装(嘘)を感じる。「虚構」ではなく、嘘と感じてしまう。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(71)

2020-01-15 08:47:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
ソネット三篇

* (女を愛するとは)

ひとりの女の姿を描きかえることだ
また葡萄のひと房のなかに閉じこめることだ

 「描きかえる」「閉じこめる」。二つの動詞がある。「描きかえる」は「かえる」に重心がある。「閉じこめる」も、閉ざされていない状態から、閉ざされた状態に「かえる」と言うことだろう。言い直すと、女を愛するとは、女を「かえる」こと。
 その「動き」(動詞)よりも「ひとり」「ひと房」に含まれる「ひとつ」が、この詩の重要なことばではないかと思う。
 「一(ひとつ)」の対極にあるのは「多(複数)」。多くのなかから「一」を選ぶ。そこに隠された動詞がある。「一」に「かえる」は「一」にすることである。
 何のためか。
 嵯峨自身が「一」になるためである。
 詩の三連目は、こう書き出される。

こよいその庭でぼくは緑をささげる一本の樹だ

 「一本」のなかに「一」がある。嵯峨は、自分自身を「一」にして、女の「一」と向き合う。それを「愛する」と言う。
 そして、この「一」は、最終連で「ほんとう」ということばに言い直されている。
 「ほんとう」に「する」、「ほんとう」に「なる」。そのとき「二(女と男)」は「一」になる。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(70)

2020-01-14 10:47:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夜はつづき)

花は散つて
夕べの川はながれていたと

 夜、その日見たことを思い出す。あるいは、その日ではなく、かつて見た日の情景かもしれない。特定はできない。
 時間の飛躍。あるいは時間が時間という「名詞」を離れて、動いていく。
 そこに詩がある。
 花は「散る」、川は「ながれる」。そこにある時間は止まっていない。散るという動詞、流れるという動詞、その動詞そのものがつくりだす時間を、夜、思い出している。「夕べ」と書かれているが、これも「日が暮れる」の「暮れる」という動詞を隠していることばだ。夜は「つづく」。その「つづく」という時間のなかにも動きがある。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

