詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(8)

2022-12-17 10:29:51 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(8)(思潮社、2022年12月1日発行)

 山田兼二「病室のクリスマス・キャロル」。山田は、つい先日死んだ。この詩を書いたときは、生きている。あたりまえだが。入院中に書いた詩だ。
 その最終連。

職員が数人 開け放した扉の外を往来しているが
だれも近づいてこない 呼ぶこともできない
どこからか鐘の音が聞こえてくる
クリスマス・キャロルが遠ざかって
一年が去っていく 遠く 遠く 明後日の方へ

 「クリスマス・キャロルが遠ざかって」行く、と詩を終わらせることもできる。ふつうは、そう終わるかもしれない。しかし、山田は

一年が去っていく 遠く 遠く 明後日の方へ

 と書き足している。この一行が、非常に重い。「明後日の方」と、時間的に「未来」であることが、さらに重い。
 山田は、この一行を、力をふりしぼって、「わざわざ」書いたのである。この「わざわざ」書かれた一行のために、詩はある。この一行を受け止めるために、詩が必要だったのだ。

  河津聖恵「鳥の悲しみ-雪中錦鶏図」。

一羽の鳥の悲しみが雪を柔らかに溶かしている
それとも 溶けかけた世界をふたたび凍りつかせているところか

 「それとも……か」。これがこの詩のキーワードだ。「それとれ……か」は疑問であり、断定の回避である。あるいは保留というべきか。しかし、ほんとうか。逆に、それはより強い「断定」へ向かうための助走であるとも言うことができる。

分かるのは
いまもたった一羽の悲しみが秘かに世界を溶かしていること
あるいは凍りつかせていること

 そして、その「断定」とは、何かを「固定」することではない。「分かる」とは、「あるいは」を発見するためには、「回避」、あるいは「迂回」が必要だということである。「迂回」することが、詩なのである。「迂回」の中に詩があるということである。

 須永紀子「誕生」。

書かれていたかもしれない
「人間とこの世界についてのまだ語られていないこと
掬いとって並べなおす

 「かもしれない」が「迂回」である。それは「まだ語られていない」という「不在」への接近である。迂回するとき、強く認識される「不在」。「不在の認識」が詩であるか。そうだと仮定して。

一文が次行を誘い
水平線をこえて
続いていくと思われた

 私は、この「思われた」という表現が大嫌いである。なぜ「思った」ではいけないのか。「思われた」という「迂回」は、「わざと」か「わざわざ」か。たぶん「無意識」だろう。須永の癖(習慣)かもしれない。主観を押しつけないという、押しつけがましさ。このあいまいさは、

「人間とこの世界についてのまだ語られていないこと

 の鍵括弧が閉ざされていないところにもあらわれている。拒否を拒んだ、「思われた」というあいまいな主観の押しつけ。と、書き続けてくると、「わざと」だな、と「思われてくる」。
 ね、須永さん、いやでしょ、こんなふうに「思われてくる」なんて、書かれたら。
 私は「わざと」、「わざわざ」、須永がいやがることを書いている。意識的に、である。この私の「意識的」な行為には、もちん詩は存在しない。「わざと」「わざわざ」だけが存在する。

 


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閣議決定でいいのか(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-17 09:30:04 | 考える日記

 2022年12月17日の読売新聞(西部版・14版)は、安保3文書、税制改正一色の紙面。あ、戦争がはじまった、と私は震えてしまった。書きたいことが多すぎて、とても書き切れない。少しだけ書く。(番号は私がつけた)
↓↓↓
「反撃能力」保有 明記/安保3文書 閣議決定/戦後政策を転換(見出し)
①政府は16日、今後10年程度の外交・防衛政策の指針となる「国家安全保障戦略」などの3文書を閣議決定した。
②自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する「反撃能力」の保有を明記し、戦後の安保政策を転換した。
③中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため、防衛費と関係費を合わせて2027年度に現在の国内総生産(GDP)比2%とし、防衛力を抜本的に強化する。
↑↑↑
 私が一番問題にしたいのは、
①「閣議決定」である。
 安倍以来、いろいろなことが「閣議決定」された。「安倍昭恵は私人である」というようなくだらないものが多いせいか、閣議決定は「どうでもいいもの」として見過ごされてきた。その延長線上に「安倍国葬」があった。民主主義を破壊した安倍が、閣議決定という独断で「評価(尊敬される政治家)」されてしまった。国会で審議されることなく「実施」が決まった。そして、実際に実施された。「戦争法」さえ国会審議があったのに、「安倍国葬」は国会審議がなかった。私は、これに抗議するために、東京のデモに参加したが、デモ参加者は予想以上に少なかった。国会審議をしなくても、閣議決定さえすればなんでもできる、という「風潮」ができあがってしまった。
 今回のニュースも、それを伝えている。
 閣議決定をした、だから、これはもう変更できないのだ、国会審議の必要はない、という「論調」で読売新聞の紙面は展開する。批判の声は、四面に、立憲民主党の声、社会面に沖縄知事の短いコメントが載っているくらいである。
②と③は、よく読むと、整合性があるようで、整合性がない。
②は「自衛目的」ということばではじまっている。「敵」は、明確に書かれていないが中国、北朝鮮(さらにはロシア)を想定しているのは、これまでの報道からもわかる。この「自衛目的」が、
③で「中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため」にかわる。「敵」ということばのかわりに「中国」が登場し、「自衛」のかわりに「国際秩序を守る」があらわれる。ここには大きな飛躍がある。「国際秩序」は日本の意志だけ(閣議決定だけ)で決められることなのか。「国際秩序」を議論するために「国連」があるはずだ。
 国際紛争(いわゆる有事、戦争)が起きたとき、侵攻された国はどうするのか。もちろん抵抗(反撃)もするだろうが、国連の場で訴えるだろう。国連で、自国への支持(相手国への批判)を求めるだろう。ロシアに侵攻されたウクライナだって、そうしている。
 ウクライナは、「国際秩序」のためではなく、ウクライナ自国のために戦っている。その戦いが「国際秩序」を守ること(回復すること)につながるとしても、それは「前提」ではない。まず「自国を守る(自分たち自身を守る)」である。
 「自衛目的」から「国際秩序を守る」への表現の転換は、単なる表現の問題ではない。そこには表現を変える必要性、隠された問題があるのだ。
 本当は何をしようとしているのか。三面に、重要な分析が載っている。
↓↓↓
④防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 「日米の足し算」ということばだけを読むと、日本だけでは防衛できない部分をアメリカに助けてもらう、日本が攻撃されたらアメリカに助けてもらう(日米安全保障)と考えがちだが、高杉はちゃんと正確に言い直している。今回の「安保3文書」の目的を理解して、ぽろりと「本音」を語っている。(読売新聞の「ばか正直」なところは、それをそのまま書いてしまうところ、自分はこんなに知っていると得意顔で書いてしまうところである。)
 何と言い直しているか。
 「米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるか」
 「安保3文書」改訂は、米軍の補完のためである。
 三面の記事の見出しは「対中均衡 米と連携」となっているが、中国を封じ込めようとする動きに日本が協力する、ということである。
 中国はすでにアメリカ本土を直接攻撃する軍備を備えているだろう。(北朝鮮も開発中である。すでにミサイルはアメリカ本土を射程に入れている。)その中国(そして北朝鮮)を攻撃する(反撃する)には、アメリカ本土から攻撃(反撃)するよりも日本から攻撃(反撃)する方が効率的である。日本からならICBMをつかわなくてもトマホークで対応できる。これが「米国の足らざる部分をいかに日本が埋めの」ということだ。
 日本から「反撃」するかぎり、中国、北朝鮮はまず日本(日本にあるアメリカ軍基地)を攻撃するだろう。日本が攻撃されているかぎり、アメリカ本土への攻撃は「手薄」になる。これがアメリカの作戦である。
 アメリカを守るための「捨て石」になる。(日本をアメリカを守るための「捨て石」にする。)それが、安保3法案である。これが「閣議決定」だけで決まってしまうのだ。
 内閣支持率がアップしない岸田は、アメリカから「首相でいたいんなら、アメリカの政策に協力しろ。協力すれば、応援してやる(首相でいらせてやる)」というようなことを言われているのだろうか。
 そして、このなことのために、増税が行なわれようとしている。
↓↓↓
防衛増税 3税決定/法人・所得・たばこ 「時期」先送り/与党税制大綱(見出し)
⑤自民、公明両党は16日、2023年度の与党税制改正大綱を決定した。最も注目された防衛力強化の財源確保では、法人、所得、たばこの3税を増税し、27年度に年間1兆円強の財源確保を目指すとした。引き上げ時期の決定は先送りした。
↑↑↑
 問題は、「時期先送り」だろう。なぜ「時期」を先送りしたのか。一つは、来春の統一選対策である。増税をすぐ実施すれば選挙で批判される。票が獲得できない。だから、実施は先送り。しかし、実施を先送りするなら、いま決めなくてもいいだろう。なぜ、いま決めないといけないのか。
 アメリカに説明するためである。「トマホークを買います、そのための予算を確保しています」と「証明」するためである。「増税し、予算を確保します」と言うためである。売る方だって、本当に金が入ってくるかどうか確認する必要がある。銀行でローンを組むとき、収入を訪ねられるようなものだ。「与党税制大綱」と言うが、実際は「閣議決定(岸田の決定)」である。
 長くなるので記事は引用しないが、見出しだけ抜き書きしておく。
↓↓↓
⑥首相、増税議論を主導/防衛財源 「説明責任」強調
⑦税調、首相の要望くむ/与党税制大綱 宮沢会長「指示だから」
↑↑↑
 安倍以来、首相が言うことにしたがうだけ(そうしないと選挙のとき応援してもらえない)が、「政治」になってしまったのだ。

