詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子忠政『楔、アリバイ』

2022-02-19 12:04:48 | 詩集

金子忠政『楔、アリバイ』(快晴出版、2021年10月19日発行)

 金子忠政『楔、アリバイ』は、文字が小さくて、かなり読みづらい。ページも多い。詩集は、いつごろから、こういうスタイルになったのだろうか。わたしはもっと気楽に読める本が好きだ。
 「しじま-森の口寄せⅡ」の書き出し。

ざんざか、ざんざか
打たれに打たれ
ひかる地面をみつめ
胸元に噛みついてきて
むざむざ淀んでいるそれを
どこにぶつけたらいいのか、
不穏にぬめりこむことなく
噴く火はかぼそい

 金子は「耳」で、あるいは「喉/口蓋/舌」でことばを動かす詩人なのだろうと思った。「ざんざか、ざんざか/打たれに打たれ」という二行が象徴的だが、ここにあるのは「意味」というよりも「音」である。「意味」はあとから探し、くっつければいい。「意味」とはもともとそういうものだろうと思う。
 いま、これから、私が書こうとしていることも、そのひとつである。
 金子は音を繰り返しながら、音を探している。「ざんざか、ざんざか/打たれに打たれ」のような音は、簡単にはみつからない。簡単に見つかってしまえば、それは単純「方法」になってしまって、「声」をだすときの悦びが消える。
 「ひかる地面をみつめ/胸元に噛みついてきて」という二行では、ま行の音と「い」を含む音が交錯する。ま行。「み」つめ、「む」な「も」と、か「み」ついて。「い」。「ひ」かる、じ」めん、「み」つめ、むなもと「に」、か「み」つ「い」て「き」て。
 「むざむざ淀んでいるそれを/どこにぶつけたらいいのか、」には「むざむざ」という反復の音があり、「む」は「ぶ」つけると暗黙の出会いをする。それは「不穏にぬめりこむことなく/噴く火はかぼそい」の「ふ」おん、「ふ」くに通じ、か「ぼ」そいへと変化していく。
 濁音に関しては、人の好みはわかれる。「濁」という漢字が示すように、それは濁っていて「汚い」という印象を持つひとがいる。「清音」は清らかだ。これは、「耳」の印象。しかし、「喉」から言うと、濁音は清音に比べて「豊かさ」に富む。簡単に言えば「有声音」である。この官能を覚えてしまうと、ちょっと抜け出せない。

辻の地蔵はざらざらの頭を
右の手のひらでかるく叩く
ペタ、ペタ、ペタ

 ここは半濁音。「ざらざら」「ペタ、ペタ、ペタ」も「意味」ではなく、音だ。

ひとみを、
せせらぎへ静かにひたし

水がしわぶき緑が応じ
青空にひかりをあびせられ
小石が足下にあり
素足にしんみりと、

 こういう行は「描写」というよりも、「音楽」である。実際に「情景」を思い浮かべることが詩の理解につながるというよりも、「音」を聞き取る方が、金子の「ことばへの欲望」と直結するだろう。
 「焚書」という短い詩にも、そういうものを感じる。

紙の本を
澄んだ空気に
パタパタ震わせ
おとしめる言葉を探し
頁を破りつくすため
語りきろうと
思いを切り、……
はるか遠方、
砂埃にかすむ僧院の悲劇を
わくわく切り崩す

 「はるか遠方」より「はるか彼方」の方が、か行が響きあうかとも思うが、金子は、えん「ぽ」う、すな「ぼ」こり、えんぽ「う」、そ「う」いんを好んだのだろう。とくに「僧院」を登場させるには「遠方」がなんとしても必要だったのだと思う。金子の「声」には。「寺院」や「教会」「砦」では詩にならないのだ。「意味」ではなく、「音」だからね。「声」だからね。

 こういう詩は、むずかしいね。
 「意味」の愛好者は多いが、「音」の好みはかなり生理的。おなじ「音」であっても、たとえば私はモーツァルトは不機嫌なときはいらいらしてしまう。体調が悪いときもぞっとしてしまう。きょうの体調にあわせ、私はふたつの詩を引用した。あす書いたら違う詩を引用するだろう。書き方も違うだろう。
 「金子の音が好き」というひとが、どれだけいるか。また、「金子の音」のどの部分が好きかというのも、「評価の分かれ目」になると思う。
 リズムも、とても重要になってくると思う。

 

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Estoy loco por espana(番外篇140)Obra Jose Enrique Melero Blazquez

2022-02-18 10:32:42 | estoy loco por espana

Obra Jose Enrique Melero Blazquez
Nudos con luz


Qué lustroso, qué misterioso, qué radiante.
A pesar de ser de hierro, parece la piel de una chica o un chico.
Has escapado desnudo de las manos del diablo?
O mueve tu cuerpo desnudo para que tu amante se enamore de tu?

なんという艶やかさ、なんという妖しさ、なんという輝き。
鉄でできているにもかかわらず、少女か少年のよう。
君は悪魔の手から裸で逃げてきたか。
それとも、恋人を誘惑するために裸の体を動かすのか?

*
Jose dice: el material en esta ocasión es bronce,
no lo sabia....
pues es equivoco "a pesar de ser de hierro".

作者によると、素材は鉄ではなく「ブロンズ」。
鉄と書いたのは私の間違いです。
でも、知らずに書いたことなので、感想はそのままにしています。
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中島悦子『野良犬のいた頃』

2022-02-17 11:46:04 | 詩集

中島悦子『野良犬のいた頃』(虎芳書林、2021年11月01日発行)

 中島悦子『野良犬のいた頃』はエッセイ集(だと思う)。ところどころ拾い読みした。「野良犬のいた頃」は野良犬のことを書いていて、突然、山下清の話に変わる。

 山下清の「東海道五十三次」の語録を読んだ時、なぜか野良犬のいた頃を思い出した。

 山下清の語録に野良犬が出てくるのかどうか知らないが、中島が引用している部分には出てこない。「なぜか」と中島自身が書いているが、なぜ、中島は思い出したのだろうか。それを少しずつ突き止めようとしてことばが動いていく。

自分の居場所がないと追い詰められたり、反対に必要以上に他人を攻撃したり、殺伐としているように思えてならない。加減というものが分からないかのようだ。あるいは、余白がないのだろうか。

 「自分の居場所」や「攻撃(性)」に「野良犬」が重なってくる。そして、そこから「加減」ということばを引き出してくる。この過程は、「なぜか」の説明になっているかどうかはよくわからないが、そのよくわからないけれど、なんとなくわかるという「加減」がいいのかもしれない。
 そこから飛躍して(?)、「加減」を「余白」と言いなおしているところが、まあ、詩人ならではのことばの動きかもしれない。ふつうなら(詩人でなければ)、「余裕」とか「あそび」と言うかもしれない。
 なぜ、「余白」と書いたのか。
 実は、ここから中島の「詩」が動き出すのである。この「余白」ということばを踏み台にして、ことばが飛躍する。
 山下清の「桜の花(流れていく花びら)」について書いた文章がきっかけなのだが、そこに「野良犬」が呼び出されてくるところが、なかなかおもしろい。ここでは引用しない。買って読んでください。

 この「加減」に関する思いは、バズ・ドライシンガーの『囚われし者たちの国』(紀伊國屋書店)の書評では「ほぐす」という動詞になってあらわれてくる。そういう「ことばの旅」を読むのは楽しい。

 

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経田佑介『自伝風に、あるいは 彼方へ、狙撃兵よ』

2022-02-16 11:54:24 | 詩集

経田佑介『自伝風に、あるいは 彼方へ、狙撃兵よ』(ブルージャケットプレス、2022年01月16日発行)