2020-01-14 09:14:03 | 映画
ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

監督 ポン・ジュノ 出演 ソン・ガンホ、チェ・ウシク、パク・ソダム、チャン・ヘジン

 この映画は非常に分かりやすく、同時にわかりにくい。そして、その「わかりにくさ」を最大限に生かしてクライマックスが「リアリティー」に満ちたものになる。これが傑作のゆえん。
 映画は映像と音楽で成り立っている。ところが、この映画の基本は映像と「匂い」である。これが、この映画をわかりにくくさせている。映画館では、特別な劇場でないかぎり匂いはつたわらない。このつたえることのできない匂いをどう表現するか。どう観客にわからせるか。
 金持ち一家の子供が、貧乏一家がいるとき、貧乏父親の匂いをくんくんと嗅ぐ。それから母親の匂いもくんくん。「同じ匂いがする」。そう指摘されて、貧乏一家は少しうろたえる。石鹸やシャンプーをそれぞれべつのものにするか、という相談をする。でも、そんな匂いではなく、貧乏一家が住んでいる「半地下」の部屋の匂いがしみついているのではないか、と気づく。でも、それって、どんなにおい? まあ、半分湿ったような、生乾きの洗濯物のような、少し黴臭いにおいだろうなあ。でも、そういう匂いは、実際に嗅いだ瞬間には気がつくが、「嗅覚」がそれを思い出せるわけではない。私は、思い出せない。ただ、頭の中で「あ、きっと生乾きの匂いだ」と思うだけである。そして匂いというのは、父親が何度かやってみせるが、自分の衣類をくんくん嗅いでみたって、はっきりとはわからない。すでに自分の「肉体」の匂いが混じっているし、「半地下」で暮らし続けているうちに、その匂いに慣れっこになっているから「匂い」として存在しないのである。
 この存在しているのに、存在しない、というのはこの映画の重要なテーマであり、「匂い」を主役にしたというのは、この映画の画期的な手柄である。
 で、その存在しないはずの匂いが、クライマックスで大活躍する。
 子供の誕生日。金持ちの知り合いがお祝いにかけつける。金持ち一家の地下に隠れ住んでいた男(元の家政婦の夫)が地下室から抜け出して、貧乏人一家と金持ちに復讐する。殺人鬼となって暴れ回る。いちばん下の男の子(最初に匂いを指摘した男の子)が気絶する。父親が病院へ連れて行こうとする。運転手(貧乏人の父親)に車を出せと言うが、父親は襲われた娘、妻が心配なので車の運転はしたくない。迷う父親に、金持ちの父親が「車のキーをよこせ」とわめく。キーをほうりなげる。そのキーの上に殺人鬼が倒れ込む。父親はキーを拾い上げるとき、強烈な匂い(地下室の匂い)に気づき、思わず顔を背ける。それに半地下の父親が気づく。「あ、俺たちはこんなふうに金持ちから顔をそむけられていたのだ。いつもは使用人としてちゃんと向き合ってくれているように見えるが、彼らの本質はこれなんだ。貧乏人には顔を背け、そのあとで顔を背けたことがなかったかのようにふるまう。それが金持ちの生き方なんだ」。実際、男の子の父親は顔を背けながらも殺人鬼の体を汚れたものをのかすようにして動かし、キーを拾い上げ、男の子を病院へ運ぼうとする。この瞬間、貧乏人の父親は瞬間的に殺意に目覚め、復讐する。このキーを放り投げてから、キーを拾うまでの、二人の父親の一瞬の映像のなかに「匂い」がなまなましく映像化される。
 昔、「パフューム」という香水と官能をテーマにした映画があったが、あのばかばかしい「説明」映画に比べると、この映画の「映像力(匂いをつたえる力)」は圧倒的だ。トイレの汚い匂いなら何度も映画化されている。この映画でも、大雨の日に下水が逆流してくるシーンがある。でも、それは「想像力」の範囲内。想像していなかった匂いと、その瞬間の反応、その反応への本能的な怒り。これを映像化できたのが、この映画の、ほんとうにほんとうにすばらしいところ。
 この瞬間、「匂い」ではないけれど、私は私が体験してきたさまざまな「差別」を思い出す。「差別」は、男の子の父親が見せた反応のように「一瞬」である。そして、「差別」したひとは瞬間的にそれを修正するので、彼には差別したという意識はない。さらに、そういう瞬間は第三者にはつたわりにくい。だから、それに気づくひとは少ない。でも、当事者なら気づく。あ、いまの反応は、何か違う、と。「差別」には、そういうわかりにくい「におい」がある。
 (「匂い」ではなく「におい」と書くべきだったのだと、いま気づいたが、書いたものは書き直さない。)
 この「におい」を映像とストーリーにしたこと。これがこの映画のいちばんの魅力だ。