 ここでまた「国葬」にもどるのだが、あれを阻止できなかった野党の責任は重い。岸田は、何だかんだと言って国葬を実施した。批判されたが、もちこたえた。私は実際に東京のデモと集会に参加して感じたのだが、国会審議もなしに国葬が行なわれたことに対する怒り(恐怖)が、あまりにも小さい。
 どうして、こんなふうになってしまったのか。
 私は、太平洋戦争の前に何があったのか、実際に体験したわけではないからわからないが、いま起きている「無力感の蔓延」は、とてもおそろしい。怒りが減って、権力にすりよることで保身をはかるという姿勢の蔓延がおそろしい。ジャーナリズムが、それを率先してやっていることがおそろしい。
 いま私はジャーナリズムが率先してやっていると書いたが……。実は、ジャーナリズムは、いちばん流行に鈍感な存在である。流行をつくりだすことはない。流行が起きてから、これこれが流行しているというのがジャーナリズムズある。だから、読売新聞がやっている「リーク記事」を「特ダネ」と自慢するようなことは、ほんとうは世間で流行しているのかもしれない。他人から教えてもらって「頭」で知っているだけの知識なのに、まるで自分がそれを体験しているかのように語る風潮、それがなんというか、「自分の知らないことを知っている人(たとえば岸田)の言うことは正しい」という「風潮」につながっている。
 北朝鮮や中国がほんとうに日本を侵略しようとしているかどうかなんて、私は知らない。しかし、私は電気代、ガス代が高くなり、年金だけでは金が足りず、ちょこまかしたアルバイトでは追いつかず、貯金が目減りしつづけていることを知っている。だから、増税なんか許せない。法人税を払うわけではない、たばこ税を払うわけではない。しかし、その税金が、私の暮らしのためではなく、アメリカの世界戦略のための軍備につかわれるというのは、許せない。
 私は、基本的に、私の知らないことを一大事のようにして語るひとのことばを信じない。「正しい」と鵜呑みにしたりはしない。そういう新聞のことばを信じない。矛盾を探し、疑問を書く。
 二面にこういう記事もあった。
↓↓↓
安保支出 世界3位へ/27年度11兆円 GDB2%確保で
↑↑↑
 「生活保障、教育費支出 世界1位」というようなことこそ、見出しになってほしい。そういう世界になってほしい。岸田の身分と金もうけのために、防衛費が世界3位になることに、いったいどんな意味があるか。

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池田清子「白」、青柳俊哉「モナリザ」、杉惠美子「クリスマス」、木谷明「葉音」、徳永孝「招待状」

2022-12-16 17:42:40 | 現代詩講座

池田清子「白」、青柳俊哉「モナリザ」、杉惠美子「クリスマス」、木谷明「葉音」、徳永孝「招待状」(朝日カルチャーセンター、2022年12月05日)

 受講生のひとりが西脇順三郎の詩を持ってきた。まず、それを読んで、そのあとみんなの作品に西脇に通じるものがあるか(似たことばづかいがあるか)、あるとすればどれか、ということから語り始めた。

秋 2  西脇順三郎

生垣の
さんざしの秋の中に
あごをさして
居眠る
乞食の頭を
よこぎる
むらさきの夢は
ミローの庭の
断面
に黒く流れる                            


ミロー   ジョアン・ミロ20世紀のスペインの画家。シュルレアリスム。
西脇順三郎 1894年(明治27年) - 1982 年(昭和57年)詩人、英文学者。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。
出典    禮記 1967 年(昭和42年)

 西脇を初めて読む受講生もいて、独特のことばの選択、リズムへの反応が強かった。「乞食」ということばを詩につかうのも新鮮だったようだ。「乞食は何も持たない自由人をイメージしている。西脇らしい」と西脇を読んだことのある受講生。「さんざしの秋の中には、ふつうは秋のさんざしの、という言い方をする。ことばの順序が逆でおもしろい」「最終行の、助詞のにが一番上にきているところが今風」「あごをさして、がわからない」「うっとりと眠る様子ではないか」「ミローの庭の断面の、断面が想像できない」「むらさきの夢、がわからない」「黒く流れる、が強烈」「西脇が黒を使うのはめずらしいのではないか」
 私は、特に解説はしなかった。こういう詩がある、こういうことばの動かし方がある。それに出会うことが大切だと思う。「さんざしの秋の中に」というか「秋のさんざしの中に」というか、あるいは「秋のさんざしの中に」というか。ことばは、たぶん、さまざまな暮らしのなかで「修正される」。「その表現は不自然だ。こういうのが自然だ」という具合に教えられ、少しずつ、整えられる。この「社会」が少しずつ教え込む「教育」から、どこまで自由になれるか、と書くとおおげさかもしれないが、ことばを意識的にいままでとは違う形で動かしてみる、いままでつかわなかったことば、詩には不似合いだと思っていたことばをつかってみると、詩はかわるかもしれない。

