詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒田ナオ「山の背骨」

2023-02-10 13:25:48 | 詩(雑誌・同人誌)

黒田ナオ「山の背骨」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 黒田ナオ「山の背骨」を読む。

わたしの背骨が
まだ山の背骨とつながっていた頃
骨と骨のあいだに
ぎっしり葉っぱがつまっていて
土が匂っている
小さな虫が眠っている

わたしの背骨を見ながら
星が安心する
夜が染み込んでくる
月が歌っている
潮の満ち干があらわれる

潮がくるくる渦巻いて
わたしの背骨を洗っていく
(目が見えない
(声が聞こえない

魚が呼んでいる
砂を掘り返す
恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす
(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

すっかり埃だらけになってしまって

肋骨の骨と骨のあいだに
あんなにぎっしりつまっていたはずの
葉っぱはもういない
ぽろぽろ乾いたまま
土がこぼれ落ちる

 「私(わたし、と黒田は書いている)/自己」と「世界(非自己)」はどう識別できるか。黒田は「わたし」と「山」を識別しながら、「背骨」でつながってしまう。つまり「識別」を拒絶して、同一になってしまう。「背骨」でつながんてしまうと書いたが、これは「背骨」という「ことば」でつながってしまう、ということである。「わたし」と「山」を識別(区別)するのも「ことば」である。「ことば」はものとものを分離(識別)もすれば、混同(?)といっていいのか、「ごちゃまぜ」にもしてしまう。
 「ごちゃまぜ」は「ごちゃまぜ」を呼び寄せる。「ごちゃまぜ」というのは「規則」がないことだから、何をしたっていい。山には葉っぱが落ちている。土がある。虫が眠っている、というのは、いまが冬だからだろうか。山がそうなら、同じ「背骨」をもっている黒田の体のなかに、同じものがあってもいい。
 山の上に星があるし、月もある。月があれば、海では干潮満潮がある。黒田の上にも星と月があり、黒田の肉体も海の干満のような動きがあるだろう。「比喩」だから、意識がどんどん「越境」していく。「自己」と「非自己」の区別なんか、ほんとうになくなってしまう。区別していたら、めんどうくさくなる。
 で、ここで、私は詩の講座なら、受講生にこう聞く。

恐竜の骨たちがごぞごぞ歌いだす

 この「ごぞごぞ」って何? 自分のことばで言い直すと、どうなる? 言い直せる? むずかいしね。わかったようで、わからない。私はこの「わかったようで、わからない」は、自分では何もしない(そのまま放置しておく)。その一方で、他人には、「ほら、ちゃんといってみて。さっきわからないことばはない、と言ったでしょ?」と追及(?)したりするのである。
 自己と非自己、それをつないだり、きりはなしたりする「ことば」。
 それを、私は(私たちは)生きている。

(感じることはできるのに
(誰にも何も伝わらない

 「ごそごそ」が何か、感じることはできる。でも、それを別のことばで言い直せない。「ごそごそ」を読んだとき感じたことを、黒田に説明することもできないし、その「ごそごそ」がほんとうに黒田の「ごそごそ」とつながっているかどうかもわからない。もしかしたら「ごそごそ」を言い直した瞬間に、つながりがなくなるかもしれない。「誰にも何も伝わらない」が起きてしまう。
 「ことば」は、とっても危険でもある。だから、おもしろいのだけれど。
 もうひとつ、「ごそごそ」よりも、もっとことばにしにくい「何か」が黒田の詩にはある。リズムである。ことばが、とても読みやすい。もっとも、リズムはかなり個体差があるから、どのリズムが好きかというはひとによってずいぶん違う。どう説明しても、説明にならない。それこそ「無意識」に「自己」と「非自己」を識別し、自分(自分のことばのリズム)をまもるために嫌いなリズムを拒絶してしまうことがある。免疫反応みたいなものかもしれない。これが実はとても大切と、私は感じている。

 


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川邉由紀恵「草の根」

2023-02-10 11:43:05 | 詩(雑誌・同人誌)

川邉由紀恵「草の根」(「どぅるかまら」33、2023年01月10日発行)

 「どぅるかまら」には、田中澄子、齋藤恵子といった、とても行儀のいい詩があって、そこから違うところで感想を書いてみたくなる。
 川邉由紀恵「草の根」が「行儀が悪い」というのではないけれど、

秋のゆうぐれのやよい坂の下の空き地にはとなりにある
銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて
その粘土質のうえにはひめ芝やかたばみスギナぜにごけ

 という具合に一行の長さをそろえてことばが動いていく。この形式(?)へのこだわりは、行儀がいいのかもしれないが、その行儀のよさを装うために、ひらがなと漢字がテキトウ(?)につかいわけられ、「ひよひよ」というような、わかったようなわからないことばがさしはさまれ、さらには「その」という指示詞があったかと思うと、かたばみスギナぜにごけカタカナを読点がわりにつかっているところもある。

ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの
しめったほそい根のようなものがでてきそうなのである
けれどもたどりくだっていくうちにその根はながくなり

 さらに、あ、珍しく行がきっちり終わってると思わせて、接続詞でつながる部分もある。書き写しているうちに、変なものに巻き込まれてしまう。
 ことばが「草の根」になって、ことばの「土」のなかを伸びていく。
 これは、それを引っ張りだして書いたものなのか、それとももぐりこんで書いたものなのか。
 まあ、どうでもいい。
 どうでもいいことを、よくもまあ、飽きずに書いたね、と思う。もちろん、この詩から、「行儀のいい」批評を書いてみることもできると思うが、きょうは、そういう気持ちになれない。ただ、この「行儀の悪い」、つまり「意味」なんてどうでもいい。「意味」に要約してもなんの意味もないことを書いていることばの、そばにいるのがなんとなく楽しい。
 私は意地悪な人間だから、この詩をテキストにして、詩の講座で、「銭湯ののこり湯がひよひよと低みのほうにしみでていて、の『ひよひよ』を自分のことばでいいなおすと、どうなる?」とか「ぬこうとしてみると草はすると抜けそうでうす桃いろの、の『ぬこうとしてみる』と『抜けそうで』の、ひらがなと漢字のつかいわけはどうしてだと思う?」という質問をしてみるのだ。
 きっと、だれも、明確に答えられない。
 私は、この「わかったようで、わからない」(逆に言うと、書いてあることが一言もわからないとは言えない妙な感覚)のなかにこそ、詩があると感じている。
 それは何と言えばいいのか「自己」と「非自己」の出会いであり、自己が自己であるか問われる瞬間なのだと思う。川邉のことばと、自分のことばを区別する(あるいは識別すると言えばいいのか)、何か「基準」や「原則」のようなものはあるのか。実際に川邉と向き合っているとして、そのとき、「肉体」は離れているから別々の人間(別々に動くことができるから、別の人間)ということができる。このとき「空間」(距離)というものが、変な言い方だが、ひとつの「識別の基準」になる。
 それは、「ことば」の場合はどうなのか。

 書くとめんどうになるので書かないが。
 「書かない」といいながら、思いっきり飛躍というか、脱線してしまって書くと。
 私は、その「ことば」の問題を考えているうちに、「肉体」の「自己」「非自己」も、識別はあやしいものだという「結論」に達してしまうのだ。
 もし、私が川邉と向き合っているとしたら、それは私の意識が川邉をそこに存在させている。何らかの必然があって、そこに川邉という別個の肉体が存在しているように「認識」している(ことばにしている)だけなのではないか。
 この世界は、ほんとうはごちゃごちゃの「ことば」が入り乱れているだけのものであり、その「ごちゃごちゃ」に耐えるだけの力のない意識(精神)が、「行儀のいい」形にととのえることで、わかったふりをしているのではないのか。
 ここには私とは別の人間、川邉がいて、私とは全く関係のないことを考えている、と世界を整理すると、合理的でとてもすっきりする。しかし、この合理性はまったくのでたらめかもしれない。整理してしまえば私の脳は安心して、手抜きする。脳は、いつでも手抜きして、自分の都合のいいように考えてしまうものなのだ。
 そうなると……。
 世界が存在していると、私の脳は錯覚しているだけで、世界は存在しない。「ことば」が及ぶ範囲を「世界」と仮定して、自分が生きているつもりになっているだけ、というようなことを考えてしまうのである。

 何が書いてあるのか、他人(読んだひと)には、わからないだろうなあ。当然だよなあ。私はわかって書いているわけではなく、わからないから、書いている。わかっているなら、書く必要はない。わかっているなら、わからなくなるために書く。

 これが感想か、これが批評か。たぶん、ね。こういうことばを引き出す力が川邉の詩にはある、ということ。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇298)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-02-10 10:28:04 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 Eche hielo en un vaso de agua. El hielo sobrecongelado se rompe. El agua se vuelve azul cuando toca la sección de hielo roto. La tristeza se fue. El azul se hunde y se convierte en un azul profundo. El vestido blanco que se fue. Sólo vuelve el color blanco. Los ojos del hombre se desvían.  El pasado siempre aparece. El futuro siempre desaparece. Cristales de hielo en el fondo de un vaso. El azul puro.
*
 Muchas de las obras de Jesús son grandes. ¿De qué tamaño sería esta obra? Imagino una obra tan pequeña como le quepa en la palma de la mano. Imagino una pequeña obra en la que sólo puedo ver "azul" si no me fijo bien.
 Entonces escribí este poema.     