 この映画は、そういう映画の「魅力」のほかにも刺戟的なテーマを投げかけてくる。貧乏人の一家が金持ち一家に復讐する(怒りをぶちまける)というのなら、いままでも描かれてきたと思う。黒沢明の「天国と地獄」もそのひとつだろう。
 この映画は、金持ち-貧乏と簡単に社会を分類しない。金持ちと貧乏の間には、半金持ち(半貧乏)がいる。「半地下」に住む家族が、いわば「半貧乏(半金持ち)」である。半貧乏は、自分を貧乏だと思う。金持ちと比較するから、どうしてもそうなる。このとき、もっと貧乏がいるということに気がつかない。気がついたとき、たぶん彼らは「半地下」ではなく「半地上」の部屋に住んでいると自覚し、ほんとうの地下室ではなくてよかったと思う。でも、これはなかなか自覚されない。無意識のうちに「地下」を差別して(言い換えると、放置して)生きている。
 だから。
 「地下室」の存在が明らかになり、地下室の住民から反撃されると、今度は自分たちが「地下室」に蹴落とされ、せっかく「半地下」から「半地上」、そして手に入れた束の間の「地上」のたのしみも奪われてしまうとうろたえる。映画の後半に展開される「地下住民」と「半地下住民」の壮絶な闘いは、それを明確に描いている。しかも、その闘いが、なんというか、「他人を蹴落とす」ことが「生存」につながるという、生々しいものなのだ。彼らが頼りにし、また恐れるのが、金持ちなのである。金持ちに「半地下」のひとの不正を訴え、「地下」から助けてもらう、というのが金持ち一家から追い出された家政婦の方法であり、それを阻止しようとするのが「半地下」の一家の方法である。互いに助け合うということは考えたりしない。
 これは現代社会(特にアベノミクス以後の日本の社会)で起きていることをそのまま象徴している。いや、雄弁に告発している。貧乏人に、貧乏人を蹴落とせば、半貧乏(半金持ち)を維持できるぞ、と誘い水を向ける。「言うことをきかないなら、子会社に出向させるぞ」「言うことをきかないなら、非正規社員にしてしまうぞ」「言うことをきかないなら、パートにしてしまうぞ」と言うかわりに、たぶん経営者なら「言うことをきいたら契約社員にしてやる」「言うことをきいたら正社員にしてやる」と言う。そうやって「差別構造」を固定化する。
 大声を出して笑いながら見て、見終わったら、ぞっとする。映画のストーリーではなく、いま、現実に起きていることに気がついて。この社会に充満している「におい」に気がついて。



 この映画は、福岡では大人気で、私はKBCシネマで見るつもりで出掛けたのだが、映画館に上演の20分以上前についたのに、劇場の外にまで列がつづいている。「あれ、きょうは受け付けが遅かった?」と思ったら大間違い。私が見ようとした初回はすでに売り切れ。映画館のなかにはすでに入場を待つ人が列を作っていて、劇場の外の人の列は次の回のチケット購入者だった。しかも、もうすでにだいぶ売れているらしい。そういうことが、開いたドアの向こうのやりとりから聞こえてくる。その間にも、列はどんどん長くなる。私は急いで中洲大洋でもやっていたことを思い出し、ネットで予約しようとするが、なかなかつながらない。やっとつながったと思ったら、そこもすでに半分以上埋まっている。いつもの席が埋まっている。でも、そこにいちばん近い席を、なんとか確保した。中洲大洋も満員だった。
 KBCシネマも中洲大洋(スクリーン2 )も客席数が 100席程度だが、こういう経験ははじめて。だれが宣伝しているのだろう。びっくりした。

(2020年01月13日、中洲大洋、スクリーン2)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(69)

2020-01-13 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくの唇はそれつきり閉じられた)

 その結果、「やさしい言葉は出てこない」。そのあと詩は転調する。

微風に
小枝のさきに残つている円い実が動く

 「微風」と「小枝」は響きあう。さらに「小枝のさき」と「残る」も響きあう。そういう「響き(音楽)」を経由したあと、「円い実が動く」とことばが結ばれる。
 「微風に」「動く」。ここにも響きあいがある。その動きは、当然「小さい」。(小枝が、そういう方向へことばを動かしていく。)
 こういう運動をさらにスムーズにしているのが「円い」である。
 これは「現実」の風景というよりも、こころがつくりだした情景というものだろう。
 他者に向けてではなく、自分自身の風景のためにことばが動いている。こういうことを「閉ざす」というのかもしれない。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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新井高子「デクルボー」

2020-01-12 11:07:50 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「デクルボー」(「ミて」149、2019年12月31日発行)

 新井高子「デクルボー」には、東北弁(たぶん)のルビが振ってある。ほんとうはひらがなに漢字のルビを振った方が「声」に近くなるかもしれない。でも、それままた別の問題で、きょうは、「意味」に限定したことを書く。