白  池田清子

建ったばかりの
真っ白な壁
白い陸屋根

真っ白なシーツ
白いワイシャツ、白いシャツ、
白いワンピース

背景も
やっぱり
白にしようか

白い部屋の真ん中に この絵を掛けて
白いレースのカーテンを
天井からつるそう
白くて柔らかい薄い生地を
机や椅子に無造作にかけよう
白いシーツ、ワイシャツ、ワンピースは
壁に 貼りつけるとしよう

私も 白い服を着ていよう

 池田は「西脇の詩とは真逆の世界だ」と自己評価した。最初の三連だけでいいのではないか、という意見の一方、四連目がおもしろいという意見があった。最初の三連だけでは抽象的すぎる。四連目があるから具体的になる。
 西脇の特徴は、そこに書かれていることばが「具体的」ということだと思う。
 池田の詩では、「無造作」が西脇の具体性に通じるかもしれない。整えられ、抽象に消化される前の存在感。「白いシーツ、ワイシャツ、ワンピースは/壁に 貼りつけるとしよう」の「貼りつける」も新しいつかい方をしていると思う。


モナリザ  青柳俊哉  

氷河湖にしずむ山岳と
隆起する海底との境に立つ 
夕日に明るむ女の額 背後の
細い谷に密生する 有明すみれ

幼いイエスが春の綿毛を
ふきちらした アルプスを越えて来る
葦毛の白い皇帝の馬たちの 息吹の朝へ 
女は嚏(くさめ)して 黒い歯を覗かせわらった

裸にされた花婿のイエスのために
柔らかい口角の女の永遠のために 唇のうえ
の髭の三日月が かき消されるとしても 
額のむこうの すみれは輝きつづける

 青柳の自己評価。「センテンスが長い。イメージが近いものを持ってきている。西脇はかけ離れたイメージを結びつけるので、ことばのインパクトが強い」
 「イメージの広がり、辞書の定義とは違うイメージ、意味をことばにこめているという点に西脇に似ているのではないか」という指摘があった。
 私は「女は嚏して 黒い歯を覗かせわらった」が西脇のことばの運動に少し似ていると思った。「嚏」に含まれるユーモアが効果的だ。
 その行について「ミローの庭の/断面/に黒く流れる」を思い出すという受講生もいた。
 二回登場する「すみれ」も西脇の好みそうな音、色である。「の髭の三日月が かき消されるとしても」の行頭の「の」も西脇に通じる。切断されたイメージが、強引に結びつけられる。その瞬間に、世界が、動く。そのときの衝撃が詩なのだと私は思う。

クリスマス  杉惠美子

ある日 新聞広告が目に入り
旅に出かけた
何かに出会える気がした

欲しいものは何? 

 もうすぐ クリスマス
 サンタさんに手紙を書いて
 クリスマスツリーを飾って
 靴下を下げよう

あの時の あの人からの言葉
あの時の あの人からの手紙
あの時の あの人からの報告

旅の空の下
道の駅で来年咲く花の種を買った

 杉の自己評価。「西脇は、イメージの彼方にあるものが高い。私のは、かわいらしい」。西脇のイメージが拡散的であるのに対し、杉のことばは身近な存在を結びつけているという意味だろうか。ことばの意味が「日常」の周辺で動いているという点では、池田の世界に近いか。
 「西脇に通じるものがあると思う。抽象的なところがあり、暗い気持ちにならないところが西脇の詩を読んだときと同じ」「古典的な感じがする部分が西脇に似ている」「生活感が違う」「あの時の、を繰り返しリズムを整えるやり方。リズムのことを考えているのが西脇に似ている」
 私は「新聞広告」ということばは「乞食」に通じると思う。イメージではなく、存在感がある。「道の駅で来年咲く花の種を買った」の「来年」も抽象的ではなく、非常に具体的な感じがする。どんな花か、花の名前ではなく「来年咲く」というのがおもしろい。花の種は、今の季節なら、たいてい「来年咲く」。二年先、十年先ではない。つまり、ふつうはいわなくてもわかることなのだが、それをわざわざ言うと、そこに「手触り」がでてくる。そういう「手触り」の出し方が、西脇に似ているかもしれない。

葉音  木谷 明

…………なに、
……わたし、
落ち葉、
振り向く、

そう、
そう。

枯れ葉、
落ち葉、
振り向く。

そう、
そう。

   *

降る……
……離れる……   
空振れて落葉(らくよう)の葉音

 木谷の自己評価。「風景を、心象風景に落とし込むところが似ている。私の詩は、透明度がある。時代背景が違うし、西脇の詩には男の視点があり、生活のとらえ方が違う。行わけの仕方は、西脇の詩はいまっぽく、似ている」
 「そう、/そう。という音、表記の仕方が似ている」「感覚的なことロスが似ている」と受講生の指摘。
 私は、最終行の音への配慮が、西脇に通じるかと思った。音そのものは西脇に似ているとは感じないが、音を重視してことばを動かすという方法は西脇に通じると思う。

招待状 徳永孝

アリスから夜のお茶会への招待状が届きました

チューリップやスズランの花を飾って
そうそう彼女のことですから
ユーカリの小枝も添えるでしょう

きっと彼女のお気に入りの
白磁のティーセットと
銀のスプーンを使うでしょう

お茶はダージリンかアールグレイかそれともオレンジペコ?
ストレートとミルクティーどちらが合うかしら
彼女の趣向が楽しみです

ナイチンゲールも来るそうです
気のおけない同士の静かな会にしたいそうです
三月うさぎ達のお茶会で懲りたな、と思いました

さて何を着て行きましょうか
ちょっとしたプレゼントも有った方が良いかしら
これから少し忙しくなりそうです

 徳永の自己評価。「自分の詩はイメージが具体的でわかりやすい。現実の風景を描きながら、奥にあるイメージを描いている」。
 「アリスという架空の人物、現実にはないイメージをもってくる、その世界観、精神の自由度が似ている」「ナイチンゲールからの三行が、主客が交代するというか、アリスの気持ちが突然出てくるところが、飛躍があって似ている」
 「ナイチンゲール」からはじまる三行について言えば、「、と思いました」がない方がより西脇に近くなると思う。イメージの躍動感を、「論理」が押さえ込んでいる。西脇なら、論理を叩き壊すためにイメージを躍動させる。西脇が書いているのは、イメージの躍動というよりも、論理の躍動である。

 

 

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「現代詩手帖」12月号(7)

2022-12-16 10:04:29 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(7)(思潮社、2022年12月1日発行)

 蜆シモーヌ「乙女」。

あたしとても
きのこになりたい

 この二行は、小学生が「ぼくはきょうりゅうになりたい」と書くのに似ている。違うのは、そのあとだ。

きのこになるまでの
途方もないみちのりにいつかなりたい
森のしめりけの
ひふのうえを
かしこくかしこく
微分して
ひくくひらたく
へりくだるきのこの
実をむすぶあのやり方がとてもすき

 「きのこ」そのものよりも、「みちのり」、言い換えると「過程」になりたい。これはこどもには思いつかない。しかも、その過程は「途方もない」のである。長いのか、変化に富んでいるのか。
 それが「森のしめりけの」以下につづいていく。
 こういうことは「わざと」書いているのだが、その「わざと」はていねいなので、「わざわざ」になる。
 ほかの行はなくてもいいなあ。この十一行だけで、完璧な詩になっている。ほかの行を書いているのは、完璧を隠すためかもしれない。それならそれで、とてもいい。完璧なものは、完璧と言ってしまったらもう言うことはなくなる。

