詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫「12さち」

2022-01-06 10:27:27 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「12さち」(「博物誌」50、2022年01月25日発行)

 山本育夫書き下ろし詩集「たくおん」18篇のつづき。
 「たくおん」は「たくあん」ではない。「だくおん」と書くのが一般的だが、山本は「たくおん」と書いている。濁音のための「゛」を省略している。「12さち」では、こんな具合。

たったっ たった
あしおと か おいついてくる

 これは一般的な書き方をすれば「たったっ たった/足音が追いついてくる」だろう。「たったっ たった」は軽快な足音のオノマトペ。--こう読めば、たとえば「学校文法/教科書解釈」では「正解」かもしれない。
 でも、山本は、そういう「書き方」を知らずに、間違えて、こう書いたわけではない。そうであるなら、それを読むとき「たったっ たった/足音が追いついてくる」と「学校文法」にあうように「修正」して読んでしまっては、山本が書こうとしたことを見落としてしまう。山本が何を書こうとしたのかわからないが、私は山本が「学校文法」の奨励する「修正」を拒否していることだけはわかる。いや、私は、山本が「学校文法」の「修正」を拒否してことばを動かしているのだ(表記しているのだ)と「誤読」する。
 この問題に向き合うのは、とても難しい。だから、私は山本の「学校文法」による「修正」を拒否したいという気持ちを受け止め(もちろん、それは「誤読」かもしれない)、それでは私も「誤読」してみよう。「学校文法」の「修正」を拒否して、山本のことばを読んでみよう、と思うのである。
 こういうことは、手さぐりである。言い換えるなら、「正解」などないのだ。自分を信じるかどうかだけなのである。
 私は最初、「たったっ たった」を濁音なしに「軽快な足音」ととらえたが、「だっだっ だっだ」だとどうなるか。重くなる。苦しくなる。でも、私は、これを「軽い」ままにしておきたい。
 それは二連目と関係している。

たれか か うたっている る
こえか つきにおいかけてきた ららら
いつも なにかか おいかけてきて
おいついて おいこしていく くくく
ゆめは はかない と
たとぅー を いれた ちふさ か
ゆれている んたろうね
そのたひに
そのたひに さちあれ れ

 「学校文法」にしたがい「修正」すれば、「誰かが歌ってる、る/声が次に追いかけてきた、ららら/いつも何かを追いかけてきて/追い付いて追い越していく、くくく/夢は儚いと/タトゥーを入れた乳房が/揺れているんだろうね/そのたびに/そのたびに幸あれ、れ」になるだろう。「歌(メロディー)」が「声(ことば/意味)」に変わる瞬間を「次に」という短いことばでつたえているところなんか、実にいいなあ。好きだなあ、この部分と書きたいのだが……、それを書くとまた別の感想になる。
 最初の感想にもどる。
 引用しなかった部分(一連目)に「ふとうはたけ」ということばがあり、「ぶどう畑」を連想したせいだが、私は、「こえか つきにおいかけてきて」を「肥え担ぎが追いかけてきて」と読んでしまった。農家の仕事を手伝ったことがある人ならわかるだろうが、「肥え」をかついだまま軽快に走ることはできるない。だいたい走ると「肥え」がこぼれてしまう。こぼさないように、というのは「肥え」を大切に思うからでなく、こぼしたら自分の体が汚れるからである。だから走ったりはしない。
 ところが山本を追いかけてきた「肥え担ぎ」(女)は、軽快そのものである。疲れを知らない。そればかりか、「肥え」に汚れることなんか気にしていない。なぜって、若い女の肉体は「肥え」なんかはじきかえしてしまうのだ。その若い女の象徴が「乳房」。「タトゥー」を入れているらしいが、それはほんとうに乳房を飾る(より美しく見せる)装飾品だ。「肥え」だって、そうなのである。ひとふきすれば、すべすべの裸にかわるのだ。より美しく輝くのだ。絶品になるのだ。そして、その女の名前が「さち」なのだ。「ちふさ」ということばのなかに「さち」があるように、こういう一連のことばを書く山本の気持ちのなかには「幸が好き」という気持ちが含まれている。
 そんな山本と「さち」を、

とおい ていほう から
いぬとひとと こちらを
みている
みんなに
さちあれ さち あ れ

 ここなんか、私は、「さち」の「乳房」を見るために、山本が女に襲いかかった、と読む。いわゆる「青姦」というやつだ。それをみんなが見ている。犬も見ている。犬は交尾しながら山本と「さち」を見ているかもしれない。
 みんな、幸福だ。
 なかでも、「さち」は「あーれー」と悲鳴を上げながら、実際は喜んでいる。こういう「誤読」のためには、「たったっ たった」は軽快でなくてはならないし、
何よりも「立った/勃起した」を連想させなければならないから「だっだっ だっだ」ではだめなのだ。「立った、立った、立った」を連想させないとだめなのだ。山本は「さち」を知っている。どれくらい知っているかというと「乳房」にタトゥーがあるというようなことだけではなく、足音を聞いただけで、それが誰かわかるくらいに知っている。「さち」とわかった瞬間に、勃起するくらいに「さち」を知っている。
 そんなことを思うのである。
 こういう「感想」は、たとえ思っても、書かない。書くとしても「修正」して、穏便な形で書く、というのが一般的かもしれない。しかし、私は、そういうことはしない。「修正しません」という宣言を含んで書かれたことばに対しては、私も私を「修正しない」。どこまでも暴走する。
 詩を読むとき、詩が私を読み返してくる。詩が、私の中に隠れているものを覗き込んでくる。だから、私はその覗き込まれたものを(覗き込まれていると感じたものを)、そのまま詩に対して返す。詩を読んだから、私はここまでかわることができたよ、と。

