詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美『やがて魔女の森になる』

2022-01-22 12:17:07 | 詩集

 

川口晴美『やがて魔女の森になる』(思潮社、2021年10月20日発行)

 川口晴美『やがて魔女の森になる』について、私は何を書けるか。直感として、テキトウなことを書くのだが、私の知っている人間で言うなら、石毛拓郎ならきちんと川口の文体の魅力を書くことができるだろう。私には、荷が重い。
 たとえば、詩集のタイトルと関係している「世界が魔女の森になるまで」。

ひとりになったら森へ行く
毎日そればかり考えながら目が覚める
アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て
のろのろパジャマを脱ぐわたしの身体をこっそりチェックしていること
気づいているけど黙ってる
わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい
こっちを見ないお父さんにおはようって声をかけるのは
殴ったりお風呂をのぞいたりしないならいいお父さんだよって
クラスメートが言ったのを忘れないため
森は遠い

 私は、ここまでで、すでに一篇の詩だと思う。つまり、もうこの段階で、私は「手いっぱい」になってしまう。そして、その「手いっぱい」の印象を引き起こすのが一行がだんだん長くなってゆくのに、それが突然、ふたたび、ぱっと短くなるということなのだ。持ちこたえて、持ちこたえて、ぱっと放り出す。その持ちこたえ方が、私にはつらい。
 何か重いものを持たされる。どこまで重いものが持てる、徐々に重さを追加される。この「追加」の感じが、とっても、いや。一つずつ、別の重さを持ち上げるというのなら、何と言うか「リセット」のリズムがあるからいいんだけれど、リセットではなく「追加」というのが、「拷問」を感じさせる。精神が、どんどん歪んでいく。そういうことに、私は耐えられない。それが私の体験ではなく、他人の体験でも、いやだなあ、という気持ちが先に立ってしまう。
 なにが、この「持続」(もちこたえる)感じを引き起こしているのか。もちろんことばそのものが(一行そのものが)だんだん長くなることもあるのだけれど。
 きっと。
 二行目の「ながら」だな。

毎日そればかり考えながら目が覚める

 「ながら」というのは二つのことを同時にすることだね。でも、そのとき、どっちの「動詞」の方に重心があるのかなあ。「考える」に重心があるのか、「目覚める」に重心があるのか。区別できないから、「ながら」といえば、まあ、それはそうだね。
 そして、この「ながら」は、奇妙な形でことばの奥に隠れ「ながら」あらわれている。それがまた、なんとも、いやあな感じ。どんな感じかというと、こういう感じ。

アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て
↓↓↓
アラームはちゃんと鳴ったの「を知っていながら」(そして、わたしがぐずぐずしているのを知っていて」お母さんが起こしに来て

 「ながら」は単に動詞の「並行」を意味しているのではない。なんというか、そこには幸福な「共存」があるのではなく、むしろねちねちとした「批判」がある。それは二行目の場合は「自己批判」だが、三行目になると「自己批判」を逸脱する。お母さんを批判するのに、奇妙な形で「ながら」が動いている。そして、「ながら」によって、わたしとお母さんが接続してしまう。
 こうなると、もうなにがなんだか、わからない。

気づいているけど黙ってる
↓↓↓
気づいてい「ながら」黙ってる

 いや、「ながら」とは書いてないんだけれど、読む方としては「ながら」と読んでしまうなあ。これは、もう「批判」ではなく「容認」。むしろ、それを利用する。母親にわかるように「わたしは妊娠なんかしないよ」は、ほら、こそっそりみるだけじゃなくて、しっかり見て、と体を見せつけている。
 で、その一行。

わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい

 突然あらわれる「それより」はなんだろうか、というと。
 これも私の「誤読」では「ながら」なのである。

わたしは妊娠なんかしないよ「と、こころのなかで言いながら」それより森に行きたい「と、こころで思っている」

 前の行の「気づいている」は「こころで気づいている(こころが気づいている)/こころのなかで思っている」。
 そのあとの行には、どんなふうに「ながら」を補えるか。どんなふうに「ながら」が隠れているか。

こっちを見ない「ようにしながら、こころでわたしを見ている」お父さんにおはようって声をかけるのは
殴ったりお風呂をのぞいたりしないならいいお父さんだよって「知っていながら」

のことなのだ。つまり、そういうことを知っているというのは、まあ、いろいろなニュースなどがあるからかもしれないが、川口は、こうつづけている。

クラスメートが言ったのを忘れないため

 クラスメートは、そういうことを経験している。それを「知っていながら」、わたしはクラスメートにわざわざそれを言わせているのである。同情をするふりをして、クラスメートのこころの傷を見つめている。
 同じ視線で、母親も父親も見ている。
 川口は、そんなことは書いていないというだろう。私の「誤読」だと。わたしは、そういう批判があることを「知りながら」、二行目の「ながら」から妄想を暴走させるのである。
 川口の詩は、何かしら「妄想」を暴走させる「装置」を隠している。石毛なら、そこのところを、もっと配慮のあることばで書くことができるだろう。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)

2022-01-21 12:08:21 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』のキーワードは「dos veces 」と「lucidez 」だと書いた。「dos veces 」は正確に言えば「Era como estar despiertos dos veces.」であり、「despiertar」と結びついている。きのう書いた「Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」にも同じことばが出てくる。
 この「despertar /dos veces 」は、この作品のなかで、どんなふうに展開するか。私が一番好きな部分、アンヘリカ・ビカリオを「私」が訪問し、「証言」を聞き出す部分に何度も出てくる。(新潮社版では、106ページ以降)

por primera vez desde su nacimineto (ペンギンブック、p107)

これは、こう言い換えされてもいる。

Nació de nuevo(p107)

 「生まれて初めて」と「生まれ変わった」。これは「二度生まれる」(nacer dos veces )と言いなおすことができる。生まれていままで生きてきた。しかし、新しい人生に目覚めて(despertarse )し、生き直す。こういう表現は日本語にもあるし、世界のどの国の言語にもあるだろう。人間はある日、ある日生まれ変わる。新しい人生を生き始める。二度目の人生。
 そして、そのとき「美しい」のは「二度目の人生」である。
 アンヘリカ・ビカリオは初夜に処女でないことが発覚し、捨てられる。初体験の相手に「指名」された男は、彼女の弟(双子)に殺されてしまう。みんなが知っているのに、だれもそれを止めることができずに殺されてしまう。彼女は、厳格な母親によって遠くの村に監禁されている。その彼女が、突然、彼女を捨てた男を思い出し、彼に恋をする。
 これが彼女の「二度目の人生」であり、その描写が美しいのだ。「Nacio de nuevo」のあとに、こうつづく。

 《Me volvi loco por el--me dijo--, loco de remate.》 Le bastaba cerrar los ojos para verlo, lo oia respirar en el mar, la despertaba a media noche el fogaje de su cuerpo en la cama. 