 コップの水に氷を落とす。凍りすぎた氷が割れる。割れた氷の断面に触れて、水が青くなる。去って行く悲しみ。青は沈み群青になる。去って行く白いドレス。白い色だけが戻ってくる。男の目がさまよう。過去はいつでもあらわれる。未来はいつも消えていく。コップの底に残る氷の結晶。こびりついた青。
*
 Jesus の作品には、大きいものが多い。この作品は、どんな大きさだろうか。それは手のひらに入るほどの小さい作品を想像してみる。目を凝らさないと「青」しか見えない小さな作品を想像してみる。
 そして、こんな詩を書いた。     

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇297)Obra, Calo Carratalá

2023-02-09 09:34:01 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá

 Los paisajes pintados por Calo tienen una atmósfera única. Se desborda desde el interior del cuadro. Y me envuelve. Cuando siento esto, no soy yo, sino el paisaje pintado.
 Por ejemplo, este árbol. No sé si es un árbol enorme o un grupo de varios árboles que parecen ser uno solo, pero sin saberlo, me transformo en árbol y me hago más gigantesco.
 Cómo nace un cuadro así. Calo empezó yendo a Senegal y haciendo tabla para pintar allí. El cuadro parte de ahí, y como un árbol que echa raíces en la tierra, el cuadro echa raíces y crece en la tabla. Mientras pinta, Calo se transforma en un árbol. El proceso de transformación y el aire que desprende en ese momento me atraen.


 Caloの描く風景には、独特の空気がある。それは絵のなかからあふれてくる。そして、私を包む。そう感じたとき、私は私ではなく、描かれた風景になっている。
 たとえば、この木。巨大な一本の木なのか、数本が集まって一本になって見えるのかわからないが、わからないまま私は木に変身して、より巨大に育っていく。
 どうやって、こんな絵が生まれてくるのか。Caloはセネガルに行って、そこで絵を描くための板を作ることからはじめている。そこから絵ははじまっていて、大地に木が根を下ろすように、絵は板に根付き、成長していく。描きながら、Caloは木に変身していく。その変身の過程、そのとき発する空気が、私を誘い込む。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇295)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-02-08 09:18:51 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

Pasando junto a un cine en desuso. Aún quedan carteles antiguos. Empuja la puerta entreabierta y entra: fría oscuridad. Sillas rotas. Un techo rasgado. El olor a polvo. El proyector empieza a funcionar. El polvo baila en la luz, y cada un polvo muestra un fragmento de una escena vista en el pasado. Los fragmentos se unen y se convierten en una mujer tan bella como mi madre. En ese momento, el cine se inunda de luz. La luz atraviesa las paredes y el techo e inunda el mundo. No recuerdo el título. Madre, ¿te acuerdas? Las campanas de las iglesias suenan en el crepúsculo. Mamá me esperaba en la iglesia, mientras a rezaba. No recuerdo el título. Ahora el cine como ruina respira el mundo en silencio, como una iglesia sin mi mama. A la luz amarilla del crepúsculo, todo desaparece.


 廃館になった映画館の前を通る。まだ昔のポスターが残っている。半開きの扉を押し開けて入れば、冷たい暗闇。壊れた椅子。破れた天井。ほこりの匂い。映写機が動き出す。光のなかにほこりが舞い、そのひとつひとつに昔見たシーンが断片になって映る。断片は集まり、母のように美しい女になる。その瞬間、映画館は光にあふれる。光が壁と天井を破って、世界へあふれ出す。タイトルは思い出せない。お母さん、覚えていますか? 夕暮れのなかで教会の鐘が鳴っている。お母さんは、教会で祈りながら、私を待っている。タイトルは思い出せない。だれもいない映画館は、だれもいない教会のように、静かに世界を呼吸している。夕暮れの黄色い光のなかに、すべてが消えていく。

 

 

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野沢啓「言語比喩論のたたかい--時評的に2」

2023-02-08 07:44:45 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語比喩論のたたかい--時評的に2」(「イリプスⅢ」2、2023年01月20日発行)

 今回の文章のなかで、私がいちばんおもしろいと思ったのは、38ページの次の部分である。(私の引用は間違いが多いので、原文を参照できるようにページを書いておく。)「つまらない詩など履いて捨てるほどある」と書いた後、こう書いている。

 そこには詩のことばがもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、そのことばがおのずとことばの隠喩的本質をもってしまうことである。

 「ことば」と「言語」という表現がつかわれている。それは、どうつかいわけられているのか。野沢にとって、それはどう違うのか。
 いまの引用からだけでは分かりにくいが、野沢は「ことば」という表現を、日原正彦の文章を批判した箇所で、こうつかっている。

ここでは《言語そのものの「喩」性》ということばが出てくる。(36ページ)

 《言語そのものの「喩」性》は日原の書いた文。だから、ここでは「ことば」は「表現」という意味である。「表現」と書き換えても、意味は変わらない。
 そう判断して、38ページの文を読み直すと、どうなるか。書き直すとどうなるか。

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「表現(3)」の隠喩的本質をもってしまうことである。

 (1)と(2)は、そのまま意味が通じるが(3)は、すんなりとは読むことができない。(3)は「言語」と言い直した方が、野沢の言いたい「言語隠喩論」らしくなるだろう。あるいは、(3)を省略した方が、わかりやすい文章になるだろう。
 つまり

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににも頼らずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと「言語」の隠喩的本質をもってしまうことである。

 そこには詩の「表現(1)」がもちうる言語的本質としての隠喩の創造性などのかけらもない。(略)私が言いたいのは、詩がなににもたよらずに言語にたちむかうとき、その「表現(2)」がおのずと隠喩的本質をもってしまうことである。

 そして、最後に書き換えた文書をもとにして考えると、野沢の「言語隠喩論」というのは「表現隠喩論」にならないか。つまり「詩」と呼びうる「表現」は、かならず「隠喩」である。「隠喩」でない「言語」は「詩」ではない、と。
 野沢の「言語隠喩論」は、詩が詩であるためには、その「言語」は「隠喩」になっていないといけない、「言語」が「隠喩」になっていないのは、詩ではないということではないのか。
 「言語」と「ことば」、あるいは「表現」を野沢は、どう定義し、どうつかいわけているのか。野沢は「言語隠喩論」と書いているが、これを「隠喩言語論」、あるいは「隠喩的言語論(隠喩としての言語論)」と言い直すことができるとしたら、それは「隠喩的ことば(隠喩としてのことば)」「隠喩的表現(隠喩としての表現)」と、どう違うのか。

 さて。
 こんなふうにして書いてくると、「シニフィアン」と「シニフィエ」だったか、「ランガージュ」「ラング」「パロール」だったか、なんだか昔はやった(?)あれやこれやに似てきて、私はめんどうくさくて、「知らない」と言いたくなる。

 で。
 突然、問題にする部分を変えてしまうのだが。
 私は、野沢の書いている吉本隆明批判もよくわからない。私は吉本隆明を読んだことがないので、それが原因かもしれないけれど。35ページ。

