「現代詩手帖」12月号(15)(思潮社、2022年12月1日発行)
多和田葉子「きっと来る」。
一度ひらいてしまったら
もう取り返しがつかない
散るまでに闇に戻れない
この「に」は何だろう。「散るまで闇に戻れない」ではなく「散るまでに闇に戻れない」。「散る前に」闇に戻りたいのだろうか。「散らないかぎり」闇に戻れないということを強調しているのか。
詩は、
ひらいてしまって大丈夫なの?
汚れやすく傷つきやすい白を
寒気にさらけだして枝に咲く
とはじまっていた。桜の花を描いているように見えた。ほかの花よりも早く咲いてしまった、桜。
しかし、桜ではないかもしれない。開花ではないかもしれない。どこかに、ロシアのウクライナ侵攻の、取り返しのなさが隠れていないか。
一度、武器が火を噴いたら(開戦したら)、取り返しがつかない。何もかもが破壊されないかぎり、元に戻れない。
侵略と感染に怯える沈黙の中
あなただけが花火のように満開だ
春が来ることを全身で信じて
最後の三行も桜を語っているのだが、ロシアのウクライナ「侵略(侵攻)」、コロナウィルス「感染」を思うのである。
思うに、闇には二種類あるのだ。何もはじまらない無としての闇、何もかもがなくなってしまったあとの無としての闇。何もはじまらない闇、何もなかった闇には、もうだれも戻れない。戻るためには、何かをしなければならない。
多和田は「に」にどんな運動を託したのか。「わざと」なのか、無意識に(自然に)なのか、わからない。しかし、非常に、ひっかかる。強い印象を残す「に」である。
中村実「冥土(六)」。死んだら、死者と会えるか。かつての知り合いと会えるか。
そうだ、冥土にはあらゆる時と場所にかかわりなく
死者が送りこまれてくるのだから、知り合いと簡単に出会えるはずがないね。
こうなったら、いっそ、あの世が恋しいねえ、あそこに戻れば
あの道角にも、あの通りにも知った人たちばかりだから、懐かしくてたまらない。
「あの世」と書かれているが、これは「冥土」からみた「あの世」だから、実は、この世。多和田の書いていた「闇」は、これに似ているかもしれない。「この世」がいいわけではないが、「あの世」に行ってしまうと、「あの世」になってしまった「かつての、この世」が懐かしい。それが「闇」であっても。あるいは「闇」だからこそ。
生きているときは、知った顔にばかり会う。いやになってしまう。そして、「この世は闇だ」と言ったりする。そのときの、「闇」。そこに戻るのは、ほんとうにむずかしい。
きみのいう知り合いもみんなもう冥土に来ていることを忘れているのじゃないか。
いまさら、あの世に戻りようもないけれど、戻っても誰と会えるわけじゃないのだよ。
そう言われればそのとおりだな、ぼくたちはこの小径を行くより他はないのだね、
この広場を抜けて、いつまでもうす暗い小径を行くより仕方がないのだねえ、と答えた。
しかし、私は「この小径」を受け入れることはしたくない。「この小径」は小さく見えるだけで(大きさが見えないだけで)、ほんとうは「取り返しがつかない」(多和田の詩の中にあったなあ)くらい大きい。そして、それは「闇」ではなく、唯一の光のように提示されているというのが、いまの「現実」だと思う。
そう、私は、とんでもない防衛費の拡大のことを言っているのだ。「敵基地反撃能力」と、奇妙な名前で語られている軍隊の拡大。それは、ロシアのウクライナ侵攻によって、まるで「希望」のように語られている。そんな「希望」よりも、「専守防衛では死んでしまうかもしれない」という不安な闇の方が、はるかに安全だろう。
「闇」に二種類あるように、「安全」にも二種類ある。
野崎有以「貝拾いの村」。いま、この「寓話」が書かれる理由は何だろうか。野崎は、どうして古くさいストーリーを書くのか。たぶん、古くさいストーリーは、すでに共有されているからだ。そこへ帰っていく。
男はかつて本当に愛した女によく似た少女と出会った
若かった頃 あのどんよりとした暗い女に見つかる前の話だ
その少女もまたひどく傷ついていた
男は理由も訊かず少女を抱きしめた
しかし、野崎の書いている「暗い(暗さ)」、それは、多和田の書いた「闇」や、中村の書いた「あの世(冥土から見たこの世)」とは違うような気がする。むしろ、「敵基地反撃能力」のような「かつて見た(以前もあった)希望」のように私には思える。そういう意味では、野崎は、「時代を先取りし続けてきた詩人」なのかもしれない。野崎の書いたものを全部読んでいるわけでもないし、順序立てて読んでいるわけでもないが、私は、どうにも納得できない「いやあな暗さ」の反復、反復の「いやあな暗さ」を感じる。
野崎は「わざと」書いているのだと思うが、その「わざと」が誰に向けてのものか、私にはわからない。