 経田佑介『自伝風に、あるいは 彼方へ、狙撃兵よ』の「プロローグ」の最後の方に、こういう行がある。

イマハネバネバくりいむニ囚ワレテイルガ、
オレハ
断ジテ
果実ノ核ニ歓喜スル
白ッポイ虫ジャアリマセン。

 簡単に言いなおすと「精子ではない」と言う。しかし、私は「精子」を想像する。人間の(私の、だけかもしれないが)想像力には限界がある。想像力は、まったくの「空想」を想像できない。どうしても「現実」として知っていることのなかへ帰ってしまう。
 何度も出てくる「指」は、どうしたって手淫する手の指である。
 経田には、私の想像力を拒絶する権利がある。しかし私には、経田の書いたことばを「誤読」する権利がある。
 これは経田のことばについてだけの問題ではない。ひとは誰でも他人のことばを「誤読」する権利を持っている。つまり、他人の言ったことばを自分の都合にあわせて動かして、自分の問題として考えるということである。これは当然のことなのだ。他人が私の問題を代わりに考えてくれることなどできないからだ。どんな完璧なことばであっても、それはそのまま他者のなかに入っていき、他者を動かすということはない。他人のことばで自分の肉体や考えを動かすとき、そこにはどうしても何らかの変更が必要なのである。いまはやりのことばでいえば、カスタマイズしなければ自分の肉体を動かすことはできない。
 ややこしいのは、自他の肉体というのは完全に個別なものであるにもかかわらず、「他者」がわかるということだ。道にだれかが腹を抱えてうずくまっていれば、腹が痛いのだと感じてしまう。ここにはもちろん「誤読」もあるかもしれないが、(たとえば掏摸をするためにわざとうずくまってだれかが近づくのを待っているとか)、「誤読」であるかどうかはあとでわかることであって、「誤読」する瞬間はいつでも「正しい読み方」をしている。何が正しいか。「自分が腹痛を起こしたら腹を抱えてうずくまる」という認識、「自分」が「正しい」。
 これは「肉体のことは(腹を抱えてうずくまる)」であっても、「ことばの肉体」であっても同じこと。「自分なら、こういうとき、こういうことばをつかう」。だからこそ、他人の書いていることばを読んで、「これこそが私の言いたかったことだ(感じていたことだ)」思ったりする。他人のことばなのに。書いたひとは「お前の考えたことなんか、私には関係がない」と断言するだろう。「自分で考えた、お前から何も聞いていない。勝手におれのことばを自分のことばだと言うな」。極端に言えば、こういうことが起きているのが「読む」という現場なのである。

 私が書いていることは、詩集への感想には見えないかもしれない。まあ、見えなくてもかまわない。
 だが、少し、なぜこんなことを書いているかの補足をしておく。
 「ひりだされて」の「注が蛇足的であれば」に、こんな文章が出てくる。

 「引き裂かれている」というむかし流行した実存主義お気に入りの命題はいまなお強い実感を与え、命題の溝に足を奪われてるのは、偉大か阿呆にちがいないが、命題が自律性をもっている証拠にちがいない。

 ここには、経田の基本的な「ことばの肉体」のあり方が書かれている、と私は読んだ。「命題」を「経田の命題」(経田の詩)と読めば、それはそのまま経田のめざしていることにつながる。「ことばの自律性」が経田の詩を苦しめ、同時に詩に官能をもたらす。経田の詩ではなく、経田の肉体と言いなおしてもいい。
 「ことばには自律性」がある。それは、ある意味では「制御」がきかない。「自律性」があるからこそ、ことば経田を経田が知らないところまで連れて行く。未知の世界、未生の世界。ことばが動くことではじめてあらわれる世界へ。そのときのことばを、経田はひとつひとつ定着させる。経田の肉体に。
 人間は、そうするしかないのである、と私は思う。
 私が気になるのは、「むかし流行した実存主義」の「むかし流行した」という認識である。「むかし流行した」ということばを取り去って「実存主義」と書けないところ(書かないところ)に、経田の「肉体」と「ことば」の重要な問題があるかもしれない。「むかし流行した実存主義」ではなく「いまの実存主義」ではどうなのか。「むかし流行した」と書くことで、経田は彼自身の「肉体」と「ことば」を保護していないか。括弧にくくって安全地帯で動いていないか、ということが気になるのである。

白ッポイ虫ジャアリマセン。

 と否定するのではなく、「白ッポイ虫」そのものとしてことばを動かす。「白ッポイ虫」こそが「指」を動かしているのだという「自伝」そのものを読みたい。

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Estoy loco por espana(番外篇139)Obra Jose Enrique Melero Blazquez

2022-02-15 10:10:06 | estoy loco por espana

Obra Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo 8


La obra de José Enrique Melero Blázquez siempre tiene que ver con el fuego.
Lo que siento de Joaquín es sobre todo el martillo y el yunque.
Ambos utilizan el fuego, el martillo y el yunque porque son trabajos de hierro.
Pero en el caso de José, el fuego es muy fuerte.
Pero en el caso de la obra de José, el fuego es muy fuerte, es el fuego el que saca el hierro de la piedra bruta. Es el fuego que saca el hierro de la piedra que aún no se ha convertido en un trozo de hierro.
El hierro se funde al arder en rojo. En la obra de José, hay un poder mágico en el estado blando y fundido, antes de que tome forma.
En la obra de José se percibe el poder misterioso de ese estado blando y fundido antes de tomar forma, la sensación de que adoptará una forma diferente si vuelve a pasar por el fuego.
En esta obra, el fuego de fondo hace que esta impresión sea aún más fuerte.
Al pasar por el fuego, José sigue cambiando de forma y conviviendo con el hierro. El fuego le nutre a él y a su obra.

Jose Enrique Melero Blazquezの作品から感じるのはいつも火である。
Joaquín Llorensの作品との違いはそこにある。Joaquínから感じるのは、何よりもハンマーと金床である。
鉄の作品だから、二人とも火もハンマーも金床もつかうだろう。
だが、Joseの場合は、火の印象が非常に強い。
それも原石から鉄を引き出すときの火という感じがある。まだ鉄の塊になっていない石の中から鉄を選び出す時の火、鉄鋼を生み出す火だ。
鉄は、赤く燃えながら溶ける。そして、冷めて形になる。Joseの作品のなかには、まだ形になる前の、柔らかく溶けている状態の、不思議な力がある。
これからまた火をくぐり抜ければ別の形に生まれ変わるという予感がある。
この作品は、背後に火があるだけに、その印象がいっそう強くなる。
火をくぐり抜けることで、Joseは鉄と一緒に形を変え続けて生きる。火が彼と彼の作品を育てている。

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Estoy loco por espana(番外篇139)Obra de Joaquín Llorens

2022-02-14 20:58:08 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns

Técnica. Mixta madera hierro 35x32x32

Serie. Mare Nostrum

Las obras de esta serie son todas fascinantes.
Son de hierros, pero tienen una cálida suavidad.
Se asemeja a la calidez de las olas del Mediterráneo.
También me gusta la suavidad de la base de madera y su color tranquilo.

このシリーズの作品は、どれも魅力的。
鉄なのに、温かい柔らかさがある。
それは地中海の波の温かさに似ている。
台座の木の落ち着いた色、柔らかな感じもとても好き。

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カニエ・ナハ「二木美月」

2022-02-14 18:51:14 | 詩(雑誌・同人誌)

カニエ・ナハ「二木美月」(「文藝春秋」2022年3月号)

 カニエ・ナハ「二木美月」は短い詩。短いけれどイメージが豊か。

美月は二年ぶりに、映画館で映画を見ている。
二百年ほど前の映画のリバイバル上映で、
二十数時間の上映時間の間、
えんえんと海だけが映し出されている。
スクリーンのかたわらでは、
手話通訳者が波音を手であらわしていて、
ときどき、その手が鳥に変わったり、
波間にたゆたう、流木や月に変わったりする。

 後半のイメージがとても美しい。「手であらわしていて」の「あらわす」という動詞がとてもいい。いままで存在しなかったものが、あらわれる、顕現するという感じがある。そのあとに書かれる「変わる」という動詞は「生まれ、変わる」というか、「生まれる」という感じがする。「生まれ、あらわれる(顕われる)」というあざやかな感じ。
 途中に挟まった「たゆたう」という動詞は、まるで「生まれる」のを待っている感じ。「波間」は「時間」という感じ。
 さらに。
 この美しいイメージに目を奪われてしまって見落としてしまいそうなのが、前半に繰り返される「二」という数字。
 映画はリュミエール兄弟が1895年に発明したのもだから「二百年ほど前の映画」は嘘である。「二十数時間」の映画というのも、嘘である。これは「二」という数字を強調するためにつかわれた「虚構」である。
 「二」は「一」と「一」。映画は、本物/現実の海を写した一種の嘘。虚像。実物ではない。現実の海を「一」とすれば、映画の海はもうひとつの「嘘の一」。でも、それは重なる。「1+1=2」の「2」ではない世界が、ここでは書かれている。
 「リバイバル(再映)」にも「二」が隠されているといえるし、「手話通訳」にも「二」が隠されている。「元」があってはじめて「再び」も「通訳」も可能なのである。何かを繰り返すことで、初めて生まれてくるものがある。「1+1=2」ではない「世界」がある。
 「1+嘘の1(虚数の1?)=2」にはならずに、「一(現実の海)」でも「嘘の一(映画の海)」でもなく、そこから「もうひとつの一」が生まれる。それが「鳥」、あるいは「流木」、そして「月」。
 「嘘」があると、ことばはどんどん拡大していく。「嘘」はとまることがない。、ということがカニエ・ナハの書きたいことではないと思うが、私は「誤読」が大好きだから、あえて、そう読むのである。

 後半の叙情的なイメージも美しいが、前半の静かな論理があってこその美しさ、と私は感じる。

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Estoy loco por espana(番外篇138)Obra de Joaquín Llorens

2022-02-14 00:02:14 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇138)Obra de Joaquín Llorens

Obra de Joaquín Llorens

 

También esta obra parece una danza entre dos personas.