詩の言語がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 
 最初に書いた「表現」をつかって野沢の文章を書き直すと、こうなる。
 
詩の「表現」がときにもちうる書き手を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 野沢が「表現」という意味でつかったのは「ことば」であって「言語」ではないのだが、厳密に区別されていないようなので、そうなってしまうのだが。そして、そうやって書き直してみると、野沢が言いたいのは、詩は「意識の産物」であるだけではなく、「言語そのものの力(隠喩力?)」が産み出す詩もある、ということにならないか。
 さらに、「言語」「ことば」「表現」と「意識」の関係を考えに入れて、吉本批判を書き直すと……。

詩の「表現」がときにもちうる書き手(の意識)を超越してしまう言語それ自体の創造力(わたしはそこに言語の本来的な隠喩性をみるのだが)はあらかじめ排除されている。吉本にとって、詩はすべて意識の産物にほかならない。

 詩の表現(ことば、言語)はときとして作者の意識を超越してしまうものなのに、吉本は詩を作者の「意識の産物」ととらえているから間違っている、というのが野沢の主張になると思う。
 この批判は、とても論理的だと思う。納得できる。
 しかし、あと吉本の「創出が芸術としての言語の表出の性格に対応している」「これを〈架橋〉するものが、わたしのいう自己表出にほかならないのだ」という文章をとりあげ、この「創出」と「架橋」ということば(表現)を批判している。その概念というか、そのことば(表現)が出てくる論理というか、思想というか、そういうものを批判して、「創出」という概念が突然であり、「架橋」は「どこからどこへの、何から何への?」と疑問を書いているのだが……。
吉本の言う「自己表出」とは自己の「意識(精神)」の表出だろう。「意識/精神」を補って、吉本の文章を読めばどうなるのか。
 詩とは(詩の表現とは)、書き手の「意識」を超越して、言語そのものの創造力が産み出してしまうものだから、作者の意識とは関係なくに「創出」されるもの(作者の意識では創造できないもの)であり、そうやって「創出」されたものと、作者の「意識」を「架橋する」(架橋してしまう)のが、吉本のいう詩なのであろう。言語(ことば/表現)は、作者の意識を超越してしまうものを「創出」してしまうことがある。その「創出」を受け入れるということが、同時に「自己表出」であるというのが吉本の論理ではないのか。
 なぜ、自己の意識を超越するもの、言語(ことば/表現)が表出してしまうものを受け入れることが「自己表出」であるかといえば、その言語(ことば/表現)に立ち会っているのが書き手(詩人)の意識だからである。
 私は吉本を読まないで、「誤読」なのだろうが、野沢が引用している吉本の文章からは、そう理解できる。吉本は書き手の「意識」に重心をおき、野沢は「言語」の方に重心をおいている。そう見える。
 
 そう読んだ上で、何回も書いたことを繰り返すのだが、35ページの、

言語の隠喩生は詩的言語のみならず、本来の言語がもっている本性(本質)

 というのなら、なぜ、詩だけを特権化するのか。それが、私にはわからない。詩だけにかぎらず、哲学でも、小説でも、あるいは日常の会話であっても、あらゆることば(表現)は、書き手(話し手)の意識を超越して、ことば(表現)それ自体の「創造力」を発揮してしまう。書き手(話し手/表現者)の意識を超越して、予想外のものを「創出」してしまう。
 最近も、こんなことがあったではないか。
 高校生だかだれかが回転寿司屋で醤油差しをなめた動画をネットに発信した。それが影響し、回転寿司屋の株が急落し、損害賠償が問題になっている。「表現」というのは、どんなものであれ、それ自体の「創造力」をもっている。それは表現者の意識を超えてしまう。
 だからねえ、と私は付け加えずにはいられないのだ。
 野沢は、彼の書いた文章が正しく理解されないと苦情を書いているが、そんなことはあたりまえ。作者の意識を超えてしまうのが表現であり、その作者の意識しなかった部分を指摘するのが「批評」のひとつの仕事である。作者の「意識」をそのまま代弁するのは「批評」でも「鑑賞」でもなんでもない。「追従」というものである。
 野沢は、野沢の文章(本)を批判した人を批判する一方、こんなことも書いている。

論理のダイナミズムを認めてくれるひとが多い。(39ページ)

 ああ、すばらしいなあ。もちろん心底そう思って書くひともいるだろうけれど、そうじゃないひともいるのではないだろうか。「論理がダイナミズムだ」という批評は、「論理が緻密だ」という批評と同じくらい、無責任に書くことができる。そう書けば、野沢が喜ぶとわかっているからである。あるいは、批判すると反論があり、めんどうくさいと感じるからである。
 何が書いてあるかわからないとき(内容、表現が理解できないとき)、「ダイナミックだ」「繊細だ」「緻密だ」「感情が豊かだ」と、それらしい「特徴」を書いておけば、その表現者と「仲良く」やっていけるだろう。
 野沢はまじめな人間だからそんなことはしないのかもしれないが、私は、めんどうになったらテキトウにやってしまう。
 このまえ、スペイン旅行記(スペインの芸術家訪問記)を書いて本にしたのだが、二人、私の書いていることがどうしても気に食わないという。「最初は否定しているけれど、最後は、その否定が間違っていた、その作品はとてもすばらしいと書いているでしょう」といくら説明しても、納得しない。私のスペイン語がへたくそなせいもあるけれど。そういうときは、もう、そのまま相手の言う通りに書き直してしまう。そういうことは「儀礼」に属する問題である。批評とは関係がない。

 

 

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谷川俊太郎「父の死」ほか

2023-02-07 14:09:49 | 現代詩講座

谷川俊太郎「父の死」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年02月06日)