 好きでもなんでもなかった男が、突然、恋人になってしまう。気が狂ったように、思い出してしまう。彼を見るには「目を閉じるだけ」で十分である。海の匂いは男の匂い。寝ていると、男の体の火照りを感じて目がさめる。
 気が狂ってしまう。このとき「volver(もどる)」という動詞がつかわれている。いままで生きてきて、ここにいる。そこから「過去にもどって(vlover)」「もう一度/ふたたび(dos veces )」「初めて(primera vez )のことのように生まれ変わる/目を覚ます(despertar )」。「loco(気が狂う)」と書いているが、これはもろちん「lucidez 」のことである。彼女は、初めて「正気(lucidez )」を取り戻すのだ。自分が誰であるか、自分が何をしたいか、何を欲しているかを発見するのだ。
 だから、こんなふうに言いなおされる。

Se volvió lucida,(略)volvió a ser virgen sólo para él (p108)

 正気にもどり、彼のために処女にもどる。「正気にもどる」はともかく「処女にもどる」というのは現実には不可能である。しかし、精神的は可能なのだ。それが、人間が生きているということなのだ。
 この緊密にからみあったことばの関係が美しい。そして、このことばの動きのスピードはとても早い。言いなおすと、見分けがつかない。「dos veces 」は「primera vez 」であり「nacer de nuevo」は「despertar (se)」であり「lucidez 」は「loco」なのだ。反対のことばが同じことを意味する。そして、二つの反対のことばが結びつくことで、いままで見えなかったものがくっきりと見えてくる。補色のぶつかり合いによる、それぞれの色の強調のように。私は、ここでは、「primera vez (初めて)」なのか「dos veces (二度)」なのか、忘れてしまう。「文法/意味」を超えてマルケスの世界に引きずり込まれる。
 この強烈なことばの運動は

el rencor feliz (p108)

という不思議なことばを生み出す。彼女を監禁している母親に対する思いをあらわした部分だが、 rencor は「恨み」、feliz は「幸福」。一般的な常識では、それは結びつかない。だれかを恨んでいるときは幸福ではない。でも、恨むことができるというのは、自分が生きていることを実感することでもあるのだ。感情が死んでいたら恨むことはできない。感情が生きているから恨むことができる。感情が生きている幸せ。
 このあとに、きのう書いた部分がやってくる。

Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despert la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.(p109)

 ここにも「despertar 」がやっぱりつかわれている。
 ここからが、さらに強烈。

Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.

  こうなってくると、これはもはや「処女」の告白ではないし、彼女が「初夜」の前に男とセックスをしたのが一度だけなのかということさえ私は疑問に思ってしまうのだが。まあ、ともかく、そういうことばが「自然」に感じられるくらいマルケスのことばのスピードは早い。私の想像力では追いかけるだけで息切れがしてしまう。
 (ここでちょっとだけ野谷文昭の訳文に文句をつけておくと。「la sal de su lengua  」を「彼の気の利いた言葉」と訳しているが、これは全体の文意にあわないだろう。lenguaにはたしかに「言葉」という意味もあるが、ここではあくまで「肉体」。だから「舌」なのである。「sal (塩)」は大事な調味料。料理でいちばん重要な調味料。そのことを考えると、彼女は、彼女の体をはいまわった男の舌のことを思い出しているのである。私のようなNHKのラジオ講座初級編についていくのがやっとの人間がいうことではないのかもしれないけれど……。)

 この急激な「感情」のクライマックスのあと、問題の男が女を訪ねてくる。女が長い間書き綴った手紙を、封も切らずに束ねたまま鞄に入れて。そうやって、彼女の恋はする。ここで、通俗小説なら終わる。ハッピーエンドだからね。でも、この小説はまだつづくのだ。
 森鴎外の「渋江抽斎」を読んだとき、途中で渋江抽斎が死んでしまうのに、小説はどうみてもまだ半分は残っている、ということを知ってびっくりしたように、私はこの小説でもびっくりした。
 終わったのに、まだつづく?
 この「つづき」もまた、「dos veces 」「lucidez 」と関係するのだ。それは、また後日。私の批評もつづくのだ。

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雨が降っている。

2022-01-20 14:18:46 | 考える日記
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私の書いている感想(批評?)は、多くの人には、いったい何が言いたい?というものだと思う。
私は「書かれている事実(意味)」にはほとんど関心がない。
書き方に関心がある。
そう書くことで世界がどうかわったか。
もしそう書かなかったら、その世界はどんな具合になるのか。
それも「事実」ではなく「感情」がどう変わるのか、ということに関心がある。
 
これは、私なりの「一元論」と関係しているのだが、それに踏み込むと、すべてが「妄想」でかたづいてしまうので、ここでは書かない。
 
でもねえ。
どうしてみんな「おまえにはわからない」というのだろう。
わかりっこないだろう、他人のことなんか。
自分のことさえわからないのに。
わからないことはそのままにしておいて、わかることだけ考える。
たぶん「わかっている(と思っていること)」ことを捨ててしまう、無にしてしまうために。
 
言いなおすと。
「おまえにはわからない」と言われることは、ある意味で、私にとっては「究極の理想」なのだ。
他人に言われるのではなく、それを自分で発見するために書いているのだから、「究極の結論」をそんな簡単におしつけないで、と言いたい。
 
つたわらないだろうなあ。
 
 
 
 
 
 
 
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ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

2022-01-20 11:31:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』にはいくつもの「強調構文」が出てくる。野谷文昭の訳文では、それがわからない。というよりも、私はスペイン語版を読んで、マルケスの狙いは独自の強調構文の確立にあると感じ始めたのだ。そして、その「強調構文」は、ネイティブが気づきにくいということも気がついた。私がこれは「強調構文だ」と指摘しても、フェイスブックの「マルケス」のサイトのひとは何も感じてくれない。ひとりだけ、メキシコの言語学者が、私の指摘した「dos veces 」の問題に反応してくれた。
 本当は「ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)」の最後に、(1の補強)として書くつもりだったのだが、先取りして書いておく。私はアンヘラ・ビカリオと「私」との対話の部分がとても好きなのだが、そこにこんな文章が出てくる。ペンギンブックの109ページ。

 Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.

 「 desnudo」ということばにひきずられて見落としてしまいそうだが、「 la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」がとてもおもしろい「強調構文」だ。
 ふつうは、
(1)ella (Angela Vicario) se despertó a causa de la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.
(2)ella (Angela Vicario) se despertó con la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama. 
あるいは
(3)la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama despertó a ella. 
と書くと思う。
 スペイン語は語順が英語のように厳密ではない。主語も省略できる。動詞の活用によって主語が何かわかるからである。だから順序も変えられる。
 この文章のポイントは「despertar 」という動詞のつかい方である。
 目が覚めるという意味でつかうとき(自動詞としてつかうとき)と「despertarse 」という形をとる。それが(1)(2)の文章。目を覚まさせる(他動詞)の場合は(3)になる。主語は「la certidumbre de que el estaba desnudo en su cama」と非常に長くなる。そのため「despertar 」という動詞の印象が弱くなる。これでは衝撃が弱い。
 それを避けるためには(1)(2)の文章になるのだが、このときは「a causa de」や「con 」が必要になる。そういう余分なものが入り込むと、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」の結びつきが弱くなる。マルケスは、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」を強烈に結びつけたかった。結びつきを強調したかった。そのために「a causa de」や「con 」を必要としない「文体」を選んだのだ。マルケスの文章を読むと「ell 」と「certidumbre 」が同時に強烈に迫ってくる。そして、このことばは一回目に書いた「 lucidez」につながることばである。
 ここに書かれている体験はアンヘラの「錯覚」なのだが、その錯覚は彼女にとっては「現実」なのだ。それを一瞬のうちにわからせるために書いたのが、この文章である。
 

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ガルシア・マルケス ことばの選択(4)

2022-01-19 11:07:31 | その他(音楽、小説etc)