 私の感想は「ひとりよがり」である。私は私の感想が誰かによって「共有」されて、「批評」にかわることを望んでいない。いつでも「一対一」で存在していたい。

 

 

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本育夫「13やけこけ

2022-01-06 00:05:51 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「13やけこけ」(「博物誌」50、2022年01月25日発行)

 山本育夫「13やけこけ」は、書き下ろし詩集「たくおん」のなかの一篇。「たくおん」は「濁音」のことである。山本は「濁音」をわざと「清音」として表記している。「濁音」を「清音」にすると、「意味」がすぐにはわからない。「濁音」をまじえると、いままで知っていた「意味」が浮かびあがってくる。このときの「一瞬」の混乱。そこに、まあ、詩のとっかかりのようなものがある。
 ということなのだろう。
 で、私は、それはそれとてし「理解」した上で、それを拒否して読んでみる。というか、即座に「濁音」にならない部分を楽しむのである。
 「13やけこけ」の最初の部分。

ほくか むちゅうてしのはなしを しているとき
あなたはおそらく こうかんしている

 「しているとき」と「あなたはおそらく」は濁音なしで読むのだろう。そのとき、私に何が起きるか。次の部分も濁音なしで読んでしまう。そうすると、

あなたはおそらく 交歓している

 となる。直前の「している」が特に影響してくる。「している」というとき、セックスである。セックスとは「こうかん」である。交歓のほかに交感もいいし、交換でもいいなあ。愛液の交換。それは好感がないとできないかどうかはわからない。しているうちに、感じてしまうかもしれない。そのときの「感じる」は「好感」かもしれないなあ。
 もう、こうなると、ことばはことばではなくなる。ことばは声になる。声はことばとは別の何かを発する。「いや」は拒絶ではなく「もっと」であるときさえあるのだ。
 「ぼくが」なんて、冷静に濁音でことばを言っている内は「冷静」。感情は「高感」ではなく「低感」にすぎない。ことばをおきざりにして肉体が暴走する。これを「交歓」と呼びたいが「交歓」だから、ひとりだけ感じてもだめ。
 あえて感じまじりで、じゃなくて漢字まじりで書くと、逆に感じが出てくるかも。

ほ、僕か、夢中、手、し、野放し、していると、
あなだ、ば、おそらぐ 交歓している

 「ぼく」が興奮して「ほく」になってしまうなら、「あなたは」なんていう正確な音と助詞は不似合い。肉体の抑制がきかないから、「た」は「だ」になり、「は」は「ば」になる。ちょっと東北弁のような、くぐもった感じが、肉感的だ。いまは冬だから、布団なかにもぐりこんで、真っ暗な布団のなかで手さぐり。手は、野放し状態で、あっちこっち動き、それがねえ、思いもかけずに「感じる」部分に触れてしまう。いままで知らなかった部分。見えない、見えないままの、手さぐり。野放しの「野」は「野生」の「野」。そう、手が野生になって、いや「野性」かな?、何か知らないもの、そうではなくてもっともよく知っているものになって、なにかを「している」。それに女の野生、野性が目覚める。野生と野性の交歓。
 そうしたらさあ。

(きょうは けんきね こえのはりもいいし

 あらら、素直な感想。やっぱり、セックスは「声」が大事。とくに、真っ暗闇の中では「声」が興奮を呼び覚ます。
 あとは、もう、テキトウ、というか、「正確」な読み方なんか関係ないね。
 ことばを読むということは、ことばに読まれること。ことばに読まれて、私のことばがどこまで変わっていけるか。

僕が 夢中で詩の話を しているとき
あなたはおそらく こう感じている
(きょうは 元気ね 声の張りもいいし

 なんて読んでいると、山本の詩のことばを「文法」で修整して読むことになってしまう。ピカソの描いた、目があっちを向いたりこっちを向いたり、尻の丸みとヴァギナが正面から描かれた絵を、頭の中で修整するようなもの。そんなことをしていたら、ピカソの絵にならない。さっかく「書き方の文法」を破壊して書いてくれているのだから、いまこそチャンス。その破壊を借りて、どこまで私自身の「書き方、読み方の文法」を破壊して、山本が書こうとしていないことまで読み進めることができるか試してみたい。
 ことばは、一音ずつ正確にならんでいるのではない。見た瞬間、聞いた瞬間、子音も母音もいれかわる。濁音、清音の区別以上にね。

こんなにとしかはなれているのに

 なんて、「学校文法」にあわせて修整すれば「こんなに年が離れているのに」だけれど、それそそれでセックスのときおもしろいかもしれないけれどと脱線しながら、私は、

こんなことはしなれているのにね

 「セックスなんてし慣れているのにね」(もう十分知っているはずなのにね)と読んで、「こんなことで死なれては(こんなところで先に逝ってしまうなんて、だめだよ)」と読んで、さらに。

あなたは ほくの ことはの いみ
しゃなくて ほくの そんさい を
まること りかいして きたんたね

 これは「あなたは僕のことばの意味/じゃなくて、僕の存在を/丸ごと理解してきたんだね」ではなく、

あなたは 僕のことを 意味(精神)
じゃなくて ぼくの 存在(肉体/セックス)を
丸ごと 理解してきたんだね

になる。「ことば」なんか理解しなくて言い。「肉体」を丸ごと受け入れる。「意味」なんて、どうにでもなる。まず、その「肉体(存在)」を受け入れることが大事。「理解」なんて、あとからすればいい。
 「意味」なんて、だれかの都合にあわせてあとからつくられた「修整された形式」(共有を強要する形式)にすぎない。
 だから。
 いきなり知らない外国語を読むように、強引に、自分の知っていることばで読む。それは、自分のことばを読むこと。詩に対して、自分のことばを読ませることだ。
 ここから、ことばの「交歓」が始まる。「強姦」じゃないよ。「睾丸」に脱線して、「紅顔」でごまかさずに、「厚顔」で乗り切ろう。そういうことも「交歓」だからね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(28)