ギリッ、ギリッと、その皮(かわ)剥(む)ぎゃァ、見(め)ぇてくる、もうひとづのからだァ。狸(たぬぎ)の皮(かわ)っこ、剥(は)ィだれば、見紛(みまご)うようだっきゃァ、人(ひと)の赤子(あかんぼ)と。
始(はず)まりの衣(ころも)だァもの、生(ンま)まれるとぎ、着(き)んだァもの、闇(やみ)ンながで。仕留(しと)めたからにァ、ギリッ、ギリッと丹精(たんぜい)込(こ)めで、脱(ぬ)がしゃんせぇ。そうして、アッチさ還(かえ)しゃんせぇ。

 狸の皮を剥ぐ。そこから「人の赤子」が出てくる。あらわれる。このあらわれ方に、私はうなる。生まれてきたときは、人間は丸裸である。狸の皮を剥ぐと、その「丸裸」のありようが「人の赤子」にそっくりである。
 「見紛う」。
 見紛うと書いているかぎりは、皮を剥がれた狸を赤ん坊と思ってはいけないという自覚があるのだが、これは逆のことを言っているかもしれない。赤ん坊を皮を剥がれた狸のようだと思ってはいけないと。
 いや、そうではなく「見紛った」瞬間、新井は、「真実」を見たのだ。皮を剥いだ狸の姿と人間の赤ん坊が生まれてきたときの姿は「同じ」だと。
 しかし、これは、すべて「真実」であってはいけないことなのだ。
 人間の赤ん坊と狸は明確に区別しなければいけない。
 だが、それが「崩れる」ときがある。
 私は、これを「渾沌」と呼びたい。
 東洋の哲学では「渾沌(ものの区別がない世界)」から区別が生まれてくる。名前と共に固有のものが分節されてくる。人間の赤ん坊が、狸が。「渾沌」のなかで二つの存在をごちゃまぜにしているのは「いのち」というものか。
 この詩では、しかし、そういう「渾沌」からの誕生を描いているわけではない。
 逆に、「いのちの弱さ/いのちの強さ」というものが、死んだ狸の、皮を剥がれた肉体と、赤ん坊の生まれたての肉体との間で、一瞬区別をなくす(見紛う)ということをとらえて、分別されていたものを「渾沌」へもどっていく。
 「渾沌」は「アッチ」と呼ばれ、逆戻りを「還す」という動詞であらわしていることになる。

 私たちの現実世界は、比喩的な意味では「渾沌」としているかもしれないが、実際はそれぞれの「名前(ことば)」で分節されていて「明瞭」である。狸は狸。人間は人間。それを「見紛う」(区別できない)ということはないし、区別できないとしたらそれはたいへんなことである。
 しかし、そういう明瞭に見える世界が「正しい」ものかどうかは、判断が分かれるはずである。
 この詩は、そういうことへの疑問を突きつけてくる。
 いま向き合っている世界(分節され、整えられて見える世界)が、いったいだれによって分節され、整理された世界なのか、と。それは別な言い方で言えば「ことばの意味」の解体を迫るということである。既存の「ことばの意味」から人間を解放するということでもある。
 「いのち(生きている)」と簡単につかっていることばを、もう一度自分で「分節」しなおせ、というのである。

 詩の感想を書くかぎりは、ほんとうは、その先(つまり、私のことばがどう破壊されたか、解放されたか)を書かないといけないのだが、きょうは、おとつい、きのうのつづきのようなことなので、ことばがどうやって生まれるか、どこへ帰っていくか、ということについて私が考えていることを、メモにすることだけで終わりにする。
 意味の解体、言語哲学について語るとき、西洋の思想経由で語る人が多いのだが、新井がやっているような、実際に話されていることばそのものと自分を向き合わせるという方法の方が、私には「力強い」方法に思える。日本語で考えているのだから、日本語と取り組まないと、思想(肉体)にはたどりつけないと思う。






*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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