No se trata de un ballet, sino de una danza en la que los dos cuerpos están más juntos, como un tango.

O, en el caso del flamenco, el momento en que las pasiones de dos personas chocan y arden.

 

この作品も、二人の人間がダンスしているように見える。

バレエというよりも、もっと二人の肉体が接近したダンス、たとえばタンゴ。

あるいは、フラメンコならば、二人の情念がぶつかり合って燃え上がる瞬間。

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砂川文次「ブラックボックス」

2022-02-13 13:27:42 | その他(音楽、小説etc)

砂川文次「ブラックボックス」(「文藝春秋」2022年3月号)

 砂川文次「ブラックボックス」(第166回芥川賞受賞作)は、たいへん読みやすい文体である。こう始まる。

 歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気が付いてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる。(254ページ)

 この几帳面な文体(意識)が動いている人間が、几帳面さゆえに他人とうまく「調子」を合わせられない。息抜きができない。この感じを「佐久間」から「サクマ」へと主人公の呼称を替えて、この小説は展開する。「佐久間」にして置いたままの方が、私は、効果的だと思うが、佐川は「サクマ」を選んでいる。
 で、正確さ(他人の文体を許さない神経質さ)のために、サクマは突発的に暴力をふるう。テキトウに自分を解放する方法を知らないので、ため込まれていた何かが衝動的に発散を求めるということだろう。
 これは、「頭」では理解できるが、私の「肉体」は理解できない。なんとういか、つまらないなあ、と感じるのである。書き出し部分の正確な文体の読みやすさに、つまらないなあ、と感じるのに似ている。で、そのつまらなさは、そっくりそのまま「衝動的な暴力」の描写で、さらに感じてしまうのだ。あ、こんなふうに暴力をふるってみたい、と感じないのだ。

 痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものでああとは耐えられる。(317ページ)

 これは直接的な「暴力描写」ではないが、その「暴力」をささえる「認識」の部分を書いたものだが、「客観視」ということばがあるが、そのことばが示唆するように、ここには「主観」がない。「肉体」と「痛み」の「肉体」の側からの「変化」がない。
 サクマはこのとき警官に右腕の動きを押さえ込まれているのだけれど、いったい右腕のどの部分が熱く、どの部分が痺れているのかぜんぜんわからない。したがって、それがどう分解されたのかもわからない。「肉体」に伝わってこない。
 読み返せば、書き出しの「ドロップハンドルの持ち手をブラケット部分からドロップ部分へと替えた。上体がさらに前傾になる」も、なにやら「客観的」な描写であり、「肉体」の内部の動きが書かれていない。つまり、「肉体」を排除することによって、「外形的」に「肉体」をなぞっている。だから、読みやすい。
 これは、かなり退屈である。
 唯一、サクマの「肉体」を感じたのは、刑務所の作業場で台車が壊れたときの描写である。サクマはふたつのボルトを見ながら「ピッチが違います」という。(339ページ)

「これ、どっちもM12ですけど、ピッチが違います」
「はあ?」
「ねじ山の距離のことです」
「お前、見ただけでわかるのか」
「なんとなく」

 ここにはサクマの「肉体」がはっきりと書かれている。その「肉体」は「私の肉体」がそのまま「追認」できるものではないが、「職人」というのは、そういうふつうのひとがもたない「肉体の智慧」をもっている。それがさりげなく書かれていて、とてもいい。
 この「肉体にたたきこまれた感覚/正確な認識となって動く肉体」というものが、もっと必要なのだ。とくに「暴力描写」には。

 気が付くと中年の方は地面に転がって、鼻を両手で抑えて大声で騒いでいた。指の間から血が滴っている。自分の額から流れてくるそれは、自分のものとそいつのものとが混じり合っていた。でもなぜか他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした。(315ページ)

 この描写、とくに「他人の血と自分のそれは、肌に触れたときその違いがわかる気がした」には「肉体感覚」が描かれていておもしろいのだが。
 でも、この部分は逆に、どうしてこの部分だけ魅力的なのだろうか、という疑問も呼び起こす。「自分の額から流れてくるそれは」「自分のそれは」と繰り返される「それは」ということばのつかい方が、全体の文章のなかで浮いて見える。

考えているうちに、あっという間にそれらは雑念に変じ、想起と交わってどろどろに溶け合う。(289ページ)

 「想起」ということばは何度かつかわれるが、この「想起」ということばは、私にはかなり唐突に感じられる。そして、ここにも「それらは」ということばがある。
 でも、前回の芥川賞受賞作、石沢麻衣「貝に続く場所にて」よりは、まともな文章という気がした。
 

 

 

 

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スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』

2022-02-12 14:18:13 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』(★★★★) (2022年02月12日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン13)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー

 いちばん驚いたのは。
 私の「肉体」がついていけなくなっていること。私はダンスもしなければ歌も歌わないから、前の作品(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督「ウエスト・サイド物語」)でも私の「肉体」がついていっていたのかどうかはわからないが、今回のスピルバーグの映画では、私の「肉体」が置いてきぼりにされているのを感じた。
 冒頭の口笛のシーンは、まだ「耳」だけが動いているので、わくわく感はおなじなのだが、役者が歌い踊りだすと、途端に、私の「肉体」は傍観者になってしまう。歌いたい、踊りたい(まねしてみたい)という気持ちが起きないのだ。わくわく、どきどきが「肉体」を支配して、私の「肉体」が動き出すという感じにならない。
 「トゥナイト」や「マリア」というゆったりとした曲さえ、何か、ついていけない。妙に「洗練」されている感じ、シャープな感じがする。「肉体」が動こうとすると、「理性」がやめておけ、というのだ。こころのなかであっても、一緒に歌うな、声を出すな、声帯を動かすなと、理性が言うのである。
 「クラプキ巡査どの」はこのミュージカルでは私の一番好きな曲だが、初めて聞いたときの荒々しい強さがない。歌っている若者に対する「同情」というのか、あ、そのつらさ、知っている、という感じにならない。あまりにも洗練されすぎている。その場で思いついて歌いだすという感じがしない。最初からその曲があって、それを歌って踊っている感じがする。私がストーリーを知っているから、ということだけではない何かがあると思う。「午前十時の映画祭」で上映されたときは、そんな感じはしなかった。スピルバーグの映画になって、そう感じるのだ。「クール」(この曲もとても好き)もなんだか違う。「アメリカ」も、豪華だけれど、美しすぎる。
 あ、そうなんだ。「美しすぎる」が、どうも、気に食わない。
 映画(ストーリー)は簡単にいってしまえば、不良の対立が生んだ悲劇だが、その不良たちが、今の私から見ると繊細(純粋?)で洗練されすぎている。何かを破壊せずにはいられない「欲望」というものが「演技」としてしか伝わってこない。生身の「肉体」としてつたわってこない。「おれたちには肉体がある。この肉体を、この世界に存在させたいのだ」という欲望が稀薄なのだ。
 「演技」になりすぎていて、しかも「演技」として洗練しすぎていて、「肉体」そのもの、どうしようもない「欲望」というものが、見えにくくなっている。うまく撮れすぎている。(これはスピルバーグの映画全体について言えるかもしれない。)とくに、集団のダンスシーンはあまりにもあざやかで、まるでそれだけのショーのような感じがする。若者が好きで踊っている、体がどうしても動いてしまうという感じではなく、私たちはこんなにダンスがうまい、とそのうまさを見せている感じ。
 とってもいいんだけれど、何か、違うかもしれない、と感じる。
 これは、というか、一方、というか……。
 レイチェル・ゼグラーの声に、私は非常に驚いた。透明な輝きと、透明な強さがある。「トゥナイト」の二重唱は、まったく知らない曲に聞こえてしまった。もし映画から「抜粋」して、レイチェル・ゼグラーの歌声だけを聞いたら「ウエスト・サイド物語」とは思わないかもしれない。
 ただ、それがいいことかどうかは、また、別の問題。
 昔に比べて、歌もダンスも、みんな「うまく」なりすぎたのかもしれない。映画で見たいのは、「うまさ」でもないし「うまさ」にかける情熱でもない、と思ってしまったのだった。