 『予告された殺人の記録』に「la pinga」ということばが出てくる。ペニスを指す「俗語」のひとつである。野谷文昭は「あそこ」と上品に訳している。
 で、この「la pinga」ということばをつかうとき、それをつかったひとはどんな気持ちなんだろうと思う。だいたい男の持ち物なのに「女性形」であるのが、なんとも不思議だ。そこでフェイスブックにあるマルケスのサイトで質問してみた。
 答えは。
 スペイン語の名詞には、女性形と男性形がある。それを所有しているのが男性、女性とは関係がない。なんとかアカデミーが定義する、云々。
 聞きたいのは文法的な定義ではなく、つかうひとの感情、としつこく問い詰めると。
 「そんなことは説明できない。だが、おれは「la pinga」を味わうことができる(disfrutar la pinga)」
 ピンポーン、と言いたくなるね。自慢げな感じがある。あえて訳せば「魔羅」という感じ?
 ところが、小説のなかでは、味わうという感じではない。双子の兄弟がいる。徴兵されたが、兄は家の仕事を継ぐので免除された。弟は兵役期間に淋病にかかった。ふたりは人を殺しにいくのだが、弟は淋病の手当てで苦しみ、殺人をできる状況ではないとためらっている。排尿の後、「la pinga」に包帯を巻いている。それを兄がもどかしげに見ている。「魔羅に包帯をまいている」では、なんとなくおかしい。
 なおもしつこく「別項」として、日本には「ちんぽ、ちんちん、陰茎、魔羅などのことばがある。病院で受診するときは、魔羅にできものができた、とはいわない。こどものものを陰茎などとはいわない」というようなことを書いてみた。すると、
 「la pinga」は荷物をかつぐ長い棒の意味でつかう。何か大きなものを指すことがある……。
 あ、これか。
 大きな棒。日本語で探せば「巨根」になるかなあ。
 正確ではないが、これがいちばん近い感覚だなあ、と私は思った。
 双子の兄弟。以前は兄がリーダー格。しかし、弟が兵役から帰って来てからは立場が逆転。軍隊で正確がかわったということもあるが、「淋病」が引き起こした微妙な問題がある。弟は「セックスの先輩」になってしまったのだ。淋病はうれしいものではないが、それは古いことばで言えば「男の勲章」。兄には、それが、ない。兄は弟よりも「劣っている」。つまり、弟のペニスは、ある意味では「羨望の対象」なのだ。
 それがいま「羨望の対象」ではなく、そんなものにもたもたとして、変な病気になんかかかってしまって、役立たず、という感じで兄は見ている。ここには兄弟の立場が再び逆転したことが示されている。その象徴的なシーンで「la pinga」がつかわれている。
 何と訳すべきか。
 ふと、私は「やっかいもの」(大きなやっかいもの)ということばが浮かんだ。
 女性につたわるかどうかわからないが、「性器」というのは、ある意味で「やっかいもの」である。ほんとうはしなければならないことがあるのに、欲望に負けてしまう。そのときの欲望の中心が性器である。思春期に、勉強しなければならないのに、ついつい鉛筆ではなく、性器を握ってしまう。手を動かしてしまう。なければ、そんなことはおきないのに。なんと、やっかいな。しかし、やっかいなくせして、それが快感。だから、やっかいというのかもしれないけれど。
 そのときの「やっかい」とは違うのだけれど。
 兄はきっと思ったのだ。「そんなやっかいなものをぶらさげやがって」(やっかいな病気をかかえこむなんて、という批判もふくまれているかな)。

 ことばには「感情」がつまっている。「意味」ではなく、そのことばを発した人の「感情」にぶつかると、私は、とてもうれしくなる。
 誤読かもしれないけれどね。
 マルケスは、単にストーリーを描いているわけではないし、舞台になった村の人殺しをしそうな男の口調を借りているだけではないのだ。登場人物と「感情」を共有し、その「感情」をあらわすためにことばを選んでいる。
 だから、ここで「la pinga」と書くマルケスが大好き、と私はスペイン語圏の人に伝えたいが、これは説明がむずかしいね。
 他の部分でも、私はマルケスの文体に感動していると言いたいのだが、その説明がむずかしい。きのう書いた強調(enfasis )の問題など、強調構文であるという同意(?)を引き出すために何度も説明しなければならなかった。強調構文というのは「感情」と関係している。そこには感情が込められている、ということを指摘したのだが。これは、マルケスのつかっている強調構文が、あまりにも口語的、日常的だから、「どっちにしたって、意味はかわらないじゃないか」ということなんだろうけれど。
 「la pinga」にもどると、「男性性器だよ、どう呼ぶかなんて関係ない。意味はひとつ」というのに似ている。

 性器をどう呼ぶか。これをフェイスブックの私のページでも書いてみた。たとえば病院でどう説明するか。あるビジターが「これ」という指示語になるかな、というようなことを書いてくれた。私は、ちょっと目が覚めた。「これ、あれ、それ」。便利だね。わたしなら「あれ」をつかうかなあ。「あそこ(あれ)の調子がおかしい」がいちばん通じるかもしれない。「あれ(あの)」ということばは、日本語の場合、話者がその存在を了解しているときにつかわれる。「あのレストラン、おいしかったね」というとき、二人がレストランを知っていないとつかえない。泌尿器科で「あれ」と言えば、患者の「これ」だが医師からは想像できる「あれ」。初めて見るにしても、見慣れている「あれ」。「知っている」ことがたくさんつまっている「あれ」。歯医者で「奥歯」ということばが思い浮かばず、「あれが痛いんです」と言えば、医者は「奥歯?」と聞き返すだろう。まさか淋病の診察にやってきたとは思わないだろう。
 ことばには、そのことばがつかわれる状況があり、それをつかうひとの「気持ち」がある。その関係を「読み解く」(誤読する)というのは、とても楽しい。

 脱線して。
 野沢啓が『言語暗喩論』というものを展開している。私は彼の「詩絶対主義」的な論理が気に入らなくて、あれこれ批判している。いろいろな文献を引用してきて、野沢の論を補強しているのも気に入らない。「言語の発生」そのものを問題にするなら、詩だけではなくいろいろなものを取り上げるべきだろう。いろいろな文献を引用するのはいいけれど、その文献が野沢の問題にしている「言語の発生」を問題にしているのかどうかわからない。「言語の発生」の問題とは関係なく、ただ「言語」について語っているのかもしれない。「文献」を引用するのではなく、野沢の「体験」を引用して書いてほしいなあ、と思う。
 「la pinga」「強調構文」について質問したときも、私がいちばんとまどったのは、多くの人が「文献」を引用してくることだった。私は、こうつかうよ、となかなかいわない。「意味がわからなければグーグル翻訳をつかえばいい」というひとまでいる。私は「知識」ではなく、「感情」を知りたい。ことばといっしょに動いている「感情」を知りたいと思う。現実での「会話」なら状況がわかるし、発話者の声からも「情報」がつたわってくる。ところが「本のことば」では「情報」が限られている。「意味」はわかっても「感情」がわからないことがある。
 これは小説や詩だけではなく、野沢が引用してくる「文献」についても言えることだ。「哲学的著述」にも「感情」はあるはずだ。「論理」を生み出す瞬間の「感情」あるいは「意図」があるはずだと私は信じている。 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

2022-01-18 10:33:47 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

 フェイスブックのなかにスペイン語圏のひとたちがあつまっている「マルケスのグループ」がある。そこに書き込みをすると、ある人は言う。マルケスを理解するにはスペイン語がわからないとだめだ。カリブの歴史や風土がわからないとだめだ。
 でも、そういう批判をする前に、どうして「君はマルケスをどう理解しているか」「どの小説の、どの部分が好きなのか、その感想を聞かせてくれ」と言わないのか。
 いま、私が読んでいる『予告された殺人の記録』(ペンギンブックス)で、私は私の考えていることを書いてみよう。(これは、フェイスブックで書こうとしていることの、日本語バージョン。前回書いたことと重複する。)