 谷川俊太郎「父の死」(『世間知ラズ』、思潮社、1993年05月05日発行)を受講生と一緒に読んだのだが、読みながら、私はびっくりしてしまった。受講生と私の詩の読み方があまりにも違っている。もしかしたら、受講生だけではなく、ほかの読者とも違っているのかもしれない。だから、書いておこう。
 「父の詩」は四部から構成されている。全部について感想を語り合うには時間が足りないと思い、一連目についてだけ質問した。
 「いろいろな死、葬儀を体験してきていると思うけれど、一連目で、自分が体験したことと違うところがありますか? 自分の経験と比べておもしろいところはありますか?」
 一部の最後の二行、葬儀屋が食葬について語り、谷川が父はやせていたのでスープにするしかないと思ったというところがおもしろい、という反応は返ってくるが、自分の体験と違うところについては、答えが返って来ない。
 「私はどんな人の話でも、自分なりに置き換えて理解するので、違うところというのは気づかない」
 ええっ?
 他の人も、とても悩んでいるので、私は、
 「天皇皇后から祭粢料が来た、というのは、私は体験していない。両親とも死んだが、そういうものをもらうような人間ではなかったので、これは経験していない。みんなは、どう?」
 だれも、そういうことは経験していない。
 「そういうことって、ほかに書いてない?」
 そう水を向けても、考え込んでいる。私は「父の死」にはほとんどの人が体験していないことが書いてあると思っているし、「自分が体験していないこと」は次々に口をついて出てくると予想していたので(そして、そこから詩について語ることを考えていたので)、ほんとうにびっくりした。
 それで、一行ずつ、聞いてみることにした。
 「私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。」この一行目は、「九十四歳四ヶ月」を父が死んだ年齢に入れ換えれば、そのままつかえる。つまり、経験している。(私は、何歳で死んだか、はっきり覚えていないし、何ヶ月となると見当もつかない。誕生日を知らないし、さらに死んだ日もはっきり覚えていない。年末だった、クリスマスよりは前だった、しかわからない。)
 しかし、四行目の「明け方付添いの人に呼ばれて行ってみると」になると、もう私の体験していない世界。私の家には「付添いの人」はいない。「顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった」は、私は聞いたことはあるが、臨終に立ち会ったことはないので、実は、よくわからない。知らないことである。
 「自宅で死ぬのは変死扱いになるというので救急車を呼んだ。」も、そうなんだ、と驚いた。しかし、受講生は、みんな知っていて、驚かない。「監察病院から三人来た」にも驚かない。私は「監察病院」ということばにすら驚く。えっ、そんなものがあるのだ。私はいま福岡市に住んでいるが、それって、どこにある? それもわからない。
 で。
 知っていることと、体験したことは違うから、「頭」で知っていても驚いていいと思うのだが、驚かない。受講生は、知っているを「体験した」と考えているのかもしれない。ひとりひとりに聞いたわけではないが。
 私がこの詩で好きな部分はいろいろあるが(ほとんど全行だが)、諏訪から来た男が泣き叫んでいるところ、帰りの電車を心配するところがとてもいい。私は、そういう場面に出会ったことがない、と私が語ると……。
 「でも通夜には(葬儀には)、知らない人が来るのは自然。特別に変わったことではない」
 あ、そうなのか、そういうふうに「一般化」して読むのか。私も葬儀には知らない人が来ることは知っている。私は高校を卒業した後親元を離れたから、故郷の人との交流はほとんどない。だから、葬儀のときも知っている人の方が少なく(名前はもちろんわからないし、どういう親戚なのかもわからない)、困ってしまった。だから、谷川が書いているような男を見たことがない。葬儀や通夜で、そういう具合に人間が「取り乱す」のも見たことがない。だから、谷川の書いていることは非常に印象に残る。
 「通夜、葬儀には知らない人が来る」と「要約」した受講生は、たぶん、他の部分も「要約」して読んでいる。
 天皇の祭粢料の部分でも、「袋に金参万円というゴム印が押してあった」という部分など、びっくりし、同時に笑ってしまう。「参万円」という表記は、単に金額を示しているだけではなく、そのまま「ゴム印」につながっている。天皇なのだから、いちいち自筆ということはないだろうが、それにしたって、ね。あまりに事務的な処理に、私は無礼だな、非礼だなと思う。相手が天皇だけれど。
 ひとつひとつ(一行ずつ)問いかけると、「体験していない」と答えるけれど、問いかけないと、どうも「要約」して読んでいるようなのである。第二部に「詩も死も生を要約しがちだが」ということばがあるが、「要約」してしまっては、詩にはならないのに。「要約」できないもの、そのことばでしかないものが詩なのに。
 だから。
 ずーっと、父が死んでからの「どたばた」が書いてあるなかで、勲章を見てレモンの輪切りを思い出し、「父はよくレモンの輪切りでかさかさになった脚をこすっていた」という、ふいの「父親の姿」が強烈である。ここに「ほんとう」がある。ある瞬間、父を思い出す。それは、意図に反して、つまり思い出そうとして思い出すのではなく、思い出してしまう。そこに、父子のつながりというか、「細部」が見えてくる。いいなあ、谷川は、ほんとうに父親が好きだったんだなあ、と思う。そんな姿、他人に自慢できる姿でもないし、見ていて楽しいわけでもないでしょ? そんなくだらない(?)父の姿よりも、父を思い出すなら、父親がどんな人間だったかを語るなら、もっとほかの姿があってもよさそうだ。だからこそ、思うのだ。そういうどうでもいい具体的な肉体の動きを思い出すというのは、愛しているからこそである。いつも父を見ていたからこそ、書けるのだ。「要約」ではない「事実」がそこにある。(これは、最後の第四部の「手拭い」でも、思う。記憶が「肉体」となって動き、重なる。そこに、愛があると私は信じる。)
 だから。

葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。

 は、印象的だけれど、私には「作為的」にも見える。葬儀屋が喪主に向かってそういうことを言うのは、かなり度胸がいると思う。そういう話をするとしたら、よほど親しい葬儀屋だろうと思う。私は、この二行は、死がしんみりしてしまうのを救うために書いた二行だと思っている。谷川のサービス精神だと思っている。

 詩は、要約してはいけない。詩を要約して、感想をまとめてはいけない。むしろ、まとまってしまう感想、要約された「結論」を壊していくのが詩だと私と思う。
 (脱線して書くと、だからこそ、詩を語るのに、流行のだれそれの「思想」を適用し、その「思想」に合致するからこの詩はすばらしいというような批評が私は嫌いだ。)

 そのあと、新美南吉の「貝殻」を読んだ。

かなしきときは
貝殻鳴らそ。
二つ合わせて息吹きをこめて。
静かに鳴らそ、
貝殻を。

誰もその音を
きかずとも、
風にかなしく消ゆるとも、
せめてじぶんを
あたためん。

静かに鳴らそ
貝殻を。

 「せめてじぶんを/あたためん。」というような言い方は、現代詩ではしないなあ、とう声があった。そう思う。
 この詩では、どこが印象的か。「二つ合わせて息吹きをこめて。」に意見があつまった。谷川の詩を語るときに、私が「肉体の動き」を強調したことも影響しているかもしれない。しかし、私もやはりこの行が好きだ。
 「貝殻を鳴らす」といっても、方法はいろいろある。カスタネットのように二枚を打ち鳴らす方法もあるし、山伏のように巻き貝に息を吹き込む方法もある。しかし、新美は「二つ合わせて息吹きをこめて。」と書く。これは、私は、想像しなかった。そして、想像しなかったからこそ、この行を読んだ瞬間、新美の動きが見えた。そして、その姿を想像したとき、私の肉体が無意識に貝を二枚合わせて、その隙間に息を吹き込んだ。それは山伏のように強い息ではない。そっと吹き込む息である。つまり、だれかに聞こえなくてもいい、自分だけが聞こえればいい音を聞くための息である。
 それが自然に二連目につながっていく。だれも聞かなくてもいい。その音が、ちいさな風に消えてもいい。自分だけ、という孤独の温かさがそこにある。孤独を抱きしめる温かさがある。

 受講生の作品。

百舌鳥(もず)のかげ  青柳俊哉

ゆうぐれの大空へ
百舌鳥が鳴いている
ながく哀切な声で

もう一つのかげへ
透視する
ように

重なりたいと 
水に印をつける
ように

自分が波立つ
空の
かげへ

 受講生の一人が、一連目の世界とあとの三連が重なると語った。その通りだと思う。
 このことに関連して……。
 どの詩にも、どうしても書きたい行がある。青柳は、「もう一つのかげへ」がそれだと言った。
 一連目で書こうとして書けなかった「もう一つのかげ」。それはどんな存在なのか。どこにあるのか。どうやれば見えるのか。「水に印をつける」という一行がおもしろい。水に印をつけても、その印はだれにも見えない。消える。しかし、印をつけた人には、その「印をつける」という動きが残る。そのために、「自分が波立つ」。
 それは新美が貝殻を合わせて吹いた息の音のようなものだろう。風の音に消える。だれにも聞こえない。しかし、息を吹いた新美の肉体には、その記憶が残る。その音が聞こえる。
 谷川の父、谷川徹三の肉体は残っていない。しかし、レモンの輪切りで脚をこするという動きは残っている。谷川の記憶に、肉体として残っている。谷川の語ったことばが、肉体となって私の肉体にも残っている。私は谷川徹三を見たこともないし、私自身がレモンの輪切りで脚をこすったことがないにもかかわらず。さらに、谷川がレモンの輪切りで脚をこする父を見ている姿を見ていないにもかかわらず、私はふたりの肉体を見てしまう。この不思議な現象を引き起こすものが詩である。

 かつて私は、もし無人島に一篇だけ詩を持っていくとしたら、この谷川の「父の詩」を持っていくと言ったことがある。なぜか。ここには愛が書かれている。谷川は父をほんとうに愛していた。その愛が伝わってくる。私はだれかを、こんなふうに愛したことがあったか。愛されたことがあったか。たとえば、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と誰かを思い出すか、「レモンの輪切りで脚をこすっていた」と思い出してもらえるか。誰もが語る何かではなく、「それがいったい何の意味がある?」ということを通して、何かを語ることができるか。愛とは、意味(要約)を拒絶したもの、超越したものなのである。この詩は、事実を積み重ねるという「散文精神」で書かれているが、それは散文を超えて、突然、詩になり、ただ、そこに存在している。

 

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Estoy Loco por España(番外篇294)Obra, AC Kikirikí

2023-02-07 10:09:45 | estoy loco por espana

Obra, AC Kikirikí

 Ma dan miedo las obras de AC Kikirikí. No lo sé por qué, pero siento que algo es "EXCESO". Y ese "EXCESO" destruye la belleza y al mismo tiempo crea una belleza que antes no existía. Por ejemplo, un agujero. Por ejemplo, una estrella o una superficie irregular. Por ejemplo, una enredadera rizada. O una olla. Por ejemplo, los lagartos. O un alambre en forma de raíz.
 No, no, no. "EXCESO" no es la forma ni la cosa. Es el poder de la cohesión. Es la fuerza que une cosas que no deberían existir juntas. Eso es "EXCESO". Y eso "EXCESO" crea belleza.
 El encuentro entre la máquina de coser  y el paraguas murciélago en la mesa de operaciones: el "excesivo poderoso de conceptual" para poner de manifiesto este encuentro es la belleza.