2022-01-05 11:56:55 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(28)

(小さな黄色の花)

小さな黄色の花に
小さい白い蝶がとまった
見る歓び
今日が始まる

大きな混沌に
宿る
小さな秩序

タンブラーが
指を離れ
床へ落ちていく
一瞬

時を
凍らせる
言葉という破片

 「見る歓び」を、私は、花の歓び、蝶の歓びと読みたい。床に落ち砕けるガラス。そのとき「凍る」のも、ガラスのことば、床のことばと読みたい。ことばは詩人だけのものではない。

 

 

 

 

(姿なく)

姿なく
その道を行く
あのひとは誰?

時を嘲り
死を友として
未知の幻へ
人をいざない

終わりなく
問いつつ
答え

かりそめの
コーダに憩う
あのひとは
誰?

 姿がない。でも、どうして「あのひと」が見えたのか。「その道」は実在なのか。最初に存在するのは「道」なのか「ひと」なのか。私は「ひと」と読む。「ひと」を思い浮かべたとき、そこに「道」が始まる。

 

 

 

 

 

(昨夜から)

昨夜から今朝へ
夢無く
生きた

幾万の
胎児とともに
秋桜の
蕾とともに

眠りの
無心
目覚めの
苦に

些事の
淡い

 「目覚めの/苦に」の「に」は何だろうか。後に何が省略されているのか。この問は「些事」か。私は判断しない。ただ、この「に」につまずいた、と書く。その瞬間、見えたとも言えない「光」、暗い光を感じた。

 

 

 

 

 


(水平線で)

水平線で
陽炎に
揺れている
遠い誰か

そこへと
夢が
泳いで行く

頑なに
沈黙する
椅子と

言葉の
無垢受胎の

 「頑な」と「無垢」。「頑な」には意思があるが、「無垢」には意思がない。だから「頑な」には拒絶感がともなうのに、「無垢」は逆に拒絶感がない。「無垢」がさまよいだすのは「幻」に騙されてか。

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(27)

2022-01-04 11:57:20 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(27)

(死の色は)

死の色は

まばゆさに
目を瞑る

ざわめきの
静まる
今日

慎ましく
黒は
隠れる
人の無明に

古の
金の輝き
鉄の錆

 「無明」は色だろうか。白と黒のあいだにある灰色かもしれない。この灰色は仮の名前で、ほんとうはまだ名前のない色。さわがしい灰色、静かな灰色。灰色は、いくつあるかもわからない。

 

 

 

 

(無はここには)

無は
ここには
ない

どこにも
無い
宇宙にも
心にも

無は偽る
文字で
詩で
こうして

無いのに
時に
有るに似る

 「偽る」と「似る」は微妙な関係にある。「偽り」のなかには事実に似たものがある。似ているから、ほんものと間違える。Aを以てBと為す。騙すは馬ヘンだが「偽る」も「似る」も人ヘンである。罪深い。

 

 

 

 


(水平線で)

水平線で
陽炎に
揺れている
遠い誰か

そこへと
夢が
泳いで行く

頑なに
沈黙する
椅子と

言葉の
無垢受胎の

 「頑な」と「無垢」。「頑な」には意思があるが、「無垢」には意思がない。だから「頑な」には拒絶感がともなうのに、「無垢」は逆に拒絶感がない。「無垢」がさまよいだすのは「幻」に騙されてか。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇131)Jose Enrique Melero Blazquez

2022-01-04 10:20:49 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez 
Colección nudos. AC06

El hierro que crece hacia un nuevo "nudo".
El hierro no solo busca un "nudo".
Extiendo la mano para agarrar firmemente algo que no puedo agarrar o que está fuera de su alcance.
El "nudo" en este trabajo no es un "obstáculo". Es una prueba de que ha agarrado algo.
El "nudo" de abajo es cosa del pasado. Un hierro hinchado, buscando año nuevo, algo nuevo y la posibilidad de que ni siquiera exista todavía.
Estoy emocionado por su poder y su ganas.

¿Qué alcanzaré en 2022? ¿Qué puedo agarrar? Nunca estoy satisfecho. Quiero apuntar a algo nuevo.
Mirando el trabajo de José, penso que sí.

新しい「結び目」をめざして伸び上がる鉄。
鉄は、ただ「結び目」をめざしているのではない。
つかみきれない何か、手の届かないところにある何かをしっかりと握りしめるために手を伸ばしている。
この作品の「結び目」は「障害」ではない。何かをつかみ取った証拠なのだ。
下の「結び目」は過去のこと。新しい年、新しい何か、まだ存在さえしてしない可能性を探しながら、うねる鉄。
その力、その欲望に、私は興奮する。

2022年、私は何に手が届くか。何をつかみ取ることができるか。決して満足しない。新しいものをめざしたい。
ホセの作品を見ながら、そう思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「予告された殺人の記録」の訳文

2022-01-03 21:36:23 | その他(音楽、小説etc)

 ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」。野谷文昭の翻訳で新潮社から出ている。私が持っているのは1983年4月5日の発行。
 信じられないような「誤訳」がある。バジャルド・サン・ロマンから大事な家を大金で奪われた老人が「二年後」に死亡する。しかし、翻訳では「二カ月後」になっている。「底本」が違うのかもしれないが、私のもっているスペイン語版は「2年後 dos años después」である。「dos meses después 」ではない。私の読書の手伝いをしてくれているスペイン人は、私とは違う版を持っているのだが、「dos años después」である。別の友人が送ってくれたPDFでも「dos años después」である。
 この初歩的な「誤訳」はどうして生まれたのか。
 また、「二カ月後」ならば、ストーリーの展開は違ってきたかもしれない。大騒ぎになって、バジャルド・サン・ロマンは結婚できず、したがって小説の一番の事件「殺人」が起きなかった可能性もある。
 いまはどうなっているか知らないが、問題が多い訳である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ、安倍晋三なのか(2)(情報の読み方)

2022-01-03 21:02:59 |  自民党改憲草案再読

なぜ、安倍晋三なのか(2)(情報の読み方)

 あまりにばかばかしいので書くのをやめようかと思ったが、このばかばかしさは書かずにおいたらきっと問題になる。
 2022年01月03日読売新聞(西部版・14版)の4面に、「語る新年展望」の2回目。だが、ノンブルは「1」のままである。そして、なんと「1日掲載の続き」とカットの下に注釈がついている。これはほんらい、1面に「頭出し」があって、そのつづきであることを知らせるためのものである。「1日掲載の続き」ならば「2」になるはずである。1日の紙面で1面に「頭出し」(といっても、分量から言うとトップ記事になるはず)をして、それを4面で受ける。それが、どういう理由かわからないができなかった。しかし、同時掲載ができなかったらできなかったで「2」にしてしまえばいいのに、それもできないので「1日掲載の続き」になった。
 背景には二つの理由がある。
①1日の紙面会議で1面トップを何にするかで、編集局内で対立があった。1月1日の1面トップというのは、当日決まるというよりも、綿密に準備するのがふつうである。安倍のインタビュー記事で決定済みのはずだった。それが当日の局デスクが反対し、4面掲載になった。
②しかし、取材側(聞き手 編集委員・尾山宏)では「1面トップ」(4面に連動)ということで、安倍と話をつけてきた。それが急遽変更になったために、連載の2回目を「2」にするのではなく、あくまで「1」であることを強調するために「1日掲載の続き」とことわりを入れる。なぜか。「2」にすると、1日の新聞を読んでいない読者(元日に政治面まで読むような読者は少ない)は「安倍は2番手か。1番手はだれだったのだろう。(やはり、安倍はもう過去の人なのだ)」という印象を持つ。これではいけない。安倍への「約束違反にもなる」。だから、なんとしても「1」であることを印象づける必要があったのだ。
 ここからわかること。
 読売新聞内部にも「安倍晋三信奉者」以外の人間がいる。しかし、それは完全に「安倍信奉者」の勢力を上回っているわけではない。「安倍信奉者」の勢力は、新聞の「体裁」の変更を要求し、押し通すだけの力を持っている。連載を「2」にしても何の問題も起きない(少なくとも、読者は、また安倍のつづきかと思うだけである)のに、「印象操作」にこだわり、それを押し切るだけの力を持っている。
 これは、日本の政治の「先行き」を予測する上で、とてもおもしろいことだ。自民党内にも、安倍ではだめだという勢力と、やっぱり安倍でないとだめだという勢力が拮抗しているのかもしれない。読売新聞は「安倍でないとだめだ」に肩入れし、その方向で「印象操作報道」を試みていることになるのだが、たぶん、他のマスコミもその方向に向かって動くのだろう。そして、安倍が「再々登板」をするという方向で動いていくのだろう。
 今回の記事の最後にこう書いてある。

 私の体調はだいぶ回復しました。ただ、薬の投与は続いており、完全に、というわけではありません。再々登板の可能性をよく聞かれますが、私が「もう1回挑戦します」と言ったら、みんな腰を抜かすでしょうね。それは考えていません。

 「再々登板」を一応否定する形になっているが、安倍が再々登板に挑戦するといえば、「みんな腰を抜かす」のではなく、「みんなから袋叩きにあう」というのが一般的な見方ではないのか。少なくとも私は「腰を抜かさない(驚かない)」。石を投げつけてやりたい気持ちになる。そういう人がいることを安倍は認識していないし、聞き手の尾山宏もきっとにこやかに「いやそんなことはありませんよ」と言いながら、記事の締めはこれでいいですね、というようなことを語ったのだろう。「みんなを驚かしてやりましょう。やっぱり安倍さんしか頼りになる人はいないんですよ」とかね。だからわざわざ「私の体調はだいぶ回復しました」と言わせてもいるし、それを印象づけるように、最後に語らせている。

 胸くそが悪いというか、腹が立って仕方がないというのは、こういうことである。今回の安倍の記事で読むべきことは、安倍の思想ではなく、安倍をよいしょし、まだ安倍に縋ろうとしているマスコミがあるということ、それはどういう報道の仕方をするか、ということだろう。
 読売新聞の姿勢が、非常によくわかる連載のスタートである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(26)

2022-01-03 14:36:35 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(26)

(欲は涸れず)

欲は
涸れず
死に
向かう

善悪
不問
美醜を忘れ

庭の
若木
見守る

守られて
いる

 三連目。若木「を」見守るか、若木「が」見守るか。「美醜を忘れ」のつづきで言えば「若木を見守る」だろう。しかし、私は「若木が見守る」と読んだ。だから四連目は「若木に見」守られていると自然につづいた。

 

 

 

 


(死は私事)

死は
私事
余人を
許さない

悲苦を
慎み
生は静まる

色から
白へ
色から
黒へ

いつか
透き通る
現世

 「死は私事」というが、死は実感できるのだろうか。「死んだ」と私は納得できるだろうか。想像できない。私の知っている人は死を「自覚」して死んで行ったように見えるが、自覚は予測にすぎない。不透明だ。