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谷川俊太郎「偶然の言葉」ほか

2022-02-11 12:18:27 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎「偶然の言葉」ほか(「午前」20、2021年10月15日発行)

 谷川俊太郎「偶然の言葉」は「偶然の言葉」が前書きなのか、「『偶然の人』に寄せて」が副題なのか、タイトルが二行になっている。

饒舌に与せず
沈黙に堕することなく
寡黙のうちに
詩を生むのは難儀だ

日常茶飯にひそむ詩は
人間には創れない
懐胎を予感し
臨月を待つのみ

 これは、何だろう。よくわからない。「饒舌」「沈黙」「寡黙」。「寡黙」は「饒舌」と「沈黙」のあいだにあるのかな? 詩は「饒舌」でもなく「沈黙」でもなく、「寡黙」。少ないことば。でも、それは「人間には創れない」。生まれてくるのを待つだけ。

生まれてきたものが
ヒトの体をなしていない
鬼っ子だとしても
嘆くまい

言葉はすでに
私と別れて
幽明のうちに
点滅する

そのほのかな光に
浮かぶ面影に
私たちが捧げるものは
やはり詩 ひとつの

 「ほのかな光」は「寡黙」に通じるだろうなあ。強い光が「饒舌」、消えてしまった光が「沈黙」だとすれば。その前には「幽明」と書かれている。「幽明」が「ほのかな光」。そのなかで「点滅する」のは「面影」、「面影」が「点滅する」。
 これに捧げることば、詩は、やはり「ほのか」に通じるものだろう。
 気になるのは「私と別れて」の「別れる」という動詞である。それは、もう「私のもの」ではない。「私」ではない。
 この「別れる」と「人間には創れない」が響きあっているような感じがある。でも、その「響きあい」の「響き」があまりに小さくて聞こえない。「ほのか」のなかに「点滅する」何かのように。
 
 そういう印象を、そのままにして「午前」を読んでいくと、山崎剛太郎の「偶然の人」という作品がある。17号に掲載された作品の再掲である。20号は山崎剛太郎の追悼特集を組んでいる。そのための再掲である。
 あ、そうすると谷川の作品は、追悼詩だったのか、と私はやっと気がつく。
 山崎の詩は、こういう詩である。

好きな散歩をしていると雨が降ってきた。傘を持た
ない私は、目の前の軒下に身を寄せた。私に続いて
四十才位の女性が並んで立った。「せっかくのドレス
が雨では困りますね」その店は喫茶店だった。「中に
入ってひと休みしませんか私がご馳走します」私た
ちは、小さなテーブルに向い合って腰をおろした。
私はコーヒーを彼女は紅茶を。
「世の中は偶然だらけですね私の人生もそうでした、
就職も失業も結婚も」雨はこやみになった。店でビ
ニール傘を二本買って、私たちは外に出た。その一
本を彼女に渡して「思い出にどうぞ」、彼女は傘を開
きながら美しい笑顔をみせた。「人生お別れだけが必
然ですね。ふりかえった傘の中から美しい笑顔を見
せた。彼女の後姿を見ながら、その言葉をかみしめた。

 ここに「別れ」が出てくる。そして、それは「必然」と定義されている。この定義を借りるならば、詩とは「私と別れて」別の生を生きていく。それは「必然」なのだ。この「必然」のためには「偶然」が必要であり、「偶然」は「人間には創れない」ということだろう。
 山崎は「偶然」の出会いと別れをことばにした。そのとき詩が生まれた。しかし、その詩は、やはり山崎を別れて生きている。これを別なことばで言えば、山崎は「偶然の人」というタイトルで谷川が追悼詩を書くとは思っていない。「偶然の人」が追悼詩の素材になるとは思っていない。そういうことは、いつでも、どこでも起きる。これは「偶然」だけれど、「必然」でもあるのだ。予想とは違うことが起きる。それだけが「必然」である。そして、その「必然」は、いつでも「別れ」を含んでいる。
 さて、そうだとすれば。
 詩に限ることではないが、私たちは、どう生きることができるだろうか。谷川は、詩を書いて生きる。何かできることがあるとすれば「詩を捧げる」こと。だれに? 「別れ」という「必然」に。つまり、究極的には「死」に、ということか。
 よくわからない。だから、私はここでもこれ以上書かない。保留にしておく。いつか気がついたら、また戻ってくる。(いま、こうやって、何か月か前に読んだ「午前」を引っ張りだしてきて、読んでいるように。)

 谷川の詩と山崎の詩を、結びつけることは「保留」にしておいて、山崎の詩にだけ目を向ける。そうすると、最初に見えてくるのが、

好きな散歩をしていると

 この書き出しの「好きな」ということばである。なぜ、山崎は「好きな」ということばを書いたのだろう。「いつもの」ではない。散歩に出たとき、山崎のこころはすでに動いているのだ。何かしら「好き」に向かって歩いているのだ。「好き」が偶然見つける何かは、すでに「偶然」だけではなく「好き」につながる「必然」を持っている。「好き」ではないものを見ても、それは目に留まらないだろう。「好き」なものだけが私たちを動かしていく。
 この詩でいえば、山崎は喫茶店が好き、コーヒーが好きということがわかる。八百屋でも、本屋でも、電器店でもデパートでもなく、喫茶店を選んで雨宿りをしている。偶然だけれど、そこには「好き」の「必然」も動いている。それは同じ喫茶店の軒下で雨宿りした女性も同じ。でも、彼女は、紅茶が好きだった。
 二連目の「世の中は」ということばはだれのことばか。たぶん、山崎だろう。「中に入って」と声をかけたのも山崎。ここでも山崎から語りかけているのだろう。でも、とっても不思議な会話。見ず知らずの人に「私の人生」を語る人がいるだろうか。もし語るとすれば、そこにはやっぱり「好き」が動いている。「思い出にどうぞ」にも、「好き」が動いている。「思い出にどうぞ」は「思い出してください」と同じ意味だ。「嫌い」なのものは、わざわざ思い出したりはしない。そういう「好き」の動きを感じるからこそ、女は「お別れ」とはっきり口に出していう。
 山崎は「饒舌」、女性は「寡黙」。
 書いているうちに、また、谷川の詩に戻ってしまった。(こういうことを書くつもりはなかったのだが、知らずに、こうなった。これは「偶然」か「必然」かは、考えても仕方がない。)
 そして、山崎は、自分の「饒舌」よりも、女性の「寡黙」が「好き」なのだろう。でも、それを書いてしまうのは「饒舌」というものかもしれない。しかし、途中まで書いて中断しているから「寡黙」といえるかもしれない。
 どっちでもいいね。
 谷川は、そんなことを考えただろうか。
 わからないけれど、山崎の詩は、偶然会った女性に「捧げた詩」と感じただろうと思う。山崎には、女性にその詩を捧げなければならない「必然」があるということだ、というのは私の考えだが、谷川もそう考えただろうと考えてしまう。
 「考えただろうか」と考えることは、すでに「そう考えただろう」の方に傾いていることばである。

 ことばは、いつでも、どこかへ傾いていく。「好き」というのは、そういうことかもしれない。

 

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岩佐なを「責任」

2022-02-10 10:33:37 | 詩(雑誌・同人誌)

岩佐なを「責任」(「孔雀船」99、2022年01月15日発行)