「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ、訳・野谷文昭)
《Era como estar despiertos dos veces.》Esa frase me hizo pensar que lo m s insoportable para ellos en la calabozo debi  haber sido lucidez. (ペンギンブックス、92ページ) 
 「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているる。
 想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
 ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。

 そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
 私は、このサイトでいくつかの質問をした。それはいずれも「強調構文」に関する質問である。たぶん、ネイティブであるひとたちは、それがあまりに口語的なので(日常的なので)強調構文と気づかない。(何度も質問しているうちに、何人かのひとが「強調」であると、私の感じ方を支持してくれた。)
p.61
(1) fueron a esperarlo 
(2) lo fueron a esperar
(1)を(2)と書き直すとき、マルケスはもう一度目を覚ましている。二重に目を覚ましている。「彼(サンチアゴ)」を待っているを強調している。
P 69
(3)cuandl lo viera 
(4)donde lo viera
(3)を(4)と書き直すとき、マルケスは、もう一度目を覚ましている。あした、来週、サンチアゴに会ったなら、ではなく、それがどこであれ、サンチアゴに会ったならと「緊急性」を強調している。
P 78
(5)no nos ocurrio que..(=no pensamos que...). 
(6)no se nos ocurrio que...
 (6)の「意味」をスペイン語圏のひとの多くは「思わなかった/no pensamos 」としきりに説明してくれたが、私の知りたいのは「辞書的言い換え」てはなく、そのことばをつかうときの人間の「感情/感覚」なのである。
 (5)に「se」を追加することで、それが「予想外」であることを強調している。
 (5)自体が「まさか、そうとは思わなかった」という意味になるが、(6)のように「se」がつくと、日本語でいえば「夢にもそうとは思わなかった」くらいの、もっと予想外、意識できない感じになると、私は感じている。(そこまでの回答を聞き出すには、私のスペイン語では不可能だった。)
 マルケスには、単に「事件」を報告しているのではない。事件の背後にある「意識の運動」を書いている。「事件」を書くのは、一度目覚めること。その「事件」の登場人物の意識がどう動いているかを書くのは、もう一度目覚めること。「二重に」目覚めること。
 マルケスは、殺人事件の経緯を書いているのではない。新聞報道なら「事実関係」だけでいい。しかし、小説だから、人間を描かないといけない。人間とは「意識」のことである。マルケスは「事実」と「意識」を組み合わせる。「二重」に書く。そして「意識」の方を重視している。
 「事件」だけではなく、その「事件」に関係するひとびとの「意識」(精神/心情)の全部が理解できたとしたら、それはとても苦しいことだ。裁判なら、だれが「有罪」であるかわかれば決着する。しかし、小説ではだれが「有罪」かよりも、人間がどう考えたかが重要だ。彼らの苦しみは、どんなふうに解消できたのか。それとも苦しいまま生きていったのか。
 マルケスは、殺人をおかした双子の意識も、友人たちの意識も、殺人のきっかけになった娘の意識も、全部、わかっている。これでは、だれに「同情」していいのか、わからない。だれかひとりに同情していいのなら簡単だ。全部が見えてしまって、それでも「正気」でいる、正しい判断をするというのは目眩が起きそうなことだ。とても正気ではいられない。
 でも、それをマルケスは「正気」として書く。
 「強調構文」の積み重ねとして、事件をドラマチックに描く。私は、マルクスの「強調構文」のつかい方に、魅了されている。
 その魅力を、スペイン語圏の人と一緒に味わいたくて、フェイスブックで質問した。

 そして。
 いま書いたことだけでは、たぶん、私の書こうとしていることは、日本人にもスペイン語圏の人にも伝わらないが、この次に書く予定の部分で(私がいちばん好きな部分で)、「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」が少し違った形で繰り返されるのだ。つまり、その部分こそがマルケスがこの小説で書きたかったことだとわかるようになっているのだ。野谷の訳文でも感動したが、スペイン語で読むと、マルケスの書いていることがさらに鮮明に「ことば」そのものとしてつたわってくる。しかもそれは複雑なことばではなく、NHKラジオ講座の初級編を終わればわかることばなのだ。強い感情は、いつもつかっていることばのなかで生きている。それが、ほんとうに、手にとるようにわかる。(この文章は、したがって、次回の予告です。)

 また、私は、こんなことも思う。
 世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「作家を苦しめる正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
 だから文学はおもしろい。小説も、詩も。文学がおもしろいのは「ストーリー」よりも「文体」。だからこそ、ひとは知っているストーリーを何度でも読むことができる。
 「文体」は。
 たとえば、絵で説明しなおすと、ピカソとマチスが「同じ題材(たとえばバラ)」を「同じアングル」「同じ絵の具」をつかって書いたとしても、絶対に同じバラにならない。「スタイル」が違う。これは「視覚」の世界なので、わりとわかりやすい。
 これがクラシック音楽の演奏になると、私には指揮者、楽団が変わったからといってベートーベンの「運命」が違って聞こえるわけではない。私は「音楽の文体」が理解できていないからだ。
 ことばの「文体」になると、説明がぐんと難しい。「視覚化」しにくい。「聴覚化」からである。「感覚」に訴えることができない。ほんとうは感情が、意識が動いているが、それには「気づきにくい」。
 たまたまスペイン語でマルケスのことを書いているので、スペイン語を例に言いなおすと。
 日本語とスペイン語はまったく違う言語である。だから違いがあるということがわかる。しかし、同じスペイン語でも、マルケスとジョサでは「文体」が違う。そして、その違いは日本語とスペイン語の違いよりも大きい。偉大な作家は、共通言語ではなく、それぞれ個別の「マルケス語」「ジョサ語」で書いているからだ。日本語でいえば「鴎外語」と「漱石語」「村上春樹語」がちがうようなものだ。
 文学は、旅行でつかう「外国語」とはちがうのだ。

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ガルシア・マルケス ことばの選択(3)

2022-01-16 12:08:35 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択(3)

 どんな小説にも忘れられない文章がある。『予告された殺人の記録』)(新潮社、1983年4月5日発行)の92ページ。殺人犯の双子の兄弟は、この記録の話者と対話している。

「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ)

 「二重」と「正気」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているように聞こえる。
 想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
 ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。

 そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
 スペイン語はことばの順序が恣意的である。自由が利く。だからマルケスは語順を工夫している。副詞節を導くときのことばにも工夫しているし、日本語で言う「副詞」にあたるかもしない「まさか」のようなことばを巧みにつかっている。マルケスは「強調構文」をつかう達人なのだ。「強調構文」というのは、いわば「二重に目覚める」感じ、見えているのに、そのさらに先(深部)が見える。見えなくていいものまで、見せられてしまう。ここで、「正気」を保つのは難しい。でも、マルケスは「正気」を保って書き続けた。
 また、私は、こんなことも思う。
 世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
 だから文学はおもしろい。小説も、詩も。

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クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★)

2022-01-15 15:21:58 | 映画

クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★) (2022年01月15日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン8)

監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、闘鶏の鶏

 クリント・イーストウッドが魅力的なのは、描きすぎないことである。もっと見たい、と思った瞬間に、もうそのシーンはない。少し見せればいい。少し見て、あとは観客が自分の知っていることを思い出し、そこから考え、感じればいい、という感じ。
 冒頭の朝の光の中を走る車。その朝の光に透けながら輝く木立の葉っぱ。そういう光と木の葉の感じは、たしかにどこかで見た記憶がある。どこだろう。はっきりと思い出せない。見ていないかもしれない。でも、見たと思わせる。もう一度見たい、と思う。その瞬間、もうカメラの位置は違っている。
 光、その「光線」を感じさせるシーンは、ほかにもある。イーストウッドが車にかがみ込む。そのとき逆光、太陽の片鱗のようなものが、さーっと差し込み、あ、美しいと思ったら、もう見えない。見えなかった人には見えなくてもいい、という感じかなあ。
 こういうことが、もしかしたらこの映画のテーマかもしれない。
 ひとはそれぞれ自分の人生を生きている。自分の人生にも、他人の人生にも、見える部分もあれば見えない部分もある。太陽の光と違って、人の放つ光、人の出会いは規則的ではない。偶然であって、その出会いが、なにかの光のように他人の(自分の)一部を透明な光でつつむ。なんでもないことかもしれないが、それが忘れられない何かになる。
 イーストウッドが少年に乗馬を教えるシーンが好きだなあ。どうやって馬と接するか。支配するのではなく、一緒に生きる。早足で走るとき、スピードアップをするとき手綱で指示するのではなく、体重のかけ方をかえる、というのなど、なるほどなあ、と思う。乗っている人の体重の移動が、自然に馬を「押す」形になる。おんぶされている人が体重を前にかけると、おんぶしている人の体は自然に前のめりになる。体が前のめりになると、足が少し早く動く。バランスをとるためにね。そのあとの「姿勢」についても、なんでもないようだけれど、馬が楽になるような、そして乗っている人が楽になるような姿勢である。
 相手も、私も。
 この相互に「楽」な感じが、たぶん、いまのイースウッドが私たちにつたえたいものなのかもしれない。父と子の関係、男と女の関係、友人の関係。互いに、相手の小さな部分にさっと光を当て、私は、それを見たよ。私は、それが好きだよ、と言う。これだけで、ひとはひとと一緒に生きていける。
 そして、こういうことは、まあ、忘れられてもいいことかもしれない。世界を変える人間ではない。でも、そのとき世界は変わっている。個人個人にとっては、ね。実際、この映画では、少年もイーストウッドも「新しい」世界を手に入れる。彼らの「世界」が変わる。誰も注目していないけれどね。それがいいんだね。
 ラストの一瞬前。
 少年が、大事にしていたマッチョ(鶏)をイーストウッドに渡す。あげる。これ、いいねえ。さっと描いている。イーストウッドが、「焼いて食べてしまうかもしれない」と冗談めかして言う。少年は「だめだよ」とは言わない。冗談だとわかっているから、というよりも、もっと大きな何か。少年は生まれ変わったのだ。「マッチョ」が彼の支え(理想)ではなくなったのだ。少年が「マッチョ」を超えたのだ。それを「信頼」という形(抗議しないという形)で、ぱっと描き、ぱっと打ち切る。
 演技させるのではなく、演技させない。「人工的なもの/作為的なもの」にしないということかなあ。
 イーストウッドの車と牧場の馬が並行して走るシーンも、なんでもないのだけれど、馬が美しくていいなあ、と思う。

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ガルシア・マルケス ことばの選択(2)

2022-01-14 11:13:55 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択(2)

 ことばは、ほんとうにおもしろい。ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語版「Cronica de una muerte anunciado 」のなかに「la pinga」という名詞が出てくる。「男性性器」である。しかし、「la pinga」は「女性名詞」。どうして? 男性性器は男性しかもっていない。(もちろん、手術すれば、男性だからといって「男性性器」をもっているわけではないし、女性だからといって「男性性器」をもっていないとはいえないが、そこまでは考えない。)
 そこで、マルケスのサイトで質問してみた。いろいろな回答があったが、多くのひとは疑問に思っていない。最初から「女性名詞」ということで、気にしていない。
 ところが。
 ひとり、こう教えてくれた人がいる。Wendy Sanchez というベネズエラの女性。

En cuanto a la pinga, es el termino coloquial usado en algunos países latinoamericanos para nombrar el órgano sexual masculino, así como muchas palabras más, ya que tenemos la costumbre por tradición y más por un tema de tabú, nombrar las partes intimas femeninas y masculinas con otros nombres y no por los correctos.

 ことばはタブーと関係している。「文化人類学」をふと思いだした。たしかにセックスは、人間のタブーの最大のものである。そのため、いろいろな社会に、いろいろな規則がある。ことばも、どうしても「制約」を受ける。いつでも「el pene 」をつかうわけにはいかない。だから、ときには「隠語」を使用する。
 そのとき。
 何らかの「親密な感情」をこめたくなるのが人間である。男の場合、セックスの対象はふつうは女性。だから大切なものに「女性の名前(たとえば自分の好きな女性)」をつける。親密感、をあらわすためだ。簡単にいえば、私が自分のちんぽを「ナスターシャ・キンスキーの宝物」という具合。ナスターシャ・キンスキーとセックスしたことがあるわけではなくて、もちろん、それは夢なんだけれどね。ここまで言ってしまうと、わけがわからなくなって、詩になってしまうが。そうならないように、簡単に「la pinga」と言うわけだ。これなら、男同士でセックス自慢ができるというわけだ。「ナスターシャ・キンスキーの宝物が暴れたがっている」なんてね。

 あ、Wendy Sanchez が、そう書いているわけではありません。私は「タブー」と「親密」ということばから、かってにそう考えたということです。スペイン語がすらすらわかるわけではないので、勝手気ままに「誤読」する。また、マルケスが73ページで「la pinga」をタブーと関係づけて書いているわけでもありません。ただ、単に「女性名詞」であることのおもしろさ、その理由が理解できたので、メモとして書いておくだけです。

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ガルシア・マルケス ことばの選択

2022-01-11 10:17:27 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択

 ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語版「Cronica de una muerte anunciado 」で読んでいる。野谷文昭の訳を見ながら、スペイン人に質問しながらなのだけれど。
 双子の兄弟が、サンチアゴを殺そうと思っている。それを知ったクロチルデ(牛乳屋の女)がなんとかサンチアゴを助けたいと思い、店にくる客に「サンチアゴのこのことを知らせて」と頼む。その部分に、こう書かれている。

a todos el que pudo le pidio prevenirlo donde lo vieran.

  この「donde lo vieran 」の「donde 」がわからない。野谷は「彼を見かけたら」と訳している。私の初級スペイン語(NHKのラジオ講座の初級編)レベルでは「cuando」になる。「彼を見かけたとき」。スペイン人の友人も「cuando」と書く、と言っていた。
 もちろん全体を読めば「見かけたとき」ということはわかるのだが、なぜ「donde 」なのか、その「理由」がわからなかった。こういうとき「donde 」をつかうのは一般的かとフェイスブックのマルケスのサイトで質問してみた。
 すると、そういうつかい方はすることがあるという反応があった。殺人がおこなわれるのはサンチアゴのいる村に限られている。これは「en un lugar 」という意味を含んでいるという答えもあった。
 私は、このことばに触れて、はっと気がついた。
 殺人は、きょう、いますぐにでもおこなわれようとしている。双子はサンチアゴを待ち構えている。「いつか(時間)」はあす、来週、来月ではない。あいまいではない。「いま」なのだ。「いつか、サンチアゴに会ったら」ではだめなのだ。「いますぐに、どこでもいいから、サンチアゴに会ったら」の「どこでもいいから」が強く意識されている。広い東京ではなく、小さな村なのだ。「どこ」も限られているが、それは「いま」という「時」よりも「広い」。そういう意識があるから「それがどこであれ、サンチアゴに会ったら」という「含意」が「donde 」にはあるのだ。
 マルケスは、あえて、つまり積極的に「donde 」をつかっている。無意識ではなく、意識的に、クロチルダの「無意識」を言語化しているのだ。「いつ、いますぐに」はクロチルダの「無意識」になってしまっているので、言語化されないのだ。言語化されない「無意識」が「donde 」のなかにあるとつたえるために、あえて「donde 」をつかっている。
 いやあ、すごいなあ。
 マルケスというと「魔術的リアリズム」が有名だが、それが「魔術的」であるのは、こういう細部にこだわったことばの選択があるだろう。

 ところで。
 「donde =場所」ということばから連想したのが、日本語にもこの「donde 」に類似した表現があるなあということ。
 「彼に会った時(彼を見た時)」のかわりに「彼に会った場合(彼を見た場合)」のように「時」と「場合」が区別なくつかわれる。すくなくとも単独で取り上げると、区別がない。マルケスの問題の文章も「彼を見た場合」というふうに訳すことができるのかもしれない。でも、「場合」は三音なので、「時」より間延びしてしまう。緊急な感じがしないなあ。
 そこで、再び野谷の訳文にもどるのだが、な、なんと「時」も「場合」もないではないか。「彼を見かけたら」。意識のスピード感が、そのまま再現されている。いやあ、いい訳だなあ、と心底、感心してしまった。

 以前、入院中に野谷の翻訳を読んでいたら、突然「謹賀新年」「インチ」ということばが出てきて、この謹賀新年は何? なぜセンチではなくインチと思ったのだが、物事が解決したときに、万事これでよし、めでたい、という意味で「謹賀新年(Feliz Nuevo Ano 」をコロンビアではつかうことがあるという。また、いまはメートル法だが、以前はインチをつかっていたということだった。マルケスは状況にあわせたことばを選択しているし、野谷はそれに配慮した訳を考えているということがわかった。ただし「謹賀新年」は直訳(?)ではなく、なにかしらの「意訳」が考えられてもいいのではないかと思う。日本語で読んできて「謹賀新年」に出会うと、やっぱりびっくりしてしまう。年明けでもないのに、なぜ「謹賀新年」と悩んでしまう。野谷は「謹賀新年、めでたし、めでたし」と訳しているのだが、せめて「めでたし、めでたし、謹賀新年」にしてもらえたら、「めでたい」が先に来て、「語呂合わせ(?)」、あるいは「地口」で「謹賀新年」と言ったことが伝わるのではないか。  

 

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「パイドン」再読(2)

2022-01-10 22:07:23 | 考える日記

「パイドン」再読(2)(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)

われわれが生身の肉体をもち、われわれの魂がそのような悪にすっかり混じり合っている(184)

ということばは、こう展開していく。

魂の、肉体からの解放と分離が、死と名づけられている、のではないのか(188)

 「分離(する)」だけではなく「解放(する)」ということばがつかわれており、「解放(する)」を方が先に書かれている。「解放する」は「自由にする」である。これは「悪」から「解放する」という意味である。
 ここから、あの有名な、つぎのことばが生まれる。

ただしく知を求めるひとは、まさに死ぬことを練習している(188)

 論理としてはわかるが、「魂」の存在を認識していない私には、これは「空論」。実感できない。困ったときは「ソクラテス先生」と呼びたくなるのだが、どうしてもついていけない。「魂」ということばをつかうと、「生身の肉体」を裏切るような気持ちになる。
 では、どうするか。
 前の日記で「思惟のはたらき/ことばの運動」と書いたが、これをそのまま「魂」のかわりにつかえるのではないのか。
 「思惟のはたらき/ことばの運動」が「生身の肉体」から「分離」されて、「運動」として残る。言い換えれば、書かれた(記録された)「ことばの肉体/思惟のはたらき/ことばの運動」が「生身の肉体」から分離されて残る。これは、実際に「見る」ことができる。たとえば、死んでしまった人の「日記」「文章」。それが「肉体のことば」である。そして、そういう「肉体のことば」は「生身の肉体」から「切り離されてしまう」(分離されてしまう/分離する)と、誰でもが自由につかえる。もちろん「自分のことば」ということはできないが、その「他人がつかったことば」をつかいながら、「生身の肉体」は「思惟の肉体/ことばの運動」を展開できる。
 私が実際にやっていることは、これだ。
 いまもソクラテスの「生身の肉体」から「分離したことばの肉体」を借りながら、私の「思惟」を動かしている。ソクラテスの残した「肉体のことば」を自分の「肉体のことば」動かす手がかりにしている。
 ソクラテスから「分離したことばの肉体」は、「自由」にかって動いているわけではない。かってには動けない。別な人間が(たとえば私が)、ソクラテスの「意図」とは無関係に動かすということもできるのである。それはソクラテスのことばにとっては「解放」ではなく、新しい「拘束」だろうなあ。そして、その「拘束」はソクラテスのことばの方からやってくることはできない。私がソクラテスのことばを思いださない限り、存在しているとは言えない。
 「解放」とか「自由」ということばは、違うなあ、と思うのである。

 これはもちろん、私の考え方(ことばの運動)が間違っているから、そうなってしまうのだということかもしれない。

 しかし、まあ、私は自己中心的な人間であるから(この世界に確かに存在するといえるのは私の肉体だけと考える人間だから、自分の都合のいいようにソクラテスを引用する。

われわれが学び知るというのは、じつは想起にほかならない(206)

 何か知っていることを思い出すのである。そのとき、私が思い出すのは「魂」というものではない。もっと具体的な人間の動きである。生きている人間は、動いている。そして、そのとき動いているのに「生身の肉体」だけれど、「他人の肉体の動き」を見ると、自分の「肉体」も動く。そこから、こういうことが起きる。
 たとえば、道で誰かが腹を抱えてうずくまっている。それう見ると、自分が腹を抱えてうずくまったときのことを思い出す。そして、腹が痛いのだと思う。「ことば/思惟」はこの人は腹が痛いのだと動く。
 これはわかりやすい例だが、ほかのときだって、きっとこれに似ている。自分の知っていることを、他人の肉体を通して思い出す。これはソクラテスの書いている「想起」とは少し違うかもしれないが、「想起する」のは自分の知っていること、体験していることだけである。
 「ことばの肉体」を引き継ぐとき、「ことばの肉体」を「想起する」ときも、きっとこれだな、と思う。そのとっかかりのようなものの「数」を増やしていくというのが「学ぶ」ということだろうなあ。自分の肉体と他人の肉体の重なる部分を増やし、他人が感じているかもしれないことを「ことば」で獲得していく。「ことばの肉体」が「生身の肉体」をときにはリードして何かを教えてくれるということもある。それが「学ぶ」であり、「知る」だろうなあ、と思う。
 「学ぶ」というのは「想起する」練習なのだ。

 ことばが走りすぎた。きょうは、ここでやめておこう。

 

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野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」

2022-01-09 12:43:33 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」(「未来」冬、2022年1月1日発行)