 

 

 

 

 

(残らなくていい)

残らなくていい
何ひとつ
書いた詩も
自分も

世界は
性懲りもなく
在り続け

蝶は飛ぶ
淡々と
意味もなく
自然に

空白が
空を借りて
余白を満たす

 「淡々」「意味がない」「自然」。三つが同じものとして書かれている。「空白」を「余白」にかえるとき、谷川は「空」を借りている。「淡々と/意味もなく/自然に」だろうか。これは谷川の蝶になった夢だろうか。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇130)Jose Enrique Melero Blazquez

2022-01-03 10:48:38 | estoy loco por espana

Obra Jose Enrique Melero Blazquez
IND,2022

Al mirar el trabajo de José, me sorprendo lo flexible que es el hierro.
Pero no solo es flexible.
La superficie es rugosa. El óxido está a punto de invadir el interior.
El hierro está vivo mientras lucha contra el óxido invasor.

Al igual que este trabajo, el trabajo de la serie "nudo" también tiene algo que recuerda a un dulce japonés llamado "kinako nejiri".
José conoce este dulce?

ホセの作品を見ていると、鉄はこんなにしなやかなのか、と驚かされる。
しかし、ただしなやかなだけではない。
表面がざらざら荒れている。錆が内部へ侵略しようとしている。
その侵略してくる錆と戦いながら鉄は生きている。

この作品もそうだが、「結び目」シリーズの作品も、どこか「きなこねじり」という和菓子を思わせるものがある。
ホセは知っているだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇129)Joaquín Llorens

2022-01-03 10:45:09 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro óxido
58x37x29
S. M. N.

 

Es el Mediterráneo al atardecer o el Mediterráneo al amanecer?
Las suaves olas parecen un humano nadando o un delfín.
El rojo muy silencioso del óxido es impresionante.
Las sombras en las paredes nos recuerdan la profundidad y transparencia del mar.
Muchisimas gracias por hermosa obra.
un abrazo fuerte.

夕焼けの地中海か、それとも朝焼けの地中海か。
穏やかな波は泳いでいる人間にもやイルカにも見える。
錆のとても静かな赤が印象的だ。。
壁の影は海の深さと透明感を思い起こさせる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「パイドン」再読

2022-01-02 15:40:08 | プラトン再読

「パイドン」再読(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)

 「パイドン」には「魂について」という副題がついている。私は「魂」の存在を確信していない。実感できない。その私が「パイドン」をどう読んでいるのか。そのことを確かめるために、再び読み始めた。テキストは岩波書店から出ている全集。訳者は松永雄二。
 私はいつの場合も「結論」をめざしているわけではない。強いて言えば「魂」について考えることが「結論」になる。だから何のめどもなく、ただ思いついたままに書いていく。(引用の末尾の数字はページ。ワープロでは出てこない漢字は、テキトウに意味が通じる文字をつかった。)
 最初に私がうれしくなったのは、次の部分。

ソクラテスを思いだすというのは、自分で語るにしても、ひとから聞くにしても、いつもわたしにはこのうえないよろこびなのですから!(159)

 これは孔子の「友あり遠方より来る」を思いださせる。人と一緒に知っていることを語り合うのは楽しいことだ。協力して知っていることを思いだすのだ。
 死を前にして、こういう喜びをソクラテスは持った。共有した。まず、このことが一番うれしい。私は、その喜びに誘われて、「パイドン」を読む。

詩人というのは、いやしくもほんとうにつくるひと(ポイエーテース)であろうとするならば、けっして事実の語り(ロゴス)をではなく、むしろ虚構(ミュートス)をこそ、詩としてつくるべきだ(166)

 「魂」が登場する前に「詩/詩人」が出てくる。「詩」とは、ことばである。
 私自身、詩を書き、詩の感想も書いているので、この「魂」について書かれた「パイドン」は、どこかで詩と交錯するだろうと思う。

ソクラテスは、ケベスのこの問題の追求ぶりに、よろこばれた様子にみえました。(173)

 問題の追求。これは、ことばを動かすことである。ことばが「事実」を、あるいは「真実」をと言うべきか、何かを求めてかってに動いていく。かってに、と書いたのは、いまソクラテスは死刑寸前である。そのときに死刑のことなど気にしないで、自分が気にかかることの方へ向けてことばを動かす。あるいはケベスのことばは、かってに動いていく。ここに、私の関心がある。ことばは、なぜ、そんなことをしてしまうのか。そして、このことばの暴走(?)をソクラテスは喜んでいる。
 そして、ソクラテスはその問に答えられるかどうか「わたしに試みさせてくれ」(174)と応える。ソクラテスは「結論」(答え)を知っているわけではない。これから考えるのだ。私がソクラテスから学んだものがあるとすれば、まず、これだ。「答え/結論」など知らない。だから考える。
 その考える途中(対話の途中)で、「シミアスは笑いだした」(177)。これも、私はとても気に入っている。考える途中で(たとえば詩を読んでいる途中で)、私は笑いだしてしまうことがある。それは、何と言えばいいのか、ことばがかってに笑いだすのである。何か知らないこと、予想外のことが起きて、タガがはずれる。「ソクラテスは、ケベスのこの問題の追求ぶりに、よろこばれた」というのも、このタガがはずれる瞬間だろう。それは、ことばを、新しい活気の中へ引き込むのだ。
 こういうことが、「魂」を語り合うことの出発点というか、「助走」になっている。

 「魂」はいつ登場するか。「死とは何か」を問題にしたとき、あらわれる。「魂」が最初に登場するのは178ページである。死とは……。

魂が、肉体から離れ別れることではないだろうか。(略)魂が、からだから分離されて、まさに魂だけのもの、となることではないだろうか。(178)