 中本道代「川のある街」については、ブログで書いたかもしれない。

廃屋の垣根にスイカズラが咲いている
スイカズラは二つの白い花が対になって開き
夏の初めに道端で強い薫りを放つ

 「スイカズラは二つの白い花が対になって開き」という一行がていねいだ。中本の視線が細部にまで注がれていることがわかる。しかも、その視線の注ぎ方は「客観的」なのである。「対になって」ということばが「客観的」だ。
 この「客観性」は、詩の途中で、もう一度発揮される。

どの坂を下っても川に突き当たるのだった

 川は低いところを流れている。それだけのことであるが、「低いところ」と言わずに「坂を下る」という動詞と結びつけて書いているところがとてもていねいだ。
 「対になる」も単に「客観的」と言うよりも、そこには「人間の行為」が反映されているかもしれない。どこかに「人間」をもとめるこころが動いているように感じられる。「人間」をもとめているからこそ「廃屋」も気になるのだろう。

キジバトの鳴くくるしさ

 という一行もとても印象的だが、「くるしさ」になにかしら「人間」の反映を感じるからである。
 印象的な行(ことば)は、いずれも「わざわざ」書かれている。そこに中本の個性、人間性を感じる。中本のことばには、主観と客観の静かなバランスがある。
 ところで。
 中本は「街」と書いているが、私は昭和の「村」を思い浮かべながら読んだ。

 牟礼慶子。彼女も新井豊美と同じく故人。「愚かな弁明」は「遺書」のような作品である。その終わりの四行。

しかし私の方は今度こそ
空よりもずっと低いと
ひげも生やしてなどいないと
大声をあげながらこの世から出て行ってやる

 「しかし」を説明するには、前の部分が必要なのだが、想像すれば、なんとなくわかるだろう。
 「大声をあげながら」がとてもいい。「遺書」というのは「わざわざ」書くのか、「わざと」書くのかわからないが、牟礼は「わざわざ」書いたのだと思う。「大声をあげながら」に切実さがある。

 


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「現代詩手帖」12月号(6)

2022-12-15 11:35:55 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(6)(思潮社、2022年12月1日発行)

 福間健二「フミちゃんの眠らない夜」は、「後注」がついいてる。

二十三歳のフミちゃん、金子文子(一九〇三-一九二六)の没年を意識して。そこから書きはじめて、金子みすゞ(一九〇三-一九三〇)をひっぱりだして終わることになるとは思っていなかった。文子とみすゞ、同年生まれで、文子の方が少し上。

 これは「わざと」書いたのか、「わざわざ」書いたのか。「わざわざ」と私は思った。私はふたりの生まれた年も死んだとしも知らないが、そういう読者は多いだろう。その読者のために「わざわざ」書いてくれているのである。福間は、親切な人なのだろう。いまは、親切は親切とはいわずに、「おせっかい」というかもしれないなあ。
 詩のなかに、

キス、やたらにするもんじゃない。いまはとくに。

 ほら、「親切」ではなく「おせっかい」でしょ? おせっかいは「わざわざ」するものなのだ。
 でも、福間のために書き加えておくと「詩とは書き始めたときと書き終わったときとでは、思いがけず、世界が変わってしまっている」という定義を、「後注」で「わざわざ」言い直してくれている、読者を啓蒙しようとしているところが、なかなか親切である。「思っていなかった」が、とてもいい。「思っていなかった」のなら、それを破棄してもいいのだが、そうではなく「思っていなかった」からこそ作品として提出する。これが作品を評価するポイントになる。「思っていた通り」(予定通り)なら、それは詩ではないのだ。

 新井豊美「私は漁婦 ボラとりに行く」。

魚市場で
とれたばかりのボラの頭が切り落とされ
切り口からどっと赤いものが
あふれ出すのを見た
頭のないボラの銀色にくねる胴を
男はわし掴みにして立ち去り
男の動作はすばやく
血潮の中に頭と内臓がしんと残った

 「男は」「男の」と繰り返されるところがとてもおもしろい。私は反射的に、対極(?)の女を思い浮かべる。だから「血潮の中に」の血潮を月経のように感じてしまう。新井の肉体(生理)のなかに「頭と内臓がしんと残った」。それは魚市場の光景であって、魚市場ではない。

夢 とはいえ色彩と音と質量があり
夢 とはいえ鞭となって痛くしなる
ボラの血で指を染め
夢 という激しい暴力をあの男にならって
刃物でザクリと切り落としたい

 いいなあ。まるでセックスだ。セックスのとき、男は男でありながら女であり、女は女でありながら男である。したいこと、されたいこと、に区別がなくなる。
 「男は」「男の」と「わざわざ」書いたから、「夢」「夢」「夢」が「わざわざ」書かれたものではなく、自然になる。

 ところで。
 なぜ十年も前に死亡した新井の詩が「年鑑」に載っているのか。『新井豊美全詩集』が一月に出たからである。つまり、詩集を売るための宣伝のために、「わざわざ/わざと」古い作品を掲載しているのである。
 そういうことに新井の詩が利用されたからといって、新井の詩のことばの意味や音の響きが変わるわけではないし、これをきっかけに新井の詩を読む人が増えるとしたら、それはそれでいいことだが、私は感心しない。「年鑑」とは「記録」のことだろう。商売は「記録」ではない。
 それは、編集についても言える。現代詩手帖の「年鑑」は毎年、作品の掲載順序に気を配っている。基本的に発表月(今回は2か月単位)で区切り、その区切りのなかでは五十音順に作品が掲載される。そして、その区切りごとの掲載順のほかに、全体の最初と最後は、かなりの有名詩人(たいていのひとが知っている詩人)の作品が掲載されることになっている。今回は巻頭の作品選びに苦労したようだ。五十音順を守ると、巻頭は青野暦になる。これを避けて、谷川俊太郎の作品を最初に掲載している。(最後は吉増剛造である。)この操作は「わざわざ」なのか「わざと」なのか。「わざわざ」なのだが、そこから人間性があふれてこないので、どうしても「わざと」になってしまう。
 私は、編集方針をきちんと守り、谷川俊太郎のほかの詩人の作品の中に紛れ込ませた方が谷川に対して親切だと思う。「わざわざ」特別待遇をしない、ということが大切な場合がある。商売のために特別待遇をするのは、私には非礼な行為に思える。つまり「わざと」特別待遇しているように見える、ということである。

 倉田比羽子「交歓」。倉田は、ある時期、新井豊美と同じ歩調をとって作品を書いていたような印象がある。「仲間」という印象が私の記憶のなかにある。だから、というわけなのかどうかよくわからないが。

それは、まるでそこがはじまりであったかのようにふさふさした草むらに分け入ってゆく

 この一行「交歓」というタイトルの影響もあって、新井の描いていたセックスにつづけて読んでしまう。そして、『河口まで』『いすろまにあ』の新井豊美の詩は好きだったが、その後は次第に好きではなくなっていったなあ、というようなことを思い出してもしまう。好きではないことを「わざわざ/わざと」書くのも私は好きだが、きょうは、やめておこう。「年鑑」について書いたから、もういいだろう。

 


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Estoy loco por espana(番外篇259)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-15 09:38:45 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


 ¿Sabes? Lo que miraba, lo que pensaba, mientras daba vueltas alrededor de tu escultura.
 Te lo diré sólo a ti.
 Delante, detrás, derecha, izquierda. Cada vez que cambio de posición, cambia la forma de tu obra. Pero, ¿sabes? La sombra en la pared y en el suelo siguen siendo la misma. A veces doy la espalda a la obra para comprobar la sombra.
 ¿Qué es una sombra? ¿Por qué no cambia de forma? ¿Acaso la sombra que emerge de la obra habla de la esencia de la obra?
 Pero también conozco otro secreto.
 La sombra cambian con más violencia que las obras de arte. Se mueve al cambiar el ángulo de la luz. Cuando el sol cambia de posición, la sombra se extiende por el suelo o se levanta contra la pared. Y mientras cambia de forma, intercambian palabras contigo (con tu obra hermosa), que siempre tienes el mismo aspecto. El lenguaje de la sombra es el lenguaje de la luz. Pueden ser las palabras, la música, que se mueve en tu corazón.
 Entre el tiempo, tu obra, la luz y la sombra bailan: siempre sueño con esto.