 野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」は、野沢の『言語隠喩論』への反響に対する野沢の反応である。
 「言語」の問題は「言語」だけの問題ではない。「思想」そのものの問題である。「ことば」なしに、人間は考えられない。もちろん音楽や絵画、数学、物理で考える人もいるが、その人たちは音楽的言語、絵画的言語、数学的言語をつかっている。ひとりひとりつかう「ことば」が違う。だから、「ことば」を一般化して語るのは非常に難しい。野沢は、私を含めて多くの読者が野沢の論を正しく理解していないと批判しているが、そういうことは、私に言わせれば当たり前である。「ことば」は何よりも、他人を理解するためにあるのではなく、自分の考えをつきつめるためにある。個人的な言語は翻訳不可能だから、理解などできないのだ。
 他人のことは知らないが、私に関して言えば、私は他人の論を「正しく理解する」ということを一度もめざしたことはない。筆者の考えと自分の考えを一致させることが「正しい理解」とも考えない。そういうことは学校教育でおしまいにしたい。
 私は極端な「一元論者」であり、存在すると確実に言えるのは「私の肉体」だけ、と考えている。「他人」というのは、「私の肉体」に何か解決しなければならない問題があって、その問題を解決する手がかりとして私の前にあらわれてきたものと考えている。「ことば」も同じである。「他人のことば」が私の前にあらわれたのは(私がそのことばと出会ったのは)、私のことばに何か解決しなければならないことがらがあって、それを考えるためにここにあるのだ、と考えている。
 「ことば」を読むとは、単に「他人のことば」を読むことではなく、「他人のことば」に「私のことば」が読まれることであり、読まれることによって私は「私のことば」のなかにある自覚できなかった問題と向き合う。そこから「私のことば」を鍛えていく、ということを考え続けている。そういう私には「結論」というものはない。ただ「考える」ということがあるだけである。私は「私の結論」を信じていないから、当然のように「他人の結論」も信じてはいない。「結論」を破壊しながら、新たに考えようとしているだけである。
 「私の肉体」と「私のことば」、あるいは「ことばの肉体」については、何度も書いているので繰り返さない。ただ、野沢と私では「思想」にいても、「ことば」についても考え方がまったく違うから、意見の違いを「誤読」「誤解」(理解していない)と言ってしまっては何もはじまらないとだけは書いておきたい。私はむしろ「誤読」をすることで、私の考え(ことば)を動かしていく。ことばはただ「考える」ためにだけある。そして、そのときの「考え」というのは、あくまでも「私の考え」である。

 私が考えたのは、こういうことである。
 野沢は40ページから41ページにかけて、こう書いている。

 言語のなにものにも依拠しない本質的隠喩性とその創造力にかんしてさまざまな哲学者や言語学者、批評家、詩人の言説を引用してきたのは、こうした言語の隠喩的創造力にかんしてなにかヒントを得られないかという努力の痕跡にすぎない。そして、言語の本質的隠喩性についてはなにほどかの確認を得ることはできたが、それがとりわけ詩というジャンルの言説のなかでときに獲得する、未知の世界のなにものにも代えがたい絶対的な新規性はどうしたら実現するのかという説明と理路はついに得られなかった

 自分がつかみたいものを「他人のことば」から得ようとしても、私の考えでは絶対に見つからない。それは自分で探すしかない。自分を壊し続けない限り見つかるはずがない。私はそう思っているから、野沢が、次々にいろいろな外国人の思想家を引用するたびに、そんなものは私は知らないと言うのである。
 あるひとりの思想家のことばについて野沢がこう考えたというのなら、それは野沢の「対話」として読むことができるが、野沢の考えを整え、発展させる(説明と理路を確立する)ために利用しているというのでは、野沢のことばを読んでいるのか、私の名前の知らない誰かのことばを読んでいるのかわからなくなる。野沢の考えていることを知るために、野沢が引用している著述家のことばを読むとしたら、私はそのとき野沢ではなく、その著述家と向き合う。当然、「野沢の読み方」と「私の読み方」は違ってくる。もし、野沢と対話するなら、野沢が引用している著述家の文章に対してどう読むかという対話しかありえない。野沢は著述家の文章を野沢の考えを補強(?)するものとして引用しているが、その引用された文章が「著述家の言語暗喩論」であるかどうかがまず問題になるはずだ。野沢の引用している著述家が「言語暗喩論」を展開しているのなら、それはそれでいいけれど、私にはどうも、そういうふうには思えない。

 野沢は、私の文章を引用した上で、批判を展開している。まず、私の文章を引用しておく。

「隠喩」を問題にするなら、もっと「ことば」そのものにこだわって、どのことばがどのような「暗喩」になっているのか、それを指摘しながら、自分の知っている世界と、高良、氷見の書くことで出現させた世界がどう違うのか、それを書かないと「暗喩」について書いたことにならないのではないか、と私は疑問に思う。

 これに対して、野沢は、こう書いている。

谷内は詩のことばのひとつひとつが何に対するの暗喩なのかを明らかにしないと《「暗喩」について書いたことにならないのではないか》教訓めかして書いていて、驚くしかない。

 しかし、私は「ことばのひとつひとつが何に対するの暗喩なのかを明らかにしない」と書いているわけではない。たとえば「ばら」という比喩が出てきたときに、その「ばら」が「美人」の比喩(暗喩)であるというようなことを野沢に指摘しろと言っているわけではない。私がこだわっているのは「何が」ではなく「どのような」である。
 野沢の「言語暗喩論」は「何が」ではなく、「どのような」を問題にしている。言語は「どのように」して発生してきたか。ことばは「どのようにして」詩になるのか。問題にしているのは「どのように(どのような)」ではないのか。
 野沢自身、私が先に引用した文章の中で、「絶対的な新規性はどうしたら実現するのか」と「どうしたら」ということばをつかっている。野沢の評価している詩は、その「どうしたら」の部分をどう展開しているのか。「何が」「何の」比喩なのか(暗喩なのか)という「名詞」(対象)の部分ではなく、「どうしたら/どのようにして」に踏み込んで書くことが「暗喩論」、なぜ創造的なことばが必要なのか、創造的とはどういうことなのかを具体的に書くことになるのではないのか。