 「たましい」は「ソクラテスの弁明」には「たましい(いのちそのもの)」という表記で出てきた。(訳・田中美知太郎)その定義を流用するならば、「いのちそのもの」が肉体から離れ「いのちそのもの」になる。しかし、「肉体」を離れ「いのち」というのはあるのか。ふつうに考える「人間の肉体」とは別のなにかがあることにならないか。別の「いのち」があることにならないか。
 どこに、それがあり、それは何と呼ばれるものなのか。

魂に、まさに存在するもののなにかが晰らかとなる場がどこかにあるとすれば、それは思惟のはたらきのうちにおいてではないだろうか。(181)

 私のことばの「よりどころ」は、ここである。「思惟のはたらき」というものがある。「魂」はどこに存在するか、私は確信がもてないから魂の存在を私は信じない。しかし「思惟」というものがどこにあるかは確認することができる。「ことば」のなかにある。「ことば」はソクラテスがそうしたように話しているときは、つぎつぎにあらわれて消えていく。ほんとうに存在するかどうかわからないが、プラトンがそうしたように書いてしまうと存在としてあらわれ、残る。ことばをたどると、「思惟」がどうかわっていったか(はたらいたか)、確認できる。
 私は「思惟のはたらき」を「思惟の運動」「ことばの運動」と、自分なりに言いなおしている。この「思惟のはたらき/ことばの運動」が「いのちそのもの」ではないのか。

 ソクラテスは「真実」は「肉体(目や耳)」を通してはつかみきれない。「魂(思惟のはたらき)」を通して近づきうるものであると考える。その考えの途中で、こういうことを言う。

からだ(肉体)をつうじては、それらのもつ究極の真なるかたちは観られるだろうか。(略)みずからの考察の向うべきものとした、そのおのおのを、まさしくそれそのものとして思考しようとする態度を、最大限にまたもっとも正確におのがものとしているようなひとがあれば、--そのひとこそが、まさにそのおのおのを知ることに、もっとも近くまでいたりうるのではないのだろうか。(略)おのおのの存在に向うのに、あたうかぎり思考それのみをもってし、つまりはどのような視覚をも、思考する過程につけ加えることもなければ、他の感覚のいかなるものも、これを引き入れて思惟することのはたらきに伴わせることのない人ではなかろうか。(183)

 「からだ(肉体)」がある一方、「思惟(思考)」がある。「思惟のはたらき」は「ことばのはたらき(運動)」である。人間に「肉体(からだ)」があるなら、「ことば」にも「からだ(肉体)」があると言えるのではないか。
 私はよく「ことばの肉体」という表現をつかうのだが、私が「ことばの肉体」という表現を思いついたのは、この部分が影響している。
 「人間の肉体」は完全に個人のものである。「ことばの肉体」も基本的に個人の物である。それぞれが固有の「ことばの肉体」を持っていて、それを私はたとえば「プラトン語」とか「ソクラテス語」とか「鴎外語」と呼んだりする。そして、その「ことばの肉体(固有の言語)」は奇妙なことに、固有の存在であると同時に「共有される肉体」でもある。他人の肉体を「使用する」ときは、たとえば会社の労働のように労使関係が生じ、賃金を支払わなければならなかったりするが、「ことばの肉体」はつかうひとの自由になる。自由になるといっても「ことば」にも「肉体」があるから、思いどおりには動いてくれない。「ことばの肉体」が反乱をおこすこともある。あるいは「ことばの肉体」がかってに予想外の場まで思考を連れていってくれることもある。

 私は「肉体」ということばをつかうことで、いわゆる「肉体」と「ことばの肉体」をつなぎあわせようとしている。「肉体」と「魂(思惟)」という「二元論」ではなく、ただ「肉体」というものだけがあるという「一元論」を考えたいと思っている。
 「ことばの肉体」の一方、「肉体」だけではなく、「肉体のことば」というものもあると考えている。「肉体」で実際に存在するものに触れる。存在を確信する。そしてその存在に働きかけるとき「肉体の運動」がある。この「肉体の運動」は「ことば」に影響する。「肉体」のはたらきかけがなければ、「ことば」は変化しようがない。「ことば」は「人間の肉体」を手がかりにして、具体的に言いなおせば動詞を手がかりにして、「ことばの肉体」を確立し始める。「人間の肉体」を動かすときの「動詞」を、「ことばの肉体」を動かすときの動詞として「共有」するのである。ここでも、手がかりは「肉体」だけである。「肉体」が「共通項目」なのである。

 

 

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(25)

2022-01-02 09:35:04 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(25)

(問いに)

問いに
答えはなく
いつもの

棚の土偶の
古代の
ほほえみ

日常と
地続きの
朝の
永遠に

安んじて
不可知に
親しむ

 「親しむ」は二連目の「ほほえみ」から始まっている。その「ほほえみ」が「古代」のものならば、「親しむ」という動詞も古代からのものだ。「問いに/答えはない」というのも「古代」から「地続き」の「永遠」だ。

 

 

 


(どこ?)