 AC Kikirikí の作品は不気味である。何かが「余分」なのである。「余分」な何かが美を壊すと同時に、いままで存在しなかった美をつくりだしている。たとえば、穴。たとえば、星、あるいは凸凹。たとえばまがりくねる蔓のようなもの。あるいはポット。たとえばトカゲ。あるいは根をかたどった針金。
 いや、そうではない。「余分」なのは「形」や「もの」ではない。「結合力」だ。一緒に存在してはいけないものを、結びつけてしまう力。それこそが「余分」なのだ。そして、それこそが美なのだ。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の出合い--その出合いを引き出す「構想力」が美なのである。

 

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三木清「人生論ノート」から「娯楽について」

2023-02-06 17:28:52 | 考える日記

 「娯楽」について考えるとき、何から考えればいいか。娯楽の反対の概念は何か。仕事や勉強が思い浮かぶ。仕事からは、義務や責任ということばが思い浮かぶ。仕事(勉強)からの解放=自由。それが娯楽ということになるか。
 仕事と娯楽は反対。では、自由の反対は? 義務、責任はすでに考えた。ほかには? 仕事がつらいのは「強制」されていると感じるからかもしれない。強制は、支配。支配されると苦痛。苦痛から逃げられたら、自由。この自由は、幸福かもしれない。
 しかし、仕事をしないと生きていけない。生きていくとき、仕事をしなければならないと同時に、仕事だけでは苦しくて生きていけない。娯楽は、仕事からの解放。暮らしというのは、生活ということ。そうすると「生活」というのは「仕事」と「娯楽」から成り立っているのだが、このふたつということばに注目すれば「対立」とか「分裂」というこばが思い浮かぶ。「ひとつの生活」が仕事と娯楽に分裂する。対立する。遊びにゆきたいけれど、仕事がある。あしたデートの約束をしていたが、急に仕事のために会社に行かなければならなくなった。これは、つらいね。
 対立、分裂の反対のことばにどういうものがあるだろうか。統一がある。両立ということばもある。
 そういうことを話し合った後、いま考えたことばが、三木清のエッセイのなかでどんなふうにつかわれているか、注意しながら読んでいく。三木清は、美術鑑賞、音楽鑑賞という「受け身」の娯楽と、画家、音楽家という文化をつくりだす職業(仕事)を比較しながら、生活と仕事ではなく、生活と娯楽、さらに娯楽と芸術の両立(統一)についても考えている。終わりに近づいてきたところに、こういう文章がある。

 娯楽は生活のなかにあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

 この文章を読み終わったとたんに、「これが三木清の結論だね」と18歳のイタリア人が言う。娯楽には享受的娯楽(受け取るだけの娯楽)と創造的な娯楽がある。仕事が何かをつくりだすように、娯楽も何かをつくりだすものでなくてはならない。作る楽しみがないといけない。
 私が、三木清がいちばん言いたいことは、どこに集約的に書かれている(結論があるとすれば、それはどこに書かれている)と問いかける前に、読みながら「結論」を推測する。それは、つねにどの文章に対しても「考えながら読む」という習慣がついているからだ。
 感激した。感激して、ほかにどういうことを語ったのか、どういう具合に三木清の文章を読み進んだのか、忘れてしまった。読むとは、だれかの考えを理解すると同時に、常に自分の考えを整理すること、自分の考えを見つめなおすこと。そのうえで、自分に納得できるものを「結論」と判断すること。
 その考え(結論)に賛成できるかどうかは別にして。
 自分なら、どう考えるか。どう論理を進めていくか。それを考えながら、読むことは、簡単そうでむずかしい。母国語でもむずかしいが、外国語になると、さらにむずかしい。それを、ぱっとやってしまう。
 そのうえで、「三木清の考え方に賛成だ」と言う。
 ほんとうに感動した。こういう「授業」を日本人相手にできるなら、それをやってみたいなあとも思った。
 時間が余ってしまったので、マルクス・アウレーリウスの「自省録」についても雑談した。イタリア人だから知っていて当然なのかもしれないけれど。「哲学青年」なのだと思った。余談だけれど。

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Estoy Loco por España(番外篇293)Obra, Joaquín Llorens

2023-02-05 22:06:15 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Tengo algo que quiero que oigas, dijo Hierro a Fuego. Tengo un secreto. Algo que no quiero que sepas.
 Tengo un verdadero yo que no puedo mostrarte.
 Un interior que, como el fuego caliente, retorcida y turbulenta por dentro.

 Tengo algo que quiero que oigas, dijo Fuego a Hierro. Tengo un secreto. Algo que no quiero que sepas.
 Tengo una forma real que no puedo mostrarte.
 Un exterior que, como el hierro frío, se hincha y retuerce con el deseo.

 EL Hierro, EL Fuego, tengo una cosa que no sabéis, dijo Escultor.
 Estáis realmente SOLO. Anheléis vuestra angustia y teméis vuestro placer.
 Yo seré Martillo que dé forma a vuestras contradicciones.
 
 El poeta dice. He visto lo que no debería haber visto. Una escultura que cambia de forma de un momento a otro. Cuando pensaba que el interior repelía la luz, el exterior la desliza. ¿Se movió la luz o se movió la luz? Si escuchas con atención, podré oír cómo se seduce el viento. Una sola nota, una melodía compleja.


 君に、聞いてもらいたいことがある、と鉄は炎に言った。私には秘密がある。君には知られたくないことだ。
 私には、君に見せることができない本当の姿がある。
 熱い炎のように、ねじまがって、乱れる内面だ。

 君に、聞いてもらいたいことがある、と炎は鉄に言った。私には秘密がある。君には知られたくないことだ。
 私には、君に見せることができない本当の姿がある。
 冷えた鉄のように、欲望にうごめき、ねじまがる外面だ。

 鉄よ、炎よ、君たちには、君たちの知らないことがある、と彫刻家は言う。
 君たちは、ほんとうはひとりなのだ。自分の苦悩に憧れ、愉悦を恐れている。
 私は君たちの矛盾に形を与えるハンマーになる。
 
 詩人は言う。私は見てはいけないものを見てしまった。瞬間ごとに形を変える彫刻。内側が光を撥ね生え返していたかと思うと、外側が光を滑らせている。光が動いたのか、光を動かしたのか。耳を澄ませば、風をそそのかす声が聞こえる。一音の、複雑なメロディーが。

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マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」ほか

2023-02-05 15:58:57 | 現代詩講座

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」ほか(朝日カルチャーセンター、2022年01月30日)

 マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「サアディの薔薇」を読んだ後、受講生の咲く日を読んだ。
 「サアディの薔薇」には中原中也の訳と、高木信宏の訳がある。

今朝私は薔薇を持つて来ようと思ひ
あんまり沢山帯に挟まうとしましたから
結び目は固くなり、挟みきれなくなりました。

結び目はやがても千切れて、薔薇は風に散り、
海の方までもいつてしまひました。
そしてもう、二度と帰つて来ませんでした。

波はそのために赤くなりました。炎えてゐるやうでした。
今宵、私の着物はまだその匂ひが匂つてをります……。
せめてその匂ひを、吸つてください。               (中原中也訳)

あなたに今朝、薔薇を摘んできたかった。
でも締めた帯にあまりにたくさん挿したので、
きつく締まりすぎた結び目はもう持ちきれませんでした。

結び目ははじけました。薔薇は風の中に
舞い上がり、みな海に向かい飛び去りました。
薔薇は水を離れず、もう戻ってはきません。

波は花で真っ赤になり、燃えたつよう。
今宵、私の着物はまだその香りで匂い立っています。
どうぞ私のそばにきて芳しい思い出を吸い込んでください。     (高木信宏訳)

 受講生の全員が中原の訳の方が好きだという。私は、かなり驚いた。ここに描かれる女性の年齢は何歳くらいだと思うか、と質問したら、今度は全員が三十歳くらい。これにも、驚いてしまった。
 中也の訳に好感を持った理由を聞いてみた。どのことばが印象に残ったかを聞いてみた。最終行の「匂ひを、吸ってください」がいい、と全員が言う。やわらかい感じ。薔薇の花に存在感があり、朝から晩までの時間の流れと薔薇の変化が重なる。薔薇に、象徴性を感じる。
 私は、別の角度から、ことばにこだわって質問してみた。「二人の訳のなかで、自分ならつかわないということばがあるかな?」
 こういう質問は、たいがいの受講生がとまどう。特にむずかしい(日常的にはつかわない)ことばがあるわけではないから、「自分はつかわない」という意識がなかなか生まれないのだと思う。それが著名な詩人の訳となれば、その訳に「違和感」を持つことに抵抗があるのかもしれない。
 しかし、私はだれの作品を読んでも、あ、このことばは私はつかわない。私と作者はここが違う、と感じ、そこから詩の読み方を変えていく。
 「中也は、結び目はやがても、海の方までも、と書いている。この『も』の意味は? こういう『も』をつかう?」
 「『も』には強い感情がこもっている」
 「では、高木の訳の『水を離れず』は?」
 「薔薇に意思があるように感じる」
 「摘んできたかった、の『きたかった』は?」
 「ことばが、中也に比べて強い」
 中也の訳とは、たぶん、「摘んできたかった」「水を離れず」という部分が決定的に違う。それが、最終行に端的にあらわれている。高木の訳は、「直接性」が強い。「密着性」が強い。これは、やわらかくない、ということでもある。
 問題の最終行は、

Respires-en sur moi l'odorant souvenir        

 私はフランス語をほとんど知らないのでいい加減なことを書くのだが「en」は場所や時をあらわす。しかも、特に特定の場所を、時間をさすわけではなく、「場所/時」が存在する「そこ」という感じ。「sur moi 」というのは「私の上」。かなり、なまなましい。セックスで言うと、肌と肌が触れ合って(直接接触して)いる感じがする。
 中也の訳には、この「直接性」がない、と私は思ってしまう。「souvenir」ということばは出てくるが、なにか、「思い出」というよりも、いま、そこで蠢いている「欲望」を、「いま」を私は感じてしまう。高木の訳の方が、この「露骨な欲望」を隠していておもしろいと思う。
 中也も高木も「着物」ということば(訳語)をつかっている。ここに、私は、とてもつまずいてしまった。原文は「robe」。一般的には「ドレス」と訳すと思う。中也も高木も「ドレス」ということばを知っていると思う。なぜ「着物」と訳したのか。「帯」と訳しているのは「ceintures 」(複数)である。「ドレスの帯(ベルト)」なら「複数」は変だなあ、と私は思う。(ファッションのことは知らないが。)
 私はフランス人ではないし、フランス人の友人もいないので確かめようもないのだが、この詩で書かれている「robe」は「部屋着」ではないのか。もっと言うと「寝間着」なのではないのか。そして、「せめてその匂ひを、吸ってください」、あるいは「どうぞ私のそばにきて芳しい思い出を吸い込んでください」というのは、夜の訴えではないのではないのか。
 つまり、女は、前の夜(というか、朝まで)、別の男といた。朝になって、薔薇を持って、別の男のところへ行く。(もしかすると、同じ男のところにもどる。)昨夜までの自分とは違う私を抱いて、あるいは違う前の(つまり思い出の)私を抱いてと言っているのかもしれない。
 「熱愛」の詩であるかもしれないが、「若い娘の純愛」ではない。私の感じでは、どんなに若くても五十歳は過ぎている女のことばだと思った。中也の訳は、若すぎる、と感じた。
 詩だから、もちろん、「正解」はない。
 ことばをどう読むかは、読者の自由。そのとき、大切にしてほしいと思うのは、「自分のことば」と「作者のことば」の違いである。「違い」を見つけないことには、詩人にほんとうに「出会う」ことはできない。「違い」を見つけて、そのあと「違い」があっても共通する部分があるのを発見し、「共感」が動く。

雪景色  杉惠美子

いつか見た
合掌造りの家並みの
真冬の旅の暖かさ
冬は荒れて
白の美しさを際立たせ
風も荒れて
雪を美しく描く
荒れ狂うという
おのれにいつか会ったなら
幻想的なまでに
それは美しいのだと
いつか自分に言ってやろう
荒れ狂って 閉じ込められて
やっと 解放され動き始める時がくる
赤い椿の花が咲いた
白い椿の花も咲いた
ようやく大きく育つ冬が来た

 真ん中付近にある「荒れ狂うという」ことばが強烈である。「冬」が「荒れ狂う」のか「おのれ」が「荒れ狂うのか」。どちらか、はっきりわからない。両方なのだろう。この曖昧性(二重性)を「改行」がつくりだしている。この行の「改行」の仕方が、とてもおもしろい。「荒れ狂う」からこそ「大きく育つ」が強く響く。「大きく育つ」のは何か。椿か。「おのれ」か。そういうことを考えさせてくれる。

氷片  青柳俊哉

氷片がふる 時のない空のうえから 
高架のうえを 宇宙船が飛翔する 
高速で走りすぎる 氷の車の形象のように

ひらきはじめた芙蓉の花に指をふれる 
わたしがふれられている 柔らかく
しっとりしているわたしたち

駅へむかうひとの 心の円錐の底へ
童子の面立ちがまう 風景があふれだして
生家と銀木犀のドームが空へひらかれる

金属的な響きを立て 氷片の中を
通過してくる意識の朝 時とものを離れ
世界がうまれかわるために

 「時のない空のうえから」。私は、ここにまずつまずいた。私は、こうは書かない、と思った。言い直すと、この書き方の中に、青柳がいると感じた。「空」はすでに「上」である。その「うえ」から、氷片がふる。私の知らない「うえ」を青柳は見ている。認識している。(もちろん「空のうえから」は、空という上の方から、なのかもしれないが。)

               2023 1.28   木谷 明

話しかける
ということは
聞いている
ということ  そうか

声が
きこえて
ほほえむのは
胸が
ふるえたから

この高木に十九羽のひながとまってくれる
ということは
会えている
ということ

雪が降ったら
手のひらで
溶かす

 「十九羽のひな」。この具体性がおもしろい。他の受講生からも「なぜ十九羽なのか、数えたのか」という質問が出た。小鳥ではなく「ひな」というのもおもしろい。「話しかける/ということは/聞いている/ということ」という「矛盾」を結合する一連目もいい。「矛盾」と思うとき、私のこころが動き始めている。どんなときでも、こころが動き始める瞬間がいい。

サナギ  永田アオ

冬の夜
葉っぱの裏や
石の下には
蝶になりたい
サナギたちが
春を待って
眠っている

春になったら
蝶になって
黄色い蝶になって
水平線を
めがけて飛んでいくんだ
その日を夢見て眠っている

冬の夜
葉っぱの裏や
石の下には
水平線になりたい
サナギたちが
春を待って
眠っている

 「黄色い蝶になって」が効果的だ。この行を中心にして「蝶になりたい」(一連目)と「水性線になりたい」(三連目)が結びつく。つまり、永田は「蝶になって、水平線まで飛んでゆき、水平線になりたい」と思っていると感じるのである。対称でありながら、対称が破られている。その「破る力」として、永田が存在している。そういうことを感じる。

悲しいときは  池田清子

悲しいときは
悲しいままに

悲しいときは

0 3 8 6
2 5 9
1 7 4
丸いの
半分丸いの
丸くなりたくないの

私は 4が好き
小学校に上がったとき
一年四組だったからかも

 最初に読んだとき、三連目が何を書いてあるのかわからなかった。ところが、受講生は全員が「数字の形」を分類しているのだと気がついて、感想を語った。へえーっ。私は「数字」に形があるとは思っていなかった。

 

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Estoy Loco por España(番外篇292)Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

2023-02-05 10:37:54 | 詩集

Obra, Sanchez Garcia Jose Luis
Pueblo de la Sierra de Madrid.  55 x 46 cms

Bodegón con paloma. 46 x 38 cms

Rincón de La Ría - Bilbao.  41 x 33 cms

 ¿Qué pinta Sanchez? Pueblo en la sierra de Madrid. Palomas y flores (jarrón) y otras sobre una mesa. Pero no siento que exista realmente allí. Estuvo allí una vez. Pero ahora no existe allí. Sólo quedan los colores. 
 El panorama del estuario es más sorprendente. Tengo la impresión de que los diques y los barcos seguirán siendo sombras en el agua, incluso después de que los diques y los barcos hayan desaparecido. La presencia puede desaparecer, pero el color permanece. La presencia llega hacia los colores que están ahí. 

  Sanchez は何を描いているのだろうか。マドリッド郊外の山の中の村。テーブルの上の鳩と花(花瓶)その他。だが、私には、それはほんとうにそこに存在するようには感じられない。かつて、そこにあった。しかし、いまはそこにない。ただ色だけが残っている。 河口の絵はもっと印象的だ。右手前の堤防やボートは、堤防やボートが消えても影だけは残り続けるのではないかという印象がある。そこにある色に向かって存在ややってくる。存在は立ち去っても色が残る。そう感じてしまう。

 

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清水哲男「ミッキー・マウス」

2023-02-04 17:03:09 | 詩集

清水哲男「ミッキー・マウス」(『現代詩文庫・清水哲男詩』、思潮社、1976年06月30日発行)

 清水哲男「ミッキー・マウス」というよりも、「チューニング・イン」について書きたくて、この作品を取り上げる。
 その当時は「チューニング・イン」ということばを知らなかったが、私が、この作品に反発したのは、清水哲男のチューニング・インと、私のチューニング・インの仕方があまりにも違っていて、そこに書かれていたことばに反発したのだった。
 二連目に、こういう展開がある。

「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かい匂いがするぞ)
僕らは憤然として挨拶を交わし
鎌も握った

 清水の「標準語訳」が、私には納得ができなかったのである。「意味」はそれでつうじるが、「肉体」がそのことばを許さない。「肉体」はまず「くさがぬっか」(草があたたかい)と温度に反応する。皮膚感覚である。そのあとで「にえがすっど」(匂いがするぞ)と変化していく。最初から「暖かい匂い」がするのではない。
 「頭」で「意味」をとらえるかぎり、清水の「標準語訳」は、問題がない。しかし、私の「肉体経験」とは合致しない。私は、たぶん、このころから「ことばの肉体」「肉体のことば」のことを考えつづけていたのだと思う。私にとってことばは「意味」を理解するだけではなく「肉体」を理解するものであり、「意味」を理解するにしても「結論」ではなく「仮定」を理解するものなのである。整理した「結論」に、私は興味がない。
 鎌を握ったことのある私は、ここで、清水は「鎌を握ったことがないのではないか」と不信感を抱いたのである。「頭」で草を刈る作業、草を干す作業、それを取り入れる作業を理解しているだけなのではない、と思ったのである。
 「ミッキー・マウス」をはじめ、『スピーチ・バルーン』にはアメリカの漫画と日本の戦後の暮らしが重なるのだが、そこに書かれている戦後の暮らしが「実体験」ではない、と感じたのである。もしかすると、アメリカの漫画が実体験であり、日本の戦後の暮らしが虚構なのではないか。言い直すと、アメリカの漫画を語る部分には「肉体」が感じられるが、日本の戦後を語る部分には「肉体」が感じられないときがある。
 私は、この「頭で理解した暮らし」、あるいは「頭で理解した肉体」というものが、どうにも嫌いである。

 「チューニング・イン」ということばをつかっている中井久夫は、訳詩のとき大事なのは「文体の発見」であると言っている。(どこで言っているか忘れたが、たしか、そういうふうに言っているはずである。)「文体」に「チューニング・イン」するのである。
 外国語であるから、このチューニング・インは「肉体」と同時に「頭(意識)」の問題にもなるのだが……。
 中井が訳しているギリシャ語やその他のことばについては何も言えないが、私は、公民館で開かれているスペイン語講座で、とてもおもしろい体験をした。
 マッターホーン登頂に世界で初めて成功したウインパーを紹介する文章。

En la ilustración se pueden ver cuando los siete miembros llegaron al techo de Matterhon. 

  日本語にするのに、少し手間取る文章である。直訳すれば「そのイラスト(写真をイラストにしたもの)に、七人のメンバーがマッターホーンの頂上にたどり着いた時を見ることができる(見える)」になる。意訳すれば「これは、七人のメンバーがマッターホーンの頂上に到達したときの写真(イラスト)です」になる。
 ある受講生が「cuand 」のつかい方がおかしい。ver (見る)は目的語を必要とする。七人を見る(ver a los siete miembros)でないとおかしい、というのである。
 これは、ちょっとむずかしい説明になってしまうのだが、書いた人の意識が「七人のメンバー」ではなく「登頂した時」に集中している、「時」を言いたいから「cuand 」をつかっているのである。
 日本語でも、たとえば結婚式の写真を見せながら、「これは結婚した時の写真です」と言う時もあれば「これは結婚式の写真です」と言う時もある。どちらも写真の内容が変わるわけではない。写っているひとが変わるわけではない。なぜ「結婚した時の写真」というのか。それはそのことばを発したひとが「そのとき」を思い出しているからである。もちろん結婚式も思い出すが、何よりも「時」の方に意識がある。傍から見れば、違いはない。しかし、言っているひとの「意識」は違う。その結婚式に参加していないひとは「結婚した時の写真」と言われても、「結婚式の写真」としか思わない。つまり「時」は理解されにくい。だからこそ、傍から見れば「時」があるかどうかは関係ないし、なぜ「時」ということばが必要なのかもわからない。
 この「違い」は、なんというか、そういうことを意識しないひとには、どうでもいいことである。でも、文学とは、そういう「違い」を意識することなのである。

 清水哲男にもどれば「ああ、くさがぬっか にえがすっと」を「ああ、草の暖かい匂いがするぞ」と言い換えて理解するか、「ああ、草があたたかい、においがするぞ」と理解するかは「どうでもいい(同じこと)」と思うひとがいるかもしれない。しかし、「チューニング・イン」の立場からいうと、それはまったく違うのである。
 私は中井の訳した詩の原文を知らずに言うのだが、中井の「文体の発見」(チューニング・イン)の仕方のなかには、なにか、私の「肉体(ことばの肉体/肉体のことば)」をチューニング・インさせてしまうものがあるのだと思う。
 私が詩の感想を書く時、その世界が指し示している哲学(?)、その世界を支えている哲学(?)ではなく、その詩のなかで動いている「動詞」に注目するのは、「動詞」に触れることで、私の肉体をチューニング・インさせ、そのあと肉体が引き起こす感情にチューニング・インしようとしているからである。

 詩のなかには、そして評論のなかには、「私はこんな最先端の思想とチューニング・イン」して書いているということを自慢しているものもあるが、(私には、そう見える)、私は、そういう「頭で書かれたことば」が苦手である。中井久夫の訳がおもしろいのは、そのことばが「チューニング・イン」したあとの、新しい「文体」をもったことばだからである。

 


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Estoy Loco por España(番外篇291)Obra, Sol Perez

2023-02-04 09:38:26 | estoy loco por espana

Obra, Sol Perez

 ¿Qué es esto? ¿Es de madera? ¿Es una piedra?
 Creo que debe ser un árbol, pero este árbol nunca brota. Nunca crece. Es un árbol muerto. Y, sin embargo, esa "muerte" está viva. No la "vida", sino la "muerte" está viva. En este momento, la "muerte" es "tiempo" y "memoria". Y, horrorosamente, esta "muerte" es eterna. Nos persigue. No importa a qué "futuro" escapemos, la "muerte" siempre nos seguirá y estará allí. Nunca podremos rechazar este "tiempo" y esta "muerte".
 El árbol está muerto. El árbol es quemado por el fuego y convertido en cenizas. Las cenizas se convierten en tierra, y cuando llueve se convierten en barro. El barro se quema y se convierte en piedra. La piedra recuerda que una vez fue un árbol y adopta la forma de un árbol. Existe una conexión entre el recuerdo de la "vida" y la eternidad (lo absoluto) de la "muerte".
 La memoria de la "vida" (pasado) y la inmortalidad de la "muerte" (futuro) se unen y cristalizan como presente.

  これはいったい何なのだろうか。木だろうか。石だろうか。
 木には違いないと思うが、その木は芽吹くことはない。大きくならない。死んでしまった木だ。しかも、その「死」が生きている。「命」ではなく、「死」が生きている。このとき、「死」とは「時間」であり「記憶」である。そして、おそろしいことに、この「死」は永遠に続く。私たちを追いかけてくる。どんな「未来」に逃げようとも、かならず「死」は私たちについてきて、そこに存在する。そういう、拒絶を拒んだ「死」と「時間」がここにある。
 木は死んだ。その木は火によって焼かれ、灰になる。灰は土になり、雨が降ると泥になる。泥は焼かれて石になる。その石は、かつて木であったことを思い出し、木の形になる。そこには「生」の記憶と「死」の永遠(絶対性)が結びついている。
 「生」の記憶(過去)と「死」の不滅(未来)が結びつき、現在として結晶している。

 

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坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』(2)

2023-02-03 20:31:11 | 詩集

 坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』の巻頭の詩「咲いては枯れる風の通り道にさらす」のなかほど。

水子を
箱に
うずくまるように人形もいれて
送った宛先
偽の診察券

 私は「水子」をもった経験はない。そもそも妊娠できないから、そういう経験がないのだが、それでもここには私を「肉体的」にひきつけることばがある。
 うずくまる。
 うずくまるのは「人形」である。人形は、生まれてこなかった子どもの象徴か。しかし、私には、なぜか堕胎した後(あるいは堕胎することを想像して)「うずくまる」女の姿そのものに見えてしまう。「うずくまる」という動詞が、私にはわかる。腹が痛いとき「うずくまる」。悲しくて何もできないときに「うずくまる」。「うずくまる」だれかを見たら、どこかが痛いのだ、苦しいのだとわかる。「肉体」だけではなく、そのときの「こころ」のもがきのようなものが、わかる。
 何が起きているか、そしてこれから何が起きるか「わかる」瞬間というものがある。その「瞬間」をことばにするのが詩、その「瞬間」をことばにしたのが詩だと、私は思っている。
 「水子」の例について語るのは、私にはむりがあるが、こう言い直せばいいだろう。
 こどもがつまずく。転びそうになる。そのとき、はっとする。この瞬間が、詩を感じるときに似ている。その子が倒れる。血を流す。想像した通りのことが起きるのに、やっぱり、はっとする。どきっとする。自分が「痛い」わけでもないのに。何か、自分の「枠」が消えてしまって、そこに存在する人間(ことば)そのものになって動いてしまう。その瞬間が、私は詩の体験に似ていると思う。
 「うずくまる」ということばに、私は、それを感じた。

 このあと、詩は、こう展開する。

あれから
三回生んで
五回流した
ずぶ濡れのまま
菜っ葉をゆでる
水にさらして ひと手間が
きれいな色を保つ
わたしもさらして
焼く
骨だけになって

 「五回産んだ」ではなく「五回生んだ」。女にとって、子どもを産むことは、もう一度、「生まれる」ことなのだろう。「生んだ」につまずきながら、私は、そういうことを考える。つまずく瞬間にも、詩がある。自分なら、そうしない。それが逆に、他人を無意識に自分に重ねることになるのだろう。つまずく、子ども。倒れる、子ども。見ていて「自分なら」と思う。自分のなかで、何かが動く。
 「ずぶ濡れのまま」は、堕胎した日、雨が降っていたのか。悲しみの雨が、こころだけではなく、肉体も濡らしていたのか。あるいは、肉体の傷の痛みが雨のように肉体だけではなく、こころにまでしみこんでいたのか。わからないが、「ずぶ濡れ」が、私の記憶を揺さぶる。もちろん、私の体験したずぶ濡れは、詩のなかの女が体験した「ずぶ濡れ」とは違う。
 菜っ葉、ほうれん草をゆでたあと、ぱっと水にさらす。たしかにその方が美しい緑色を保つ。(そう感じるだけかもしれないが。)これは、私のようなずぼらな人間でも、してみたことがある。で、そのときの「ひと手間」。この「ひと手間」をことばにするか、どうか。ことばにした瞬間、その「ひと手間」が詩になる。「きれい」ということばの「呼び水」になる。つまずく、子ども。次に何が起きるか、わかる。子どもが倒れる。それと同じように、ゆでたほうれん草を水にさらす。ひと手間。次に何が起きるかわかる。緑に茶色が入り込まない。きれいな色を保つ。わかっていることが、「ひと手間」によって、より確固としたものになる。
 その「ひと手間」を動詞で言い直したのが「さらす」。
 これが「わたしもさらして/焼く/骨だけ」る、とつづいていく。
 でも、どうやって「さらす」? 何で「さらす」? 「焼く」のは「さらす」ではない。ちゃんと別の動詞がつかわれている。「死ぬ」でもない。「死ぬ」は「さらす」ではなく、「隠す」かもしれない。
 「さらす」。「わたし」を「さらす」。
 ことばによって。
 坂多に堕胎の経験があるかどうか私は知らない。詩のなかの「わたし」は五回堕胎している。そういうことは、ことばにしなければ、だれも知らない。ことばにすることで「わたし」の「体験」を「さらす」のだ。そうすることで、「わたし」を清めていく。
 語りたくない体験を「さらす」とき、そのあと、何が起きる? 子どもがつまずいたとき、次に何が起きるか想像できるように、想像することができる。
 「ちゃんと気をつけていなかったからだよ」という批判がある。「痛くなかった?(たいへんだったね)」という労りがある。人間のしたことだから、それは、見方によって「感想」が違う。
 違いを体験することが、もしかすると「さらす」のもうひとつの意味かもしれない。ゆでられたほうれん草は、熱い湯と冷たい水という反対のものを体験する。「さらす」ことは、なにもかもを体験することである。つまり、あらゆる方向から自分を見られてしまうことでもある。

 詩のなかで、私は何度も立ち止まる。はっと思う。思った通りのことが起きる。「水子」の体験が語られる。そのあと、きっと出産が語られる。再び水子が語られる。そして、それが女の人生になる。
 問題は、その「語り方」。
 どんなことばで語るか。「ことばの選択」に、ゆるぎがない。そこに、私は感動する。つまり、私は女ではないから妊娠したことも子どもを産んだこともない。だが、女の肉体と、その肉体と一緒にある感情をあらわすことば、動詞の教えてくれる動きが、私の肉体を刺戟し、そこから私の感情が動く。その感情は、もちろん、坂多の感情とは違う。つまずき、転んだ子どもの痛みが私のものではないのと同じように。そういうものは、絶対に「同じ」にはならない。「他人」なのだから。しかし、「他人」なのに、「共有」してしまう何かがある。その「共有/共感」を自然な形で産み出す力が坂多のことばにある。
 この詩の場合、「うずくまる」「さらす」という動詞、そういう時間を「ひと手間」として受けとめることばが、それである。そこに詩がある。

 私は詩を読むとき(文学を読むとき)、それをある基準を借用し、その規制の基準に合致しているか(到達しているか)どうかを判断しない。つまり、他人の「基準(他人の思想)」を借りない。そこに書かれていることばから、「何か」が生まれようとしているかどうかだけを読む。
 ひとによって産み出すものが違う。だから、規制の基準(規制の批評用語)を個々の作品にあてはめる方法論には賛成できない。
 詩が、書かれるたびに生まれ変わるものなら、批評(感想)もまた、毎回生まれ変わらなければならない。首尾一貫しない、常に前に書いたことを叩き壊す、というのが私のやりたいことである。
 何のことかわからないかもしれないが、ちょっと気になったので書いておく。

 

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