 岩佐なを「責任」は、いいかげんに始まる。

いとをかしの
暮れ方だった

 なんのことか、わからないでしょ? この、なんのことかわからなさを、私は「いいかげん」と呼ぶ。そして、それが「いいかげん」と言う限りは、私のなかに何らかの了解がある。つまりわかっていることがある。
 仕事でだれかがミスをする。その説明をする。「それ、違うだろう」とわかっているとき「いいかげんなことを言うな」というでしょ? 仕事でなくても、子供を叱るときもよくいうよなあ。
 では、私に何がわかっているのか。「いとをかし」が「ことば」としてわかっている。「枕草子」あたりに出てきたかも。そういう感じ。岩佐が実際に何を伝えたいのかわからないけれど、まあ、あの「いとをかし」なんだろうなあ、と思う。そして、いま書いた「あの、いとをかし」の、「あの」と名指されたものが、この瞬間、私と岩佐とのあいだで共有されたことになる。いや、共有といっても、私が勝手に「共有」しているつもりになっているだが。
 岩佐さん、あの、いとをかし、ですね。(これは、念押し。)
 もちろん返事はない。だから、「いいかげん」なのは岩佐ではなく私の方なのだが、私はもともと「誤読」をめざしているのだから、これくらいのいいかげんさがないと先へ進めない。
 さて。
 いいかんげんというのは、ほうっておくと、どんどん加速していくものである。こんな具合。

かれこれ昭和も枯れて
外では行く手のけしきもすけすけの頃
黒電話が
どすをきかせて鳴った
黒いジュワッキをとると
耳を当てるところから声がした

 いいなあ。「ジュワッキ」。もう、何も読まなくてもいい。この詩は「ジュワッキ」を読めば、もう、あとはテキトウ。「ジュワッキ」が好き、につきてしまう。
 そんないいかんげな、と言われそうだが、私はもともといいかげん。いいかげんさでは、岩佐には負けない、と自慢しても始まらないが、何がいいとか、どうして好きとか、そういうことは「後出しジャンケン」で何とでも言えることだから、「論理」のようなものには意味なんかない。価値なんか、ない。瞬間的に、「これだ」と思った、そのときの「踏み出し」にだけ生きているときの不思議さがある。
 「枯れて」とか「すけすけ」とか「どす」とか、いろいろ「をかし」に似たことばがあるが、そういうものを叩き壊して「ジュワッキ」。一気に、「いいかげん」を突き破って「現実」になる。「真実」になる。この、鍵括弧付きの「現実/真実」というのは、いいかげんな言い方で言いなおすと、「ジュワッキ」って「シュワッチ」とかなんとか、変身ごっこの掛け声みたいでしょ? つまり「ジュワッキ」という音を聞いた瞬間、私は私ではなく、ヒーローに変身してしまう。年取ったヒーローだから、昔のヒーローのようには活躍できないし、解決しな消さばならない問題も、子供の夢から見れば「ばかみたい」なのなにか。
 ほら。

あなたのお骨が出ましたから責任をもって
引き取りに来てください。という
すぐれない気分さ。

 岩佐が書いているように、変身ヒーローのようにかっこよくいかない。「すぐれない気分」になるだけ。
 でもね、詩だから、いい。どんな気分だろうと。詩だから。
 あとは、もう、この「いいかげん」な「すぐれない気分」を、どれだけ持続するか、ことばの運動を維持するかだけ。
 途中には「いい加減なサテンのあるじは自称詩人で」と「いい加減」ということばが出てきて、私はついつい「岩佐さん、いいかげんというのは私が岩佐さんの詩に向かっていったことばなんだから、勝手にこんなところでつかわないでください」と言いそうになってしまう。岩佐の詩が先にあって、私がその感想を書いているということを忘れてしまいそうになる。
 シンクロというよりも、完全な勘違い。
 そういうことを誘い出すものが岩佐のことばのなかを動いている。

 書きそびれたけれど。「耳を当てるところから声がした」という行も大好きだなあ。ことばのスピードがなんともゆるい。「ジュワッキ」のスピードを裏切り、「ジュワッキ」がここでは「じゅわあああき」になってしまいそう。渡辺のジュースの素を手のひらに出して、その上につばを落とすと粉末が「じゅわあああ」と溶けていくときの「じゅわあああ」。
 で、「書きそびれた」と書いたのは、ほんとうは嘘で。
 「耳を当てるところから声がした」という行読んだ瞬間、「ジュワッキ」が「じゅわあああき」になったということを書いていると、ことばがどこまで暴走していくかわからなくなりそうな予感がしたので、やめてしまったのだ。渡辺のジュースの素だけではとまらなくなりそうなので、やめたのだ。
 やめてしまったけれど、やっぱり書いておきたい気がして、追加したのだ。

 

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青柳俊哉「夕雲」、徳永孝「睡眠剤?」、緒方淑子「風の旅」

2022-02-09 16:28:36 | 現代詩講座

青柳俊哉「夕雲」、徳永孝「睡眠剤?」、緒方淑子「風の旅」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月07日)

 受講生の作品。

夕雲   青柳俊哉

凍りつく清冽な水音と 
白いちいさな無数の野花の響く
雪のふりしきる谷間に 心は移り 生きている
匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている
青空はどこまでも 硬くすんで 寂しく 
雪は空の鋼(はがね)の光沢を 溶けずにすべりおりて
氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ
冬のくらい夕雲のほとりを 
光があんなに 悲しくうつくしく
灯しているのは 
霊たちが昇華しているためだ
空のむこうの円環へと

 [受講生]透明感があふれる詩。音が光に転換していく。その透明なイメージが展開し、その変化が美しい。「寂しく」ということばがあるが、そのことばとは対照的な感覚も感じる。寂しさと野の花の対比、枯れ野と芽吹きの対照的な存在もいい。
 「匂いのよい花をつみ 花をたべて 憩っている」「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて/氷河の底の 枯れ野の芽吹きの中にしずむ」が好き。「霊たちが昇華しているためだ」によって全体が引き立つという指摘。

 私は「心は移り」とこころの運動を客観視していることばと、「灯している」という動詞のつかい方に注目した。特に「灯す」は「光が(略)灯している」という具合につながるが、「私が(あるいはだれかが)光を灯す」のではなく「光が、(光を)灯す」という形で展開していることに注目した。
 「光が何かを照らす、というのが一般的」という声があったが、そのときの「違和感」が大事だと思う。「光が」と書き始めれば、私の場合「灯る」になる。自分とは違うことばのつかい方をしている。そこに、そのひと独自のことばがある。日本語だけれど、日本語というよりも「青柳語」がある。日本語に引っ張られて読むのではなく、「青柳語」を探して読む。
 「光が(光を)灯している」。それは青柳の意思を超えた自然、宇宙の運動。青柳は、宇宙(世界)のなかで動いている、青柳の意思を超えた運動に共振しながらことばを動かしている。
 たとえば「雪は空の鋼の光沢を 溶けずにすべりおりて」は現象の描写ではなく、雪と空(硬くすんだ鋼)の自己表出の運動なのである。雪は溶けずにすべり、それを空は鋼の硬さになることで支えている。ここにあるのは、存在の呼応である。存在が呼応しながら宇宙をつくっている。そのなかを精神が動いていく。存在の運動と精神の運動が重なる。

睡眠剤?  徳永孝

こ数晩良く寝れません
お医者さんは良く寝むれるように薬を処方してくれました
名前は「異邦人のための音楽」
何と不思議な薬の名前でしょう

異邦人よ
あなたは一人自分の部屋でその音楽を聞いているのですか?
それとも仲間と一緒にカフェで
故郷(ふるさと)の町を懐かしみながら

それともあなたはソングライターかも知れない
この町では異邦人である友のために
(もしかしてあなたの恋人?)
彼女を元気づけようとして歌を作る
それほどまでに優しいあなた

それともあなたはダンサーで
大きな青空市場に来ている
広場は世界中から集まったたくさんの人々でにぎわっている
大道芸人やミュージシャンやダンサーも
その芸を披露しようと来ている
あなたは色鮮やかな髪飾りに優雅なスカートで踊る
バックでは様々な東方の楽器が奏でられる

それともその音楽は・・・

先生!
わたしは今夜もまた寝れそうにありません

 [受講生]薬の名前がいい。そこから世界がひろがり、結末までの展開構成がいい。豊かな空想力。四連目へ向かって情景がひろがり、自然にイメージ世界が厚みを増してくる。でも、難解。主語はどこにあるのか。「それともその音楽は・・・」が気になる。
 「それとも・・・」のあとには別のイメージが広がる。そのイメージを作者が書いてしまうのではなく、読者にまかせているのでは? 「・・・」にすることで余韻のようなものが広がる、という声があった。徳永は「このあとも書こうと思ったけれど省略した」と説明した。

 イメージの展開を楽しむ詩。講座では話すことができなかったが、「主語」の問題は、この詩では大事。
 「わたし」は眠れない。だから睡眠導入剤を処方してもらう。その薬の名前が「異邦人のための音楽」。ここから「わたし」は異邦人を想像する。そして、想像した瞬間から「主役」が交代する。「わたし」の苦悩ではなく、「異邦人」が「主役」になって動き出す。もちろん、このとき「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しんでいる。
 「異邦人」はあくまで空想であるけれど、空想した瞬間に「わたし」は「異邦人」になって「異邦人」であることを楽しむ。
 ことばは、主観/客観を瞬間的に超えてしまう。「わたし/異邦人」の一体感を楽しむ詩である。
 青柳は「夕雲」を描写しながら「夕方の宇宙」と一体化する。緒方は「異邦人」を描写なしながら「異邦人」と一体化する。そのときの楽しさ。眠れなくなるのは、したがって、当然のことなのである。「わたし」は「わたし」ではなくなり、新しい人間「異邦人」として目覚めたのだから。

風の旅  緒方淑子

鹿はどうしているだろう
はるになったらまたきてください
この山道は桜花のトンネル 藤の花房地面に着くまで

橋から見えたあの池の草辺の君
まっすぐに見つめた君へ
今朝は会いに来ました

凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時

ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのことだもの
声は翻る

翻る

声は

親(ちか)しく

翻り

 [受講生]音の響きがいい。「されば」「草辺の君」というようなふだんつかわないことばが、声になり、詩になっている。詩の声、呼吸が心地よい。「草辺の君」に君への思いがあらわれている。「声は翻る」が印象的。韻律が強い。
 でも、「さればお耳のよいあなたのことだもの/声は翻る」のつながりがわかりにくい、という指摘があった。

 私も、そう思う。
 「藤の花房地面に着くまで」や「凍えた夜は眠れずに この陽光がまどろみの時」ということばの動きを見れば、緒方には独特の緒方文法があり、「あなたのことだもの」のあとに省略されたことばがあることは推測できるが、それをこの詩一篇から推測することはむずかしい。
 この詩には、別バージョンがある。緒方は二篇書いてきたが、講座で緒方が読んだのは先に引用したもの。比較のために読んだ作品のその後半は、こうなっている。

ひとりごとではあったのです
さればお耳のよいあなたのこと
聴いていましたね 声は親(ちか)しく翻り
           親しく声は翻り

 「聴いていましたね」が削除されている。
 緒方は、「声は翻る」の部分について、鹿の耳が翻って、私のことばを聴いているのがわかった。風が翻るように声が翻るというのような説明をしたのだが。鹿との「対話」を強調したのだが。
 私は緒方の書いていることを超えて、つまり鹿との対話という部分を超えて、その先を読んでみたい気持ちになる。詩が展開するに従った「鹿」が「君」になり「あなた」になる。この変化は、緒方のこころの変化であり、こころの変化が「現実(鹿)」を「鹿」ではないものに変えてしまうということだろう。鹿と対話しながら、鹿ではないものと対話する。
 そして、対話が成立した瞬間、(緒方が言ったことばで説明直せば、鹿の耳が翻って、鹿が自分のことばを聞いている、鹿に自分の声が聞こえていると感じた瞬間)、何かが変わる。緒方は「鹿の耳が翻る」と言ったが、それは「聴いて、わかった」ということだと思うが、その「聴く」という動詞がないと「翻る」がよくわからない。
 「翻る」とは「風が翻る」という形で緒方は説明し直したが、「葉っぱが翻る」の例がわかりやすいと思うが、表と裏がひっくり返るような、「逆転」のイメージがある。「鹿の耳が翻る」なら、鹿の耳の内側が見える感じだろうか。
 この「逆転」ということを起点にして考えると。
 この詩では話者(緒方と仮定しておく)が鹿と語り合っている。一連目、鹿「また来てください」、二連目、緒方「来ました」。この「声」はどちらも「こころの中の声」だろう。鹿は日本語を話さない。三連目は、緒方の「声」だが、その「語りかけ方」は微妙である。だからこそ、それを四連目で「ひとりごと」と説明している。ここに、この詩の大きな「秘密」のようなものがある。
 鹿との対話の過程で、鹿は君、あなたにかわっている。この人称の変化を手がかりにすれば、「あなたの声」が聞こえたということだろう。緒方は「あなた」に語りかけた。そして、その語りかけは「あなたの声」になって緒方に聞こえてきた。それはもちろん、ここに書いてあるままのことばではないが、「ことば」を超えて、ただ「あなたの声」が聞こえたということだろう。「あなた」との対話がはじまったということだろう。「あなたの声」を思い出したということだろうと私は想像した。
 「聴いていましたね」と緒方が言えるのは、緒方が「聴いているあなた」をよく知っているからだ、と想像した。
 私が書いているのは、もちろん「妄想/誤読」なのだろうけれど、私は、そう読みたい。「語る」という動詞が「翻り」、聴いているはずの「あなた」が語り、語っているはずの「緒方」が聴く。そのとき「親しく」ということばが絶対に必要になる。「親しい」存在だからこそ、この交流が可能なのだ。「聴く」という動詞があった方が、それがわかりやすい。「声」の持ち主も、「聴く」を意識することで、「翻る(逆転する)」と読みたい。「翻る(逆転する)」のは「語る」という動詞にもあてはまる。「語る」は「聴く」に翻る。緒方が語る、「あなた」は聴く。それが、私は聴く、「あなた」が語る。その交代(逆転/翻り)が「声」のなかで起きる。
 もちろん緒方が、ただ鹿との交流だけを意図しているのなら、それはそれでいいけれど。私は、鹿との対話に託された「相聞の詩」として読みたい。「相聞」なかに「聞く」という動詞があるが、そういう「ヒント」があった方が、緒方を知らない人にもことばが届きやすいだろうと思う。
 ただ、ことばの「省略」の仕方に緒方の「詩文法」の基本があるということを出発点にして考えるならば「聴く(聞く)」という動詞は邪魔になるだろう。これは、どれだけ多くの緒方の詩を読んでいるかということとも関係してくるので、とてもむずかしい。詩集のなかで詩を読み直すのか、詩集を離れて一篇の詩として読むのかという問題とも関係してくる。
 (補足)
 緒方が詩の後半に展開した世界、「遠心・求心」の結晶としての存在の認識を言語世界として確立することをめざしているのだとしたら、これは私の考えでは俳句に近い。ただ、そこに世界がある。世界と融合して「私」という存在が「遠心・求心」の運動を生きる。世界というよりも「宇宙」と言った方がいいかもしれない。存在するものの、存在形式を言語運動として展開すれば、そこにおのずと「感情/精神」といったものが含まれる。そういう認識から出発して、詩を俳句に拮抗する言語運動にしたいというのが緒方のやりたいことなら、私が書いていることはまったく見当違いになる。
 鹿を見て、対話したとき、鹿の耳が翻る。その翻りのなかに「親しく」ということばを感じたとき、緒方の「声」が翻り、だれかの「鹿」であり、「君」であり、「あなた」であり、「風」である存在の「声」になり、だれかは消えて、ただ「親しく」という感覚だけが動いている「声」になり、緒方の耳に届く。「鹿→君→あなた」という主観的運動を最後の瞬間に、禅問答(考案?)のように破壊し(突き破り?)、つまり、鹿と対話してきたときの主観的時間を客観的存在に展開し直して、言いなおすならば主観的運動を前面に出さず「鹿」「風」「声」の宇宙として結晶させる。「鹿→君→あなた」という主観的運動は、そのとき風にまたたく宇宙の星のようにきらきら輝いている。あるいは翻りながらきらめいている。
 緒方の詩的意図、文学的意図、言語運動の意図は、緒方の説明を聞くことで理解できたが、この詩を初めて読んだ段階では、私にはまだいま理解していることをことばにする準備はできていなかった。以前読んだ「天気雨 AM」も、私は「相聞の詩」として読んでしまったが、緒方の意図としては「遠心・求心的存在世界」の言語的展開だったのだ。
 (補足、追加)
 たとえば、高屋窓秋に「山鳩よみればまはりに雪がふる」という俳句がある。この句の「山鳩よ」の「よ」は非常に主観的である。緒方の書いている「さればお耳のよいあなたのことだもの」の「だもの」に近い。俳句は短い詩形なので「よ」が非常に目立つ。(ふつうは、切れ字の「や」をつかうかもしれない。)だから、「あ、ここは客観ではなく、主観」だと感じたりするのだが、現代詩のように「定型」がない世界では「だもの」のひとことで「主観」の存在を明示し、さらにそれを「客観」描写で超越するというのは、よほどその作者の方法論を知っていないとわからないと思う。少なくとも、私はわからなかった。もちろん、わかる人もいるだろうとは思うが。さらにその「客観」のなかに「親しく」という「主観」のことばがあれば、なおむずかしい。もっとも、この問題に関しては、「だもの」と「親しく」という主観の呼応によって、「俳句」ではなく「詩」の世界へ帰るのだ、ということもできるから、そういう点から見れば、緒方の世界は完全に完璧に確立され、完成しているとも言える。
 だからこそ、むずかしい。
 「脱線」して言えば。
 「山鳩よみればまはりに雪がふる」の場合、俳句の読者ではなく「詩」の読者である私の場合は、「よ」を頼りに、この「山鳩」は恋人かもしれない、あるいは作者自身かもしれないと、心情(主観)の方に傾きながら読む。そしてそういう読み方を私は「誤読」と自覚しているが、こういう読み方を緒方がどう感じるかが、非常に問題になる。
 これは「カルチャー講座」という限定された場で起きる問題なのかもしれないが、もっと広い問題かもしれない。これも、私には、まだ考える準備ができていない。

 

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粕谷栄一「一生」「副身」

2022-02-08 11:11:53 | 詩(雑誌・同人誌)

粕谷栄一「一生」「副身」(「森羅」33、2022年03月09日発行)

 粕谷栄一の作品は、どの作品も、まったくおなじだ。違うことを書いているのだが、まったくおなじという印象がある。そして、このまったくおなじは、不思議なことに、飽きるようで飽きない。

 若し、おれが、南国の港の町で、何にでもなれる男だ
としたら、おれは、すぐ、若い水夫になる。太い腕をし
て、昼間から、酒場で酒を呑むのだ。                  「一生」

 人々も、彼自身も知ることはないが、ひとりの男のな
かには、もうひとりの男がいる。                    「副身」

 このふたつを重ねてみる。
 「おれ」のなかに「もうひとりの男」がいる。その「もうひとりの男」は水夫になっている。そして、昼間から酒を飲んでいる。

 ひとりの男が、めしを食っているとき、彼のなかにい
るひとりの男もめしを食っている。                   「副身」

 おなじように、水夫が酒を飲むとき、水夫を想像したおれも酒を飲む。想像と現実が入れ代わる。
 いや、そうではないのだ。
 想像と現実の区別がつかない。想像したことが現実であり、現実が想像なのだ。この想像を「ことば」と変えると粕谷のやっていることがわかる。ことばにできることだけが現実である。どんなことであれ、ことばにすればそれは現実である。しかし、その現実はことばなのだから、同時に、想像である。「実体」がない。
 いや、しかし「実体がない」とはいえない。
 いや、「実体」はないかもしれないが、そこには「何か」がある。
 この「何か」を定義するのはむずかしい。私は「ことばの運動」と呼んでおく。「ことばが動く」。その「動き」がある。
 そして、この「動き」がとても奇妙なのは、粕谷の書いていることが、誰も想像できないような「ことばの動き」ではないということだ。
 酒場で酒を飲む、めしを食う。だれもが、そういうことを「肉体」で知っている。

 水夫といっても、名ばかりで、べつに、働くことはな
い。なにしろ、おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、
どこにいても、女たちが、放っておかない。               「一生」

 こういうことを「肉体」で知っているひとは何人いるかわからないが、二枚目を女が放っておかないということは、「他人の肉体」を通して知っている。他人の肉体なのに、二枚目はもてる。他人の肉体なのに、女は二枚目が好きだ、ということを知っている。これは、どうしてだろう。だれかの視線が、だれかを見た瞬間に動く。あ、あの女はあの男が好きなんだ。あ、あの男はあの女の乳房を見た。欲情した。「他人の肉体」なのに、何かがわかってしまう。
 「肉体」というのは、個人と個人を切り離すまったく別個の存在である。しかし、そこには何か不思議なつながりがある。「他人の肉体」はまるで「もうひとりの男の肉体」のようにして「おれ」のなかで動く。それが「男」であろうと、「女」であろうと、である。「他人の肉体」は「私の肉体」でもあるのだ。
 この「混同」を切り離すために「ことば」はあるのかもしれないが、つまり「私/他人」という区別を明確にするために「ことば」は働くのかもしれないが、その「ことば」自身も、実は、見かけ上は区別できるが、ほんとうに区別できているかどうかわからない。

 あ、何を書いているんだろう。

 こういうことを書きたいのだ。
 「おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、どこにいても、女たちが、放っておかない」という「ことば」が、たとえば「一生」の主人公(?)の「おれ」にだけしか発することができないことばかというと、そうではない。むしろ、それは「常套句」のようなもの。だれもが言いそうなこと。そして、きっとだれかが言ったことでもある。このことばを頼りに、「おれ」の独自性を証明することはできない。「おれのことば」のなかに「他人のことば」が動いている。「他人のことば」が動いていなければ、そのことばは「他人」にはつたわらない。だから、ことばは必ず「他人のことば」を通らないといけない。そして「他人のことば」を通った瞬間、それは「他人のことば」か「おれのことば」かわからない。
 別なことばで言いなおせば、粕谷が書いたことばなのに、私は粕谷が書いたことばであことを忘れ、私のなかのことばが粕谷の用意した運動にしたがって動いているように感じてしまう。その動きを、私のことばも、私の肉体も、無抵抗で受け入れている。まるで見えない「法則/論理」があって、そのなかを論理にしたがってことばが自然に動いているだけ。
 「おれ」とか「他人」とかの区別はなくて、ただ「ことばの肉体」というものがあるのだ、「ことばの肉体」を動かす「真理」があるのだ--と、私は、唐突に、そういうことを考える。「私の肉体」「他人の肉体」があるのではなく、ただ「人間(いのち)の肉体」があるというのに似ている。
 どこが似ている? と言われそうだが。自他の区別を認識しながら、自他を超えてしまう瞬間がある。

 まあ、いい。私にもよくわからないこと、考えるしかないことを、ことばで動かして、ことばがどこまで動くかだけを、私は知りたいのだから。私はそれを知りたいと思っているし、知ることができるとも思っているが、それは知ることはできない何かなのだ、知りたいという欲望が間違っているのだと納得したときが「死ぬ」ということかな、とも思うが。死んだら何もかもがなくなるが、これは逆に言えば何もかもをなくしてしまわないと死ねないということでもあるから、何がなんだかわからないが。
 自他の区別を超越するということを考えると、なんだか、私には、粕谷栄一は「死ぬ練習」をしている、「死ぬ練習」のために詩を書いていると思ってしまうのである。どの詩を読んでも、「肉体」と「ことば」が「私」と「他人」のあいだを行き来し、どっちを先に消すことができるかを求めて、正確に、ただ正確なリズムに従ってことばを動かしているように感じられる。
 この不思議な引力、あるいは重力と呼べばいのかわからないものに、引きつけられて、私のことばは歪む。その歪む瞬間が、私には、うれしい。

 この問題を「整理」するには、テキトウな思いついたままの比喩をつかえば、アインシュタインが提唱した相対性理論のようなもの、ことばの運動の通説をひっくり返すような論理を想起する必要があるのだけれど、私が実感できるのは身の回りの、つぎつぎに歪んでいくことばしかないので、私はどんな「理論」にもたどりつけない。それはきっと、ただ「ある」だけのものであって、そのなかで私のことばが歪んでいくなあ、というのを私は実感しながら傍観するしかない。

 

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池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」

2022-02-07 15:39:15 | 現代詩講座

池田清子『おまえはわたしをかえていく』、緒方淑子「梅の木の横で」、青柳俊哉「満点の海」、徳永孝「光」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年01月31日)

 受講生の作品。

『おまえはわたしを変えていく』  池田清子

中学1,2年の頃書いた詩を見つけた

おまえって誰?
勉強から遊びから わたしを離してしまう
中学生らしいなあ

いつでも どこでも 現われて
わたしの心に入ってしまう
未知の世界へ
淡い感情の世界へ
時には強い情熱の世界へ
わたしを送り込んでしまう

先生とか好きになってたなあ
どんな世界だ

おまえを憎み 恨んでる
だけど いつでもどこでも現われるのを待っている

それで
一体 おまえはわたしを変えたのかい?
変えられて数十年
どこが変わった?
変えたのは
自分ではなく 人 だったような気がするけれど

 「おまえ」とはだれか。「わたし」のなかの「もうひとりのわたし」と読むのがふつうだろうと思うが、「詩かな、と思って読んだ」という意見があった。とてもおもしろい視点である。これに通じるのが「詩の中の自分」「詩を書いていた自分」という指摘。
 この感想が出てきた段階で、もう、この詩について語ることはないかもしれない。
 さらに、これを発展させる形で「おまえ=詩は、変っていきたかったのか。自分(わたし)ではなく、詩の方が」と感想は広がった。「最後の二行の読み方がわからない」という意見が出た。
 世界には「わたし」がいる。「おまえ」がいる。そして、最後に突然出てくる「人」がいる。「人」に通じる存在は「先生」という形で登場してきてはいるが、「変わる/変える」という動詞とは少し離れている。
 さあ、どう読むんだろう。どう読めば、納得できるか。作者を理解するというよりも、自分を理解する、ということが大切だと思う。詩は、書かれてしまって、発表されたら、作者のものであると同時に読者のもの。作者の説明を聞いても納得できないことがあるだろう。納得というのは、自分でするものだからである。
 この作品では「おまえを憎み 恨んでる」に対しても、「わからない」という声が出た。この一行は、つぎの「だけど いつでもどこでも現われるのを待っている」と対になっている。一行ではなく、二行でひとつの世界をつくっているので、組み合わせとして読む必要があると思う。
 「憎む 恨む」と「待っている」はふつうは相反する気持ちである。「憎む 恨む」相手は消えてほしい。でも「待っている」。「おまえ」の方が「わたし」よりも何かを知っているのかもしれない。「わたし」の知らない何か。
 ふつうに考えて、相いれないことばの結びつきを「撞着語」と言う。「冷たい太陽」「明るい闇」のような表現。「憎み 恨んでいる」でも「待っている」というのは、「撞着語」に似ている。そういう感情のからみあった状態は、だれもが経験したことがあると思う。「勉強しなければ/でも遊びたい」「遊びたい/でも勉強しなければ」。
 どちらの「声」が正しいのか、だれも知らない。その知らない何かが「わたしを変えたのか」「わたしは変えられたのか」、それとももっと別の「自分ではない(く)(他)人」が「わたしを変えた」のか。このとき「(他)人」というのは、世間(常識)かもしれない。
 でも。
 あるいは、ここで「わたし」が「(他)人」を変えたのだと飛躍して読んでみるのも楽しいかもしれない。社会は動いている。ひとりの人間が生きるとき、そのひとは社会から影響を受けるだけではなく、小さな形かもしれないけれど、社会にも影響を与えている。だれかが「あ、池田さんはこういう人だったんだ」と気づく。それは社会の変化には見えないかもしれないけれど、どこかでひとを動かしていくなら、それはやっぱり社会を変えたことになる。
 こういうことは、答えを出さなくていい、と私は考えている。ただ考えてみる。思ってみる。そのために、詩を読む。
 

梅の木の横で  緒方淑子

あったかいよね あったかいよね
 長期予報で酷寒とかさ
  あんまりびくびくして暮したくないな

お天気なんかはいてるつっかけ
 ポーンと放って 占いたい
  つっかけってあんま云わないね
   草履、はもっと。

たいてい西の空だった 缶蹴りなんかと一緒よ

裏でも表でも あしたてんきになあれ
もう片方も
あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも
しまいは はだし

 一連目、二行目の「長期予報、酷寒」という現実から、過去に戻っていき、その過去がなつかしい。幼いころに戻っていく感じが、あたたかい。二連目が解放感があっていい。最終連で「あしたてんきになあれ」が繰り返されているけれど、「裏でも表でも あしたてんきになあれ」「あしたてんきになあれ 晴れでも雨でも」と順序が交代していところがおもしろい。
 タイトルがとてもいい。タイトルにだけ梅の木が出てくるのだけれど、それによって情景が浮かぶという指摘もあった。
 緒方は「梅の木も、はだしも地面についている。地面でつながっていることをあらわした」と語った。

満天の海  青柳俊哉

満天の海を 枯野(からの)の船が行く
太刀魚の剣のような竿 大きな蛍袋のシュラフ
きょうは銀白の大鰤(ぶり)を穫(と)る 水仙の絵皿に
ウニやミル貝 刺身を盛り 酒に浸して食す
豊玉姫が天に尾をひるがえす
 荒磯ノ鰤彦612・1・7
星の光に 釣った魚の名と日付をしるす
 夕凪ノ糸縒(いとより)姫 745・8・3
光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ
 朝潮ノ鰰(はたはた)介 879・2・6
空が 風が 波をきる音がうつくしい
満天の 年齢(とし)のない少年のまま---

   枯野の船:近畿から淡路島まで日の影を伸ばす高樹を
        切って作った船。非常に速く行くとされる。 
   豊玉姫:わだつみ(海神)の娘 

 「612・1・7」などの数字は何なのか。直後に「日付」ということばがあるので日付だと推測できるが、どう読むべきなのか、読者は悩むと思う。講座では、作者がまず朗読する。それから感想を語り合うので、この問題は即座に解消するが、やはり……。
 日付の読み方に注目した、というのが最初の感想だった。(青柳は「612・1・7」を六百十二年一月七日と読んだ。)そこからはじまって、時間のうつりかわりから、生命力を感じる、海と天(星)が呼応している感じがする。海の匂い、潮の匂いを感じだという声。
 後半の「星の光に」「光が」「空が」ということばの並べ方が印象的という指摘があった。
 青柳は「イメージの組み合わせ」に注意して書いたと言った。
 私は「光が船の歳月を 速く遠くへはこぶ」がこの詩の世界全体を象徴しているように感じた。「速く」と「遠く」へ「はこぶ」。ことばが、私たちを、「速く遠くへはこぶ」。そのスピードが、そのまま世界の広さと拡大する。そこでは誰もが「年齢のない少年」になる。
 「戻る」のではなく、新しい少年に生まれ変わると読みたい。生まれ変わるために、詩はある。生まれかえさせるために、詩はある。

光  徳永孝

夕日に照らされて
突如現われた光の王国

オレンジ色に光る建物
燃えるような朱の街路樹
街を歩く黄金(きん)色に輝く人々
ざわめきを抜けて
子供達の遊ぶ声が浮かび上ってくる

やがて光は家々の明かりに引きつがれ
それが窓からもれてくる
闇に負けない力強さと暖かさ
夕食を共にしながら
今日一日の出来事を話し合う声がする

温かいおふろに入ったら
深い眠りにつくだろう

今夜はもう夢も見ないで済みそうだ

 夕方の散歩。時間の流れが、自然でいい。「光の王国」からはじまる夕方の情景にインパクトがある。精神的なイメージが眠りまで貫いている。外の情景だけではなく、家の中の、人の様子も描かれ、その人たちと重ね合わせる形で自分の幸福が描かれている。一日がむくわれる感じ。
 私は三連目の「引きつがれ(る)」という動詞に注目した。外の光が、家の内部の光に引き継がれる。それは「闇に負けない力強さと暖かさ」となって家の中にある。三連目から世界が「外部」から「家の内部」に転換するのだけれど、その転換が「引きつがれる」という動詞でつながっていくのがとてもいい感じだ。これは、実は、だれかによって引き継がれているののではなく、徳永のことばが「引き継いでいる」のである。
 ことばによって、世界を引き受ける。それは世界を生み出すということでもある。

 

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