どこ?
と問えば
ここ

天の下
地の上で

一つ

いつ?
と問えば
いま

岩より若く
刻々に老いて
鬩ぎ合う
人と人

 「岩」という漢字は「若」に似ている。「老」に似ているのは何だろう。石も砂も似ていない。「鬩ぐ」は門構えに「兒」。争うのは「若い」からではなく「幼い(児童)」だからか。幼・若・老。「命は一つ」。

 

 

 

 

 

(なんでもない)

なんでもない
なんでもないのだ
空も
人も

未来のせいで
思い出が消える
行けば海はあるのに

呪文は
魂の深みに
とぐろを巻く

穏やかに
過ぎるのがいい
時は
そして星々も

 「魂」。「ソクラテスの弁明」のなかに「たましい (いのちそのもの) 」という表記がある。谷川がここで書いている「魂」は「いのちそのもの」と言いなおすことができるか。魂を実感できない私にはわからない。

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ソクラテスの弁明」再読

2022-01-01 22:35:24 | プラトン再読

「ソクラテスの弁明」再読

 「ソクラテスの弁明」再読、と書いてみたが、再読ではない。何度も読んでいる。傍線が何本も引いてある。余白にメモも書いてある。だが、いつもそうなのだが、再読するたびに、「初めて読む」という感じがする。
 最初に「ソクラテスの弁明」を読んだのは、高校二年のときだと思う。「倫理」の授業、そういう科目があったかどうかはっきりしないが、授業で読んだ。「国語」でないことだけは確かである。そのとき、どう思ったか。何も覚えていない。非常に、ひっかかるものがあった。死刑になるなんて馬鹿な男、と思えない何かがあったのだ。あれは何だったのか。その答えは、見つからない。だから、「初めて読む」がつづいているのかもしれない。
 きょう、私は、

たましい(いのちそのもの)

 ということばに傍線が引いてあるのを確認した。(「プラトン全集」1、岩波書店)84ページ)傍線が引いてあるから、何回目かに読んだとき、そのことばが印象に残ったのだろう。何か考えたのだろう。何を考えたのか、もちろん思いだすことができない。
 きょう思ったのは。
 私は「魂」ということばを、いまはつかわない。若いときに、多くの詩人のまねをして詩の中に書いたことがある。でも、どうしても落ち着かない。嘘っぽい。私は「魂」というものを見たことがない。人がつかっているからつかってみた、ということなのだが、つかってみて感じた「嘘っぽさ」が尾を引いている。それは、私がつかってはいけないことばなのだ。
 いっぽう、「いのち」はどうか。これは、よくつかう。「肉体」という意味とほとんどおなじ意味でつかっている。「魂」とは「肉体そのもの」である。あ、この定義なら、私には納得できる。傍線を引いたときも、そう思ったのか。それに近いことは考えたのだと思う。
 「魂」に似たことばに「こころ」というものがある。「精神」というものもある。「こころ」も「精神」もどこにあるかは、わからない。だが「肉体」は「全体」として、そこにあることがわかる。手がある。足がある。目があり、耳がある。実際に目で見たり触ったりしたわけではないが、脳や心臓、内臓があることも知っている。それをつないでいるものが「いのち」であり、その全体が「肉体」。切り離さない。分離しない。分離してはいけないものが「いのち」である。
 これ以上は考えない。ことばを動かすと、また嘘が始まる。私は「魂」ということばをつかうのではなく「いのちそのもの」ということばをつかうことで、ソクラテスの考えたことを考え続けようと思う。「こころ」や「精神」も「いのちそのもの=肉体」と言い換えることで私の言いたいことが言えるかどうか、それを考えよう。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇128)Joaquín Llorens

2022-01-01 20:17:38 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro 
70x50x30
Serie. Cuatro elementos

Esta forma misteriosa.
Me recuerdo el poema Ginkgo de Goethe.
¿La hoja de ginkgo, es originalmente una o dos ?
¿Una hoja se trata de dividir dos?
¿Dos hoja se trata de convertir en uno?

¿Este trabajo tuyo, su origen es uno o dos?

Lo que puedo ver en su trabajo es sustentarse los dos partes.
El de abajo soporta el de arriba que no cayera.
El de arriba soporta el de abajo que no temble.
Los dos están atados y estables.
Además, hablan de misteriosos sueños y contradicciones.
¿Es esto originalmente uno o dos?


¿Cuándo ví este trabajo por primera vez?
Recuerdo haber escrito que sería aún más interesante si este trabajo fuera enorme.
Creo que sería genial si la altura fuera de unos 2 metros.
Es muy emocionante incluso con su tamaño actual.

この不思議な形。
私はゲーテの銀杏の詩を思い出す。
銀杏の葉は、もともと一枚だったのか、二枚だったのか。
それは一枚だったものが二枚に分かれようとしているのか。
二枚だったのもが一枚になろうとしているのか。
君のこの作品は、一個だったものが二個になろうとしているのか。
二個だったものが一個になろうとしているのか。
私にわかることは、君の作品は、二つのものが支えあっているということ。
下にあるものは、上から倒れてくるのを支えているわけではない。
上にあるものが、下のものが揺れるのを支えているわけではない。
二つが結びついて、安定している。
しかも、それは不思議な夢と矛盾を語っている。
これは、もともと一つ? それとも二つ?


この作品を最初に見たのはいつだったか。
私は、この作品が巨大なら、いっそうおもしろいだろうと書いたと記憶している。
いまでもかわらない。
高さが2メートルくらいあったら、とてもいいと思う。
今の大きさのままでも、とても刺激的だが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ、安倍晋三なのか