 詩ではなく、「散文」を例にして、私の考えを書いておこう。『白の闇』というタイトルで翻訳されているサラマーゴの小説「Ensayo sobre la cegera」を私はスペイン語版で読んだ。ポルトガル語版ではないので、正確ではないが、その書き出しは、「Se iluimino el disco amarillo.」この「el disco」(丸い形)は「信号」のことである。こう書けば「何が」「何を」比喩しているか、という問題になる。「el discoとは何ですか?別のことばで言い換えなさい」という「学校のテスト」の問題である。私は、そんなことを野沢に要求していない。
 「暗喩」の問題、「ことば」の問題は、なぜ、作者がそのことばを選び、それをつかったかである。それが「思想」というものだからである。なぜ、どのようにして、が問題なのだ。
 「Ensayo sobre la cegera」は人間が突然盲目になる小説である。盲目といっても「暗闇」ではなく世界が「真っ白」に見えてしまう盲目。そこでサラマーゴが問うているのは、「目が見える」とき、人は何を見て、何を見落としているか。もし何かを見落としているとしたら、それは一種の「盲目」といえるのではないか、という問題である。この問題が最初の書き出しで提示されている。
 つまり。
 信号を見るとき、私たちは普通、その「色」しか見ていない。車の運転手は、信号の赤、黄、青の「色」を見ているのであって、そのとき信号灯が丸いかどうかなど気にしない。つまり「丸い」を見落としている。それは運転手が、車用の信号を見るときではなく、歩行者用の信号を見るときも同じ。青が点滅するのを見ながら、もうすぐ車の信号もかわると思うのに似ている。歩行者用の信号が「四角」であることを意識しない。その信号の中に人間のシルエットが描かれていることを意識しない。ただ、色と、点滅に注意する。つまり、意識の中から「形」を排除している。排除することで、神経を集中させている。そのことが、書き出しに「暗喩」として書かれている。
 「どのようにして」「どのような」をつかって言いなおせば。
 サラマーゴの「el disco」(丸い形)という「見えるもの」を描きながら(これが「どのようにして」にあたる)、この「見えるもの」を私たちは見落として生きている(これが、「どのような」にあたる。という「暗喩」として提示しているのである。そして、この「暗喩」から、サラマーゴは、私たちが意識しなかった「未知の世界(新しい世界)」をことばの力で展開していく。ストーリーの展開にしたがって、私が目撃するのは、すべて知っていること(想像できること)であるけれど、すべて明確に認識してこなかったこと、あるいは意識的に「排除」してきたことである。それをサラマーゴは「白い闇」に襲われた人間を通して(つまり、どのようにして)描いている。
 野沢は、そういう具体的な指摘を『言語暗喩論』のなかで展開しているか。していないのではないか。いろいろな詩や、著述家の文章を引用してくるけれど、その「ことば」が「どのような(どのような)」世界を暗喩しているのか、その暗喩を通り抜けることで、野沢の意識はどうかわったのか、それが具体的には書かれていないと私には感じられる。高良の詩についても、氷見の詩についても、野沢の書いていることは、私から見ると「抽象的」である。
 私に関して言えば、「Ensayo sobre la cegera」を読むことで、私は多くのものを「見落としてきた」(私は盲目だった)ということを発見した。サラマーゴの「暗喩」がなければ、私は、それに気がつかなかった。信号が「丸い」ということを意識せずに、ただ信号の色を見ていただろう。
 ところで。
 私が、いま、ここでサラマーゴを取り上げたのは(すでにブログでも取り上げているが)、野沢が「詩」を特権的にあつかっているが、小説でも「暗喩」があるし、そういう取り組みを「ことば」をつかう人なら誰でもやっている。それを言いたいからである。

 

 

 

 

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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(30)

2022-01-07 11:19:12 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(30)

(足は地を)

足は
地を知っている
眼は
天を仰ぐだけ

星々は
毎夜
空にいて

地に
甘んじて
ヒトは
誤る

地から
天が
見えると

 「地から/天が/見えると」思うのは誤り。「見る」と「知る」と違う。「知る」ためには「足」が大地に触れるように、「肉体の接触」が必要だ。しかし眼はいったい何に直接触れることができるか。そして、ことばは。

 

 

 

 

(ひと足)

情熱は
無い
ただ穏やかな
興味で

贈られた
世界を
見つめる
歓び

未来を
手探りする

明日へ
遅々と
ひと足

 「情熱」と「穏やか」は相いれないものなのだろうか。『女に』のなかで谷川のつかっていた「少しずつ」は「穏やかな情熱」、「確かな情熱」「手探りの情熱」「ひと足ずつの情熱」ではなかったか。

 

 

 

 

 

(二月)

地に
惜しみなく
陽は
降り注ぎ

トレモロは
沈黙の
饒舌

ヒトは
多事
繭は眠る

宇宙に
濾過された
現世の
悲しみ

 「濾過」。谷川は「濾過された」と受け身でつかっている。そして、「濾過され」ると「悲しみ」が残る。そうではなくて、「濾過された/悲しみ」は「悲しみ」とは別のもの、たとえば「沈黙」だろうか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇132)Joaquín Llorens

2022-01-06 23:18:15 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

Joaquín Llorens crea diferentes tipos de obra.
Las dos que os presento hoy están en contraste.
La de la izquierda es elegante, moderno y urbano.
Yo puedo escuchar música ligera y tranquila. Un sonido transparente como un piano o un violín.
Si fuera una flor, es la que florece en el jardín.
La de la derecha es un poco pesado. Es flexible, pero me siento un poco pasado de moda. Me recuerdo el mar, la tierra, las olas y la flor que florece en el campo.
La música que escucho es la voz humana. Incluso si fuera un instrumento, el sonido de una trompeta, saxofón.

Me gustan las dos obras, pero prefiero más la de la derecha.
Por qué?
Porque....la de la izquierda tiene una impresión mecánica. La curva tiene una belleza precisa, como si se hubiera realizado mientras se realizaba una medición con un dispositivo.
La  de la derecha tiene una fuerte impresión de que fue hecha con las manos y el cuerpo. Joaquín está formando una curva mientras lucha con el hierro. Nunca puede hacer lo mismo. 
El usa un martillo, un yunque y fuego. 
Al chocar el cuerpo de Joaquín y el hierro,  ellos intercambian "sangre". La sangre de Joaquín fluye entre el hierro, y la sangre del hierro fluye entre el Joaquín. 
Esta obra me da la impresión de que hierro y Joaquín renacerán al mismo tiempo.

Joaquín Llorensはさまざまな作品をつくる。
左の作品はスマートで現代的、都会的である。
軽やかで静かな音楽が聞こえてくる。ピアノ、バイオリンのような透明な響きが聞こえる。
右の作品は少し重たい。しなやかだが少し野暮ったい感じ。海や大地、波や草木を感じる。
聞こえてくる音楽は、人の声である。楽器だとしても、トランペットとかサックスとか息をつかった楽器の音。
どちらの作品も好きだが、私は、右の作品の方をより好む。
なぜか。
左の作品はどこかメカニックな印象がある。カーブ一つをとってみても、機器で計測しながらつくったような正確な美しさがある。
右の作品は手、肉体でつくったという印象が強い。鉄と格闘しながら形をつくっている印象がある。手触り、といえばいいのかもしれない。同じものは二度とつくれない。つかうのは、ハンマーと金床と火。ホアキンの肉体と鉄がぶつかり合いながら、「血」を交換する。鉄のなかにホアキンの血が流れ込み、ホアキンのなかに鉄の血が流れ込む。鉄とホアキンは同時に生まれ変わる、という印象がする。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

2022-01-06 21:30:20 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

(私は今ここに)

私は

ここに
いる

どこへ行こうが
動けない
私を

言葉で
リモコンして
言葉の涯まで
連れて行く

そこも
ここ
だろうか

 「リモコンして」の「原形」は「リモコンする」だろうか。「名詞+する」という形で「動詞」をつくる。谷川は、いまはつかわないようなことばもさらりと書くが、こういう新しいことばもさらりとつくってしまう。

 

 

 

 

(そこにいつまでも)

そこにいつまでも
私はいる
地面に木漏れ陽が
落ちて

おもかげは
川音に
紛れ
言葉は薄れて

そこに
独り
立ち尽くし

すべてを
愛でる
私がいる

 「いる」ことが「愛でる」こと。それだけでは足りなくて、谷川は「すべてを」と書いている。「すべてを」は「いつまでも」に通じるだろう。そこには「限界」がない。そして、その中心に「独り」がある。

 

 

 

 

 

(諦め故に)

諦め故に
希みの
滲む

手足と
腹の
温かみが
語を生み

自は
他へと
動き出す

眉の黒
水の透明
唇の赤

 「諦める」のは何が諦めるか。こころか、精神か。「手足」と「腹」、その「温かみ」は諦めない。つまり「語を生む」。「諦める」の反対は「生む」なのだ。「肉体の温かみ」は「語(ことば)」だ。

 

 

 

 

 

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