 

 Toda obra de arte convive con el espacio, la luz y el tiempo. Así que, a menos que uno vaya allí y lo vea con suspropios ojos, no habrás visto la obra.

 

 

 君は知っているだろうか。君の作った彫刻のまわりをぐるぐる回りながら、私が何を見ていたか、私が何を考えていたかを。
 君だけに教えよう。
 正面、後ろ、右、左。私が立つ位置をかえるたびに、君の作品の姿が変わる。しかし、君は知っているだろうか。壁と床に映った影は同じ形のままなのだ。ときどき作品に背を向けたのは、影を確かめるためなのだ。
 しかし、影とは何だろう。なぜ形を変えないのか。作品から生まれた影こそが、作品の本質を語っているのではないのか。
 だが、私は別の秘密も知っている。
 影は作品よりももっと激しく変化する。光の角度が変わると動いていく。太陽が位置を変えると、影は床に伸びたり、壁にぶつかって立ち上がったりする。そして、形を変えながら、いつもかわらぬ姿の君(作品)とことばをかわしている。影のことばは、光のことば。それは君のこころのなかで動いていることば、音楽かもしれない。
 時間のなかで、作品と光と影がダンスする--その様子を私はいつも夢見ている。

 

 あらゆる作品は、空間、光、時間と一緒に生きている。だから、その場へ行って、自分の目で見ないと作品を見たことにはならない。

 

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Estoy loco por espana(番外篇258)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-12-15 08:45:19 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Las 2 orillas" Serie pictografias 100x100cm.


qué se mueve?
yate? olas? viento? luz? gente?
color? sonido?
tiempo?
memoria?
si fuera un poeta.....
con qué palabra empiezas cuando escribes un poema?

 

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現代詩手帖」12月号(5)

2022-12-14 12:35:49 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(5)(思潮社、2022年12月1日発行)

 奥野埜乃「( とつとつと…」。書き出しから、私には、何が書いてあるのかわからない。

とつとつとシグナルを送る凹んだ臍のうえにわたしの指がなめらかな波紋を広げたとき、彼女は水面から、深く、深く、いつもの姿勢で沈んでいっている最中だった。
そう、いつもならわたしをハグするためのこと、彼女は陽が差し込まなくなる水底へとゆっくりゆっくり降りていく。

  何がわからないかといって、「わたし」のいる位置である。「わたし」は水底にいる。「彼女」は、水底にいる「わたし」とハグするために水中に降りていくということか。そうであるなら、「わたし」から見れば「沈んでくる」「降りてくる」だろう。「沈んでいく」「降りていく」というかぎりは、私は水の外にいる。それでは「ハグ」できないだろう。「ハグ」が「抱擁」だと仮定の話だが。
  これは「わざと」奇妙な動詞のつかい方をしているのか。「わざわざ」こんな書き方をしているのか。「わさわざ」と「わざと」と違う。
  このあと、

彼女は語気強く未知の言葉に応答し、全身の毛を逆立てる。

  という一行がある。「未知の言葉」は「沈む」「降りる」ではないかもしれないが、知っているように思えることばを「未知のことば」に変えてしまうのが詩であると私は信じているので、奥野の書いていることがわからない。
  さらに、こういう一行がある。

だいじょうぶ、彼女はあなたに告げるから。わたしを伝えるのがあんたの使命よ。

 「あなた」「あんた」が唐突に出てくる。「わたし」と「あなた/あんた」の関係はどうなっているか。「彼女」の存在によって「わたし」が「あなた/あんた」へと変化するということか。
 いずれにしろ、この書き方は「わざわざ」ではなく、「わざと」である。
 たとえば、葬儀。「遠いところをわざわざありがとうございます」という挨拶がある。一方、遠いけれど、「わざと」行くときがある。それは「わざわざ」とは全く違う意味である。
 西脇順三郎は、詩は「わざと」書くものであるというようなことを言っていたと記憶する。西脇の場合「わざと」書いても、それが「わざと」ではなく、自然に「わざわざ」にかわっていく。なぜかというと、西脇には私とは違って深い教養があって、それが人間性となり滲み出してくるからである。「わざわざ」は滲み出してくるもの。「わざと」はほんとうはそれが存在しないのに、存在するかのように装うことである。遠い葬儀に「わざと」行くのは、私は故人を尊敬していました、と嘘をつくためである。

 城戸朱理「凶兆」。

月がゆるやかに位置を変えるとき
星の座が定まる
あかあかと燃えるベテルギウスから
不吉の知らせが届いたのか
森が誰かを殺すために
           動き始める
それもまた伝承だが、もし現実になるならば
月もまた青ざめていくだろう

 これは「わざと」の大集合である。その証拠が、引用した終わりの二行にある「また」「また」の繰り返しである。「また」を繰り返さないことには、ことばが動かない。「また」によってことばを動かし、その動きによって「事実(それまで書いてきたことば)」を定着させる。
 ことばによって「事実」を別なものにしてしまう、というのは詩の特権であるが、それが

森が誰かを殺すために
           動き始める

 というような視覚に頼らないと成立しない特権ならば、私は、特権であることを放棄した運動にしか見えない。
 この直後に、

怒りがデジタルに拡散していく時代

 という一行がある。「ペテルギウス」のような音の美しさが「デジタル」にはない。「デジタル」からは、滲み出してくるものが何もない。
 最後の四行。

星の座が定まるとき
国境は揺らぎ
千年を経た大木が裂け
数千年を閲した山脈が崩れる

 「デジタル」なのに「数千年」か。概数を拒否してしまうのが「デジタル」ではないのか。城戸の書いているのは、「アナログ」でもなく「アナクロ」かもしれない、と私は感じる。
 西脇が「わざわざ」に高めた「わざと」を、わざわざ「わざと」に引き戻している。

 管啓次郎「西瓜の日々(My Watermelon Days)」。

西瓜の建築のなかに住めることがわかって
それは西瓜そのものなのだった。
装飾も家具もない。
むずかしいのはどうやって中に入るかで
表面に穴をあけると果汁がこぼれてしまう。
どうやって入ろうか、どうやって入ろうか
いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。

 この「どうやって入ろうか、どうやって入ろうか/いろいろ考えて、試みていると、それが起きる。」という二行に集約されているのが「わざわざ」だ。
 ここから「わざと」が「わざわざ」にかわって、滲み出してくる。「千年」とか「数千年」とか言わずに、管の「生涯」(このことばが詩のなかにある)が滲み出してくる。それは、いつの時代の管なのかわからないが、わからなくて当然なのである。十年前か二十年前か、あるいはきのうか、さらにも明日かもしれない時間が、管をつつみこむ。時間は、いつでも、それを思った瞬間に、「いま」となって存在するものである。
 だから、管は、詩を、こんなふうにとじる。

そんなぼくの西瓜の日々は
はじまったばかりです。
西瓜で乾杯しよう。
生命のために。

 「千年」「数千年」ということばはなくても、千年、数千年、つまり「永遠」を感じる。それは「過去」ではなく、「いま」という限定を破壊する力だ。「いま」という限定を破壊し、「いま」とさえ呼べない充実した瞬間に変える。
 こういう瞬間のために、「わざわざ」遠回りをする、私は引用しなかったが、管のことばはいろいろな時空を動き回る。それが詩である。現代詩手帖か、詩集で、いちばんいいところを探して読んでみてください。


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Estoy loco por espana(番外篇257)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-12-14 08:45:46 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"En compañía de la lluvia" Serie pictografias alla por el 2010, 200x200 cm

 La palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso recuerda el cuadro de un hombre caminando bajo la lluvia. La palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en el día lluvioso está relacionada con un sueño en el que intentaba recordar un recuerdo que no podía rememorar. En el sueño, llueve y el hombre camina bajo la lluvia. Mojados por la lluvia, los contornos de las farolas se difuminan en un color gris, creando muchas sombras que se disuelven en el aire como un recuerdo no recordado. Se ha vuelto difícil distinguir entre lo real y las sombras. Pero en el cuadro que la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso, el tiempo ha pasado y el hombre que la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso no está ahí, pero otra palabra que lo perseguía está caminando como un hombre. En la mano lleva una bolsa roja llena de palabras. Las palabras pretendían describir recuerdos que no podía recordar, pero la lluvia continua empapó la bolsa y los contornos de las palabras empezaron a disolverse. Cuando las palabras disueltas tocan el pavimento, se convierten en nuevas palabras que siguen al hombre y empiezan a caminar. Era como un recuerdo que aparece repetidamente en un sueño que no puedo recordar. La palabra escritas siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso, se hace dudar de si está mirando el cuadro, convirtiéndose en el hombre del cuadro y caminando por la ciudad de la memoria, o caminando por la memoria de la ciudad. Mirando hacia atrás, está segura de que sus ojos deben encontrarse con la palabra deseosa de ver la desesperación de la palabra escrita siguiendo la luz de la mañana en un día lluvioso.

 雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、雨の降るなかを歩いている男の絵を思い出し、雨の降るなかを歩いている男の絵を見に行った。雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、思い出せない記憶を思い出そうとする夢と関係していた。夢のなかでは雨が降っていて、その雨のなかを男が歩いている。雨にぬれて、街灯の輪郭は灰色ににじみ、いくつもの影をつくりながら、思い出せない記憶のように空気のなかに溶け出している。本物と影との見分けがつかなくなっている。しかし、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばが見た絵のなかでは、時間が通りすぎたのか、あの日、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばが見た男はそこにはいなくて、彼を追いかけていたことばが男になって歩いていた。手にはことばがぎっしり詰まった赤いバッグを提げていた。それは思い出すことができない記憶を描写するためのことばなのだが、降り続く雨がバッグのなかにしみこんできて、ことばの輪郭が溶け始めている。溶け出したことばは、歩道に触れると、男を追いかける新しいことばになって歩き始める。それは繰り返し夢のなかに現れる思い出せない記憶にそっくりだった。雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばは、絵を見ているのか、絵のなかの男になって記憶の街を歩いているのか、街の記憶を歩いているか、わからなくなった。振り返れば、雨の降る日の朝の光につづけて書かれたことばの絶望を見たいと熱望していることばと目が合うに違いない。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇256)Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

2022-12-13 22:29:36 | estoy loco por espana

Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

 La obra de Ángel José Lafuente Jiménez, esta obra tiene curvatura natural y suave. Esta curvatura tiene la libertad de un cuerpo humano vivo. Si la toco con el dedo, ¿no empezará a moverse? No cambia simplemente de forma cuando se presiona con los dedos. Cambia de forma invitando al movimiento de los dedos. Es como una parte del cuerpo de una mujer hermosa. Tiene una flexibilidad que invita a tocarla.
 Pero, ¿cómo se hizo? Parece como si el hierro hubiera cambiado de forma espontáneamente mientras estaba caliente. No parece una forma que se haya hecho golpeando con un martillo. Pero cuando el hierro se ablanda por el fuego, ¿no se ablanda todo? ¿Sólo la superficie se mueve con flexibilidad, manteniendo la forma de la placa en forma de cinta? 
 Me siento que el hierro nació como una nueva vida en el fuego que arde desde dentro, y que buscó esta forma. Por eso quiero tocarlo. Creo que si lo toco, puedo sentir algo parecido a un instinto vivo de este hierro.

 Angel Jose Lafuente Jimenez の、この作品は、曲面が自然でなめらかだ。生きている人間の肉体の自由さを持っている。指で触れれば、動き出しそうだ。それは単に指に押されて形を変えるというよりも、指の動きを誘いながら形を変える女の肉体の一部のようでもある。触ってみたい、という欲望を誘い出す、しなやかさがある。
 しかし、どうやってつくったのだろうか。鉄が熱いうちに、自然に形を変えたかのように見える。ハンマーで叩いて、形をつくったような感じがしない。しかし、鉄が熱で柔らかくなったときは、全体が柔らかくなるのではないのか。リボンのような板の形を保ったまま、面だけがしなやかに動くのだろうか。
 鉄が、内部から燃え上がる熱のなかで、新しい命として生まれ、この形を求めたのだ、と感じさせる。だからこそ、触ってみたい。触れば、この鉄から、生きる本能のようなものを感じ取れるのではないか、と思う。

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「現代詩手帖」12月号(4)

2022-12-13 17:03:22 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(4)(思潮社、2022年12月1日発行)

 井坂洋子「秋の廊下」。

夢からさめて 九歳
父母の寝室の
ドアの前で少しためらい
小声で母を呼ぶ

 九歳ともなれば、なんでもわかるからね。大人の会話の中身は。そして、聞きかじった会話から、耳年増の子どもが想像することは、ほとんど正確である。たぶん、本能が教えてくれるから、間違えようがないのだ。
 ということを井坂が書いているかどうかは、問題ではなく、私はそういうことを考えたということ。
 ここに書いてあることは、現実か、記憶のなかで「変形」したものかわからないが、私は意識のなかで変形した記憶だろうと思って読んだ。
 途中は端折って、最後の連。

ドアの前で少しためらい
透き通っていく 腰のあたりの
背骨のとがり
遠い時間が曲がってきそうなところを 何度も何度も撫でている

 いいなあ、この終わり方。人間はいつでも知っていることしか、わかることができない。

 うるし山千尋「ライトケージ」。『ライトケージ』にはもっといい詩があったと思う。その感想を書いた記憶があるが……。どの詩をいいと思うか、どの行(ことば)をいいと思うかは、まあ、人それぞれだね。

やわらかい
弦は
空気のような他人の
風景のような
音がまじる

 「空気のような他人の」と一行にしてしまったところが、井坂の書いた「遠い時間が曲がってきそうなところ」に通じると思う。
 最終行は、

暇が窓枠のかたちをしている

 何のことかわからないが、わからないからいい。「わざわざ」書いているのだ。きっと「二十年ぶりに」(書き出しの一行)「暇」になったのだろう。何もすることがない、暇。
 暇なとき、人間は何をするか。「わざわざ」何かを探してきて、何かをする。
 そういうことを意識しながら、小笠原鳥類「闇汁・きのこ汁・むじな汁」を読む。「闇汁」の句を集め、それに「きのこ汁」「むじな汁」をからめ、いろいろ感想を書いている。それは、あるいは「闇汁」の定義というべきか。で、その「定義」というと。

乾燥した電気ウナギや深海のサメとか、あるいはゴムでできたにわとりとかを、鍋に入れて、それらがドジョウのように動き回るゾンビであることを楽しむ恐怖の遊び。

 もちろん、これは「わざわざ」書いている。「わざと」書いている。西脇順三郎が言ったように現代詩とは「わざと」書くのだから、これは「正統な現代詩」なのである。しかし、いつでもそうだが、「正統な」という形容詞がつくものは、ときとして退屈である。「わざわざ」正当化する必要はないだろう。「暇だね」と思ってしまう。どうせなら、そして「きのこ汁」や「むじな汁」を出すくらいなら、「ゴムでできたにわとり」ではなく、コンドームくらい書いてほしかった。

 どうも、私はきょうは不機嫌なようだ。見るともなしに、次に感想を書く詩人の名前が見えてしまったからかもしれない。それは、だれ? あしたになれば、わかるでしょ。これは「わざわざ」(わざと)書いていることです。

 

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「現代詩手帖」12月号(3)

2022-12-12 20:21:14 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(3)(思潮社、2022年12月1日発行)

 たかとう匡子「夜毎の夢」。

ひとびとが
スマホ片手にわめいている
アドレスがいつのまにか全部消えた
つながるものが何もない

 「スマホ」も「アドレス」も、「いま」どこででも語られることばである。昔は存在しなかった。その「日常のことば」が詩のなかにあらわれる。これは「わざわざ」書いたものなのか。無意識に書いたものなのか。「わざわざ」書いたものと読みたい。つまり、いままで詩に書かれていなかったから、新しいことばとして書いた、と。しかし、その書き方は、私には「わざわざ」には感じられない。
 だから、

四つ辻の角の100円ショップのおりたシャターに凭れて

 という「わざわざ」書いたと思われる一行まで、もしかしたら無意識に書いたのかもしれないと感じ、興味を持ち続けて読むことができない。
 だから、と言っていいのか、どうか。

わたしの毛髪の地肌を蟻が這ってる

 ということばの動きは、「わざわざ(作為=詩を書くぞ、という意識)」が目立って、ここは「わざわざ」を消した方がいいんじゃないか、と思ってしまう。

 時里二郎「風の手摺り」の書き出し。 

詩が言葉を借りるのは
それが 記憶の耳であるから

 あ、おもしろいなあ、と思う。「それが」とは何を指すか。「詩」か「言葉」か、あるいは「詩が言葉を借りる」ということ(前の一行)を指すか。即座には判断できない。テーマが「それ」と提示される。その「提示」の行為が、ここでは強調されている。そして直後に「記憶の耳」という、わかったようでわからない、いろいろな読み方ができることばがつづく。
 これは明らかに「わざわざ」書かれたことばである。
 私は「肉体」にこだわっている人間なので、「耳」に注目した。時里は「わざわざ」耳ということばを選んでいると思って読み始める、ということである。そうすると、詩の最後に、

風の手摺りが
伸びていく

 という二行がある。「手摺り」と「手」は同じものではないが、私は「手が/伸びていく」というイメージで「手摺り」を思うのである。「耳」はそれを「聞いている」というよりも「見ている」。「耳で(が)見る」というのは、学校文法で言うと「間違い」だけれど、「耳」の「聞きたい」という欲望が「手が伸びるように伸びていく」、そしてそれが「風の手摺り」をひきよせてしまう(リアリティーのあるのものにしてしまう)と感じるのである。
 「肉体」のなかでは、どこまでが「耳」、どこからが「手」かわからない(というと奇妙に聞こえるかもしれないが、それは肉体全体から切り離しては存在し得ない)から、「耳」に視力(目)があってもいいと思う。
 そういうことを「わざわざ(わざと)」書くのが詩なのである。

 新延拳「捨てる棄てるすてる」。

一切空の闇に捨てるべき記憶 しかし
あの日の君が立体絵本のように現れてくれないか
飛び出してこないかと
せめて影絵のようでも

 「現れてくれないか」の「くれないか」が切実でいいなあ。あまりに切実なので、書いていることを忘れる。意識できない。だから次の行では「飛び出してくれないか」ではなく「飛び出してこないか」になる。「飛び出してくれないか」のような、長いことばを言っているひまがない。無意識のなかでは「くれないか」が動いているが、省略する意識もないまま省略される。肉体になってしまっている。この「くれないか」は「無意識のわざわざ」である。いいなおすと、「くれないか」は新延のこの詩のキーワードということになる。


 

 

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三木清「人生論ノート」から「健康について」

2022-12-11 21:23:18 | 詩集

「健康について」は、とても難解である。
健康の対極にあるのは何か。不健康=病気。人間はだれでも病気が嫌い。病気の延長線上にある死も嫌い。
さらに健康には、肉体の健康のほかに精神の健康という問題もある。

三木清は肉体の健康(病気)についても語っているが、途中から重心が精神の健康へとうつっていく。これを、どう説明するか。私はずいぶん考え込んだ。

しかし。取り越し苦労だった。

イタリアの青年は、三木清を読む前に同じテーマの作文を書くのだが、その作文が、健康の問題を、中国の不老不死を求めた皇帝に結びつけ、人間は必ず死ぬ、大切なのは肉体の健康ではなく精神の健康であると論を展開し、ことば(哲学)は死なないと書く。求めるべきは肉体の「不死」ではなく精神の「不死」であると結論する。

三木清の文書を先に読んだとしても、彼のような作文を何人の高校生が書けるだろうか。

何か所か、文法の間違いや、日本人ならつかわない言い回しもあるのだが、論理の明確さと展開の仕方にびっくりしてしまった。
作文をアップできないのが残念。

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「現代詩手帖」12月号(2)

2022-12-11 09:35:54 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(2)(思潮社、2022年12月1日発行)

 倉橋健一「さらば、小箱よ」。

ツバメ印で長いあいだしたしまれてきた徳用マッチが
時勢に押されてついになくなるという噂を聞く前の日のこと

 「噂を聞く前の日」が「わざわざ」だね。「噂を聞く前の日」は、存在するようで、存在しない。特定できない、という意味である。あるいは「意識」のなかにしかない、と言い換えればいいか。
 だから、これからはじまるのは「意識の劇」なのである。そして、この意識というものも「わざわざ」書かないと存在しないものであり、書けば存在してしまうというものでもない。
 ほら。

朝焼け
一羽の火の鳥がひとりの天使(えんじぇる)をくわえると

 と書いたあと

(もっとも天使を見たというのは)私のまったくの主観で

 と書く。「主観」ということばで、存在するかもしれない「客観」を否定していく。ことばが動いていく。その動きだけがある。だから、ことばに「意味」を求めてはいけない。
 思い出してほしい。倉橋のことばが動いているのは「いま」ではない。「噂を聞く前の日」を、ことばは動いている。そして、それは動き始めると「噂を聞く前の日」のことではなく、「動いている今」のことになる。それは「今」さえも突き破ってしまう。だからといって、それが「未来」になるわけでもない。「今」でありつづける。
 この矛盾が「わざわざ」である。書かなければ「矛盾」しないことを、書くことで「わざわざ」矛盾にしてしまう。
 正気ではない。別なことばで言えば「ばっかじゃない?」なのだが、「ばか」であることが詩人の「正直」というものである。詩人は正気ではないが、ばか正直である、ということを「わざわざ」ことばを書くことで証明するのである。

 小林坩堝「NOWHERE」。

 分譲住宅か、マンションか、あるいは分譲宅地か。不動産を下見にゆく。売り手の「定型のことば」と、そのことばに触発されて動く意識が、

 地下鉄の地上駅を抜け、街灯の消された街を満員電車が走ってゆく。二駅のあいだだけ地上を走る車輌のリズム。

 というように、ちょっと「不動産業者」のことばに汚染されながら、それに拮抗して動く。この「拮抗」を「わざわざ」書いている。そして、それが、この詩のいい部分である。このまま走り続けてほしいと思うが、最後。

たった一度きりの今日の現在形を保持する為めに、--果たして錯誤とは生存の換言ではなかったか--私はペンを走らせ、空洞を満たすインクが血であると誤る。

 小林は「わざわざ」そう書いているのだが、「ペン」ではなく、地下鉄の電車を走らせつづけてほしかった。「血」ということばが出てくるが、においも色も感じない。「定型」だからである。さらに「誤る」と「定型」の念押しもしているが、それこそ「時代錯誤」というものかもしれないと、私は読んだこともない大正、明治文学を思い出すのである。

 佐々木幹郎「ばんごはん」。
 「1 少年期」「2 老年期」と二つのパートにわかれている。少年のことばとして、

ぼくはおなかがへっているけれど
たべたくない
おなかのなかで ねじれて
たおれるひとがいうんだ

 天の邪鬼(?)なこどもの意識、だね。
 一方で、老人は、どう言うか。

ばんごはんを あと4000回たべると
わたしも いなくなる

 晩御飯4000回というのは、10年以上だね。15年未満ではあるけれど。これは老人の無邪気な意識(?)。ある葬儀のとき、90歳を超す老人が「私もあと10年か」と漏らすと、近くにいた親族が「ばかを言っては困る。あすにでも死んでくれ」とつぶやいた。老人は、子どもと同じように自分しか見えない。
 だから、というと変かもしれないが。そして、回数も違ってくるが、「少年」と「老年」を入れ替えた方が「現実的」になると思う。〇歳で死ぬ。年ではなく、日にすると〇日、時間にすると〇時間、分なら〇分、秒なら……という「無意味」なのことを「意味」であるかのように、自分が発見したことであるかのように「わざわざ」ことばにするのは、子どもの行動である。
 もちろん、そうであるからこそ、その「定型」を拒絶し、佐々木は、このスタイルにしたのかもしれないが。


 

 

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「現代詩手帖」12月号(1)

2022-12-10 18:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)

「現代詩手帖」12月号(1)(思潮社、2022年12月1日発行)

 2022年は(まだ20日間残っているが)、あまり詩を読まなかった。私のことばと、詩を書いているひとのことばが、あまりにもかけ離れてしまって、「わざわざ」詩を読む必要はないなあと感じるようになった。ちょっと思いなおして書いてみようかな、と考えたのは谷川俊太郎の詩に出会ったからだ。
 「わざわざ書く」。一連目は、こうはじまっている。

物でも人の生き方でも
美しいなと思うと
一呼吸おいてこれでいいのか
と思うのはなぜだろう
どこにも悪が見えないと不安になる
ほんの少しでも醜いものが隠れていないと
本当でないような気がする

 うーん。
 「本当でないような気がする」のなら、それこそなぜこんなことを「わざわざ書く」のか。たぶん、「わざわざ」書くことが詩なのだ。言い換えると「わざわざ」書かなければ、詩は存在しないのだ。詩だけに限らない。ことばは、「わざわざ」書かなければ、存在しない。「わざわざ」書けば、それは詩なのだが、この「わざわざ」が意外と面倒なのである。「わざわざ書く」ということばに出会って、ようやく私は「わざわざ書く」ことを思い出したと言えるかもしれない。
 で、「わざわざ」書けば。
 「本当でないような気がする」という一行には、「本当」があるかのように書いているが、たぶん「本当」というものははっきりした形で存在しないだろう。「本当でない気がする」という意識のなかにだけ、求めている「本当」がある。それは「実在」というよりも「本当を求めずにはいられない気持ち」のことだろう、と思う。その「求める気持ち」を後戻りさせないために、「わざわざ書く」のだ。
 このあと、谷川は、「わざわざ」こう書いている。

自然を目にする時は違う
不安も何もない
雨が降っても風が吹いても
自分が今そこで生きているだけ
無限の自然が自分を受け入れている
と言うより自分が自然の生まれだと知って
そう思える自分が嬉しい
心は雲とともに星とともに動く

 ここで谷川が言う「自然」とは美しいかどうかを判断しない存在ということだろう。そこに悪があるか、醜いものが隠れているかも判断しない。言い直せば、そのときどきで、どっちでもいい。「心は雲とともに星とともに動く」という一行のなかにある「ともに」が、この詩を支えている。谷川は、世界と(自然と)「ともに」ある。
 「ともに」をつかわずに、谷川が書いていることを書くことはできない。谷川は「ともに」を「わざわざ」書いている。こういう「わざわざ」書くしかないことばを、私はキーワードと呼んでいると、私は「わざわざ」書いておく。

 青野暦「雲がゆくまで待とう」。

よくみえなかった。しゃがみ込んで、足下の
きこえない音楽に耳をすますと
視界の端にすべりこんできた、電車の扉がひらいて
ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった

 この部分が「わざわざ」書かれている行だ。「きこえない音楽に耳をすますと」は「わざわざ」書いたというよりも、余分な行だが、つまり「詩を狙った一行」だが、それはつまらない。
 もし「わざわざ」を補うならば、「ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを避けてとおった」に補いたい。ぞろぞろとでてきたひとたちはきみとわたしを「わざわざ」避けてとおった。つまり、「じゃまだ、どけよ」といわずに、自主的に「わざわざ」そうしたのだ。他人の、だれかわからない人の「わざわざ」を青野は感じて、それをことばにしている。
 ここがおもしろい。

青柳菜摘「今日」。

今日という日の一日がいつまでも終わらない日だったその時、今の日、という言葉の意味はそっくりそのままで、今、以外にありえなかった。

 ということがくだくだと(わざわざ)書いてある。その部分はおもしろい。しかし、

今の今日と明日を終わらせないよう、地球は外側でゆらゆら回っている。

 たぶん、このことばを青柳は「わざわざ書いた」(つまり、詩を書いた)のだろうが、「わざわざ」になっていない。では、何になっているかといえば「定型」になっている。「わざわざ」は「わざわざ」定型を破って書くのである。
 つけくわえておけば、青野の「きこえない音楽に耳をすますと」がつまらないのは、それが「定型」だからである。

 


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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

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