2022-01-01 18:15:01 |  自民党改憲草案再読

なぜ、安倍晋三なのか。

 2022年01月01日読売新聞(西部版・14版)の4面に、「語る新年展望」という連載が始まった。「有識者」インタビューだが、その1回目が安倍晋三である。こういう「企画」は読売新聞は、もともと1面でスタートさせた。岸田ではなく安倍であるところに問題があって、4面になったのかもしれない。「いくらなんでも、前の前の首相のことばが1面トップではおかしいだろう」という声があったのかもしれない。私も、そう思うが、扱いが1面から4面にまわったとしても、やはり違和感を覚える。なぜ、2022年の展望を語るのにトップバッターが安倍なのか。
 しかも、安倍は、ここで岸田にこんな注文をつけている。
↓↓↓↓↓
 岸田首相には、対中国でフロントライン(最前線)に立っているのは日本であり、日本こそ各国をまとめるリーダーシップを発揮しなければならない、ということを意識してもらいたい。
↑↑↑↑↑
 私は岸田を支持しているわけではないが、これはあまりにも奇妙な注文ではないか。
 自民党以外の人間ならまだわかるが、自民党が選んだ総裁の姿勢に、総裁をやめた人間が注文をつける。注文をつけるくらいなら、安倍が総裁をつづければよかっただろう。辞任しておいて、後継者の後継者にまで注文をつけるとはどういうことなのだろうか。安倍は、まだ「トップ」のつもりなのか。
 そして、それをそのまま記事にする読売新聞の「見識」はどこにあるのか。岸田よりも安倍がいい、安倍を支持するということなのか。たぶん、そうなのだ。安倍の「返り咲き作戦」が読売新聞の手で進められようとしているのだ。

 では、安倍を返り咲かせて、どういう「世界展望」をもくろんでいるのか。
↓↓↓↓↓
①今年最大の焦点は、台湾情勢です。中国に現状変更の試みをやめさせる努力が欠かせません。
②台湾有事となれば、沖縄・尖閣諸島も危機にさらされます。日本は、日米同盟を強化するとともに、自らの防衛力を高めなければなりません。
③今、領土を奪われる危険にさらされているのは日本です。
↑↑↑↑↑
 中国が台湾を侵略するかもしれない。これが「台湾有事」と呼ばれるもの。そのとき危機にさらされるのは台湾である。中国は一貫して「台湾」を国人は認めていない。中国の一部であると主張している。日本政府の基本的立場も同じだし、読売新聞も同じである。(台湾を「国」と表記した寄稿原稿を、書き直させるくらいである。)沖縄・尖閣諸島は台湾に地理的に近いが、中国は沖縄・尖閣諸島は中国の領土であるとは主張していない。尖閣諸島については議論はあるが、台湾に対する主張とは違うだろう。どうして、「今、領土を奪われる危険にさらされているのは日本です」と言えるのか。その根拠が、まったく説明されていない。
 このことに関係する問題はふたつ。まず、その一。
↓↓↓↓↓
 「自由で開かれたインド太平洋」の構想を提唱し、中国の振る舞いに対してずっと警鐘を鳴らしてきた日本が、いざという時に後ろに引けば、協力してくれる国々から「何だ、日本は。口先だけだったのか」と見られてしまう。
↑↑↑↑↑
 「自由で開かれたインド太平洋」というのであれば、中国がインド太平洋で行動を制限されるのはなぜだろう。「自由で開かれたインド太平洋」とは中国の行動を制限するためのものでしかない。日本が自由にインド太平洋を航行できるを言いなおしたものにすぎない。「自由で開かれたインド太平洋」が「口先だけ」のことなのに、中国批判が「口先だけだったのか」と他の国から見られたからといって、どうということはあるまい。だいたい、武力に頼らず「口先だけ」で相手を説得するのが「外交」だろう。「口先(言論)」を放棄して、論理を展開するのは別の目的があるからだ。
 それが問題点の二つ目。
↓↓↓↓↓
 変則的な軌道で飛ぶ北朝鮮の弾道ミサイルや、中露の極超音速滑空兵器に、今のミサイル防衛体制は太刀打ちできません。新たな矛に対処する盾を日本が持つ頃には、もう次の矛が出来ている。これ以上、ミサイル防衛に資源を投入するより、打撃力を持つ方が合理的なんです。
↑↑↑↑↑
 これは「防衛」は無意味だ。「防衛」するより「敵(基地)攻撃」の方が「合理的」と言っている。そんなことを言えば、中国も北朝鮮もそう考えるだろう。日本はどんどん軍備を増強している。「防衛」を考えるよりも、日本攻撃を考える方が「合理的」だ。日本から核ミサイルを打ち込まれる恐れもない。日本の背後にはアメリカがいるが、アメリカを直接攻撃するよりは日本を攻撃する方が「合理的」だ。アメリカとも和解しやすい。どうしたって、そう考えるだろう。
 日本に安倍がいれば、中国にも安倍のような考え方をする人間がいるに違いない。「防衛よりも敵基地攻撃が合理的」と考える人間がいるはずだ。
 問題は、武力増強が、ほんとうに「合理的」であるかどうかである。
 武力は人を殺し、生活を破壊する。それ以外の何の役に立つか。役立つとしたら軍需産業を儲けさせるのに役立つだけだ。日本がアメリカから軍備を購入すればアメリカの軍需産業が儲かるだけだ。アメリカの軍需産業が儲かれば、アメリカの軍需産業はバイデンを支持するだろう。それは、けっして安倍を支持するということでも、岸田を支持するということでもない。単に、安倍、岸田を利用するというだけのことである。
 そんな無駄遣いをするよりも(安倍にとっては、首相.に返り咲けるわけだから無駄遣いとは考えないのだろうが)、新しい魅力的なデジタル製品を開発するとか、画期的な電気自動車開発することに力を注いだ方が、日本を発展させるのに有効だろう。自民党は2012年の改憲草案の前文に「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と書いている。なぜ「経済活動」なのか、私には疑問だが、「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」がほんとうの願いなら、「活力ある経済活動」を促すために何をすべきか提言すべきだろう。自分の金儲けではなくて。
 読売新聞も同じ。安倍批判をしたら電通から広告を回してもらえなくなるということを「身内」のことだけを考えるのではなく、「活力ある経済活動」とは何なのか、それを支えるために言論はどうあるべきなのかを考えた方がいいだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする